裏と表
父の不快なメールに腹が立って画面を閉じ、快速電車から普通電車に乗り換えるために、霜月高校前で下車をした。電光掲示板を見ると、乗り換える予定の電車はいつもの通り十五分後には来るようだ。今日は関係の無い朝のラッシュに揉まれながら、一度男子トイレへと立ち寄った。
奇跡的にも一つ空いていた個室に入り、溜息をついてコンパクトミラーを取り出す。そこに映る私は酷い女の顔だった。あご髭の剃り残しも目立つし、目元が腫れている。赤い目は今さら誤魔化しようがないが、目の周りをパフで軽く叩いて、顔の滑らかさを取り戻した。
私、泣いちゃダメよ。そうやって毛深い手で自分の心を奮い立たせていると、乱暴に二回、ドアをぶち破ろうとするかのように叩かれる。朝からパニック映画のように脅かさなくてもと、再び泣きそうになりながらも、怖い男に見送られてトイレを出た。
トイレの前はやはり混雑をしていたものの、不規則な混み方をしていた。どうやら狭い上り階段の下で、老夫婦が荷物を持ち運べずに立ち往生しているようだ。そこが起点となり、急ぎたい人達の不機嫌な渦が巻き起こっている。脇をわざとぶつかるようにして上っていく人達に対して、二人は申し訳なさそうに。しかし、互いに手を取り合って協力しようとしている。その姿は、今の自分には羨ましくてとてつもない程不快だった。
自分のか細い腕では、荷物を持ってあげることも出来ないし。周りの屈強な男が運んであげればいいのに。本当、男って生き物は役に立たないんだから。そもそも、老夫婦達も、持って運べない荷物を持ってくるなよな。ちょっと、分からせてあげなければ。人の流れに乗って、デコレートした携帯を見るふりをしながら肘でぶつかってやろうとすると、後ろから誰かに肩を掴まれた。
「ちょ、ちょっと。ぶつかりますよ?」
消え入りそうに、か細く聞こえるその声は会社の先輩の声だった。彼女はスーツに身を包み、いつものひっつめ髪をして、血色の悪い細い腕で私を捕まえていた。
「あ、お、おはようございます。先輩。」
「おはようございます。前方不注意ですよ。あなた、そういうところがありますよね。気をつけましょうね。」
そう私に注意をしても、この人も老夫婦を助けてやれる訳じゃないんだ。何を偉そうに。
私は先輩の細い脚を見ながらそう思った。しかし、彼女は意外にも老夫婦の荷物を持ち、それだけでは飽き足らずに、足の悪い婦人をおんぶをして階段を上がったのだ。私は彼女の後を、革靴を踏みならしてついていくことしかできなかった。
階段の上までのぼると、先ほどまでの不機嫌の渦がかき消え、辺りに拍手が巻き起こった。老夫婦は先輩にお礼を言い、二人が電車に乗るのを笑顔で見送った。
「先輩、乗らなくて良かったんですか?あれ、会社の方に行きますけど。」
「気まずいじゃない。」
「ああ、確かに。それにしても驚きました。先輩、力持ちだったんですね。」
「ええ。これでも私、空手は黒帯なのよ。」
意外である。武道どころか、生まれてこのかた走ったこともないものだと思っていた。彼女に手招きされて、ベンチに座る。
「ツカサさん。わざとでしょ。」
唐突に聞かれたその質問に胸がどきどきした。ネイルを施した手で、坊主頭を不必要に撫でまわした。先輩も私の頭を撫でつける。
「髪、伸びたわね。ねえ、あなた。近頃変よ。最近社内でも少し評判が悪いわ。」
「そうなんですか?」
「その、ささやかな胸に手を当てて考えてごらんなさい。色々と考え事をしていて覚えていないのかもしれないけど、取引先のイギリス人の男性に、勝手な思い込みで大嫌いな紅茶を出して取引を破談にしたり、回覧板を誰にも回さずにシュレッダーにかけたり。」
ああ。そうだ。普段はしないようなミスを連発して昨日はしこたま怒鳴られた。
「そして今日は、老夫婦にわざとぶつかろうとして。どうしちゃったの?」
じっと見つめられて、細かく貧乏ゆすりをしているうちに、一つ電話がかかってきた。
「すいません。母からです。」
先輩は手で出るように促してくれて、電話にでる。すると、母の消え入りそうな声が耳に響いてきた。
「あ、ツカサか。父さんのことは気にしなくていいのよ。あの人は、人の話を聞かないというか、聞き入れないというか。とにかく、そういう人なんだから。私はね、お前が今日会社を休んでまで見舞いに来てくれるってだけで十分なんだよ。」
母はこれだけを言うのにも幾度も咳をする。電話の奥では、看護師の女性が気遣う声のするものの、母の苦痛を取り除いてくれない。まったく、女って生き物も役に立たないな。長い話は母の体に障りそうなので、短く打ち切った。母の声は聞くたびに老いていく。そのことが悲しかった。
「お母さん?」
「ええ。入院してるんです。近くの病院に。」
「あ、そうなの。大丈夫なの?」
「あまり。」
私は熱い左目から滴をこぼし、履いているスカートに染み込んだ。
「母にはとてもお世話になりました。私により良い生活をさせるためにと、一生懸命働きながらも家事をこなして。超人とさえ思っていました。でも、突然老いは来るものなんですね。見る見るうちに弱っていって。それなのに、あれだけ母にお世話になっていた父は、女が苦しんでいる程度でうろたえていては男じゃないって。」
先輩はじっと聞いてくれていた。
「それで、喧嘩しちゃって。酷いと思いません?いや、あの。すいません。」
電車がホームに入ってくる。その電車は、こんなにもいい天気なのに、どうしてか濡れていた。先輩は、一つ息を吐いて、
「あなたの最近の事情は分かったわ。辛いかもしれないわね。でもね、一方の視点から話してはいけないわ。何事も一面だけを見ているだけじゃ、分からないこともあるのよ。」
はあ?全くの的外れなアドバイスだと思った。今私が欲しいのは、慰めの言葉なのに。先輩はそのセリフを残して電車に乗りこんでいく。私は一応の礼儀として頭を下げると目の前に汚らしい、見覚えのある靴が目に入った。頭を上げると、目の前に父が後ろで手を組んで立っている。
「ツカサか。丁度良かった。あ、あのな。病院に行くには、どの電車に乗ればいいんだ?」
「お父さん。も、もしかして、お母さんのお見舞いに行くの?」
「ち、違う。最近ここいらに、体の弱ったふりをして荷物を運んでもらい、その間に財布を盗むという老夫婦が出没すると通報があったもんでな。その捜査だ。」
「え?その人達なら……。」
先輩が乗り込んだのとは、反対のホームに電車が入ってきた。
「あ、こ、これか?これに乗ればいいんだな?」
私の言葉を聞かずに、勝手な思い込みで間違った電車に乗り込んでいく。背中に回した手には、数本のバラの花束が握られていた。
一体俺はどうすればいいのかしら?数秒もしないうちに、正しい電車がくる。私は女性専用車両に乗り込んで、母に、「お母さんも、もっと、お父さんの裏を見た方がいいわ。」
とメールを打つのが精いっぱいだった。