第17話
男に変装したユリィナは、勢いよく倉庫の扉を押し開けた。
薄暗い倉庫の中にいた数人の男たちの視線が一斉に集まる。
「よォ、お楽しみだったな!」
誰かが陽気に声をかけた。
ユリィナの姿に疑いを抱く様子は微塵もない。
ユリィナは咳払いを一つし、唇の端を引き上げる。
「へっ、上玉だったぜ。……だがな、ちと腹が減った。街で食いもんと酒を頼んどいた。もうすぐ届くはずだ」
「へいへい、よくやるぜ。今夜はいい夢見ろよ」
男たちはすっかり気を許し、冗談を交わしながら笑い合う。
倉庫に漂うのは、油断しきった空気――。
そのとき、もう一度扉が開いた。
エプロンをかけた初老の配達人――変身したサミュエルが、木箱を抱えて現れる。
「食事と酒の配達です~」
「おお、来たか!そこ置いてけ、嬢ちゃんとひとしきり遊んだら、やたら腹が減ってな」
サミュエルは深く頭を下げ、指定された卓に料理と酒を手際よく並べていく。
豪快な肉の香り、香ばしいパン、芳醇な葡萄酒――
しかしその全てには、サミュエルの調合した眠りの魔術が仕込まれていた。
「さぁて、飲むか!」
「おう、俺はこれだ!」
グラスが鳴り、男たちの笑い声が高まっていく。
やがて――
一人、また一人と、椅子に沈み、顔をテーブルに伏せた。
杯を持ったまま寝落ちする者、口を開けたままゆっくりと前のめりになる者――
最後の一人が呻き声を漏らして床に崩れ落ちた瞬間、倉庫内には静寂が戻った。
「……成功!」
ユリィナは変身を解き、深く息を吐いた。
サミュエルも仮の姿をほどき、辺りを見回す。
「全員、落ちたな。……さすが俺の計画だ。そこに間違いはない。完璧だ」
「はいはい。得意げになるのはまだ早いわよ。ここからが本番。レオニスを探さなきゃ」
ユリィナがサミュエルの脇腹を軽く肘で突くと、彼は肩をすくめた。
倉庫の奥――冷えた空気の向こうに、まだ確かに“何か”の気配があった。
眠りこけた男たちの間を縫うように、二人は静かに足を進める。
使い古されたテーブル、ひっくり返った椅子、床に転がる割れた酒瓶。
無秩序に散らばったそれらを抜けた先に、壁の一角に埋め込まれた重たい鉄扉が現れた。
「……きっと、ここね」
ユリィナは一歩前へ出て、そっと扉に手をかけた。
手のひら越しに、冷たく鈍い金属の感触が伝わってくる。
「……鍵は、かかってない」
静かな声とともに、扉がギィ……と軋みを上げながら開かれていく。
そこに現れたのは、無骨な石で組まれた狭い階段。
ひんやりとした空気が、地の底からゆっくりと這い上がってきた。
サミュエルは、ユリィナの隣に並び、軽く顎を引く。
「……行こう」
ユリィナは、静かに頷き、足を踏み出した。
ランプひとつない真っ暗な階段に、サミュエルが魔術を使い、小さな光球を浮かべる。
「微弱だが、魔術反応だ。数時間以内に誰かがここを通ったな」
階段を降りた先には、狭い通路と、小部屋がいくつか並んでいる。
ふたりは扉を一つずつ開けながら、物音ひとつ立てずに進んだ。
そして、ひと際大きく、重厚な扉の前で――
ユリィナが足を止める。
張り詰めた空気の中、彼女の目が静かに細まる。
「……誰かいる」
閉ざされた扉の向こう――かすかに、布がこすれる音。息づかい。
サミュエルが静かに頷く。
ユリィナは覚悟を決めたように扉へと手を伸ばし、慎重に開いた。
扉の先にあったのは、薄暗い小部屋。
粗末なベッド。そしてその傍ら、壁に繋がれたひとりの少年。
泣き腫らした目で、眠っていた。
「レオニス……!」
ユリィナは思わず駆け寄って抱きしめる。
少年はぼんやりと目を開け、まばたきを繰り返す。
そして、かすれた声で――
「……母上?」
その一言が、ユリィナの胸を締め付けた。
けれど、彼女は静かに微笑んだ。
たとえ本当の母ではなくても――
この少年を守りたいと願う気持ちに、偽りなどひとつもない。
それが、はっきりとわかったから。
「……あなたを助けに来たのよ」
ユリィナ自身の声で優しく語りかけながら、手首にかけられていた粗末な鉄の鎖を調べる。
サミュエルが詠唱すると、鎖がパリンと音を立てて砕けた。
「さあ、行きましょう。もう、大丈夫よ」
もう一度、レオニスをぎゅっと抱きしめる。
彼の身体は、まだ小さく震えていた。
その震えを落ち着かせるように、優しく背中を撫でる。
愛おしい存在をしっかりと確認するように。
しかし、次の瞬間。
――ゴン……ッ!
不意に、頭上から、鈍い衝撃音が響いた。
「!?……もう目を覚ましたの!」
ユリィナが身構える。
サミュエルはわずかに眉をひそめ、耳を澄ませた。
「いや……違う。誰かが“戻ってきた”のだ。他にも仲間がいたのだろう」
緊張が、ユリィナの背筋を這い上がる。
レオニスを守る腕に、自然と力が込められた。
「急がなきゃ……気づかれる前に!」
サミュエルは短く頷き、即座に行動に移る。
「回廊の先に、脱出用の魔方陣を用意した……俺は、ここで時間を稼ぐ」
サミュエルは詠唱すると、地下階段に複数の結界を展開し始めた。
「ユリィナ、レオニスを連れて、先に地上の廃墟の小屋へ行け。俺はすぐに追いつく」
ユリィナは迷わず頷いた。
「必ず、来てよ」
「信じろ。俺は、約束は破らん。レオニスはお前に託す」
ユリィナは深く頷くと、レオニスを抱きかかえ、走り出す。
(必ず――この子を、守り抜く!)
回廊の先、床に刻まれた魔方陣が淡く光を放っていた。
ユリィナは一息に駆け寄ると、ためらうことなく飛び込む。
彼女たちの身体が光に包まれ、空間がゆらりと歪む。
レオニスを抱きしめる腕に、これまで以上の力がこもった。
絶対に手放さない――何があっても。
その強い決意が、ユリィナの中で確かに燃えていた。
■■
アジトの倉庫から少し離れた場所にある、今にも崩れそうな廃小屋。
そこが、サミュエルとの合流地点だった。
ユリィナはそっとレオニスを抱き寄せ、床に敷いた古びた布の上に彼を座らせると、自らも膝をついた。
そして、わずかに震える指先で、彼の頬や腕、足へと触れていく。
「どこか……痛いところは? 怪我してる場所があったら、教えて」
その声は微かにかすれ、震えていた。
焦りと安堵、怒り、そして心からの心配が、すべて混じっていた。
レオニスは、少し驚いたように瞬きをし、それから静かに首を横に振った。
「ううん……大丈夫。怖かったけど、僕は平気だよ」
そう言って、ほんのわずかに微笑んだ。
ユリィナは安堵とともに、涙がこぼれそうになるのを堪えながら、レオニスの小さな手を両手で包み込んだ。
「本当に……よかった……。ごめんね、来るのが遅くなって……」
彼女の声は、どこか掠れていた。
その時、レオニスが小さな声で、ぽつりと尋ねた。
「……ユリィナ。僕のこと、助けに来てくれたの?」
その一言に、ユリィナは言葉を詰まらせた。
レオニスは“母の影”ではなく、ユリィナ自身に話しかけてくれている――
それが、何よりも嬉しかった。
彼のまっすぐな瞳に見つめられながら、ユリィナはゆっくりと頷いた。
「ええ……私が、あなたを助けたくて来たのよ」
レオニスはその答えを受けて、しばらくじっと彼女を見つめていた。
何かを確かめるように。
そして、小さな声だが、はっきりと――口にした。
「ありがとう、ユリィナ」
それは、王妃の代わりではない、確かに“ユリィナ”という存在に向けられた言葉だった。
ユリィナの胸に、ふっと柔らかな熱が広がっていく。
今まで、自分は“ただの影”としか見られていないのではないか、
この“声”がレオニスを過去に縛りつけているのではないか、
そんな風に思っていた。
だが――違った。
レオニスはしっかりと前を向いて、未来を歩んでいる。
王子から“ユリィナ”として感謝された――その重さに、胸がきゅっと締めつけられた。
「……レオニス……」
ユリィナはそっと彼の額に手をあて、優しく微笑んだ。
「私は、これからも“ユリィナ”として……あなたを守るためなら、どこへだって行く。約束するわ」
レオニスはその言葉を静かに受け止め、ユリィナに寄り添うように身体を預けた。
ユリィナはその小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
外では、風が廃材を鳴らしていた。
古びた小屋の中、ふたりの間には確かな絆が結ばれていた。




