第16話
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女性の身代わりになるために変装したユリィナは、夜の帳に包まれた倉庫の前に立ち、緊張を滲ませながら扉を叩いた。
わずかに震える声で、呼びかける。
「……言われた通りに……来ました……」
倉庫の中に靴音が響く。
そして、湿気を帯びた扉が、軋みを立ててゆっくりと開いた。
ギィィィ……
現れたのは、小太りで脂ぎった男だった。
目元には濁った脂汗が滲み、黄ばんだ歯をむき出しにして笑っている。
「へぇ、言いつけを守ってくるとはな。感心だぜ、お嬢ちゃん」
ユリィナは“怯える若い娘”を演じきり、視線を逸らしたまま小さく頷いた。
「……もう……私のこと……追いかけないでください……」
男はにやにやと笑いながら、ユリィナの肩をポンと叩く。
その手つきはいやらしく、まるで手に入れた獲物を品定めするかのようだった。
「怖がるなって。話すだけさ。なに、せっかくこんな夜に二人きりになれたんだ、な?」
男はそう言ってから振り返り、倉庫の中に向かって怒鳴る。
「おい!ちょっと抜けるぞ。野暮なマネはすんな、覗いたら殺すぞ!」
中からは下卑た笑い声と、気の抜けた返事が返ってきた。
「へいへい、好きにしな!」
男は、ユリィナの腕を乱暴に引き、鼻息荒く歩き出す。
「こっちだ。向かいの小屋、今は誰も使ってねぇ。ちょっとだけ、な?」
(……誘導、成功)
ユリィナはうつむきながらも、心の奥では冷静に状況を見据えていた。
すぐ先の陰に――サミュエルが待っている。
男が小屋の前に差しかかり、扉へ手を伸ばした、その刹那。
「束縛ホールド」
サミュエルの詠唱が風のように駆け抜けた。
次の瞬間、男の足元から淡い光が噴き上がり、魔術の鎖が蛇のように巻きつく。
宙に引き上げられた身体が、地面に叩きつけられた。
「な、なにィ!?う、動け、動けねぇッ!」
男が必死に身をよじるが、魔術の束縛はびくともしない。
ユリィナは既に変装を解き、そのまま男を見下ろす。
表情には冷たい静けさが漂っていた。
「“話すだけ”って言ったのは、あなたよね。だったら……身体はもう必要ないでしょ?」
男が声を上げようとしたその瞬間、サミュエルが再び詠唱を重ねる。
「静音サイレンス」
淡い光が男の喉元に走り、口は開いても、そこからは一音も漏れなくなった。
呻き声すらあげられぬまま、男は目を見開いてもがく。
サミュエルは無言でその体を引きずり、小屋の中へと運び込んでいった。
重い扉が静かに閉じられる。
それは、反撃の幕が上がる音だった――。
■■
男は《静音》の魔術によって呻き声すら上げられず、目を見開いたまま苦悶に耐えていた。
全身は拘束魔術でがんじがらめにされ、指一本動かすこともできない。
サミュエルは淡々とした手つきで、魔術の補助と縄を巧みに併用しながら、男の身体を椅子へと縛りつけていく。
その手際は、まるで熟練の猟師が獲物を確実に仕留めるように無駄がない。
「……少し締め過ぎたか」
サミュエルは軽く眉をひそめ、立ち止まった。
ユリィナが男の様子を覗き込むと、既にぐったりと首を垂れ、白目を剥いて完全に意識を手放している。
「……やれやれ。力加減は難しい」
そう呟きながらも、サミュエルは魔術の拘束を緩めようとはしなかった。
「あはは……これでもまだ足りないくらいよ。ちょっとは懲りたんじゃない?」
ふたりは顔を見合わせ、苦笑を漏らした。
サミュエルは、何かを思いついたようにユリィナへと視線を向けた。
「……ユリィナ。中の連中に気づかれないよう、少し“騒いで”くれ」
その言葉に、ユリィナの眉がぴくりと跳ねる。
「……は?騒ぐって……何を?」
「お前、察しが悪いな。『きゃー!やめて!』とか、そういう類の悲鳴だ。あの男が女を連れ出した目的に、説得力を持たせる必要がある」
ユリィナの顔が一瞬で引きつる。
「……本気で言ってるの?」
「当然だ。俺の言葉は常に真面目だ。さあ、迫真の演技に期待してるぞ」
口元にうっすらと笑みを浮かべるサミュエルを、ユリィナは鋭く睨みつけた。
だが、その睨みも彼にはまったく効果がないと悟り……やがてため息へと変わる。
(なんで私がこんな茶番を……まったく、最低の役回りだわ)
それでも、今はやるしかない。
羞恥心をぐっと喉の奥に押し込め、ユリィナは一呼吸置いた。
そして――
「きゃっ……や、やめてっ……!お願い……触らないでぇっ!!!」
倉庫の中から、すぐに下品な笑い声が返ってきた。
「おいおい、始まってんぞ!」
「やれやれ、アイツもほんと好きだなぁ!」
サミュエルはその様子に満足げに頷いた。
「よし、これでしばらくは大丈夫だ。……さすが女優殿、見事な仕事ぶりだ」
「……次やらせたら、サミュエルの声で街中をわめいて回るわよ!」
ユリィナはジト目でサミュエルを睨みつけた。
それに対してサミュエルは、肩をすくめて軽く笑うだけだった。
■■
倉庫からは男たちの笑い声が外まで響いている。
ユリィナは小さく息をつき、自分の頬をぺちりと軽く叩いた。
「……よし。そろそろ本番ね」
ユリィナは意識を集中し、先ほどの男の声を頭の中で再現していく。
粘つくような息の混じり方、舌足らずな語尾、喉にかかる独特の濁り――すべてを思い出し、体に染み込ませるように模倣していく。
「ん……ふん、これでどう?」
喉に手を当てて発したその声は、先ほどの男と寸分違わぬものだった。
くぐもった声質、いやらしさの滲む語調まで、完璧に再現されている。
「……見事だ」
サミュエルは目を細めてうなずいた。
「次は姿、だな」
彼が低く詠唱すると、ユリィナの足元に魔法陣が展開される。
淡い光が地面から立ち昇り、次の瞬間、ユリィナの姿は劇的に変化した。
サラサラと揺れる髪はくすんだ色に変わり、艶やかな肌は油にまみれたような質感に。
丸みを帯びた頬は不自然に膨らみ、あの男特有のいやらしい笑みを浮かべた顔立ちへと変わっていた。
――姿かたちは、まさに今ここで意識を失っている男そのもの。
「……最悪な気分だわ。中身は私なのに、外見がこの脂まみれって」
ユリィナは顔をしかめた。
「外見など所詮、容れ物に過ぎない」
サミュエルが淡々と言い放つ。
「……サミュエル、あなた友達いないでしょ?」
「まずは“友”という定義から話し合う必要がある」
ユリィナは肩をすくめて、思わず苦笑いした。
相変わらず、サミュエルの返しはどこかズレていて、つかみどころがない。
けれど、それが妙に心地よくて――ふっと気持ちを軽くしてくれる。
だが、その安堵も一瞬、すぐに戦いの緊張が戻ってくる。
遊びのようなやり取りの裏に、常に本番が迫っているのだ。
ユリィナは、変化した手を見下ろした。
ごつごつとした指、硬く太い関節。
それが自分の身体だという違和感が、静かに喉元を這う。
(……やるしかない)
全ての準備が整い、ユリィナは一歩、倉庫の扉へと歩を進める。
背中をわずかに丸め、歩幅は広く、重心は無造作に左右へ揺らしながら――
あの男の仕草を、完璧に再現するように。
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