表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/35

変わらないもの、変われないもの2

 ところ変わって、ここは北鎌倉駅からほど近い場所にある住宅街。

 少し歩くと、あじさいで有名な明月院がある。円覚寺擁する六国見山がすぐ近くにあり、非常に緑の多い場所だ。このあたりは、歴史的風土保存地域や、歴史的風土特別保存地域に指定されていて、新築、増改築、土地形質の変更、木竹類の伐採などをするのに、許可を受ける必要がある。そのためか古い家が多く、比較的新しい建物が並ぶ鎌倉駅周辺に比べると、雰囲気が異なる。それもあって、明月通りに面して建っている家々は、一風変わった造りをしている。近くを流れる明月川を跨いで、小さな橋が門戸と通りを繋いでいるのだ。


 私は、その中の一軒に休憩時間を利用してやってきていた。


「助かったわ。この日傘、お気に入りだったの」

「最近は、日差しの強い日もありますから……」

「うふふ、心配してくれたのね。嬉しいわ。よかったらお茶を飲んでいって頂戴」


 そう言って、私に微笑みかけてくれたのは、カフェの常連客で菊江さんという。

 ここは彼女の持ち家だそうで、今はひとりで住んでいるのだそうだ。お天気がいいからと庭に通された私は、縁側に座って休憩することにした。


 菊江さんは代々鎌倉に住んでいて、あの店に若い頃から通っているらしい。そんな彼女も、既に八十代。髪はまるで雪のように白く、それを上品にお団子にして纏めている。目尻には笑い皺ができていて、なんとも優しそうな雰囲気を纏っている。さらりと和装を着こなしている姿は、日本女性の理想形のようで、実はちょっぴり憧れていたりする。


 彼女は、お茶を用意するために母屋に入って行った。それを見送ってから、脚をぐんと伸ばした。すると、春の暖かな日差しが全身に降り注いできて、そのあまりの心地よさに全身の力が抜けた。


「いい天気だなあ……」


 今日、私は菊江さんに忘れ物を届けに来た。常連である彼女は、カフェにほぼ毎日やってくる。だから、無理に届けなくても大丈夫だとはわかっていたのだけれど、あえてわざわざやってきた。正直なところ、休憩時間くらい朔之介さんと離れたかったのだ。


(あー……。この歳になって、こんなことをするはめになるとは)


 好きな人を露骨に避ける……まるで、思春期の女の子のような自分の行動に苦笑しながら、菊江さんの家の庭を眺める。花壇では、春の花々が盛りを迎えていた。中央には大きな藤棚があって、その下には椅子とテーブルが設えてある。きっと、藤の花が満開の頃にあそこに座ると、心地いいに違いない。耳をすませば、さらさらと明月川の流れる音が聞こえる。庭を風が吹き抜けていくと、葉擦れの音が降り注ぐように聞こえてきて、これもまた心地がいい。家屋は通りから少し離れているからか、観光客の声が遠いのもいい。将来、終の棲家を構えるとすれば、こういう場所が理想かもしれない。


「お待たせ」


 するとそこに、お茶の支度を終えた菊江さんがやってきた。

 私はお茶を受け取って礼を言うと、もう一度、庭に視線を戻した。


「すごく素敵なところですね。なんというか、ゆっくりと時間が流れている感じがして」


 菊江さんは私の隣に座ると、小さく笑った。


「ありがとう。私も気に入っているのよ」

「なんだか空気が瑞々しい気がします」

「そう? ふふ、いつもいるからよくわからないけれど、川が近いせいかしらね? そうそう、そこの明月川ね、六月頃にはホタルが飛ぶのよ」

「ホタル! 本当ですか? 私、見たことなくて……!」


 思わぬ情報に、心が湧き立つ。夏の夜、暗闇の中でゆらゆら飛び回る幻光を想像して、うっとりする。ホタルなんて、なかなか都会では見られない。それが鎌倉で見られるだなんて知らなかった。しかも、どうやら野生のホタルのようだ。

 興奮して、体を乗り出して詳細を聞き出そうとする。けれど、はたと気がついて止めた。これでは、まるで子どもみたいではないか。


「……どうしたの?」


 すると、そんな私の様子に気がついた菊江さんが首を傾げた。

 私は、苦笑いを浮かべて言った。


「いえ。年甲斐もなく、ホタルに浮かれてしまった自分が恥ずかしくて」


 すると、目を何度かパチパチと瞬いていた菊江さんは、次の瞬間には小さく噴き出した。


「なに馬鹿みたいなこと言っているの。あなた、まだまだ若いじゃない」

「そんな、もうすぐ三十路ですし」

「まあ、私のまだ半分も生きてないわ! 若いわよ」


 菊江さんはからからと楽しそうに笑うと、晴れ渡った空を眺めながら言った。


「三十路前後って悩ましいわよね。十代、二十代前半に比べると決して若くないのだけれど、完全な大人かって言われると、そうでもない気がするし。それに、色々と経験を積んでいる分、器用に生きられるようにはなるけれど、頭でっかちにもなりがち。今までみたいに、素直にいろんなことを楽しめなくなっているんじゃない?」

「……う、耳が痛いです」


 思わず顔を引きつらせると、菊江さんは「でも、わかるわ」と続けた。


「あなたくらいの年頃って、たぶん大人にならなくちゃいけないリミットなのよ。転換期って奴ね。一番難しい年頃だと思うわ。十代は名実ともに子どもよね。二十代は社会的責任はともかくとして、気持ちだけは子どもでいられる。でも、三十代が近づいてくるとそうはいかない。その先を見据えて、どうあがいても大人にならなくちゃいけない。でも……本当は大人になりたくないような、そんな感じ」

「そうなんですよ……」


 私は、菊江さんの言葉に大きく頷くと、苦笑いを浮かべて言った。


「白髪が出てきたり、昔と同じお手入れじゃ肌が荒れるようになったりして、確実に老化を感じ始めているんですけど、心のどこかでは昔と変わらないはずだって、諦められない気持ちもあるんですよね……」

「そうなのよね。特に筋肉痛ね。何日か遅れてやってくるでしょう? 痛くなってくる頃には、なんで痛めたのかすら忘れてる」

「脂が足りなくて、すぐ手足がカサカサになるし」

「冷えるとすぐ体がむくむし」


 そこまで喋り終えると、私たちはお互いに顔を見合わせて、クスクスと笑いだした。


「ふふふ、おっかしい! 菊江さんもそうだったんですね」

「いつの時代も『あるある』は変わらないわね。でも、まだまだよ。四十路を越えると、また違う悩みが出てくるわ」

「うわあ……。勉強になります」


 思わず口元を引きつらせると、菊江さんはパチリと片目を瞑って、茶目っ気たっぷりに笑った。


「なんでも訊いて頂戴。全部、経験済みなんだから」

「ふふ……頼りになります」

「でも、いいじゃない。そんなに悩まなくても。あなた素敵な彼氏がいるのだし、今を目一杯、愉しめばいいと思うのだけれど」

「へっ!?」


 菊江さんは口元を手で隠すと、にんまりと笑って言った。


「朔之介さんの彼女なんでしょ?」

「違います!!」

「まあ、照れちゃって」

「違いますってば……」


 私は、がっくりと項垂れた。どうも、うちの店の常連客の中では、私は朔之介さんの「大切な人」という扱いになっているらしい。そのことを言われるたびに否定しているのだが、みんなニヤニヤ笑うばかりで、何度も同じことを言ってくるのだ。


 彼への恋心を封印しようと苦心しているところに、正直、これにはほとほと困っていた。青藍さんが、いままで他の女性を絶対に雇わなかったという事情もあり、ある日突然現れた私には、何か事情があるに違いないと勘ぐっているらしいのだけれど。正直、そんなの知ったことではない。私は菊江さんを恨めしげに見つめると、少し唇を尖らせて言った。


「そもそも、私と朔之介さんじゃ、ちっとも釣り合わないじゃないですか。いい加減しつこいですよ、まったくもう。どうしてそう思うんです?」


 私の言葉に、菊江さんは僅かに目を見開くと、呆れたと苦笑いを浮かべた。


「もしかして気がついていなかったの? あのね――」


 そう菊江さんが口を開いた、その時だ。


「なぁん」


 猫の鳴き声が聞こえてきたかと思うと、何かが菊江さんにすり寄っていった。見ると、それは黒猫だった。ぴんとしっぽを立てて、甘えた声を出して、彼女の手にしきりに額を擦り付けている。菊江さんはそれに気がつくと、柔らかな微笑みを浮かべて黒猫を抱き上げた。


「タマ、おかえり。あらあら、甘えん坊さんね」

「無視すんなよ、遊ぼうって~」


 そこにやってきたのは、私のボディーガードをしてくれている三毛の猫又、サブローだ。彼は、菊江さんの腕に抱かれた黒猫の鼻先に、顔をしきりと近づけている。けれども、どうやら振られてしまったらしい。黒猫はそっぽを向いてしまって、がっくりと項垂れてしまった。


 黒猫のタマは、菊江さんの飼い猫なのだそうだ。後ろ脚が悪いらしく、少しぎこちなく歩く姿が特徴的な子で、サブローとは昔なじみ。一見、とても可愛らしく見えるのだが、サブロー曰く、昔はかなりやんちゃ(・・・・)だったらしい。


「前はさぁ、鎌倉の端まではるばる鼠を捕りに行ったじゃないか。ボス猫に挑んで勝ったこともあったっけ。なのに、最近ちっとも遊んでくれない。ちぇっ。タマも歳を取ったもんだね」


 サブローはやれやれと丸くなると、ふわ、と大あくびをした。

 タマはサブローと違って普通の猫だ。しかし、齢十七歳にもなる高齢猫だった。黒々とした体のあちこちから白い毛が覗いていて、年齢を感じさせる。けれども、気持ちは若いままらしい。タマはサブローに向かって牙をむき出しにすると、威嚇音を発した。


「うっ……。なんだよ、怒るなよ。年寄り扱いしたのは謝るよ……」


 サブローは、猫又のくせにタマよりも立場が弱いらしい。ビクリと体を竦めると、私の後ろに逃げ込んでしまった。そんな二匹を面白く思っていると、ふと菊江さんが呟いた。


「この子も、早く猫又になればいいのにねぇ……。そうしたら、もっとたくさん走り回れるし、死ななくてすむのに」


 菊江さんは、ぽつりと呟くと、タマの背中を愛おしそうに撫でてやっていた。

 根っからの鎌倉っ子である菊江さんからすると、生き物があやかしになることは、そう不思議なことではないらしい。


「早く化けておいで」


 彼女は、さも当たり前のようにそう言うと、タマの背中をもう一度ゆっくりと撫でた。

 さわ、と水気を含んだ風が頬を撫でていく。木漏れ日が差し込む古びた家の縁側で、猫を穏やかに撫でる菊江さんの様子は、自然と風景に馴染んでいる。おそらく、これが彼女たちの日常なのだろう。


 老猫と老女が紡ぐ、なんとも穏やかなひととき。

 私は、彼女たちが作り出す世界がなんとなく眩しく思えて、うっすらと目を細めて、二人を眺めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ