第8話
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ユリィナと、王子レオニス……
最初はただ、夜ごとに訪れては、眠る少年の小さな手をそっと握り、悪夢に怯える彼に優しく声をかけることしかできなかった。
だが、ある朝。レオニスは自ら部屋にユリィナを招き入れ、ためらいがちにこう言ったのだ。
「……母の声を、聞かせてほしい」
その日を境に、ユリィナは日中も王子のそばにいることが多くなった。
初めは遠目に見ていた侍女たちの視線も、いつしか安心が混じるようになり、彼女の存在は、いまやひとりの“寄り添う者”として受け入れられつつあった。
■■
ある春の午後のことだった。
淡い陽光が差し込む中庭。
季節の花が揺れる小道を、ユリィナとレオニスは並んで歩いていた。
そのとき、サミュエルがどこからともなく姿を現し、
いつものように杖を突き、ふたりに近づく。
「陛下、本日は実に、散歩日和ですな」
その声に、レオニスはぱっと顔を輝かせた。
「ほらね!今日もきっと来ると思ってたんだ!」
そう言って、ユリィナの手を引き、くすくすと笑いながら耳元でささやく。
「サミュエルはね、ユリィナのことが好きなんだと思うよ」
思わぬ言葉に、ユリィナは目を丸くしてレオニスを見つめる。
その反応に満足したように、王子はいたずらっぽく笑った。
「だってね、ユリィナが来てから、サミュエル、毎日王宮に来るんだよ」
その瞬間――
「……陛下、すべて聞こえておりますぞ。老いぼれても、耳だけは確かですからな」
サミュエルが眉を上げ、やや誇らしげに言った。
ユリィナとレオニスは顔を見合わせ、次の瞬間には、こらえきれずに声を上げて笑った。
陽光の中、穏やかな時間が流れる。
ユリィナにとって心が癒される時間だった。
■■
レオニスに手を引かれ、ユリィナが連れてこられたのは、城の奥にひっそりと隠された秘密の庭園。
春の訪れを告げるように、クロッカスが静かに咲き始めている。
その紫がかった花びらを、やわらかな風がそっと揺らしていた。
「母上はね、この花が好きだったんだ」
ふいに立ち止まったレオニスが、花壇を見つめながらぽつりとつぶやく。
「これを見ると……ちょっと苦しくなる。でも、同時に嬉しいんだ。不思議だよね……」
その横顔には、まだあどけなさが残る。
けれど、どこか遠い目をしていた。
幼い心に抱えた喪失の重みが、ひとつの花を前にして、滲み出しているようだった。
ユリィナはそっと微笑み、やさしく王妃の声を重ねる。
「……あなたがそう思ってくれるなら、それだけで嬉しいわ。花はね、毎年あなたを見守るために咲くのよ」
その言葉に、レオニスの瞳が揺れた。
そしてゆっくりとユリィナの方を振り返る。
「……母上……」
たった一言。
けれどその小さな響きが、彼女の胸を深く締めつける。
彼はいま、ユリィナの声から母を呼び戻そうとしている。
手をつないで歩いた記憶。
そっと香る花の匂い。
耳元で語られたやさしい言葉――
王子の記憶をなぞるように、ユリィナは王妃の声で応え続けた。
まるで過去の欠片を拾い集めるように。
――だが、それは同時に“過去に留まる”ことでもあった。
(私は“王妃の声”を持っているだけ……母親ではない)
その想いが、静かに胸の底に沈んでいく。
王子の心を慰めながらも、どこかで感じてしまう違和感。
いま自分がしていることは、彼を過去に縛りつけているだけなのではないか
――そんな迷いが忍び寄る。
(私の役目は……母の声を再現し続けることじゃないはず)
過去の痛みに寄り添うことは、決して悪いことではない。
でもそれだけでは、彼の足を前に進ませることはできない。
(この子には、“未来”を生きてほしい!)
ユリィナの胸に、ひとつの願いが生まれる。
亡き母の記憶に包まれた少年の背を、やさしく、そっと押してあげたい。
過去を乗り越え、未来に歩みだせるように――
■■
その矢先のことだった。
静かな日々を引き裂くように、城内に鋭い声が響いた。
「王子が……王子が見当たりません!」
空気が凍りつく。
走る足音、叫び声、慌ただしく行き交う兵と侍女たち――
ユリィナはその場で立ち尽くし、息を呑んだ。
「……いない……?レオニスが……?」
言葉が、現実についてこない。
目の前の事態を理解しようとするほどに、胸の奥が締めつけられていく。
(なぜ……どうして……)
不安が一気に膨れ上がり、息が詰まりそうになる。
震える指先を、ユリィナは強く握りしめた。
そして祈るように、そっと目を閉じる。
(レオニス……どこにいるの……どうか、無事でいて)
城中を駆け巡って探すも、レオニスの姿はどこにもなかった。
誰もが動揺し、混乱が城内を覆っていく。
(失いたくない……もう、二度と……)
お腹の子を失った、あの絶望の瞬間が脳裏をよぎる。
ユリィナは、胸の奥に渦巻く不安と恐怖を、必死に押し込めた。
王子にとって自分は、ただ“声”を届ける存在に過ぎないのかもしれない――
けれど、彼と共に過ごしたあのひとときはとても温かく、
ユリィナ自身にとって、かけがえのない時間となっていた。
母でも、王妃でもない――
それでもユリィナにとってレオニスは、もう“ただの王子”ではなかった。
今度こそ、大切な人の未来をこの手で守りたい。
無力に泣くだけの自分でいたくはない。
ユリィナは、静かに息を吸い込むと、まっすぐに前を向いた。
「もう誰も――失わせない。絶対に見つけ出す」