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変わらないもの、変われないもの6

「あら! これ、アタシ好きなのよね~。菊江のは格別に美味しいのよ」

「うふふ。褒めたって何も出ないわよ? たくさん作ったの。明日、カフェにお裾分けに行くわ。朔之介さんも好きよね? これ」

「ええ! 大好物よ。朔もきっと喜ぶわ」


 ふたりの会話を聞きながら、じっとお椀の中を眺める。精進料理でもあるけんちん汁には、肉は一切使われていない。出汁も鰹節は使わず、昆布や干ししいたけで取られている。根菜をたっぷりと入れてあって、彩りに青菜が添えてある。根菜の茶と、青菜の緑と、人参の橙色がなんとも色鮮やかで、目まで楽しめるようにという、菊江さんの心遣いが感じられる一杯だ。


「いただきます」


 箸を手にして、醤油と出汁の入り混じったいい匂いを胸いっぱいに吸い込む。ずず、と汁を啜ると、干ししいたけと根菜から染み出した旨みの調和に、思わず笑みを零す。具材は肉を除けば、ほぼ豚汁と似たようなものだが、味噌ではなく醤油で味付けされたそれは、かなりのあっさり味。出汁の味を活かすためなのか、薄口醤油は最低限。胡麻油の香ばしさを楽しみながら、芯まで出汁が染みて茶色くなった大根を噛むと、じゅわりと美味しい汁が染みてきて、思わず表情が緩んだ。口いっぱいに広がる優しい味を嬉しく思いながら、焼きおにぎりに齧りつくと、味噌の香ばしさがまた際立つのだ。うん、確かに格別に美味しい……!


 思わず、ほうと息を吐く。その味、その温かさには優しさや気遣いが溢れていて、まるで菊江さんそのものだ。私は、笑顔で彼女に美味しいと感想を伝えた。すると、菊江さんは顔中に皺を作って笑った。


「でしょう。これは私が小さい頃から食べてきた味なの。私の祖母から、母、そして私に受け継がれてきた、ずっとずっと変わらない味」

「なんだか、ほっとする味なのはそのせいでしょうか?」

「そうかもしれないわね」


 じっと、湯気の立ち上っている器の中を見つめる。一見、何の変哲もない汁ものだ。けれどこの中には、菊江さんに至るまで、顔も知らない人々が脈々と受け継いできた歴史が凝縮されている。なんだか神妙な気持ちになっていると、そんな私に菊江さんが言った。


「この味もだけれど、変わらないものっていいわよね。歳だからかもしれないけれど、そういうものに出会うと、とてもほっとするの。だから、ついついけんちん汁も頻繁に作っちゃうのよね。私があのカフェに通い続けているのも同じ理由なのよ。朔之介さんが淹れてくれる珈琲の味は……本当に、昔から変わらない」


 ――変わらないもの。それは、時に人の心を癒やすものだ。

 私たちは日々、あっという間に過ぎ去っていく時間の中で、懸命に生きている。けれど、誰しも衝動的に立ち止まりたくなることがある。その多くは、前を向いて進むのに疲れた時だ。そんな時は、一旦歩みを止めて過去を懐かしむ。その方法は、思い出に浸ってみたり、好きだった音楽を聞いてみたり、懐かしい味を求めてみたりと様々だ。


 疲れた心を癒やす為に「昔と変わらないもの」に触れることは、実に効果的だ。どうやら、朔之介さんの淹れる珈琲が、彼女にとってのそれだったらしい。彼の味は、それだけ長い間人々に好まれ続けている。自分が作り出すものを、「変わらないことで好まれる」ものにまで昇華できるというのは、なかなかできないことだとも思う。飲食業に関わる者として、最高の誉れだと言っても過言ではない。


 私はそのことを知ると、思わず頬を緩めた。それがまるで、自分のことのように誇らしかったのだ。菊江さんも朔之介さんの珈琲を語る時は、どこか誇らしげに見えた。


「私が初めて口にした珈琲は、彼が淹れてくれた珈琲なのよ。あの味は、私にとってとても大切なものなの」


 菊江さんは、過去を懐かしむかのように目を細めて遠くを見た。そして、すぐにくすりと小さく笑うと、悪戯っぽい眼差しを私に向けた。


「でも困ったことに、私の大切な思い出の味が、つい最近変わってしまったのよね」


 ああ、と相づちを打つ。確かに、先程店で飲んだ朔之介さんの珈琲の味はいつもと違った。もしかして、そのことを言っているのだろうか。しかし、それとはまた違う話だったらしい。


「うーん。なんて言ったらいいのかしら。別に不味くなったわけじゃないのよ。ええと……味が『柔らかくなった』というか。そういう風に変わったの」


 すると突然、意味ありげな笑みを浮かべた青藍さんが割り込んできた。


「ねえ、詩織。気がついていないかもしれないけれど、朔之介の珈琲の味を変えたのは、アンタなのよ?」

「えっ? ちょっと待ってください。それってどういう……」


 何がなんやらわからない。もしかして、またやらかしてしまったのだろうか……!?

 嫌な予感がして、恐る恐る青藍さんに視線を向ける。すると彼は、手をひらひらと振って言った。


「やだ。違うわよ。悪い意味じゃないから安心して」

「どういうことなのか、説明していただけますか?」

「もちろんよ。そうね……あの子の淹れる珈琲の味が変わったと思ったのは、桜が散った少し後のことよ」


 ――それは、私があの店で働くようになってから半月ほど経った日のこと。


 朔之介さんは非常に細やかな気遣いのできる人だ。湿度の違いや、豆の状態を把握して、毎日、同じ味に仕上げるくらいならやってのけるほどの腕を持っている。だからこそ、「変わらない」味をずっと提供してきたとして、多くの人に親しまれてきた。


 味の変化に初めに気がついたのは、常連さんたちだったらしい。彼らは、菊江さんと同じくらいか、それ以上の長い間、店に通い続けた猛者たちである。なにせ、落ち武者だったり、白骨化していたりする彼らには寿命がない。基本的に時間を持て余しているあやかしたちは、毎日のように店を訪れる。そんな彼らは、数え切れないほど朔之介さんの珈琲を味わってきているし、「変わらない」味を求めてカフェに通っている。なので、味の変化には敏感だ。


 青藍さんが確認してみると、確かに味に変化が起きていた。けれど、豆を変えたわけでも、道具を変えたわけでも、淹れ方を変えたわけでもない。ならば――何故だろう?


 はじめ、青藍さんは、私がこの店に来たからではないかと思ったのだそうだ。けれども味が変わったのは、あの「大首」の騒動があったあたり。私が働き始めた頃ならともかく、それなら別の原因があるに違いないと、青藍さんは朔之介さんに事情を聞いたのだそうだ。すると、朔之介さんは、少し考えてから言ったらしい。


『――橘さんに、前を向くことを教えてもらったんだ』


 朔之介さんは少し照れくさそうに――けれど、晴れ晴れとした表情で言ったそうだ。

 その時のことを思い出しているのか、青藍さんは目元を緩めて言った。


「つまり、あの子自身が『変わった』から、それが珈琲の味に表れたのね。本当に驚いたわ。アンタやるわね」


 きっと、朔之介さんが言ったのはあの七里ヶ浜でのやりとりのことだ。私がしたことと言えば、かつて小説家になるのが夢だったと語った彼に、また執筆してみればいいと、諦めずにもう一度志せばいいと勧めたことくらいだ。そもそも、七里ヶ浜に行ったこと自体、失敗だった。知らなかったこととは言え、彼の心の傷を抉るような行為であったことには違いない。確かに、私の言葉が彼に影響を与えたのかもしれない。けれどこれは、決して褒められるようなことではない。


「別に、特別なことは何一つしていませんよ。考えなしに、なんとなく彼の背中を押してあげただけです。きっと、誰がやっても同じ様になったと思いますよ」


 彼を変えたのが本当に私だったのなら、どれほど素敵なことだろう。

 味が「柔らかくなった」。それはきっといい意味での変化だ。おそらく歓迎すべきことなのだろうし、誇ってもいいことなのかもしれない。そう思うのに、なんだか心にトゲが刺さっているような、そんなもどかしさを感じて素直に認められない。少しくらいは自惚れてもいい気がするのに、でもそれをしてしまったら、心の奥に必死にせき止めていたものが、一気に溢れ出てしまいそうで。


「……私じゃ、ありません。彼が『変わろう』としたから、そうなっただけです」


 カタカタと窓枠が鳴っている。まだまだ風が強いらしい。木々が煽られてしなっているのが見える。春頃に吹く風は、冬のように冷た過ぎはしないけれど、容赦なく吹き付けるその勢いには容赦がない。一枚の落ち葉が、風に翻弄されて空を舞っている。


 すると、一層強く風が吹いて、ガタン! と戸が大きな音を立てた。ビクッと身を竦めて、思わず視線を窓に向ける。暗くなってしまった窓の向こうで、ひゅうひゅうと風が唸っている。そんな私の耳に、誰かのため息の音が聞こえてきた。それは青藍さんで、幻滅されてしまったのかもと、気持ちが落ち込んでいくのがわかる。けれど、彼は小さく苦笑いしたかと思うと、私の背中を思い切り手のひらで叩いた。バチン! と大きな音がして、あまりの痛みに顔を歪める。


「いったあ!!」

「あー! ネガティブだわ。なんなのよ、アンタ!」

「な、なんで叩くんですか!」

「褒め言葉を素直に受け取らないからよ。面倒くさい。だから男に捨てられるのよ!」

「さっ……! 流石にそれは酷くありません!? 怒りますよ!」


 思わず顔を真っ赤にして抗議すると、青藍さんはにんまりと笑った。


「冗談よ。やっと元の元気な詩織に戻ったわね。まったく、しみったれた顔は朔だけで充分なのよ。アンタ、可愛いんだからもっとシャキッとしてなさい」

「かわ……っ!? アラサーに何を言ってるんですか!?」

「アラサーがなによ、私なんかアラサウよ、アラサウ。もうちょっとで千歳!」


 青藍さんはからからと笑うと、目をうっすらと細めて言った。


「もっと前向きになりなさい。アンタは『変われる』んだから。なかなか『変われなかった』あの子と違って」

「え?」


 青藍さんは両腕を組むと、少しだけ暗い顔になって言った。


「朔はね、鬼になってからずっと『停滞』していたの。未練が強すぎて、人間じゃなくなったことを受け入れられなくて。それを、今の状態まで持ってくるの、すごく大変だったのよ。一見、普通に見えるけれど――今だって、とても不安定で危うい」


 すると、菊江さんも嬉しそうに話に混じってきた。


「だから、『前を向く』だなんて、簡単に彼を変えてみせたあなたを、常連客たちは朔之介さんの『大切な人』だって思ったわけ」

「え、ええええ……? そういう理由だったんです?」


 すると、青藍さんは嬉しそうに口元を緩めると、満面の笑顔になった。


「アンタは、朔が新しい一歩を踏み出す手助けをしてくれた。アタシたちがなかなかできなかったことをしてくれた。アンタが店に来てくれたことを、神様が用意してくれたサプライズだって思うくらいには、感激して……感謝してる」


 青藍さんの金色の瞳が、私を真っ直ぐに捉えている。瞳の中心には、縦長の瞳孔。その色、その瞳に、既視感を覚えて記憶を探る。


(ああ――これは。この瞳は)


 そして、ひとつのことに思い当たって、また泣きそうになってしまった。


(タマにそっくり。青藍さんにとって、朔之介さんは『唯一無二』の存在なんだ)


 だからこそ、彼のためなら色々と手を尽くすし、懸命になれる。

 そっと瞼を伏せて、長く、細く息を吐いた。この時、私の胸にじわじわと広がっていった感情の名は――「憧憬」。ああ。ここにも、私が得ていないものを持っている人がいる。


「朔之介さんを、本当に大切に思っているんですね」

「当たり前よ。あの子はうちの子だもの」

「……そう、ですか」


 私は、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。


「……詩織ちゃん?」


 そして目を開けると、怪訝そうに私を見ている青藍さんに言った。


「青藍さんのそういう今までの努力が、気持ちが……彼を少しずつ変えてきたんですよ。やっぱり、私はタイミングよかっただけ。たまたまです。褒められるべきは私じゃありませんよ」


 私の言葉に、青藍さんは一瞬、目を見張ると、途端に表情を崩した。


「まったく、頑なに自分のしたことを認めようとしないんだから。でも――アタシ、アンタのそういうところ嫌いじゃないわ」


 私はそれを少し嬉しく思いながらも、言葉を続けた。心をひりつかせる感情を「憧憬」のまま保ち、「嫉妬」に変化させないように苦労しながら。


「――朔之介さんのこと、教えてくれませんか」


 すると青藍さんは目を見開くと――とても嬉しそうに笑った。そして語ったのだ。朔之介さんが、どうしてあれほどタマのことに関して動揺しているのか。彼の胸のうちに抱えているものを。


「あの子がこの世に残ってしまった原因のひとつ。朔が抱えている『未練』。それは――」


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