第15話
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夜の帳がゆっくりと街を包み込み、
吹き抜ける夜風が、軋む看板を揺らす。
サミュエルとユリィナは、物音を立てぬよう石壁沿いに身を寄せ、
敵のアジトと目される倉庫の警備の様子を窺っていた。
そのとき――。
かすかに聞こえた嗚咽。
夜の静寂に紛れていたそれは、聞き逃すにはあまりにも切実な音だった。
「……誰か、いるの?」
ユリィナがそっと声をかけ、目を凝らす。
すると、茂みの陰、石段に腰を下ろし、小さく身をすぼめている若い女性の姿が目に入った。
肩が小刻みに震え、ドレスの裾は泥で汚れている。
ユリィナは膝を折り、そっと彼女の傍に寄り添った。
「大丈夫?何があったの?」
問いかけに、女性はびくりと身体をこわばらせたが、ユリィナの柔らかな表情に目を留めると、ついに抑えていた涙があふれ出す。
「……町で男に声をかけられて……逃げようとしても、ずっとついてきて……」
彼女が絞り出すように語った内容は、ユリィナの胸をざわつかせる陰湿なものだった。
その男は軽薄な笑みを浮かべながらしつこく彼女に付きまとい、
何度断っても諦めようとしなかった。
そして――耳元で低く囁いた。
『いいぜ、逃げても。でもな……逃げ切れると思うなよ。俺はどこまでも追いかける。お前もその家族も……怖い思い、たっぷりさせてやるからよ』
さらには、懐からナイフを取り出し、冷たい刃を女性の腕に這わせたという。
傷は浅かったが、じわりとにじむ血に、彼女は戦慄し、その場に立ちすくんだ。
男はそれを確認すると、夜になったら必ず倉庫に来いと命じた。
拒めば、もっとひどいことが待っていると。
「私……行かなくちゃ…………」
女性は、しゃくりあげながら涙をこぼした。
ユリィナはそっと、彼女の手を包み込むように握った。
その指先の冷たさと、今にも消えそうな震える声。
そこから滲み出す恐怖と絶望が、痛いほど胸に伝わってくる。
言葉にできない憤りが、ユリィナの心の奥でざわめいた。
(なんて卑劣な……)
この女性は、恐怖を押し殺し、必死に足を運んできた――
この場所へ。
ひとりで。
誰にも頼れずに。
彼女を見過ごすことなどできるはずがなかった。
ユリィナは、安心させるように彼女の肩にそっと触れた。
「もう大丈夫。私たちに任せて」
その言葉に、女性は驚いたように顔を上げた。
ユリィナは彼女に微笑みかけると、サミュエルを軽く指差す。
「あの人はね、ちょっと変わってるけど――泣く子も黙る“大魔術師”様よ。魔法でちょちょいと解決してくれるわ」
ユリィナは茶目っ気のある笑みを浮かべてサミュエルに視線を向ける。
すると彼はまるで当然のように胸を張り、堂々と名乗った。
「“大魔術師”と言う名では語れないほど、強力な魔力を持っていることは間違いない」
ユリィナは一瞬ぽかんとしたが、次の瞬間、小さく吹き出す。
(冗談のつもりだったんだけど……真顔で返すんだから)
女性の表情が、ほんの少しやわらいだ。
それを見て、ユリィナはそっと彼女の背を撫でる。
「安心して。怖いことも、追いかけてくることも、もう終わり。あとは私たちが引き受けるから」
「……ほんとうに……?」
「ええ、絶対に。――約束するわ。」
女性は涙をこぼしながら、何度も頭を下げた。
そして、夜の路地へと小走りに去っていった。
その背中を見送ってから、ユリィナとサミュエルは倉庫の陰に戻り、小声で打ち合わせを始める。
「彼女の声、覚えたわ。抑揚も、息遣いも――大丈夫」
喉に手を当てると、声の調子を確かめるようにゆっくりと調整した。
「変装はすぐにできる。数秒もあれば充分だ」
ユリィナは力強く頷く。
「私が彼女になって、男を外へ誘き出す。油断させたところで……」
「――俺が締め上げる。容赦なく、な」
「彼女の分まで、徹底的にお願いね」
ユリィナは両手をきゅっと握り、締め上げるような仕草をしてみせた。
それを見たサミュエルは鼻で小さく笑い、肩をすくめる。
「ああ、世界中の女たちの呪いも、そこに集約させておくとしよう」
あまりの規模の大きさに、ユリィナは目を見開き、思わず吹き出した。
■■
サミュエルが手を掲げ、詠唱すると、光がユリィナを包み込む。
次の瞬間、彼女の姿はあの女性そのものへと変わっていた。
ユリィナは深く息を吸い込み、スカートの裾を軽く握り締めた。
(怖い思いをさせてやる、ですって……?)
唇に浮かんだのは、覚悟を滲ませた微笑み。
(こっちも覚悟して相手してあげるわ。その顔、今すぐ引きつらせてあげる)
石畳を踏みしめながら、ユリィナは一人、倉庫の扉へと歩き出した。
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