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変わらないもの、変われないもの8

 あれから私は、けんちん汁のレシピを覚えるために、菊江さんの家を度々訪れた。

 菊江さんに残された時間は、きっとそんなに多くない。自分が壊滅的に料理ができないのを知りつつも、一刻も早く覚えようと必死だった。手を傷だらけにして、慣れない包丁に四苦八苦して――菊江さんのように、根菜の皮を上手に剥けない自分にもどかしさを感じながらも、それでも少しずつ上達しているのを実感して、嬉しく思っていた。


「見てください。今日はこんなに薄く皮が剥けました!」

「上手だわ。飲み込みが早いわね」

「菊江さんの教え方がいいからですよ」

「あら、そう?」


 厳しいと言っていたはずの菊江さんはとても褒め上手で、私は楽しく料理を学ぶことができた。彼女とは料理をしながら色んなことを話した。それは他愛のないことだ。普段の生活のこと、天気のこと――好きな人のこと。


「あの人、すごく細身なのに、意外と手は大きいのよね」

「そうなんですよ! ちょっと筋張っていて、手の形はすごく男性的なのに、でも羨ましいくらいに色白だから、女性的な印象もあって。なんだか不思議な感じで……そこが、ええと……」

「魅力的?」

「……。そうですね……」

「フフフ……顔、真っ赤よ?」


 彼女の前では、不思議と自分の気持ちに素直になれた。

 菊江さんの優しい瞳で見つめられると、年齢だの人間じゃないだのとこだわっていることが馬鹿らしく思えるからだ。だからと言って、この気持ちを完全に認めるかというと、また別の話なのだけれど。菊江さんと過ごすひとときは、本当に穏やかで優しくて……私は、ゆっくりと流れる時間の中で、今こうやって菊江さんから学べることを嬉しく思っていた。




「――うん、今日のは今までの中で一番美味しい!」

「本当ですか!」


 ある日のこと。一緒に作ったけんちん汁を、居間で試食していた時だ。少し不格好な人参を食べて、菊江さんは顔中に皺を作って笑った。私は嬉しくなって、自分もお椀に口を着ける。でも、焦げた大根のじゃりっとした食感とほろ苦い味に、顔を顰めるはめになってしまった。


(まだまだだなあ……)


 なんで汁ものを焦がすのかと自分にがっかりしていると、ふと菊江さんが窓のほうをじっと眺めているのに気がついた。居間からは、窓越しに庭が一望できる。何かいるのかと、不思議に思ってそちらに視線を遣ると、そこには花をつけ始めた藤棚があった。


「わ、藤の花……綺麗ですね」

「ありがとう。まだまだ咲き始めだけれどね」


 藤棚の下にある椅子の上では、タマが気持ちよさそうにお昼寝している。木漏れ日の中で眠る姿は、なんとものんびりした雰囲気を醸し出していて、見ているこちらまで穏やかな気分になる。すると、菊江さんはそんなタマを見つめて言った。


「あの子、まだ猫又にならないのね……」


 驚いて菊江さんを見ると、私の視線に気がついた彼女は、少し困ったような顔になった。


「タマも歳でしょう? 私が先に死んだら、誰があの子を看取ってやれるのか心配なの。長男に引き取ってもらうつもりだけれど、あそこは共働きで、日中は家に誰もいないのよ。万が一、昼間に何かあったら……。あの子が、誰にも看取られずに死ぬだなんて悲しすぎる」


 その瞬間、寝ていたはずのタマの耳が、ぴくりとこちらに向いた。タマは人間の言葉を理解しているはずだ。こんな話、できれば聞かせたくない。でも、まさかタマが聞いているからよしましょうなんて言えない。一人葛藤していると、菊江さんは物憂げな表情で言った。


「本当に、こればっかりは気がかりでね。私には息子たちがいるけれど、あの子には私しかいないもの」

「……あ」


 思わず息を呑む。私は急いでタマがいる方を見た。すると、いつの間にか黒猫は椅子の上からいなくなっていた。聞かれなくてよかったと胸を撫で下ろして、けれども胸の奥に渦巻くモヤモヤしたものを処理しきれずに、表情を曇らせる。

 すると、そんな私に気がついた菊江さんが「どうしたの?」と声をかけてきた。

 私は、なんでもないと表情を取り繕うと、彼女にある提案をした。


「藤の花が満開になったら、あの下でお茶をしませんか。みんなで!」

「あら、素敵だわ。是非やりましょう。もちろん、朔之介さんも呼ぶわよね?」

「うっ。べ、別に構いませんが。友人としてですよね?」

「……まったく。いい加減、自分の気持ちを素直に認めなさいよ」


 私は菊江さんとお茶会の相談をあれこれしながら、彼女に気付かれないように、小さく嘆息した。


 ――タマにとっての唯一無二は、菊江さんだ。

 けれど、菊江さんにとってのタマは――決して、唯一無二ではないのだ。お互いを思い合い、しっかりと向き合っているように見える菊江さんとタマ。けれど、その視線は僅かにずれている。恐らくそれが、人間とそうでないものとの限界なのだろう。


「……難しいものだなあ」

「どうしたの?」

「いえ、別に。そうだ、お茶会ですが、その時に私のけんちん汁をお披露目するのはどうですか?」

「まあ。それまでに、人様に振る舞えるものが作れるようになるかしら」

「待ってください。今、さらっと酷いこと言いませんでした!?」

「フフフ……聞き間違いじゃないかしら?」


 春の盛りを迎え、益々彩りを鮮やかにしていく庭に、菊江さんの楽しげな笑い声が響いている。蝶が舞い、温かな日差しに照らされた庭の居心地はとてもよく、まるで小さな「楽園」のようだ。このひとときが、ずっと続けばいいのに。そんな風に思いながら、私は菊江さんとお茶会の話で盛り上がったのだった。


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