ヒグマを殺した男
静寂が、場を包む。
長身の父上《今川範国》よりさらに高い背に、分厚い肉をまとわせて、その男が鎮座する。
細川清氏、足利一門細川家の当主にして、次期執権候補筆頭。3か国を有する、大大名。
※
お待ちください。といわれて、何時間経っただろうか。
しびれたしびれたと健気に訴え続けた我が両足は、今やうめき声ひとつあげない。
『致命傷は痛くない』と笑った隻眼隻腕の老僧の姿を必死に頭から追い払いながら、今川貞世は正座を続けた。
石山寺から西に数日。屋外に男がひしめくこの一画に一門衆の子息たち、張りぼて軍の神輿たちが集められていた。
みながみな、弱い立場である。今をときめく細川家に家紋付きの命令文を突き付けられては断れない。
たとえ日が落ちたとしても、こうして待たなくてはならないのだ。
・・・にしても待たせすぎである。太陽がもう少しで西の空へダイブする。
子息達もざわざわと落ち着きがない。大した苦労もせず育ってきたわけで、当然『耐える』ことに慣れていない。
ざわめきは次第に大きくなり、「これだから××は。」といった危うい陰口が聞こえ始めたころ、先ぶれがしずしずと天幕をくぐった。
「大殿のおなーりー。」
格式張ったしぐさとともに、能でしか聞かないような声色で幕の向こうに声が飛ぶ。
ざざざっ
一斉に武士たちが幕をくぐり、二列になって平伏した。ぽっかりと空間ができる。
異様な空気を感じ取り、子息たちも静まり返った。
幕の向こうから、熊が現れた。
巨漢、巨体。
特注であることが疑いようもないほどの大鎧をまとって、緩慢な動きで床几へと歩む。
どかっ
重量のある物体を地面がきしみながら受け止めた。
細川家当主、細川清氏。足利幕府のNO.3。
※
子息たちの中でもっとも格の高い青年が進み出る。
勇ましく名乗りを上げると、出陣する旨を清氏に告げた。
場が、殺気立った。
清氏が、書状から目を離さずに返答したのである。
戦は武士の本懐、出陣礼はそのスタートである。どんなに格下の相手であっても、必ず礼をもって応じるのが慣例であった。
声を荒げて抗議する青年を、清氏は右手であしらう。
青年は一層顔を赤くしたまま、引きずられるように場を離れた。
ざわめきだけが場に残る。それも怒りを多分に含んだものだ。いくら率いる兵が少数とはいえ同じ一門衆に対し、さんざ待たせた挙句この態度とはいかなる料簡か。
そんな声が、聞こえてくるようだった。
ひとりひとり憮然とした態度で名乗りをあげる。清氏はおざなりに右手を払い続けた。書状の山は、積みあがっていく。
いやだなあ。
貞世は顔をしかめながら進みでる。おもねれば子息たちの反感を買うし、さてどうするべきか。
まあ、いいか。目を付けられてもいいことなどない。場の空気に合わせよう。
「今川範国が次男、貞世でございます。」
清氏は、一瞥もしない。
「~~~」
出陣の挨拶にも無関心の様子で、次の書状の封を開ける。
「~~~。では。」
失礼いたします、と場を立つと、背中に声がかかった。
「今川。大殿のご温情を忘れるでないぞ。」
貞世はくるりと振り向く。相変わらず清氏の視線は書状に向いたままだ。
「一族郎党、尊氏様に忠誠を尽くす所存です。」
ぺこりと頭を下げて、天幕をくぐった。




