夏
長いことお待たせいたしました。
かなり間が空いたので、今一度前回を読んでいただいたほうがよろしいかと存じます。
前回「春」はふわっとした感じでしたが、今回の「夏」はひやっとした感じです。
渉は震える。
今日の服装は、白い半袖の開襟シャツに七分丈のチノパン、素足に黒のデッキシューズだ。これから残暑厳しい屋外へ出るのでちょうど良い格好にみえるが、人を待つ彼が今いるのは広い玄関ホール。冷房がしっかり効いていて肌寒いことこの上ない。
「医療財団法人青柳会所有の役員専用高級保養所が、たった三人のゲストで貸し切り、か。人が少なければ、空調も効き過ぎるよなぁ。それにしても、こういうホテルライクな保養所や高級志向の病院とか作るから、青柳会系列の医療機関は金持ち専門だなんてマスコミから叩かれるんだよねぇ」
カッシーナのソファに座っていた渉は、3階分の吹き抜けの天井にぶら下がる大きなシャンデリアを見上げて、思わずぼやく。バカラ製の特注品が、空調の風で微かに揺れている。
「渉、お待たせ」
「随分大きな一人言だな」
「美魚ちゃん、七瀬! もー驚かさないでよー」
「あらあら、ごめんなさいね」
やってきた待ち人たちに、渉は口を尖らせた。見上げていた明るい天井が突然暗くなったと思うと、黒髪ボブカットの少女と仏頂面の青年に顔をのぞかれたからだ。
これでゲスト全員が揃った。
政財界に顔の利く青柳会幹部のお偉いさんが予約を取ろうと毎月必死になるほどの人気の保養所が、関係者とはいえ若者たちに2か月も貸しきられていようとは、誰が想像するだろうか。
渉はソファから立ち上がり、二人と連れ立って玄関へ向かう。右隣を歩く美魚の艶やかな黒髪が彼女の肩の上でサラサラ揺れる。
「昨日も思ったけど、美魚ちゃんボブカットも似合うなぁ。首筋もきれいに見えるし。半年前の冬に会ったときには、もっと長かったよね」
「ありがとう。ふふ、渉は本当に口が上手いわね。そういえば、昨日の夢にブラドが現れたの。あなたみたいに相変わらず女性の扱いが上手くて、思わず思い出しちゃったわ」
口許に手を添えて控えめに微笑む美魚は、黒いワンピースに黒いタイツ、黒いローヒールのパンプスと、全身を黒に染めていた。決め細やかな白い肌と潤った艶やかな赤い唇がより際立つ。愛らしい少女の外見と、老成した雰囲気を併せ持つ彼女に、出会った人々は一様に惹かれる。
それでも、彼女が江戸時代に人魚の肉を食べて以来現代も少女の姿のまま生き続けているとは、誰も信じないだろう。
そして美魚が口にした「ブラド」という男も、稀有な存在ということでは彼女以上だ。
「へえ、伝説のヴァンパイアと比べられるなんて光栄だなぁ。ブラドさんって1000年近く生きているだけあって、身を隠すのが上手すぎてなかなか情報は入ってこないわ、居場所は掴めないわ、謎だらけなんだよね。美魚ちゃんは幸代さんと一緒にいるときにブラドさんと会ったんでしょ?」
「おい、詮索はやめろ」
渉が首を傾げると、七瀬に睨まれた。
彼は渉と同い年で親戚の間柄である。身長は高く、黒髪短髪で、常に仏頂面だが凛々しく端正な顔立ちだ。渉のように細身で適度に鍛えた体つきではなく、しっかり筋肉がついている。
服装は美魚と合わせたかのように上から下まで黒で揃えられているが、唯一スニーカーだけ白かった。
眼光鋭い七瀬を美魚が柔らかく制する。
「いいのよ、隠しておくことでもないし。50年近く前の話ね、療養中の幸代と仲良くなったのは。お見舞いに彼女のお兄さんとブラドたちが訪ねてきたのよ。ブラドは私が『異質』だとすぐに気付いたの。それからは、時折ふらりと彼が私を訪ねてくるようになったわ。毎回居場所が違うのにどうしてわかるのって聞いたら、笑ってはぐらかされちゃった。でも、彼が『魂の伴侶』を見つけてからは会ってないわねぇ」
過去を懐かしんでいる美魚からは、ブラドへの特別な情が滲み出ている。永遠の孤独だった彼女にとって、自分より悠久の時を生きている彼との出会いは、まさに運命的だったことは想像に易い。
しかしブラドにとっての美魚は、同じ不老不死の存在としての親しみはあったものの、魂から惹かれ合う存在は別の女性だったようだ。そのときの美魚の落胆はきっと想像を絶するものだろうが、渉にとってはあまり問題ではない。
「なるほど。目当ての人を探し当てられるのは、ブラドさんの能力か何かなのかな。そうじゃなければ、ぜひ教えていただきたいね。そうそう、幸代さんとはゆっくり話せた? 亡くなる前に会えて良かったね」
「ええ。私が昔会った『璃魚』本人だって伝えたら、疑うことなく信じてくれたの。再会を心から喜んでくれた彼女の純真さは、年を重ねても変わっていなくて安心した。孫のさゆりもとても素敵な女の子で、私たちいい友人関係になれたのよ。幸代が亡くなったのは残念だけど、今年の春はとても良い季節だったわ」
美魚は親しくなった人物の死を予感できるらしい。本人は「虫の知らせのようなもの」と説明するが、死から最も遠ざけられている彼女にしてみたら何とも皮肉て残酷な能力ではないだろうか。
それだけでなく、美魚はとにかく勘が鋭い。
彼女自身は学もないただの漁村生まれの小娘だと謙遜するが、何百年も生きていれば人を見る目は当然肥える。さらに不老不死という人智を越えた存在。今更不可思議な能力が生まれたところで、普段は超常現象に懐疑的な渉ですら、疑問にも思わない。
春の日々をしみじみと思い返している美魚に、渉は羨ましそうに声を上げる。
「いいなぁ、女子高生。美魚ちゃんとさゆりちゃんと一緒にゲームセンターで遊んだ七瀬が羨ましいよ」
「女たらしの人でなし。さっきの一人言といい、もう少し自分の立場を自覚したどうだ」
七瀬って、美魚ちゃんからブラドさんの名前が出ると、わかりやすいくらい機嫌が悪くなるよねぇ。しかも八つ当たりの矛先をこっちに向けてきたし。
渉は内心面倒臭がるが、癒し系と称される柔和な顔は崩さない。真剣に応えるだけ無駄だ。いつものようにヘラヘラと笑う。
「父さんが青柳会代表なのにってこと? のらりくらりと三回目の大学生やってる七瀬だって同じようなものだろう。経済に関する論文で学会から高い評価を受けてるとはいえ、君だって世界的大企業赤城グループ一族の御曹司で後継者じゃないか」
「後継者『候補』だ。お前みたいに一人っ子じゃなくて、俺には優秀な弟がいる。あいつが継いだほうがいいくらいだ。それに、医師免許を取ったあと、ロースクールに入り直して弁護士資格も取って、何故か今はファッション誌の専属モデルをやってる、自由すぎるお前に言われたくない。『薬屋』として優秀だからって、話は別だ」
青柳家と赤城家は、美魚に対して償いきれないほどの罪がある。
直接手を下したわけではないにしろ、彼女を永遠の孤独にさせた原因に、両家の先祖たちが深く関わっているのだ。彼女に贖罪をし続ける過程で大企業になったものの、それは意図したものではない。
また、代々の長子が秘密裏に美魚を助ける役目を負っており、それぞれ役割が異なる。
青柳家は通称「薬屋」。
「薬」と称した情報や噂を配下の「薬売り」たちが世間にばらまいて彼女の痕跡を上手く消し、撹乱させる。
赤城家は通称「後始末」。
知力、権力、財力で貢献し、時には秘密裏に敵と見なした者を葬る。
両家の長子である渉と七瀬は、20歳のとき昔話で聞かされ続けた贖罪の対象者「永遠の処女」に会った。その日から、彼女を陰日向に支えている。渉たちの将来の子供が20歳を迎えるときまでその役割は続く。
「僕だって青柳会を継ぐことはまだ未定だよー。親戚も多いしね。まあ七代目『後始末』の立場としたら、時間に融通がきく学生のほうがやりやすいだろうけど、六花さんや五朗さんはちゃんと仕事と両立させてたって聞くよ? 七瀬こそ甘えじゃないの?」
「時代や状況が違うんだから、俺と母さんやじいさんを比べたって意味がないだろう。渉こそ、七代目『薬屋』ならあまり目立つことはさけるべきだ。それに俺は、28歳までは自由にしていいと言われてる」
「僕だってそうだよ。だからあと一年、興味があることは何でもやるんだ。ファッションモデルやってると、女の子受けいいしね。そうそう、TOYAMAカンパニーの社長令嬢が七瀬に会いたがってるよ。妹のほうね。かなりの美人だけど……」
「興味ない」
吐き捨てるような七瀬の拒絶は、渉にとって想定の範囲内だった。そろそろこの不毛な言い争いをやめる口実だからである。
ま、正しく言えば、「美魚ちゃん以外の女には」興味ないってことね。美魚ちゃんに恋愛感情持ってるってこと、僕が両家に話したら七瀬は即刻絶縁になるっていうのに。僕にも美魚ちゃんにもバレてないと思ってるのかな。
「ふふ、七瀬と渉ったら、年に数回しか会わないのに相変わらずお互いよく理解しあっているわねぇ」
クスクスと柔らかな笑い声で、渉と七瀬のギスギスした空気は霧散した。二人の言い合いを泰然と見守っていた美魚が口を開いたからだ。
渉は肩をすくめる。
「美魚ちゃんにそう見えるならそうなんだろうね。全く、君には敵わないな」
「私は田舎の漁村生まれの、ただの学のない女よ。長く生きているだけで、二人のような博学で容姿端麗な男性に及ぶところなんて、何一つないわ」
美魚は静かに首を横に振った。
渉がチラリと七瀬を見る。さらに彼のしかめっ面が険しくなっていたが、美魚に忠実な男なので口を閉ざしたままだった。
◇ ◆ ◇
三人連れ立って自動ドアから外へ出る。
避暑地とはいえ残暑のうだるような暑さ、セミたちの最後のあがきとも聞こえる大合唱。屋内との差が激しすぎる。
ロータリーには、黒塗りの高級車が止まっており、側でスーツ姿のがたいのよい中年男が深々と頭を下げていた。渉たちが保養所に滞在している間、外出時の運転手や館内の清掃を担当している左田だ。
他にも料理担当の中田、外部との連絡係兼看護士の右田がいる。三人とも渉の父親の個人秘書で、青柳家初代の頃から仕える「薬売り」の家柄だ。
後部座席に美魚と七瀬、助手席に渉が座る。ドアの開閉をしていた左田は、後から運転席に乗り込むと、すぐに渉へ紙袋を差し出した。中身は渉のスカイブルーのカーデガンだった。
「こちら、右田からでございます」
「ちょうど肌寒かったところだから助かるよ。ありがとう」
「恐れ入ります。それではレストランへ出発致しますね」
右田は看護師としても秘書業務においてもとても有能である。きっと帰る頃には空調も適温になっているはずだ。
車が静かに発車する。左田の運転技術は卓越しているので安心して乗っていられる。
早速着ようと渉がカーデガンを取り出すと、丁寧に畳まれたその間に封筒が挟まっていることに気付いた。
左田の様子に変わったところはない。とすると右田からだろうか。
「渉、何かあった?」
唐突に後ろから美魚に声をかけられた。その声に少しの緊張感が含まれていることに気付く。
美魚は場の雰囲気や空気に非常に敏感だ。渉の戸惑いだけでなく、手紙の内容が好ましくないものだと気付いたようだった。
「ああ、右田さんから手紙が入っていたんだ。読んでみるね……え」
「どうした」
「美魚ちゃん、落ち着いて聞いて。ブラドさんのことなんだけど」
「彼、亡くなったのね」
感情を無くした声に後ろを振り替えると、美魚は俯いたまま七瀬の肩によりかかっていた。彼女の表情は髪がおおってわからないが、赤い唇がキュッと固く結ばれているのが見えた。
渉はあまりの事態に鼓動が早まりそうになるが、息を大きく吸ってから口を開く。
「ブラドさんたちから、うちの『薬売り』に助けを求める連絡が入ったけど、合流する直前に彼らは不慮の事故に合ったらしい。左田さん、保養所へ戻って。今日のレストランはキャンセルで頼む」
「かしこまりました」
硬い表情で左田は頷き、元来た道を引き返した。渉は口元を手で覆い、眉を潜める。
危ないところだった。
こんな満面の笑顔、さすがに美魚ちゃんと七瀬に見せられない。二人の傷ついた顔をもっと間近で見たいけど。たしかこの車には防犯カメラがあるはずだから、後で確認しようっと。
人でなし。七瀬が先ほど玄関で発した言葉は、確かに渉そのものだ。美魚はよくわかっている。七瀬と渉が互いのことを正しく理解しているということを。
確かに僕は人でなしだ。でも美魚ちゃんも人ならざる存在だし、七瀬よりも僕のほうがお似合いだよね?
渉は震える。
これは悲哀からくる類いのものではない。歓喜に胸を震わせていた。死神に嫌われた不老不死の美魚も、まだ絶望を覚えるのだと判明したからである。渉の胸に暗い欲望が芽生えた。
美魚が欲しい。強くたおやかで美しい彼女が、死を超越した彼女が、絶望に顔を歪める様を見たい。
気持ちを落ち着かせるように、渉は窓の外を見た。
生命力に溢れ青々とした木々ばかりだが、そのうち赤や黄色に染まる秋がくる。そして渉の一番好きな季節、全てが枯れ果てる冬になる。
震える、色んな意味がありますね。
次回の「秋」はどろりとした感じです。




