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変わらないもの、変われないもの5

「ありがとうございましたー」


 その日、最後のお客さんを見送って、入り口に「CLOSED」の看板を下げる。暖簾を外して空を見上げると、一面に厚い雲が垂れ込めている。地上の灯りに照らされて、うっすらと浮かび上がったどこまでも続く曇模様は、爬虫類の鱗のようにも思えて不気味だ。私は、ふるりと身を震わせると、早足で店内に戻った。お客さんのいなくなった店は静まり返っていて、朔之介さんが食器を洗う音だけが響いている。


 暖簾を片付けて、掃除を始める。そして、テーブルを拭きながら、奥にいる朔之介さんの様子を窺った。あの後、彼は何事もなかったかのように帰ってきた。仕事もいつもどおりにこなしていたし、今は特に沈んでいる様子もない。それと対照的なのが、青藍さんだ。彼は、カウンターの隅の指定席で、いつもの上機嫌さはどこへやら、渋い顔をしてお酒を飲み続けている。そのせいだろうか、店内にはどこか、居心地の悪い雰囲気が漂っているような気がした。


「――じゃあ、僕はそろそろ上がるよ。迎えも来たようだしね」


 片付けが終わると、朔之介さんはそう言ってエプロンを脱いだ。その視線は入り口の方に注がれていて、それはいつもの(・・・・)客が来ていることを示していた。


「にゃー……」


 やってきたのは、白猫だった。その子は青藍さんの部下の猫又だ。この店には、夜になると猫又が必ず一匹やってくる。同じ子が毎回来るわけではなく、その日によってまちまちだ。なぜかはわからないのだけれど、朔之介さんは猫又を連れて自室へ戻るのを日課としている。彼は、いつものようにその子を抱き上げると、私に声をかけてきた。


「珈琲淹れたから、よかったらどうぞ。豆が中途半端に残っちゃって。それと、使った後のカップや、食器は洗って置いて欲しいんだけど……」

「わかりました。やっておきますね」

「うん、よろしく」


 朔之介さんは僅かに微笑むと、そのまま二階に上がって行った。その後ろ姿を見送って、カウンターに座る。眼の前には、ホカホカと湯気が上っている珈琲が一杯。私は、香りを胸いっぱいに吸い込んでから、ゆっくりとカップに口をつけた。


「……?」


 そして、すぐさま首を傾げた。どうも、いつもと味が違う気がする。豆は同じ店から仕入れているし、普段と変わらないはずだ。けれど、どこか味に曇りがある。すっきりとした味わいが特徴のはずなのに、舌に残るこの微妙な違和感はなんだろう。不思議に思っていると、今までずっと、ひとりちびちびとお酒を飲んでいた青藍さんがいきなり声を上げた。


「駄目ね。ああもう、ぜんっぜん駄目だわ」

「どうしたんです……?」


 すると、青藍さんはじとりと私を見ると、不満そうに唇を尖らせた。


「わからないわけ? あの子――無理してるじゃない。珈琲の味が変わるくらいには」

「え?」

「すっとぼけたって無駄よ。アンタも変だと思ったでしょ?」

「……まあ、正直なところ」


 私はそっとカップの中に視線を落とすと、目を伏せた。珈琲を淹れることは、そんなに難しいことではない。けれども、とても奥が深いものだ。微妙な違いが、すぐ味に表れる程度には繊細なものだったりする。私は、珈琲の味には、淹れる人の心がそのまま映し出されるのではないかとも思っている。


 ――味が曇ってしまったこの珈琲は、きっと今の朔之介さんの心そのものだ。


 するとその時、急に青藍さんが立ち上がった。そして彼は私の肩に手を置くと、どこか思い詰めたような表情で言った。


「ちょっと付き合ってちょうだい」

「――へ?」


 カタカタと窓枠が鳴っている。どうやら、風が強くなってきたらしい。

 朝は穏やかだった鎌倉を渡る風は、時間が経つにつれて勢いを増し、窓が立てる音が随分と大きくなってきていた。




「あら! いらっしゃい」

「急にごめんなさいね」

「いいのよ。私と青藍の仲じゃない」


 青藍さんが私を連れてやってきたのは、菊江さんの家だった。彼女は、急なことだったのに私たちを快く家に迎え入れてくれて、なんと夕食までごちそうしてくれるのだという。始終、笑顔を崩さない菊江さんに、なんとなく申し訳なく思って頭を下げる。


「あの、急にお邪魔して本当にすみません」


 すると菊江さんは朗らかに笑って言った。


「ふふ、ひとりで夕食を済ませるつもりだったから嬉しいわ。待っていて、すぐにできるから。青藍、お酒のある場所はわかっているわよね?」

「ええ。もちろんよ」


 パタパタと、軽い足取りで台所に向かった菊江さんを見送って、用意してもらった座布団に遠慮がちに座る。古めかしい建具が揃った室内は、純和風な造りになっていて、どこか昭和の家庭を思わせる。ちゃぶ台に、障子張りの引き戸に、日めくりカレンダー、家族の思い出を写した写真の数々。壁にかけられた振り子時計が、軽やかな音を立てながら時を刻んでいる。私は、勝手に戸棚を漁り、中にあった日本酒を取り出して飲み始めた青藍さんに、なんとなく尋ねた。


「菊江さんと、ずいぶんと親しいんですね」

「それはそうよ。今、生きている人間の中じゃ一番付き合いが長いのよ。確か、菊江がうちの店に初めて来たのは……昭和の珈琲ブームの頃だったわね」

「それって具体的に何年です?」

「う~ん。初期の頃だから……1960年台くらいかしらね。菊江はカフェの常連でもあるけれど、アタシの友人でもあるわけ。もちろん、朔とも親しいわよ」


 となると、菊江さんと青藍さんはもう六十年来の付き合いということになる。見た目、三十代にしか見えない若々しい青藍さんと、年齢通りに歳を重ねた菊江さん。親子以上に歳が離れているように見える二人が旧知の仲だというのは、あやかしと人間が共に住まう古都ならではだ。


「それで、どうして私をここに連れてきたんです?」


 すると、彼は少し渋い顔をして言った。


「あの店じゃ、朔に聞かれるかもしれなかったから」

「……それは、彼のことを話すために場所を変えたってことですか?」


 青藍さんはコップの中の酒を飲み干すと、ふうと長く息を吐いて、ちゃぶ台に肘をついた。さらり、彼の長い黒髪が肩から零れ落ちる。青藍さんが目を細めると、山なりに形が歪み、いかにも猫らしくなる。背中を丸め、こちらをじっと見つめている彼の怪しげに光る金の双眸に不安を覚えて、私は少し身構えた。


「そうよ。あなたに、朔のことを少し話そうと思って」


 それを聞いて、思わず息を呑んだ。途端に、胸の奥からモヤモヤしたものが這い上がってきて、下唇をぎゅっと噛む。


「どうしてですか……?」

「詩織ちゃん?」


 青藍さんは私の様子に気がつくと、困惑したように眉を下げた。

 正直、聞くのが怖かった。彼に対する恋心を諦めようとしているのに、話を聞いたら後戻りできなくなりそうな予感がしたからだ。それに、私と彼はあくまで同じ店で働く従業員で、立ち入った事情を知る立場にないとも思う。けれど、青藍さんにも事情があって、この場を設けたに違いない。私としては、お世話になっている彼の気持ちを裏切りたくない。


 だから予防線を張るためにも、彼に質問を投げた。――でも、やめておけばよかった。ああ、声が震えている。心臓の音がうるさい。首筋が熱を持っていて、手のひらに汗が滲んでくる。まるで、大舞台を前に緊張している子どもにでもなった気分だ。この歳になって、なんて情けない。


 ……私って、なんて臆病なのだろう。


 すると、青藍さんは一瞬視線を宙に迷わせると――朱を差した目元を、わずかに和らげて言った。


「アンタ、本当に真面目な子よね」

「……真面目なくらいしか、取り柄がありませんから」

「こっちは褒めたつもりなのに。そういう、すぐに自分を卑下するところは駄目ね」

「うっ」


 青藍さんは呆れたように肩を竦めると、私の頭をぽんと軽く叩いた。


「別に、アンタに朔の事情を聞かせて、色々と背負わせようだなんて思ってないわよ。まだ会って間もないアンタに負わせるには、朔の持つものは重すぎる。でもね――」


 青藍さんは短く息を吐くと、どこか切なそうに顔を歪めた。


「あの子はね、アタシにとって子どもみたいなものなの。鬼になった朔を七里ヶ浜で拾ってからずっと、大切に、大切にしてきた。アタシは、あの子の母親でありたいと思って、頑張ってきたの。猫又で、雄のアタシが、元人間のあやかしの母親だなんておかしいと思うかもしれないけれど、この気持ちだけは本物だと思ってる」


 彼はぎゅっと胸元で手を握ると、まっすぐに私を見て言った。


「だから……あの子がこれ以上傷つかないように、『仲間』には最低限のことは知らせておこうと思った。朔は今、きっと辛い思いをしているから。今日、アンタをここに連れてきたのはそういうことよ」

「えっ」


 ――仲間?

 ドキリとして、一瞬、思考が止まる。カフェで働き始めてから、まだほんの少ししか経ってない。それなのに、仲間?

 ひとり動揺していると、青藍さんはふふふ、と酷くおかしそうに笑った。


「あら、どうして驚いているのかしら。アタシは、アンタはもう身内だと思っているのに」

「いや、でも。えっと、流石に仲間認定されるには早すぎるんじゃ」

「馬鹿ね。早いも何も無いわよ。アタシが仲間だって言ったら仲間よ。時間なんて関係ないわ。あの店に集まって、楽しく同じ時間を過ごせる相手は仲間でいいじゃない」


 その言葉に、きゅっと胸が苦しくなった。同時に、じわじわと熱を持った何かが胸の中に広がっていく。地元の人たちが長年愛してきたあの店で働くことになったのは、本当に偶然だ。よそ者の私は、仲良くしている彼らの様子を少し離れた場所で見ているような感覚があった。けれど、知らぬ間に彼らの輪の中に入れてもらっていたらしい。それはなんともくすぐったく、けれども悪い気はしなかった。


 ――あやかしたちは、どうしてこうも温かいのだろう。現代に生きている人間が忘れてしまったものを、彼らはずっと持ち続けている。鎌倉に来て、初めて存在を認識した彼ら。けれど、その存在はなんとも好ましく思える。思わずニヤついていると、そんな私の様子に気がついたのか、青藍はニンマリと悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「最初は、ただ単に面白そうだったからアンタを雇ったのよね。正直、気に食わなかったら頭から齧ってしまえばいいかって思っていたし」

「ひっ! あ、頭から?」

「そうそう。バリバリとね。アンタが朔に色気でも振りまこうものなら、証拠が残らないように、一欠片も残さずに食ってやろうと思っていたんだけど。アンタ、本当に真面目でよかったわよ。命拾いしたわね?」


 思わず、座ったまま後退って、青藍さんから距離を取る。

 もしかして……いや、もしかしなくとも私、危機一髪だったのでは!?


 眼の前にいる彼が、人間ではない「別のもの」なのだということを、再認識する。彼は、切れ長の瞳をにんまりと三日月型に歪めて、私を楽しげに見つめている。一体、何を考えているのだろう。もしや、この会話すらも私は試されていて、失敗すると食べられてしまうんじゃないだろうか……!?


 人間が忘れてしまったものを、まだ持ち得ているあやかし。

 ――けれども、人間には理解できない倫理観や価値観を持っているのもあやかしなのだ。


 ひとり疑心暗鬼に陥っていると、そこに菊江さんがやってきた。彼女は、私たちの間に流れる空気を察すると、用意してくれた食事をちゃぶ台に並べて、笑い混じりに言った。


「コラ、青藍。また心にもないこと言って、おどかしてるんじゃないでしょうね。あなた、昔から人を怖がらせるのが好きだから」

「うふふ。猫又の性分って奴かしらね~」

「駄目よ、可愛い子をいじめたら」

「ごめんごめん」

「じょ、冗談……ですか」


 ほっと胸を撫で下ろして、座布団の上に座り直す。よかった。人食いの猫又なんていなかった……! 青藍さんは、そんな私を少し困ったような表情で見つめている。もしかしたら、彼がこんな話をしたのは、私の様子がおかしかったのを心配したからかもしれない。


「さっきの話だけれど、朔のこと……駄目そうなら、無理しなくてもいいわよ。アンタも、色々と大変なんだってわかってる」


 その証拠に、私を気遣う言葉を口にした青藍さんは、心配そうに私を見ている。時たま、意味のない悪戯を仕掛けてくることもあるけれど、この人は基本的に面倒見がいい。懐が広いというのだろうか。だからこそ、彼を慕って多くのあやかしがカフェを訪れるのだ。


 どうしようかと迷っていると、その時、なんともいい匂いが鼻をくすぐって、思わず視線をちゃぶ台に落とした。そこにあったのは、菊江さんが用意してくれた、けんちん汁と焼きおにぎりだ。胡麻油と焼けた味噌の香りが香ばしく、ふわふわと白い湯気を立ち上らせている汁ものと、焦げが所々できている焼きおにぎりは、なんとも食欲をそそる。途端に、くうとお腹が鳴って、慌ててお腹を押さえた。すると、菊江さんが小さく笑ったのに気がついた。


「さあ、話は一旦中断。冷めないうちに食べて頂戴。青藍も、お酒ばかりじゃ体に悪いわよ。詩織さん、沢山食べてね」

「ありがとうございます」

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