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変わらないもの、変われないもの3

 ゴールデン・ウィークの混雑も過ぎ去り、やっと一息ついたある日のことだ。朝の身支度を終えた私は、いつもどおりに二階からカフェに降りて行った。すると、開店前の店内に、ある人物がいることに気がついて驚いた。それは、菊江さんだった。


「あら、おはよう!」


 彼女は、私に気がつくとひらひらと手を振った。菊江さんの装いを見た瞬間、私は思わず笑みを零した。上品に仕立てられた、灰色がかった藤色をした三つ紋の訪問着。それに、金糸が使われた上品な帯袋。それは、彼女が生来持っている穏やかな雰囲気を、更に柔らかくしてくれている気がして、とても似合って見えた。


「おはようございます! 今日のお着物、とっても素敵ですね」


 すると、菊江さんは自分の恰好をちらりと見下すと、はにかみ笑いを浮かべた。


「これね、昔、母に貰ったものなのよ。フフフ、素敵でしょう?」

「素敵です……見ただけで良い品だってわかりますもん」

「ありがとう。嬉しいわ」


 そして菊江さんは、おもむろにカウンターの上に置いてあったものを指さした。


「わざわざ開店前に来たのはね、これを譲りに来たの」


 そこにあったのは、茶色い陶器の(かめ)だった。何が入っているのかと、慎重に蓋を開ける。


「うっ!」


 すると、酸っぱくてなんとも言えない複雑な臭いがしてきて、思わず顔をしかめる。息を止めて、恐る恐る中を覗き込むと――そこには、湿り気を帯びた、黄褐色のドロドロしたものが詰まっていた。


「……あれ、これって」


 見覚えのあるそれに思わず声を上げると、菊江さんは朗らかに笑って言った。


「ぬか床よ。私が結婚した時に、母から分けてもらったものなの。どんな野菜も美味しく漬かるのよ」

「わ! じゃあ、随分と年季が入っているんですね」


 するとそこに、朔之介さんがやってきた。どうやら、キッチンでぬか漬けを切ってきたらしい。手に皿を持っている。


「味見してご覧よ。美味しいよ」

「へー……いただきます!」


 皿の上には、少ししんなりとした、色鮮やかな野菜たち。私はきゅうりを摘まみ上げると、食べてみた。しゃくん、と瑞々しい歯ごたえ。ほのかに感じるほど良い塩気に、熟成された旨みと酸味が絶妙に入り混じったその味は絶品だ。ご飯にも、お酒にも合いそうなそれに思わず身を捩る。


「ん~! 美味しい!」

「気に入ってくれて、よかったわ。これで珍しい西洋野菜を漬けても、いい味になるわよ」

「へえ……! やっぱり、ぬか床は使い込むほど味がよくなるんですね。こんなものを譲ってもらえるだなんて、すごいですね。朔之介さん」


 ほっこりしながら、朔之介さんにも同意を求める。すると、彼は曖昧に笑って頷いた。


「――僕は、今日の仕込みをしてくるよ」


 そして、そう言ってさっさと奥に引っ込んでしまった。


(……どうしたんだろう?)


 不思議に思いつつも、菊江さんを残して後を追うわけにもいかない。私は、穏やかな笑みを浮かべている菊江さんに向かい合うと、ごちそうさまでしたとお礼を言った。


「それにしても、どうしてこれをうちの店に?」


 すると、菊江さんは少し視線を彷徨わせた後、わずかに瞼を伏せて言った。


「私……そろそろ、寿命だから」

「――え?」

「身の回りの大切なものを、大好きな人たちに配って歩いているの。いわゆる『終活』って奴ね。金銭や家は息子たちに遺すつもりだけれど、私以外に価値がわからないものは、放って置いたら捨てられてしまうでしょう? だから、ね?」

「……」


 私は絶句するほかなかった。

 目の前の菊江さんからは、病の気配は感じられず、もうすぐ寿命だと本人が思うほどのものを抱えている様には、これっぽっちも見えなかった。年齢を考えると、何か持病があってもおかしくはないけれど……。その時、ようやく先程の朔之介さんの態度を理解することができた。このぬか床は、はしゃいで受け取るような品ではない。所謂、生前に行われる「形見分け」のようなものなのだ。


「……あ」


 彼女に何か言わなければと、口を開く。けれども、胸が苦しくなるばかりで、かける言葉が浮かばない。菊江さんに遺された時間は、一体どれだけあるのか。それを訊いていいのかすらわからない。だって私と彼女はただの店員と客で、それ以上でもそれ以下でもないのだから。


(でも。でも――私は)


 彼女とこのカフェでもっと同じ時間を共有していたかった。店員として、ほんの少し言葉を交わすだけの関係だけれど、それでも、彼女を好きな気持ちはこの胸の中に芽生え、少しずつ成長していたのだ。毎日のようにカフェを訪れてくれる彼女の人柄は好ましく思っていたし、慣れない仕事に四苦八苦している私を、暖かく見守ってくれた彼女に、成長を見守っていてほしかった。

 なのに――こんなことって。


「まあ!」


 すると、菊江さんは皺が多い顔を更に皺くちゃにして笑うと、そっと私の頬に両手で触れた。


「まるで、泣き虫の子どもみたいな顔」


 近くで見る菊江さんの瞳は、まるで凪いだ海のように穏やかだ。決して、死を恐れている人のそれではない。彼女は、ひんやりした……それでいて、乾いた手で私の頬を撫でると、どこか遠くを見て言った。


「大丈夫、大丈夫よ。気を遣わなくてもいいの。人に終わりはつきものよ。それは、仕方のないこと。あやかしみたいに、永遠に生きられないのだから、それは理解しなくてはね。ああ、でもそんな顔をさせたのが私だっていうのは、少し嬉しいわ。ひねくれた考えかもしれないけれど、あなたの心の中に、ほんの僅かでも私がいると知れたから。それに――」


 そこまで言うと、菊江さんは黙り込んでしまった。そして、彼女はわずかに逡巡した様子を見せると、指先で後頭部のあたりにそっと触れた。そこには綺麗に纏められたお団子があり、藤の花がデザインされた漆塗りの櫛が刺さっているのが見える。艶のある漆の黒に、花の紫色。それにまぶされた金粉の鮮やかさに、思わず目を奪われていると――菊江さんは、はあ、と息を吐いた。


「……なんでもないわ。ごめんなさいね。戸惑わせてしまったわね」


 菊江さんは小さく苦笑すると、私から離れた。そして、立てかけてあった日傘とキャリーケースを手に持つと、足先を店の入り口の方に向けて言った。


「何も、すぐにいなくなるわけじゃないわ。これは、『準備』。だから、そんな顔をしないで。明日も明後日も、またこの店に来るんだから。……ね?」

「…………はい」


 やっとのことで、声を絞り出して返事をする。

 すると、菊江さんは益々眉を下げて、やけに明るい声で言った。


「まったくもう、迷惑な年寄りよね! 余計なことばかり言って。――忘れて? 私、しんみりした空気は好きじゃないのよ。じゃあ、行くわね。今日は、知り合いの家をたくさん回らなくちゃいけないから、忙しいの」


 菊江さんはそう言うと、小さく手を振って店から出ていった。

 私は、何も言えずにその後姿を見送るしかできなかった。やけに疲労感を感じて、近くにあった椅子を引いて座る。そして、知らぬ間に止めていたらしい息を、やっとのことで吐き出した。


「……はー……」


 椅子に背を預けて天井を仰ぎ、強張っていた体から徐々に力を抜いていく。この歳になると、身近だった人が亡くなることはないわけではない。私の祖母も、つい先ごろ他界した。だから、若い頃よりは「誰かの死」を受け入れる余裕はある……と、思うのだけれど。


(なんでこんなに、しんどいんだろう)


 胸の辺りを摩りながら、顔を顰める。そして、目を瞑ってこの店の日常を思い浮かべる。常連客は、いつも決まった席に座る。観光客が大勢やってくる前の朝のひとときは、常連のお客さんだけの特別な時間だ。その光景から、菊江さんの姿を頭の中で消してみる。それは、とても不自然な景色に思えて、思わずぐっと奥歯を噛み締めた。


 ――からり。

 その時、カフェの入り口の引き戸が開いた音がした。

 菊江さんが戻ってきたのかと、慌てて態勢を整える。けれども、そこに現れたのは別の人物だった。


「あら、おはよう」

「おはようございます! どうしたんです? 今日はやけに早いですね」


 やってきたのは、青藍さんだ。普段は昼頃にやってくるのにと思っていると、彼は憂鬱そうにため息を漏らして、自分の腕の中に視線を落として言った。


「――ちょっと、ね。この子の説得に手間取っちゃって」

「……説得?」


 不思議に思って、青藍さんの腕の中を覗き込む。すると、金色の双眸と目が合ってしまって、おもわずぱちくりと目を瞬いた。


「なぁん」


 そこにいたのは、菊江さんの飼い猫のタマ。

 年老いた黒猫は、ふいと私から視線を逸らすと、これみよがしに、ふわ、と大きなあくびをした。


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