第1話
「海を見に行きたい」――
それが、七歳の誕生日を迎えたユリの、たったひとつのお願いだった。
「ユリがそんなに言うなら、行ってみようか。久しぶりに家族でドライブなんて、いいかもしれないね」
父がカメラを肩にかけ、母がキッチンでおにぎりを握っている。
私は、宝物のように大切な日記帳をバッグにしまい込んだ。
誕生日にもらった真っ白なノート。どこへ行くにも、いつも一緒だった。
その日は、驚くほどの快晴。
車窓の向こう、真っ青な空に、綿菓子のような雲がふわふわと浮かんでいた。
ラジオからは、明るい音楽が流れている。
ユリは後部座席で頬を紅潮させながら、無邪気にはしゃいでいた。
「貝殻、落ちてるかな~? 明日、学校でお友達にあげたいの!」
「そうね、一緒に探してみましょうか」
助手席の母は振り返ると、いたずらな笑顔をユリに向ける。
「どっちがいっぱい取れるか、競争よ!」
「負けないもん! 落ちてる貝殻、ぜーんぶユリが拾っちゃうんだから!」
笑い声が車内を満たす。
――それは、ユリにとって、生涯忘れられない一日になるはずだった。
けれど。
「一緒に」探すことは、叶わなかった。
突然の衝突音。焦げたような匂い。割れたフロントガラス。
時間が止まったような静けさのあと、世界が遠ざかっていった。
次に目を開けたとき――そこには、誰の声もしなかった。
「……どうして。どうして私だけ置いてきぼりなの……」
「私も、連れてって……!」
泣きじゃくるユリの手には、破けた日記帳だけが残っていた。
――ユリだけが、生き残った。
それ以来、ユリは海が怖くなった。
青い空も、ふわふわの雲も、ラジオから流れていた音楽も。
あの日の景色も、音も、心の奥に鋭く突き刺さる。
「海に行きたいなんて、私が言わなければ――」
そう何度も繰り返す。
それは、あの日から呪いの言葉になってしまった。
■■
両親の死後、ユリは母方の祖母に引き取られた。
祖母は、穏やかで少し意地っ張り。でも、いつも優しかった。
夜になると、ユリの髪をゆっくりと梳きながら、決まってこう言ってくれた。
「ユリ。あなたのお母さんはね、心の底からあなたを愛していたのよ。
あなたの成長を、誰よりも楽しみにしてたの。
……だからね、ユリ。生きなさい。両親の分まで、一生懸命に」
ある日、祖母は一冊の古いノートをユリに差し出した。
「これはね、あなたのお母さんがまだ小さかった頃につけていた日記よ」
ページをめくると、「将来の夢」と題された欄に、可愛らしい字でこう記されていた。
『大きくなったら、優しい人と結婚して、可愛い娘を産んで、ずっと一緒に楽しく暮らす。娘はきっと私のこと、大好きのはず。だって私が娘のことを大好きでいるから!』
ユリは、日記帳を胸にそっと抱きしめた。
母の言葉が、小さな鼓動のように胸に響く。
(ママのこと、大好きだよ)
ユリの目から涙が溢れた。
祖母が優しくユリを抱き寄せる。
「ユリ、あなたは強く生きるのよ」
「うん…ママのこともパパのことも、絶対に忘れない……私、ママたちの分まで頑張って生きるから」
家族の愛情を胸に、まだ幼いユリは、静かに心を決めた。
――家族の分まで、強く生きていくと。
■■
祖母との、静かで温かな日々。
それは、少しずつユリの心を癒していった。
――だが、その穏やかな時間は、けっして長くは続かなかった。
祖母は、病に倒れた。
日に日にやせ細っていく体。
刻一刻と消えていく命の気配に、ユリはただ不安に潰されそうだった。
ある晩、
枕元で、祖母はユリの手をそっと握り、こう言った。
「ユリ……あなたの人生は、きっと平坦ではないわ。つらいこともたくさんある。でもね、どうか諦めないで」
「おばあちゃん……やだよ、置いていかないで……!もう、ひとりにしないでよ……!」
ユリの声は震え、頬には涙が伝っていた。
祖母はその手を、残された力で包み込み、静かに微笑んだ。
「ユリなら、大丈夫よ。……私は信じてるから」
そう言い残して、祖母は静かに息を引き取った。
ユリは、また――ひとりになった。
■■
それからの毎日は、厳しい現実の連続だった。
ユリは親戚の家を転々としたが、どの家でも歓迎されることはなかった。
「さっさと働いて、少しは家にお金を入れてくれればいいのに」
投げつけられる言葉は、冷たかった。
値踏みするような視線の中で、ユリは“厄介者”として、居場所を渡り歩くことになった。
やがて、誰の手にも余され、ユリは児童養護施設に預けられた。
学校でも、ユリは標的にされた。
理由はひとつ。「親にチクられる心配がないから」。
机の中にゴミを入れられ、筆記用具を壊されても、ユリはただ黙って耐えた。
どれだけ泣いても、叫んでも、誰も助けてはくれなかったから。
それでも、ユリは強く生きた。
「生きることが――パパとママ、おばあちゃんへの、たったひとつの恩返し」
その思いだけを胸に抱いて。
ユリは、一歩ずつ前へと進み続けた。