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39(サーティーナイン)

作者: 浅野新

 どれほど忙しくても、月に一度は図書館へ行く事にしている。


午後六時。会社帰りに図書館へ寄った。この時間帯はいつも利用者が少ない。

がらんとした空間に一歩足を踏み入れた。

ソファにくつろいで新聞を読んでいるサラリーマンや、ファッション雑誌を立ち読みしている女性を横目で見ながら、まっすぐカウンターに向かう。

「ハイ、サクヤ」

こちらに気付いて、顔見知りの初老の男性スタッフが奥から出て来た。いつものようににこにこしながら歩いて来ると、僕の正面でぴたりと止まった。背筋を伸ばして手を前で組み、次の言葉を待っている。

めっきり増えた彼の顔の皺を見ながら、今まで彼に何十回言ったであろうこのセリフを、今日も又、言った。

「サーティーナインを読みたいんですが」

彼は笑みを浮かべたまま頷き、奥にある書庫室へ行くと、一冊の本を抱えてすぐに戻ってきた。

「どうぞ」

重そうに本を差し出す。

A4ぐらいの大きさ。

「どうも」

赤ワイン色の布表紙。

国語辞典を四冊重ねたぐらいの厚さのある本を受け取る。ずしりと重たい。

受け取る時、表紙をちらりと見た。タイトルは金色の糸で刺繍されている。

39


僕は、この本を二十年以上読み続けている。



「ただいま」

サクヤは家に帰ると、台所に向かって声をかけた。

しんと静まっている。

「あれ、ニナ? 」

「こっちよ。お風呂洗ってるの」

やや低い声が台所の奥から聞こえた。少しして四十代半ばほどの女性が出て来た。右側が少しはねている、ダークブラウンのおかっぱの髪を、さかんに気にしている。緑色の瞳がサクヤを見た。

「早かったのね。図書館へ寄るって言ってなかった? 」

「うん。でも、仕事の後ってやっぱり駄目だね。疲れて眠くなっちゃって。結局ほとんど読めなかった。今月少ないからもう少し読まなきゃいけないんだけど」

「そうね。休みの日に読むしかないわね」

「うん」

「じゃ、ご飯食べなさい。ピーターがまだだけど先に食べちゃいましょ」

食卓につくと同時に、玄関の扉が開いて金髪碧眼の中年男性が入って来た。

「ただいま」

「おかえりピーター」

「ピーター、ちょうど良かったわ。これから晩御飯食べようとしてたのよ」

「あれサクヤ、図書館は」

「あまりはかどらなかったから、さっさと止めて来ちゃったよ」

「残業続きで疲れてるのよね。でも、休日に読むそうよ」

 ニナが二人にシチューを配る。それを受け取りながらピーターが言った。

「まあ、問題ないだろう。今までが早いスピードで読んでいるんだしな。 今回ぐらいゆっくりでも。でも、」

 そこで、鋭い瞳でサクヤを見た。サクヤも臆する事なく見つめ返し、ゆっくりと頷く。

「うん。わかってる」



 翌日の土曜日、サクヤは朝一番に図書館へ行き、カウンターで〝39〟を頼んだ。

昨日と同じ男性スタッフが本を渡すと、サクヤは当然のようにカウンターの中に入り、奥にある書庫室へ歩いて行く。笑顔のスタッフがその後に続いた。他のスタッフ達もサクヤを見ても笑顔で挨拶するだけで、注意をするものは誰もいなかった。

 二人が書庫室に入ると、男性スタッフは一瞬険しい表情で広い部屋を見回した。

彼は誰もいない事を確かめると、部屋の奥にある〝関係者以外立ち入り禁止〟のドアを鍵で開けた。

 部屋は物置になっていて、黴臭く、普段全く使われていないようだった。

天井の蛍光灯がちかちかと切れかけている薄暗い空間に、古いスチール棚や掃除機、モップ、壊れたパソコン等が置いてあった。暖房が効いていない為空気がかなりひんやりとしている。さらに奥に進むと、その色あせたもの達に囲まれて、灰色のコンクリートの壁と同化したような、陰気な鉄製のドアが現れた。

スタッフが鍵を開け、中を一瞥すると、振り返ってサクヤを見た。サクヤは頷き、本を抱えたまま部屋の中へ入って行く。彼の後ろで扉が重々しい音をたてて閉まり、かちりと鍵のかかる音がした。

サクヤは一人、部屋の中に取り残された。

ぐるりと明るい部屋を見渡す。

サクヤは、この部屋を見るといつも、何故か全面真っ白なルービックキューブを思い出す。

窓一つない四角い部屋は、いつでも蛍光灯が皓々と照り、ペンキを塗った直後のような、壁と床の完璧すぎる白さを映し出している。  

床はいつもピカピカに磨かれていて、塵一つ落ちていない。

部屋の中央には古い木製の、大きな長方形のテーブルと椅子が一脚ずつ置いてある。

テーブルの上には電話、電気ポット、ティーバックとコップ、部屋の隅にはトイレの小部屋があり、二十畳ほどの広い部屋にあるのはそれだけだった。

さて。

僕はテーブルに本をどすんと置き、コートを脱いでこれもテーブルに乗せた。

あくびをしながらカップにお湯を注ぐ。

最近仕事が忙しくてあまり眠れていない。

椅子に座り、ぶ厚く重い本を引き寄せる。

ページをめくった。

最初にタイトル。39と書かれている。それだけだ。

作者名は書かれていない。昔からそうだった。

ぱらぱらとページを繰り、前回読んだ所まで来ると、僕は椅子に座り直した。

確かバーバラの結婚の話だ。

ふう、と思わずため息が出る。

彼女も遂に結婚か。二十三歳だっけ。

同じ年か。

何だか親友に先を越された気持ちになる。

本の中の登場人物とは言え、二十年以上もこの物語と接していると、キャラクター達が自分の大切な友人に思えてくる。

僕はページをめくり、本を読み始めた。

バーバラの結婚を祝福する両親、兄と姉、双子の弟達。しかし彼女と友達同然に育った年子の妹だけは素直に喜べない。バーバラも又、思い出のつまった家から出て行く事に悲しみを感じ始める。

結婚式が近付いたある日、バーバラは母親に結婚したくないと泣きつく。

母親は言う。

「場所は遠く離れていても、精神的に絶対離れられない。それが家族なの。だから、安心して行ってらっしゃい」

家族。

自分の父親や母親の事を、普通名前では呼ばないものだと最近知った。


「うん。珍しいと思った」

 親友の言葉を思い出す。

「でも、僕は良いと思ったよ。親と対等みたいでさ。実際サクヤのうちって、昔からサクヤを大人扱いしてるじゃないか。何でも好きな事させてもらえるし、内心すごく羨ましかったよ」

「トムの家はそうじゃないの」

「僕の家だけじゃなくて、どこでもそうだよ。あれしろ、これしろか、あれはだめ、これはだめ。親を名前で呼ぶ? そんな事したら殺されるね」

トムと入れ替わりに、若かったピーターの顔が浮かぶ。

 サクヤ、僕とニナは本当のパパとママじゃないんだ。いつも言ってるよね。

 うん。

 だから僕達の事は名前で呼んで欲しいんだ。ピーター、ニナとね。

 うん。わかった。

 僕は紅茶を一口飲み、さらにページをめくった。

その後休憩を挟みながら四時間ほど読書をして、図書館を出た。



 日曜日の朝は、気持ちよく晴れていて、春の訪れを感じさせた。

 サクヤとニナは食卓でパンと野菜スープの朝食をとっていた。ピーターは既に食べ終わり、新聞を広げている。

 サクヤがニナの方を見た。

「ねえ」

「うん? 」

サクヤは少しためらった。

「・・・結婚て、どう思う」

「何、いきなり。いい人でもできたの? 」

 ニナが目を丸くした。ピーターも新聞から顔を上げる。

「いや。まだ見つかってないんだけど。もう今年で二十四だし、独立した方がいいんじゃないかと思って」

 ニナは微笑んだ。

「まあ・・・。独立してほしいのはやまやまだけど。でも焦る事はないんじゃないの」

 ピーターも笑顔で頷く。

「真面目に考えてるだけ良かったよ」

 サクヤは二人をじっと見た。

 親としては正論だな。

 では。

「監視員としては、どう」

 監視員という言葉を聞いて、二人の表情が変わった。

「どう思う」

 サクヤはピーターの方を見た。

 彼は目を閉じて下を向き、ゆっくりと顔を上げながら瞳を開いた。

 彼の癖だ。

 サクヤはじっと見つめる。

 この瞬間が好きだ。

 親から監視員へと変わる、この瞬間が。

 普通の人間が、何かとてつもない物に変身するようで。

 顔を上げたピーターは、先程とは打って変わった厳格な態度で、淡々と話し出した。

「監視員としては、できるならここにいてほしい。君を監視し辛くなる。それに君も、新しい家族から隠れて39を読み続けることは難しいと思う。・・・ただ、基本的に何を選ぶのも君の自由だ」

「39を読む事以外はね」

 横から真面目な顔をしたニナが口を挟んだ。

「本来なら、サクヤ、あなたは働かなくてもいいのよ。稼がなくても三人充分暮らしていけるだけの補助は出ているわ。そうすればのんびり39も読めるんだし」

「・・・うん。分かってる。でも、仕事は面白いから。さすがに一生遊び暮らすのは気が引けるし。まあ、独立の事は、相手が見つかった時に考えるよ」

 ピーターとニナは、わかった、と頷いた。

 それからサクヤは何事もなかったかのように朝食の残りを食べ始め、ピーターは新聞を広げた。ニナは二人に世間話を始め、三人は声をたてて笑った。

 〝家族〟は再開された。



サクヤ、約束守ってくれるかい。ちょっと多いよ。三つあるんだ。

そんなにあるの。

うん。でもね、その三つだけ守れたら、あとは自由だよ。何でも好きな事ができるんだ。

ほんとう?

本当だよ。だから約束守ろうね。まず一つはね、毎日読んでる〝39〟と言う本があるだろう。

ニナがまいにちよんでくれてる本?

そう、それ。あの本はね、あれ一冊でお話は終わらないんだ。続きがたくさんあるんだよ。だから一人で本を読めるようになったら、少しずつ39を読むんだよ。できるかな。

うん。

なんさつあるの。

僕もわからないな。うーん、百冊以上はあると思うよ。

そんなにあるの。

それと、他の人にサクヤが39を読んでる事や、39の事については何でもしゃべっちゃだめだよ。これが二つめ。

ふうん。

三つめは、39の事でわからない事があっても「何で? 」って誰にも聞いちゃいけないよ。僕やニナにもね。わからない事を調べてもだめだよ。

ふうん。なんで?

ほら、「何で? 」って言ったらだめだよ。はは、三つめが一番難しいかな。

よくわかんない。

サクヤ、三つだけ、三つだけなんだ。39を読む事、他の人に39について言わないこと、39について調べない事。大丈夫、サクヤならできるよ。

・・・うん。

 でもねサクヤ、三つの約束は絶対破っちゃだめだよ。僕とニナは、君の監視役でもあるんだ。

 かんしやく。

 そう。君が三つの約束をきちんと守っているか、ずっと見張っているんだ。それに、僕達が見ていない所でも、他にもたくさんの人が君を見張っているんだよ。朝も昼も夜も、毎日、ずうっと、ずうっとね。だから約束は絶対破っちゃいけない。

 __うん。やくそくまもるよ。

 でも、やぶっちゃったらどうなるの。

 破っちゃったら・・・?

 __隠されるんだよ。



 がくん、と頭が前に揺れて、ハッと目を覚ました。

 いけない。いつの間にか寝ていたようだ。

 見られていただろうか。

 辺りをそっと確認する。染み一つない真っ白な壁は何も変化はない。

 腕時計を見た。多分五分程度だ。それぐらいなら許してもらえるだろう。

 手元の本、39を見た。

あまりページが進んでいない。

もう少し読もうと思って図書館に来てみたけれど。

 連日の残業で少し疲れているようだ。今日はあと三十分読んだら終わりにしよう。

__それにしても。

久々に思い出した。

ピーターの言葉が頭の中で響く。

__隠されるんだよ。

約束を破って隠された子供。

そう、確かにあの人は隠された。

嫌な事を思い出したな。

僕は軽く頭を振り、本のページをめくった。



 三月五日 快晴

 本日の報告

 午後六時十分 サクヤ 図書館到着

 図書館員 モーリス 応対

 39 第百八十一 を借りる。

 午後六時十五分より午後七時三十分まで特別室にて読書

 途中休憩をはさむも異常なし

 午後七時三十五分特別室より退室、39を返却 午後七時四十分退出

 本日 39 第百八十一を読破

 全て順調

 報告以上

 モーリス・マーチン



 今日も順調に終わりやがった。

 そうだよ。百八十一冊目を読破した。

 全く、ムラ気もなくあいかわらず立派なこった。

 ああ、昔からそうだ。俺はあいつをガキの頃から知っている。

 そうだよ。俺はあんたが来るずっと前からここのスタッフだからな。あいつに39を渡すのは俺の役目なんだ。

 あいつがここに来たのは九歳くらいからだったかな。最初はニナに連れられて来ていた。それからずっとここで39を読んでる。今二十三歳だぜ? 信じられないだろ。ああ、今までの奴らの中じゃ一番だ。

 俺はいつだめになるのかとヒヤヒヤしてた。最初の頃はな。

 でもよ、何故だ?

 何故彼だけがなし得るんだ?

 俺だったら気が狂っちまうわな。

 理由もわからず与えられた本を延々と読むなんて。多分一生な。こんなしょうもない本をよ。

 え? 内容? いや、知らねえよ。本人以外は読んじゃいけない事になってるからな。

 でもよ、あいつが読んだ後、毎回どれだけ読んでるかチェックするだろ。嫌でも目に入っちまうわな。

 でも本を開くと、小さい文字がびっしり並んでて、ありゃあ読む気がなくなるよ。

 家族で旅行した話とか、息子の学校での出来事とか・・・。

 普通の小説だよ、普通の。特別面白いわけでも何でもありゃしない。

 ただ、あいつはよ、人形なんだよ。中身なんかないんだ。

 自分の人生に不満もなけりゃ疑問も持たないのさ。

 それでなきゃ、どうして39を読み続けられる?

 どうして不自然な人生に疑問を持たない?

 普通なら駄目だとわかっていてもこっそり調べるものさ、主張もするさ。自分の人生だろう? それでこそ人間ってもんだ。実際あいつ以外は全員そうだった。いや、俺は全員は知らない。聞いたんだ。

 だから人形なんだよ。俺はあいつがカウンターに来る度、どきっとするのさ。丁寧な物腰でよ、必要な事以外一切しゃべらなくてよ。いつもいつもそうなんだ。何も変わらないんだ、あいつはよ。人間の匂いがしない。

 気にいらねえ、気にいらねえな。

 サクヤってやつはよ。



一週間ぶりにサクヤは図書館へ出かけた。いつも通り39を読んだ後、図書館に残ってしばらく新聞を読む。

ふと目をやると、ある広告が目に入った。

「一年ぶり待望の新刊! 新刊発売記念アルバート氏サイン会開催! 」

 アルバート。

 名前を見てサクヤは興奮した。大ファンの推理作家だった。節約の為、本を購入した事はなかったが、図書館で彼の本はほとんど読んでいる。

 開催日を見た。今週の日曜日、Tブックストアだ。ここからそう遠くはない。

 絶対行かなくちゃ。


 日曜日、サクヤはTブックストアへ出かけた。同じくアルバートファンのトムも一緒だ。声をかけたら二つ返事でついて来た。

トムの強い勧めでサイン会の一時間も前に本屋に着いたのに、既に店内にはファンらしい人々の姿があちらこちらに見える。

 二人は慌ててアルバートの新刊本を買い、整理番号をもらった。

 トムが得意げに言う。

「ほら、急いで来て良かっただろ」

 サクヤは整理番号をちらっと見た。

 偶然ってあるものなんだな。

 先着五十名様だったっけ。

「うん」

 のんびりしたら危ないところだった。

二人が雑誌等を読みながらしばらく時間をつぶしていると、

「作家アルバート氏のサイン会が始まります」

というアナウンスが流れ、急いでファンの列の中に並んだ。

 五分程してから、アルバートが姿を現した。彼はファンの前まで来ると、丁寧に挨拶し、本日来てくれた事への礼を述べた。最後に恥ずかしそうに新刊本のPRをしたのが、サクヤには好印象だった。

 挨拶が終わると、サイン会が始まった。

 先に並んだトムが笑顔で振り返る。

「なんかドキドキしてきたよ」

「うん」

 サクヤは頭の中で何を言うべきか考えていた。

 しばらくしてトムの番が来た。トムは耳まで真っ赤にしながら、昔からずっとファンです、本は全部持ってますと興奮してしゃべっている。アルバートの笑っている声が聞こえた。

 やがて、トムがサイン本をしっかり抱きしめて脇へどいた。

「次の方。整理番号を頂きます。・・・はい、三十九番ですね」

 係りの店員がサクヤから番号を受け取り、用紙にチェックをした。

 アルバートがサクヤを見、笑顔で右手を差し出す。

 サクヤも右手で握手しながら、左手に持っていた、買ったばかりの新刊本を差し出した。

「あの、密室シリーズ最高です。ずっと応援してます」

「ありがとう」

 アルバートは、慣れた手つきで本にサインをした。

「君のお名前は? 」

「サクヤです」

 瞬間、アルバートはぎょっとした様子で顔を上げ、サクヤを見つめた。眼鏡の奥の目が揺れている。しかし、ふと我に返った様子で、慌てて目をそらした。

「あー、えーと、変わった名前だね。サ・・ク・・ヤ・・だね」

 そのままサインの上に〝サクヤへ〟と書き加えながら、アルバートは小声で隣の係員に声をかけた。

「えーと、君、これで何人目だったかな」

「三十九人目です」

「あ、・・・ははは、そうかそうか。あ、じゃあ君、サクヤ、来てくれてありがとう」

 アルバートは笑いながらサクヤに本を渡した。

 列から離れると、遠巻きに見ていたトムが近付いて来た。

「なあっ、何言われてたんだよ」

「別に。名前が変わってるなって」

「なあんだ。ここらへんでアジア人は珍しくないのにな」

「うん」

本を渡された時、アルバートの手が微かに震えていた事を、サクヤは思い出していた。



サクヤが本屋へ出かけてしばらくしてから、ニナとピーターは遅い朝食をとっていた。ピーターは新聞紙をぱらぱらとめくり、ニナは台所で二人分の紅茶を入れるため、マグカップにお湯を注いでいた。

出窓からは温かな日差しが降り注ぐ。綺麗な水色の空が、絶好の洗濯日和を知らせていた。

「ニナ、サクヤはどこへ行った? 」

ピーターは今開いた新聞をすぐ閉じ、声をかけた。

「トムとちょっと出かけるって、慌てて飛び出して行ったわ。どこに行くのか聞く暇もなかった。寝坊したみたいね。その後図書館に寄って来るって」

 ニナは軽く歌を口ずさんでいる。ごぼごぼっとポットから勢いよくお湯が出るのを、満足そうに見ながら。

 ピーターは彼女を少し見つめてから、低い声で言った。

「サクヤがアルバートに会った」

「何ですって? 」

 ニナが勢いよく振り返った。あわてて片手に持っていたマグカップを脇へ置く。

「先程Tブックストアのブランカから連絡があった。今日彼のサイン会があったらしい。そこにサクヤがトムと一緒に来ていた」

「何故? 」

「それがわからない。アルバートは気味悪がっている。自分の事がばれたんじゃないかってね。彼は三十九人目だったと盛んに繰り返しているらしい。まあこれは偶然だと思うが」

 三十九人目、と聞いてニナの顔が青くなった。

「・・・それで、ピーター。何なの。何が言いたいの」

「落ち着け。僕はまだ何も言っていない。サクヤが偶然彼のファンでサインをもらいに行っただけ、又はトムの付き添いだっただけ、とも考えられる。トムはアルバートのファンらしいからな。それならサクヤが僕等に行き先を言わなかった事も、アルバートの著作を一冊も持っていない事も理解できる。しかし、これが偶然でないとしたら、あまりに怪しい行動とも取れるんだ」

 ニナの顔が青から赤色に変わった。

「つまりあなたはサクヤを疑ってるの? 」

ピーターは大きくため息をついた。

「客観的に物事を判断しているだけだ。ニナ。僕等は監視役なんだ」

「兼母親よ」

「ニナ! 」

「分かってるわよ! 」

 少しの間、二人は睨み合った。しかしすぐに、ニナの方から目をそらした。髪を神経質そうにかきあげる。

「・・・サクヤはどうするの」

「何も聞かない。あれこれ詮索すると却って怪しまれる。ただ、サクヤの今後の行動はもっと綿密に監視しなければいけない」

「そう・・・。そうね。様子をしばらく見て、アルバートには私から連絡しておくわ。でも、彼、大丈夫なの? 」

「彼もプロだ。動揺したとは言え、執筆は続けるだろう」

 ニナはため息をついて後ろを向いた。

「・・・ごめんなさい。ちょっと興奮しただけよ」

そっと涙をぬぐう。ピーターは立ち上がり、後ろから優しく彼女の両肩をつかんだ。

「大丈夫だよ。偶然という事もあり得るんだから。39の著者を調べ上げるなんて、我々でも容易な事じゃない」

 ニナは黙って数回、頷いた。おかっぱの髪が、はかなげに揺れた。



サイン会の後、トムと別れ、サクヤはまっすぐ図書館に向かった。

いつものようにカウンターで39を受け取り、初老の男性スタッフに部屋に案内される。変わる事のない、彼の張り付いた笑顔に見送られながら。

ロボットみたいだ。

無理することないのに。

机に本と、薄手の春用ジャケットを置く。

椅子に座った時、何気なく左手が机の引き出しの裏に当たった。

かさり。

紙の感触が手に伝わった。

こんな所に紙なんて貼ってあっただろうか。

手を左右に動かすと、その度にかさかさ音がする。

他の箇所も触ってみたが、その一部分しか紙は貼っていないらしい。

メーカーのシールか何かだろうか。

はがれそうだから、取ってしまってもいいか。一応、後でスタッフに渡したらいいだろう。

そっとはがしてみる。見ると、二つに折りたたまれた黄色い小さな紙にセロテープが貼ってあった。

紙を開いてみる。

40。

紙には黒い大きな文字で、それだけが書かれていた。

しばらく見つめた後、手の中でくしゃりと握りつぶした。つぶそうとした。

40。

気の強そうな目。

40。

確か僕より背は低かった。

40。

記憶の糸を自分が手繰り寄せている、否、今やそれは他の何かの力によって手繰り寄せられている。

そう、この黄色い紙切れが。

40。

嫌だ。僕は、そこへはもう戻りたくないんだ。



「サクヤ、ちょっといい? 」

 確かその時、自分はもう帰ろうとしていた。

教室内は夕焼けで真っ赤に染まっていて、校庭からサッカーをする少年達の威勢のいい声が聞こえてくる。

教室の入り口に、クラスメイトが立っていた。

「何」

一度肩にかけようとしたディパックを降ろした。

「いいから。いいこといいこと」

 気の強そうな目が笑って、手招きをする。

「僕もう帰ろうかと__」

「いいから! 」

 相手が少し声を荒げた。

 いつもは無視するくせに。

 でもここで断ると、後でめんどうな事になるな。

 黙ってクラスメイトの方へ進むと、彼は満足気に笑い、先に立って歩き出した。

 クラスメイトは理科室に入った。続いて中に入ると彼の仲間達四、五人もそこにいた。やはり呼び出されたらしい。

 クラスメイトは言った。

「皆に良いもの見せてあげようと思ってさ。言っておくけど、これ秘密だよ、秘密」

 秘密と聞いて、仲間達の目が輝いた。

 彼はずっと重そうに下げていたショルダーバックを降ろし、中を開けて、何か四角い物を取り出した。

 思わず声が出そうになった。

 赤ワイン色の表紙、辞書並みの厚さ、ずっしりとした重厚感、正にそれは、全く同じ。

 あの本だ。

 僕が小さい頃から、ずっと、ずっと読んでいる、終わりのない、

 サーティー・・・

「フォーティーって言うんだ、これ」

え。

よく見ると、確かに表紙に〝40〟と金色の文字が入っている。

40。

どういう事だ。

クラスメイトの声が遠くに聞こえる。

「この本さ、親に言われて僕が小さい頃からずっと読んでるんだけど、本当はこれの事誰にも言っちゃいけないんだ。〝40〟って知ってるか? 知らないだろ。これは他に世界中どこにも存在しないし、読んだ人はいないんだ。僕以外はね」

 〝僕以外〟という所で、彼はにやりと笑った。

「本当だよ。親がそう言ってたし、僕もこっそりネットとかで調べたんだ。本当にこの本は存在しないんだ」

 他の皆は半分疑いの目を向けながらも、彼の話に引き込まれている。

「それで大人がおかしいんだ。誰にも言っちゃいけないと言われてたんだけどさ、昔、試しに本屋の親父と小学校の担任に聞いてみた事があるんだ。40を知ってるかってね。そうしたら二人ともすごく真っ青な顔をして、〝今回は黙っててあげるから、二度とそれを言っちゃいけない〟って言うんだ。皆に言ってはいけないのに、大人は知ってるみたいなんだ。おかしいだろ。・・・いや、分からないな、二人に聞いただけだし」

「まあ、それで、僕思うんだ。この本にはきっとすごい秘密があるんだよ。本の内容か、それともこの本自体にさ。まだ誰も解いていないのか。知ってて黙ってるのか。それはわからないけど、どっちでもいいよ。秘密を暴いてそれを世間に公表してやるんだ。絶対有名になれるよ。な、面白い話だろ? 」

今や僕を除く全員の目が輝いていた。

仲間の一人が興奮した様子で尋ねる。

「その本の内容はなんなんだ? 」

「普通の家族が出てくる話。家族の成長物語、というやつかな。その話が延々と続くんだ。ああ、言い忘れてたけど、40はこれ一冊じゃない。シリーズになっていて他にもたくさんあるんだ。とりあえずこれだけ持ち出せた」

 家族の成長物語。

 同じ話__なのか?

 39と?

 クラスメイトが続ける。

「僕は40が本当にあった話なんじゃないかって思ってる。フィクションみたいに書かれているけどね。特に怪しいのが、この本に書かれていた財宝事件だ。ここに出てくる家族の子供が、小さい頃噂を聞いて、友達と財宝を探しに行くんだ。結局見つからず、チビッ子達の愉快な冒険談として終わっているんだけどね」

 そんな話。

 __あっただろうか。

 他の仲間が口を挟む。

「な、なあ、それ、読んでみていいか? 」

 クラスメイトは、にやりと笑った。

「いいよ。でもこの本の存在はもちろん、これを僕以外の人が読むのは絶対禁止なんだ。誰にも言うなよ」

 わかってる、と皆は頷く。

 クラスメイトがこちらを向いた。

「サクヤも読みたいだろ。先に貸してあげるよ」

 ほら、と本を差し出す。

 少しくすんだような、赤ワイン色の表紙。

 間近で見ても、全く同じだ。

 全く同じ。

 内容も一緒なのだろうか、39と。

 確かめてみたい。

 僕は右手をゆるゆると差し伸べる。

 本を受け取ろうとしたその時、

 ふと表紙の文字が部屋の蛍光灯の光に反射した。

 きらっと光る。

 40。

 違う、これは。

 40。

 これは。

 40。

 これは、彼のものだ。

 右手を本の手前で握り締める。

「いや、僕はいいよ」

 クラスメイトは一瞬むっとしたが、仲間の「じゃあ俺に貸して」という声に笑顔を向け、手渡した。

 彼は再び僕の方を向き、小声で脅すように言った。

「40を読まなくったって、この話を聞いた事自体が禁止なんだ。サクヤだってもう仲間なんだからな。絶対他の人に言うなよ。言ったら許さないからな」

 僕はただ黙っていた。

 学校からの帰り道、バスに揺られながら僕はずっと考えていた。

 皆はあの後、クラスメイトの家で作戦会議をする事になったらしい。

 彼はどうやってあの本を持ち出せたのだろう。

 普通図書館に本があって、読書は館内のみで行う。外への持ち出しは禁止のはずだ。貸し出しは図書館員が厳重に行っている。

 39の場合は、だけれど。

 40は、知らない。

 キーッと大きなブレーキ音をさせて、バスが停車した。おばさんと小さな子供が買い物袋を持って乗り込んでくる。

 40の事は知らないんだ。

 何も。

 バスが再び走り出す。しばらくぼんやりと、買い物袋を持った親子の楽しげな会話を聞き流す。

 ふと。

 彼は知っているのだろうか、と思った。

 本の事を他人に明かせば〝隠される〟という事に。

 彼の様子や、最後に自分に言った時の態度から見て、絶対知っているように思えた。

__言ったら許さないからな。

 ふいに、雷に打たれた気がした。

 そうだ。

 彼は知っているんだ。

 知っていて、

 __サクヤだってもう仲間なんだからな。

 皆を、僕を

 道連れにするつもりか。

 40の事は知らない。

 でも僕は、

 ぼくの39はそんなことはゆるさない。

 

バスを降りて自宅へ足早に向かう。

庭ではニナが花に水をやっていて、こちらを見ると、

「おかえりサクヤ。あら、背が伸びたんじゃない? 中学生になると早いわねえ」

と笑った。

 僕はそれには答えず、息を整えて初めてこの言葉を使った。

「監視員」

 ニナの表情が変わった。

「40を読んでいると言う人がいる」

 その日はピーターとニナに〝40〟について質問攻めにされた。僕は今日あった事を全て話した。それからは自分の部屋に行かされたのでよくわからないが、二人はあちこちに連絡を取っているようだった。

 

 そうして次の日、学校に行ってみると、

 クラスメイトはいなくなっていた。

 前日の夜、一人でコンビニに出かけてから、帰って来ないと言う。ざわめく生徒達に向かって、担任の先生は極めて冷静な態度で、

「今、警察が調べているから大丈夫です」

とだけ言った。

 あの時一緒にいた彼の仲間達も、転校や、素行不良による退学、はたまた家出等の理由で、僕を除く全員が一週間以内に学校を去って行った。その後の消息は、クラスメイトも含めて誰もわからなかった。

 文字通り「隠された」のだ。

 学校から帰ってクラスメイトの件を話すと、ピーターは無言で僕の肩を軽く叩いた。

「気にするな」

と言っているような気がした。

 それ以来、僕等はクラスメイトの話はしなくなった。



 僕は手の中の紙を、くちゃっと握りつぶした。

 その姿勢のまま、どれだけそうしていただろう。

立ち上がってカップにお湯を注ぐ。揺れるティーバックを見ながら、静かに溜息をついた。

熱い紅茶を一口飲み、僕は39を読むため再び机に向かった。



翌日、会社帰りに図書館へ寄ったのはそれに引き寄せられたからだった。

いつものように39を借り、真っ白な部屋に入る。

はやる気持ちを抑えながら、いつもと同じように、ゆっくりと本とジャケットを置き、

椅子に座った。

 左手をゆっくりと引き出しの裏にあてる。

かさり。

まさか。

静かに紙を引き剥がす。

机の下で、そっと左手を開いた。

前回と全く同じ黄色い紙。

開いて見ると、昨日と同じように黒い字で大きく書かれていた。

39 

偶然じゃない。

昨日の40の紙も、

今日の39の紙も。

わざと貼ったんだ。

誰が?

僕は物音一つしない純白の部屋をゆっくり見渡す。

この部屋は特別だ。

何もないように見えるこの部屋のどこかに監視カメラや盗聴器が設置されている。

小さい頃鼻血が出て止まらなくなった時、電話もしないのに、スタッフが飛んで来た事があった。

それ以来僕はここでも監視されていると悟った。

この部屋の監視の目を盗んで紙を貼り付ける事ができるだろうか。

ニナやピーターでもこの部屋には入れない。

僕以外には。

しかし、スタッフなら。

ここは図書館員達が管理している。

清掃と称してできない事はないかもしれない。

でも、

何故この紙を貼ったのだろう。

昨日は40。

今日は39。

明日は。

その日、僕はあまり39を読み進める事ができなかった。



次の日も仕事を早く切り上げ、図書館に寄り、例の部屋へ入った。

僕はもう確信している。

必ず、それはある。

引き出しの裏には、やはり黄色い紙が貼り付けてあった。

心臓をどきどきさせながら、ゆっくりと紙を開く。

そこにはカタカナで、小さく文字が書かれていた。

シリタイカ 

知りたいか__

心臓が、どくん、と鳴った。

知っているんだ。

直感した。

この人は、40の事も。39の事も。

僕は39を引き寄せ、本の下に紙を隠した。

本を開く。

双子の弟達の話を読もうとしたが、どうしても頭に入らない。

本を持ち直して読み始める。

__ランスは苦手な国語のテストを代わってもらおうと、ハンスに持ちかけた。これは絶対秘密だよと__

秘密。

シリタイカ

昔の記憶がゆっくりと蘇る。

誰にも言うなよ。

気の強そうな目。

「今、警察が調べているから大丈夫です」

シリタイカ

40と書かれた赤ワイン色の本。

クラスメイトが僕に40の本を渡そうとしている。

僕は右手をゆるゆると差し伸べる。

シリタイカ

40の事は知らない。

隠されたクラスメイト。

「先に貸してやるよ」

これは、彼のものだ。

でも、39の事は

僕の39は

シリタイカ

僕は本を持ち上げ、黄色い紙を静かに引っ張り出した。

シリタイカ

僕は紙に小さくYESと書き、折りたたんで引き出しの裏に貼り付けた。



それから一週間後、サクヤはあれから新しく貼り付けてあった紙の指示通り、使われなくなった体育館に来ていた。

中に入ると、真ん中に椅子が一脚だけぽつりと置いてある。サクヤは歩いて行ってその椅子に座った。

床がうっすらと白く、埃っぽい臭いがする。

「よく来てくれたね」

突然、壁のスピーカーから変わった声が聞こえた。ボイスチェンジャーを使って話しているらしい。サクヤは正面二階にあるガラス張りの放送室を見上げた。この位置からはよく見えない。

「君が勇気を振り絞って来てくれて、本当に嬉しい。いや、罪悪感を抱く事はないんだ。秘密を知りたくなるのは人なら当たり前の事、まして目隠しの人生ならね。無理もない」

声はとても弾んでいるように聞こえる。

「では約束通りお話しよう。でもその前に」

スピーカーの声は少し沈黙した。

「__君の事を知りたい。こちらは君の事は生い立ちから経歴、何もかも判っている。しかしさすがに覗く事ができないのは心の中だ。何故君は今まで言われた通りにしていたのかね? 教えてくれないか」

 サクヤは沈黙した。

「いや、そんなに難しい事じゃない。ただ、どうして、という理由を教えて欲しいんだ。どうして君が今日までの行動を取ってきたのか、いや、取ってこれたのか? 」

 沈黙。

「今日ここに来たと言う事は、ずっと疑問を持っていたと言う事だろう? それなのに何故、君は二十年以上も言いなりになっていたのかね? 調べる手立てがなかったからか? 」

 沈黙。

 声が少し苛立ちを帯びてきた。

「恐怖か? 好奇心か? 達成感か? 何故なんだ? 」

沈黙。

「何故、何故おまえは39を読むんだ!? 」

 沈黙。

 それから五分ほど立ち、スピーカーからため息が聞こえた。

「残念だが、答えてくれるまでこちらも言うつもりはない」

 サクヤは初めて口を開いた。

「姿を__見せてくれませんか。これじゃアンフェアだ」

 すると、声の調子がいきなり凶暴になった。

「お、お前はいつだってそうだ。とりすまして。でもな、そうはさせねえ。実は、今回の事はピーター達に話してあるのさ。お前が秘密を知りたがっているとな。質問に答えたら今回は見逃すようにしてやる。でも答えなかったら・・・う、うわ、何だ! 」

 突然スピーカーの向こうでバン、と何かが壊れる音がし、大勢の靴音と怒声が聞こえた。

「お、お前ら!? は、放せ、放せ!! 」

 男の声が聞こえた。

しばらくしてスピーカーから何も聞こえなくなると、右手にあったドアから、ピーターを筆頭に、十数人の警官が出て来た。真ん中に服や髪が乱れた初老の男が暴れている。

 サクヤは椅子から立ち上がった。

図書館のスタッフだ。

名前は確か・・・。

モーリス。

怒り狂っている彼の顔は、笑顔しか見た事のないサクヤにとって、別人に思えた。

彼は腕を振り回し、無茶苦茶に暴れていた。たちまち七、八人の警官に乱暴に取り押さえられる。モーリスが喘いだ。

「お、お前ら、ピーター、何で・・・」

 ピーターは冷ややかな視線で彼を見つめた。

「お前はうまくやっていたと思っていたようだがな。サクヤから40の紙切れが貼ってあったと聞いた時から、密かに図書館のスタッフ全員を見張っていたんだ」

モーリスはもみくちゃにされながら、サクヤをきっと睨み付けた。

「裏切り者!! 」

 がらんとした体育館にモーリスの怒声が響き渡る。

「お前は、お前は知りたかったんじゃないのか!! 」

「はい」

サクヤは静かに答えた。

知りたかったんですよ。

ポケットから39と書かれた紙を取り出す。

「誰がこれを書いたのか」

それを聞いた途端、モーリスは動きを止めて、目をいっぱいに見開いた。

「そ、そん・・・お、お前は、お前にとっては・・・」

青くなった彼の唇がしばらくワナワナと震えていたが、やがてモーリスはがっくりと首を折れた。

すかさず彼の両手には手錠がかけられ、二人の屈強な警官が両方から彼の腕を取った。そのまま外へ引きずっていく。

モーリスはもう抵抗しようとせず、力なく歩いて行く。丸まった彼の背中が小さく見えた。

良かった。

あなたは、怒る事もできたんですね。



「暖房も、もうそろそろいらないわね」

 ニナが石油ファンヒーターのスイッチを切った。

 午後九時を過ぎている。サクヤは会社の歓送迎会からまだ帰っていない。

 ニナはブラウスにアイロンをかけ、ピーターは山の写真集を眺めている。

TⅤもつけてみたが、すぐ消してしまった。

静かな部屋の中で、壁時計のこちこち言う音だけが響く。

 ニナが口火を切った。

「モーリスの件、聞いたわ。本当だったのね」

「・・・ああ」

「ベテランの彼が・・・。驚いたわ」

「これで〝40〟の件と合わせて、サクヤは二件摘発した事になる」

「摘発だなんて。まるで彼が監視員みたいに言うのね」

「こんなケースは初めてなのさ。自分に課された責務を全うしつつ、不適格者を告発するなんてな」

「いい事じゃない。それが上の狙いなんでしょ。それに普通ならそんな行動は世間一般どこでも見られるものよ。正義感という名目で」

 ピーターは本を閉じ、ニナの方を見た。

「ニナ、僕等は〝普通の事〟をやっているんじゃない」

「・・・・・」

「だから上は疑い始めている」

 ニナはアイロンをかける手を止めた。

「何ですって? 」

「完璧すぎる、とね。唯一の成功例だと言うのに。自分がかぼちゃの種を蒔いておいて、できたかぼちゃを違うと言ってるのさ」

「そんな」

「ああ。上も上さ。でも僕は、彼等の言い分も少しは分かるんだ。一つの物語をひたすら読み進んで行く。それも極秘で、監視と言うおまけ付だ。やっている事は単純そのものだが、簡単な事こそできないものだ。普通はこんな理由のわからない事をずっとやっていれば必ず疑問を持つ時が来る。何故こんな事を自分はしているのか。目的は何なのか、とな。そうしていつかは真実を知りたい誘惑に負ける。そうだろう? 」

「そう・・・ならない人もいるかもしれないわ。だって、そのための実験でしょう? 」

「そう上から聞かされていたけどな。でも僕は、この実験は実は逆の狙いがあるんじゃないかと思うんだ。事実、最近そのような情報も聞いている」

「逆の狙い? 」

 ピーターは言い淀み、顎をさすった。

「・・・つまり、この実験は失敗する事を前提として始められたんじゃないか、と」

「・・・そんな」

「頭でどれだけ理解していても、ふとした事で誘惑に負けてしまう。人間はそういう生き物なのさ。それなら、それはいつ、どこで、どうやって起きるのかとね」

「そんな・・・。それじゃあ、三十九人の子供達は・・・」

 ニナの目は宙を泳いでいる。ピーターはそんな彼女を哀しげに見つめた。

「予想通り、〝失敗〟した。しかし例外が一人だけ残った。サクヤだ」

「・・・・・」

「四十人の子供達を同じ条件下、同じ境遇で育てたにも関わらず、彼はたった一人残った。しかし例外は存在し得ないんだ。とすると、他に考えられる理由は一つ。彼は既に真実を知っているか、だ」

「サクヤは、あの子は知っていると言うの? 」

「ああ。そう考えると今までの彼の行動全てが納得できる」

 ニナがアイロン台をどん、と叩いた。

「うそよ! 39の事を、何もかも知っているって言うの? いいえ、そんなはずはない。そんなわけないわ。・・・じゃあ、何故できるの。何故あの子は・・・、あの子は39を読み続けているのよ!? 」

「ニナ、君・・・」

「ピーター、私もうだめ、限界よ。あなたの仮説が正しいとしても、当初の計画通りだとしても、そんな事どっちでもいいわ。__私は信じてきたのよ。でもお国の為なの!? これが!? 三十九人もの子供を犠牲にして!! サクヤだって、いつか、いつか・・・」

「ニナ」

 ピーターが立ち上がり、興奮するニナの肩に手を置こうとしたが振り払われた。

「どうせ、どうせ私はあなたみたいにドライじゃないのよ。でもね、血はつながっていなくても、あの子が産まれた頃からずっと育ててきたのよ。普通の母親のように、抱きしめたかったけど、もっと甘やかしてあげたかったけれど、ぐっと我慢してきたわ。実験に成功するようにって。そうして将来、国を背負って立つ立派な子になるようにって。でも・・・。もうそんな事どうでもいいのよ! サクヤが幸せになってくれれば。でもこんな状態であの子は幸せなの!? 親なら子供の幸せを願うのが当然だわ。あの子は、あの子は私の子なのよ!!」

「わたしたちの子だ!!」

 ピーターが大声を上げた。

 ニナが、びくりと体を震わせ、目を大きく見開いてピーターを見つめた。彼が大声を上げるのは今まで一度も聞いた事がなかった。


「もういいんだ、もう・・・」

 ピーターは、顔を両手で覆い、しばらくの間じっとしていた。

「分かっている、分かっているんだ。__サクヤに、本当の事を話そう・・・」



「サクヤ、ドライブに行こう」

 僕は読んでいた新聞から顔を上げ、思わずまじまじとピーターの顔を見つめてしまった。

 家族でドライブなんて、十何年かぶりの事だ。

 桜がきれいだから、とニナが言う。

 素直にうん、と頷いたのは、二人の顔が、あまりにも穏やかだったからかもしれない。

 車の後部座席から見える空は、ねずみ色がかっていて、時々ぽつりぽつりと窓に雨があたった。

 ニナとピーターは一言もしゃべらず、車内には静かにジャズが流れていた。

 大きな湖のある公園に着いた時は、雨はほんどやんでいた。

 陰鬱な天候と寒さのせいか、人はほとんどいない。

 僕は周りを見渡した。

「・・・あんまり桜、咲いてないね」


 僕の問いに、ニナが反対側の岸を指す。

「あっちの方が少し咲いているじゃない。行ってみましょ」

 自然に三人が横一列となって、ゆっくりと歩き出す。

 僕の左を歩くピーターを、ちらと見上げる。

 とうとう追い越せなかったな。

 彼は百八十一㎝だ。僕の年ではもう伸びないだろう。あと三㎝足りない。

 少し薄くなった彼の金髪を見る。

 彼をこんなに間近で見る事は今までなかった。

「サクヤ」

 ふいにピーターが言う。

「ん? 」

「39は、面白いか」

 少し考えた。

「普通」

「そうか」


 それからはただ黙々と僕達は歩き続けた。

 反対側の岸につくと、桜がちらほら咲いていた。桜の木の下に近付き、しばし見とれる。

「サクヤ」

 背後からニナの声が聞こえた。

 すごく近く、とても低い声で。

「見張られているかもしれないから、振り向かずそのまま聞いてちょうだい。__39の事を話すわ」

 風がざあ、と鳴った。

 何。

 39の。

 振り向く隙を与えずに、ニナが静かに話し出す。

「政府は、この国は理想的な国民を作り出す為に、ある極秘実験を行ったの。無作為に選んだ、同じ年に生まれた子供四十人に、ある本を渡し、ひたすらそれを読む事と、禁止事項を教えた。子供のうちから無意味な命令を叩き込み、ルールには無条件に従わせる事で、将来、国の言う事には何も疑問を持たない、自分の意思を持たない、絶対服従の大人に育て上げようとしたのよ」

 ニナの声が少し大きくなる。

「・・・そうして、選ばれた四十人のうちの一人が、あなた。本は子供一人に一つ与えられた。本の内容は全く同じで、番号がふられたわ。三十九番目の本を与えられた三十九人目、それがサクヤ、あなたなの」

 ニナはここで一息ついた。

「実験は赤子の時から始まっていた。あなたの本当の両親は知らないわ。政府側の人間でしょうけど。ただ、あなたの母親が、あなたがお腹の中にいた時から胎教として既に39を読み聞かせていたとは聞いているわ。子供は産み落とされると、すぐに私達の所へやって来た・・・。全員そうだったわ、実の親では情が移るだろうからって。それで私やピーター、政府側の特殊部員達は男女一組のペアになって子供達の両親兼監視役となったの。私達四十組の家族は政府の指示でお互い離れて暮らしたわ、子供達同士が出会ってしまわないようにね。中学校が偶然同じになってしまったあなたと40の子供だけが唯一の例外だったけれど」

 ニナはここで、自嘲気味に笑った。

「・・・計画なんてもともとうまくいかないものよ。同じように育てても、その子の生まれ持った性格までは変えようがないわ。・・実際、中学生になるまでに半分以上が脱落したわ。この年頃は大抵秘密という物が守れないの。〝これ内緒にしてね〟と言いつつ人に漏らしてしまう。それが脱落の一番多い理由だったわね」

「__そうしてその年代を乗り越えた子供達も、十八歳までの間にほとんどが駄目だった。自立心が芽生える年頃だから、何故この本を読まなければいけないのか、という疑問を打ち消す事ができなかったのよ。それで、こっそり調べようとして消されていった・・・」

「40の子も、そうだったな」

 ピーターがぽつりと呟く。

 全員沈黙した。

 淡い薄紅色の桜が風に揺れる。

 未だ鮮明な、十年前の僕の記憶。


 ニナが溜息をつく。

「二十歳までに残った子供は、五人にも満たなかったわ。やがて同じような理由で、一人、また一人と消え、そして・・・」

 ピーターが後を引き取った。

「サクヤ、君が、君だけが残ったんだ」

 唯一の成功例。

 ざああ。

 風がまた鳴る。

 僕の少し長くなった前髪が、かき乱されて視界を閉ざす。

 ざああ。

 僕はゆっくりと振り向いた。

「・・・なんで」

 何でそんな話を。

 見ると、ニナは、両手を口にあて、涙をいっぱいにした目でガタガタ震えていた。

「あ・・・あなたは私達の子・・・私達の子なのよ! なのに、・・・こ、こんな、こんな・・・」

 ピーターが泣き崩れるニナを後ろからしっかりと抱きとめた。彼も悲痛な表情をしている。

「サクヤ、君は唯一残った。全て順調、何も問題はない。__だから政府は、君に疑問を持ち始めたんだ」

 そこで彼は、

「まだはっきりとは分かっていないが、真の政府の狙いは」

と、実験の本当の意味を語り始めた。

 風が、風がどこかで鳴っている。

 どこか、どこか遠くで。

 ピーターの声がどこかで聞こえる。

僕は真の実験の目的を聞いた。

 そうすると、僕は実験の、

 __唯一の成功例にして、

 __唯一の失敗例。


 ピーターが僕を辛そうに見ている。

「上の動揺は隠していてもやがて下にまで伝染する。モーリスの件がいい例だ。例の、君の担当だった図書館員の初老の男性だ。__彼も君に疑問を持ち始め、勝手に独自の判断で動き出した。・・だから消された。君に罠をしかけ、規則を破らせようとしたらしいな。・・・彼は君の長年の担当だったのにな・・・、いや、だからか・・・」

 彼の後半の声が、暗く沈んだ。

 ふいにニナが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「私は賛同していたのよ。完璧な人間を作る、素晴らしい実験だって。なんとしても成功させたいって。それなのに、失敗する事が目的なんて! こんな、こんな実験なんてひ、ひどすぎるわ。いいえ、計画自体が元々誤りだったのよ。あ、あなたを犠牲になんかさせないわ」

 ピーターも頷く。

「サクヤ、君には生き残って欲しい。その為には、今の事は何も聞かなかった顔をして、39を読み続けるんだ。実験が公開されているのは表向きの理由だ。今まで通りしていれば、政府も君に手を出せない。実験自体も将来なくなるかもしれない」

 僕は二人を見つめた。

 悲痛な顔。

 ピーター。

 ニナ。

 二人に尋ねる。

「・・・一つ聞いていい? 」

 おとうさん。

 おかあさん。

「ピーター達は大丈夫なの」

 秘密を話してしまって。

 二人の顔が一瞬青くなった。しかし、すぐに平静に戻り、ピーターが言った。

少し声が震えている。

「・・・大丈夫だろう。今の話が聞かれていなければ。・・・ただ、政府は親子の情を嫌う。正確に実験ができなくなるからとな。だから一家でどこかに出かけたり、一緒に行動する事は歓迎されない。特に子供が成人してからは。・・・僕達は親の任を解かれるだろう」

 ニナのすすり泣く声が大きくなった。

「・・・そう」

 39の為に集められた家族。

  39の為に、別れる。


「ニナ、ピーター」

 僕は二人を交互に見た。ゆっくりと。

「今日聞いた事は、絶対誰にも言わないから。だから、二人とも」

 元気で。

「サクヤ!! 」

 最後の言葉を言い終わらないうちに、ニナが僕に抱きついた。

「愛している。愛してるわ!! 」

 愛してるのよ。

 愛してるのに。

 彼女のくぐもった叫び声が、僕の胸に響く。

 一瞬ためらったが、僕も彼女をそっと抱きしめた。

 微かに甘い香りがする。

 今までこんな風に抱きしめてもらった事はなかった。

 あいしていると言われた事も。

「最後に、聞いておきたい事があるんだ」

 ニナが落ち着き、僕から離れるのを待ってピーターが言った。

「サクヤ、君はどうして・・・、いや」

 そこで彼は珍しく躊躇した。

「いや、今のは、聞かなかった事にしてくれ」

 そうして僕の両肩にしっかりと手を置いた。

「サクヤ、絶対負けるなよ。意地でも39を読み通すんだ。ずっと応援しているから。僕も、ニナも」

「うん。僕は大丈夫だから。二人で幸せになってね」

すると、ピーターの目から涙がこぼれおちた。僕が見た、最初で最後の涙だった。

彼は僕を強く抱きしめ、絶叫した。

「すまない・・・! サクヤ、すまない・・・!! 」

僕は頷きながらピーターを抱きしめた。自然に涙が溢れてくる。

二ナは顔をくしゃくしゃにしながら、もたれかかるようにして僕達の肩を撫でさする。

ふと。

かつて読んだ39の中の、セリフが思い出された。

「場所は遠く離れていても、精神的に絶対離れられない。それが家族なの。だから、安心して行ってらっしゃい」

安心して、行ってらっしゃい。

さよなら。

ニナ。

ピーター。

穏やかな湖を前に、僕達三人は一つの固まりとなって、ただ、泣いていた。



翌日。サクヤが仕事から帰ると、ニナとピーターの姿はどこにもなかった。

代わりに五十代ぐらいの男女が家にいて、自分達が今度の親だと簡単に告げ、自己紹介をした。

二人ともかなりのベテランなのだろう。表面上はにこやかにしているが、この突然の変化にサクヤがどういう態度を取るのか注意深く観察している。特に男性の眼光が鋭い。

本当は人が好いのに、務めを立派に果たそうと、肩肘を張っているような。

__ピーターに似ている。

サクヤは思わず笑みを漏らし、二人に挨拶をする。

「ハイ。僕・・・の事は言わなくても知っているよね。これからよろしく」

予想していなかったサクヤの笑顔に、呆気に取られている二人を残し、

「じゃあ、図書館へ行って来るから」

と、サクヤは家を出た。

 夕闇の迫る中、図書館へと車を走らせる。

 ふいにピーターの問いが脳裏に蘇った。

 誰もが、聞こうとした。

 誰もが、探り出そうとした。

 何故39を読むのかと。

 単調で、いつ終わるのかわからない、下手をすれば死ぬまで読み続ける事になる、果てしない物語を。

 厳格な監視と、窮屈な規則の下で。

 政府の思惑なんて知らない。

 今までに挫折し、消された三十九人の為でもない。

 僕にとって、39は。

 39を読む事の意義は。


 そんなものは何もない。

39は僕の日常で、僕の現実(リアル)で、僕の人生だから。

 だから僕は、39を読むのだ。


 一つだけ、ピーターに嘘をついた。

 これがいつか、来年か、一週間後か、いや例え今日であったとしても、これ以上39を読むなと命令が出れば、僕は素直に従うだろう。

 ここまで来たら完結まで読みたい気もするし、虚しさも少しは残るかもしれない。

 けれど。

 __図書館に着いた。カウンターへまっすぐ進むと、最近僕の担当になったらしい、若い男性スタッフが笑顔で出てくる。

 けれど、39は目的ではない。

 僕は人生に39を所有している。

 __「サーティーナインを読みたいんですが」

 ただ、それだけなんだ。


39 完


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