僕にはどちらが本物の彼女なのか分からない
季節は秋、大学2回生として学生ライフを謳歌している真っ只中。
大きな階段式のホールで大学の講義を受けていた僕は何度目かの大きな欠伸をしてしまう。
勿論、モラルを考えて口には手を当てているのだが、睡魔が襲ってくる間隔がだんだんと短くなってきているように思えた。
「市場調査に置いて重要なのは――」
延々とマーケティングに関する内容を語る50歳代の男性教授の話が耳をすり抜けていく。
母国語であるのにも関わらず何を言っているのか理解しようとする気力すら出てこない。
重たい瞼を凝らしながら前を眺めると教授の後ろにある大きなスクリーンには何やらグラフが載った書類がスキャンされ、でかでかと映されていた。
本講義では同じ資料を生徒達にも配布しており、僕の手元にも開いているページは違うが同じ物が届いている。
「おい、一樹」
再び見当違いなページに目を移してうたたねに入ろうとしていたところで隣の席にいる男性から僕の名前が呼ばれた。
僕だけに聞こえるようなひそひそとした控えめな声量である。
1時間半に渡る講義が終わったのかなと期待を込めて腕時計を見るが、時刻を指し示す針はまだ講義が始まってから半分と少しを回ったというところで、折り返し地点に差し掛かっていたところである。
「なんだい、まだ終わっていないじゃないか……」
期待していたのにと隣の今風に整えられたアシンメトリーに茶髪。
伊達メガネを掛けた俗にいわゆるイケてるメンズ、橋爪要に文句を言った。
対する僕はメーカー不詳のジャージにパーカー、少し長めの髪の毛はドライヤーで乾かしただけでセットせず、髪も染めず。
掛けている薄型のメガネはしっかりと度が入っており伊達ではない。
家かな? と言われても否定出来ないような、脱力しきった格好で講義を受けていた。
「今日、レポート提出らしいからちゃんと写しとけって。ほら」
要曰く、今日はどうやらたまにある出席確認も含めた突発的なイベント、レポートの提出の日であったようだ。
一応はサボらずに出席日数を守ってはいるのだが、ここで提出しなければ途中退室と見なされせっかく大学へ来たのに欠席扱いへと早変わりになってしまう。
見かねたのか要が素っ気無しにも寝ていた僕にさりげなく自分のノートを渡してくれた。
「持つべきものは友だよね」
先ほどまでの睡魔はどこへやら。
調子の良い事を言いながら、しっかりと受け取りいそいそと残り時間を確認しつつ現在進んでいるところまで要のノートを写させてもらうことに精を出した。
氷河期に突入していた僕のノート上では、まるで高度経済成長を迎えたかの様な急激なインフレーションをみせている。
何も考えず、しかしペン先は止まる事を知らず無地のノートをボールペンのインクが染めていく。
「ほんと、毎度毎度その集中力だけは関心するよ」
呆れたような声で肘付きながら要は僕に悪態を付くが教授のお話同様、生憎と僕の耳は都合の良いことしか聞こえないし、反応しないのだ。
今日の講義はどうやら気合いが入っていたのか長文が多く見受けられる。
これは僕に対する冒涜なのだろうか?と懸念を抱かずにはいられない。
書き写すのにだって労力が掛かるのだ、僕の指から腕に掛けてアドレナリンが溢れきっている。
この労力の先には何があるのだろうか。
いやわかっているともさ、単位でしょう?
「ねぇ、要」
そんなつまらない自問自答が頭の中を過ぎりに過ぎるので、目線はノートから移さず、手も止まらせずに要に声を掛ける。
何か面白可笑しい興味を惹くようなエピソードを語ってもらおうという魂胆だ。
「んー?」
しかし思っていたような爽やかボイスではなく、間延びした返事が返ってきた。
どうやら机に向かって何かに集中しており、こちらに見向きもせず返事をしているようだ。
「……何を書いているんだい?」
横目で見るとまた何かノートに色々と書き込んでいるではないか。
おいおい、もしやレポートの追加等とは言わないだろうなと思わずペンを止めてしまった。
もし本当にそうなら必要以上に気が滅入るので勘弁被りたい。
「あぁ、インターンシップの報告書さ」
半ば諦めた気持ちで返事を待つと、意外と別件であることに安堵した。
そしてそういえば要が夏休みにどこかの企業へ課外実習へ行くって言っていたなと思い出す。
イケてる上に学業優秀とか何を目指しているのだろうかこの男は。
「インターンシップってあれだろう?選択した企業に行ってお試し入社するみたいな」
言ってから思ったがかなりアバウトな、的を得ているような得ていないような内容だった。
でもあながち間違えてはいないだろうし、ただの会話にそこまで気を使う必要はないので気に留めないことにする。
「まぁ、そうだね。俺は営業に配属されてさ、社員の方の後ろについて挨拶廻りすることがほとんどだったんだけどな」
そこからは、有意義な体験だったようで思い返すことが多いのか素敵な笑顔を浮かべていた。
あぁ、眩しいなぁ。要君や、君を見ていると蕩けてしまいそうだ。
結果、こちらの思惑通りに要は色々と語り始めてくれたのだった。
どうやらその企業にはうちの大学からだけではなく、他の大学からも結構な数の学生が来ていた様で活動期間中は共にしたようである。
その際に知り合った学生たちとも連絡先を交換したらしく、今も尚、何かと機会があれば意見を交換したり交友の幅を広げているらしい。
実に、健全な学生生活を送っている要が眩しくて、……眩しい事この上ない。
適当な相槌を打ちながら音楽代わりにしていた要の話は終わり、僕に
交代だと告げるかのように話題を振ってきた。
「そういう一樹は夏休み何をしてたんだ?」
ただの話題返しのつもりなのだろうが、その質問は僕に対しては野暮ってもので何をしていたかと言われれば答えることは一つしかないのだ。
「ん、バイトの掛け持ち」
これ以上語る事は何もないのだ。
あえて続けるとするならば、何の為に勤労し賃金を稼いでいたのかというところに焦点を当てなければならなくなってしまう。
え?聞きたい?やだよ恥ずかしい。
「お前ってほんと、らしいよな。バイト中が一番輝いているってどういうことだよ……」
要は小さく溜め息を漏らし少々呆れながら僕に対する個人的な評価を下した。
というのも以前、バイト先の飲食店に要とその知り合いらしき人たちが偶然来た事があったのだが建前上、"しっかりものの斉藤君"で通っている僕は猫を被った超イケてる店員を要の前で演じてしまったのだ。
いや、立場上振舞うしかなかったのだ。
知人と言えど客は客なのである。
「僕の秘密を知った罪は、重いぞ?」
少し意味ありげな雰囲気をかもしつつ、いや全くそんな雰囲気は出ていないのだけれど、あまりそのことに触れるなと警告する。
まぁ、別段そこまで隠しているわけでもないのでいいのだけれど、バイトしている姿って知られたら恥かしいじゃん?照れ隠し的な。
「そういやさ」
レポートを書きながら今度は要が僕に話しかけてきた。
「なんだい」
僕も要のレポートを写しながら声だけで答える。
端から見れば両者とも勤勉青年に見えるのだが、実際は別の課題をやっているイケメンとカンニングをしているだけ僕は、この講義において比較的真面目ではない分類に入るだろう。
閑話休題、要がせっかく僕に話題を振ってくれるのだ。
貸して頂いたレポートもそろそろ仕上がるし、今度は僕の耳を貸そうではないか。
「今度、その知り合った他の学生たちと集まろうって話になってんだけど、一樹も来ないか?」
ふむなるほど、どうやら付き合いのお誘いのようである。
しかしこれには僕にも気掛かりな点があったので問うことにした。
「要君や、一ついいだろうか。インターンシップでの知り合いの集まりに何故、無関係の僕を誘うのさ。この大学から一緒に行った人もいるんだろう?」
つまるところせっかく出来たグループの輪の中に関係の無い人間を放り込もうとしているのだ。
何?孤立する僕の様子を見て君は楽しみたいのかい?
そんな風紀を乱すような真似を何故しなければならないのか、要の意図が全く理解出来なかったから僕は聞くことにしたのである。
「それなんだけどさ、一樹は遠藤晴香って人を知ってるか?」
要の言葉に親指を額に当てて如何にも考えているような振りをする。
何か思い出したり考え事をしたりする時の僕の癖だ。
それよりも遠藤晴香、遠藤はるか。聞いた名前のニュアンス的に女性名なのだろうと判断できる。
はて、僕はその人にどこかで会った事があるのだろうか。
要と遊んでいる時に、女の子が居た事は何度かあったけれど遠藤なんて子が混じっていた記憶が残念ながら存在していない。
このことから分かるように、おそらく僕はその名前を一切存じえないといった結論を導き出した。
「いや、知らないかな」
色々と思考してみた割にはあっさりとした返答を返す。
シンプルイズベストって素晴らしい言葉だよね、英語だけれど。
「この大学の学生なんだけどさ、一緒にインターンシップに行ったメンバーの一人なんだよ」
ほぅ、ならばなお更その子と一緒に行ってくれば良いじゃないかと率直な感想を抱いたがどうやら話は続くようで耳を傾け、僕はペンを走らせた。
「この大学でミスコンがこの前開かれただろ?」
さすがにイベント事には疎い僕でもそれは耳にしたことがあるぞと反応してみせる。
去年の文化祭なんていつ開かれていたの?と、何も知らずに3日休みを喜んでいたものだが。
ミスコンというものは何が皆を駆り立てるのか分からないがそれはそれは嫌でも、ほぼ毎日大学の連絡掲示板にある広告から目に付くのである。
「うん、開かれていたね」
そう、開かれていた事くらいは僕も認知しているのだ。
実際に参加はしていないが故に結果も知らないのだけれど。
けれども既にこの辺りで鋭いと自負する僕は気が付いたさ、その遠藤晴香って人がグランプリなんだとね。
だからこそ、それがどうしたんだいと思った。
「ミスコンのグランプリ受賞者が遠藤晴香って子なんだけどさ」
まぁ、そうだろうね。でないとこの話はまず話題にすら上がらなかったはずだから。
そろそろ僕のカンニング行為も終盤を迎え、ペン先を滑らせる速度はますます加速する。
ボールペンの芯が机を叩くことで事務的な音が心地良く、リズミカルに聞こえてくる。
「あまりにも容姿性格が共に八方美人過ぎるもんで、他の男連中はあの子目当てになっちまってんだよ。だから正直行ったところでやることなくてさ」
なるほど、本来親睦を深めるはずの人たちがその遠藤晴香に夢中で相手にならず、話し相手が欲しいという事らしい。
「それなら別に無理に参加しなくてもいいんじゃないかな」
きっと僕の言っている事は正論だ。
第三者としての視野から物事を観察するのが趣味と化している僕の意見はこの場に限り支持を得るはずだ。
誰が好き好んでそんな修羅場に身を放り投げるのだろうかと言いたくもなる。
「だよなぁ……、でも今度合同で行うプレゼンっていうのがあんだけどそれの打ち合わせも兼ねてる分参加しないわけにはいかないんだよな」
「それこそ、後日でいいじゃないか。今回行ったところで話し合いにならないことくらい分かっているんだろう?」
要の言葉に対して間髪入れずに即答した。
何故、そんなにも要が悩まなくてはいけないのだと。
要の相談事にしてはあまりにも実の無い内容だった為、この話は〆ようとしたのだが要は引き下がらなかった。
「それが出来たら苦労しないさ。なんかその遠藤って子と付き合っていることになってるみたいでさ、俺」
サラリと悩ましげな顔をしながら言ってのける。
ほうほう、それは自慢かな?もの凄い自意識過剰具合を目の当たりにした気がする。
ええい、ついでとばかりに髪をかき上げながら悩ましげな顔をするんでない。
そりゃあ確かに要は顔が良いし、一般的にイケメンと云われる人種で言い寄られることが多いのは周知の事実だ。
僕の知っている限りでは過去に君と遊んだ子=要の事が好きだった。というパラドックス的な要素が成立していたのだから例えその相手が、遠藤晴香がミスキャンパスであろうともそこに可能性が生まれるわけで。
万が一にも僕にだってそういう"モテ要素"の可能性は秘められているのだからね。
ただ天と地ほどの差がそこにはあるのだけれど。
「でさ、なんかその取り巻きになり掛けてる男達に目つけられちまってな」
え、何?他校なのに囲ってるの?なにそれ、怖い。
「でもさ、そのくらいは君のコミュ力ならなんとかなるだろう?」
弱肉強食の様な波乱しかない世界に僕は行きたくないね、行きたくないでござるよ。
「それがさ、聞く耳を持たないんだ」
「うーん。末期だね、まさに世紀末だ」
一人の女を取り合う世界、どこかで見た事あるぞ。
しかし、単位の為といえどそんな荒波に出航しなければならないとなると気が滅入って仕方がないね。
「だから、頼むよ一樹。俺だけじゃどうにもならないんだ」
同情を誘うような言い回しをしてから、両手を合わしてパシッと小さく音を鳴らし、僕に向かって頭を下げる要。
一見、物凄くお願いしていますっていう姿勢に見えるだろう?これ、作ってるんだぜ?きっと下げてる顔は真顔なんだぜ?こうやって事あるごとに大げさな頼み方をしてくるのだ。
もう見切っているのさ、お前の技はな!
「やだ」
シンプルかつ二文字に全てが集約されている言葉を僕が告げた時の要の顔は忘れられない。
まるで主人に捨てられそうになっているペットの様な、この世に絶望したかの有名な先生のような、イケメンのする顔じゃなかったね。
「そもそも僕がバイトで忙しい事くらいは君も知っているだろう?」
平日は大学の講義が終了すればそのままバイト先へ直行、そのままラストまでシフトに入って多目的スーパーで割引品を買って帰る。
まるで残業の多いサラリーマンの様な生活を送っているが、これはこれで個人的には満足しているのだ。
そうでなければ早々にバイトを辞めて学業だけに打ち込んでいたさ。
すまんな要、以上の事から僕には君を助ける事は出来なさそうだ。
「ふっ、一樹よ」
クックック……と、口を吊り上げ笑っていない目で雰囲気だけは一丁前に悪役キャラを演じきる要。
「俺が何の策も立てていないと思うか?」
心なしか闇のオーラが僕には見えるぞ。お前……一体何を企んでいるんだ!?と乗ってあげたほうがいいのだろうか。
そんな同情の余地も無い要はそのまま自身の肩掛けの通学用鞄をゴソゴソと漁り何かのファイルを取り出そうとしている。
「これが何だか、わかるか?」
そう言ってニヒルな笑みを浮かべながらそのA4サイズのファイルを机に置いた。
ベーン!という効果音が似合うのだろうが、現在は講義中である。
周りの学生と教授に迷惑を掛けないためにもそっと置くのであった。
「これはな、ある先輩達から譲り受けた過去4年分の経営学概論のレポートをまとめたものでな。この価値は、お前になら分かるよな?」
驚愕した。
いや、僕の生命活動が一度停止したのではと思うくらいに一瞬思考が停止した。
「け、経営学概論だ……と……?」
説明しよう。
経営学概論とは僕と要が所属している経営学部の必修科目でありながら、本大学の最高攻略難易度を誇る鬼畜講義なのだ。
これをクリアしなければ進級する事が出来ず、一回生の時は死に物狂いで授業後は毎回、教授に泣き付いた物だ。
僕は辛うじて突破したが土下座でも認められない世界がそこにはあったようである。
曰く、彼の教授は冷徹の裁判官。
有無を言わさずそこに慈悲はない。合格か不合格か、即判決が下されるのである。
それをクリアした先輩達のレポートが目の前にあるなんて、思わず恐る恐る手を伸ばしそのファイルの魔力を前にして手に取ろうとしてしまった。
その姿はまさにゾンビ。
血肉を求めるかの如くゆっくりと着実にファイルに手を近づけていく。
しかし、もう少しで手が届くといったところでひょいと要は取り上げる。
彼の普段はさわやかでイケてる顔が何とも醜いニヒルな笑みを浮かべているではないか。
コイツ…!!
レポート様を人質に取るとは何たる愚行。
「さて、一樹。さっきの言葉は無かったことにしてもう一度チャンスをあげよう」
悪だ。ここに悪の化身がいるぞ!
「ぐぅ……」
正直なところ、バイトは休みの連絡さえ入れれば"しっかりものの斉藤君"な僕は逆に心配される程で簡単に休暇を取る事が出来る。
問題は、必要以上に人と関わるのが僕個人として面倒くさいところにある。
見知らぬところへ行くとさ、社交辞令とまではいかないが己の体裁を良く保つために外面を貼り付けニコニコしていないといけないだろう?
ましてやアイドルだかグランプリだか分からないが、聞いているだけで行く気を削がれるようなところへ何故僕がバイトを休んで行かなければならないのだと、今でも思う。
思うがしかし。
レポート様を悪の手から僕は助けてあげなければならないのだ。
そう、これは僕に課せられた使命。
悪を滅ぼす為に現れる正義のヒーローが如くたとえ3分でも良い。
胸のアイコンが光ろうとも敵地に赴きヒロイン(レポート)を奪還しなければならない。
「お、お前の為だと……思うなよ!」
至高にして最高の捨て台詞を吐いて、ここに僕の参加が確定した瞬間であった。
悪の化身、橋爪要を友人に持つ斉藤一樹。
悔しそうな表情を浮かべながらも、その手にはしっかりと先輩達の残した軌跡が握られていたという。
――