EP9
次第に撫で肩である僕の着ている服がずれてきているのを嫌でも感じるようになってきた。
どうやら僕の着ている服もこの場から今すぐに逃げ出したいようだ。
「あの、すみません。自分、そろそろ帰ってもいいですかね?」
もはや大企業の――、などといった肩書などの一切をどこかへ忘れてしまった僕は遠慮なく帰りたいことを告げた。
ここにいることに何も価値が見いだせないと感じたからである。
正確には、これ以上いても時間の無駄であると判断したまでだ。
すると娘に覆い被されたままの状態で、娘の胸が視界の邪魔をしている為かこちらからは顔面の片方が見えない状態で、賑やかな雰囲気から一変して静かに目をつぶって遠藤父は口を開いた。
「それはいけない。いけないよ斉藤君。君には晴香を助けてもらったという恩を尽くせていないからね」
それはいらない。いらないよお父さん。いくら胸に顔が浸食されていようともあなたの人柄は十分に分かったつもりですから。とは言えなかった。
ここは恩着せがましくじゃあさっさと早くしろよと多少がっついてもいいところなのだろうが、なんだかそれは人として間違っているような……、でもまともに対応するような相手でもないような――、そんな葛藤に見舞われていた。
でもよかった。
もしこの茶番が恩返しの品なのだと言われようものならきっと僕は全力で入口の扉を蹴破っていたに違いない。
違いないといいつつ、行動を起こせるほどの度量は持ち合わせていないのだけれど。
あぁ……、さっさともらえる物をもらって帰りたい。
「恩だなんて。確かに僕も逆の立場でしたらきっとそうしていたかもしれませんが、あえて言います。勝手にやったことなのでお気になさらないでください」
あぁ、でも金一封なんて厚かましいことは言わないから高級な茶菓子一つでも貰えたら嬉しいなという心の声が漏れそうになるのを堪える。
「あら、斉藤君」
さきほどまで親父に覆い被さっていた遠藤さんがゆらりと立ち上がり、僕に声をかけた。
心なしか遠藤父の表情が寂しげに感じ取れるが今のは見なかったことにしよう。
「なんだい」
遠藤さんからの呼びかけに応じるようにして口を開いた。
「無欲なのね。今ならあなたのしたいことをなんでも叶えてあげられるというのに」
そう言ってクスリと笑う遠藤さんの姿が妙に妖艶だった。
「なんでも?」
なんでもっていうことは、なんでもということなのか?
深く考えることなく思わず僕は聞き返してしまった。
「えぇ、なんでも」
その問いに対して遠藤さんはすぐに返答してくれた。
なんでもって聞いたらまず思い浮かべるのは欲しい物だよね。
実はそろそろ家で飲むコーヒーメーカーが欲しいと思っていたところなんだ。
あとは新しいジャージとか、家電機器とか――、……。
……。
少し考えてから思った。しょぼいな僕、と。
思わず自分自身のしょぼさ加減にため息をついてしまう。
「……別にいいかな」
結果、少しばかり名残惜しいけれどせっかくの申し出は断ることにした。
「そう――。無欲なのね」
遠藤さん、僕は君が思っているほど無欲じゃないよ。
僕はただただ喉から手が出そうな状況を堪えただけに過ぎないのだ。
逆に恩を売ることになろうものなら後々面倒くさそうというのもあるのかもしれないけどね。
「無欲かもね」
ただ、欲しい物も言えない小心者な自分は確かに無欲なのかもしれない。
言わない、言えないから何も手に入らない。
そして言わない欲を満たしてやがて手に入る物といえばそれは無でしかないのだから。




