EP1
そうしてまったりとした穏やかな時間は体感しているよりも早く過ぎ去っていく。
壁掛けの時計にふと目をやると既に12時になろうかといったところである。
「そろそろ行く準備しないとなぁ」
背もたれに全体重を掛けて背伸びをしながら誰に言うでもなく呟いた。
だからといって別にバイトがだるいというわけではない、むしろ僕にとってバイトはある意味楽しみなのだ。
そういえば働く事が楽しいとかおかしいんじゃないかとまだ付き合いが浅い頃の要に言われた事がある。
それに対して一時間事に頭の中で賃金勘定をしていると無意識の内に楽しくなってしまったと僕は答えた。
そしていつからかその稼ぐという感覚が何ともいえない楽しみとなり、勤務態度を向上させる事で時給が上がることを知り"しっかりものの斉藤君"を築き上げたに至ったのである。
本日のバイト内容は先日の木下さんも働いている喫茶店での受付件、ホールでの配給がメインだ。
後一時間後には店に着いて制服に着替えていないといけないが、僕の家からだと普通に行っても片道10分とまだまだ時間に余裕がある。
しかし、これ以上家でやることがなくなってしまい時間を持て余すだけになってしまったため少し早いが行こうと思う。
いつもはボサボサになっている髪にアイロンを当ててワックスで整える。これも時間が経ってくるとネトネトするしあまり好きじゃないのだけれど店長に勧められ、断るわけにもいかずバイトの時だけはセットする。
まだ不慣れなせいでもあるが、たまに耳や首筋に熱々のアイロンが当たって嫌な思いをするし面倒くさい作業をしなければならない。
それでも喫茶店用の制服が用意されているので私服に気を使う必要が無く、ここだけはいつものジャージにパーカー姿で僕は家に鍵を閉めた。
駅前のおしゃれなレンガ道とモダンな街灯。
そこに連なるようにして様々な飲食店が立ち並ぶ一角に僕のバイト先がある。
周りの建物と同じ造りをした店前には宣伝用のボードを立て、今日はカプチーノのタイムセールをしていると可愛らしいイラストと共に表記されていた。
店の名はバード。鳥じゃなくて詩人の方であるようだが、深い意味は知らない。
その店の正面より右手に細い路地があり、そこには表の華やかな道には似つかわしくないゴミ箱が置いてあったり従業員の制服が干されている。
そこを抜けると1つのドアがあり、ここが従業員の勝手口となっているのだ。
ガチャとドアノブを回せば店内に溢れる珈琲の香りが鼻を燻る。
「あら、一樹君じゃない。随分と今日は早いのね、まだ時間まであるわよ?」
「里奈さんおはようございます。家に居ても時間を持て余してまして、早く来ちゃいました」
勝手口から直通したのは店の休憩室、そこには既に先客がいたようで店長の奥さん、里奈さんが雑誌を読みながらソファーに腰を掛けていた。
「そうなの?じゃあ少しおばさんとお喋りでもする?さっきまでお昼時でお客さんの対応に忙しかったんだけど、今は落ち着いてるから」
やることなくて、と手元にあった雑誌も読み飽きたのか机にパサと置いて里奈さんは言った。
しかし、この里奈さん。いつも自分のことをおばさんというけれど実際の年齢は27歳であることを本人に秘密だが知っている。
30手前とは思えないほどの若々しい容姿をしており、正直私服で大学にいたならば生徒と間違えられてもおかしくないと思う。
茶色に染まったウェーブの効いたロングヘアに薄い楕円のメガネを掛けて、珈琲と雑誌が良く似合う女性である。
「ええ、お願いします。でも、僕はもう話題なんて持ち合わせてないですよ」
「あら、いつも一樹君の豆知識は楽しみにしていたのに、残念」
あらあらとどうやらそれなりに本気で残念なのか、肩を落として里奈さんは言った。
「すみません、また仕入れておきますんで」
「それじゃあ私から一樹君に質問してもいいかしら?」
「ええ、どうぞ。そのまえに僕は着替えてきますね」
「待っているわ」
里奈さんとの挨拶を済ませ、奥にある男子更衣室へと僕は向かった。
更衣室では特に何事もなく自分のロッカーに入った制服を手に取り素早く着替える。
もうかれこれ長い付き合いになる茶色と白がマーブル状になったTシャツと黒のズボン。
そして調理場に立つわけではないが全員に白いエプロンの装着し、この制服とエプロンを着用して初めて店員として店に立つ事が出来るのだ。
「お待たせしました」
更衣室から出た僕は里奈さんの正面のソファーに腰を掛けた。
「うん、そうしたら何から質問しましょうか」
僕が出てきた事を確認した里奈さんは両手を合わせながら言った。
「答えれる範囲でお願いしますね?」
冗談交じりに僕は里奈さんに返すと
「えー、どうしよっかなぁ」
えへへーと笑った。
まじかくそう、可愛いぞこの27歳、くそう!人妻だけど!!
「んーと、そういえば。一樹君は彼女とか作らないの?」
やっぱりそっち方面かと僕は正直に思った。
「一応、高校生の頃はいたんですけどね。でも今は大学とバイトで忙しいですし」
「一樹君、カッコイイし優しいからモテると思うんだけどなぁ」
「いやいや、店長に教わるまでワックスの付け方すら知らなかったんですよ僕、それに友達でカッコイイのが常に隣にいるんでダメですね」
ふと要の顔を思い出すがどこかに逝けと念じる。
「この前うちの店に来てくれた男の子だよね、んー。私は一樹君の方がカッコイイと思うけどなぁ」
お世辞と分かっていてもこんな美人な人から言われると嬉しい物だなと率直な感想。
「ここだけの話!結構、このお店で一樹君って人気なのよ?」
「ちょっと、里奈さん?そんなに持ち上げても何も出てきませんよ」
何だ?欲しい物でもあるのだろうか?僕で買える範囲ならこっそり買ってあげてもいいんですよ?
その後も何故か僕が褒めちぎられるという謎の会話へと発展していって収拾が付かなくなりそうな時、ガチャとドアが開く音がした。
「おうおうカズ君。人の嫁さんに手ぇつけるたぁやるじゃねぇか」
「あぁ、店長。おはようございます。助けてください」
大柄の男らしい風貌に髭を拵え、コック帽と同じ制服を着た男性が休憩室に入ってきた。
この人が喫茶店バードの店長、田村隆二さんである。
名前は知っているけれど、まだ店長としか呼んだことが無いしそれにもう慣れてしまった。
「嫁さん惚れさせて助けてくださいたぁ贅沢なやろうだな、ええ?カズー?」
入ってくるや否や里奈さんの褒め殺しから助けを乞うたのに何故か羽交い絞めにされていた。
「あの、店長痛いです」
僕の首より太そうな腕がしっかりと首にキマり、眼鏡はズレるし酸欠になりそうになるし何より、……痛い。
パシパシと太い腕を叩いてギブアップの合図をする。
にっこりと笑っている里奈さんは止めてくれそうに無い。
「おいおい、ちゃんと飯食ってんのか?ええ?」
お次はグリグリとせっかく教えてもらった髪の毛のセットをぐしゃぐしゃにしながら僕の頭を撫で倒す。
「はいー、おかげさまで食べられていますよー」
成されるがままにされて、髪の毛は爆発しているし少々脳がぐわん揺れたがしかし、それを一切、全くといっていいほど気にもせず店長は僕を再びソファーに座らせて僕の髪型のセットを開始するのであった。
筋骨隆々な店長に髪の毛をセットされるひょろひょろの僕。
なんという絵だ。
こんなゴツイ男の人に里奈さんという可愛らしい奥さんが出来るなんて、羨まけしからん。
しかしゴツイだけではなく髪のセットもそうだが珈琲をはじめ、料理まで出来てしまうのだから実際器用な人なのだと思う。
人は外見で判断しちゃいけないの代名詞を店長に与えてもいいんじゃないかな。十中八九、初めて見る人はプロレスラーと答えるよ。
ソファーで髪をセットされていると良い時間になったのだろうか、勝手口のドアが開く音がした。
「あ、店長。おはようございます」
「おぅ、ちーちゃん、おはようさん。今日も可愛い私服だなおい」
「えへへ、これ買ったばかりなんですよ!斉藤さんもおはよう!」
入ってきたのは"ちーちゃん"と親しまれる女性。
つい先日ボーリングをご一緒することになった木下千尋さんである。
「うん、おはよう゛ッ!!」
首を曲げて木下さんの方向を向こうとしたら店長にガシッと頭を両手で掴まれて正面に戻される。
どうやらまだセット中だから動くなとのことらしい。
「あーっ!店長、今日の斉藤さんのヘアスタイル凄く良い!良いですよ!!これ私的に凄く来てます!!」
「だろ!?さすがちーちゃん分かってんな!昨日読んでた雑誌に載っててよぉ、絶対カズに似合うと思ったんだよな!!」
僕は着せ替え人形か何かかな?
男の人形……、あぁ余計な事を考えて自滅するのはやめておこう。
「これで眼鏡をやめてコンタクトにしてくれりゃあ言う事ねぇんだけどな」
「そういえば斉藤さんの眼鏡外したところ、見た事ないなぁ……」
ちょっと。チラチラとこっち見て来るのやめてくれない?
いや、別に外さないからね?視界が悪くなるだけだから。




