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変わらないもの、変われないもの4

 ――青藍さん曰く、タマには、猫又になる素質が充分あるのだという。

 猫又になれる猫は貴重だ。長い年月を生きることのほかに、この世に「未練」を充分に残していることが条件で、それを満たす猫はなかなか現れない。大抵の猫は、今生にそれほど未練を抱くことなく、あっさりと次の生へと行ってしまうのだという。


「せっかくのチャンスなのに。この子、本当に強情でね。猫又になるのは絶対に嫌だって、拒否しているのよ」


 説得に手間取ったというのは、タマを猫又に引き入れることだったらしい。

 青藍さんは大きくため息をつくと、タマを撫でようと手を動かした。……が、その手は黒い毛並みに触れることはなかった。タマが、するりと青藍さんの腕から逃げ出してしまったからだ。とん、と軽やかに床に下り立った黒猫は、その場に座り込んで青藍さんを見上げた。なんとなく、ぼんやりとタマの様子を眺めていると、ある声が耳に飛び込んできた。


「気安く撫でようとするんじゃねえよ」

「えっ」


 それは、かなり低い、お腹に響くようなバリトンボイス。初めて聞く成人男性の声に、思わずキョロキョロと辺りを見回す。けれども、ここには私と青藍さん、それにタマしかいない。声に該当するような男性の姿は見つけられずに、どういうことなのかと怪訝に思っていると、足もとからまた声が聞こえてきた。


「何だァ? 猫が喋ったら何か変なのかよ?」


 ――なんと、声の主はタマだったのだ。


「いや、どう考えても変でしょ……」


 その顔で、その声はミスマッチ過ぎやしないか。

 思わず脱力していると、タマは私をじろりと睨みつけて、不満そうにしっぽで床を叩いた。なんと、猫又に「なりかけ」のタマは、人語を解しているし、喋ることもできるのだそうだ。そのことに驚いていると、タマは鋭い眼光で私を睨みつけて言った。


「俺が喋れるってこと、絶対、菊江には言うなよ」

「どうして?」

「俺は猫だ。猫が喋ったら、不気味だろうが」


 菊江さんなら、愛猫と話せると知ったら喜びそうなものだけれど。そう思いつつも、色々と事情があるのだろうと頷く。するとタマは、若干脚を引きずりながらも店内を歩き出した。そして、くんくんと鼻をひくつかせて、店内をぐるりと眺めるとしみじみと言った。


「……菊江が来ていたのか。そうか」


 そして、すぐさま半目になると、横目で青藍さんを睨みつけて言った。


「猫又になる話だが、とにかくお断りだ。俺はあやかしにはならねぇ。何がチャンスだ。強要するんじゃねえよ」

「強要だなんて! アタシ、そんなつもりは……」

「嘘つくな。お前は、俺が猫又になることが幸せだと思ってるんだろ。そういう考えが透けて見えるんだよ。押し付けがましい。猫によっちゃあ、飛びつく奴もいるんだろうが、俺は永遠の生なんかには興味ないんだ。放って置いてくれ」


 タマは、青藍に鋭い眼差しを向けると、またしっぽで床を叩いた。

 彼は、よほど猫又になりたくないらしい。不機嫌さを隠そうともしないタマの姿と、先日、素直に菊江さんに甘えていた時のタマの姿の、あまりのギャップに面食らう。


 同時に、あやかしとしての生に興味はないと言い切った彼の言葉に、矛盾を感じる。私は気を取り直すと、タマに尋ねた。


「なら、あなたにはどうして猫又の素質があるの? 猫又になるためには、長生きをするほかに、この世に強い『未練』がないといけないんだよね? その『未練』を解消するためには、猫又になって得られる永い時間は有用じゃないのかな」


 するとタマは、私をじろりと睨みつけてきた。あまりにも強い眼力に、思わずたじろぐ。けれども、ここで逃げたらいけないと、ぐっと堪えた。

 すると彼はどこか面倒くさそうに、はあ、と大きくため息をついた。


「別に難しいことは何もない。いたって単純な話だ。俺の持つ『未練』は、猫又になるほどのことじゃねえってだけだ」


 そして、ふいに視線を反らし、自分のことをぽつりぽつりと話し始めた。


 彼の辿ってきた猫としての生は、どこかで聞いたことのあるようなものだった。子猫の頃、飼い主に棄てられたタマは、たまたまそこを通りすがった菊江さんに拾われた。棄てられ、一時は絶望した彼は、菊江さんによって暖かい家庭に迎え入れられて、ふたりは今までずっと共に居た。


「菊江は、でかい一軒家に一人暮らしだろ? 旦那には先立たれて、子どもは独立しちまって、寂しかったんだろう。俺を随分と可愛がってくれたよ。ある意味、似たもの同士だったんだ。俺と菊江は――心にぽっかり空いた穴を、お互いの存在で埋めていた」


 タマはぺろりと前脚を舐めると、そのまま己の不自由な方の脚を見ながら続けた。


「車に轢かれて、脚が上手く動かなくなった時もずっと看病してくれた。正直、棄てられるかとヒヤヒヤしたけどよ。菊江は、俺を見捨てたりなんてしなかった。俺のことを、『家族』だと言ってくれるのは菊江だけだ」


 そして、うっすらと目を細めると、顔を上げて言った。


「特別な理由も、事情も何も必要ねえんだ。俺の居場所は菊江の傍にある。菊江あってこその俺だ。なあ、お前。菊江がいなくなった世界で、誰が俺を受け入れてくれる?」

「探せば、きっとどこかに……」

「そんなの、どこにいるんだよ。それに、それは俺の『家族』じゃねえよ。『引取り手』や『預かり先』であって、菊江と同じ暖かさで笑いかけてはくれないし、菊江と同じ手付きで撫でても、話しかけてもくれない」


 タマはその場で座り直すと、まんまるの瞳で私を見つめた。その瞳は、どこまでも透き通っていて、上質な琥珀のような黄褐色をしていた。――しかし、べっこう飴のように、甘く無邪気な印象もあって、その瞳に写り込んでいる自分が酷く滑稽なものに思えた。堪らず視線を反らすと、そんな私に構わずタマは話を続けた。


「俺の望みは、菊江に遺されないこと。菊江を遺さないこと。俺の『未練』は、菊江の最期まで一緒に生きていたいってことだけだ。正直、この体はもうボロボロでな。いつコロリと行くかと、不安しかねえが……踏ん張るしかねえな」


 ――自分は、菊江さんのため『だけに』ある。


 言外に彼はそう言っているのだと感じて、胸が苦しくなる。するとタマは、嬉しそうに目を細めて、ニッとふてぶてしく口角を上げて言った。


「それにな。――俺の隣に、菊江以外がいるなんて、想像もつかねえよ」


 その時、私は理解した。良くも悪くも、彼は猫なのだ。

「犬は人につき、猫は家につく」ということわざがある。意味としては、犬は人間に懐くが、猫は家に執着するというものだ。それをそのままの意味で受け取ると、猫は犬に比べると、人間のことはどうでもいいと考えているように思える。けれどもそれは違う。私は、猫はそれぞれに、小さな世界を持っているのではないかと思っている。家飼いであれば、その家の中。外飼いなのであれば、縄張りの範囲内――限られた、その猫だけの「楽園」で生きていて、そこに住まうものの中で、気に入った相手やモノ……例えば飼い主に執着するのだ。


 人間である私は、自分が今いる世界以外――外の世界に目を向けることができる。この広い世界に、一体どれだけの人間がいるというのだろう。その中に、菊江さんと同等か、それ以上の愛情を注いでくれる相手がいるかもしれないという「可能性」を考えることができる。けれども、限りなく小さな世界で生きる彼らには、それを想像することができない。なぜならば、世界が完結しているからだ。今のタマが持つ世界――小さな彼の「楽園」には、きっと自分と菊江さんだけが存在しているのだ。そして、そのことに満足している。だから、それ以上を求める意味もない。

 正直なところ、私はそれが悪いとは思えなかった。


(この子は、自分にとっての『唯一無二』を見つけたんだ。自信を持って、ほかはいらないと断言できるほどの相手を)


 こっそりと長く息を吐く。僅かに心拍数が上がっている気がする。その黒くて小さな体が、やけに大きく感じる。彼は、私が得られていないものを持っている。


 しかし、青藍さんはそうは思わなかったらしい。


「でも、アンタ。生きられる可能性をわざわざ捨てるだなんて……歳を取って、悲観的になっていない? 本当にそれでいいの? 後悔は――しない?」


 彼がそう問いかけると、タマはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。


 青藍さんがそう思うのも理解できる。タマの行動・判断は、自分の周り以外の世界を知っている者なら、己の可能性を無駄にしているようにしか見えない。死に際して、自暴自棄になっているように思える。長いこと、猫又として生きてきた青藍さんは、色んな世界を知っている。元は同じ猫だったとはいえ、どちらかというと、人間のような考えを持っているのかもしれない。


 するとその時、カタン、とキッチンの方から音がした。

 驚いてそちらに目を遣ると、そこには顔色を蒼白にした朔之介さんが立っていた。


「朔?」


 青藍さんが声をかけると、朔之介さんはツカツカとこちらに近寄ってきた。その顔は、どこか怒りを堪えているように見えた。なんとなく、怒鳴られる予感がして身構える。けれども、彼は私たちの前には来ずに、おもむろにタマを抱き上げると、こちらに背を向けてしまった。


「青藍。今の発言は、相手の気持ちをきちんと考えた上でしているのかな?」


 いつになく硬い声を発した朔之介さんに、胸の奥がざわつく。そんな彼の態度に青藍さんも動揺したのか、すぐに答えられずに言い淀んでいる。すると、朔之介さんは更に強い口調で言葉を重ねた。


「置いていかれた者の気持ちを、理解した上で言っているのかと、聞いているんだ」

「そ、それは」

「何も考えてなかっただろう。青藍には、力があるからね。たとえ、大切な人に置いていかれたとしても――僕たちと違って(・・・・・・・)どこにでもいけるだろうしね。この気持ちは、きっと理解できない」

「……朔」


 青藍さんは、答えに窮しているようで、言葉に詰まってしまった。すると、朔之介さんは腕に抱いているタマに向かって言った。


「僕は、君の好きなようにしたらいいと思うよ。ねえ、タマ。君にとって、この一分一秒はとても貴重なもののはずだ。早く帰ったらどうだい」

「おお、確かにそうだな。お前は物分りがよくて助かるぜ」


 タマは朔之介さんの手から飛び出すと、入り口の方へと歩いていった。そして、こちらを振り向くと――。


「悪いな。俺は『ただの猫』として、菊江と共にあり続ける。――じゃあな!」


 そう言って、帰っていった。


「……僕も少し出るよ」


 すると、朔之介さんは身につけていたエプロンを外して、おもむろに歩き出した。


「ど、どこに行くんですか」


 声をかけると、彼は一瞬だけ立ち止まった。そして、ぽつりと開店までには戻ると言い残して、店外に向かう。彼の髪飾りの鈴が、りん、と冷たい音だけを残していった。


 すると、盛大なため息と共に、椅子を引く音が聞こえた。見ると、青藍さんが落胆した様子でぐったりと椅子の背にもたれかかっている。彼は、天井を仰ぐとぽつりと呟いた。


「ああ、やっちまった」


 溢れた言葉は、いつもの女性らしい言葉遣いではない。それが、彼の心情を表しているようで、どきりとする。


「……っ!」


 私は少しだけ逡巡すると、意を決して朔之介さんの後を追った。なんだか、彼を放って置いてはいけないような気がする。


 勢いよく入り口の引き戸を開けて、朔之介さんの姿を探す。すると彼は、青葉が茂り始めた桜の木の下で、幹に向かってひとり佇んでいた。私は、ぐっと手を握りしめると、彼に近づいていった。


「朔之介さん」


 声を掛けると、彼は、ゆっくりとこちらを振り返った。

 ――ズキン。その顔を見た瞬間、胸が傷んで思わず顔を顰める。

 青ざめた顔。下がった眉尻。不安そうに揺れている瞳――今にも泣き出しそうな顔に、無性に慰めたくなって、けれども自分の中に言葉を見つけられずに唇を噛む。朔之介さんも、私を見ているばかりで、何のリアクションも取ろうとしない。


 黙ったままの私たちの間を、朝の風が通り過ぎていく。さわさわと葉擦れの音が聞こえて、日中に比べると穏やかな木漏れ日が私たちを照らしている。唾を飲み込み、喉を湿らせる。そして私は、おもむろに口を開いた。


「あの、大丈夫ですか?」

「……」


 朔之介さんから返答はない。私は気を取り直すと、話を続けた。


「店の準備は任せておいてください。えっと――だから」


 無理やり口角を上げる。彼に不審に思われないように、何も気にしてないという風を必死に装って、精一杯の作り笑顔を浮かべた。


「少し、ゆっくりしてきてください。あ、でも開店前には『必ず』帰って来てくださいね。朔之介さん以上に、美味しい珈琲を淹れられる人、この店にはいないですから」


 すると、朔之介さんは目を何度か瞬いて、それから頷いてくれた。


「……うん。わかったよ」

「ありがとうございます! それにほら、私だけだとまっ黒焦げなモーニングしか提供できませんからね。そうなったら、常連さんに怒られちゃう!」


 続けて、少し戯けて言う。すると、朔之介さんは淋しげな笑みを零した。


「……じゃ、じゃあ。後で!」


 それを見届けた私は、一礼してから踵を返す。頭の中では、彼にかけられなかった言葉がぐちゃぐちゃと自己主張していて、煩いことこの上ない。この歳になって、気の利いた言葉一つ言えないだなんて、私はなんて残念な女なんだろう。


 脳裏に浮かんだのは、朔之介さんの寂しそうな笑顔の残像。

 続いて浮かんできたのは、七里ヶ浜で聞いた彼の言葉だ。


『そんなに心配しなくても大丈夫さ。僕は、もうとっくに吹っ切れている』


 ――今回のことは、彼の『未練』に関わることのような気がする。僕たち(・・・)と違って、どこにでもいける……彼はそう言ったのだ。菊江さんとタマ。彼ら二人が迎えようとしている『死』。それが、朔之介さんの心を揺さぶり、不安定にさせているのだ。


「やっぱり、全然、吹っ切れてなんかないじゃないですか……まったくもう」


 私は、ぐいと目端に滲んだ涙を袖で拭うと、駆け足で店内に戻った。いつの間にか、青藍さんの姿が消えている。そのせいで、張り詰めていたものがふっと途切れそうになる。


「……ああ、もーっ!!」


 私は、大声を出して気合を入れると、開店に向けて準備を始めた。心の中のモヤモヤを振り払うように、頭をからっぽにして作業をしようと努力する。けれども、ちっとも集中できなかった。


(――ああ、黒猫が羨ましくて堪らない)


 私が、タマにとっての菊江さんのような、朔之介さんの唯一無二の存在だったならば、寄り添って慰めてあげられるのに。絶対にあんな顔はさせないのに――そんな考えが浮かんでは消えていく。けれど、この考えは非常に危ない。つい先ごろ、朔之介さんへの想いを封じると決意した矢先だろうに、私は何を考えているのだ。


「ほんと、私って」


 ……馬鹿だなあ。

 私はいささか乱暴な手付きで布巾を鷲掴みにすると、もう一方の手で蛇口から勢いよく水を出した。そして、鬱憤をぶつけるように、流水の中に布巾を勢いよく突っ込んだのだった。


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