春【画像有り】
本文最後にpeco様からの美魚のイラストあります。
さゆりは振り向く。
階段の上から、先週引っ越してきたばかりのクラスメートの白神美魚に声をかけられたのだ。
転校生はその新鮮さでいい意味でも悪い意味でも浮きやすいが、美魚はすぐにクラスに馴染んだ。艶やかな黒髪に透き通るような白い肌を持ち、小柄で一際愛らしい容姿。足に大きな火傷跡があるようで、常に透けない黒のタイツを穿いている。
性格は落ち着いていて聞き上手なので、彼女の周りには人が絶えなかった。
「白神さんの家もこっちなの?」
「ええ。さっき担任の先生から、明るいうちならこっちが近道だって、教えてもらったの。桜並木、とってもきれいね」
さゆりが通う私立の女子高は高台にあり、正門から最寄り駅に向かうなだらかな坂道の他に、体育館の裏手に200段ほどのやや急勾配な石段があり、さゆりは毎日利用していた。
行きは辛いが帰りは軽快に下れるし、何より今の季節は桜の見頃だ。両側から覆い被さるような桜の木々で、幻想的な薄桃色のトンネルに吸い込まれそう。
美魚は大きな瞳を更に見開いて、嬉しそうに見上げている。徒歩通学なのは知っていたが、クラスで所属するグループが違うため、方面までは知らなかった。
人気者の転校生との思いがけない逢瀬に、さゆりは高揚する。
「白神さんは部活に入らないの?」
「うーん、もう少し悩むわ。ね、もし良かったら、私のことは名前で呼んでほしいな」
「じゃあ美魚も、私のことはさゆりって呼んで」
「わかったわ。さゆりって百合の雅称よね。古風できれいな名前だわ」
「ありがとう。おばあちゃんが、女の子が生まれたら『さゆり』か『りお』って名前を付けたかったんだって。一人息子のパパしかいなかったから。『さゆり』は百合が好きだからで、『りおは大切な友達の名前みたい」
「りお」ちゃんとは、祖母が病気療養の滞在先で出会ったそうだ。数日間共に過ごして仲良くなったが、ある不幸な事故直後、突然お別れしてしまったらしい。できることなら一緒に学校へ通ったり街へ遊びに行ってみたかったと、今でも残念そうな祖母を思い出す。
「そうなのね。じゃあどうして『りお』ちゃんにならなかったの?」
「ママの妹が同じ名前だったの。それでも、ママはおばあちゃんと仲が良かったし、百合のように清楚で華やかな女の子になるようにと『さゆり』にしたんだって。私、見た目も性格も地味だから、名前負けな気もするけど……」
「そんなことない。さゆりはきれいな顔立ちをしてるもの。ちゃんと自分の魅力の見せ方を覚えれば、より輝くわ。それに察する能力が高いから、友達同士の会話を円滑に進めているのも知ってる。自信を持って、さゆりは素敵な女の子よ」
「あ、ありがとう」
美魚のきっぱりとした口調に、いつもなら誉められると謙遜したり否定する引っ込み思案のさゆりも、思わず頬を赤らめて素直に礼を言った。
素敵な女の子なんて、初めて言われた。嬉しくて、胸がそわそわする。
慈愛に満ちた眼差しでさゆりを見つめていた美魚だったが、前方から階段を上ってきた男に気付き、声をかけた。
「七瀬。どうしたの?」
「散歩。そこの教会に」
短く返した男は、さゆりたちが下りてきた方ではない、枝分かれした別の階段をあごで指し示した。
まるで俳優のように整った容姿の男だが、無表情なので冷たい印象を覚える。少し短めの黒髪に切れ長の瞳、黒いシャツにジーンズ、スニーカーだけが白かった。
美魚はおどおどと自分の背中に隠れるさゆりに向けて、安心させるように微笑んだ。
「驚かせてごめんなさいね。彼は親戚の七瀬。大学生で、近所に住んでいるの。この子はクラスメートの桃田さゆりちゃんよ」
「こ、こんにちは」
「ああ」
「七瀬って口数少なくてぶっきらぼうだけど、本当は甘いものが大好きで優しいのよ」
「余計なこと言うな」
「ふふ。じゃあね、七瀬」
「ん」
七瀬に手を振り、美魚は軽やかに階段を下りる。さゆりも会釈して続こうとしたが、視線を感じ、そっと七瀬を盗み見た。
七瀬は美魚を見下ろしていた。
彼の甘く切ない表情と熱い視線に、さゆりは衝撃を受ける。
その狂おしく愛しく思うさまは、心底美魚を渇望しているように見えたから。
男の人って、あんな顔、するんだ。
女子校育ちでまだ恋を知らないさゆりは、見てはいけないものを見てしまったと、慌てて上機嫌な美魚の隣に並ぶ。熱に浮かされたように頭がフワフワする。
風が桜の花びらを散らし、ついでにセーラー服の襟やスカートをはためかせた。さゆりと美魚はきゃあと声をあげ、手のひらで押さえる。
さゆりがもう一度階段を見上げると、そこには誰の姿もなかった。
◇ ◆ ◇
その日を境に、さゆりと美魚は急速に仲を深めた。
目立つことが苦手なさゆりを気遣って、美魚はクラスではほとんど話しかけてこない。さゆりが部活がない日に近道の階段で待ち合わせて、他愛のないおしゃべりをしたり、時には路地裏のカフェに寄ってお茶をしたりした。
『何だか秘密のデートみたいね』
美魚がいたずらっ子のような顔で微笑んだ。さゆりはうっとりと頷く。
春の穏やかな気候と共に、美魚と過ごす楽しい日々があっという間に感じ、いつの間にか五月のゴールデンウィークに入った。
「おばあちゃん!」
「さゆちゃん、里奈さん、来てくれてありがとうね」
「私はお医者様にお話を聞いてきますね。さゆり、おばあちゃんと待ってて」
さゆりは母の里奈と共に、父方の祖母である幸代の見舞いに訪れている。幸代の一人息子である父は急な出張で来れなかった。
定期的に電話はしていても、顔を見るのは一月ぶりだった。かなり痩せてしまったが、幸代の元気そうな顔色に、さゆりは安心する。
さゆりは幸代の車イスを押して、見舞い客にも開放している病院の玄関近くのカフェへ向かった。さゆりのレモンティーと幸代の温かい緑茶が置かれ、二人して一息ついた。
「二年生になって、クラスには慣れたかしら?仲良しのお友達はできた?」
「うん!一年からの友達とも一緒だし、春から転入してきた子とも最近よく遊ぶの。ほらこの子、白神美魚ちゃん。昨日はね、映画を観に行ったんだ。この男の人はね、七瀬さんっていう美魚の親戚。たまたま駅で会って、美魚が無理やり付き合わせてね……おばあちゃん?どうかした?」
さゆりはスマホを操作して写真を見せた。そこには仏頂面でそっぽ向いた七瀬、その頬を指でつつく美と、そのやりとりが楽しくて思わず笑ってしまったさゆりの、スリーショット。
最初は緊張したが、七瀬は意外と気遣い上手だった。それに我関せずな態度だったので、さゆりはいつしかリラックスして遊ぶことができた。
さゆりは思い出し笑いをしていたが、食い入るように写真を見つめる祖母の様子に驚す。
幸代は画面から目を離さず、真剣にさゆりに問いかける。
「さゆちゃん、この女の子の名前、『魚』という漢字が入ってる?このナナセさんという人は、漢数字の七?」
「『美』しいに『魚』で美魚で、漢数字の『七』に瀬戸内海の『瀬』で七瀬だよ」
「……まさか……そんな」
「大丈夫?看護士さん呼んでこようか?」
真っ青になった幸代は息が荒くなってきた。心配になり、人を呼ぼうと腰を浮かせたさゆりだったが、幸代は首を横に振る。
「いいえ、それよりもこの子に今すぐ会わせてほしいの」
「えっ、今から?」
「後生だから、お願い」
「う、うん。わかった、連絡してみるね」
祖母の迫力に気圧され、さゆりはその場で美魚に電話をする。たまたま七瀬と近くにいるとのことで、10分ほどで二人が現れた。
美魚は黒地に白のドットのワンピースに黒のサンダル、七瀬は白い襟付きシャツにチノパンと、二人ともシンプルながら非常に似合っている。美少女と美男子の登場に周りが騒ぐかと思いきや、いつの間にか辺りに人はいなくなっていた。
「りおちゃん……しんごさん……」
幸代は手を伸ばし、美魚と七瀬を交互に見据え、震える声で呟いた。美魚が幸代の手を取りながら、懐かしそうな表情で微笑んだ。
「こんにちは、白神美魚です。さゆりさんにはとてもお世話になっています」
「みお、さん……?」
「さゆり、幸代さんと二人で話してもいいかしら?伝えることがあるの」
「え? う、うん、じゃあ私はあっちのベンチにいるね」
「俺は電話してくる」
さゆりはぎこちなく頷き、席を立つ。美魚にも祖母にも聞きたいことはたくさんあるが、場の雰囲気に飲まれた。七瀬はスマホを操作しながら離れる。
病院の玄関脇のベンチからは、会話は聞こえないが二人の姿はよく見えた。美魚が微笑み、幸代は涙を流し、それを美魚が労る。
一体、二人の関係性は何なの? 美魚は私がおばあちゃんの孫だと知っていたの? 何より不思議なのは、どうして美魚はおばあちゃんの名前が「幸代」だと知っているのかしら?
さゆりの頭には疑問が次々と浮かぶが、誰かと話す七瀬の声がうっすら聞こえてきた。
『ワタル、お前のところに行くまで……繋ぎの住み処の用意……ああ、会えた……』
何の話だろう。さゆりの意識が七瀬に逸れている間に、美魚が慌ててさゆりに駆け寄ってきた。
「さゆり、看護士さんを呼んで!幸代さんが!」
◇ ◆ ◇
幸代が息を引き取ったのは、それから5日後のことだった。
母によると、私には知らされなかっただけで、幸代の死期は近かったらしい。あの日母は、医者からもって後数週間との宣告されたそうだ。
葬儀、通夜と慌ただしく行われ、ようやく学校に復帰したときには一番に美魚を探した。
彼女たちが病院を訪れた日、幸代が担架で運ばれるなど現場が混乱している間に、二人は消えていたのである。その後は連絡もつかなかった。
まさか、また転校していたとは。
担任に言われたとき、驚きと共に違和感も覚える。クラスでは誰一人と美魚の話をしていないのだ。
それもそのはず、クラスメートの一人が英会話教師と隠れて付き合っており、この度妊娠して籍を入れることになったという話で持ちきりだった。さゆり以上に美魚と親しく関わった人はいないようで、1ヵ月と少ししかいない転校生のことなどいなかったも同然の扱いである。
ぼんやりと一日を過ごしたさゆりは、帰り道にいつもの階段を一人で下りた。桜はもう散っていた。
美魚や七瀬さんは一体何者だったのかしら。今までのことも、何だか夢を見ていたみたい。おばあちゃんは美魚と何を話したんだろう。美魚と七瀬さんは今も一緒にいるのかな。
初めて会ったときの美魚と七瀬を思い出す。自然と足取りが速くなる。胸の鼓動も高まる。
美魚に会いたい。とても会いたい。あんなに素敵な女の子、他にいないわ。七瀬さん。かっこよくて寡黙で美魚に夢中で。美魚。どうしておばあちゃんの大切な友達ってあなた本人じゃないの。美魚。年を取らないなんて、昔おじいちゃんが話してくれた人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼伝説のよう。ああ、それでも。美魚。あなたが何者でもいい。私はあなたが好き。一番の友達よ。
いつの間にか、階段の一番下にいた。ほとんど駆け下りていたので、ハアハアと荒い息が止まらない。
さゆりは振り向く。
そこに誰もいないことはわかっていた。あるのは葉桜の青々とした、先の見えない緑のトンネルだけ。
息を整えたさゆりは制服の中を汗がつたうのがわかる。日差しは暑く、風が涼しかった。
夏は近い。
美魚
七瀬
(イラスト:peco様)