第5話
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男の名は、サミュエル。
長く流れるような白髪と、顎に蓄えられた重みある髭。
その落ち着いた声音と洗練された所作には、歳月に磨かれた威厳が滲んでいた。
身にまとう深紅のローブが、静かな風にそっと揺れる。
彼の手にある杖が石畳を軽く叩く音は、軽やかで、まるでその一歩ごとにリズムを刻むかのようだった。
「私はこの国に仕える“記録の魔術師”。
お前を呼んだのも、この地に招いたのも――この私だ」
ユリィナは驚いた目でサミュエルを見つめた。
自分をこの世界に連れてきた“張本人”が、目の前にいる――。
彼は続けて、この世界〈フォル・セリウス〉の仕組みについて語った。
この国では、“声”に力が宿る。
人は生まれ持つ声の波動によって階級が定められ、“声”がその主を形成する。
魔術の媒介、けがの治療、さらには記録――感情の記憶すらも、声で行うことがとができるという。
扉一つ開くのにも特定の“声”が鍵となり、
言葉には、想いと力が重なる――この世界において、声はまさにすべての基盤なのだ。
「お前を呼び寄せた理由はひとつ。果たしてもらいたい“役目”にある」
「役目……?」
ユリィナは首を傾げる。
「それは――王子の“母の影”になることだ」
「母の影……?」
聞き慣れない言葉に、ユリィナは思わず目を見開いた。
サミュエルは静かに頷く。
「この世界では稀に、“記憶された声”を宿せる者が現れるとされていた。
私は長きにわたり魔術を使い、その存在を探り、呼び寄せていた。
そしてお前が現れた。
お前には、死者の声さえも、そのまま蘇らせる力があるのだ」
「……私に……そんな力が?」
信じがたい話。
だが、奇妙なことに、彼の言葉はどこか心に馴染んだ。
否定する気持ちよりも、“腑に落ちる”感覚のほうが強かった。
「お前の中には“響きの印”がある。魂の奥深くに、声を受け継ぐ器が刻まれている。
それは、お前の大切な者たち――家族や、守りたかった命と、深く繋がっていたからこそ目覚めた力だろう」
まるで、彼はユリィナの過去すべてを知っているかのようだった。
「その力を使って――お前には、王子の前で“亡き王妃の声”を再現してもらう」
「……どうして? なぜそんなことを……?」
ユリィナが問いかけても、サミュエルはすぐには答えなかった。
代わりに杖を掲げ、遠くを指し示す。
視線の先――そこにあったのは、荘厳な城。
大地を貫くようにそびえるその城は、冷たさと気高さを併せ持ち、存在感を放っていた。
「詳しいことは、あの城で語ろう。
――さあ、ユリィナ。時は満ちた。私についてきなさい」
そう言って、サミュエルは静かに背を向け、歩き出す。
ユリィナは、その場で拳をぎゅっと握りしめた。
もう……帰る場所は、どこにもない。
目の前にある、新しい扉に飛び込むしかない。
深く息を吸い、一歩を踏み出す。
それは、“ユリィナ”としての人生が動き出す、最初の一歩だった。
■■
サミュエルが静かに声を発すると、城の門がゆっくりと開かれた。
「本当に……声で開くのね……」
ユリィナは息を呑み、その光景に目を見張った。
門をくぐると、尖塔が幾重にも重なり、空に向かって伸びている。
石畳に広がる文様、荘厳な彫刻を施された柱、そして魔術的な光がぼんやりと壁を照らす様は、まるで神話の中の世界のようだった。
サミュエルは一言も発さず、迷いなく廊下を進んでいく。
やがて彼は一枚の重厚な扉の前で立ち止まった。
「ここが、記録室だ。お前に見せたいものがある」
サミュエルが声を発すると扉が開かれ、その先には、天井まで届く無数の棚が並び、中には小箱が綺麗に並んでいた。
それはまるで、オルゴールのような形をしていた。
小箱は魔力によってほのかに震え、その中に何かが封じられていることを示していた。
「この国では、声を“託す”ことができる。生きているうちに大切な声に想いを残し、それを後の世代に伝える」
サミュエルは棚の奥からひとつの箱を取り出すと、ユリィナにそっと差し出した。
「これは、亡き王妃の声だ。だが……それを“聞く”ことができる者は限られている。声の複製者――お前だけだ」
ユリィナはそっと両手で箱を受け取った。
掌に収まるほどの、古びた箱。
精緻な紋様が刻まれていて、そこからかすかに温もりのようなものが伝わってくる。
彼女は蓋を開けると耳を近づけ、静かに呼吸を止めた。
すると、風のように柔らかな音が空気を震わせ、箱の奥からかすかな“声”が流れ出した。
《愛しているわ、わたしのたから……。あなたは、強くて優しい子。どんなときでも、あなたを想っているのよ……》
胸が締めつけられる。
その声に込められた愛情が、まるでユリィナ自身に向けられたもののように感じられた。
「この声を、お前には複製してもらう」
サミュエルの言葉にユリィナは小さくうなずいた。
「……王子の前で、この王妃の声を届けてほしい。
だが忘れるな。これはただの“模倣”ではない。
お前自身の中にある想いと、愛を重ねることで、この声は意味を持つのだ」
ユリィナは目を閉じ、心を静かに整えた。
優しく、穏やかで、深い愛情に満ちたあの声――。
一度聞いただけなのに、まるでそれは、自分の母の記憶のように鮮明だった。
深く息を吸い、胸の内からその感情をすくい上げるようにして、彼女はそっと唇を開いた。
「……わたしの愛しい子。あなたのそばに、いつでもいますよ――」
その柔らかな声音の波が、温かさを帯びて、しんとした静寂の中に広がっていく。
サミュエルは驚きのまなざしでユリィナを見つめ、静かに息を吐いた。
「……完璧だ。声だけでなく、その想いまでも、継いでいる……まさしく王妃、そのものだ」
ユリィナには、さらに特異な力が備わっていた。
託された声だけでなく、一度でも耳にした声なら、そのすべてを“再現”できるのだ。
極めて希少な才能だった。
歴史上にも例がほとんど残されていない“声の複製者”――。
「……まさか、ここまでの力を秘めていたとは……」
サミュエルは目を細め、感嘆の吐息を漏らした。
その声には、ただの驚きではなく、尊敬と、わずかな畏れすらにじんでいた。
「ユリィナ、お前の力は、この国にとって大きな希望となるだろう」
ユリィナは静かに、胸の奥で答えた。
この力が、誰かの心を救うためにあるのなら――
その意味も背負い、強く生きていくと。