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人の権利はなぜ守られなければならないかについて

作者: L(not R)
掲載日:2025/10/04

 この文章の構成は以下の通りである。まず相互保証原理の基礎を論じ、次に予測可能性がシステム安定にもたらす効果を歴史的事例とともに検証する。その後、既存の自由主義理論との差異を明確化し、合理的動機づけの実効性をゲーム理論的視点から検討する。最後に、権力の恣意性排除と移行戦略について論じる。

 私は人間は他人の権利を尊重すべきだと考える。なぜなら他人の権利を侵害する人間や組織は自身の権利も侵害するからである。ただし、ここで重要な問いが生じる。なぜ最初に人々は他者の権利を尊重するシステムを構築するのか。私はこれを、ホッブズが万人の万人に対する闘争と呼んだ状態からの脱却として説明する。権利の相互不尊重が続く社会では、誰もが常に他者からの侵害リスクに晒され、防衛コストが極大化する。この非効率な状態から脱却するため、人々は相互尊重というルールに合意する方が合理的だと判断する。つまり、システムの起源もまた自己保存の合理性に基づいている。ただし、私の理論がホッブズと決定的に異なるのは、ホッブズが強力な主権者(リヴァイアサン)による無制約の強制を必要としたのに対し、私は憲法、三権分立、民主的統制によって制約された司法権と、市民社会による分散的な監視によって同じ目的を達成できると考える点である。この文章は人権思想に典型的な道徳的正統性ではなく、合理性に裏打ちされた機能的正統性を出発点とすることで、自由主義的な制度の安定を説明しようとする試みである。この点で、私の理論は自由主義の伝統内でも独自の位置を占める。ロックが自然権を神から与えられた道徳的事実として扱い、ロールズが無知のヴェールの下での道徳的直観に訴え、ノージックが権利の不可侵性を自明の公理として出発したのに対し、私は権利保護を自己保存の合理的帰結として導出する。つまり、権利は発見されるものでも直観されるものでもなく、相互利益の計算から構築される「不可侵の防御線」である。

 ゆえに、相互尊重は単なる理念ではなく、自身の自由を守るための絶対的な防御原理である。他人の権利の侵害を認める人が自身の権利の侵害を訴えても説得力を持たないが、自身が他者の自由を守ることは、自身の自由を制限しようとする動きに対して「他人の自由を侵害している」という普遍的な反論の武器を社会全体に与える。これは相互保証型の自由の保険であり、他人の権利は自身の権益に対する防御壁として機能する。

 さらに重要なのは、法の予測可能性である。ここで「予測可能性」とは、個人が自己の行動の法的・社会的帰結を事前に合理的に予測できる状態を指す。ある個人や集団の権益が恣意的に侵害される社会では、今日の隣人の自由が奪われたなら、明日は自身の自由が奪われるかもしれない。普遍的に他者の自由を尊重し、恣意的な侵害を許さないシステムこそが、最も予測可能で安定したシステムとなる。

 歴史的事例を検討すると、予測可能性の有無が制度安定を左右することが明らかになる。ソビエト連邦末期のように恣意的な権力行使が横行した体制は、市場の予測可能性を失い、経済の長期的安定を損なった。また現代中華人民共和国における検閲や統制は、短期的安定をもたらす一方で、社会全体の信頼や自由なイノベーションを阻害し、長期的なリスクを高めている。このような歴史的・現代的事例は、予測可能性が社会安定と制度効率の核心にあることを示している。

 対照的に、戦後西欧諸国やアメリカ合衆国では、マーシャル・プランによる復興支援や欧州連合法体系による法的安定、さらにはアメリカ合衆国憲法における権利保障の徹底といった制度的枠組みが整えられた。欧州連合統合においては、加盟国間で法的予測可能性を高める超国家的な司法機構である欧州司法裁判所の存在が経済活動の信頼性を支えた。オランダや北欧諸国における多党制の下での政治的安定も、このような予測可能性の枠組みが制度に埋め込まれていることを示す一例である。これらの国々では、政権交代が頻繁であっても制度的安定が保たれ、投資環境や社会信頼が揺らがなかった。北欧やオランダの多党制は、制度の安定が単一政党支配や強権的秩序によらずとも実現できることを実証している。またアメリカ合衆国では、連邦最高裁が表現の自由や市民権をめぐる判例を通じて憲法保障を具体化し、制度の安定性を確固たるものにした。こうした仕組みによって権利の尊重と法の予測可能性が担保された。

 ここで注目すべき対照的事例として、ワイマール共和国の崩壊がある。1919年制定のワイマール憲法は当時最も進歩的とされたが、大統領緊急令(第48条)という恣意的権力行使の余地を残した。ハイパーインフレーション(1923年)と世界恐慌(1929年)という経済的混乱の中で、この条項が濫用され、予測可能性は崩壊した。1930年以降、議会を経ない緊急令が常態化し、人々は「明日何が違法になるか」を予測できなくなった。この予測不可能性こそが、ナチスの権威主義的「秩序」への需要を生み出した。ワイマールの教訓は、形式的な権利保障だけでは不十分で、権力の恣意性を構造的に排除する仕組みが不可欠であることを示している。

 逆に、戦後日本は興味深い成功例を提供する。GHQ占領下で導入された日本国憲法は、統治権力の抑制に特化した設計(第9条による軍事力の制限、違憲審査制、地方自治の保障)を持つ。経済的には1950年代の高度成長期、政治的には55年体制という長期単独政権が続いたが、司法の独立と報道の自由が維持されたため、予測可能性は保たれた。企業は30年先を見据えた設備投資を行い、個人は終身雇用を前提としたライフプランを立てられた。この事例は、民主的政権交代がなくとも、権力抑制の制度的枠組みがあれば予測可能性を確保できることを示唆している。

 ただし、西欧諸国や日本の安定は予測可能性だけで説明できるわけではない。植民地からの富の収奪、冷戦構造による米国の支援、既存の文化的・制度的蓄積など、複数の要因が絡み合っている。私の理論は、これらの中で予測可能性と権利尊重が長期的安定の必要条件であると主張するものであり、十分条件であるとは主張しない。重要なのは、他の条件が満たされていても、権利の恣意的侵害が横行すれば制度は崩壊するという点である。

 この予測可能性に基づく制度論は、ロックの自然権論とも、ロールズの正義論とも、ノージックのリバタリアニズムとも異なる基礎づけを持つ。ロックは、人間が生まれながらにして生命・自由・財産への権利を持つと主張し、その根拠を神の意志や自然法に求めた。しかしこの基礎づけは、神学的前提を共有しない者には説得力を持たない。ロールズは、無知のヴェールという思考実験を通じて、合理的個人が選択する正義の原理を導出しようとした。しかしこのアプローチは、人々が道徳的公正さを重視するという前提に依存している。ノージックは、個人の権利を自明の公理として出発し、最小国家以外のあらゆる国家を権利侵害として退けた。しかしなぜその権利が存在するのかという問いには答えていない。私の理論はこれらすべてから距離を置く。権利は神から与えられたものでも、道徳的直観から導かれるものでも、自明の公理でもない。権利は、予測可能性と相互保証という、自己保存の合理性から構築される制度的産物である。

 ここで道徳的正統性とは、隣人愛や義務感などの道徳的理由によって制度を支える根拠を意味し、一方で機能的・合理的正統性とは、制度が予測可能性や自己保存を通じて合理的に支持される根拠を指す。この原理は、私が人権思想から道徳的な義務を借りることなく、自由を擁護する論理的な道を開く。すなわち、道徳的な人権思想が、他者の自由を守るのは、そうするのが正しいからであるという道徳的義務的な理由で他者の自由と権利を守るのに対して、私は、他者の自由を守るのは、そうしないと相互保証の原理が破壊され、自身の自由が不可逆的に失われるからという機能的原理的な理由で他者の自由と権利を守るのである。

 前述の道徳的正統性に対置される形で、私の理論は機能的・合理的正統性に依拠する。この機能的相互保証原理こそが、私の思想に最も強力な正統性を与える基盤である。

 私のこの、他者の権利を守らなければ、自身の権利も守られなくなるという理論は、人々にシステムが私の権利を守るという強い期待と、システムを守ることに私自身の利益があるという動機を与える。人々はシステムを道徳的に正しいからではなく、自己の生存と利益を確保する上で必要不可欠な最良の保険だからという冷徹な理由で支持することになる。結果として、この相互依存は、システムへの計算された信頼を生み出す。もちろん、人々は冷徹な自己保存の計算だけで他者の権利を尊重できるのかという懐疑があるかもしれない。しかし制度設計が人々の利害を調整し、権利尊重が自己保存の延長線上にあることを明確にすれば、この動機づけは十分に機能する。制度が利害を調整すれば、冷徹な自己保存と他者の権利尊重は矛盾しない。つまり、人々は隣人愛によらずとも、合理的利害の一致によって他者の権利を守る方向へ行動するのである。人々は、システムが崩壊すれば自分の権利も失われることを知っているため、積極的な支持を表明し、反体制的な動きを自己利益への脅威として冷徹に排除する。これが相互依存による正統性の発生である。

 ここで批判的に検討すべきは、純粋な自己利益だけで権利尊重システムが維持できるかという問題である。フリーライダー問題、つまり他者が権利を尊重している間に自分だけ違反して利益を得ようとする誘因は常に存在する。また、短期的には権利侵害が利益をもたらす場合もある。私の理論がこれに答えるには、制度設計の精緻化が不可欠である。具体的には、権利侵害に対する確実で迅速な制裁メカニズム、長期的利益を可視化する情報開示制度、世代を超えた利益の連鎖を保証する教育システム、といった補完的制度が必要となる。これらが機能して初めて、個人の合理的計算が他者の権利尊重という行動に結びつく。制度なき自己利益は単なる無秩序だが、適切に設計された制度下の自己利益は秩序を生む。しかしこの制度設計は単なる理論的理想ではなく、実証的裏付けを持つ。ゲーム理論における繰り返し囚人のジレンマの実験では、参加者が相互作用を繰り返す環境下で、協力行動が自発的に創発することが示されている。また、オストロムによるコモンズ管理の研究は、中央集権的強制なしに、地域社会が相互監視と段階的制裁によって資源を持続的に管理できることを実証した。これらの事例が示すのは、適切な制度的条件すなわち繰り返し相互作用、評判メカニズム、段階的制裁が整えば、人々は道徳的動機なしに協力的行動を選択するという点である。私の理論は、この原理を権利尊重システム全体に拡張したものといえる。ただし、実験室的条件と現実社会の間には重要な差異がある。オストロムが研究した成功事例は、比較的小規模(数十人から数百人)で、構成員が相互に顔を知っており、逸脱者を直接識別できるコミュニティであった。現代国民国家のように数千万人規模で、匿名性が高く、構成員の入れ替わりが激しい社会では、直接的相互監視は機能しない。この規模の問題を克服するには、三つの制度的工夫が必要となる。第一に、評判の可視化システムである。信用情報機関、職業資格制度、司法判決の公開などにより、匿名社会でも個人の「協力履歴」を追跡可能にする。第二に、段階的制裁の自動化である。税金滞納への延滞金、交通違反の点数制度など、人的判断を最小化した機械的制裁により、恣意性を排除しつつ確実性を高める。第三に、世代間の利益連鎖の明示化である。年金制度や環境保護規制は、現世代の協力が次世代の利益となり、それが巡り巡って自分の老後や子孫に返ってくる構造を可視化する。これらの工夫により、大規模匿名社会でも「裏切りは割に合わない」という計算を成立させることができる。重要なのは、道徳的説得ではなく、制度設計による利害調整である。

 さらに私の理論は権力の恣意性の排除が行われることで、予測可能性の確保がなされる。当然、思想の自由や個人の権利が絶対的に守られるという誓約は、権力者に対しても同様に適用される。権力は、システムの機能的安定という名の下でも、個人の権利を恣意的に侵害することを許されない。なぜなら、その行為は他者の権利を守らなければ自身の権利も守られなくなるという原理そのものを破壊し、システム全体の崩壊リスクを高め、結果として社会全体の長期的生存能力を損なうからである。しかし現実には、既存の権力者は現状維持そのものから利益を得ており、システム崩壊を必ずしも脅威と認識しない。この権力の非対称性こそが、理論から実践への最大の障壁である。この問題に対して私の理論は、権力の分散と相互牽制の制度化を提案する。具体的には、司法の独立、報道の自由、市民社会の監視機能といった複数の権力抑制装置を組み込むことで、どの単一アクターもシステムを独占できない状態を作り出す。この分散型の権力構造においてこそ、各アクターは他者の権利を侵害すれば自分も侵害されるという相互保証の論理に従わざるを得なくなる。いずれにしてもこの予測可能性は、長期的な投資、競争、イノベーションの土台となり、システムが効率的に機能し続けるための最も強固な制度的基盤となる。しかし、ここで決定的な疑問が生じる。既存の権力者が、なぜ自発的に自らの権力を分散させる制度を受け入れるのか。歴史的には、この問題に対する三つの異なる経路が存在した。第一の経路は、外部圧力による強制である。戦後日本とドイツの民主化は、占領軍という外部権力による制度設計の強制であった。第二の経路は、内部崩壊の恐怖による自発的改革である。19世紀イギリスの選挙法改正(1832, 1867, 1884年)は、フランス革命の記憶と労働者運動の圧力の下で、支配階級が革命を回避するために段階的に権利を拡大した事例である。第三の経路は、経済的合理性による連合形成である。名誉革命(1688年)では、商人階級と議会派貴族が、予測可能な法制度による経済発展という共通利益で結びつき、王権を制限した。現代社会における移行戦略は、この第三の経路、すなわち「権力分散から利益を得る連合」の構築が最も現実的である。具体的には、以下の段階を踏む必要がある。第一段階では、経済界への訴求を優先する。司法の独立と契約法の予測可能性は、外国投資の誘致と国内経済の活性化に直結する。権威主義体制下でも経済発展を求める支配層にとって、この改革は受け入れやすい。中華人民共和国が1990年代に契約法を整備し、WTO加盟のために知的財産権保護を強化したのは、この論理による。第二段階では、中産階級の取り込みを図る。財産権保護と言論の自由は、教育を受けた中産階級の利益に合致する。韓国の民主化(1987年)や台湾の民主化(1990年代)では、経済発展で成長した中産階級が民主化運動の主力となった。第三段階で初めて、完全な権力分散と普遍的権利保障を実現する。この段階では、既に前二段階で形成された利益連合が、既得権益の抵抗を上回る政治的力を持つことが前提となる。この段階的アプローチの鍵は、各段階で「部分的改革でも明確な利益を得る集団」を創出し、彼らが次の改革の推進力となる好循環を作ることである。革命的な一気の転換ではなく、漸進的な利益の積み重ねによる移行こそが、既存権力の抵抗を最小化しつつ安定的な制度変革を達成する現実的経路である。

 私の思想と道徳的な人権思想との違いは明確である。人権思想が隣人愛によって社会を安定させるのに対し、私の思想は自己保存の合理性によって同じ目的を達成する。ただし、ここで認めなければならないのは、合理性に基づくべきという私の主張それ自体が、一つの規範的立場であるということだ。私は道徳を排除しているのではなく、「原理的遵守」が「長期的安定」を保証するという機能的原理主義的な基盤を提案しているのである。

 ここで重要な哲学的問いに応答しておく必要がある。「合理性に基づくべき」という主張それ自体が一つの規範ではないか。もしそうなら、道徳を排除したつもりが、別の道徳を密輸入しているだけではないか。この批判に対する私の応答は以下の通りである。確かに「合理性に基づくべき」は一つの規範的立場である。しかしこの規範は、他の道徳的規範とは根本的に異なる性質を持つ。道徳的規範(「隣人を愛せよ」「正義であれ」)は、特定の価値観や世界観を前提とし、それを共有しない者には説得力を持たない。これに対して、合理性の規範は、生命体としての存続という、あらゆる価値観に先立つ物理的事実に基づいている。より正確に言えば、私の理論は「合理性を価値として選べ」と主張しているのではない。そうではなく、「あなたがすでに存続を望んでいる以上、論理的帰結として合理的システムを支持せざるを得ない」という条件的必然性を指摘しているのである。これは道徳的説得ではなく、論理的導出である。ただし、この論理的必然性は、一つの重要な前提に依存している。それは「人々が存続を望む」という前提である。もし誰かが真に自己破滅を望むなら、私の理論はその人を説得できない。しかし、そのような人は社会システムの構成員として想定する必要がない。なぜなら、自己破滅を望む者は、定義上、いかなる社会秩序にも参加する動機を持たないからである。したがって、私の理論は「すべての可能な価値観」を説得しようとするものではなく、「存続を望むすべての合理的アクター」に対して、論理的に必然的な帰結を示すものである。ここで「合理的アクター」とは、自己の利益を一貫して計算し、その計算に基づいて行動できる主体を意味する。この意味で、これは道徳理論ではなく、合理性の構造分析である。さらに重要な点は、この合理的基礎の上に、人々は自由に多様な道徳的・文化的価値観を築くことができるということである。私の理論は、社会の土台としての制度設計は合理性に基づくべきだと主張するが、その上で人々がどのような人生の意味を見出すかは、各人の自由である。ある人は宗教的献身に、ある人は芸術的創造に、ある人は家族との絆に、最高の価値を見出すだろう。合理的制度は、これらの多様な価値追求を可能にする中立的な枠組みとして機能する。この意味で、私の理論は価値相対主義でも価値虚無主義でもない。むしろ、価値多元主義を可能にする条件を合理的に基礎づける試みである。

 ここでロールズとの比較が有益である。ロールズの正義の二原理は、無知のヴェールという思考実験を通じて、人々が道徳的に公正な原理に合意すると想定する。しかし私の理論は、そのような道徳的直観を必要としない。人々は公正さを求めて権利を尊重するのではなく、自己保存のために権利を尊重する。ロールズが道徳的直観から原理を導くのに対し、私は合理的計算から原理を導く。しかし、一度確立された原理は、安定性のためであっても侵害されない絶対的なものと見なされる。この逆転こそが、私の理論の最も急進的な側面である。

 この理論の強みは、道徳的・感情的動機に依存しないため、人々の善意や美徳が枯渇した状況でも機能し得る点にある。逆に弱みは、適切な制度設計なしには単なる利己主義に堕する危険性である。したがって、この機能的相互保証原理を実装するには、精緻な制度設計と段階的な移行戦略が不可欠となる。

 移行の道筋としては、まず司法の独立など基礎的な権力分散を確立し、予測可能性の高い法制度を整備し、長期的利益の可視化を通じて人々の行動様式を変容させる、という段階を踏む必要がある。この過程では、既存の権力構造との軋轢が不可避であり、それをどう乗り越えるかが実践的課題として残される。

 この移行における最も困難な問題は、いわゆる第二段階の集合行為問題である。権利尊重システムが確立すれば全員に利益をもたらすことは理解されていても、そのシステムを構築するコストを誰が負担するのかという問題が生じる。権威主義体制から民主的法治国家への移行を試みた多くの国々が、この問題で躓いてきた。この課題に対する一つの答えは、段階的利益の可視化である。すなわち、完全なシステムが実現する前の部分的改革でも、特定の集団に明確な利益をもたらすように設計することで、改革の推進力を生み出す。例えば、司法の独立は当初は経済界の支持を得やすい。なぜなら契約の予測可能性が高まり、投資環境が改善するからである。このように、異なる利益集団を段階的に取り込みながら制度改革を進めることで、移行の現実的経路が開かれる。

 ただし、この理論の射程には限界がある。私の理論は、制度的基盤としての権利保証は合理性に基づくべきだと主張するが、その上に築かれる人間関係の豊かさまで合理性だけで説明できるとは考えない。法の予測可能性は社会の土台であり、その上で人々は信頼、友情、連帯といった道徳的・感情的紐帯を育む。重要なのは、これらの紐帯の美しさに目を奪われて、それを支える土台の合理的設計を怠ってはならないという点である。感情が枯渇しても機能する制度こそが、感情が豊かに花開く条件なのである。

 最終的に、私の理論が目指すのは、道徳的献身に頼らずとも人間の自由と権利が保障される社会である。これは人間性への悲観ではなく、むしろ人間の合理性への信頼に基づいている。人々は冷徹に自己利益を計算するからこそ、適切に設計されたシステムの下では他者の権利を尊重する。この視点こそが、倫理的楽観ではなく合理性への信頼に立脚した、現代社会の持続的安定を保証する理論的核心である。ただしその実現には、理論の精緻化と制度設計の具体化という、さらなる知的作業が求められる。

 以上の議論をまとめよう。私の理論は、権利を道徳的理想ではなく、システム存続の機能的要件として再定義した。この転換により、三つの重要な帰結が得られる。

 第一に、権利保護は「善人の美徳」ではなく「合理的アクターの計算」に基づくため、人々の善意に依存しない安定したシステムが構築できる。第二に、予測可能性という客観的基準により、権力の恣意性を構造的に排除できる。第三に、段階的移行戦略により、既存権力の抵抗を最小化しつつ改革を進められる。

 ただし、この理論が機能するには、精緻な制度設計が不可欠である。以下では、その制度設計の核心、すなわち権力の手続的制約について論じる。

 これまでの議論で、権利がシステムの存続という機能的要件から導かれることを示した。しかし、この「合理的存続の論理」そのものが、権力の恣意的な行使を通じて、システムを内部から破壊する危険性を孕む。すなわち、「システムにとっての合理性」を誰が、どのように定義・適用するかという問題である。もし、特定の権力者が「システムの安定のため」という名目で個人の自由を恣意的に制限するならば、予測可能性は失われ、システムは硬直化し、結果として存続の合理性は崩壊する。

 このため、真の合理的存続のためには、「合理性の定義と適用」自体が恣意性から最大限に保護される必要があり、ここに権力運用の手続き的制約が導出される。

 統治権力は、自己保存の合理性を維持するための最小限の情報処理・秩序維持機構としてのみ機能することが許容される。統治権力の権限は、「システムの存続と予測可能性維持に必須な機能(国防、治安、司法の標準化、共通インフラ)」に限定される。この範囲を超える権力行使は、存続の論理的必然性との関係を証明する厳格な合理性の監査に服さなければならない。また、参政権は単なるフィードバックではなく、「合理性の維持を権力者に強制する義務」としての監査権である。統治権力は、この監査権行使の機会を妨害するすべての行為(情報統制、言論の抑圧)を禁じられる。監査権の行使が妨害された場合、統治権力の正統性の前提が崩壊する。

 また、単一の機関に「合理性」の定義を委ねることは、システムの存続に対する単一障害点(Single Point of Failure)を生み出し、非合理的である。それゆえ、権力は複数の相互監視システムに機能的に分割される。「ルールの制定機能(立法)」、「ルールの適用機能(行政)」、「ルールの解釈機能(司法)」は、合理性の定義に対する異なる側面として分割され、相互に相手の裁量を制約する機能的役割を持つ。立法機関が制定するルールは、「誰でもが解釈の余地なく機械的に適用できる」という手続き的中立性の原理を最大限満たさなければならない。これにより、行政(統治者)による「合理性」の恣意的な定義を防ぎ、予測可能性を確保する。例えば、統治者は「市民の健康維持」を名目に個人の移動を制限できない。制限は「移動の自由」への侵害であり、それがシステム存続に必須であることの厳格な機能的・時間的限定の証明を要する。

 さらに、システム存続の合理性を保証する究極の制約は、統治者自身が、そのシステムを破壊した場合に抵抗権の対象となる論理的必然性を受け入れることにある。抵抗権は、システムの安定を破壊するような極度の恣意的な権力行使(暴政)に限定される。この暴政とは、「法の予測可能性と自己所有権の根幹を、自らの私的な利益のために意図的に破壊する行為」と客観的に定義される。統治権力は、システムを破壊する行為が、自己の存続の論理的必然性に反することを理解し、「自分が暴政を行使した場合、自分が排除されることは合理的である」という自己否定の論理を、統治の前提として受け入れる。これは、権力に対する究極の自己制約となる。

 なおこの理論的枠組みから導かれる実践的含意として、権力者の恣意的裁量を拡大する政策は採用されるべきでない。例えば、誰が特定の人種・民族・性別に属するかの判断に主観が入り込む余地のあるアファーマティブアクションの推進や、何が「ヘイトスピーチ」に該当するかの判断を権力者に委ねるヘイトスピーチ規制は、予測可能性を損ない、権力の恣意的行使を招くため、この理論的立場からは支持できない。重要なのは、これらの政策が目指す目的、例えば平等や社会的調和、そのものを否定するのではなく、主観的判断を必要とする手段が権力増大というより大きなリスクを生むという機能的判断である。

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