表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
声の複製者  作者: 鵺@n-nue
1/34

第1話

「海を見に行きたい」――




それが、七歳の誕生日を迎えたユリの、たったひとつのお願いだった。




「ユリがそんなに言うなら、行ってみようか。久しぶりに家族でドライブなんて、いいかもしれないね」




父がカメラを肩にかけ、母がキッチンでおにぎりを握っている。


私は、宝物のように大切な日記帳をバッグにしまい込んだ。


誕生日にもらった真っ白なノート。どこへ行くにも、いつも一緒だった。




その日は、驚くほどの快晴。


車窓の向こう、真っ青な空に、綿菓子のような雲がふわふわと浮かんでいた。




ラジオからは、明るい音楽が流れている。


ユリは後部座席で頬を紅潮させながら、無邪気にはしゃいでいた。




「貝殻、落ちてるかな~? 明日、学校でお友達にあげたいの!」




「そうね、一緒に探してみましょうか」




助手席の母は振り返ると、いたずらな笑顔をユリに向ける。




「どっちがいっぱい取れるか、競争よ!」




「負けないもん! 落ちてる貝殻、ぜーんぶユリが拾っちゃうんだから!」




笑い声が車内を満たす。


――それは、ユリにとって、生涯忘れられない一日になるはずだった。




けれど。




「一緒に」探すことは、叶わなかった。





突然の衝突音。焦げたような匂い。割れたフロントガラス。


時間が止まったような静けさのあと、世界が遠ざかっていった。




次に目を開けたとき――そこには、誰の声もしなかった。




「……どうして。どうして私だけ置いてきぼりなの……」


「私も、連れてって……!」




泣きじゃくるユリの手には、破けた日記帳だけが残っていた。




――ユリだけが、生き残った。





それ以来、ユリは海が怖くなった。


青い空も、ふわふわの雲も、ラジオから流れていた音楽も。


あの日の景色も、音も、心の奥に鋭く突き刺さる。




「海に行きたいなんて、私が言わなければ――」




そう何度も繰り返す。


それは、あの日から呪いの言葉になってしまった。




■■




両親の死後、ユリは母方の祖母に引き取られた。


祖母は、穏やかで少し意地っ張り。でも、いつも優しかった。




夜になると、ユリの髪をゆっくりと梳きながら、決まってこう言ってくれた。




「ユリ。あなたのお母さんはね、心の底からあなたを愛していたのよ。


あなたの成長を、誰よりも楽しみにしてたの。


……だからね、ユリ。生きなさい。両親の分まで、一生懸命に」





ある日、祖母は一冊の古いノートをユリに差し出した。




「これはね、あなたのお母さんがまだ小さかった頃につけていた日記よ」




ページをめくると、「将来の夢」と題された欄に、可愛らしい字でこう記されていた。




『大きくなったら、優しい人と結婚して、可愛い娘を産んで、ずっと一緒に楽しく暮らす。娘はきっと私のこと、大好きのはず。だって私が娘のことを大好きでいるから!』




ユリは、日記帳を胸にそっと抱きしめた。


母の言葉が、小さな鼓動のように胸に響く。




(ママのこと、大好きだよ)




ユリの目から涙が溢れた。


祖母が優しくユリを抱き寄せる。




「ユリ、あなたは強く生きるのよ」





「うん…ママのこともパパのことも、絶対に忘れない……私、ママたちの分まで頑張って生きるから」




家族の愛情を胸に、まだ幼いユリは、静かに心を決めた。


――家族の分まで、強く生きていくと。




■■




祖母との、静かで温かな日々。


それは、少しずつユリの心を癒していった。




――だが、その穏やかな時間は、けっして長くは続かなかった。




祖母は、病に倒れた。


日に日にやせ細っていく体。


刻一刻と消えていく命の気配に、ユリはただ不安に潰されそうだった。




ある晩、


枕元で、祖母はユリの手をそっと握り、こう言った。




「ユリ……あなたの人生は、きっと平坦ではないわ。つらいこともたくさんある。でもね、どうか諦めないで」




「おばあちゃん……やだよ、置いていかないで……!もう、ひとりにしないでよ……!」




ユリの声は震え、頬には涙が伝っていた。


祖母はその手を、残された力で包み込み、静かに微笑んだ。




「ユリなら、大丈夫よ。……私は信じてるから」




そう言い残して、祖母は静かに息を引き取った。


ユリは、また――ひとりになった。




■■




それからの毎日は、厳しい現実の連続だった。


ユリは親戚の家を転々としたが、どの家でも歓迎されることはなかった。




「さっさと働いて、少しは家にお金を入れてくれればいいのに」




投げつけられる言葉は、冷たかった。


値踏みするような視線の中で、ユリは“厄介者”として、居場所を渡り歩くことになった。




やがて、誰の手にも余され、ユリは児童養護施設に預けられた。





学校でも、ユリは標的にされた。


理由はひとつ。「親にチクられる心配がないから」。




机の中にゴミを入れられ、筆記用具を壊されても、ユリはただ黙って耐えた。


どれだけ泣いても、叫んでも、誰も助けてはくれなかったから。





それでも、ユリは強く生きた。




「生きることが――パパとママ、おばあちゃんへの、たったひとつの恩返し」




その思いだけを胸に抱いて。


ユリは、一歩ずつ前へと進み続けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ