6 夢食べ怪獣と生徒会長 前編
6 夢食べ怪獣と生徒会長 前編
ちょっだけ昔話をしたいと思う。私が死ぬ気で頑張って合格して、紅葉ヶ丘学園に通い始めたばかりの話を。
紅葉ヶ丘学園と名は付いているものの、四月のこの時期はさすがに主役を桜に譲っている。私は、満開の桜並木の間を、紅葉ヶ丘学園の正門に向かって始業の時間に急かされることなくのんびり歩いていた。早起きの習慣は、私が誇れる数少ない取り柄の一つなのだ。
入学式からまだ数日、今後訪れる成績不振、退学の危機も知らない私は、口笛でも吹いてスキップでもし始めるのではないかというぐらい上機嫌だった。
それもこれも、憧れの紅葉ヶ丘学園の生徒として学校に通えているからだ。
駿が受けると聞いたあの日から猛勉強を重ねるうちに、私の中では紅葉ヶ丘教とも言うべき絶対的な信仰が芽生え、そして成長し、大きな花を咲かせていた。
まずは制服信仰である。決して華美ではないが、落ち着いた茶色に、ところどころアクセントの効いたブレザー。胸に踊るピンク色のリボン(今年の新入生の色)。そして、ブレザーに合った、落ち着いた色合いのチェックのスカート。紺色のハイソックス。黒のローファー。最後の一カ月はこれを着ている自分の姿をフォトショップで合成して、励みに頑張ったほどだ。
そして、設備信仰。中心街から離れたそれなりに土地の余っていた場所に立てられて数年しか経っていない新校舎、広い校庭(運動音痴だけど)、室内プール(泳げないけど)、わざわざ別棟で作られた食堂(お弁当持参だけど)などなど。あらゆるものが、これから待つ六年間の学校生活を応援してくれているかのようだった。
最後に、駿と六年間一緒に同じ学校に通えるということも付け足しておこう。一応。一応ね。
「ふんふんふーん」
とうとう鼻歌がこぼれ始めた。まぁ、朝も早いしまわりに人もまばらだし、いいか、とか思っていたら。
「随分陽気な新入生ね。おはよう」
正門を抜ける瞬間、完全に不意打ちで声をかけられた。
「ひぁっ!」
間抜けな悲鳴を上げる。
私は立ち止まり、恐る恐る声のした方を眺める。ちなみに当時の私は、脇目も振らない受験勉強の結果、他人とのコミュニケーションの取り方を忘れてしまった重度のコミュ障少女だった。実際入学してからクラスメイトの誰にもまだ話しかけることができていなかったし、話しかけられても、うー……、とか、あー……、とかしか言えない残念な子だった(今と比べて当社比三十倍くらい酷かった)。
「何、その目は。まるで銃口を向けられたトムソンガゼルじゃない」
的を射ているのか射ていないのかさっぱり分からない表現で私の様子を例えた声の主は、つい先日見かけたばかりの人だった。入学式の日、壇上で。
「生徒、会長、さん……?」
「うん、そう。私は紅葉ヶ丘学園中等部生徒会長、三年E組出席番号一番、愛ヶ瀬翼だけど、それがどうかしたの?」
セミロングの髪を春のそよ風になびかせる愛ヶ瀬会長。制服姿で、生徒会と書かれた緑の腕章をつけている。リボンの色が違うだけ(三年生は黄色)の同じ格好のはずなのに、こう、あからさまな違いが見えるのはなぜだろう。
緊張と動揺から何も言えず口をぱくぱくさせている私に、愛ヶ瀬会長は優しくこう言った。
「神城卯月さん、そんなに怖がる必要はないよ。あなたが朝早くに鼻歌を歌いながら登校することの、何がいけないの?」
やはり聞かれていたか。今度は恥ずかしさで俯いてしまった。
「あぁ、ごめんなさい。今のはほんの冗談。誰にも言わない。私とあなたとの間の秘密。これでいいでしょ? だから、そんな泣きそうな顔をしないで」
頭一つ背の低い私の顔を覗きこみ、頭を撫でてくれる会長。何だか子供をあやしているみたいだが、これはこれで悪くない感じ。
「お、機嫌を直してくれたかな」
顔を上げた私に、会長は微笑みかけた。特別美人でもないけれど、どこか人を引き付ける魅力を持った会長の顔。こんな近くでまじまじと見たのは、もしかしたら新入生の中で私が最初かもしれない。何だか、得した気分。
「すみま、せん」
とりあえず謝る。
「ん? なんであなたが謝るの?」
「あ、あの、その……」
もじもじする私。告白前かよ。
「気を、遣わせて、しまって……」
ぼそぼそと消え入りそうな声で言う私に、会長はまた微笑みかけてくれた。
「気にしないで。私の方こそ悪かったわね。冗談とはいえ、傷つけるようなことを言ってしまって」
いえいえそんな、私の方こそたかが鼻歌歌ってるところを目撃されたくらいでこんなにへこむなんてバカですよね、愚かですよね、すみません、会長は何も悪くないですほんとマジで。
ぐらいのことは言いたかったのだが。
「い、いえ、すみません……」
結局このくらいしか言えない重病患者だったのだ。私は。
気付けば、まわりには登校する生徒の姿が増えてきていた。
「お、もうこんな時間。悪いわね、せっかく早く登校したのに、こんなところで引きとめてしまって。それじゃあ、今日も一日元気で頑張ってね!」
そう言って会長は、私から、生徒の流れの方へと体の向きを変えた。
「おはようございまーす!」
そして、一人一人に元気よく挨拶をしていく。生徒の中には、
「愛ヶ瀬さん、おはよー」
とか、
「おはようございます、会長!」
とか、返事をしてくる人もいる。そのたびに会長は名前を呼び、笑顔で言葉を交わす。
すごい人だな……。なんか、カッコいいな……。
私にはない、太陽みたいな輝きを持った会長。
それが、私と愛ヶ瀬先輩のファーストコンタクトだった。
それからというもの、私は早起きして正門前で愛ヶ瀬会長とほんのちょっとだけ話をすることが、ひそかな楽しみになっていた。
「お、神城さん、おはよう。今日も馬車馬のように頑張ろう!」
例えが的を射ているかどうかは置いておいて、会長はいつも、誰よりも先に学校に来て、こうして正門に立っているようだった。
「お、おはようございます……」
今日こそは、少し長めに話してみようと意気込んで、私は質問を用意してきていた。
「あ、あの……」
「ん? 何?」
高飛び込みのジャンプ台に立ったらこんな感じだろうか。ひそかに憧れている先輩と話をするというだけなのに、本気で心臓が口から跳び出そうだ。
そんな私を、会長はニコニコしながら辛抱強く待ってくれた。
「えっと、あの、な、なんで、私の名前、知ってたんですか……?」
用意してきた質問はこれだ。これが私なりの精一杯。会長のプライベートなど、恐れ多くて質問できるはずもない。
「あぁ、そのことか」
愛ヶ瀬会長は、少し得意になって教えてくれた。
「私は生徒会長だからね。在校生の顔と名前くらい、全部覚えていてしかるべきだと思ってるの」
「ほ、本当に、全員分覚えてるんですか?」
「もちろん」
驚いた。二、三年生ならまだしも(それだけでも四百人いるが)、一年生など入学してまだわずかしか経っていないのに、よくもまぁ。
「すごいです!」
私は緊張も忘れて、羨望の眼差しで会長を見た。
「わわ、私なんて、クラスメイトの顔と名前も、い、一致しないのに……」
そんなの当たり前だ。いつも下を向いていて、話しかけられても顔を上げないから。そんなんだから友達もできないし、話相手も駿しかいないのだ。そんな駿もクラスは別だし、私は自分のクラスで完全に孤立していた。
「ふーん……」
私の話を聞いて、ほんの少しだけ考え込む会長。そしてすぐに結論は出たようだ。
「神城さん、今日の放課後、ちょっと教室で待ってて」
「え?」
突然の会長の言葉に戸惑う私。どういうこと?
「迎えに行くから。大丈夫、心配しないで。怖いことはしないから」
それはそうだろうけれど、いったい何なんだろう……?
放課後。愛ヶ瀬会長を疑うわけではないが、さすがに少しだけ、ほんの少しだけ心配だったので、駿にも残ってもらった。
「卯月が朝待っててくれなくなったのって、愛ヶ瀬会長に会うためだったんだ」
「そんなんじゃないし。駿の寝起きが悪すぎて、小学校の頃みたいに待ってたら遅刻しちゃうから」
「一目惚れ?」
「違うし。そもそも会長、女だし」
「そうだっけ?」
「入学式の時在校生代表で挨拶したじゃん」
「寝てた」
「毎朝正門に立って挨拶してるじゃん」
「寝てる」
ダメだ、こいつ。
「お待たせー」
そうこうしているうちに、愛ヶ瀬会長がやってきた。
「あら、あなたは、桃山駿君。……、あぁ、そうか、あなたたちは幼馴染だったね」
「え、何で知ってるんですか」
駿が目を丸くする。そうか、駿は知らないのか。
「会長はね、中等部の生徒全員の顔と名前が一致するんだよ。すごいでしょ」
「マジですか。すげー」
駿が心底感心しているのが分かる。
一方の会長も、なぜか目を丸くしている。
「神城さん、あなた、ちゃんとしゃべれるんじゃない」
はっとして、私は俯く。
「そ、その、駿とだったら……。幼馴染、だし……」
「卯月の奴、俺に対しては暴言吐きまくるのに、他の人の前では全然ダメなんですよ。猫かぶるとかそういうのじゃなくて、ほんとにしゃべれなくなっちゃうんです」
「うん、それは知ってる」
駿の説明に、会長が頷く。
「だからこそ、今日はこうして残ってもらったんだから。それじゃあ、行こうか。もちろん、桃山君も」
「どこにですか?」
私の代わりに駿が訊ねる。
「旧校舎三階、社会科準備室」
会長に連れられるがままに入った社会科準備室は、インクのにおいがする薄汚い部屋だった。長机がコの字型に並べられ、そこだけは会議室みたいだ。
「なんですか、ここ」
駿が訊く。
「桃山君あなた君、今日一日、いや、私と神城さんといるときは、私に対して質問すること禁止。生徒会長命令ね」
「え?」
「はい?」
同時に声を上げる。私と駿。
「あれ、言ってる意味が分かんなかった?」
「いや、分かりますけど、なんでですか?」
「だって、君がいると、神城さんが一言もしゃべらないんだもん」
そして、私に目を遣る。
「ね、神城さん」
「は、はぁ……」
ね、と笑顔で言われても……。
「さぁ神城さん、桃山君」
愛ヶ瀬会長は、自分のペースで話を進める。
「ここがどこか分かるかな?」
「分かりません」
「わ、分かりま、せん……」
「でしょうね。ところでお二人さん、訊いてなかったけど、部活には入ってる?」
ぽんぽん話が変わる。
「まだ入ってませんけど、俺はどこかの部には入るつもりです。
駿は運動神経がいい。どこの部に入っても活躍できるだろう。一方の私は。
「私は……、帰宅部でいいかなぁ、と、思ってます……」
駿と同じ部活に入るわけにはいかないだろうし、ましてマネージャーなんて柄じゃない。文化部も少しは考えたけれど、部活でやりたいと思えるほど興味のあることもない。
「なるほどなるほど」
会長は腕を組んで頷いている。
「そんなあなたたちに朗報です!」
と、突然声を張った。ビビる私と駿。
「私の所属する新聞部が、絶賛部員募集中なのです!」
「新聞、部……?」
全く予想もしていなかった展開に、私も駿もついていけない。そんな私たちを尻目に、会長はどんどん話を進めていく。
「そんなウーパールーパーみたいな驚いた顔しないでよ」
どんな顔だ。
「私、生徒会と掛け持ちで新聞部の記者やってるの。あ、新聞部は一年の最初からずっとね。新聞部に入ったのは、こういうジャーナリズム的なものに興味もあったし、なにより人脈が作れるからね。生徒とも、先生とも。生徒会長になるために、役に立つかなー、と思って入ったんだ。最初はそんな不純な動機だったんだけど、やってるうちに楽しくなっちゃって。ほら、これ読んだ?」
会長は机の上に置いてあった紙を手渡してきた。
新入生歓迎特別号とでかでかと書かれた、紅葉ヶ丘通信という学校新聞だった。
「は、はい、読みました。入学式の後で配られて、家に帰ってから……」
「どうだった?」
「どう、って……」
すごかったです。これだけあれば紅葉ヶ丘学園のことが隅から隅まで分かるような充実した内容で、レイアウトも綺麗で、文字だけじゃなくもちろん写真もあるし、イラストまであって。中学校って、いや、紅葉ヶ丘学園ってすごい! って、軽く感動すら覚えました!
と言いたかったのだが、言い淀んでいるうちに会長の方が先に口を開いた。
「ありがとう」
え?
「わ、私、まだ……」
「私、だんだん神城さんのこと分かってきたかも」
そう言って、優しく笑う愛ヶ瀬会長。
「たくさんのこと考えすぎて、言葉が出なくなっちゃってんだよね、きっと。言いたいこといっぱいあるのに、ちょっと人の目を見て話すのが苦手なせいで、言っていいのかどうか迷ってるうちに話がどんどん先に行っちゃって、結局言えずじまい」
「そ……」
そうなんです。そうなんですよ!
「大変だよねー。私も昔そうだった」
「えっ」
まさかの発言である。今目の前にいる愛ヶ瀬翼会長が、かつて私と同じような悩みを抱えていたなんて。
「ほ、本当、ですか?」
「うん。私、小学校の頃、無口で暗くて友達もいなかったから、近所の公立に行きたくなくて、ちょっと遠いけど紅葉ヶ丘受けたの」
そうだったのか……。
「知りませんでした……」
「そりゃそうだ。誰にも話してないし」
「え、じゃ、じゃあ、なんで私なんかに……?」
「教えてあげるけど、その前にその、私なんか、っての禁止ね」
「は、はい」
有無を言わせぬ会長のトークに押されっぱなしだが、悪い気はしなかった。
「ま、そんな大した話でもないんだけどね。私の場合は、小学生時代があまりにも暗かったから、その反動っていうかなんていうか、とにかく中学では自分のやりたいことしよう、って思ったの。その一番が、生徒会長になること。全く目立たなかった私は、一番目立つ所に立ちたいって思ったの。バカみたいって思うかもしれないけど」
「バカみたいだなんて、そんな……」
むしろすごいです。すごすぎます。自分を変えるって、簡単に言うけど簡単にできるわけない。
「それで紅葉ヶ丘に入って、まずはとにかく明るく振る舞うことにしたの。ちょっとぐらいウザがられてもいいやー、ってノリで。そして、新聞部に入って色々な取材をして、その中で先輩とか先生とも積極的に話すようにして。そして」
会長は一度言葉を切って、そしてにっこりと笑って言った。
「この前の二月の選挙で、とうとう夢実現。生徒会長になっちゃった」
なんと言ったらいいか私には分からなかった。ただ、ただすごいという言葉しか浮かんでこなかった。
「それで、なんで神城さん……、あー、なんか他人行儀すぎてムズムズしてきた。今、この瞬間から卯月ちゃんね。卯月ちゃんがダメって言っても卯月ちゃんって呼ぶ。OK? はい、OKね。桃山は桃山って呼ぶから」
会長のマシンガントークは止まらない。私はもちろん駿ですら間に割り込めない。
「卯月ちゃん。最近よく正門で話してたよね。で、今日やっと気付いたんだ。この子、昔の私にそっくり、って。しゃべりたいことはいっぱいあるんだけど、きっかけがつかめない、どうしゃべればいいのか分からない」
その通りだった。愛ヶ瀬会長、エスパーですか。
「そんな卯月ちゃんを見て、私思ったんだ。この子を新聞部に入れるしかない、って!」
そして、私の両肩を掴む。
「卯月ちゃん、新聞部に入って、あなたのその、心の中に閉じ込めている気持ちを記事にしてみない?」
愛ヶ瀬会長は、それ以上強くは勧誘してはこなかった。ただ、最後にこう言った。
「あんまり悩んでも仕方がないからね、明日の朝、正門で答えを聞かせてよ。入らないなら入らないでそれはそれで卯月ちゃんの選択だしね。尊重するよ」
夕暮れ時の河原を、私と駿は並んで歩いていた。
「愛ヶ瀬会長って、パワフルな人だったなー」
駿が漏らす。
「うん」
私は、つま先を眺めながら駿の後ろをとぼとぼ歩いていた。
「卯月、前見て歩かないとこけるぞ」
「うん」
しばらく無言。
「卯月」
河原から団地エリアに曲がる手前で、駿が立ち止った。
「迷ってるの」
「……うん」
「嘘つけ」
私は顔を上げる。右半分を夕日に照らされた駿がいた。
「もう決まってるくせに」
そう言って、この、私の幼馴染は、笑ったのだった。こいつにはかなわない。
翌日、私はひきだしの中でくしゃくしゃになっていた入部届けとともに、愛ヶ瀬会長のもとへ向かった。
驚いたことに、夜、寝る前になって、
「俺の分も出しといて」
と、駿も入部届けを持ってきた。
「いいの?」
「いいって、何が?」
「……なんでもない」
「うん。じゃ、よろしく。おやすみ」
「おやすみ」
小さく呟いた「ありがとう」はきっと駿の耳には届かなかっただろう。
その日から、充実した苦労の日々が始まった。生徒会長との兼任なので毎日新聞部に顔を出せるわけではない愛ヶ瀬会長は、入部届けを提出したその日に、
「高杉を卯月ちゃんの教育係にするから」
と宣言した。
「俺も今聞いたけど、そういうわけらしいから、よろしく」
メタルフレームの眼鏡の奥の眼光鋭い視線で睨まれた私は、固まってしまった。この目つきが地顔で、別に睨んでいるわけではないということが分かるまでしばらくかかることになる。
「高杉は変な奴だけどちゃんとした奴だから大丈夫。分かんないことがあったら積極的に質問するようにね」
「変な奴だというのは遺憾だが、実際ちゃんとした奴なので、積極的に質問するように」
「あ、あと、新部に入った以上卯月ちゃんにとって私は会長じゃなくて部長だから。間違って会長って呼んだら野良猫に足の裏を舐められるの刑ねー」
「は、はい……」
俯きながら、私は返事をした。刑についてはスルー。駿の指導係には、他の三年生の女子の先輩が付いた。……逆だったらよかったのに。いろんな意味で。
新聞部は、会長改め部長が絶賛部員募集中! と言うだけあって、部員不足に悩んでいた。三年生は部長と副部長だけ。二年生は高杉先輩と女子の先輩ともう一人だけ。新入生は私と駿だけ。
「部員、少ない、ですね……」
私が呟くと、高杉先輩が答えた。
「そうなんだよ。今は紙面を埋めるだけでも精一杯」
「そ、その割には、新入生歓迎特別号、でしたっけ、あれ、すごかったです……」
「あれは、引退した三年生の先輩方も手伝ってくれたからな。申し訳ないことをした」
そうだったのか。
「まぁ、その中で部長は一面全てを任されて、生徒会長になったばかりで忙しいはずなのに完璧な記事を書き上げた。すごい方だよ、あの人は」
聞けば聞くほど愛ヶ瀬先輩の偉大さが身にしみてくる。そんな先輩に目をかけてもらったんだ。私も頑張らないと。
「あ、あの、私は、何をすれば……?」
「お、早速質問か。感心感心」
そう言って、高杉部長はスチール棚に入っていた、ブツを取り、そして渡した。
ずしっ、と来る重み。
「こ、これは……?」
「カメラ。知らないの?」
「さすがに、知ってます……」
「あ、デジタル一眼レフを見るのが初めてとか?」
なんか、高杉先輩も変な人だ。
「まぁとにかく、それ持って学校をうろうろするぞ。ネタは足で稼ぐが基本だからな」
五月号の発行を終えたばかりで、新聞部には少し余裕があるようだった。だからこそ、私みたいな奴がスカウトされたのかもしれない。
「りょ、了解しました」
というわけで、入部したその日から私は高杉先輩に学校中を連れまわされることになったのだった。
高杉先輩はスパルタだった。本人はそんなつもりはないんだろうけど、例えば、いきなり学園長の前に連れ出され固まる私に無理やり挨拶させたり、野球部の練習試合中に人気者のエースの気の抜けた表情を取りたいからと言ってベンチに放り込まれたり、果ては先生同士のデートの現場の盗撮に赴かされたり。
「は、犯罪ですって、これ」
「神城も言うようになったなぁ。感心感心」
ほんの一週間ほどで様々な経験をさせられた私は、なんだかんだで高杉先輩とは少しずつ話せるようになってきていた。お父さんと駿以外でこんなに長い時間一緒にいた異性は、高杉先輩が初めてだった。
「おかげさまで……」
「ま、部長からお前の更生という命を仰せつかってるからな。しっかり成し遂げないと、後が怖い」
「更生って……」
私はなんだと思われているのか。
そんな、シルバーフレームの眼鏡が印象的な高杉先輩は、家が近所とかで昔から愛ヶ瀬部長のことを知っているらしかった。
「お前らみたいな幼馴染とかそういうのではないぞ。近所のいっこ上のお姉ちゃん、その程度の知り合いだ」
ちらっと部長のことを訊いてみたら、高杉先輩はすらすらと話し始めた。
「まぁ、昔は本当に暗い女の子だったな。そこにいることはいるが、全く存在感がないというか。なお、部長の過去を話すことは許可を得ている、というか、訊かれたら答えてやるよう言われているので問題ない」
吹奏楽部への取材帰り、新校舎と旧校舎の間の中庭のベンチに腰掛け、話してくれた。
「別にいじめられていたわけでもないらしいが、暗い女の子だったな。そんな彼女が変わったのは、中学に入った瞬間。近所でたまに見かける彼女は、小学校の頃とは打って変わって生き生きした表情をしていた」
「どうして、変われたんですかね……」
私の疑問に、高杉先輩は真面目な顔で答えてくれた。
「部長には夢があるらしい」
「夢?」
「そう、夢」
高杉先輩の語ってくれた愛ヶ瀬部長の「夢」は、とても実現可能なものには思えなかった。でも、でも。
「部長なら、やってくれそうだと思わないか?」
「はい、思います」
久しぶりにはっきりと、自分の意見を言えた気がした。
そんな私の憧れの存在となった愛ヶ瀬部長に、妙な変化が訪れるのに、そう時間はかからなかった。
あれだけ生きる気力に満ち溢れていた部長の顔に、まず疲労の色が見え始めた。
「あれ、ぶ、部長、どうかしたんですか……?」
その日私が部活に顔を出すと、部長は珍しく新聞部部室(社会科準備室)に並べられた長机の上に突っ伏していた。
「んー?」
聞いたことのない間延びした声で部長は答えた。
「なんかちょっと体がだるくてねー」
「大丈夫ですか?」
「ま、寝不足かなんかじゃないの?」
なんとなく投げやりな部長。
「寝てないんですか?」
「生徒会と新聞部の仕事が忙しくてねー。予習も復習も宿題もやらなきゃいけないし」
紅葉ヶ丘学園は中高一貫の進学校なので、授業のスピードは速い。三年生ともなると、普通は高校で習うことも授業でやっているのだろう。
「あ、あまり、無理をしないでくださいね」
「あー、大丈夫大丈夫」
そんな部長の言葉はすぐに嘘だと分かった。
翌日。いつも通りに登校したのに、正門に部長の姿はなかった。
「あれ?」
おかしいと思いながら部室(社会科準備室)に行ってみたが誰もおらず、生徒会室を覗いてみたがそこにも部長の姿はなかった。
(お休みなのかな?)
翌日、翌々日も、愛ヶ瀬会長は学校に姿を見せなかった。
「お見舞い、行ってみませんか……?」
その日もコンクールを控えた吹奏楽部の取材を終え、特別棟の音楽室から旧校舎の部室(社会科準備室)に戻る途中、私は高杉先輩に提案してみた。
「奇遇だな」
高杉先輩は眼鏡のブリッジを持ち上げ、言った。
「俺もそう思っていたところだ」
というわけで、翌日の土曜日、新聞部を代表して高杉先輩と私、そしておまけで駿も、部長のお宅へお見舞いに行くことになった。
部長と先輩が住むエリアは、紅葉ヶ丘学園からだとまずバスで駅まで行き、そこから電車で少し行った、郊外のニュータウンだった。
「結構遠いですね」
最寄駅まで迎えに来てくれていた高杉先輩に、駿が言った。
「まぁ、一時間くらいか。本を読んだり記事を考えていたりしたら案外すぐだぞ」
歩いて二十分の私と駿とは比べ物にならない面倒くささだろうが、そんなところから愛ヶ瀬部長は誰よりも早く学校に登校し、あんなに元気に挨拶をしていたのだ。そんな部長に、三日会っていない。あの鼻歌を聞かれた日に初めて話をして以来、こんなに間隔が開いたのは初めてだったので心配だ。
駅から十分ほど歩いて、部長の家に到着。ごく普通の一軒家だった。表札にはご両親のお名前と思しき男女二人の名前と、翼、という部長の名前がかわいいフォントで書かれていた。
「あら、晋太郎君、こんにちは。どうしたの?」
インターフォンを押して出迎えてくれたのは、部長のお母さんだった。
「お久しぶりです。部長……、翼先輩が三日もお休みされていたので、ご迷惑かとは思いましたが、お見舞いに参りました。この二人は新聞部の後輩です」
「桃山です」
「か、神城でしゅ……」
「わざわざありがとうね」
そういって微笑む愛ヶ瀬部長のお母さん。笑った顔はそっくりだった。
「風邪とかそういうのじゃないんだけど、体がだるいらしくて。立ち話もなんだから、どうぞ」
買ってきたアップルパイを手渡しおじゃまする。そして、部長の部屋に通されたのだが。
「あー、どうしたのー、三人して……」
毛布にくるまってベッドに寝転ぶ部長からは、私が感動した、あの太陽みたいな輝きは微塵も感じられなかった。
「部長……」
言葉を失っているのは、私だけじゃなかった。高杉先輩も部長も、髪はぼさぼさで、目の下にくまを作った覇気のない先輩の姿に衝撃を受けているようだった。
とりあえず、かわいらしいガラスのテーブルを囲んで腰を下ろす。
「うーん」
私たちがなんと声をかけていいものかとためらっている間も、部長はベッドの上でゴロゴロ転がっているだけだった。
「あの、部長……」
高杉先輩が、ようやく声をかける。
「その、体調は、大丈夫なんですか?」
「んー?」
ゴロゴロするのをやめ、焦点の合わない瞳で見返してきた部長が言った。
「元気だよー。すごく元気なんだけど、なんかやる気が出なくって」
やる気が、出ない。部長の口から聞くはずのない言葉だった。さらなる衝撃を受ける私たちをよそに、部長は続ける。
「なんか、どうでもよくなってきちゃって。いろいろ。頑張るのって、なんか、しんどいよね」
これは、部長じゃない。私の大好きな、尊敬する愛ヶ瀬翼部長じゃない!
泣きそうになった。でも、たぶん、ここで泣いても何も解決しない。泣くか。泣いてたまるか。だって、だって。
私は、ばれないようにそっと左目をつぶった。
私の右目が捕えた世界は、すさまじいものだった
「うっ」
吐き気が込み上げ、私は慌てて左目を開いた。
「どうしたの?」
駿が訊ねる。
「なんでもない。部長、ちょ、ちょっと、お手洗いお借りします」
そう言い残して私は部長の部屋を出る。廊下で深呼吸をして、右目に映ったものを思い出す。部長の姿が見えなくなるくらいの、気持ちの悪い靄。思い出しただけでムカムカしてくる。
「こんな大物、初めてだよ……」
泣かないと今決めたばかりなのに、目の前の敵の巨大さに、私は涙を我慢することができなかった。
結局、私たち三人は早々に愛ヶ瀬家を後にした。いたところで何もできないし、何より部長のあんな姿を見ているのが辛かった。
駅に向かいながら、高杉先輩が口を開いた。心の底から辛そうな声だった。
「部長、どこに行っちゃったんだろうな」
「俺、愛ヶ瀬部長のことよく知らないけど、あんな部長は見たくないです」
駿も、いつになく真面目な顔をしている。
私は無言だった。
怖かったからじゃない。大好きな愛ヶ瀬先輩を取り戻すために、戦う覚悟を決めていたからだ。