第3話
――それはすべて偽りだった。
ユリとの結婚は、誠の家族が仕組んだ――
莫大な遺産を狙うための、冷酷で計算づくの策略だった。
名門と謳われている財閥……
だがその実態は、火の車だった。
先代の経営判断の誤りと無謀な投資により、多額の負債を抱え込み……
倒産寸前にまで追い詰められていた。
そんな折、誠の父親はある噂を耳にする。
「ユリという女が、25歳で莫大な遺産を相続したらしい」
父はすぐに動いた。
誠を呼び寄せ、冷徹な声で命じた。
「…誠、お前、この女と結婚しろ。財産さえ手に入れれば、離婚して構わん。お前ならできるだろ」
これまで「出来の悪い息子」と罵られていた誠にとって、それは生まれて初めて“父から託された役割”だった。
「うまくやれば、次期社長にしてやる」
その言葉が、誠の胸に火をつけた。
“期待に応えたい”“父に認められたい”
――ただそれだけを渇望し、誠はユリに近づいた。
優しく、誠実に、思いやり深く。
彼女の心に寄り添う理想の婚約者を演じきった。
すべて計算された演技。
当時、交際していた女性が居たが、あっさりと切り捨てた。
泣かれようが、すがるように抱きつかれようが、心は一切動かなかった。
「これは家のため。父の期待に応えるためだ」
そう言い聞かせれば、罪悪感など芽吹く余地はなかった。
そして無事にユリとの結婚が決まった日、父は一言だけ誠を褒めた。
「さすが俺の息子だ。後は遺産を手に入れるだけだな」
その言葉は誠にとって、唯一の――
心から求めていた“報酬”だった。
もっと認められたい。
もっと褒められたい。
誠はそれだけを糧に、心を麻痺させていった。
だが、そんな完璧な計画に、思いがけない誤算が入り込む。
“ユリの妊娠”
その報せを受けた瞬間、誠の心に走ったのは、喜びではなく、言葉にできない動揺だった。
胸の奥に、焦りと不協和音のような不快感が広がる。
すぐに父に報告すると、返ってきたのは冷酷な声だった。
「何をやっているんだ。子どもなんか作ってどうする?離婚しづらくなる上に、遺産の名義がその子に移る可能性もある。すべてが台無しだ。……やはり…お前は見込み違いだったか」
その言葉に、誠の顔から血の気が引いた。
また失望されたくない。ここで終わりたくない。自分の価値を証明したい。
「父さん、必ず……なんとかします。ユリには、子どもを……下ろさせます。だから少しだけ、時間をください」
震える声でそう答えながら、誠はすぐに新たな計画を組み立てた。
――失うわけにはいかない。
ここで、すべてが終わるわけにはいかない。
実家の家政婦たちに極秘で指示を出す。
妊娠に悪影響を及ぼす薬剤を海外から取り寄せ、ユリの食事や飲み物に気付かれない量を混ぜさせた。
毎日の料理が、やがて毒となり、ユリの身体を蝕んでいく。
そしてある日の朝――
「……誠さん……いたい……お腹が……」
ユリが突然、苦しげに腹を押さえて、その場に崩れ落ちた。
蒼白な顔、震える唇、涙をにじませながら、助けを求める瞳――
その瞬間、誠は胸が高鳴るのを感じた。
(……やった……これで、父さんに報告できる……)
救急車で病院へ運ばれたユリは、緊急処置の末、命をとりとめた。
けれど――お腹に宿っていた小さな命は、もう、そこにはいなかった。
診察を終えた医師は、重く沈んだ声で告げる。
「残念ですが……赤ちゃんは、助けられませんでした」
ユリはベッドの上で、真っ白な天井を見つめていた。
まるで、何かが壊れるような音が、自分の内側から聞こえてくる。
「……赤ちゃん……どうして……」
声にならない声が、かすれてこぼれる。
止まらない涙が、頬を濡らしていく。
そのとき――病室のカーテンの向こうから、低く抑えた男性の声が聞こえてきた。
「……父さん、無事に子供はダメになりました。食事に混ぜた薬が効いたみたいです。遺産が手に入ったら、すぐに離婚の段取りをつけます」
――聞き間違いであってほしかった。
でも、その声は――確かに誠だった。
一瞬で、世界が凍りついた。
体温がスーッと引いていく。
(……?今……なんて言ったの?)
赤ちゃんの死を――“無事に”?
私との未来を語ったあの声も、
優しく握った手のぬくもりも、
全部……すべてが嘘だったの?
混乱と怒り、そして絶望が一気に胸を押しつぶす。
ユリは、震える手でベッドの柵をつかみ、点滴スタンドにすがるようにして体を起こした。
足元はふらついたが、それでも、確かめずにはいられなかった。
カーテンを引くと、そこには電話を片手に立つ誠の姿が。
彼の顔が驚きと焦りに歪む。
「ユリ……お前……起きてたのか……」
ユリは青ざめた顔のまま、かすれた声で問いかけた。
「……誠さん……今の話……どういうこと……?
まさか……遺産のために……私と……?」
誠は一瞬だけ沈黙し、それからふっと肩の力を抜いた。
そして、嘲笑を浮かべながら、口を開いた。
「そうだよ。全部そのためだよ。お前みたいな女と、俺が本気で結婚すると思ったか?金がなきゃ、相手にするわけないだろ? あはは……バカだなお前」
その声は、まるでユリの心を抉るようだった。
信じていた人の口から放たれた、むき出しの侮辱。
それは鋭いナイフのように、彼女の胸の奥深くへ突き刺さる。
ユリは目を伏せたまま、震える唇をぎゅっと噛みしめた。
肩をかすかに震わせながら、必死に涙をこらえる。
そして、静かに吐き出すように言った。
「……それが、あなたの本心……」
誠はその言葉にも、なんの動揺も見せなかった。
むしろ、冷たく笑ったまま、見下すような目でユリを見ていた。
ユリは静かに拳を握りしめ、彼を睨みつけた。
「……ひとつだけ、言っておくわ」
ユリは、心を落ち着かせるように息を吐く。
「私の遺産は、“私の子ども”のためのもの。
子どもが25歳になったとき、全額を相続できるよう、すでに弁護士と契約済みなの。
もし私に子どもが生まれなかった時は、すべて慈善団体に寄付される。
――つまり、あなたには1円たりとも渡らない。……残念だったわね」
誠の顔から、見る見るうちに笑みが消えていった。
その目が見開かれ、青ざめていく。
「な……なんだと……?」
ユリはそのまま、毅然とした声で言葉を重ねた。
「それだけじゃない。私は警察へ行く。
病院には、検査記録も、診断報告も残っているはず。もし体内から異物が検出されれば、傷害罪として立件されるでしょうね。
あなたはすべてを失うことになる。会社も、地位も。
きっと、お父様は……失望するんじゃないかしら」
一瞬で、誠の顔が赤く染まり、狂気じみた怒りに変わった。
「ふざけるな……!お前ごときに、俺の人生を――台無しにされてたまるかぁぁ!」
怒号とともに、誠はユリに飛びかかる。
怒りのままに、ユリの首をその手で締め上げる。
「やめて……っ!」
息ができない。
視界が歪み、色が褪せていく。
「く……く、るしい……」
遠ざかる世界の中で、脳裏に浮かんだのは、
笑う父、母、祖母、
そして――消えてしまった、命。
(ママ……パパ……おばあちゃん……)
(私、まだ……生きたかった……)
意識が途切れかけたその瞬間だった。
まるで、誰かがそっと手を差し伸べてくれたようなまばゆい光が、
ユリの全身を包んだ。
痛みも、苦しみも、次第に遠のいていく。
――そして、ユリの世界は、静かに終わりを告げた。