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我儘なお客と特別なパンケーキ5

 無言で歩き出した朔之介さんの後を追って、駅に降り立つ。まだ海は見えないが、かすかに潮の香りがする。改札を通って階段を降りると、朔之介さんは慣れた足取りで歩き始めた。駅の直ぐ側にある橋を渡る。すると、遠くに海が見えてきた。


「……ただ海を眺めて過ごす日々は、酷くつまらなかったよ」


 ぼんやりと前を見つめたまま、朔之介さんは歩きながら話し続ける。その様子は、明らかに普通じゃない。


「朔之介さん!」


 焦った私は必死に彼の名を呼ぶ。しかし、聞こえないのか、はたまた聞こえないふりをしているのか――彼は歩くことも、話すことも止めなかった。


「あんなに好きだった本も読む気になれなかった。物語のなかとは言え、他人の不幸も、幸福も目に入れたくなかったからね。当時の療養所の役割は、終末医療みたいなものだ。他人に感染しないように、患者を隔離するためのものであって、治癒を目的としたものじゃない。あそこから出られた人間は、一体いくらいたんだろう。案の定、僕も――」

「待って!!」


 私は早足で朔之介さんに追いつくと、腕を掴んだ。浜辺に繋がる階段の上で急に立ち止まった私たちを、他の観光客が怪訝そうな顔をしてすれ違っていく。私は他の人の邪魔にならないようにと彼を端に引っ張ると、半ば泣きそうになりながら言った。


「苦しいなら無理に話さなくてもいいんです」


 すると、彼は一瞬動きを止めると――次の瞬間には、困ったような笑みを浮かべた。


「そんなに心配しなくても大丈夫さ。僕は、もうとっくに吹っ切れている。だって――もう、あれから一世紀以上も経っているんだ」


 ――そんなの、絶対に嘘。

 そう思いつつも言葉を飲み込む。

 しかし、それを直接言えるほど、彼と私は長い時間を過ごせていない。下唇を噛み締めて、何も言えずに朔之介さんをただ見つめていると、ふと彼は前方を指さした。


「まあ、いいよ。そんなことよりさ……見てごらんよ。ほら」


 つられるように、視線を移す。すると、その先にあった光源のあまりの眩しさに、思わず目を細めた。


「あ……」


 遠く、水平線に夕日が沈もうとしている。

 海は黄金色に輝き、波が立つたびに色合いを微妙に変えて、その煌めきは宝石のように美しく、見惚れずにはいられない。空は茜色と藍色のグラデーションを作り出し、うっすらと星が姿を現し始めている。そんな空を、鳶が気持ちよさそうに飛んでいる。

 遠くには何艘ものヨットに――ぷかり、海に浮かぶ江ノ島。

 多くの人が、波間に浮かぶサーファーが、私たちと同じ様に夕日を眺めている。その姿が逆光で影となり、まるで一枚の絵を見ているようだ。ずっと見ていたい……そう思うほど美しい夕暮れ時。けれども、眩し過ぎて見続けるのは難しいもどかしさがある。


 ちらりと、横に立つ朔之介さんの表情を伺う。彼は無表情のまま、目を細めて海を見つめていた。ここで過ごした最期は、酷くつまらないものだったと語る彼の目に、この光景はどういう風に映っているのだろう。

 私は思い切って朔之介さんの袖を引いた。そして、振り返った彼をじっと見つめた。


「事情を知らなかったとはいえ、こんな場所に連れてきてしまって、すみませんでした」


 朔之介さんの瞳が揺れる。夕日に照らされて、薄茶色の瞳はまるで琥珀色のように見える。覗き込めば、彼の本心が垣間見えるだろうかと妄想したくなるほどの美しい色。思わず、その色に見入っていると――朔之介さんはゆっくりと瞬きをして、ふっと柔らかく笑った。


「気にしてないって言っただろう?」

「いえ、それでも謝るべきだと思いました。……話してくれて、ありがとうございます」

「構わないよ。別に隠すほどのことじゃない」


 朔之介さんはそう言うと、橘さんは真面目だなあ、と苦笑いを零す。そしてまた、海に視線を戻した。


「僕のような人間は、あの時代少なからずいたんだ。けれど、鬼として『居残り』しているのは僕ぐらいのものでね。未練が多かったのは確かだけど、鬼になるとは露程にも思っていなかった。なぜだろうね。夢が叶えられなかったのが、よっぽど悔しかったのかな……」


 朔之介さんは小さく笑うと、浜辺に繋がる階段を降りていった。

 彼の後を追って、砂浜に足を踏み入れる。さらさらと細かい砂は非常に歩きにくく、えっちらおっちらと苦労しながら前へ進む。寄せては引いていく波音に耳を傾けながら、朔之介さんの隣に立った。先程まで家族連れが砂遊びでもしていたのだろう。遺された砂の城が、波にさらわれてみるみるうちに削られていった。


「あの……夢ってなんですか?」


 根掘り葉掘り聞きすぎだろうか、なんて思いつつ質問を重ねる。すると、気持ちよさそうに飛んでいる鳶を眺めていた朔之介さんは、少しおどけたように言った。


「小説家さ。読書家が行き着く夢と言えば、これに決まっているだろ?」

「皆が皆、そうじゃないとは思いますけどね。小説家……ですか」


 少し得意げに当時の夢を語った朔之介さんの表情は、晴れ晴れとしているように見える。けれども、その瞳の奥はうっすらと陰っているような気がして、胸が痛んだ。


(ええい、過去の話はもうやめよう!)


 私はギュッと拳を握ると、顎を引いて前を向いた。

 取り返しのつかないことを、いつまでも振り返っていても仕方ない。ここは未来の話をすることにしよう――。私は、彼に背を向けると、普段よりも明るい声で話を持ちかけた。


「じゃあ、今も書いてるんですよね? 小説!」


 すると、朔之介さんはすぐさま否定した。


「いや、書いてないけど……」

「ええ! なんでです? もったいない!」

「も、もったいない?」


 私は海を背に立つと、仁王立ちになる。そうして、先刻豆腐小僧がイケメンを語った時のことを意識しつつ、少し大げさな手振りをしながら言った。


「人間の時間は有限です。それこそ、人生のうちに執筆に割ける時間は少ないですよね。でも、鬼になって、不老不死になった朔之介さんは違う。これから、たっっっっっぷり時間があるんですよ。それも、明治からずっと、自分の目でこの国の移り変わりを見てきた。それって凄いことじゃないですか。生き証人どころじゃないですよ。それを作品にぶつけたら、すごいことになると思いませんか!」


 朔之介さんは、きょとんとしてこちらを見つめている。

 私はにんまりと笑うと、彼に指を突きつけつつ、更に言葉を続けた。


「鬼の小説家。面白そうじゃないですか! かつては病弱だったかもしれませんが、鬼になったおかげで、それも改善されました。チャンスですよ! やってみましょうよ。夢が、夢じゃなくなるかもしれません!」


 ひととおり言いたいことを言い終わる。しかし、朔之介さんはキョトンと私を見つめているだけで、特に反応を返さない。周囲には、さざなみの音だけが響いている。


「……」

「……」


 何も言わず浜辺で見つめ合う男女ふたり。見知らぬ観光客からの不躾な視線を浴びながら、私は背中に冷たいものが伝ったのを感じていた。


(ちょ、調子乗ったかも……!)


 恥ずかしさのあまり、頬が熱くなるのを感じながら、けれども言い終わったままの態勢を崩せずにいると、次から次へと後悔の念が沸いてくる。

 そもそも、私自身、彼氏のことをいつまでもウジウジウジウジ考えているというのに、偉そうに御託を並べるなんて、お門違いにも程がある。


 ――ああ、逃げ出したい。やめておけばよかったと顔が引き攣る。さっき口にした言葉をすぐさま撤回して、海に飛び込んでやろうか……そう思った時、朔之介さんの様子に変化が現れた。


「……ククッ……」


 どうやら、何か笑いのツボに入ったらしい。彼は肩を震わせ、口元を押さえて笑いを必死に堪えている。けれども我慢できなかったようで、数瞬後、彼はお腹を抱えて笑いだした。


「……アハハハハハ!」

「どどど、どうしたんです!?」


 よっぽど変な発言だったかと、青ざめて声をかける。すると、朔之介さんは目に涙を浮かべて――けれども、心底楽しそうに言った。


「いや……っ、君の言葉があまりにも予想外すぎて……っ、くっ……アハハハ!」

「そ、そうですか……」

「これから小説家になればいいだなんて。僕が死んでから一世紀以上も経つけれど、考えもつかなかった。あー! なんだろう、橘さんはすごいね」


(――あ。言ってよかった、かな……?)


 ほっと胸を撫で下ろす。彼の笑顔が見られて嬉しい。笑っている彼からは、先程までの陰りは消え去って、いつもどおりの穏やかさが戻ってきている。やはり、イケメンは笑顔じゃなくっちゃ。彼には暗い表情よりも、明るい方が似合うと思うから。

 私はふふんと胸を張ると、腕組みをして言った。


「私、転んでも挫けないタイプなんです。それにしても、一世紀以上も考えつかなかっただなんて……朔之介さんも、まだまだですねえ」

「ブハッ……人間の君がそれを言うのかい? もうやめてくれ、お腹が痛くなってきた……」

「このチャンスを逃す手はありませんよ。――はっ!! もしかしたら私、歴史に残る文豪を覚醒させてしまったかもしれませんね……! 賞を獲ったら、ご飯奢ってくださいよ。そうですね、回らないお寿司で手を打ちましょう!」

「や、待って。話が飛び過ぎだから!」


 ケラケラと笑いながら、夢みたいなことを言い合う。

 今にも地平線に沈もうとしている太陽の暖かい光に照らされて、お腹が痛くなるくらいにふたり笑って。今でも、この場所に彼を連れてきてしまったことを後悔しているけれど、朔之介さんの苦しい過去を知れたことはよかったと思う。


「ね、小説家になりましょうよ!」

「アハハハ……!」


 私の冗談交じりの言葉が、彼の笑顔を連れてきてくれた。

 それが胸の奥を、どうしようもなく温かくしてくれて――こんな私を、店の仲間として快く受け入れてくれた彼に、少しでも恩返し出来たかな、なんて思った。




「僕は――今まで、自分の『これからのこと』に目を向けてなかったんだなあ」


 砂地に座った朔之介さんは、しみじみとそう言うと笑みを浮かべた。そして、徐々に色を失いつつある七里ヶ浜の空を見上げて言った。


「……昔のことばかりに囚われていないで、いい加減に前を向くべき時が来たのかもしれないね」

「そうですか」


 同じ様に空を見上げて相槌を打つ。すると、朔之介さんはクスクスと思い出し笑いをすると、私に向って言った。


「――君は変わってる」

「へっ!?」


 思いもよらない言葉に、ぎょっとして隣を見ると、薄い茶色の瞳と視線がかち合ってドキリとする。朔之介さんの瞳を見ると、やたらソワソワしてしまうのはどうしてだろう。

 途端に早くなり始めた鼓動を必死に押さえ込みながら、至って冷静に見えるように努力しつつ、早口でまくしたてた。


「ま、まあ!? 変わってることは否定しませんけどね? 私ってば、ひとりカラオケ、ひとり旅、ひとり焼き肉なんでもござれな女ですから。前の婚約者にも、変な女ってよく言われて――」

「コラ。あまり自分を卑下するものじゃないよ」

「……あ。ご、ごめんなさい」


 怒られて、しゅんと肩を落とす。するとまた、朔之介さんが笑いだしたので、私も小さく笑った。

 するとその時、一層強く海風が吹いた。髪が舞い上がって、顔にかかる。思わず目を瞑ると――「失礼」と、そっと髪を朔之介さんが避けてくれた。


「君は、あやかしをもっと怖がってもいいはずの立場なのに、こんな後ろ向きの鬼にすら、優しい言葉をくれる。そういう意味での『変わっている』だよ。悪い意味じゃない。むしろ、それは君のいいところだと思うよ」


 朔之介さんは髪に勝手に触れてごめんと謝ると、蕩けるほど優しい笑みを浮かべて、私をじっと見つめている。


(……あ、駄目)


 顔が熱い。耳がじんじんする。胸が苦しい。冷たい海風に晒されているのに、じんわりと汗をかいてくる。きっと、顔が赤くなっているに違いない。


(――夕暮れの色が、顔色を誤魔化してくれればいいけれど)


 頬を手で押さえて、俯いて目を閉じる。

 ……すると、瞼の裏に、かつて私を裏切った恋人の――いらないものを見るような、どこまでも冷え切った顔が浮かんできて、すうと体が冷えていくのがわかった。

 顔を顰めて、アイツの影を蹴散らすように頭を小さく振る。そして、勢いよく立ち上がった。


(馬鹿だな。私ってば、本当に馬鹿だ)


 心のなかでひとりごちる。そして、パッパと砂を払うと、朔之介さんに声を掛けた。


「そろそろ暗くなってきました。行きましょうか」

「ああ。そうだね」


 さきほどとは違う意味で胸が苦しい。気持ちを紛らわせるように、海を背にして歩き出す。そして、道路に繋がる階段を登り切ると――そこには、見覚えのあるイケメンがいた。


「おや、奇遇だね。ふたりとも」

「それはこっちの台詞ですよ。どうしてここに?」

「馴染みの店で遅めの昼食としけこんでいたのさ。海を眺めながら美食を堪能する行為そのものが、この美しい僕にふさわしいと思わないかい?」

「はあ……」


 すると、豆腐小僧は気取った足取りで私たちに近づくと、「まだパンケーキ問題は解決しないのか」と朔之介さんに絡み始めた。


「……あ」


 また忘れるところだった。そういえば、ここにはパンケーキのアイディアを探しにきたのだ。イケメン形態の豆腐小僧に、心のなかで感謝する。お礼に、今度、彼のお豆腐を買いに行こう――そう考えていると、突然、脳内でカチンと何かが嵌まるような音が聞こえた。


「あーっ!!」


 思わず、豆腐小僧を指さして叫ぶ。


「そうか。あれがあった!! ありがとう、豆腐小僧!!」


 そして、驚いている豆腐小僧の手を掴むと、半ば無理やり握手をした。


「……ど、どうしたんだいお嬢さん。何かあったのか? それとも、頭が……」

「そうじゃなくて!! パンケーキの生地のアイディア、思いついたんですよ!!」


 私は驚きに目を見開いているふたりに、にやりと不敵な笑みを浮かべると――どんと胸を叩いた。


「きっとこれなら大丈夫だと思います。私に任せてください!」


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