第2話
そして、ユリは大人になった。
数えきれない困難を乗り越え、彼女は静かに、しかし確かに成長していった。
努力を重ね、奨学金で大学に進学。
一度も成績を落とすことなく、四年間をやり遂げた。
卒業後は、誰もが憧れる大手企業の広報部に採用される。
「私、これからも頑張る。家族の分まで、ちゃんと生きてみせるから!」
地味な作業も、誰も手を挙げない雑務も、ユリは黙って引き受けた。
目立つことよりも、誠実に向き合うことを選んだ。
その姿勢は、少しずつ周囲の心を動かしていった。
やがて、ユリのまわりには自然と人の輪ができていた。
それは、ユリ自身の手で築いた、人生で初めての“居場所”だった。
■■
25歳の誕生日。
仕事帰りにコンビニで、小さなケーキを買おうとしていたそのときだった。
「ユリさんですね?」
声をかけてきたのは、スーツ姿の男性だった。
名刺には、法律事務所の名前。そして――「弁護士」。
「お祖母様からの遺言をお預かりしています」
そう言って、彼は丁寧に一通の封筒を差し出した。
中には、薄く涙ににじんだ文字で、祖母の筆跡が綴られていた。
『私がいなくなったあと、ユリは狙われるかもしれない。
だから信頼できる方に、遺産を預けました。
ユリが25歳になったら、強くて立派な女性になっていると信じています。
これはあなたのためのお金です。
――大好きなユリへ。祖母より』
封を開くと、中には信じられない額の資産証明書が収められていた。
「……おばあちゃん……」
ユリの目から、涙があふれた。
それは、金額に対する驚きではなかった。
そこにあったのは、祖母の深くて温かな“想い”だった。
それが何よりも胸に沁みた。
ユリは、その場で弁護士に一つお願いをした。
「おばあちゃん…ありがとう。私は、しっかりと生きていくからね」
それこそが、祖母への最大の恩返しだと、ユリは信じていた。
■■
そして――。
ユリに、人生を変える出会いが訪れる。
彼の名は、誠。
名門財閥の御曹司。
華やかな家柄に加え、端正な容姿と知性、すべてを兼ね備えた、将来を約束された存在だった。
企業広報として働くユリを偶然見かけ、誠は彼女に強く惹かれたという。
「あなたと結婚を前提に、お付き合いがしたい」
唐突すぎる申し出に、ユリは驚き、そして困惑した。
「私には、何の取り柄もありません。身寄りもない……あなたとは釣り合いません」
どれほど熱烈なアプローチを受けても、ユリの心は臆病なままだった。
それでも、誠は一歩も引かなかった。
「家柄なんて関係ない。君の真面目さ、ひたむきさに惹かれたんだ」
「君は、自分の価値を知らなすぎる。もっと、自分を大切にしてほしい」
その言葉は、まるでユリの傷跡を優しく撫でるようだった。
心の奥に張りつめていた氷が、静かに溶けていく――
繰り返される優しさ、まっすぐな眼差し、穏やかな微笑み。
「こんな私でも、誰かの“愛する人”になっていいのだろうか……」
気づけば、ユリは自然と誠の隣に立っていた。
■■
交際が始まると、結婚までの道のりはあっという間だった。
純白のドレスに包まれた日。
ユリは心の中で、そっと誓った。
「私も、お父さんとお母さんのように――
愛のある、幸せな家庭を築きます……」
そして、幸せはさらに訪れる。
結婚してほどなく、妊娠が判明したのだ。
「誠さん……私……赤ちゃんができたの……!」
頬を染めながら報告するユリの目には、喜びの涙がにじんでいた。
胸の奥に、長い間ぽっかりと空いていた「家族」という形が、ようやく満たされていくような気がした。
誠は一瞬、目を見開いた。
「そうか……!おめでとう!うれしいよ!」
とんとん拍子の幸せに、驚きを隠せない表情だったが、すぐに笑顔を浮かべてユリを抱きしめた。
二人は、新しい命の喜びを分かち合った。
誠は、ユリとお腹の子のことを考え、自分の実家で生活することを提案してきた。
「誠さん……私、そこまでしてもらわなくても平気よ……仕事もあるし……」
遠慮がちに告げたユリの手を、誠は静かに握り返す。
「僕たちの子どもだよ。君の身体に何かあったら、きっと一生後悔する。僕が守りたいんだ」
――その言葉が、心に染みた。
こんなにも大切に思われている。
ユリは、あふれる幸福を胸に、誠の実家へと引っ越す決意を固めた。
誠の実家は、まるで絵本の中のような洋館だった。
何人もの家政婦が付き、ユリの身の回りの世話をすべて引き受けてくれる。
食卓には毎日レストランのような料理が並び、ベッドはふかふかで、心も身体も丁寧にいたわられていた。
「……なんだか夢の中にいるみたい」
お腹の中で芽生えた新しい命と、愛する人との家庭。
ようやく、長い間失っていたものに、手が届いたような気がした。
(パパ、ママ、おばあちゃん、私、誠さんとこの子と……幸せな家庭を築いていきます)
晴れ渡った空を眺めながら、ユリは誓った。
しかし、ある日の朝――
「……誠さん……いたい……お腹が……」
ユリが突然、苦しげに腹を押さえて、その場に崩れ落ちた。
蒼白な顔、震える唇、涙をにじませながら、助けを求める瞳…
しかし――
その時、誠は……
苦しむ彼女の姿に高揚を覚えながら、見下ろしていた。