豊田京介 1
200X年 8月20日 ドイツ ベルリン ベルリン中央駅
一人の男がクリーム色のタクシーを降りてガラス張りの駅舎に向かう。タクシーの中で不覚にも寝てしまい首に痛みを覚えたまま歩く。じりっと照り付ける日差しが顔面を襲う。
「日本の夏程じゃないけど、やっぱり暑いわ。」
と呟いてケータイを見た。電車の時間まで1時間半ほど余裕がある。
暑さしのぎと時間つぶしをしようと、駅ナカのファーストフード店に入る。流暢ではないドイツ語でハンバーガーとコーヒーをオーダーする。メニューは日本と大差がないから臆することもない。店の奥に着席して仕事用のパソコンを開いて起動を待つ間、コーヒーを啜る。思った以上に熱い。
「ハロー?」
唐突に女性が話しかけてきたが、自分のことだと思わなかったのでシカトしていたら更に大きな声で「ハロー!」と聞こえるので顔を上げる。すらっとした160センチ強の金髪の女性が立っている。この女性には見覚えがあった。タクシーを降りたあとにちらちらとこちらを伺っていた女性だ。その時は気にも留めなかったが、改めてみるとかなりいい女だ。
「ここ、相席いいかしら?」
ほかに席が空いているのに相席を訊ねるなんて不思議なことだが、僅かな下心もあって相席を許した。
「あたし、ヨーロッパの国々を旅してるの。あなたも旅の途中なの?」
茶色の瞳を大きく開いて聞いてくる。
「あー…いや、仕事できたんです。日本から。」
女性に慣れていないせいか外国人に慣れていないせいか緊張してしまう。
「そう!日本から!大学生の頃ホームステイしたわ。とてもきれいな景色の国ね。」
ぷっくりと下唇が妙に艶めかしい。
「あ、あたしタニア。タニア・ベルンシュタイン。カメラマンよ。」
「豊田京介です。仕事で使うものの買い付けに来ました。」
「トヨタ!自動車のトヨタとおんなじね!あたしヤリス乗ってるわよ!すごく使い勝手がいいの。よくできてるわよねー、感心しちゃう!。」
軽い自己紹介をした途端、教則本みたいだなと少し恥ずかしくなった。それにしてもよく喋る人だ。この人には警戒心がないのか。
自己紹介ついでに名刺を出そうとポケットを漁ったが名刺入れが見当たらなく、カバンの中に入れたのを思い出してカバンに目をやる。
…ガタン!
テーブルの上から音が聞こえたので何事かと顔を上げた。
タニアの姿がない。
パソコンもない。
机の上にカードが一枚残されていた。取り上げてみてみると「Danke♡」と書いてあった。
やられた…
仕事用のパソコンを盗まれてしまった。
海外に来てものを盗まれたのは初めてだ。サンフランシスコもブリュッセルもボローニャも多少はヒヤッとしたものの、いずれも実害はなかった。まったくもって不覚だった。あまりのショックにせっかく買ったハンバーガーがのどを通らない。勿体ないが捨ててしまうことにした。もう店から出てしまおうと荷物を持つ。パソコンがなくなったはずなのに異様に重く感じられる。とにかく警察に届け出ないといけないと思いケータイをポケットから出す。
「えーと、警察は何番なんだろう…とりあえず110番してみるか?」
110を押してみる。
プルルル…ガチャ
「警察です。どうされましたか?」
この国も警察は110番なのかなどと不要な関心をしながら
「ええと、パソコンを盗まれました。場所はベルリン中央駅の…」
日常会話でもビジネス会話でもない妙な緊張感のあるやり取りをして電話を切る。大きくため息をついたら息と一緒にやる気も出ていったような気がした。
思い出したようにケータイを取り出しメールを作成する。宛先は会社。パソコンを盗まれた旨を報告しないことにはどうしてみようもないのだから。作ったメールを送信してものの数分で返事が返ってきた。「盗まれたのは残念だったが、お前が無事でよかった。先方にはこちらから連絡を入れておくから心配するな。今後どうするかは追って連絡する。今日はもう休め。」という旨の内容だった。いきなりクビを宣告されるのではないかと思ってヒヤヒヤしていたが、内容に安心したせいか涙目になってしまった。
「シュルディグンク?」
後ろから低いがごつくない声が聞こえて振り向くと制服の警察官が立っていた。ことの顛末を話すと、現場に行って状況を説明してくれと頼まれたので先ほどのファーストフード店に戻り説明を繰り返しおこなった。小一時間説明をしたところで「残りは明日、署で聞くのでここに来てほしい。」と告げられ簡単な地図と住所が書かれた紙を渡された。さすがに疲れていたので明日でもいいかと思い解散した。予定通りであれば今夜はカッセルで一泊できたのだが、事が事なのでベルリンに滞在することにした。検索サイトを使って宿を検索する。ここから歩いて10分くらいのところにユースホステルがあるようだ。
駅から出てインヴァリーデン通りを渡り並木道を歩く。落ちかかった陽の光とカラッと乾いた風が心地よい。早速チェックインしてベッドに身を投げる。同じ部屋に自分以外の人間がいないのをいいことに存分にくつろぐ。身体がどんどん重くなっていく。瞼がすーっと閉じられ意識が飛ぶ。
「シャワーは明日だな。」
そう呟いて眠りに落ちていった。