「ずっと一緒よ」と微笑む母は、少女たちを人形にしていた――次は私の番らしい
エレナが王都の美術修復学校に合格したと告げたとき、母のイザベルは手にしていたティースプーンを取り落とした。
銀の匙が受け皿にぶつかり、食堂に澄んだ音が響く。
窓の外では秋の雨が降り続いていた。暖炉には火が入り、焼きたてのパンと紅茶の香りが食卓を満たしている。いつもと変わらない穏やかな午後だった。
「……王都へ?」
イザベルは娘の顔を見つめたまま、落とした匙を拾おうともしなかった。
「うん。来月から授業が始まるの。寮には入れなかったけど、学校の近くで部屋を借りられそうなんだ」
十九歳のエレナは、膝の上で両手を握り合わせた。
一年近く準備してきた。古い絵画の修復技術を学び、いつか自分の工房を持つ。それが幼い頃からの夢だった。
合格通知を受け取ったときには、嬉しくて何度も読み返した。母もきっと喜んでくれる。そう信じていたのだが、目の前のイザベルは、まるで何か恐ろしい知らせを聞いたかのように青ざめていた。
「ママ?」
「ああ……ごめんなさい。少し驚いてしまっただけよ」
イザベル・ヴァルデマールは四十七歳になる。栗色の髪を真珠貝の櫛で美しくまとめ、灰色の瞳と白い肌を持つ、年齢を感じさせない女性だった。今日も深紅のドレスに黒いレースの襟飾りを合わせ、いつものように隙のない身なりをしている。
母はようやく微笑むと、席を立ってエレナを抱きしめた。
「おめでとう。ママ、とても誇らしいわ」
「本当に?」
「もちろんよ。あなたがどれほど頑張っていたか、誰よりも知っているもの」
エレナはほっとして母の背中に腕を回した。
けれど、イザベルはなかなか娘を離そうとしなかった。
「でも、王都は遠いでしょう? 知らない人もたくさんいるし、病気になったらどうするの?」
「もう子供じゃないよ。困ったことがあったら手紙を書くし、休みには帰ってくるから」
「……そうね」
母の手がエレナの髪をゆっくりと梳いた。
「もう、子供じゃないのよね」
その声が少し寂しそうだったので、エレナは何も言えなくなった。
*
その夜、二人は一緒にリンゴのタルトを焼いた。
イザベルは生地の編み方を教えようとしたが、エレナは思わず笑ってしまった。
「ママ、それ去年も教えてくれたよ」
「あら、そうだったかしら」
「一昨年も。その前の年も」
「まあ。じゃあ、来年も教えなくちゃいけないわね」
「もう十分覚えたってば」
母は楽しそうに笑った。
エレナが生地を少し破いてしまうと、イザベルはその部分を指で丁寧につなぎ合わせた。
「ほら、これで大丈夫。形が少しくらい違っていても、素敵なものは作れるのよ」
そんな何気ない言葉が、エレナは好きだった。
父が亡くなってから、母はたった一人で自分を育ててくれた。熱を出せば一晩中そばにいてくれたし、学校で嫌なことがあった日は、話し終えるまで黙って耳を傾けてくれた。
厳しく叱られたこともあったが、愛されていないと思ったことは一度もない。
だから、寝る前に居間で泣いている母を見つけたとき、エレナは胸を締めつけられた。
イザベルは窓辺の椅子に腰かけ、小さな陶器の人形を抱いていた。
「ママ……?」
母は慌てて目元を拭った。
「何でもないのよ。昔のことを思い出していただけ」
エレナは隣に座った。
「クリスマスには帰ってくるよ」
「ええ、分かっているわ」
「ママだって、いつでも王都に遊びに来ていいんだから」
イザベルは返事をせず、膝の上の人形を見つめていた。
白いドレスを着た、小さな少女の人形だった。精巧に作られた顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「あなたのお父さんが亡くなったときね、ママは本当に怖かったの」
母がぽつりと言った。
「あなたまで失ったら、どうやって生きていけばいいのか分からなかった。小さなあなたが熱を出すたび、朝まで眠れなかったのよ。何度も胸に手を当てて、ちゃんと息をしているか確かめたものだわ」
「でも、私は元気に育ったでしょう?」
「ええ。そうね」
イザベルは人形を傍らに置き、娘を抱き寄せた。
ラベンダーと石鹸の匂いがした。
エレナが幼い頃から知っている、安心する匂いだった。
「大好きだよ、ママ」
「ママもよ、エレナ」
額に柔らかな口づけが落ちる。
「あなたが思っているより、ずっと、ずっと愛しているわ」
*
ヴァルデマール家の屋敷は、町外れの丘に建っていた。
三階建ての石造りで、長い廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁には歴代の当主たちの肖像画が並んでいる。庭には白い薔薇が植えられ、東棟の窓には古い柳の枝が触れていた。
二十三ある部屋のうち、普段使われているのは七部屋ほどしかない。
残りの大半は閉め切られていたが、東棟の一室だけは例外だった。
母の人形部屋である。
イザベルは昔から人形を集めていた。最初は骨董市で買った小さな人形だったが、やがて自分でも衣装を仕立て、壊れたものを修復するようになった。
エレナが美術修復に興味を持ったのも、母の影響が大きい。
幼い頃、割れてしまった人形の頬を、イザベルが器用に直してくれたことがあった。
ひび割れを埋め、絵の具を重ね、最後に薄い釉薬を塗る。母の指先で、傷ついた人形が少しずつ元の姿を取り戻していく様子は、まるで魔法のようだった。
「お人形には、人間が忘れてしまった素敵なところがあるのよ」
母はよくそう言った。
「どんなに時間が経っても、変わらずにいてくれるの」
エレナは、その言葉を特に不思議だと思わなかった。
クララ・モンテスが行方不明になるまでは。
クララは町の花屋で働く十九歳の娘だった。肩まで伸びた黒髪と大きな瞳が印象的で、笑うと唇の片端が少し上がる癖があった。
二週間前、エレナは彼女から花束を買っている。
「お母さんへのプレゼント?」
「うん。いつもお世話になってるから」
「それなら、これも持っていって」
クララは小さな白い花を三輪、おまけしてくれた。
そのとき、彼女の左手首には赤い糸のブレスレットが巻かれていた。小さな木製の玉が三つついた、手作りらしい品だった。
そんな彼女の写真が、今は町中の行方不明者の張り紙に載っていた。
エレナはしばらく、その写真から目を離せなかった。
家に帰ると、母は居間で裁縫をしていた。
「ママ、クララ・モンテスって知ってる?」
針を動かしていた手が止まった。
「花屋のお嬢さん?」
「うん。行方不明になったんだって」
「まあ……お気の毒に」
イザベルは縫いかけの布を膝に置いた。
「とても感じのいい子だったのに」
「家族が捜してるらしいよ。弟さんも毎日、町を歩いてるって」
「早く見つかるといいわね」
母は悲しそうにため息をついた。それから、いつもの優しい笑顔を浮かべる。
「寒かったでしょう? 温かいココアを淹れましょうか」
「うん、ありがとう」
このとき、エレナは何も疑わなかった。
*
最初の異変に気づいたのは、それから三日後のことだった。
図書室から自室へ戻る途中、東棟の廊下を歩いていたエレナは、不意に足を止めた。
何かが聞こえた。
コツ、コツ。
小さく、硬いものを叩くような音だった。
音のする方へ歩いていくと、母の人形部屋の前にたどり着いた。
「……ママ?」
返事はない。
扉に耳を近づけると、今度は布を擦るような微かな音がした。
取っ手を回してみたが、鍵がかかっている。
母は普段、この部屋に鍵などかけない。
「エレナ」
突然背後から声をかけられ、エレナは肩を跳ねさせた。
振り返ると、銀の盆を持った母が立っていた。
「こんなところで何をしているの?」
「中から音がしたの。誰かが何かを叩いてるみたいで……」
イザベルは扉に目を向けた。
「ああ、きっと窓の鎧戸ね。風が強い日はよく鳴るのよ」
「でも、風なんて吹いてないよ」
「古い屋敷だから、いろいろな音がするの。明日、職人さんに見てもらいましょう」
母は近づき、エレナの頬に触れた。
「疲れているんじゃない? 最近、勉強ばかりしているでしょう」
心配そうな表情だった。
エレナはそれ以上、何も言えなかった。
その夜、母は寝室まで来て、毛布を肩まで掛け直してくれた。
「ママはいつでもここにいるわ」
幼い頃から何度も聞いてきた言葉だった。
「何があっても、あなたを離さないからね」
いつもなら安心できるはずのその言葉が、その夜はなぜか耳に残った。
*
二日後、イザベルは布地を買いに町へ出かけた。
エレナは母の裁縫箱から、人形部屋の鍵を取り出した。
古い銀色の鍵だった。
手のひらに乗せたまま、しばらく迷う。
母はこれまで、エレナの手紙を勝手に読んだことも、引き出しを開けたこともなかった。そんな母の部屋に無断で入るのは、裏切りのように感じられた。
それでも、あの音が忘れられなかった。
鍵を差し込むと、錠は小さな音を立てて開いた。
扉の向こうから、蝋と古い木材、それに乾燥した花の匂いが漂ってきた。
厚いベルベットのカーテンが外の光を遮り、室内は薄暗い。壁際には棚やガラスケースが並び、その中に大小さまざまな人形が収められていた。
全部で三十二体。
どの人形にも手書きの名札がついている。
アメリア、ローザ、ベアトリス、ルシア……。
絹のドレスを着たものもいれば、ベルベットの服をまとったものもある。髪の一本一本まで丁寧に整えられ、その姿は人間と見紛うほど精巧だった。
けれど、エレナは昔から、この人形たちの目が少し苦手だった。
ただのガラス玉のはずなのに、妙に奥行きがある。
まるで、向こう側から誰かが覗いているようだった。
金髪の人形に近づくと、左の眉の上に小さな傷跡があることに気づいた。
絵付けではない。
本物の皮膚にできた傷のようだった。
「……こんな細かいところまで」
思わず呟いたとき、部屋の隅に見慣れない人形があることに気づいた。
まだガラスケースには入れられておらず、木製の椅子に座らされている。
紺色のドレス。
肩まで伸びた黒髪。
大きな瞳。
そして、片方だけ少し上がった唇。
エレナはその場に立ち尽くした。
「……クララ?」
そんなはずはない。
母の人形は昔から精巧だった。偶然似ているだけかもしれない。
そう思いながら近づいたエレナは、左手首を見て息を呑んだ。
赤い糸のブレスレット。
木製の玉が三つ。
花屋で見たものと、まったく同じだった。
「クララ……なの?」
人形は動かなかった。
エレナは自分の行動が馬鹿らしくなった。人形に話しかけて、どうするというのだろう。
それでも、指先を伸ばして頬に触れた。
カチッ。
小さな音がした。
慌てて手を引っ込める。
もう一度、触れてみる。
カチッ。
今度は確かに、頬の内側から音がした。
「……聞こえてるの?」
返事はない。
「もし聞こえているなら、もう一回……」
数秒の沈黙が流れた。
コツ。
エレナは後ずさった。背中がガラスケースにぶつかり、中の人形が横に倒れる。
その瞬間、部屋のあちこちから音がした。
コツ、コツ。
カタッ。
コツ。
ガラスを叩くような音。陶器が擦れ合う音。棚の奥から伝わってくる小さな振動。
エレナは悲鳴を飲み込み、部屋を飛び出した。
扉を閉め、階段を駆け下りる。
母が帰ってきたとき、彼女は台所で冷めた紅茶のカップを握りしめていた。
「あら、エレナ。顔色が悪いわよ」
イザベルは白い布地の包みを抱えていた。
「……大丈夫」
「手が冷たいじゃない」
母は荷物を置き、娘の額に手を当てた。
「熱はないみたいね。暖炉をつけましょうか」
エレナはその手を見つめた。
小さい頃、熱を出すたびに額を冷やしてくれた手。
転んで泣いたとき、抱き起こしてくれた手。
悪夢を見た夜、朝まで握っていてくれた手。
その手が、あの人形たちに何をしたのか。
どうしても尋ねることができなかった。
*
それから数日、エレナは町の失踪事件について調べ続けた。
古い新聞や行方不明者の張り紙を集め、写真を一枚ずつ確認した。
何年も前に姿を消した女性の写真の中に、左の眉の上に傷がある金髪の少女を見つけたとき、指先が震えた。
人形部屋で見た少女と同じ顔だった。
警察に相談しようと、夜中に何度も電話へ手を伸ばした。
けれど、受話器を持ち上げるたびに迷ってしまう。
母が人間を人形に変えている。
人形が音を立てて返事をした。
そんな話を誰が信じてくれるだろう。
それに、もし本当だったら。
居間では母が暖炉のそばで刺繍をしながら、小さな歌を口ずさんでいた。
エレナが幼い頃、眠る前に歌ってくれた子守歌だった。
その歌声を聞いていると、電話をかける勇気はどうしても出なかった。
「エレナ」
母が顔を上げた。
「王都へ行く前に、特別な晩餐会を開きましょうか」
「……晩餐会?」
「ええ。私の大切な子たちを、あなたにももっと知ってほしいの」
イザベルは微笑んだ。
「いつかは、あなたが受け継ぐものですもの」
*
晩餐会の夜、食堂には三十本の蝋燭が灯されていた。
クリスマスにしか使わない白いテーブルクロスが広げられ、金縁の皿が並んでいる。
そして、食卓には八体の人形が座っていた。
それぞれに椅子が用意され、皿もナプキンも小さなグラスも置かれている。
エレナは入口で立ち尽くした。
「ママ……これは?」
「あら、来たのね。素敵でしょう?」
イザベルは黒いドレスを着ていた。銀糸の刺繍が施され、髪にはベルベットのリボンが結ばれている。耳元には、亡き夫から贈られた真珠のイヤリングが揺れていた。
心から嬉しそうだった。
「今夜はみんなでお食事しましょうね」
エレナは人形たちを見た。
上座の近くにクララが座っている。赤いブレスレットが袖口から覗いていた。
「どうして……ここに?」
「いつも同じ部屋にいたら退屈でしょう? たまには場所を変えなくちゃ」
母は金髪の人形に近づき、襟元を整えた。
「アメリアは人見知りなの。大勢で食事するのが苦手でね」
次に、別の人形の頬を撫でる。
「ローザは少しせっかち。でも、本当はとても優しい子なのよ」
「……ただの人形でしょう?」
母の笑顔がわずかに曇った。
「そんな言い方をしては駄目よ。みんな聞いているんだから」
夕食が始まると、イザベルは全員の皿にスープを注いだ。
人形たちの皿にも。
ナプキンを整え、座り心地を尋ね、今年の秋は冷え込むのが早いと話しかける。その様子は、客人をもてなす普通の晩餐会と何ひとつ変わらなかった。
ただ、母以外の誰も答えない。
「クララはまだ慣れていないのよ」
イザベルは紺色のドレスの皺を伸ばした。
「でも、とてもいい子なの」
エレナはフォークを握りしめた。
「……その子、どこで知り合ったの?」
「クララのこと? お花屋さんよ」
母は平然とワインを注いだ。
「将来のことで悩んでいたみたいだから、少しうちで休んでいかないかって誘ったの」
「……来たの?」
「もちろん」
イザベルは人形に微笑みかけた。
「ねえ、クララ?」
ガラスの瞳の奥に、涙のような光が見えた気がした。
「ママ、デザートを取ってきてくれる?」
「ええ、いいわよ。あなたの大好きなタルトを焼いたの」
母が台所へ消えると、エレナはクララに身を寄せた。
「聞いて。あなたが誰なのか、知ってる」
人形は動かない。
「張り紙を見たの。家族が捜してるよ」
コツ。
小さな音がした。
「私の言ってること、分かる?」
コツ。
「……助けてほしい?」
今度は、すぐに音がした。
コツ、コツ、コツ。
エレナは口元を押さえた。
「必ずここから出してあげる。約束する」
反対側の人形からも音がした。続いて、隣の人形からも。
エレナには、それが助けを求める声のように聞こえた。
「……何人いるの?」
「三十二人よ」
背後から母の声がした。
エレナが振り返ると、イザベルはリンゴのタルトを載せた銀の盆を持って立っていた。
怒ってはいなかった。
ただ、少し悲しそうだった。
「長く一緒にいる子の中には、外の世界がどんな場所だったか忘れてしまった子もいるの」
母は盆をテーブルに置いた。
「エレナ。そろそろ、ちゃんとお話ししましょうか」
*
イザベルは娘を人形部屋の奥にある工房へ連れていった。
エレナは、その小さな扉が開いているところを一度も見たことがなかった。
室内には作業台、絵筆、石膏の型、大小さまざまな瓶が並んでいた。暖炉には火が入り、薬品の匂いが漂っている。
壁には何枚もの肖像画が掛けられていた。
アメリア、ローザ、クララ。
その隣には、彼女たちが失踪する前の写真が貼られている。
クララの写真の下には、母の整った字でこう書かれていた。
『クララ・モンテス。十九歳。十月八日、保存完了』
「……何をしたの?」
イザベルは扉を閉めた。
「守ってあげたのよ」
「何から?」
「傷つけるものすべてから」
エレナは母を見つめた。
「家族がいるんだよ! 帰りを待ってる人たちがいるの!」
「分かっているわ」
母の声は穏やかだった。
「でも、家族だって変わるでしょう? 人は年を取るし、病気にもなる。裏切ることもあるわ。永遠に愛すると約束しても、ある日突然いなくなってしまう」
「だからって、閉じ込めていいわけない!」
「閉じ込めてなんかいないわ。安全な場所にいてもらっているだけよ」
「クララには弟がいるの! あの子を捜してるんだよ!」
母の表情がわずかに揺れた。
「弟だって、いつかは大人になるわ。そして離れていくの」
「クララはここにいたいなんて思ってない!」
イザベルは黙った。
やがて引き出しから革表紙の手帳を取り出した。
「最初は大変だったのよ」
懐かしむような声だった。
「どうしてあんなに泣くのか、分からなかった。慣れるまで時間が必要なのだと思ったの」
「……泣いてたの?」
「ええ。最初の数日はね。何週間も続く子もいたわ」
母は手帳の表紙を撫でた。
「でも、小さな振動でお話ができると分かったの。一回なら『はい』、二回なら『いいえ』。根気よく練習すれば、ちゃんと気持ちが伝わるのよ」
「三回は?」
エレナはクララの音を思い出して尋ねた。
イザベルは少し困ったように首を傾げた。
「三回は……子によって違うわ。早く終わらせてほしいときもあれば、もう休ませてほしいときもある。まだ上手に気持ちを伝えられない子は、何度も叩いてしまうのよ」
「外に出たいって言った子はいなかったの?」
「いたわ」
「それで?」
「そばにいてあげたの」
イザベルは優しく微笑んだ。
「新しいドレスを作って、お誕生日を祝って、寂しくないように毎日話しかけたわ。一人ぼっちには絶対にしなかった」
エレナは後ずさった。
「……おかしいよ、ママ」
母は傷ついたような顔をした。
しばらく黙ってから、手帳を机に置く。
「あなたのお父さんが亡くなったとき、ママはあなたまで失うのが怖かったの」
「それとこれとは違う!」
「同じなのよ」
イザベルはゆっくり近づいた。
「あなたは私のすべてだった。なのに、一年ごとに少しずつ大きくなっていった。絵本を読んでと頼まなくなって、雷の日も一人で眠れるようになって……手を繋いで歩くこともなくなった」
エレナの目から涙がこぼれた。
「それは……大人になったからだよ」
「ええ、分かっているわ」
母の目にも涙が浮かんでいた。
「そして今度は、家を出ていくのね」
「私にも、自分の人生があるの!」
「もちろんよ、エレナ」
イザベルは戸棚を開いた。
中には白いドレスが掛かっていた。
絹の胴衣に、繊細なレースの袖。銀糸で刺繍された小さな花々。襟元には真珠が丁寧に縫いつけられている。
エレナはそのドレスを知っていた。
母が何か月も前から作っていたものだ。
二十歳の誕生日の贈り物だと言っていた。
けれど、今になって分かった。
どうして一度も試着させてくれなかったのか。
そのドレスは、小さすぎた。
人間の娘が着るためのものではない。
人形のためのドレスだった。
近くの作業台には、まだ完成していない陶器の人形が置かれていた。
エレナと同じ顔。
同じ鼻。
同じ唇。
左耳のそばにある、小さなほくろまで。
「驚かせたかったの」
イザベルは囁いた。
「とても綺麗になるわ」
母は人形を両手で持ち上げた。
「もう病気にならない。年を取ることもない。誰にも傷つけられない。そして、ママとずっと一緒にいられるの」
「……嫌だ」
エレナの声は震えていた。
「お願い、ママ……」
「怖がらなくていいのよ」
エレナは作業台にぶつかるまで後ずさった。
「嫌だって言ってるでしょう!」
母は足を止めた。
「今はまだ分からないだけよ」
「歩けなくなる! 話せなくなる! ママを抱きしめることだってできなくなるんだよ!」
イザベルの微笑みが悲しげに歪んだ。
「でも、ママはあなたを毎日抱きしめられるわ」
エレナは言葉を失った。
母は本当に、何も分かっていなかった。
「私の話を聞いてるのに……どうして分かってくれないの?」
イザベルは人形を柔らかなクッションの上に戻した。
「分かっているわ、エレナ」
声が震えた。
「だからこそ、あなたが一生後悔するようなことを、ママは許せないの」
*
どれほどの時間、向かい合っていたのだろう。
やがてイザベルは白いドレスを戸棚へ戻そうとした。
そのとき、エレナは机の上に開かれた手帳を見つけた。
そこには人形の図解と、細かな文字が並んでいた。
『意識は胸部の封印が保たれる限り、人形に結びつけられる』
その下には、別の一文があった。
『封印の破壊によって結合が断たれる可能性あり。結果は不明』
さらに、別のページには人形の顔や身体を作るための細かな図面が描かれていた。
『肖像複製体――対象の容姿を記録し、陶器の器として再現する。意識の封入を行わない限り、複製体はただの人形にすぎない』
エレナはその文章を目で追った。
母は以前から、写真や肖像画を見ながら人形を作っていた。完成したものを娘に見せて、似ているかどうか尋ねることもあった。
だが、工房に置かれた自分そっくりの人形は、単なる贈り物ではなかった。
その胸元には、まだ封印が埋め込まれていない。
代わりに、花の形をした小さなくぼみが残されていた。
イザベルはエレナの視線に気づき、嬉しそうに微笑んだ。
「よくできているでしょう? あなたが小さい頃から、少しずつ記録してきたのよ。いつか一番美しい姿を残してあげたくて」
「……これを作るために、私の写真を集めてたの?」
「ええ。あなたの笑顔も、泣き顔も、全部大切だったから」
エレナは唇を噛んだ。
近くの盆には、小さな楕円形の陶器片が並んでいる。どれにも六枚の花弁を持つ花が刻まれていた。
クララのドレスの襟元から、同じ模様が覗いていたことを思い出す。
「ママ……元に戻そうとしたことはあるの?」
「ないわ」
「どうして?」
「傷つけてしまうかもしれないでしょう?」
「でも、本人が望んでいたら?」
母はため息をついた。
「怖がっている人はね、自分にとって何が一番いいのか、分からなくなることがあるのよ」
エレナはそれ以上、何も言わなかった。
母を説得することはできない。
少なくとも、今夜は。
「……眠くなっちゃった」
そう呟くと、イザベルはすぐに心配そうな顔になった。
「そうね。今日は驚くことが多すぎたもの」
母は娘の頬を撫でた。
「ゆっくり休みなさい。明日、また落ち着いてお話ししましょう」
寝室まで送られ、扉を閉める前にはいつものように額へ口づけされた。
「ママはいつでもここにいるわ。何があっても、あなたを離さないからね」
エレナは足音が遠ざかるのを待った。
それから、窓を開けた。
*
夜の空気は冷たかった。
エレナは幼い頃、何度も窓の下の蔦を伝って遊んだことがある。けれど、二階から降りるのは初めてだった。
枝で手を切り、地面に着く頃にはスカートも破れていた。
それでも走った。
町の警察署までは、およそ三キロ。
靴を泥だらけにし、血の滲む手を握りしめて駆け込んだ。
当直の警官は、最初、彼女の話を理解できなかった。
失踪事件。写真。母の手帳。クララの名前。
警官に少女たちの居場所を尋ねられるまで、エレナは人形のことを口にできなかった。
そして、すべてを話した。
警官はしばらく黙っていたが、やがて上司を呼んだ。
二時間後、数台の車がヴァルデマール邸に到着した。
イザベルは玄関で警官たちを迎えた。
青い絹のガウンをまとい、栗色の髪を肩に流していた。
「何かございましたか?」
警官の後ろにエレナを見つけると、母の表情が和らいだ。
「ああ、エレナ。そこにいたのね」
抱きしめようと近づいてくる。
エレナは一歩下がった。
母の足が止まった。
警官たちは屋敷の中へ入った。
写真と手帳。
三十二体の人形。
そして、胸に刻まれた封印。
すべてが見つかった。
工房に残されていた、エレナの顔をした未完成の人形も押収された。白いドレスと一緒に、別の箱へ丁寧に収められる。
捜査員の一人が人形の中を確かめようと持ち上げたとき、エレナは思わず叫んだ。
「待って! 壊さないで!」
全員が彼女を見た。
「壊したら、どうなるか分からないの!」
イザベルは悲しそうに微笑んだ。
「少なくとも、それは分かってくれたのね」
エレナは母を抱きしめたくなった。
全部悪い夢だったと言ってほしかった。
いつものように、優しく頭を撫でてほしかった。
けれど、そのとき。
ガラスケースの中から、小さな音がした。
コツ。
クララだった。
エレナは人形に近づいた。
「助けるからね」
小さく囁く。
コツ。
*
イザベルは夜明け前に逮捕された。
叫ぶことも、逃げようとすることもなかった。
ただ、人形たちが寒くないように布を掛けてほしいと頼んだ。
警官に連れられて玄関へ向かう途中、母はエレナの前で立ち止まった。
「怒っていないわよ」
エレナは答えなかった。
イザベルは、いつものように娘のコートの襟を直した。
「あなたは正しいことをしたと思っているのね」
「……ママ」
「いつか世の中がどれほどあなたを傷つけるか知ったとき、思い出してちょうだい」
母は微笑んだ。
「ママはただ、あなたを守りたかっただけなのよ」
エレナの目から涙がこぼれた。
「……大好きだよ、ママ」
「ええ、知っているわ」
母の声は優しかった。
エレナは涙を拭った。
「でも……だからって、私の人生を決めていいわけじゃない」
イザベルは長い間、娘を見つめていた。
初めて、何も答えなかった。
*
人形たちは司法当局の管理施設へ移された。
研究者たちは、どうやって作られたのか説明できなかった。
材質は一般的な陶器に似ていたが、内部には分類できない奇妙な構造があった。
エレナは何日も事情聴取を受け、知っていることをすべて話した。
人形の音についても。
最初は精神的なショックによる幻聴だと考える者もいた。しかし、やがて複数の職員が同じ音を聞くようになった。
研究者の一人が、簡単な意思疎通の方法を確立した。
一回なら「はい」。
二回なら「いいえ」。
三回なら「休ませてほしい」。
この合図は何度も確認され、少なくともクララについては安定して使えることが分かった。
最初に意思疎通ができるようになったのも、クララだった。
名前、年齢、弟の名前。
研究者たちが質問を重ねると、返答は失踪者の記録と一致した。
そして、封印を壊す試みを望むか尋ねられたとき、クララは一回、音を立てた。
エレナもその場にいた。
「……どうなるか分からないんだよ」
人形は動かなかった。
それから、コツ、と一回。
「死んじゃうかもしれない」
コツ。
「苦しい思いをするかもしれないんだよ」
コツ。
エレナは目を閉じた。
怖がっている人は、自分に何が一番いいか分からない。
母の言葉が蘇った。
そして、自分もまた、母を悲しませたくなくて何度も本音を飲み込んできたことを思い出した。
エレナは決めた。
「……分かったよ、クララ」
人形の前にしゃがみ込む。
「あなたの人生を、私が勝手に決めたりしない」
研究者が紺色のドレスを慎重に脱がせ、胸の封印を露出させた。
エレナはクララの手を握った。
滑らかな陶器は冷たく、脈もない。それでも親指でそっと撫でると、指先に微かな振動が伝わった。
研究者が細い器具を封印の継ぎ目に差し込んだ。
カチッ。
続いて、ガラスの杯が割れるような音がした。
人形が震えた。
「クララ!」
エレナは叫んだ。
陶器に亀裂が走る。
首から胸へ、胸から頬へと黒い線が広がっていく。
一瞬だけ、呼吸のような音が聞こえた気がした。
そして、人形は崩れ落ちた。
白い破片が机の上に散らばった。
誰も声を出さなかった。
エレナは床に膝をつき、小さな陶器片を両手で包んだ。
血はなかった。
人間の体もなかった。
クララが生き延びた証拠は、どこにもなかった。
けれど、もう、あの小さな音は聞こえなかった。
*
三週間後、エレナは母を訪ねた。
イザベルは、身柄を拘束されたまま入院している精神科病院の白い部屋で、窓辺に座っていた。
簡素な服を着ていた。
レースも、真珠もない。
以前よりずっと老けて見えた。
娘の姿を見ると、母は微笑んだ。
「痩せたわね、エレナ」
エレナは向かいの椅子に座った。
「いろいろ忙しかったから」
「ちゃんと食べなくちゃ駄目よ」
イザベルは娘の手を見た。
「怪我をしているじゃない」
「もう治りかけてるよ」
母が手を伸ばした。
エレナは拒まなかった。
しばらく二人は天気の話をした。
庭の花のこと。
昔、一緒に作ったタルトのこと。
まるで以前と同じだった。
やがてイザベルが尋ねた。
「……あの子たちは元気?」
エレナは視線を落とした。
「大切に扱ってもらってるよ」
「クララは?」
答えるまで、少し時間がかかった。
「……もう、コレクションにはいない」
母の手が離れた。
「どういうこと?」
「自由になりたいって言ったから、封印を壊すことにしたの」
イザベルは目を閉じた。
「そんなこと、するべきじゃなかったわ」
「クララが決めたんだよ」
「あの子は怖がっていただけなの」
「十九歳だったんだよ、ママ」
母は窓の外を見た。
「私はただ、あの子たちに幸せになってほしかったの」
エレナの胸が痛んだ。
「……何を幸せだと思うか、一度も本人たちに決めさせなかったでしょう?」
母は答えなかった。
面会時間が終わり、エレナは立ち上がった。
扉に向かう途中、母が呼び止めた。
「エレナ」
振り返る。
「……また来てくれる?」
エレナはすぐに「うん」と言いかけた。
今までなら、そうしていた。
母を悲しませたくなかったから。
けれど、今回は少し考えた。
「……分からない」
イザベルの肩が小さく落ちた。
「そう……」
エレナは扉に手を掛けた。
「でも、また来るとしたら、それは私がそうしたいと思ったときだよ」
母は窓辺に座ったままだった。
泣きもしなかった。
怒りもしなかった。
ただ、膝の上に両手を置き、存在しない服の皺を何度も伸ばしていた。
*
十一月。
エレナは王都へ旅立った。
修復学校の近くに、小さな部屋を借りた。
暖房の効きは悪く、天井には雨染みがあり、窓から見えるのは煉瓦の壁だけだった。
初めて一人で過ごした夜、エレナは泣きながら眠った。
ラベンダーの匂いが恋しかった。
リンゴのタルトが食べたかった。
廊下を歩く母の足音が聞きたかった。
今では怖くなってしまったものさえ、懐かしかった。
それでも、翌朝。
エレナは自分の手で窓を開けた。
冷たい空気が部屋に流れ込む。
コーヒーを淹れ、コートを着て、初めての授業へ向かった。
ポケットには、クララの写真が入っていた。
失踪者の張り紙に使われていた写真と同じものだ。
クララの弟が、家族で葬儀を行ったあとに渡してくれた。
あの夜、クララが死んだのか。
それとも、誰にも理解できない方法で自由になれたのか。
エレナには分からなかった。
ただ、最後の一回の音を覚えていた。
迷いのない返事。
彼女自身の決断。
それを忘れずにいようと思った。
*
司法当局の保管施設では、残された三十一体の人形が、それぞれ別のガラスケースに収められていた。
一体ずつ名前の札がつけられ、職員たちは小さな音を使って意思疎通を続けていた。
本人の同意なしに封印を壊すことは禁じられていた。
それとは別に、工房から押収された未完成の人形や衣装も保管されていた。
その中には、白いドレスを着た小さな人形が一体あった。
栗色の髪。
左耳のそばにある、小さなほくろ。
エレナをモデルにして作られた複製体だった。
押収時の記録には、胸部の封印が未装着であり、意識の存在を示す反応もないと記されていた。
職員たちはそれを、イザベルが完成させることのできなかった最後の作品だと考えていた。
ある深夜のこと。
見回りをしていた警備員が、その人形の保管ケースの前で足を止めた。
何かが聞こえた気がしたのだ。
耳を澄ませたが、廊下は静まり返っている。
警備員は懐中電灯を向け、ガラス越しに人形を確かめた。
白いレースのドレス。
穏やかに微笑む顔。
首から下げられた小さな名札には、青いインクで一文だけ記されていた。
『私の可愛い娘が、おうちに帰ってきたときのために』
警備員は眉をひそめた。
そのとき、ケースの中から小さな音がした。
コツ。
彼は思わず顔を近づけた。
コツ、コツ。
さらに二回。
三回目の音が消えると、再び静寂が戻った。
警備員は慌てて記録簿を開いた。
この人形には、まだ意識が封じられていないはずだった。
それどころか、胸の封印そのものが存在しないと記されている。
彼は懐中電灯を持ち直し、人形の襟元を照らした。
白いレースの下に、何かが見えた。
小さな陶器の円盤。
そこには、六枚の花弁を持つ花が刻まれていた。
警備員は息を呑んだ。
押収されたときには、確かに何もなかったはずなのに。
ケースの鍵を取り出そうとした、その瞬間だった。
人形の胸元から、もう一度音がした。
コツ。
警備員は動きを止めた。
彼は研修で、人形たちとの意思疎通の方法を教わっていた。
一回は「はい」。
二回は「いいえ」。
三回は「休ませてほしい」。
だが、今の一回は何に対する返事なのだろう。
誰も質問などしていない。
警備員が戸惑っていると、廊下の奥で電話が鳴り始めた。
夜間受付からだった。
彼は人形から目を離し、受話器を取った。
「はい、保管室です」
『すみません。王都の修復学校から確認の電話が入っています』
「修復学校?」
『ええ。エレナ・ヴァルデマールさんという学生について、こちらに問い合わせがありまして』
警備員は白い人形を振り返った。
『学校の職員によると、今日の授業が終わってから姿が見えないそうです。まだ帰宅していないので、念のため確認したいと』
彼は返事をしようとした。
だが、その前に。
背後のガラスケースから、音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
三回。
警備員はゆっくりと振り返った。
白いドレスの人形は、先ほどと同じ姿勢で座っていた。
ただ、その頬には一筋の光が走っていた。
ガラスの瞳からこぼれた雫が、陶器の頬を伝っていたのだ。
そして、誰も触れていないはずの名札が、かすかに揺れていた。
『私の可愛い娘が、おうちに帰ってきたときのために』
電話の向こうで、職員が何かを尋ねている。
しかし警備員には、もうその声が聞こえていなかった。
人形の小さな唇が、ほんのわずかに開いていた。
そこから聞こえたのは、かすれた、少女の声だった。
「……ママ」
次の瞬間、保管室の照明が消えた。
暗闇の中で、陶器を叩く音だけが響いた。
コツ。
コツ。
コツ。
まるで、誰かが迎えに来るのを待っているかのように。
――完――
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