虚空を舞う白い布
◆虚空を舞う白い布. 池田礼
いつまで経っても迎えに来ない母親の姓を名乗る自分の歳は幾つ?
数えても意味ないんで年齢不詳ってことにしたい。ダメなのか?
学校に通う義務が負担だ。カズマが卒業した学校は山間にある
寄宿舎付の十年間の私学でイヤでも授業に出たら出た分だけ
給金がもらえたんだってさ。六歳になる前、差出人不明の
手紙が届いて読んだ親には魅力的な内容が書いてあって
爺ちゃん婆ちゃん曾爺と一番偉い曾婆が相談した結果
カズマを一人で寄宿舎に入れて十年間も勉学させる
懲役を課したんだって。まず生まれてきたのが罪。
とはいえ、小さい宿泊業を営む一家には有難い
収入源となってくれるんだから不安はあるが
長い時間、列車に揺られた後はタクシーに
乗って入学する寄宿舎付学校まで同行し
曾婆は、そのままカズマを置いてきた。
故郷とは異なる環境に放り出された
カズマにとって学校は…刑務所…。
自分の居場所を見つけるのが上手かったのは間違いないと思う。
自分の意思で級長という役職に就いた勇気と自信があるんだし
最初は聞き取れなかった言葉の壁、居心地の悪さを乗り越えた。
羨ましいよ。自分には何もない。島の桟橋で待ち続けてみても
迎えなんて来ない。育児放棄された。世話になってるカズマの
家族は申し合わせたように余計な口を挟まない。母親のことも。
鏡の前に立つと現れる顔や姿はカズマの家族とは全く別のモノ。
要するに他人ってことを表してるんだ。陽に焼けない肌と黒髪、
自信の無い表情、身長は低い方じゃないからチビって侮蔑では
虐められないけど重箱の隅を突くのが好きなヤツが見つけ出す
自分が持つ数々の欠点。二日続けて同じハンカチだったことで
ダラしないって論われた。風呂にも入ってないんじゃないかと
勝手に決めつけられた。クサイと言い出し始めるバカも現れた。
それで今朝は渡し船に乗り遅れた。既に遅刻常習犯と呼ぶのも
いるから気にしない。本日休息日。隠れて過ごす場所を探そう。
公園などにあるベンチには座れない。人目につくんで当然×だ。
〇、できたら◎な場所に行こう。それより透明な空気になろう。
空気に溶け込んで消えたい。若しくは、風に舞う塵になりたい。
箒で集められて塵取りに入ったらゴミ箱に放り込まれて、後は
焼却処分されて土の成分に落ち着くか、煙になって風になるか、
選択可能なら自分は水になりたいな。長い旅が出来そうだから。
天上に昇れば雲という形で地上を覆えるし、雨になって地面に
浸み込んだら、草木や野菜に摂り込まれ…いや、人間の胃袋に
収まるのは絶対イヤだな。行きつく先はトイレの汚物。結局は
土になるのが一番安定してるのかもしれない。個であり広大だ。
心なんて無いのに数多くの生命を生み出す自然の力に満ちた土。
トイレの汚物なんて考えたのが運の尽きか。トイレに行きたい。
家に帰ろう。腹が痛いってことで不貞腐れて寝込んで過ごそう。
胃腸が弱いのは幼少の頃からカズマの家族に知られた欠点だし
まだ学校じゃバレてないけど、そのうち何かの拍子にクラスの
全員に最悪な部分を知られるかもな。トイレに行かない人間は
いない筈なのに最低な話となるのが実に不思議で不可解の極み。
牛乳好きなのが良くないんじゃないかと1日コップ1杯までと
約束させられたのは何歳の頃だろう。今は無調整豆乳を買って
飲んでる。通学路の途中にある商店に立ち寄ってギリギリまで
時間を潰してるんだ。コンビニと違って他の生徒が現れないし。
自分の何がいけないんだろう?…なんて考えるだけ無駄だよな。
集団生活には仲間外れや嫌われ者が必要なんだ。今回は学校で
ハズレ籤を引いたのが自分ってだけの話。卒業するまでの辛抱。
私学に入れてもらえただけでも有難い身の上だ。卒業しないと
カズマと家族に恥を掻かせる。いっそのこと島から遠く離れた
山間の村にある寄宿舎付の学校の方が好き放題できた気がする。
仲良しなんて必要ないよな。自分の仲間は池田礼、たった一人。
池田礼は幽霊旅館の跡取り養子として周囲に知られているのが
少しだけ厄介。入学した当初は幽霊が出る噂を知ってる校内の
連中から散々質問された。十七歳で亡くなった黒髪の美形男子。
斎藤千馬
自分の養父であるカズマは和眞と書く。同じ音で紛らわしいが
曽爺の兄者が旅館の売りとなる幽霊だし、いないとは言えない。
「波長が合えば視れるし、曾婆ちゃんは今も気配を感じるって」
とりあえず、こんな感じに言う決まり。旅館の売りが幽霊だし。
わざわざ写真が載った雑誌を持ってきて「似てるね」と笑われ
「桔梗の間へ泊まりに行ったらアンタが幽霊役で出るんでしょ」
そう決めつけられた。自分の立場が徐々に追い詰められていき
現在は遅刻常習犯から不登校を目指して突き進んでるような…。
口の聞き方もセンス悪いんだって。一人称「自分」がダメなら
俺?…僕?…私?…いっそ名前をちゃん付けして…礼ちゃん…。
旅館に近づいてきた。腹を押さえて俯いて歩こう。誰も見るな。
表から入らないといけない造りなのがイヤだ。裏口があれば…。
ココジャナイドコカヘイキタイ。透明になれないなら逃亡する。
だが、肝心の逃亡資金が少なすぎる。私学に行くよりバイトに
行かせてもらった方が将来のためになるってカズマに伝えたい。
しかし、集団に馴染めない性格じゃバイトも難しい。目の前に
高い壁が立ちはだかってる。壁に沿って歩いて行けば、いつか
壁も尽きて消え去るかもしれないし、永遠に別れられないかも
しれない。ツルハシで壊した方が早い気もする。兎に角、自ら
何かしないと自分が望んだ道を歩けないのは分かり切った話だ。
自分の望み、それもまだ視えないけど…。恩を返すには島から
出て行くのが一番じゃないかと思う。生まれた島でも故郷とは
言えない。幼馴染の友達さえ一人もいない。居心地良い場所を
見つけ出したり作り出すことも出来ない自分が悪いんだろうが
この離れ小島で生まれ育って、今更違う自分を演じられるとは
思えない。仲間から孤立してない自分を探しに遠くへ行きたい。
「ご苦労さん。壊してもない腹を痛そうに歩く礼の名演技だな」
カズマが門柱の脇に立ってた。父親くらいの年齢だけど自分が
言葉を覚えた頃からずっと名前を呼び捨てにして呼んでる存在。
その理由は『親友だから』父親になりたくない自分の保護者で
一緒に歩いてると父親扱いされるのを本気で嫌がる親友カズマ。
年齢は四十過ぎてるけど若い。同年代の中に入っても浮きそう。
お世辞抜きで多く見積もって三十路前後の見た目なんだってば。
趣味は大昔の特撮番組が収録されたDVDを鑑賞することだし
未成年の一面を持つから身に纏う空気が若い印象を放出してる?
「あ、お客の出迎え?…にしては早いか。普通は午後過ぎだし」
宿泊客が訪れる予定なし。戸口に立てた歓迎の看板は飾り付け。
「ヒマだから周辺の清掃奉仕してた。で、遠くから礼を見てた。
普通に歩いてると思ったら、途中で演技始めちゃうんだもんな」
カズマの足元には空き缶だの入ってる半透明のゴミ袋があった。
「普段から真っ直ぐ前を向いて歩かないから気づけないんだよ。
腹に手を当てなくていいから部屋で話そうか。どうせヒマだし」
背を向けて逃げ出そうという気概もなく保護者の後に従う自分。
正面出入口に入り、スリッパに履き替えて母屋の方に入る構造。
昔から感じてたけど旅館と個人の家の玄関が同じなのは変だよ。
曾爺の幼少時から変わらないっていう建物の構造が変わってる。
自分が小さい頃は猫の接客係がいたっていうのも客商売なのに
珍しいよな。猫に『美女』って名付けたのがカズマらしいけど。
怒られる。部屋に入ると小言が始まるのかと思うだけで憂鬱だ。
一部始終見られてたのが最悪。私学の同級生より厄介な相手だ。
どうして自分は成長したんだよ。幼児のまま時を止められたら
永久不変の幸福な状態で終わった筈なのに。御伽話に出てくる
薄幸な美少女が王子様から求婚されたハッピーエンドの状態が
永遠に続く物語の終わりで良かったのに幼児は成長してしまい
新しく設立された私学に入れられてしまって、最悪のはじまり。
この後も酷いんだ。自分の脆弱な精神が崩壊する。不幸になる。
知らない方がいいに決まってる自分の未来、物語の破綻と瓦解。
母屋で食事する部屋の前でカズマが自分に声をかけてきたんだ。
「自分の部屋で楽な格好に着替えて寛いでるといい。こっちは
適当なお菓子と飲み物でも持って行くから緊張する必要ないよ。
怒られると思ってるんでしょ? 学校をサボりたい気持ちなら
こっちも経験済みだし怒りたくない。どうしたら気持ちを楽に
礼が学校へ行けるようになるのか俺と礼で一緒に考えてみよう」
台所の冷蔵庫に用があると言って自分を一時的に解放したんで
母屋の階段を上って自分の部屋へ。陽当たり良好な位置にある。
遮光性の低いカーテンから太陽の光が目蓋を通り越して起きる
毎朝は身体にはいいのかもしれない。カズマの部屋だったのに
学校に入学した春、プレゼントされたんだ。広々とした十二畳。
クローゼットや壁一面に大きな本棚が設置されてるのはスゴイ。
生憎だが自分の趣味は読書じゃないから本棚の殆どは何もなく
下段の一列には子供向けの豪華な装丁の世界名作集が並んでる。
カズマの蔵書を取っときゃいいのに大半は処分したんだそうで
勿体無いことするなぁと思った。ベッドと机と整理棚があれば
自分は十分なのに…。寂しいくらい何もない退屈な自分の部屋。
運び込むのは無理だけど、ピアノが弾けたら楽しく過ごせる筈。
午前十時。部屋着になって部屋で待ってたらポテトチップスと
牛乳を与えてくれた。塩味のポテトチップスは牛乳との相性が
最高なんだって教えてくれたのもカズマ。袋に入ったスナック
菓子を食べられなかった自分が美味いと思って口に入れてるし
最近ちょっと太ってきた自分には危険な組み合わせなのは確実。
五月も半ばを過ぎた現在、学校をサボって十時のオヤツを食べ
紙パックの牛乳を半分ほど飲み干してる我儘な棄てられっ子は
いつか恩返ししなきゃいけない親友に今日も甘えて過ごしてる。
小さい座卓に向かい合ってる親子くらい年の離れた親友の前で
ポテトチップス1袋とビールジョッキに注いだ牛乳を空にして
油分で汚くした口元と指先をウェットティッシュで拭い取った。
「試験結果の報告書が保護者宛に届いてたんで目を通したけど
礼は試験の結果が悪いから行く気を失くしたってことなのか?」
沈黙するしかない。間違いなく成績はビリから数えた方が早い。
「あのさ、さっきも言ったけど俺は礼を怒らないよ。約束する。
それより礼が学校に行きたくないって気持ち、そっちが問題だ。
居心地悪いってより、教室のどこにも居場所がないんでしょ?」
頭を下げて項垂れた。カズマの指摘したとおりの自分の現状…。
「学校は勉強より集団に馴染む訓練をしに行く場所だと思うよ。
俺が送致された寄宿舎付学校は特異な場所で担任もおかしいし
人間関係も最悪でさ、いつもいつでも逃げ場所を探してたっけ」
カズマは時々ドキッとするほど不機嫌な表情を見せるから怖い。
狂気を懐いて凶器を持ってたら容赦なく相手に突き立てそうな
印象を懐かせるから怖い。一度も暴言や暴力を向けられた経験
ないのに失礼だよな。今だって自分のサボりを咎めずオヤツを
与えてくれたんだし、トイレに行きたい気持ちも遠ざかってた。
「バス遠足の日は不運な事故に遭って自分以外の全員が死ねば
最高の気分だろうなって空想することで退屈を紛らわせてたし
親友だと思っていたヤツは口を聞けば聞くほど底意地が悪くて
俺以上の狂気を含んだバケモノだと思い知った日は彼の家族の
ためにも殺害してあげるのが天意に違いないと思ったんだけど
一番身近にいた相手だから、葬式とか耐えられそうになくって
殺害を諦めたんだよ。葬式の最中に笑っちゃったら御終いだし」
ペットボトルの緑茶を口にした後で自分に見せた親友の表情は
宿泊客の相手をする時の爽やかな青天みたいに作り込んだ笑顔。
カズマは昔から人を笑わせるための和やかな冗談が下手なんだ。
「葬式で笑顔は…。そんな時こそ思いきり悲しんでみせなきゃ」
疑われる言動は慎まないと周囲から不穏な目で見られるもんな。
「お、いい受け答えだな。この斎藤家は葬式全般まだ先だから
礼には頑張って取り仕切ってもらわないとな。そのときは頼む。
人間として生まれてきたら、人間との関わりを断てないんだし
生まれてくるにも死ぬにも金銭が必要なのが厄介で不可解な点。
だけど、人間として社会の構成員やってる以上は仕方ないんだ。
美形の嘆き悲しむ姿は絵になる。礼、美しく悲哀を演じてくれ」
カズマについては自分のことを美形呼ばわりするのが一番ヤダ。
自分は制服を着崩すこともしない全てが野暮ったい地味なヤツ。
「演じるって…。この家の人たちは皆揃って自分には特別だし
本気で悲しくなるのは分かってるから想像するのもイヤだよ…」
心の底から素直になって答えた。自分は面白い冗談で返せない。
「重たいなぁ。軽い方が気楽になれると思うよ。まだまだ俺は
人生の先輩として未熟だけどさ、最近の礼は重たくなってきた。
近くに新設された六年制私学が校則とか緩いとこが気に入って
礼を入学させることに決めたんだけどな。何故ルールを守る?」
「え?当然のことでしょ。規則を守らなきゃ周りが迷惑するし」
憲法、法律はなくても幾つも規則は成立してる。必要なモノだ。
「服装、髪の毛、そんな感じで礼は満足してるのかが聞きたい」
そんな感じは悪いと言いたいんだろうか? このままじゃダメ?
「一日ハンカチを替え忘れただけで色々言うヤツもいるんだよ。
自分の好き勝手してたら目立つし…ますます自分の居場所が…」
だから学校へ行きたくなくなってきてるんだ。居場所がなくて
息苦しい。普通に呼吸して構わない場所が現在この家の中だけ。
「言われてもいい。言わせとけ。礼は礼らしく格好良く生きろ」
それからが長かった。年齢と性別問わず嫌いなヤツは無視しろ。
心から尊敬する魅力的だと思うヤツとだけ関われ。とりあえず
黒髪を明るく変えよう。通学鞄も派手な色柄の品に買い替えろ。
黒くて重たい学生鞄より小さくて軽いバックパックを背負って
教科書とノートは必要なとき以外は教室の机の中に仕舞っとけ。
話を聞いてるうちに学校時代のカズマがやりたかったことを
自分を代理にして成し遂げたいんじゃないかという気がした。
不満が爆発しそうな懲役…学校生活の話は何遍も聞かされて
こっちの記憶と混同しそうなほど脳裏か胸中に焼きついてる。
在学中に三度も自転車を盗まれた話は正直言って笑えるけど
カズマが新聞沙汰になる事件を起こさなくて本当に良かった。
大柄だし偶に見せる素の表情が普通に怖くて喧嘩は売れない。
「俺と一緒じゃ窮屈かもしれないけど中央の広々とした店舗で
欲しいと思う品物を買うのも良い経験になる筈だよ。これから
旅券を手配してこようか? 礼の容姿なら街を歩いてるだけで
芸能関係者にモデルとかスカウトされちゃうかもしれないから
堂々と大物感を漂わせる立ち振る舞いで、背筋を伸ばして前を
見据えて歩こう。人混みの中でも大勢の目を惹きつける魅力が
礼にはあるんだから俯いたり猫背は今この瞬間から絶対禁止!!」
「必要ないよ。都会には行きたくないけどトイレに行ってくる」
空にしたスナック菓子の袋と空ジョッキなど抱えて部屋を出…。
「礼、姿勢が悪い。堂々と胸を張って、いつも笑顔を忘れんな」
背中からダメ出しされた。「笑顔を忘れんな」は昔からの口癖。
家のトイレ行くのに姿勢を正して笑顔で歩く方が気持ち悪いよ!
…………………………。
…………………………。
…………………………。
食堂の台所に婆ちゃんがいた。婆ちゃんというほど老いてない。
それでも自分にとっては祖母のような存在だから…婆ちゃん…。
女性としては体格に恵まれてるって思う。カズマもそうだけど
スポーツ選手になって活躍したら上位に記録を残せそうな感じ。
プロスポーツが発展してる現在だけど、昔の婆ちゃんを見たら
関係者が放っとかないんじゃないかと思うよ。どんな競技でも
戦力の主軸となって活躍しそうだ。引っ込み思案な性格だって
有能な選手として周囲に認められたら引っ繰り返るに違いない。
足が動かない。サボりをどう誤魔化していいか考えてなかった。
腹痛も牛乳をジョッキで飲んだと知られたら即座に嘘とバレる。
カズマに与えられたオヤツには大きな罠が仕掛けられてたんだ。
突っ撥ねて布団に潜り込むべきだった。捕まっても黙秘したら
如何なる犯罪も白日の下に晒されることはない故に裁かれない。
「あら、学校へ行ったんじゃなかったの? 今朝、婆ちゃんは
制服を着た礼が玄関を出るとこを見たような気がしたんだけど」
台所で昼食の支度中だった婆ちゃんが廊下側を向いてしまった。
「臨時休校だってさ。定期にしてもらってるけど船賃と時間が
無駄になっちゃったねって話してたところ。昨日の内に学校で
連絡してくれりゃいいのにさ、電話の開通も来年以降だもんな。
田舎は本当に不便だよ。何もかも全てが都会の後まわしだから」
気づく間もなく背後に立ってたカズマが助け舟を出してくれて
自分の手にあった牛乳のジョッキとか全部取り上げ、代わりに
片付けてくれた。婆ちゃんも息子の皿洗いをアレコレ言わない。
「トイレ、行きたいんでしょ。そういう場合は早急に済ませて」
こっちに首を捻って一言くれたと思ったら婆ちゃんの手伝いを
始めてる。ただいまの挨拶もせず、そのままトイレに向かった。
アルバイトで働いて、金を稼ぎたい。育ててもらった恩返しを
しない訳にもいかない。立つ鳥が跡を濁しちゃ格好悪いもんな。
でも、自分に何が出来るというんだろう。地味で成績も悪いし
雇ってくれる場所を見つける当てもないんだよな。人間として
生まれてきた以上は人間との関わりを断つ訳にもいかないんだ。
要はカズマの言ったように学校って勉強より集団に馴染むため
訓練をしに行く特別機関なのかもな。人と関わらないことには
何も始まらないし、上下左右の関係に苦しむことが必要なんだ。
今ここで逃げてたら恩返しできない。まずは入学させてくれた
私学を卒業してみせないと話にならない。イヤでも行かなきゃ。
キラワレモノで構わない。嫌いな連中に顔を向けなくてもいい。
もう少し今よりマシになろう。学校に行かなきゃ先が視えない。
ヘアスタイルや持ち物を周りが羨ましがるようなモノに変えて
後は周りの顔色を窺うのは止す。独りでいい。孤立してやろう。
無視、陰口、酷い扱いされても気に病まず、ふてぶてしいほど
晴れ渡る笑顔を見せてやろう。道に外れても迷わず突き進もう。
「アドバイスに従おうと思うんだ。重たくなるのは止めたいし
周りが手出しできない仲間ハズレになってやる以上、もう少し
自分に自信を持ちたいと思う。まずは見た目、中身に合わせて
きれいさっぱり空っぽになりたくてさ。図太い神経の持ち主に」
昼過ぎ、物置の片付けを手伝いながらカズマに気持ちを伝えた。
「礼の考えてる図太い神経の持ち主は空っぽなのか。面白いな」
黒いシートが被せられたオートバイに凭れて返事をしてくれた。
「上手く言葉を繋げられないけど、今の自分の素直な気持ちを
伝えたいと思ったら、大きな樹の洞みたいなのが頭に浮かんだ。
樹は枯れてるのかもしれない。それでも猿や狸が雨宿りできる
感じの居心地好い空洞が開いてると何かの役には立つ筈だよね」
御伽話に出てくるような樹の洞になりたいってのも奇妙だけど
非現実の世界でも受け入れてくれるなら感謝して飛び込みたい。
土もいいけど空を見上げるなら樹木の方が気持ちいいと思うし。
「ぴったり合ってるか判らないけど礼の心の中に広がる光景は
俺から見ても寂しくはない雰囲気の画像だ。枯れても活きてる。
髪の毛や持ち物をお気に入りのモノに変えたいなら三日くらい
学校を休んで遠くの街へ出かけるとしよう。こっちはヒマだし
付き合うよ。現在の流行りは俺の目からは安っぽく見えるけど
多くの人の目と心を惹きつける品に魅力ないワケないんだから
自分の納得いくモノを揃えてみなよ。きっと礼の自信に繋がる」
金銭の負担に関しては斎藤家に一切遠慮するなと言われてるし
親からの便りもない棄てられっ子は甘えさせてもらうしかない。
「ありがとう。いつか皆に恩返しできるよう頑張ってみるから」
古びたガラクタみたいな玩具が転がってる箱も全部空にしよう。
石膏に色を塗った栗鼠の置物は懐かしいけど執着してられない。
「あのさ、礼が望むならアパートで一人暮らししながら学校へ
通ってもいいよ。渡し船とバスで往復するのは大変だろうから
私学の近くなら良い下宿があるかもしれない。俺が探しとこう」
ちょっと不安気な様子で両目を左右に動かしたカズマが言った。
「渡し船に乗るのが楽しみで学校に通ってるようなものだから
下宿とかは考えたくない。渡し船は小さい頃からの馴染みだし
縁が切れる方が寂しくてダメだ。乗り物に揺られて移動できて
考え事してられる最高に贅沢な時間を手放す気にはなれないよ」
思ったことを思ったまま伝えた。話した結果を考えずに喋れる
相手は自分の目の前で休憩してるカズマ一人だけかもしれない。
「渡し船の普段は無口な船長さんと礼は雑談が出来る親しい仲」
カズマは胸ポケットから…。食後になると時々見かける光景だ。
「挨拶しかできない。向こうから声をかけられることはないし」
普段は忘れてしまいがちだけどカズマは不治の病を発症してる。
病名で誤解されがちだし、健康的な外見だから知らない人から
力仕事を頼まれることもある。自分が生まれる前からの病気で
無理できない身体と聞いた。背後に置かれてるオートバイにも
乗ってたらしいけど壊れた現在、捨てるに捨てられないそうだ。
「俺と同じ」そう言って笑ってみせた青天みたいに作った笑顔。
さっきも昼の素麺を食べながら中古車買い取り業者の連絡先を
調べてたようだけど後ろの黒いシートを捲ってみようともせず
凭れてるだけ。古びたバイクには捨てられない理由がありそう。
低血糖の発作を起こしたようだし、回復するまで黙って待とう。
こっちから五月蠅く話しかけたら迷惑になると思うし、様子を
見守ってやらなきゃ恩を仇で返してしまう結果になりかねない。
気が遠くなったり手が痺れたりするとか本人から聞いてるけど
自分自身が経験した症状じゃなきゃピンと来ない。脳の栄養源、
カズマを速やかに不具合なく不快な症状から救ってやってくれ。
シロップや粒、粉末、形は兎も角、ブドウ糖は病気の敵であり
復活の呪文にもなるんだから不思議だ。太るのは健康な証拠と
自分が小さい頃から教えられてきたけど、やっぱり食べ過ぎて
見た目が崩れるなんて見っとも無い。健康体なら自制しないと。
炭水化物は糖質。上がった血糖はインスリンの働きで脂肪へと
変化して体内に蓄えられる。脂肪が合成されたら分解しなきゃ。
肥え太った体が身に余る贅沢を表していた時代は既に過ぎ去り
現在じゃ嫌われる要素となるだけ。肥満からは何も得られない。
キラワレモノ希望者の自分だってイヤだし、本気で痩せないと
嫌われ要素が追加されるだけだよな。走るのは恥ずかしいから
外の散歩から始めてみよう。体力はあった方が役に立つと思う。
「これから口に出すことはバケモノの昔話だから聞き流して…」
…?!…
幽霊かと目を疑ってしまった。カズマは斎藤家の正統な血筋だし
桔梗の間に飾られた遺影と面影が重なっても不思議とは思えない。
夭折したのも無理なさそうな髪を無精に伸ばした細い印象の人が
斎藤家で一番偉い曾婆の元婚約者だと聞かされてる。カズマとは
全然似てない顔なんだけど奇妙なくらい重なり合って瞳に映った。
持病があっても健康的な血色と体格のカズマとカズマにとっての
大伯父は色柄が違うと表現したらいいんだろうか。似てないのに
似てるのが本物の血縁だって証拠だ。自分は偽物、幽霊じゃない。
学校でアレコレ言ってきた連中だってカズマを見たら気づくよな。
故人の享年を疾うに追い越しても身に纏う空気や視えない何かが
パズルのピースみたいにピッタリ重なり合ってる血縁関係だって。
上辺だけの自分は幽霊じゃない。本物は…目の前にいる真実を…。
背後のオートバイのシートに身を預けながら何かを思い出してる
そんな感じだった。記憶を掘り起こしてる脳内作業の真っ最中か。
「隣りのクラスにいた美形生徒が紅葉した桜の樹に縛り付けられて
騒いでる姿が不思議と目に焼きついているんだ。割と仲の良かった
二つ年上の同級生と笑って見てたんだけど…秋になると思い出す…」
今は初夏だよ。繁忙期を過ぎてから落ち着きを与えてくれるのが秋。
「その美形生徒こそ礼なんだよ。目指すべき人。周りを明るくする
灯火みたいな存在が必要とされなきゃいけないんだ。彼を目指そう。
だから、黒髪じゃイマイチ魅力に欠ける。礼には茶髪が似合う筈だ。
見た目から変身していこう。自分自身に不満を持たないよう変身!」
変身ポーズ? 両腕を動かしたけど興味なくて覚える気にならない。
「オトートギミだっけ。よく話に出てくるよね。自分と似てるって」
北の外れにある山間の村に暮らしてる通学生だってことも知ってる。
桜の樹に括り付けられたって話は初めて聞いたけど碌なことしない
美形生徒なのはもう知ってる。周りに迷惑かける存在を目指せって?
「仮に生まれ変わりがあるとしたら、本当なのかもしれないと思う。
礼にとっては叔父に相当する人物で現在は生きていないって聞いた」
オトートギミが自分の叔父ってことは父親が誰かカズマは知ってる?
「彼のことは記憶の中に残ってたら十分。これからの彼を礼が作る」
オカルトな話題に付き従う話題の一つが魂の旅と…生まれ変わり…。
オトートギミの名前も聞かされてないし、前世の記憶ってのも無い。
鏡の向こうに映る幽霊がオトートギミなら、もう少しマシにしたい。
彼の兄上の名前が自分の父親だと気づいたけどカズマには訊けない。
「それ故に…だよ。生まれ変わった弟君を粗末に扱うのは止めよう。
彼を知ってる俺と礼とで供養してあげなくちゃ…弟君が気の毒だ…」
ちょっと意味が解らない。昔の同窓生に何があったと言いたいんだ?
「学校時代の同窓生一人のために供養とか言い出すところが二組の
級長を務めた優等生なんだと思うよ。自分には真似できないけれど
人生の先輩として二組の級長を見習いたいな。あの、そういえばさ
学校時代のアルバムはないの? カズマの同窓生の写真が見たいな」
「あ、ごめん。卒業アルバムはあったんだけど、酔っ払った勢いで
火を点けて灰にしちゃったんだ。若気の至れり尽くせりってヤツさ」
巫山戯た調子で冗談を聞かせたけど目が笑ってない。冷え切ってる。
嫌いなヤツばかりじゃ昔の思い出を残したくもなくなるだろうけど
自分が知りたい情報から遠ざけるために燃やしたんじゃないかって
疑いを持ってしまう。元親友の狸猫とか実物を見てみたいんだけど
自分にとっては渾名と話だけの謎の存在だ。昔、この島を訪ねたと
聞かされても記憶に残ってない。会っていたとしても宿泊者としか
認識できない筈だし、実の母親の姿さえ記憶の彼方に遠ざかってる。
迎えに来ない時点で自分は母親に捨てられたんだ。考えたくもない。
「じゃあ、カズマの知ってるオトートギミは生まれつき茶髪なの?」
頭の中に収納してある情報を確認する感じで目を左右に動かしたら
「茶髪だったけど染めてる可能性が高い気がする。鋏狐の家で髪を
弄ってもらってたみたいだし、低学年の頃は印象が薄かったんだよ。
髪の毛が明るい茶色になってから集団の中で目立ってきた通学生だ」
右手を顎に当てて人差し指を立てて答えた。つまりオトートギミは
地味から派手に変身したって言いたいんだろうな。それを見倣えと。
同じクラスの鋏狐は小柄でキツネ目だけど人気者だったと聞いてる。
二人とも自分の居場所を作り出して存在感ある生徒に変身したんだ。
好かれなくて結構。この先の道を独りで歩ける強さを身に付けたい。
「夕方の船で島を出ようか。遊びに行くなら夜の方が愉しいと思う」
同じ私学に通う生徒と偶然会うってことも考えられなくもないけど
一緒に街へ出かけて自分の変身に付き合ってくれるカズマの意思を
尊重しようと考えて、その後は外出着のコーディネートして着替え
夕方の渡し船に乗る時間を待った。船長と挨拶に続く雑談をしたら
今後の見通しは明るく変わると運試しを決め、自分は実行に移した。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
来月には夏期休暇を迎える七月中旬、昼休みの教室で大声を出した。
出したのは他に勇気も少々…。自分から発言すること自体が珍しい
生徒が誰かに話しかけられた訳でもないのに大声で喋り出したんで
注目を浴びたし、自分の席まで近づいてくる生徒もいて、緊張した。
ちなみに自分のクラスは四十名いる。学費も高額じゃないし当然の
習い事として学校で勉強をするのが普通となった現在。昔みたいに
学校という場所が珍しいものじゃなくなってるし、通常は男女共学。
近いうちに義務教育制度も確立されると聞いた。この私学も将来は
公立中学校と公立高等学校に別けられる話が既に決まってるそうだ。
「幸代屋旅館の離れ『桔梗の間』無料宿泊体験希望者募集中!」
変身休暇の某日、録音して聴いた自分の声は力無く間抜けに響いた。
カズマの騙し討ちだった。普通に会話してた場面を録られてたんだ。
陽気に弾んだ口調で喋ってたけど壊滅的に悪声だと思い知らされた。
自分を知って修復は不可能な箇所の一つとなった魅力に欠ける声を
自分じゃ全く気づかない風に出すのも人生修行とカズマからの指示。
ふてぶてしく変わるため大声で喋ったけど間延びして頭の内容量が
少なく見積もられそうだと情けない気持ちになりながらも家族から
頼まれ仕方なく…というカズマ監督が指示した演出に従うしかない。
無視されたらチラシを作って渡す作戦も考えられてたけど幸いにも
自分のクラスにいる数名の女子が夏期休暇中に仲の良い仲間同士で
キャンプしたかったらしくて正式な返事は親の許可後というものの
ほぼ決定と言っていいような感じで興味を持って話を聞いてくれた。
三日間の変身休暇の後、生まれ変わったつもりで再び登校した日も
通学路で近づいてきて一人が明るい色に染めた髪を触ってきたんだ。
碌に挨拶した覚えもない数名が興味を持って近づいてきただけでも
変身計画の第一段階は完了したと思っていい筈。旅館の幽霊だった
自分に対する印象を良い方向へ変えてくれた数名だから感謝してる。
学校で孤立しても存在感のある生徒になる。表面だけでも陰気から
陽気へ路線を変えなきゃ変身した意味がない。馴れ馴れしくしない。
仲間から遠巻きにされても一目置かれるような存在に変わってやる。
「食事は残り物ってことはないけど期待しないで。無料体験だから。
あ、でも、海老とかは出ると思うよ。可愛らしい女子グループには
大サービスしそうな気がする。うちの養父は独身で彼女募集中だし」
調子良いバカになりきって喋った。気を付けようにも語尾が伸びる。
耳にする側の視点じゃバカっぽさが増すだろうな。オトートギミも
雑誌のモデルは通用してもテレビの俳優は無理なタイプだと聞いた。
カズマの話じゃ真面目な演劇をコントに変える生徒だったそうだし
やっぱり自分の血縁者だけあって声の印象も似てるのかもしれない。
秋に催される学園祭はクラスの出し物が演劇なら裏方に徹しとこう。
適材適所。自分が出来るとしたら簡単なピアノの伴奏くらいだけど
ピアノを習ってる生徒は他にもいるし、自分の出番は皆無だろうな。
島の観光ホテルのグランドピアノを好き勝手に弾いた昔が懐かしい。
「池田君のママと離縁したんでしょ。うちの親がそう話してたもん」
…?!…
何その話。狼狽した表情は隠し通せって指示だ。涼しい表情で話せ。
「養父と自分の母親は何の関係もないよ。誤解されてるらしくって
迷惑してるみたい。自分は元従業員の母親に捨てられ養父の一家に
拾われたというのが真相なんだけどなぁ。わざわざ自分が昼休みに
旅館の宣伝活動してるのも育ててもらった恩返しのために仕方なく」
自分に弱点なんか何一つない。穴だらけでも平気。絶対に負けない。
「大体さぁ、養父の顔を見たことないから噂できるんだよ。自分と
養父は血の繋がりがないから少しも似てない。ひと目で分かるから
泊まりに来たとき観察してみて。よくしてもらってるけど顔は他人」
自惚れてるバカの演技してみせなきゃ。将来の恩返しのため頑張る。
クラスメイトの親が離れ小島にある古い旅館の噂話したりするのか。
人の口に戸は立てられぬ。その言葉が現実にあると知ってしまった。
「ふぅーん、私が見たことある雑誌には幸代屋旅館の幽霊になった
男子の写真しか載ってないし、その写真の人は池田君と似てるから
うちの親も噂話を信じたのかもね。宿泊できる日を楽しみにしてる」
一部の親が自分とカズマの関係に疑惑を持ってるなら自分は上手く
利用してやるとしよう。カズマと自分は誰が見ても容姿は似てない。
誰が見たって納得してしまう現実だよ。動かぬ証拠を掴ませてやる。
「将来自分の義理の母親になるかもしれないならサービスするけど」
「ヤダァ、勝手にお見合い決めないで。無料宿泊体験するだけだし
あまり調子イイコト言わないでちょうだい。ご馳走は食べたいけど」
お互い笑顔で取り繕って旅館の宣伝活動を終えた形。話を聞いてた
女子たちも他の雑談を始めたり、教室を出たり、いつもの空気へ…。
昼休み開始のチャイムが鳴ってから今までの教室の会話をカズマが
盗聴してたとしたら自分の人生が終わりそうな気がしないでもない。
怒られるのは確実だもんな。彼女や結婚相手なんか募集してないし
単なる妄想だけど、自分の持ち物に盗聴器が仕込まれてたらコワイ。
実子じゃない男子の自分をそこまで神経質に扱う筈ないだろうけど
カズマの学校時代の行状というか武勇伝的過去の出来事も聞いてる
自分には…目的達成するためなら手段を選ばない…といった性質の
持ち主に思えてならないんだよな、自分から見た斎藤家の和眞って。
ヒマな旅館も多少は客が入る時期を迎えたし、養子の挙動なんかに
構ってる暇はないと思う。礼の笑顔が増えたと喜んでくれてるから
母屋での食事の時間、機嫌良く過ごしてれば失敗はないと信じたい。
聴かれてない。知られてない。カズマは自分の報告を待ってる筈だ。
「また明日」
「じゃあな」
「さよなら」
気づいたら学校で朝夕の挨拶をしてくれる同級生が出来てたことは
変身して良かったと思った方がいいのかな。親しい仲じゃなくても
騒々しい昇降口で自分も雑音を出す一名になってるのは学校という
世間の中に放り込まれた自分が徐々に馴染んできた証になりそうだ。
ハイカットの靴を買ってから履き替えるのに時間がかかるのが難点。
カズマが気に入って薦めてくれた高い靴だし、履き心地に不満ない。
でも、履く度に靴紐の結び直しに手間取るのは面倒だな。上質より
機能的なデザインの靴を自分は選ぼうと思う。ハードなデザインは
休日どこかへ遊びに行く場合が適してる。通学用には不向きだった。
「そのヘアスタイル、似合ってると思ってんの? すごくダサイよ」
混ざらない異彩を放つキラワレモノだって現実も常に目の前にある。
黒髪を金髪手前の明るい色に変えてから朝の身支度は時間がかかる。
衣服や雑貨品を全て派手というか有名メーカーの高い品物に替えた。
と言っても自信は持てないし、侮蔑嘲笑を向けてくる連中も増えた。
一部の連中が上から目線で偉そうに物申す場合は聞き流してるけど
以前の姿でも嫌われて、容姿や印象を変えても何したって嫌われる
異世界の住人については考えないのが一番。元から歯車の形が違う。
噛み合わない歯車じゃ機械は動かないんだから考えても時間の無駄。
思い悩む時間があるなら他のことに使え。それが自分のためになる。
「両親を説得してでも桔梗の間に泊まりに行くつもり。じゃあね!」
「ホントに美少年の幽霊が出てくるのかな? 池田君が化けるの?」
昼休みに自分の話を聞いてくれた女子たちが現れたんで相手しよう。
「泊まりに来たら皆が寝るまで近くで接待するつもり。風呂場でも」
心を遠くに置き忘れた言葉を川に流す感じ。あまり重たく考えない。
「ヤダァ。でも、男子たちとお風呂と寝る場所を別にしてくれたら
一緒にゲームしたり、百物語するのも楽しいかもねぇ。体験宿泊の
参加者は何人までOK? あたし、男子にも声かけてみようかな?」
「うん。希望者が増えたら洋室に泊まってもらうし、食事は揃って
宴会場で食べる予定だから誰でも遠慮なく泊まりに来てって伝えて」
「夜中に礼君が黒髪のヅラで出てきたら撃退してやるから覚悟して」
「そんな馬鹿げた演出しないって。体験宿泊会だから幸代屋旅館の
良さを家族や友人知人にクチコミで伝えてもらうのが目的なんだよ。
みんな心地好く寛いで気持ち良く休んでもらえりゃいいってハナシ」
「要は集団お泊り会だね。先生も一緒なら間違いもなさそうだけど」
「うちの担任? 宿泊するのは生徒だけにしてよ。あいつはニガテ」
「あー、言っちゃったね! 礼君は体験宿泊のしおり、作っといて」
「希望者が増えたら考えるってことで。じゃ、渡し船の時間なんで」
「うん、また明日ね。池田君が住んでる島も観光したいし、今年の
夏休みは楽しくなりそうな予感する。一泊だけじゃ物足りないかも」
雑談を無視して昇降口から屋外へ出た。午後の陽射しが全身を直撃。
今の季節は夏。そういや最高気温35℃超えるって予報だったっけ。
帰路に就く女子生徒の中には日傘を差して歩いてる御令嬢もいるが
自分は日焼けしたい。カズマみたいに健康的な肌に変わりたいから
半袖の白シャツから出た部分が黒くなってほしい。幽霊的白肌卒業。
桔梗の間に…いる…カズマの大伯父みたいな容貌から遠ざかるんだ。
白い布みたいな作り物の肌から普通の人間の肌に生まれ変わりたい。
渡し船の時間が早くて帰りは駆け足。無口な船長は待ってくれない。
最悪の場合、カズマか爺ちゃんが小型ボートで迎えに来る手筈でも
世話になってる身の上だし、斎藤家の迷惑になることは避けなきゃ
居辛くなるもんな。居場所を失っても母親の住処さえ知らないんだ。
自分が恩返しできる日まで頼りにしたいのは幸代屋旅館の家族だけ。
幸代でユキシロ、ユキヨかサチヨって祖先がいたんじゃないのかな。
雪白とも書けるんだから雪国から移住してきたワケ有りの一家かも。
幸せの代わり…。何かを代償にして一夜の宿を提供しそうな雰囲気。
桔梗の間という曰くつきの離れの部屋が売りの旅館って不思議だな。
黒髪で線の細い印象の幽霊男子と本当に似てるのは血縁のカズマだ。
髪の色を明るく変えた自分が黒髪の鬘を被って現れる演出もないし
ごく普通の旅館と知ってもらえば儲けもの。幽霊なんか出る訳ない。
のんびりゆったり宿泊者が楽しい夏休みを過ごせたら、それでいい。
幽霊を見たって体験談は曾婆の手紙を遠くから来た宿泊客に頼んで
読者からの恐怖体験を募集してる出版社に宛てて出してるのが真相。
大女将の自作自演なんだから『出ない』と身内の自分が断言できる。
自分と恩返ししなきゃならない家族が物陰で好き勝手に言われてる
現実を知ってしまったけど世間に幽霊旅館だと噂を流した張本人は
大女将の曾婆であることも知ってる以上、世間からアレコレ勝手に
憶測されても我慢しなけりゃならないんだろうな。週刊誌なんかで
どうでもいいような他人の噂話を論って嘲笑う理由は下に位置する
存在が世間には必要だって証拠なのかもしれない。個人の物差しで
上下左右に配置して安堵したり、不安に襲われたり、人間は勝手だ。
透明な空気になれたら気も楽なんだろうけど今後も生きていく以上
人間との関わりを断ち切る訳にはいかない。我慢して大切なモノを
守っていかなきゃならないんだろう。死んだら空気にも樹木にでも
好きな何かに姿を変えて漂ってりゃいいさ。人間卒業したお祝いだ。
桟橋に小さな希望の渡し船がいた。自分を運んでくれる有難いモノ。
船長が迎えてくれるサービスはない。勝手に乗り込んで出航を待つ。
自分も船の操縦を覚えたい。誰かの希望をひっそりと運ぶ者になる。
操舵室の扉を叩こうかな。まずは自分から図々しく踏み出さなきゃ。
自分が生まれる前から渡し船の船長を務めてる年齢不詳といっても
五十過ぎくらいの男性が自分を見て「おかえり」と声をかけてきた。
うちの家族より先に出迎えの言葉をくれる船長には感謝してるけど
今日の自分が欲しいと思う言葉じゃない。いつから渡し船の船長を
やってるのか訊いてみた。家族に訊く方が早いのかもしれないけど。
「いずれ誰かが必要になったら、こっちから声をかける。それまで
体力作りに励んでいてほしい。そっちの身体つきじゃ話にならない」
夏期休暇を利用して体力作りに励む目標が出来た。脂肪じゃなくて
筋肉を増やさなきゃ。やっぱり朝マラソン開始した方がいいのかも。
居候に近い身の上なんだし、出される食事について我儘は言えない。
持病のあるカズマのために糖質は控えめだし、自分が肉や魚介類を
食べなかったんだ。それでも自動的に身長が伸びるんだから身体の
構造は予め設計された形状に作られていくような気がしないでも…。
運命も設計図に従って訪れてるだけかもしれない。将来の夢だって
予め誰かが決めてたんだとしたら初志貫徹も設計図通りに描かれた
図面を眺めてるようなモノか。好き嫌いも人生全てが脚本を読んで
監督の演出に従って立つ舞台で演じてるだけのような気がしてくる。
違う脚本で演出の世界もあるのだとしたら、自分の思い描いた夢も
演奏者になってるかも。楽器の演奏を習いに行けたら…今だって…。
夕方の便は買い物帰りらしき女性と自分のたった二人が乗客だった。
燃料費とか考えると赤字に違いないけど細かい事情まで知らないし
生命線みたいなモノだから渡し船が廃止される筈ない。島の有志か
観光組合が船長さんに給料を出してるんじゃないかって考えられる。
予備の船がないし、渡し船が故障したら島にとっては大問題発生だ。
機械その他のメンテナンスできるようじゃなきゃ勤まりそうにない。
勉強を頑張って余裕で説明書も読めるようにならなきゃダメかもな。
「アルバイトなんか雇ったら楽したくなる」と手伝いを断られたし
言われたように体力作りに励むのが現時点じゃ正解の筈。頑張ろう。
まずは簡単な負荷の筋トレから毎晩続けることを目標に取り組もう。
向こうから仕事に誘いたくなるような身体に変われば、序盤は勝利。
しつこく食い下がろうとしない。けど、決して諦めずに夢を叶える。
アレコレ考えながらオレンジ色に染まった島を歩く旅行者の気分に
浸ってみるのも悪くない。自分は只で食事と宿泊することができる
幸代屋旅館のお得意様だ。旅のしおり、勉強にもなるし作ろうかな。
夏期休暇の課題となる自由研究を『島の観光案内』にするのもアリ。
曾婆の書斎に入れてもらえば土産や名所についての資料がある筈だ。
それを参考にして夏期休暇の宿題を片付けて、観光客に訊かれたら
この島の案内できるようになったら、少しは周囲の役に立てるよな。
目指したい道へ進めなかったら…それを考えるのはまだ早過ぎる…。
ちょうど婆ちゃんが門柱の配送ポストから封筒を取り出してるのを
見かけた。還暦を過ぎた年齢だけど厚かましいオバサンじゃなくて
婆ちゃんを見た大抵の人は「人見知りなのかな?」って印象を持つ。
失礼なのは百も承知だけど、客商売向きの佇まいじゃない人だから。
それでも取り繕った笑顔を見せない婆ちゃんは誰より信頼できるよ。
「ただいま」
宛名のない白い封筒を喜んでるのか迷惑なのか読み取れない微妙な
面持ちで割烹着のポケットに素早く突っ込んだ。旅館の女将として
見たら、少し行儀が悪いんじゃないかと思える手の動きだと思った。
「おかえり…。礼が近くまで来てたのに、婆ちゃん気づかなかった」
照れ隠しの笑顔を見せた。あの白い封筒には…いや、まあ、いいか。
「何だか外の風に当たりたくなって表に出たつもりだったんだけど
ふと気になってポストを覗いたら、謎のアシナガさんから御便りが
届いてたわ。どこの誰だか知らないんだけど、助けてもらってるの」
さっき婆ちゃんが隠すようポケットに突っ込んだ白い封筒を見せた。
「謎のアシナガさん? あしながおじさんの物語なら知ってるけど」
「見られちゃったみたいだし、これは礼にあげるよ。内緒にしてね」
こっちに白い封筒を渡すと、まるで逃げるように玄関へ入ってった。
白い封筒は何かが入ってると思われる微妙な厚みがあった。
婆ちゃん自身が封筒の中身を確認しないまま自分に渡して
平気なモノが入ってるんだな。封の部分は糊付けされてる。
十数年この家で暮らしてきた自分が初めて聞かされた存在、
謎のアシナガさんからの封筒に何が入ってるか見てみたい。
「玄関先で封を開けるのは行儀が良くないよ。自分の部屋で開けて」
…?!…
声がした方に目を向けたらカズマがいた。外で絵を描いてたらしく
スケッチブックとペンケースを持ち歩いて、旅館は今日もヒマだと
女将の婆ちゃんと息子のカズマが喋らなくても行動で伝えてくれた。
「その封筒、斎藤家の最大級のタブーの品物なんだけど婆ちゃんが
礼にあげると言って手渡しちゃった以上、俺からは何も言えないな。
ただ、玄関先で開封するのは見っとも無いから部屋で中を確認して」
見栄っ張りな性質が玉に瑕な養父が拾われっ子に言葉の釘を刺した。
「あ、カズマは『謎のアシナガさん』のことを知ってるんだよね?
斎藤家の最大級のタブーなんて言われたら気持ち悪いよ。何なの?」
自分の声で引き止めた形になる。兎に角、自分にも説明してほしい。
「いや、まぁ…ね。謎は謎だよ。いつ誰が配送ポストに入れたのか
一晩中外に立ち続けて張り込みしたのに視えなかったインビジブル。
俺が礼の年齢の頃、夏期休暇中に実証済みだから、本物の正体不明。
その件で母さんと喧嘩して面倒なことになった憶えがあるからなぁ。
一言で表すと斎藤家の援助者かな。年齢も性別も一切不明なんだが
あしながおじさん的援助してもらってきたんだよ。俺からは以上!」
空中に目を泳がせて溜め息吐くと今夜も宿泊客なしの旅館に入った。
太陽が傾いて空がオレンジ色に染まってる。入ってバッグを置こう。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
アシナガさんで予想はしてたけど白い封筒の中身は…高額紙幣数枚…。
「コレ、返しとく。受け取れない金額だし。どうしてポストに大金が
入ってるワケ? 封筒の中は高額紙幣数枚以外、何も入ってなかった。
お小遣いには出来ないよ。ただでさえ斎藤家に衣食住と学校の面倒を
見てもらってるんだし、大金を当然のように受け取るなんて絶対無理」
夕食後、他の家族が食堂を出て残った婆ちゃんが後片付けを済ませた
時間を見計らって引き戸を閉め、声をかけた。カズマ曰く『斎藤家の
最大級のタブー』って話だから全員の前で言い出し難いと思ったんだ。
夕暮れ空の下、いつもと異なる婆ちゃんを見たのもショックだったし
不要なモノを押しつけるような勢いで白い封筒を婆ちゃんに返却した。
自分の様子に慌てる素振りも見せず、婆ちゃんは白い封筒を割烹着の
ポケットに突っ込んだ。もう飽きるくらい繰り返した動きなんだろう。
いつから? そう訊きたい気もしたけど従業員が育児放棄した幼児を
見捨てないで孫みたいに可愛がってくれた婆ちゃんを蔑ろに出来ない。
「今回は礼が受け取るのを躊躇するような金額が封筒に入ってたのね。
謎のアシナガさんは気紛れな人だから私も最初は受け取れなかったの。
でも、不思議と必要になる金額なんだよ。そこが不思議を通り越して
薄気味悪くて拒絶したくなるけども、ないよりはあった方が助かるし
とりあえず私が預かるよ。斎藤家の窮地を何度も救ってくれたからね。
礼、何か欲しい物があったら遠慮しないで言いなさい。お金を出すわ」
と言ったけど自分がピアノが欲しいと頼んでも購入できる額じゃない。
封筒の中を検めようとしない婆ちゃんは大金を使うつもりなさそうだ。
「いや、べつに大丈夫。欲しい物は十分すぎるほど買ってもらってる」
もう幼児じゃないし、婆ちゃんの前じゃカズマと呼び捨てにできない。
「あの、それは兎も角として謎のアシナガさんが誰なのか婆ちゃんは
本当に何も知らないの? 知らないのに大金を受け取って使うワケ?」
…沈黙…
当然だよな。どこの何者か見当のつかない存在が配送ポストに入れた
高額紙幣を受け取って使うなんて…失礼だけど非常識な家だと思う…。
「あ、ちょっと…言い難い話になるけど…笑わないで聞いてくれる?」
謎のアシナガさんについて何か知ってるなら聞きたい。無言で頷いた。
「じゃあ、礼と婆ちゃんは食後のお茶を飲んでるってことにしようね」
瓦斯焜炉の五徳の上に置きっ放しの薬缶を濯いでから蛇口の水を入れ
火にかけた。瓦斯が放出されて青い炎が燃焼する音が小さく響いてる。
促されたので食卓の椅子に腰かけた。食堂では四人掛けのテーブルを
六人で利用してるが滅多に家族六人が勢揃いして食事することはない。
客商売だから飛び込みの客や宿泊中の客からの内線電話に対応できる
態勢を整えてなきゃいけない。大抵の場合、爺ちゃんかカズマが席を
外してる。事情があるんだから仕方ない。受付カウンターで食事する
訳にもいかないし、食事を早く済ませるのも仕事のうちなんだってさ。
今日は珍しく全員揃ったけど食べ終わったカズマが事務室と呼んでる
従業員の控え室で来客に応じる。実質二十四時間営業と謳ってるけど
肝心の宿泊客が来ないのが問題なんだ。斎藤家の経済事情を知らない
自分が本日知ってしまった驚きの事実。婆ちゃんが話してくれるなら
ちゃんと聞いときたい。カズマの後を継ぐのは自分しかいないんだし。
笛吹きケトルが鳴り響く前に火は停まり、婆ちゃんの好きな玄米茶を
淹れたと分かる匂いがした。程無くして自分のマグカップが置かれて
色とりどりの花々が描かれた茶碗を持った婆ちゃんが向かいに座った。
淹れたての熱いお茶に口を付ける必要ない。婆ちゃんの言葉をを待つ。
「礼に言おうと思ってはみたものの、何から言葉を紡いだらいいのか
悩んじゃうものだねぇ。いつ、どこで、だれが、なにを、どうしたか、
この順番で話すように小さい頃、お婆ちゃんから教えてもらったのに」
親指から順番に指を折っていき最後は握り拳を作ってみせた婆ちゃん。
婆ちゃんに婆ちゃんがいる。全然おかしくないけど、いざ耳にすると
不思議な気持ちに囚われる。婆ちゃんは自分が数十年後には通る道を
先に越えただけなんだよ。目の前にいる婆ちゃんの姿は本当は幾つも
重なってるんじゃないかと思う。赤ん坊から今まで生存した時間だけ。
そして、カズマの母親である婆ちゃんも同じく若い。見た目と年齢が
ピッタリ揃ってないんだもんな。実は自分も子供っぽい見た目なのか?
「落ち着いて順番に話そうね。たぶん、急なお客様は来ないだろうし」
食堂のテーブルで夕食後のお茶を飲む婆ちゃんと自分は婆ちゃんの孫。
のんびりと二人きりで熱いお茶を飲んで過ごす晩があってもいい筈だ。
「最初に大金の入った封筒がポストに入れられたのは、うちの子が…
えぇと…まだ和眞がお腹の中に居て…私のお腹が大きかった頃だった。
旅館の女将見習いとして仕事を覚えなくちゃいけないと思ってたから
その朝も早起きして玄関先の掃除をしていたの。あ、えぇと、夏だわ。
あの子は十月生まれだから…そうよ、ちょうどお盆の時期だったの…」
婆ちゃんが最初に右手親指を折った『いつ』の部分が明らかになった。
自分が生まれてくるより前の四十年以上も昔の話だ。そんな昔っから
現在も幸代屋旅館に大金を贈り続けるヤツが…いる…。実に不可解だ。
「その日のことは憶えてるの。天気は空一面に真っ白な雲で覆われた
きれいな曇り空だったからね。箒を動かす手を止めて空を見上げたし」
婆ちゃんは玄米茶が冷めてきたと思ったのか湯呑み茶碗に口を付けた。
「で、そしたらね、白い布切れが空の上でヒラヒラ揺らめいてたのよ。
こんな早朝に幽霊が出る訳ないと思うけど、二回くらい見直したわね」
婆ちゃんは言葉にしてないが『どこで』は掃除した旅館の門柱の辺り。
「え? その空中に浮かんだ白い布切れが謎のアシナガさんの正体?」
白い布切れじゃ人間ってより妖怪だ。落ち着いて話を聞き出さなきゃ。
「ううん、違うとは思うけど。でも、その日の早朝に生まれて初めて
不思議なものを見たから忘れられないのよ。蛇足な部分でしょうけど
まるで着物みたいな布切れだと思ったわ。空中で白く揺らめいてたの。
いつの間に目を逸らしたのか憶えてないから布切れがどうなったのか
少しも記憶にないけど、妙な布切れを見た気分を落ち着かせなきゃと
考えた婆ちゃんは、門柱の配送ポストを雑巾で水拭きしようと思って
そのときポストの中に白い封筒が入っているのに気づいたって訳なの」
肝心の『だれが』に相当する部分は『白い布切れ』で誤魔化された形。
それでも自分が婆ちゃんだと考えると宙に浮かんでる布切れを見たら
慌てて掃除を止めて中に戻って、家族か誰か捕まえて大騒ぎするかも。
一人で掃除を続けるだけ女将として合格点だよ。肝が据わってるもん。
「表裏よく見たけど宛名も何も書かれてないから悪戯かもしれないと
現在は大女将…私の姑になる…曾婆の書室に入って事情を報告したの。
嫌がらせの手紙でも入ってるんじゃないかと私も一緒に曾婆の様子を
見守っていたわ。そしたら、たぶん礼が見た枚数より多い高額紙幣が
出てくる場面を見ちゃった。物凄く驚いたけど曾婆はニッコリ笑って
『うちの跡継ぎが生まれる御祝儀が届いたね』と澄まし顔で言ったの。
それからも息子の和眞の成長の節目になる度、配送ポストに全く同じ
余計な文字が書かれずに高額紙幣だけが入った白い封筒が届くように
なったのよね。礼も知ってのとおり拾得物として届ける機関がないし
うちの経営も基本的に年がら年中火の車だから…使うしかなかった…」
婆ちゃんはテーブルの木目を数えるような俯いた姿勢で昔話を終えた。
いつ、どこで、だれが、なにを、どうした。以上の五点でまとめると
『今から四十年以上前のカズマを身籠っていた旅館の繁忙時期の早朝、
旅館の玄関先を掃除していた婆ちゃんが配送ポストから大金の入った
白い封筒を見つけて取り出した』それだけの話だった。白い布切れが
早朝の白い空に揺らめいてるのを見たって件は蛇足かもしれないけど
全体的に不可解な出来事を修飾する言葉には何だか相応しい気がした。
しかし、自分は『斎藤家の最大級のタブー』なんて知りたくなかった。
この島に資産家がいて…ふとした気紛れで封筒に入れた高額紙幣を…?
学校時代のカズマが物陰に張り込んでも正体不明のインビジブルだと
投げ出した過去があって何も言えないんだ。でも、大金持ちだろうが
数十年も前から昼夜問わず旅館に大金を置いていく理由が分からない。
理由の分からない援助を黙って受け続けてきたヒマな旅館ってことが
『斎藤家の最大級のタブー』と言えるんじゃないかな。過去に戻って
検証し直すことが出来たとしたら、当時のカズマが解けなかった謎も
難無く解ける場合も…ある…に違いないが進んだ時間は元に戻せない。
心に悔いる過ちを覆せることが出来るなら誰だって、その時に戻るよ。
そんな奇跡を起こせないから、人間は『今』を大切に生きるしかない。
ふてぶてしく大金を頂戴して欲しいモノを買えば良かったと考えてる
過去にしがみ付く自分も…いる…。そいつを振り払わなきゃ進めない。
情けない惨めな時間に縛り付けられてる自分を振り払って先へ進もう。
空っぽで構わない。図太い自分を引き連れて未来に向かって歩くんだ。
「黙ってないで入ってきなさい」
…?!…
おとなしく目を伏せてると思った婆ちゃんが引き戸を見て鋭く言った。
振り返ったら引き戸の磨り硝子越しにカズマが立ってるのが分かった。
従業員の控え室から近いし、食堂まで飲み物か何か取りに来たら偶然
二人の会話を立ち聞きした形になった。いや、わざと聞かせたのかも。
戸車が少し耳障りな音を立て、食堂の引き戸を開けたカズマが現れた。
自分は一瞬見ただけ。元の向きで黙って玄米茶を飲むことに集中した。
「空中で揺らめいてた白い布切れって…着物…白装束みたいだった?」
氷りついた不機嫌な目が婆ちゃんを問い質した。白装束っていうのは
ご遺体が逆さに着せられる真っ白い着物のことを言ってるんだろうか?
想像でも十数年ずっと見てきた親友だからカズマの表情は読み取れる。
「和眞は昔からオカルト否定派じゃなかった? 興味ないと思ってた」
頬杖ついた婆ちゃんが一人息子のカズマに厭きれた視線を向けていた。
「いいから質問に答えて。これは真面目な質問だから真面目に答えて」
いつものカズマと違って感情を隠すどころか牙を剥き出しにした声色。
「そうだね。着物の裾か袂の一部が覗いてたような…宙を舞う感じ…」
自分には婆ちゃんの言う白い布切れの大きさがイマイチ把握できない。
曾婆の普段着が和服だけど裾や袂の一部が切り取られて目に映る感じ?
女将の婆ちゃんは白い割烹着が仕事着になってるけど着物じゃなくて
制服やスーツのスラックスみたいなセンタープレスの入ったボトムを
いつも穿いてるんだ。ダラしなくも安っぽくも見えない格好をしてる。
改まった席でもなけりゃ和装にならず、姑の大女将を立ててる女将だ。
カズマの声が続くのかと思ったけど婆ちゃんの言葉に何も反応しない。
恐る恐る後ろを向いたらカズマは左右の蟀谷を抑え込んで俯いていた。
「婆ちゃんが来客の応対するから和眞は部屋に戻りなさい。頭痛薬は
常備してるんでしょう。早めに飲んで余計なこと考えないで休んでて。
礼、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して和眞に付き添ってあげて」
自分がいる所為で母さんから婆ちゃんになったと思うと居た堪れない。
言われたようにしようと思って席を立ったけどカズマに肩を叩かれた。
「いつまでも子供扱いしないで。礼は風呂に入って好きに過ごしてな」
自分が見ても顔色が悪いと分かるのに冷蔵庫から炭酸水を取り出した
カズマが食堂を出て階段を上って行ったのは見なくても音で分かった。
「ああ、そうだ。この家で一番偉い人が誰なのか礼は分かるわよね?」
冷蔵庫を向いて立つ自分に声をかけた婆ちゃんの気持ちは大体分かる。
赤の他人である拾われっ子より婆ちゃんが産んで育てたカズマが一番。
婆ちゃんは自分に大事な息子の手伝いが出来るようになってほしいと
願って当然だよ。我が子を捨てたきり何の音沙汰もない母親とは違う。
「自分にとっては、この家の全員揃って偉い人です。一番は居ません」
テーブルの上の湯呑み茶碗を洗い場に置きっ放しにせず、スポンジで
洗って水切り籠に伏せた。これくらい出来なきゃ申し訳ない切れっ端。
疾うの昔、木っ端微塵に散らされた木片が自分だ。それでも生きたい。
頭に浮かんだ光景みたいに大きな洞を持つ樹木になりたい。それが夢。
「風呂に入って学校の課題やって寝ます。婆ちゃん、おやすみなさい」
開け放してる引き戸の前に立って頭を下げた。席に着いた婆ちゃんは
穏やかな表情だった。自分が小さい頃から婆ちゃんの不機嫌な表情を
見た憶えがないってのも斎藤家に関する不思議かもしれないと思った。
「あ、冷蔵庫に入れてる目薬を和眞に使わせてあげて。充血してたの」
自分は見てたのに気づかなかった。目の充血を気遣う余裕があるって
スゴイと思うよ。旅館に従業員が沢山いたら母親みたいに慕われた筈。
爺ちゃんと舅である曾爺も婆ちゃんに甘えてるのは間違いないだろう。
ヒマだと分かりゃ外に出て情報交換してるというのは表向き。父子で
仲良く飲み食いを愉しんでる。今夜も夕食を軽く済ませて居酒屋へ…。
曾婆は書室で物思いに耽りながら筆ペンを走らせてるのかもしれない。
平穏無事で過ごすのは良いことだ。持ちつ持たれつで上手くやってる。
冷蔵庫の扉側に置いてる目薬のケースを持ち出して、二階へ上がった。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
カズマの部屋が以前は自分の寝起きしていた部屋だったんだから
勝手知ったる…とはいえ、出入りする襖をノックもせず開けたら
失礼だよな。ちなみに自分の部屋には内鍵が付いてる。トイレと
同じような造りのドアなのが少し笑えるけど学校時代のカズマが
自費で改造したんだそうだ。昔、村の学校の寄宿舎での話だけど
カズマが寄宿舎の自室で服の着替えしてる最中に元親友の狸猫が
わざと部屋のドアを開けたらしくて他の寄宿舎生に見られたのが
口惜しかったんだってさ。基本的に男子しかいない学校なんだし
そこまで憂鬱になる必要ないと思ったけど、自分に置き換えても
カズマほど執拗にはなれない。抜けてるのは自分の方なのかもな。
自分の場合、寄宿舎付の学校に入れられて初めてカズマの気持ちが
分かる気がする。内鍵の付いた自分の部屋に安心しきってる状態だ。
ヘッドホンを装着して臨場感のある音声でDVDの世界に浸るのが
趣味の養父を持つと養子の側は苦労を見せないよう気遣ってるんだ。
左利きだから握り拳を作って伸びる腕は左なのが自然だと思い込む。
手の甲を三回打ちつける。気づいてくれなきゃ寝てたと報告しよう。
「礼?」
自分がオバケになった感を覚える名前の音がイマイチ気に入らない。
テレビの音が聞こえない。奥のベッドで横になって休んでたのかも。
「婆ちゃんの代わりに見舞いに来た。カズマの目が充血してたって
心配していたよ。下から疲れ目用の目薬持ってきたんだけど使う?」
和洋折衷といったデザインのデコボコした白い襖越しに声をかけた。
「そう言われてみると目に違和感がしないでもない。折角だし使う」
暗に開けて入るよう伝えたと思って襖を開けようと手をかけたけど
「うん。婆ちゃんの母心だし息子さんが使ってよ。じゃあ、開ける」
肝心の一言を添えた。いきなり部屋の襖を開けるのは失礼だもんな。
襖を開けても部屋の様子が露わにならない構造が親友カズマの部屋。
襖と向かい合う位置に茶色い木製のパーテーションが設置されてる。
襖を開けても更に入り込まなきゃ室内の様子を見届けられないのは
用心深い性格だからか何なのか自分には読めない。普通の人なのに
怪しいと思わせる余白を自ら拵えてるのが自分の養父で親友なんだ。
「あ、本当に充血してる。自分にしちゃ珍しい。何かの呪いかなぁ」
小さい座卓の上には飲みかけの炭酸水が載ってる他にテレビとかの
リモコン類や持病の自己管理に使う酒精綿や血糖値の測定器などが
準備万端の状態。今はワンコインで購入した小さい鏡で顔を見てる。
「呪いって、呪われる心当たりでもあるの? 普段から暇があると
DVDに収録された大昔の特撮番組を夢中になって観てるんだから
充血くらいして当然なんじゃないかな。ハイ、新発売の目薬だよ!」
瞳を綺麗にするための目薬と謳ってるらしく誌面では十代の女子が
宣伝媒体に使われている。寝不足したり目を酷使して充血した瞳は
格好悪いようだ。教室でも昼休みになると女子が見せつけるように
目薬を注してるもんな。深夜のラジオを聴くのがステイタスだって。
男女共に徹夜して寝不足で調子悪いと怠そうにボヤいてみせるけど
聴いたラジオの内容を話すとき決まって笑顔なのが不思議なんだよ。
自分は寝る間を惜しんでまで仲間入りしたくない。それがダメだと
承知の上だってのにキラワレモノ。要は楽してるからダメってこと。
「既に開封済みの新品か。頭痛も眼精疲労から来た可能性アリだな。
スケッチしに浜まで歩いたから、潮風で目を傷めたのかもしれない」
柱に幼児だった頃の自分が貼り付けたシールがそのまま剥がされず
残った状態なのが恥ずかしい。思い出のつもりで保存してるんなら
成長した証として昔の自分が汚した柱や箪笥の掃除させてほしいよ。
言わなきゃ何も伝わらない。いつも自分の言葉は喉に詰まった泥濘。
幼い爪で引っ掻いた窓枠や柱の傷を気にしてもカズマが目薬を注す
一部始終を黙って観察していた。耳が塞がってる訳じゃないんだし
声を出せば伝わる気持ちなのに喉が塞がり胸が潰れるような苦痛で
空ろな人形と同じになる。自分が鏡を覗いたら…幽霊が映り込む…。
髪の色を明るく変えたのに、未だに晴れ渡らない重圧感を抱えてる。
ここは母親が姿を消してから一人きりで布団に寝かされた懐かしい
部屋と呼んでも構わない空間だ。自分が十年間お世話になった部屋。
押し入れの襖絵は寝るとき眺めて夢の世界へ誘ってくれる緑の草原。
目の粗い磨り硝子が入った木製の窓枠が建物全体の古さを表してる。
カズマと交換した形となる現在の自分の部屋は窓が改修してあって
二重サッシになってるけど、この部屋は陽当たりが悪くて早朝から
電灯を点けなきゃいけないもんな。カズマが部屋の主になってから
空気清浄機と除湿機が始終作動してる。医者に行くほどじゃないが
喉を傷めたんだってさ。座卓の上にはのど飴もあるし、思ったより
辛いのかもしれないけど、当のカズマは咳をしないから真偽は不明。
喉が痛いなら加湿した方が良さそうだし、自分が寝起きした当時は
この部屋の空気が澱んでるとかジメジメしてるなんて感じなかった。
薄汚れた物置部屋に捨てられっ子を放り込む婆ちゃんたちじゃない。
学校に通わせてもらってるし、自分の変身を心から応援してくれて
持ち物も買い換えることが出来た。出処が謎でも惜しげなく封筒の
大金を与えようとした。自分は竜宮城で過ごしてるのかもしれない。
「食堂の戸を閉めて礼と婆ちゃんが二人っきりで話し込んでるから
誰の陰口を言ってるのかと焦ったけど、違う意味で衝撃的だったよ。
早朝の曇り空に浮かんだ白い布切れかぁ。礼、そんなもの信じる?」
話してくれた婆ちゃんに悪いけど何とも言えない。風で舞い飛んだ
布切れという説明が自然だと思う。目を伏せて、首を左右に振った。
「タイムマシンがあったらいいのになぁ。婆ちゃんの証言が本当か
誰が門柱のポストに紙幣の入った封筒を差し込んでるのか知りたい。
だけど、イヤな予感が過ぎっちゃった。ヤヴァくて眠れそうにない」
そう言っといて夜通しテレビを見て過ごすんじゃないかと思うけど
「もしかして、空中に揺らめいた白い布切れを幽霊だと思ってる?」
自分は空っぽの図太い人間らしく無神経な言葉を親友に向けてみた。
「いや、幽霊じゃなく妖怪。死ねないバケモノの断片かもしれない。
分離して勝手に動き回ってんだとしたら怖いなぁ。リアルホラーだ」
タイムマシンにバケモノの断片って…。ファンタジーが浸食してる
と思えばリアルホラーとか言ってるし、自分は追従できそうにない。
親友が炭酸水を口にしてテレビと再生機器のスイッチを入れたので
「よく分かんないけど目薬は置いとくよ。また必要になるだろうし」
自分には自分の予定がある。明日も学校だし、行くための下準備を
整えなきゃ嫌われ要素が増していく。楽に呼吸できるよう頑張ろう。
「礼、学校で体験宿泊会のこと話してみた? 喰いつきはあった?」
パーテーションの辺りで呼び止められたから振り向くことになった。
「夕食のとき話さなかったっけ?」
「急いでたから会話してないけど
体験宿泊会について話したのか?」
「五~六人の女子が聞いてくれた。
うちの旅館が雑誌で紹介されてた
記事を憶えてるって女子がいたし、
親しい女友達同士の肝試し感覚で
参加してくれるのかもしれないよ。
旅のしおり、作って寄越せってさ」
「離れ小島とはいえ、観光地だし
参加希望者が保護者の方に許可を
もらったら、何とかなりそうだな。
これからだよ。礼の良いところを
周りに少しずつ知ってもらうんだ」
軽く充血した目で微笑んでくれたカズマに安心して部屋を後にした。
旅のしおり、自分がオリジナルで作成しても大袈裟だって気がする。
相手の真意を汲むことが苦手だ。忘れた振りした方が気持ちは軽い。
こんな臆病者だからキラワレモノの位置に佇むしか出来ないんだよ。
自分が理想とする大きな樹の洞になっても気づかれず枯れ果てそう。
空っぽの図太い神経の持ち主も役に立たなきゃ生きてる意味がない。
落ち込むな。今日は頑張った。間延びした声でも大きな声を出した。
教室や昇降口での遣り取りを思い返しても虚しいだけ。もう忘れろ。
自分が自分の理解者となって応援しなきゃ遥か先まで踏み出せない。
良かったを一つでも見つけ出せ。否定して塞ぎ込むより肯定しよう。
明日の出来事は明日になってから考えよう。今は風呂に入らなきゃ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
八月も半ばを過ぎた頃、とうとう『桔梗の間』体験宿泊者御一行様が
この島を訪ねてくる日を迎えてしまった。天気に恵まれて週間予報も
二泊三日の宿泊期間は地元紙の天気欄にも快晴を表す『〇』が並んだ。
その朝、早起きしてマラソンに出たら見事なまでに雲一つない青天で
快晴に相応しい空だと思った。ここまで恵まれてるのも自分にしちゃ
不気味な感じもする。夏期休暇前日まで何のトラブルなく過ごしたし
宿泊を決めた連中は勝手に賑わってたし、自分に直接アレコレと文句
言ってくる連中もいなかったんだ。宿泊希望者五名は全員女子なのに
クラスにいる男子生徒たちは混ざろうとしなかった。自分と五名いる
仲良し女子のグループが遠巻きにされてるような…除け者みたいな…。
情けない被害者意識は持たないように努めてはいるが、異様な雰囲気。
自分一人が女子たちの仲間に放り込まれた違和感を覚えて気持ち悪い。
物陰で何か言われてるのかもしれないし、気にしたって仕方ないけど
落ち着かない。素直に喜べない自分がいた。ゼロより有難い五名だし
雑誌などで紹介される幽霊旅館に宿泊できるのは良い思い出になる筈。
もちろんヘタに怖がらせない。普通の旅館だったという感想がほしい。
宿泊者となる同級生五名を迎えに行ったりする接待役は自分が務める。
わざわざ車は出さない。ゆっくり歩きながら説明できる場所もあるし
冷房の効いた車内より大きな日傘でも差しかけて歩かせた方が疲れて
食欲が湧いたり就寝し易くなると思う。宿泊者様への旅館の心配りだ。
「あ、名前…。五名様の名前、昨日暗記しなきゃと思って叩き込んだ」
二階にある自分の部屋で独り言を呟いた自分がいた。気恥ずかしいが
額に水色の光を感じながら後で会う女子たちの名前と顔を一致させる。
自分の勧誘に興味を示した教室の座席の近い女子、佐藤ルイは来ない。
名前と顔は憶えた。自分の印象に残る顔と片仮名の名前だから入学の
日から同じクラスの人物として記憶されていた。理由は黒髪に青い瞳。
ちょっと違う特徴があると話しかけられやすいんだと思う。得だよな。
近寄る人間は多いと思う。その理由を考えて真っ先に出てくる答えは
「人目を惹きつける女子だから」その他にも声が大きいんで周囲から
際立つんだと思うよ。陰気じゃないのは得だ。自分も暗いより明るく
不快な害を与えない印象を目指そうと思う。無暗に喧嘩を売られても
面倒だし勝ちたいとも思わない。強くて得するヤツは漫画だけで十分。
えぇと、四月に撮られた学級写真と連絡先の書類で名前と顔を憶えて
たぶん何とか…今日、幸代屋旅館を訪ねる五名の女子は暗記できたと
思うけど自信がない。渡し船に乗って来なきゃキャンセルってことで
いいよな。昨日、桔梗の間を開けて空気を入れ替えて掃除は済ませた。
部屋の持ち主さんも宿泊期間は五月蠅くなるのは承知してる筈だけど
心の中でカズマの大伯父の遺影に姿は現さないよう初めて頼んでみた。
桔梗の間の管理責任者であるカズマも「大伯父は現れたりしない」と
言い切ってる。旅館に宿泊客を呼ぶための看板でしかないのは確かだ。
もし不可解な現象が起きて…今後の学校生活に支障が出たら困るし…。
ちょっとした優越感に浸る目的で心霊体験を求めて訪れる粋狂な客と
違うんだってことは伝えときたい。親しいクラスメイトじゃなくても
怖い思いをして騒がれたら学校中に知れ渡ってバッドエンドを迎える。
昼食後、一昨日染め直した髪と服装を整えて自分の部屋を出ると幅の
狭い階段を下りた。手摺りがないんで転げ落ちないよう気をつけてる。
寒い暑いと愚痴りたくなる隙間はなくても斎藤家は古い造りの建物だ。
正確な年齢は聞いてないが住んでる人間たちよりずっと長生きしてる。
襖の穴を塞ぐ貼り紙さえ趣があり、内装は薄っすら飴色で覆われてる。
洋間の客室用ドアは改築して現在風になってるくらいで基礎から古い。
開いたら三人くらい一緒に入れる大きさの番傘を脇に抱えた。日傘を
差しかけて喜ぶような五名だったらいいけど畳んだままで終わるかも。
姑息だろうが、お客様として気遣ってるって証拠品を持ち歩くつもり。
玄関を出るとオレンジ色の屋根瓦に白く塗られた壁が目に眩しく映る。
日焼けしそうな陽射しだから肌を焼きたくない女性なら対策する筈だ。
幸代屋旅館の建物の中は少し薄暗い感じだけど外観は本当に明るくて
外観と内装が同じ印象を持てないんだ。何だか自分と似てる気がする。
自分の場合、おとなしい外見じゃ損するから外見だけでも陽気に変身。
喩えたら塗装の汚れた壁をペンキで誤魔化すような感じに近いかもな。
以前より幾らか教室での居心地は良くなったと信じてる。それでも…。
余計な考えに囚われながら十三時半の路面を走ってる。全て他人事に
できない弱さに囚われてるから重たいんだ。分かっても棄てられない。
どんな表情してるのか知りたくない。黙って一人で走るしかないけど
走り始めて体重は軽くなったし、白かった筈の肌も自然と焼けてきた。
環境に適応していく身体が面白い。変化していく自分に感動を覚える。
渡し船が到着する前から桟橋に立って出迎えるのは…どうなんだろう?
大袈裟な感じがしないでもないが、空回りも含めて旅館のサービスだ。
後で好きなだけ嘲笑っていい。お道化てやろう。いっそ派手な看板を
出して五名を歓迎するのも悪くなかったかも。まだ修行中の道化師だ。
今回は日傘だけで…歓迎の看板は忘れたって設定で進めるとしよう…。
いつもの桟橋へ辿り着く。まだ船影は視えない。腕時計を確認すると
向こうから船が発つ時刻だった。渡し船が到着するまで二十分かかる。
出掛けに部屋の壁時計を見たつもりだけど足が速くなったんだろうか?
こんなに早く着いたのはおかしい。まぁいいや、到着まで頭に音楽を
流しながら待とう。黙ってると暑いな。タオル持ってくりゃ良かった。
ああ、そうだ。待ってる間、持ってきた日傘を自分に差しかけようか。
桔梗色の大きな番傘は存在感がある。穴が開いてないか確認も兼ねて
そっと開いてみた。これは旅館の備品だから乱暴な取り扱いできない。
番傘のニオイが内側から漂ってきた。何だか心が引き締まるような…。
単に陽射しを避けるだけじゃなく護られてるような安心感も得られる。
しゃがみ込んで小さくなってみた。コンクリート上に細かく散らばる
キラキラ粒は硝子の素になるんだろうか? 生き物じゃなくなったら
違う感動を味わえるようになりそうだ。暑さ寒さに囚われる必要ない。
炎の中にも発見できる煌めきがあるんだろうし、死後はキラキラ粒に
なるのも悪いことじゃないよな。踏まれたって痛みや傷みを感じない
地面の構成員だ。火と水は激しくて落ち着かないイメージがあるから
選べるとしたら自分は土か木がいいな。一つの場所に黙って居着いて
周囲を観察する者になりたい。石の下になってもなった場合の感動が
得られるに違いない。寒暖と無縁だし日陰の憂愁を味わい尽くしたい。
日陰は落ち着く。重たい自分は地面に囚われた亡霊みたいな存在かも。
大きいタオルを敷いて横たわりたくなってきた。朝から緊張しすぎて
家族と何を話したかも憶えてないもんな。数名のクラスメイトが来る。
それだけの出来事が負担になってるのも情けない。無料宿泊体験会が
恙無く終わるようガキの願いを叶えるのが趣味の神様天使に祈りたい。
かといって宗教に帰依する気は微塵もないんだし身勝手にも程がある。
心の底から自分が信じなきゃいけない存在は誰だか答えが出てるから
結局のところ、自分は神様や天使なんかを頼りにしようとは思わない。
空を飛んでみたいとも考えない。足の付かない船の上の緊張感で十分。
通学する日常が危険と隣り合わせなんて面白い経験させてもらってる。
いつかは懐かしいと思えるようになりゃいいけどな。まだ先が長いし
今は無料体験宿泊会に来る女子たちを乗せた渡し船を出迎えないと…。
頭の中にグランドピアノを設置してみるか。好きな曲を弾いてみたい。
自分が気楽に弾ける曲は猫ふんじゃった。きちんとした楽譜を読んで
演奏する自信がないってこと。はじめの一歩から勉強しなきゃ自信が
身に付かない。自信のない自分が演奏しても心を揺さ振る音楽として
認められないのが分かってるからだと思うよ。何をするにも土台から
積み上げていかなきゃ周りから高い評価を得られる逸品にはならない。
今、何分だろう? 腕時計を見ないで渡し船が到着する瞬間に日傘を
揚げてやろう。運試しは矢鱈とやらない方がいいよな。失敗がコワイ。
もしハズレたとしても取り返しつかない事態にならない。絶対大丈夫。
頭から笑われた気がして番傘を脇に寄せると渡し船から降りた五名が
しゃがみ込んでる自分を見下ろしてた。空気が変わってるのに自分は
何も気づかなかったなんて…自分一人が異世界から現れたみたいだ…。
女子たちが勝手に携帯カメラで撮影し始めてるけど、気を取り直そう。
「いらっしゃい。本日は暑い中ようこそ。旅館じゃ冷たいデザートを
用意して皆様方のおいでをお待ちしてます。よかったら日傘に入って
陽射しを避けて歩きませんか?…日傘の中に入ったら別世界ですよ…」
「あー、堅苦しいなぁ。そーゆーの抜きでバカンスを愉しませてよ!」
私服姿の同級生たちを見たのは初めてだけど最初に声をかけた彼女は
一言で表すと一番派手だった。常夏の島までバカンスしに訪れた服装。
青空にハイビスカスの花が一斉に咲き乱れたアロハシャツを羽織って
中に…ボーダー柄のビキニ?…ボトムはゆったりしたジーンズだけど
履いてるのがキラキラしたビーチサンダルだし、頭にはカンカン帽を
被ってる。くれぐれも強調しとくが、ここは離れ小島で南国じゃない。
今から腹を見せて気が早い彼女はクラスの女子で一番身長が高い生徒。
大柄というのもあって豪快な雰囲気の女子だと思う。氏名は高橋瑞月。
「池田君が日傘の下で気が遠ざかって別世界に居たのは知ってるから。
あら、確かに陽射しの直撃を免れると別世界だわ。三日間よろしくね」
日傘の下に入ってきて横に並んだ彼女は黒いTシャツにショート丈の
白いオーバーオールという格好。白か黒かで灰色抜きのモノトーンが
好みなのかもしれない靴が黒で白い通学鞄に荷物を入れてきたらしい。
彼女の氏名はうちのクラスの印象的な女子生徒と同じ苗字で佐藤佳世。
「こっちこそ今日は皆よく来てくれて…。ごく普通の幽霊旅館だけど
のんびりゆっくり寛いでって、次回はご家族全員で宿泊してくれたら
うちの大女将たちが喜ぶと思うし、二泊三日充分サービスするつもり」
参加者の五名全員に伝えるつもりで喋った。こっちは旅館の宣伝目的。
番傘に入った二人や後ろからも笑い声が聞こえたんで挨拶完了にする。
「傘、重くない? 礼君の細い腕じゃ大丈夫かなって気分になるけど」
参加者からアレコレ言われるのは想定済み。風に吹かれる樹木でいる。
「心配なく。見た目よりは鍛えてると思うし、ご要望があれば全員の
手荷物を預かって歩くつもりだよ。歩けないならオンブしていいけど」
一人の女子を背負って歩けと命令されたら従う。やればできると思う。
「そこまでしたらサービス過剰。礼君潰しちゃったら責任取らなきゃ」
体操ジャージにリュックサックを背負ってキャンプに出かけるような
装備の女子も日傘に入ってきた。両手から紙袋を提げてるけど旅館で
自炊するんじゃないかって大荷物だな。紙袋を一つ預かって歩こうか。
「右手に持ってる大きい紙袋、イヤじゃなきゃ預かるよ。重そうだし」
大荷物の彼女に向けて左手を伸ばした。形ばかりでもサービス旺盛に。
「あ、女子の荷物に手を触れないで。荷物は持ってきた本人の責任ね」
幸代屋旅館無料宿泊体験会に参加した五名のリーダーは高橋さんかな。
鋭い声で注意してきたから自分は慌てたように手を引っ込めてみせた。
「うん。あのね、実は私、外泊するの生まれて初めてなんだ。それで
家族が心配して枕やタオルケットを持っていくようアドバイスされて
持ってきたんだよ。嵩張ってるけど見た目ほど重くないから、大丈夫」
キャンプ装備の女子が苦笑いで教えてくれた。初の外泊で寝具持参か。
考えると自分も外泊に関しては彼女と同じ。世話になってる斎藤家の
敷地の外で寝泊まりした記憶がない。誰にも言わない方が良さそうだ。
「従業員見習いの自分は参加者の希望に従うだけ。困ったら遠慮なく」
チラッと見えた紙袋の中にはピンク色のタオルらしきものが入ってた。
実際に依頼されることはなさそうだが惜しみなくサービスするつもり。
「ありがとう。親切なんだね。学校じゃ物静かなのに島だと元気だね」
親しいクラスメイトがいなけりゃ誰だって自分みたいになると思うよ。
幸代屋旅館が初外泊の場所となるほっそりした彼女の氏名は山谷志穂。
「あれ? えぇと、木田さんと白井さんの二人は付いてきてるよね?」
あまり進んでないけど首を捻じ曲げて仲良しコンビの所在を確認した。
日傘の必要なさそうな二人が歩いてる。日焼けしたいって訳じゃなく
木田瑠璃湖さんは目深に被ったネイビーでメッシュのサンバイザーと
黒い日傘を差して歩いてるから…。首にはストールを巻き付けてるし
涼しげな印象を持つ服装じゃない。暑い日に我慢大会みたいな防備だ。
ギンガムチェックのワンピースは地面を掃除しそうなスカートの長さ。
背が低いからサイズが大きいのを無理やり着てるように見えてしまう。
入学前から仲良しコンビの相方である白井美優里さんは桟橋から見た
街方面を撮影してるのか背を向けてデジカメを操作してる。元気だな。
二十分程度の船旅でも親戚を訪ねたり、観光目的でもない限り滅多に
上陸することのない離れ小島だ。折角だから好きなだけ撮影してくれ。
野球帽を後ろ前に被って、オフショルダーの花柄Tシャツにデニムの
ショートパンツを合わせて足元はハイカットの靴だ。普段着を見ても
参加者五名の個性が窺える。そう思ってる自分も特に主張のない服だ。
ポロシャツにチノパンツ、運動靴を合わせてる。その日の服装だけで
他人に値踏みされたら困るな。髪の色もカズマの強い勧めで決めたし
保護者の金で学校に通ってる身だから自分自身の意思を発揮していい
立場じゃないのは、ここにいる全員が同じだと思う。卒業して自分の
進路を決めて上手く辿り着いたとき初めて自分の好きなものが選べる。
自分は幸代屋旅館に恩返しできる道を見つけたい。どういった形でも。
「旅館まで何分? 荷物を置いたらアイスクリームがあるんだっけ?」
白井さんの声だった。宿泊者の問い合わせに返答するのが自分の仕事。
「うん。急いだら十分もあれば到着する」
さっきは五分も経たずに着いた気がする。
計っとけば良かった。女子たちの足じゃ
自分より遅いだろうが正確な時間は不明。
「タクシーが待ってると思ったんだけど」
島に都会みたいなタクシー乗り場はない。
車に乗りたい場合、爺ちゃんかカズマが
運転する大型のワゴン車に乗ってもらう。
「ワガママ言わない。坊ちゃんが大きい
日傘持って出迎えに来てくれたんだから」
リーダー役の高橋さんが嗜めたようだが
坊ちゃんが自分の渾名とは知らなかった。
「礼君、学校じゃ控えめにしてるけどさ
今日の格好もそうだね。二十年経っても
全く同じ格好できそうよ。ベーシックで」
返事の代わりに歩調を上げることにした。
教室の池田礼を知ってる参加者たちには
少しくらい愛想が悪くても問題ない筈だ。
「そうそう、雑誌の紹介記事じゃ洒落た
旅館だって伯母さんが教えてくれたんだ。
昔の旅行情報誌に掲載されていたってさ」
撮影に飽きたのか矢鱈と話しかけてくる
白井さん。教室でもよく喋ってる印象だ。
「美優里の目的は心霊写真の撮影でしょ。
桔梗の間に着いたら、美少年のオバケが
首を長~くして待ってるよ。乞う御期待」
皮肉を込めた喋り方が特徴の佐藤さんが
振り向かないで白井さんを嗜めてくれた。
首が伸びたら幽霊じゃなく妖怪だと思う。
「そうそう、忘れるところだったよ。お盆の墓参りにお婆ちゃんから
もらったお小遣いでカメラを新調したんだァ。お仏壇のご先祖様にも
有名な幽霊の心霊写真が撮れますように!ってナムナム手を合わせて
お願いしたんだから、何としても撮ってみせる! お昼まで寝たから
徹夜する準備は完了。静かにして布団の中で朝までカメラ構えてるよ。
要望としては遺影の前で透けてる美少年を撮影したいけどさ、普段は
押し入れにでも引き籠ってるのかな。今日は暑いから皆でカキ氷でも
食べて涼んでいたいけど、十七歳の…えぇと、カズマ君だったっけ?」
大きく開いた日傘の中に無理して四人が入って歩いてたら白井さんが
割り込んで忙しく捲し立て、日傘を持つ自分の右側に並んで歩いてる。
佐藤さんと山谷さんは日傘から出たんだと思う。参加者五名の関係が
完全に把握できてない。それは兎も角、十七歳で亡くなったカズマは
千馬と書くんだった。漢字は違うけど和眞と同じ音なのは紛らわしい。
「うん。十七歳で亡くなったカズマ君が生前使ってた部屋が桔梗の間。
確認した訳じゃないけど押し入れの中には引き籠っていないと思うよ。
ギターを弾くのが趣味だったから離れで寝起きしてたんだってハナシ」
まだ幼い自分が何も思わず桔梗の間の偲ぶ場所に飾ってあるギターを
指で弾いて演奏してたって聞いた。コードの押さえ方を知らないから
掻き鳴らしてみせただけなんだろうが数十年も昔のギターが現在でも
傷みなく保存されてることに奇妙な感動を覚える。それだけでも奇跡。
「そのカズマ君が離れの間で寛いでんなら写真に納まってほしいよね。
あたし撮影できたら雑誌や新聞に投稿しまくって大騒ぎしちゃうから
上手くいけば桔梗の間に泊まりたいお客が増える筈だよ。間違いなく」
肝心のカズマ君が写真に納まるとは思えない。桔梗の間を掃除しても
何の気配も感じ取れなかったよ。彼は遺灰になって墓の下に葬られた。
冷たいようだが死後に意識が残るなんて考えられない。視えない者が
彷徨い歩く。そんなの絵空事だ。朝空に白い布が揺らめくようなモノ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
幸代屋旅館に到着した参加者五名は離れにある桔梗の間へ案内された。
和服を着た婆ちゃんは無料で二泊もする自分のクラスメイトを誠実に
持て成そうと考えてくれている。それだけでも有難い気持ちになった。
「ここ、ひんやり涼しいね。私たちが来る前からエアコン入れてた?」
腹部を出した格好の高橋さんが不思議そうに言った。二間ある手前の
部屋の座卓に置かれたエアコンの電源は当然オフ。予定どおりの展開。
夏場、桔梗の間に宿泊するお客様は旅館が涼しくなるように持て成す。
大女将の曾婆が数十年前に完成させた脚本を舞台裏から演出していく。
「そりゃまぁ、昔から出ると言われ続けて有名な『桔梗の間』だから」
思わせ振りな台詞で参加者の体感温度を少し下げるのが自分の役目だ。
とはいえ、就寝中に驚かす真似は御法度。本気で怖がらせたら離れの
幽霊が悪霊化するもんな。ほんのり仄めかすくらいで、ちょうどいい。
だが、無料宿泊体験会参加者一同は自分の話を聞いてないようだった。
女子たちは座卓に座るより部屋の持ち主だったカズマ君の白黒写真や
思い出の品物が並べられた偲ぶ場所に近づいてアレコレ話し合ってる。
女子たちの他愛ない雑談に混ざる気もないし、ここは厨房まで行って
冷たいものを運ぶ手伝いをした方が良さそうだな。席を外すとしよう。
冷蔵庫に麦茶のポットが入れてあるし、喉が渇いてたら勝手に注いで
飲むよな。女子が見てない間に全員の麦茶を注いでる方が気持ち悪い。
気が利く行為と思っても時と場合に拠る。人間関係は面倒極まりない。
「参考書で見たんだけど千軍万馬って四字熟語があるの。カズマ君は
きっと千軍万馬の猛者なんだと思うわ。だから肉体的に死を迎えても
社会的には死んでいないの。不老不死のまま現代社会で生きてるのよ」
十七歳で亡くなった曾爺の兄上殿が老練の指揮官に喩えられてるのが
不憫というか…。それでも亡くなっても旅館で働かされてるのは事実。
襖は開け放した状態だし、挨拶なしで出て行った。まだまだ先が長い。
「礼、丁度いいタイミングで現れた。出来上がり次第、二人で運ぶよ」
学校の催しに父兄が参加する機会は少ないけどカズマの年齢は兎も角
見た目は四十代には見えないほど若い。女性だった方が得しただろう。
本人の前で言う勇気はないがコンビニのアルバイトに見えなくもない。
半袖の上着を着てるから旅館の従業員というよりもアルバイトっぽい。
カズマ君とは似てないのに弟の孫であるカズマは自分が生まれた頃に
時間を止めたに違いない。父兄参観に来たら若々しくて無駄に目立つ。
オヤツの時間には少し早いが皆で外を歩いて来て暑かっただろうから
カキ氷を出そうと決まった。夏場はカキ氷屋をやったら儲かりそうな
業務用の電動かき氷機が夏の厨房に置いてあるのがスゴイと思うんだ。
客を持て成すために用意した機械で製氷店から大きな氷を買ってるし
無料宿泊体験者には勿体無い贅沢なデザートだってのに供される側は
それを知らずに食べるんだよ。水を凍らせて削ったモノにシロップや
小豆に練乳を入れて出来上がりの安上がりなデザートと思いながら…。
婆ちゃんが慣れた手つきで氷を削っていくのを眺めた。氷の立方体が
細かく削られ、空気が入り混じって真っ白い粉雪みたいになって下で
待ち構えるシロップ入りの硝子器に降り積もっていく賑やかな降雪だ。
緑色の硝子の器は真っ白い雪がよく映える。緑色には白と黒が似合う。
十分な量の雪に缶詰の甘い茹で小豆と練乳をスプーンを使って入れる。
余計かもしれないが自分も白玉と缶詰の蜜柑を入れる作業を手伝った。
この程度の一手間でも家庭じゃ生み出せない甘味に変わる場合もある。
折角の雪が融けたら勿体無いんで人数分のカキ氷を大急ぎで離れまで
持って行く。自分は迎える側に立ち、舞台裏を覗けて良かったと思う。
サービスの裏側に立って初めて沢山の心遣いに満ちてることを学べた。
サービスされる側しか知らなかったら自分の欲が増していくばかりだ。
様々な視点から物事を見ることが出来るのは、またとない学習の好機
到来だもんな。表面しか知らないよりずっと自分が豊かになっていく。
脂肪じゃない自分を形作る部分の厚みが増し、より良い未来へ進める。
皿などの飲食物が載ったトレイを運んで歩くコツも自分は習得の途中。
引っ繰り返したらどうしようと怖ず怖ず運んだら余計な時間を喰うし
運んでもらう側に立てば食欲が引っ込む。自信なくても自信あるよう
堂堂とした立ち振る舞いを見せることもサービスする側の手腕となる。
ショーの舞台裏を知ることが出来る栄誉は他言無用の約束と表裏一体。
少し前まで氷の立方体だったモノが削られて、ふんわりと落ち着いて
甘いデザートに生まれ変わる儚い時間の魔法なんだ。もう少し経つと
体内で融けてしまう運命、氷は素直に受け入れるしかないんだろうか?
氷は水になって、水の旅に加わる。長い長い途切れることのない旅路。
水が水じゃなくなる瞬間が旅の終わりなのかもしれない。例えば、風。
地面に浸み込んで土と一体化したり、他の生物に同化する場合もある。
きっと生き物は永遠に旅の途中だと思うよ。辿り着く結末を望むより
過程を愉しんだ方がいいのかも。苦労や退屈もひと時の姿に過ぎない。
幸福や不幸の境遇に囚われる必要もないってこと。今は単なる通過点。
「よくある集団行動だな。同じ時間に同じ行動を取ることで安心する
一部の皆様方には至福の象徴なのかもしれないが、俺は見てられない」
自分だってカズマと同じだ。三名の女子がトイレ前の廊下に立ってる。
桔梗の間のカズマ君を偲ぶ場所で雑談を終えた女子たちが本当に用を
足すためか鏡を見たいだけか一人ひとり持つ裏事情まで窺えないけど
離れから一番近い集団客用のトイレを利用するところに遭遇したんだ。
学校でも見かける光景だ。何故か一人でトイレに行く方が後ろめたい
事情を抱えてるんじゃないかと勘繰られる。自宅なら誰だって一人で
さっさと済ませる行動の筈なのに学校へ行くと事情が変わるんだから
面倒だと思う。兎に角まぁ、集団で過ごす際にある都合の悪い場面だ。
離れにもトイレと風呂場が設置されてるが通り掛かりに伝えといたら
ここまで出向いてる。女子の立場になると個室が使いづらいのかも…。
表を裏に隠したカズマが内履きの音を賑やかに変え、先を進んで行く。
三名の女子たちが一斉に自分たちを見た。軽く会釈したのは山谷さん。
トイレ前の廊下は学校にもあるような造りの洗面所みたいになってる。
縁の丸い鏡が掛けられてるけど白井さんと木田さんは覗き込んでない。
「部屋まで運んでおきますから。御用が済み次第、お戻り頂ければ…」
後ろからじゃ見えないが余裕に満ち溢れた笑顔で言ったんだと思った。
「うわァ、かき氷だ。やっぱり暑い日はカキゴオリが食べたくなるよ」
白井さんが自分の右隣りにくっ付いて歩くんで後ろが気になったけど
廊下に居た木田さんと山谷さんを置いた形だ。高橋さんと佐藤さんは
トイレの中か桔梗の間にいるのか不明。そんなこと訊いたら失礼だし。
「とりあえず来てくれた歓迎の品ってことで…。届けるタイミングが
ちょっと悪かったような気もするけれど、これは業務用の融けにくい
氷で作ったから家庭で作ったカキ氷より多少は氷が長持ちする筈だよ」
凍らせる温度が少し高めだから長い時間かけて透明な氷の結晶になる。
提供される側には見えない手間隙を惜しまず仕上げた物が商品となる。
「うん、ふんわりしてるもんね。本物の雪みたいにキメ細かい氷だし
小豆と練乳に白玉とか添えちゃってるとこが渋いよね。古き良き涼味」
トレイを横目で追う白井さんはテレビで食レポするタレントみたいだ。
「古き良きかは食べてから判断して。そうだ、襖を開けてもらえる?」
ここまで付いてきた序でに一働きしてもらおう。白井さんも気づいて
二人の先を歩くカズマを難なく追い越すと、閉まっていた襖を開けた。
自分が離れを出たとき開けっ放しだった襖を白井さんは黙って開けた。
桔梗の間に残っていた女子は誰も居ない証拠だと言えるかもしれない。
「失礼いたします」
カズマが客室に入る際は仰々しく一礼する。斎藤家が営業管理してる
幸代屋旅館でも客室は自分たちのテリトリーじゃないと示したいんだ。
後でダメ出しされたら困るし、自分も立ち止まって会釈して入室した。
面倒な所作も秘められた意味がある。自分の主旨を伝えるための動き。
だが、自分の場合は養父の考えに従う拾われっ子を演じてみせるだけ。
「お客様たちの財産を預かる部屋だけど、盗られちゃ大変な貴重品を
持ってきてる人はいないよね? どうしても必要な場合は金庫の中に
預かっていいけど、うちの大伯父が勝手に持っていくことはないから」
いない。けど、いる。という設定なのが曾爺の兄、斎藤千馬君だった。
「オオオジ?…カズマ君は礼君のお父さんの…お祖父さんの…兄弟?」
きちんと説明してなかったけど白井さんは気づいてくれたようだった。
「大正解。お嬢さん、学校でも成績いいでしょ? 私の祖父の兄です」
カキ氷のトレイを座卓に載せた状態で遺影の大伯父を紹介したカズマ。
よそ行きの一人称を使った時点で笑いたい気持ちを堪えなきゃダメだ。
お父さん呼ばわりされると当分の間は不機嫌になる未婚の父親だし…。
それでも普段より手を抜いてる筈。飽く迄も無料宿泊体験会だもんな。
白井さんの視線が自分やカズマ、白黒写真のカズマ君に向いてるのを
いちいち気にしても仕方ない。座卓の上に全員分のカキ氷を並べたら
山谷さんと木田さんの後ろに高橋さん、佐藤さんの二人が従った形で
登場した。五名全員で離れた場所にある共同のトイレを利用したのか。
女子の場合は単なる付き添いもいるのが面倒だ。何とも思わないのか?
「おかえり。古き良きって感じのカキ氷でしょ。みんなで食べよっ!」
桔梗の間で四人を迎える立場に回ってくれた白井さんが全員を促した。
ブルーハワイみたいな鮮やかな色調のデザートと比較したら地味でも
さっき作ったばかりのカキ氷を古いなんて言われると…引っ掛かる…。
「うん。美味しそうだねぇ。それじゃ遠慮なくゴチソウになりまーす」
上座に着いた高橋さんがカキ氷の器に埋もれたスプーンを引き抜いた。
教室でも休み時間の高橋さんの声が条件反射となって動き出す生徒も
いるし、この世には引鉄みたいな役割を務める存在が必要なんだろう。
自分だけの判断じゃ不安のとき力強い声が自分の背中を押してくれる。
空間に和やかな空気を生み出すのも一人ひとりの努力があってこそだ。
昼休みの教室で喋った自分を無視しないで体験宿泊に参加してくれた
それだけでも本当に有難い五名様だった。後から色々言われもしたが
今となっては気に留める必要もない通過点だと分かる。この数日間は
自分には数少ない煌めきの時間だったと振り返ることができると思う。
「あれ? 池田君の分がないよ」
カズマの後に桔梗の間を出ようとしたら山谷さんが不思議そうに声を
かけた。最初から一緒に食べることを想定してなかったんだけどな…。
エプロンや仕事着じゃないけど自分は旅館従業員の見習いしてる最中。
「こっちは仕事中だし、参加者さんたちでのんびり寛いで過ごしてよ」
同性の親しい友人関係というなら未だしも、自分じゃ輪に入りづらい。
「えぇとさァ、礼君、昇降口で言ったでしょ?『泊まりに来たら皆が
寝るまで近くで接待するつもり。風呂場でも』そう記憶してるけどな」
え?…宿泊者に接待するって話した気もするけど…明確に憶えてない。
「あの、白井さんは発言を録音したの? 夏期休暇前の自分の発言を
そこまでハッキリ思い出せるワケないし、そんなこと言ったかなぁ?」
揚げ足を取るのが好きな連中を思い出すと良い表情が遠ざかっていく。
「うん。言ったよ。あの日のことは憶えてるし、間違いない。絶対!」
白井さんを除いた四名の表情が微妙に歪んでることを指摘したくても
こっちがポッキリ折れた方が気楽になれる。桔梗の間に泊まる時点で
まやかしを素直に信じようとしてくれる度量の持ち主ばかりなんだし
喧嘩になっちゃ御終いだ。初夏の頃みたいな情けない自分に戻らない。
「そう言ってたんなら部屋の置物になって過ごすけど邪魔じゃない?」
出入口の襖の前に正座した。いつでもすぐ部屋から立ち去れる体勢で。
「あ、そういえば…そこから中庭が見れるの?…そこって縁側かな?」
木田さんがスプーンで指した先は外側から簾が下ろされた硝子引き戸。
引き戸を開けたら幼い頃の自分が宿泊者に遊んでもらった中庭へ続く。
まだ五名の女子がスプーンを動かしてる間に硝子引き戸を全開にして
縁側を整えた。木漏れ日が程良く陽光と陰を調整してくれて心地好い。
自分一人で縁台に腰を下ろしてみる。小さい頃は届かなかった地面に
足の裏が付くようになった。たったそれだけの変化も時間経過の魔法。
ここで花火をしたこともあった。ビニールプールで水遊びしたことも。
十数年の僅か数日だけど…桔梗の間の中庭で過ごした思い出がある…。
…?!…
人工的なシャッター音が聞こえて、自分が撮られてることに気づいた。
「撮りたいのは心霊写真じゃなかったっけ? 無駄なデータになるよ」
「プリントアウトして渡す。欲しいって人には値段付けて売るかもね」
カキ氷を食べ終えた白井さんが中庭の向日葵にカメラを向けて答えた。
「夏期休暇の思い出として礼君の頭の中にも保存しときなよ。学校を
卒業して何年か経った頃には懐かしいと思えるかもしれないでしょ?」
「卒業するまでの期間の長さに今から挫けそうになってるんだけどな」
まだ手付かずで四年もあるっていう現実を考えると時々絶望的になる。
「あ、えぇと…。そういうの何とかしたい気持ちは私たち全員も同じ。
でさァ、後から改まって話そうかと思ってたんだけど、部活しない?」
「渡し船とバスを使って学校へ行く遠距離通学生に時間の余裕ないよ」
「だから、実質的活動時間は昼食から昼休みまでなの。夕方の時間は
明日の企画を立てたりとか色々あるけど、礼君は帰っても構わないし」
縁側の足置きに茶色いサンダルを脱いだ。フリーサイズでも女子には
大きいかもしれないけど、普通の女子が便所サンダルなんか履くかよ。
「いや、だから、何するの?」
桔梗の間の置物の仕事に戻ろう。自分は部活動よりアルバイトしたい。
「だから、昼間に活動するってスペシャルヒントで想像つくでしょ?」
さっきまで自分が腰かけてた縁台に同じように座って便所サンダルに
足を突っ込んでる。普通の女子じゃないから選択する行動なんだろう。
「あ、美優里ちゃん…。池田君のお婆ちゃん二人が来たよ。これから
みんなで浴衣か甚平に着替えて、涼しく過ごさないかって話だけど…」
木田さんが縁側に姿を現した。旅館の女将と大女将が衣装を用意して
着付けしてくれる無料の贅沢。邪魔にならないうちに出て行かなきゃ。
「浴衣! いいね。着る着る。浴衣に着替えたら全員で撮影会しよう」
勢いよく白井さんが飛び出して行ってしまった。閉められた引き戸に
手を伸ばしたら施錠されてるのか開かない。締め出しを喰らったのか?
気づかないうちにカーテンを閉められてるから室内の様子は見えない。
便所サンダルを履いて中庭を取り抜ければ物置のある辺りに出るけど
放り出された置物は野晒しにされるのがお似合いだな。今すぐ雪降れ!
昼の時間に活動する部について締め出された暇潰しに縁側で考えたが
運動部じゃないだろうと予想しただけだった。入部するつもりないし。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「廊下にね、白装束着て腰まである長い髪の人が立ってたの。誰アレ?」
無料宿泊体験会二日目の朝のことだった。宿泊者五名の食膳を離れまで
上げ下げするのは負担になるから宿泊期間の三食は厨房から近い広間で
摂ってもらう手筈になっていた。カキ氷を出した後、昨夜は爺ちゃんと
曾爺が厨房に立って、夕食の調理を頑張ってくれた。海鮮膳と呼びたい
手間暇かけた料理が無料なんて申し訳ない気持ちになった。海老で鯛を
釣るんだと笑っていたけど今後の見通しが明るくなるかはまだ視えない。
今朝は宿泊客が十分眠れたか判らないし、軽く済ませるかもしれないと
見通しを立てて、塩鮭や玉子焼きといった主菜に貝の澄まし汁に白粥も
用意した。いつでもサービスを提供する側は臨機応変に対応できるよう
万端に調達しなきゃいけない。注文があればマフィンや厚切りトースト、
シリアル類、ポタージュスープ、フルーツ、野菜と果実の特製ジュース、
同年代女子の食の好みは知らないけど所望とあればスナック菓子も出す。
好まない品には手を付けられなくても品数を寂しくする訳にもいかない。
朝食の準備を整えたところで接客係の自分が桔梗の間まで挨拶に出向く。
起床時刻は夕食後のミーティングで午前六時と確認したが一時間あれば
洗顔や着替えとか済ませてるよな。朝っぱらから騒がれると今後に障る。
クラスメイトの男子一人が女子五名の寝泊まりする部屋に立ち入る自体
大問題だと思う。実家の商売抜きにしても一人で行くのは尋常じゃない。
かといって臨時の女性アルバイトを雇う余裕もない現状だ。十数年前は
幸代屋旅館も季節従業員を雇えたらしいが休暇中の人間の流れも時代で
変化する。休日といえば巨大テーマパークや動物園に水族館が主流だし
のんびりと幽霊旅館で涼を愉しむ風情は既に時代遅れなのかもしれない。
時代遅れの催しに付き合ってくれる無料とはいえ大切な五名のお客様を
無下には扱えない。海老役の五名の女子が素晴らしい時間を過ごせたと
喜んで帰った後に立派な鯛を幾つも釣り上げることが旅館の目的なんだ。
婆ちゃんの話じゃ昨夜の五名は大浴場の湯も気に入ってくれたそうだし
湯上り後、中庭で遊んだ花火も線香花火や噴出し花火とか燥いでくれた。
冷やした西瓜も切り分けて大皿に出したら瞬く間に種と皮だけが残った。
地味な演出でも親しいクラスメイトと同じ時間と場所を共有することで
幾年月の時が過ぎても鮮やかに甦る心の拠り所となるに違いないだろう。
演出として縁台の隅にカズマ君の遺影を小さな黒塗りの盆の上に置いて
曾婆が蚊避けに団扇で周囲を仰ぎながら女子たちの騒ぎを眺めてたっけ。
片付けを手伝うとき黒塗りの盆に金色の桔梗が描かれてるのに気づいて
さり気無い心遣いに感心した。きっとカズマ君が好きだった花なんだよ。
逢ったこともないのに自分が生まれる前から旅館の看板役を務め続ける
曾爺の兄者、享年十七。残された古い白黒写真が美形を際立たせている。
いつか幸代屋旅館がカズマ君に頼らなくても大勢の客で賑わうといいな。
エプロンを厨房の隅に畳んで置いて、顔や髪に服装をチェックしてから
離れまで向かう。これも事前に女子たちへ通達したことだが旅館本館と
離れを結ぶ廊下は深夜十一時から朝五時まで施錠する約束になっていた。
客室の冷蔵庫にはサービスの麦茶やジュースを入れてるし、女子たちが
お菓子を持ってこない筈がない。消灯時間なんか無視して深夜遅くまで
雑談して過ごしてるに違いないと幸代屋旅館関係者全員が予想していた。
だからこそ気が進まない。寝込みを襲うなんて大胆な真似はできないし
冗談で掛布団を捲ったら築き上げてきた全てが崩壊すると目に見えてる。
今朝の自分の行動が不首尾に終われば海老で鯛を釣る計画は完全に失敗。
幸代屋旅館の跡取り養子は男子なのに無料宿泊体験会に参加した生徒が
クラスメイトの女子五名だけだから仕方ない。海老になってもらうんだ。
カズマから預かった本館と離れを繋ぐ長い廊下の扉を開錠して開け放ち
ドアストッパーを挟んで固定した。廊下に突風が吹きこむ事態は稀だが
何事も用心するに越したことはない。宿泊者の心身の安全を第一にする。
宿泊業は生命を筆頭に掛け替えのない財産をお預かりする重大な仕事だ。
避難経路は事前に通達済み、それでも焦って戸惑う館内にいるお客様が
無事に避難できなきゃ大変だもんな。通路の確保は旅館支配人の重要な
任務となる。今朝は一人で任せてもらったが預かった鍵を失くしたら…。
モジモジ
四文字が頭に浮かんだ。そんな感じで一人きり廊下に立ち尽くしてたし。
甚平を着た木田瑠璃湖が窓に背を向けて俯いてたんだ。腕時計を見ると
午前六時五十三分。起床時刻を過ぎても桔梗の間から喧騒は聞こえない。
「おはよう。よく眠れた?」
木田さんと1メートルほど離れた位置から差し障りのない言葉をかけた。
そしたら、今朝の冒頭に綴った言葉を上目遣いの無表情で喋ったんだよ。
『廊下にね、白装束着て腰まである長い髪の人が立ってたの。誰アレ?』
そんなの知る訳ない。雑誌に掲載されたカズマ君の目撃談でも白装束を
着て現れた事例はない筈なんだよ。遺影だと白いシャツの袖を二~三回
捲ってる。痩せ型で無造作に伸びた頭髪は白黒写真だから漆黒の艶めき。
病弱で無精な性格だとしても女性みたいに髪の毛を伸ばすとは思えない。
「廊下って、どの辺り? 大体さぁ、夜間は防犯のために本館と離れに
通じる廊下の扉を施錠しているから出入り禁止。その鍵は旅館支配人の
養父が管理しているから勝手に持ち出せないんだし。失礼は承知だけど
起きた状態で見た夢みたいな幻だと思うな。自分は誰にも言わないから
木田さんも気を取り直して早く忘れなよ。今日はみんな楽しみにしてる
海水浴だし、そんな塞ぎ込んだ顔しないで。カズマ君は出てないんだし」
自分でも意外なほど朝から随分よく喋った。白装束とか具体的な説明が
嘘じゃないようで気になるけど、全員を広間へ連れ出すのが自分の仕事。
「木田さん、もしかしたらトイレに行きたいんじゃない? 白井さんを
呼んでこようか?…自分じゃ付き添えないから、誰か居てくれた方が…」
廊下の何処に白装束の後ろ姿が立ってたのか、いつの間に消え去ったか
疑問点は尽きないけど生きていくのに必要ない問題に囚われても無意味。
きれいさっぱり忘れた方がいい。怖いという気持ちに囚われてたら碌な
結果にならないのは誰もが知る当然の理だ。自分の恐怖心を跳ね除けて
大きな成功を収めるように出来ている。全ての恐れは余計な感情なんだ。
「いいえ、大丈夫。池田君が来たってことは旅館の人が起きてるんだし
トイレくらい一人で行けるから平気。離れのトイレが落ち着かないだけ」
また気になる一言を残した木田さんは自分が来た方へ足早に立ち去った。
白装束の長い髪の後ろ姿は曖昧に濁されて、それきり木田さんの口から
耳にすることはなかった。自分も旅館の醜聞と成り得る話は他言しない。
心配だと後を追えば変質者扱いされるだけ。桔梗の間まで行くしかない。
離れのトイレが落ち着かない理由は探偵じゃない凡庸な自分が推測可能。
水洗式でも段差がある男女兼用の和式スタイルなのがイヤなんだと思う。
現在では珍しい構造のトイレなんだから躊躇する女子がいても仕方ない。
学校も男女共に全個室の洋式便器だから和式便器に驚きを覚えるのかも。
昨日、女子が全員揃って離れた共同トイレまで出向いた訳も問い質せば
そういう事情が窺えるのかもしれないが黙って胸に秘めといた方がいい。
木田さんは甚平を寝間着代わりにしていたし、浴衣を着た三名の女子も
おそらく同じだろうな。脱いだ寝間着は後でクリーニングに出さないと。
お客に部屋を出て過ごしてほしい理由はそこにある。寝具のシーツなど
交換して掃除しなきゃいけないし、従業員はハイド・イン・シャドウの
特殊技能を駆使して速やかに仕事を片付けていく。つまり時間との闘い。
そんなこと言葉に出したら笑われるし、空想での話だ。本当に出来たら
もっと稼げる仕事に飛び付くもん。奇跡や魔法を求めてやまない連中に
大金を出してもらいたい。謎のアシナガさんは幸代屋旅館を覗き込むと
奇跡や魔法らしき夢幻を見物できるから白い封筒に高額紙幣を入れて…?
買い被りすぎだよな。ここは竜宮城じゃない。古くからある旅人の宿屋。
桔梗の間の襖をノックする前に佐藤さんを先頭に四人が襖から出てきた。
木田さんは甚平を着たままだったけど、四人とも既に着替えを済ませて
そのまま外出できそうな格好してる。いつから木田さんは一人で廊下に?
挨拶と天気の話をして広間へ向かった。木田さんは海水浴へ行けないと
濁すような言葉で聞かされた以上、こっちは知らん振りで沈黙するだけ。
二日目は体調不良ってことで木田さんは布団の中で休んで過ごすらしい。
木田さんの食事も客室まで運んでくれるよう頼んだ。空調が効いてるし
携帯端末を利用すれば白井さん達と連絡を取り合えるから不自由しない。
良い方向に思い遣るしかできない。自分一人の心さえ持て余してるのに。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
青天の砂浜は人出がなく閑散としていた。花火の残骸が埋まって汚いを
通り越した無常の寂しさを覚える。空き缶やレジ袋、ゴミ捨て場の砂浜。
西瓜割りして遊ぶ予定だったのに気づいたら周辺のゴミを拾い集めてた。
景観を損ねる哀しいモノたちを黙々と分別してゴミ袋に詰め込んでいき
片付けていく作業に午前中を費やしてしまった。何しに来たんだろうな。
カズマが全員を乗せてきたワゴン車に丁度よく軍手や清掃トングなどが
収納されてるってことは最初から砂浜の清掃奉仕が目的だったような…。
時折、白井さんが作業の様子を撮影していた。真面目な表情でカメラを
向けてたから砂浜の現状を記録したようだ。ゴミの量とか記帳してたし
さり気無く近づいて見たメモ帳には『モラルの低下』と書かれてあった。
公衆道徳という言葉もあった。将来、新聞記者を目指してるんだろうか?
誰一人として文句を言わず、砂浜の清掃に汗を流したんだから全員スゴイ。
自分の土地じゃなくても頭を下げたくなる不思議な清掃奉仕の時間だった。
旅館に帰って、広間の冷えた空気の中で座布団を敷いて横たわる女子四名。
女子と一緒になって休む訳にもいかないんで自分は二階の部屋に上がって
汗で汚れた衣服を着替えた。冷たいシャワー浴びたかったけど女子たちを
差し置いて勝手な真似しちゃいけないもんな。エアコンを使えるだけマシ。
孤立無援の学校生活だけど無料宿泊体験会に参加してくれた五名の女子を
粗末に扱えるかよ。借りが出来た。増えていくばかりの借金が更に増えた。
どうやって借りを返済すりゃいいんだろう? 生まれてきた所為で味わう
苦くて重たい荷物を背負ってる。空気。単なる空気に囚われ悩むなんて…。
…?!…
内鍵を閉めたドアを三回叩かれた。家族で三回叩くのはカズマしか居ない。
ベッドから身体を起こしドアに近づいた。声を出すのも気力と体力を使う。
「緊急の用件?」
「いや、女子たちがシャワー浴びてるから食事はもう少し後になるって…。
一時半過ぎたら宴会場に来な。誰もいなきゃ座布団敷いて寝てりゃいいし。
あいつらスゴイな。根性あるっていうか女子の姿なのに漢らしい連中だよ。
最初は礼の容姿目当てだと思ったけど、良い友達になるんじゃないかなぁ。
性別抜きにして力になって損はないと思う。礼の親友としての勘だけどさ」
扉越しのカズマの言葉に上手い返答が浮かんだりしなかった。凡庸だから。
「分かった。一時半に厨房に下りる。そのとき用事があったら手伝うから」
素っ気ない言葉で親友を突き放してしまった。たった一人の拠り所なのに。
カズマという支えが外れたら自分は地の奥底、真っ逆様に墜ちてゆくんだ。
俗にいう地獄っていう場所か。どんな責苦も身体が無くなりゃ痛みもない。
あらゆる苦痛から解放された姿が『死』だから地獄なんて信じる必要ない。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
奇妙な夢を見た。白昼夢ってモノなのかもしれない。白いシーツを干した
物干し台の下に立ってる自分を撮るカズマに笑顔を向けてる二歳の自分と
隣りに母親がいた。顔を見上げたくない。良い顔じゃないと知ってるから。
風で揺れ動く白いシーツを誇らしげに眺めてたのに母親はウンザリしてた。
風に靡く白い布は母親の憂愁を呼ぶモノ。それを知ると何も言えなくなる。
自分は寝小便したことないのかよ! 叫びたい気持ちを喉に仕舞い込んだ。
喉が詰まる。胸が…。こんな症状に苦しむ人間は絶対に自分一人じゃない。
机の上の時計は午後一時半を過ぎていた。とりあえず厨房の様子を見よう。
カズマに用事があれば手伝うと言った以上、真っ直ぐ広間に下りたらバカ。
昼は外注の仕出し弁当だからテーブルの上に並べとくだけの筈なんだけど
松花堂弁当は器が入ってる分、重たい。雑に扱えないし、米飯に吸い物の
器とか別になってるかもしれない。兎に角、自分が率先して手伝わないと
背負い込んだ重たい借りを返していけない。表面だけでも軽く、明るく…。
妙に静かだ。人がいる気配を感じ取れない。ここは幸代屋旅館の中だよな?
空気が…喉に触れる空気が…いつもと違う。冷たい。外は快晴だったのに。
長い廊下を歩いてる。母屋に向かってる。寒い。麻の着物一枚じゃ寒いや。
空が一面の曇り空に変わってる。明るいけど落ち着かない気分。ざわめく。
手洗い。そうだ、手洗いに行きたくて歩いてるんだった。自分の部屋から
手洗いは遠い。不満を伝えたら『おまる』でも使うか?って笑われたんだ。
歩く体力がある。本日も俺は生存中だ。それだけでもマシだと思わなきゃ。
頭が重い。髪の毛は全快まで切らないと決めてから可成り長く伸びた筈だ。
着物で歩いてたら女と間違われるだろうな。生き恥かけるのも生きてる証。
廊下の途中に見える物干し台に掛けられた白い敷布が吹く風に揺らいでる。
…?!…
誰か見てる。俺が見られてるのか? 一体どこから? 思い過ごしだよな。
脳裏に浮かぶのは甚平を着た俺より年下の娘。この時期の泊り客も珍しい。
裕福な家で遊び暮らしてるんだろうな。自分も似たような身分だし、早く
身体を治して遠くへ出かけたい。島から外の世界へ出て、見聞を広げたい。
路銀はギターを弾いて通り掛かりの粋狂な者に投げ入れてもらえば十分だ。
こんなこと言ったら家族に世間知らずと笑われるんだろうな。旅館なんか
継ぎたくない。家業は真面目な弟に任せたい。俺の頭は下の方を向くのが
得意じゃない。空を見上げ、鷹揚に暮らして生きたい。雀か燕になりたい。
おかしい。廊下が長い。これじゃ用を足したい気持ちも遠ざかってゆく…。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
目を覚ましたら、木田さんと山谷さんを除いた三名が部屋に居座っていた。
よく憶えてないが自分は厨房の前で蹲ってたらしい。外で清掃奉仕したし
暑気中りを起こしたんじゃないかってカズマが部屋へ運び込んでベッドに
寝かせてくれたってさ。で、いつの間にか三名の女子が部屋に居座ってる。
何も無さすぎる空間を見られたってだけでも自分の気分は激鬱なんだけど
目を開けた途端に市販の経口補水液を飲め。食欲があるなら弁当を食えと
二名に騒ぎ立てられた。佐藤さんが自分の机に座って勝手に何か読んでる。
言われるまま栓を開けられたペットボトルを手に取って口に入れてみたら
瞬く間に半分以上飲んでしまった。軽度の脱水状態だったのかもしれない。
温いし美味しいとも思わない水分を身体は欲してたらしい。すぐ空にした。
「もう1本、飲む?」
高橋さんの申し出に首を横に振った。ゲームやビデオを見る趣味がなくて
自分の部屋にはテレビや音楽を聴く機械類も置いてない。本棚もガラガラ。
完全に中身のない人間だってバレてしまった。母親に棄てられるだけある。
「午後三時だけどオヤツだと思って食べなよ。お寿司と天麩羅の弁当だよ」
白井さんが全部やったのか知らないが、折畳みテーブルを引っ張り出して
そこに松花堂弁当が置いてあった。広間から座布団まで持ってきたようだ。
食欲がない。それでも箸を付けないのは弁当を作って運んでくれた人々に
申し訳ない気がしてくるんだよな。舞台裏を見てきて、何事にも手間暇が
かけられてると知ってしまうとサービスを拒絶する気持ちなど消え失せる。
「わざわざありがとう。こんな部屋に居てもつまらないから戻っていいよ」
出て行ってほしい。とは言えない。自虐的な言葉で自分を更に貶めていく。
「邪魔なら出て行くけど、池田君のアルバム貸して。お母さん、美人だね」
佐藤さんは机の引き出しからノートサイズの薄いアルバムを見つけ出して
読み耽ってたのか。こっちの立場が逃げ切れないほど追い詰められていく。
「その人は自分を置いて従業員を辞めて行方知れず。母親とは思ってない」
積み重なった数冊のアルバムを押し付け、三人揃って部屋を出てもらった。
白いシーツを背景にした写真、撮ってもらった時の気持ちを忘れられない。
風に揺らめく白い布を綺麗だと思って見上げてた二歳の自分はもう居ない。
池田ミサ、手紙一つ寄越さない母親が今どこで何をしてようが知るもんか!
女性向けの松花堂弁当だからか全体的に量が少なめだったんで空に出来た。
水分と食事を摂れば自然と体調も回復していくらしい。血と肉に囚われた
生き物だから身体の状態が良くなると心の落ち込みも早く過ぎ去っていく。
空の弁当箱と座布団を返さなきゃいけない。先に座布団を置こうと広間に
近づくと、カズマと婆ちゃんまで巻き込んで五名の女子たちがアルバムを
眺めてる最中だった。他人の過去の様子を覗き込むのは楽しいんだろうな。
カズマが撮ってくれた御蔭で小さい頃の写真は他人に比べると多いと思う。
今ならカメラを向けられると全力で断る。魂が盗られると言ってでも拒否。
広間の和やかな空気の種になってるのが自分の写真だというのが解せない。
結局、開け放たれた襖の前を通り過ぎてしまった。自分は…透明な空気…。
◆或る失くし者の独白.
この家に居着いてしまって、居間の長椅子に座っていた二頭の仔犬の
話をしたいと思います。夫は動物の飼育経験はないとのことでしたし
私の実家も両親揃って動物が苦手らしく金魚の一匹も飼った記憶なく
それなのに居着かれて少々困った感がありましたが「可愛らしいねぇ。
犬と一緒に暮らすことについてイチから勉強してみよう」夫が提案し
とりあえず商店街の愛玩動物専門店から餌と皿、水入れなど二頭分を
買い揃えて置いてみました。夫は犬嫌いではないらしく黒い毛並みの
仔犬を兄者、茶色い毛並みの仔犬を弟君と名前を付け、室内犬として
小さな我が家で飼育することになりました。トイレの訓練も問題なく
済ませるようになって助かりましたが、二頭とも人間じみた羞恥心で
まず最初に家のトイレまで歩いて行くのです。私か夫が仔犬を見つけ
「犬さんは此方へどうぞ」抱き上げて犬用のトイレまで連れて行くと
目を離してから用を足すといった感じでした。餌も私たち人間と同じ
食卓で済ませたいような印象を受けました。犬の姿をした小さな子の
ような錯覚を覚える程です。大抵の場合、二頭揃って居間の長椅子で
退屈そうに過ごしていました。二頭のために散歩や犬用玩具を用いて
遊んであげたりしたいと思うのですが、夫や私も仕事や雑事に追われ
物静かな二頭が満足するほど構ってあげられなかったのが心残りです。
夫は兄者を殊の外可愛がっている様子でして、兄者だけ仕事場である
書斎へ連れて行って過ごす日もありました。弟君が可哀想と思っても
弟君は元来マイペースな性分なのか寂しそうに甘えて鳴くこともなく
長椅子を独占できたと言わんばかりに広々と寛いで過ごしていました。
時折、夫の学校時代の同窓生の方も家まで訪ねてきたりもしましたが
人気があるのは黒い毛並みの兄者で茶色い弟君に手を伸ばす同窓生は
皆無と言っていい感じでしたね。なので、一息つける時間を見つけて
長椅子に座る弟君の隣りへ座って話し相手というか一方的に家の話を
聞かせてあげていました。季節が変わると咲く庭の草花についてとか
今日の献立は何にしたらいいか返事はなくとも弟君に相談してみたり
嫌がる素振りは見せず、私の目を見て話を聞いてくれるのが嬉しくて
私は弟君派になっていました。味付けの薄いおかずを冷ました米飯に
載せた特別な食事をこっそり与えたりしました。夫と兄者には内緒で。
犬用の餌より喜んで食べてくれます。本当に人間の少年のようでした。
賢兄愚弟という言葉がありますけど、判官贔屓とでも言えばいいのか
神経質な印象を持つ兄者より天真爛漫な弟君の方が私は安心できます。
「あの、貴女はその茶色い犬が制服を着た少年に見えないのですか?」
或る日、うちを訪ねた理髪店跡に事務所を構える赤毛の名探偵さんが
居間の長椅子に座ってる弟君を見て言ったことに驚いてしまいました。
「いえ、そんな…。私には茶色い毛並みの小型犬にしか見えませんが」
一緒にいると男の子のようだと思うことばかりなのを隠して、質問に
答えるより仕様がありません。白いシャツに紅色のリボンタイを結び
上質な黒いカーディガンの釦を全部留めて、宛らVネックのニットを
着込んでるといった感のある出で立ちでした。地味な格子柄の入った
焦げ茶色のボトムと合わせています。訪ねる度に衣装を変えてるので
控えめな着道楽の方かもしれませんね。何より彼の印象に残る部分は
真っ赤な頭髪に銀色と呼びたくなる瞳でした。異邦人だと思いますが
ご本人も自分については何も詳しくないと夫に話されるのだそうです。
不思議な印象の名探偵さんが珍しく夫の書斎へ出向く前に家内である
私に口を聞いたのも滅多にないことでした。それで憶えているのです。
「でも、ご主人と兄者の姿がない時は弟君と隠れて仲良くしてますね。
薄味の玉葱抜きの親子丼だのは、葱も入れて普通の味付けで結構です。
こいつらは犬の姿をした山の精霊だから、食べ物に気を遣う必要ない」
その言葉を置いて、名探偵さんは廊下に出て夫の書斎へ向かいました。
学校時代からの勝手知ったる仲なので、ご案内する必要はないのです。
彼が姿を消してから思わず深い溜め息が出てしまいました。銀色した
名探偵さんの瞳は普通の人間なら視えない筈の秘密まで見破るのです。
私に厳しい言葉を向ける夫ではありませんが、後で何か言われそうで
名探偵さんから「制服を着た少年」と指摘された弟君と並んで座って
鬱々と過ごしてしまいました。彼の言葉を気にしてない様子の弟君は
天気が良いので庭へ出て花の蜜を吸いに来る蝶に飛びつこうとしたり、
日陰で休んだり、その後もマイペースに過ごしてくれたのが幸いです。
私のような貧しい育ちの者が街でも大きな商家に嫁ぐなんて夫という
高嶺の花を射止めた感と何かに取り憑かれた夫が間違えた選択をした
可能性も無きにしも非ずといった心境でした。ようやく一年を過ぎた
結婚生活ですが、私は元々この家にいらした幼少時から御身体の弱い
三女さまの専属看護師として迎えられ、数年前から仕えていたのです。
当時まだ十代後半の私と三女の寧さまは同い年という共通点があって
生まれ育った家庭の生活水準に大差があっても寧さまの体調次第では
長い時間を割いて会話を愉しんでいました。話し相手を務めることも
私という者が雇われた理由でしたので、顔色やご気分に配慮しながら
お喋りをして過ごさせて頂いたものです。遠い異国の音楽を聴くのも
自分の心まで豊かになった錯覚がいたしました。麗らかな景色の曲や
激しく感情を揺さ振る曲を共に聴くことが出来たのは良い思い出です。
夫が寄宿していた学校のある村は古くから良い泉質の湯治場だそうで
当時の夫が十年生の春だったと思います。村の空き家を改装しまして
全ての窓を大きくして玄関の扉も最新式の物に変え、明るく住み心地
良くなった別荘へ寧さまに私が付き従う形で湯治と転地療法を兼ねた
養生に挑戦しようという展開になったのは寧さまと共に賛成でしたが
「私も行きたい。王子様と出逢う夢を見たの。ワガママ言わないから」
春休みで夫も同席していた夕食の場で全員に宣言するかのような大声。
一人歩きさせたら良いことなど起きる筈のない素行の悪さで知られた
五女さまの申し出に商家の旦那様と奥様は「お互い少し考える時間を」
そう仰って胸騒ぎしか起きない場面を取り繕いましたが夫は無邪気に
共同浴場の温浴効果をお姉さま方に説明しておりました。悪ふざけが
過ぎた男の子の遊びまで吹聴するのですから聞く側は箸が進みません
でしたが、ご両親へ夫が説得したらしくて五女さまも春から当分の間、
村で暮らすことが決まって、村内では入手しづらい品物等は使用人の
先輩方が様子を見るついでに持って来てくださる手筈も調いましたし
村の診療所の先生も何かあった際にはすぐ駆けつけてくださる約束も
取り付けることが出来ましたので、誰より寧さまを第一に考えている
私といたしましては平穏無事に湯治して過ごせますよう願いながらも
五女さまの動向にまで気を配らねばなるまいと思うだけで心は憂鬱…。
村の刺激のない生活に早く飽きて「迎えの車を寄越せ」とワガママを
言ってくださる顛末を密かに期待しておりました。話も合いませんし。
その春から始まった山間の村での湯治暮らしは畑仕事で生計を立てる
小さな集落に生まれ育った私には懐かしい居心地の良さを感じました。
屋根のない露天の共同浴場は雨が降ると閉鎖されるのが難点でしたが
別荘にある内風呂の蛇口を捻れば温泉が出てくるのですから問題なし。
村の温泉が身体に合うのか寧さまも不調を訴えないでいてくださって
偶に五女さまが食事について意見する程度で一か月過ぎて村の学校が
夏休みを迎えるまでの長期間、平穏無事な生活を送ってこられました。
「弟の学校を見てみたいな。私も一緒に勉強できたら良かったのにね」
時折そう仰られる寧さまでしたが、やんわり無理だと引き止めました。
夫となった一組生徒を含めて生徒全員男子ばかりと聞かされましたら
臆して当然ではないでしょうか。興味深い内容の授業に関しては時々
別荘まで訪ねて夕食も一緒に済ませて帰る夫が語って聞かせましたし
それだけで十分でした。三組の異臭騒ぎや爆発騒ぎ、二組の無鉄砲な
生徒たちの話を聞いたら、足を向けたい気持ちは自然と遠ざかります。
夕暮れになると始まる面白い曲は誰が歌ってるのか聞きたい気持ちは
寧さまと私にもありましたが、夫は屋上という単語を耳にしただけで
それまでの話を別方向へ変えようと必死になるから聞けませんでした。
一組の校長先生のお孫さんも話を聞いた限り「暴威」と渾名されても
当然だという印象を持ちました。放課後になると村の食堂に立ち寄り
厨房の食材全てを食べ尽くす勢いでオヤツを愉しむ姿を見てましたし
付き合わされる御目付役の生徒さんが退屈そうな顔で玉葱のスープを
ゆっくりと口に運んでる姿も日没間近の陰鬱な気分にさせられました。
寧さまは校長先生のお孫さんの大喰らいを羨ましそうに見てましたが
「買い物の途中ですから、入口を塞ぐのはこの辺で…」見世物小屋の
呼び込みの口上や恐ろしげな看板に目を奪われている子供を引き離す
母親になったつもりで先を急がせた感じです。今になって振り返ると
もう少し寧さまの希望を尊重してあげるべきだったと後悔を覚えます。
「夕暮れまで昼寝して過ごそうと思うの。二階の部屋は覗かないでね」
私たちが村の地理に慣れた初夏の頃、そう言ったのは五女さまでした。
玄関の靴箱に三人分の履物が収納されてましたから勝手に出歩くとは
思いもしませんでした。午前の内に入浴を済ませて疲れてるだろうと
五女さまの指示に従うだけでした。二階の部屋から出歩いてるなんて
夢にも思いませんでしたが、あの五女さまなら造作なくやってのける
他愛ない行為でしかなかったのです。今も強く悔やまれる私の大失態。
詳細は省きます。秋に寧さま、冬には五女さまの命が儚く散りました。
お仕えしてきた寧さまを亡くして葬儀のお手伝いを済ませたら、すぐ
実家へ帰るつもりでした。お守りできなかった用済みの駒ですから…。
寧さまを偲びたく思いまして、時折寧さまの部屋で何をするでもなく
無心に過ごしていました。部屋に残ってる筈の数多くの珠玉の記憶を
思い出す気力さえ失くしていたと思います。無意味に過ごしてるなら
洗濯でも掃除でも使用人の作業を手伝ったら役に立つ筈でしょうけど
何かをしようという当たり前の行動原則さえ失くしていたようでした。
そんなとき寧さまの部屋の扉が開いて現れたのは、この商家の家督を
継承する末子で長男の…。彼は名前のよく分からない不思議な楽器の
演奏者でもありました。そのときも手には独特の構えで持つ弦楽器を
持っていましたので、寧さまの霊を慰めようと考えて楽器を弾こうと
していたのは一目瞭然でした。お姉さまと向き合う時を使用人如きが
邪魔する訳に参りません。無言で一礼して部屋を退出しようとしたら
「お経みたいでイヤかもしれないけど、姉さんと一緒に聴いてほしい」
いつも誰彼構わず大笑いさせるご発言ばかりの御令息にしては珍しく
笑顔ではなく真面目な表情をして仰いましたので、そのお言い付けに
従いまして寧さまと一緒に弟さまの楽曲を聴く気持ちで過ごしました。
それを最後の務めにするつもりでした。勿体無いほどの高いお給金を
頂戴していたのですから実家に多額の仕送りも出来ました。最後まで
この家に仕える者として相応しい態度を取ろうと考えていただけです。
まさか演奏の後、お屋敷から出て行かないよう懇願されるとは夢にも
考えていませんでしたが、その後は冬まで五女さまの側にお仕えして
更に心の傷は広がり深くなるばかりでした。上に辞意を申し上げても
御令息から強く慰留を申し渡されている状態で庭掃除した後は自室で
休んでて構わないと、何をしても街の商家から出す意向はない様子で
私のような者が慰留される理由が思い当たらず困惑は増す一方でした。
夫が何に取り憑かれたのか謎ですが、私が大きな商家の若奥様なんて
御令息より年上なのに他人事なら笑いたくなる事態に突入してました。
現在も特別な仕事は与えられず一介の小さな家庭の主婦の仕事をして
一日を過ごしてるような状態なのです。今でも何かに化かされた気分。
『あの、貴女はその茶色い犬が制服を着た少年に見えないのですか?』
制服といえば赤毛の名探偵さんの言葉がヒヤリと胸に突き刺さります。
一組の生徒は真紅、二組は深碧、三組は紺青のスカーフの三色でした。
兄者と弟君は何処の制服を着てるというのでしょう? 学校なら何組?
居間の縁側から庭に下りて遊んでる弟君はどう見ても茶色い小さい犬。
制服を着ている少年だったら四つん這いで…端無い想像は止めます…。
「ご主人との話し合いの結果、俺が兄者の身元引受人に決まりました。
そういう訳で弟君とは暫しのお別れとなります。それでは御機嫌よう」
…?!…
廊下を見ると開け放した引き戸から兄者を抱えた赤毛の名探偵さんが
帰途に就く旨を伝えてきました。その後ろには脹れっ面した夫の姿も
ありました。「見送りは必要ないってさ。僕が玄関と表に塩撒いとく」
賭け事遊びに負けた場合よく聞く台詞です。夫の書斎で名探偵さんと
どのような遣り取りがあったか知る由もありませんが、巧妙な手腕で
夫が敗北を喫したに違いありません。兄者は戦利品になったようです。
「奥さんに言伝を一つ忘れてました。明朝、面白い事件が起こります」
赤い髪と銀色の瞳だけ覗かせた名探偵さんが奇妙な発言を置き土産に
立ち去りました。元から夫は塩の入った壺が台所の何処にあるのかも
知らない人ですし、表に塩を撒くのも悔し紛れに吐いた言葉でしょう。
弟君は知らずに兄者が連れて行かれてしまい、離れ離れの身の上です。
夜更けに寂しくなって兄者を探し回るような気がします。可哀想に…。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
朝の光に透ける花紺青の色が私の目の前いっぱいに広がっていました。
布と気づいたのは数秒経つか経たないか、薄く艶のある布はスカーフ。
濃紺の制服は春秋の合服だと思って眺めました。やけに現実的な夢…。
明るい茶色の髪をした十二~三といった年頃の少年と目が合いました。
此処は寝室。知らない少年に上がり込まれたと分かれば人を呼ぶのが
常識的な行動の選択と思いますが、兄者を赤毛の名探偵さんに連れて
行かれた夫の飲めないお酒に付き合いもせず、先に寝たのは私ですし
不手際を問われたら何も言えません。左の人差し指で私の口を押さえ
「犬の姿で起こしに来たら『カワイイ』の一言で済むんでしょうけど
見てのとおりバケのカワを剥がされちゃってぇ、こんな状態なんスよ。
信じろとは言いませんが、自分がオトートギミの人間になった姿っす」
大声を出さないでという意味で少年は唇に指を当ててるんでしょうが
恥ずかしいです。首を軽く振ると力を込めてないのかすぐ外れたけど
二の句が継げません。仔犬なら笑顔で迎え入れるという訳でもないし。
『奥さんに言伝を一つ忘れてました。明朝、面白い事件が起こります』
この非常事態が彼の言葉の置き土産だったなんて…。無邪気な表情で
寝室を眺めまわされてる時点で、この家出少年の自宅に連絡を入れて
迎えに来た保護者の方に厭味の一つは投げつけてやりたくなりました。
「帰る家が無くなったんで、この家に身を寄せたんス。両親は淵の底」
寝台から下りてくれ、背を向けた弟君の言葉。ご両親は淵の底って…?
…?!…
しばらく前に街でも騒ぎになった村の淵での夫婦心中事件でしょうか?
「まあ、元々の棲み処は村の山なんで、そっちに収まりゃ済む話でも
長いこと人間の生活してるとブンメー生活に慣れ親しんじまっててぇ
時間の許す限り人様のメシ食って雨風凌ぎてぇよなぁって話し合って
街じゃ親切な商家の若旦那と若奥様の家に住まわしてもらったんです」
仔犬としての弟君もマイペースで個性的な印象の子でしたが、少年も
負けず劣らず独特の個性的な喋り方をするのです。どこかしら幾つか
頭の螺子が抜け落ちてるような…いえ、話を聞いてると優秀な子だと
私にも理解できました。見縊られようと故意にバカみたいに装ってる?
「わ、分かりました。では、まず私に着替えと少しだけ考える猶予を
ください。必ず行きますから居間の長椅子で寛いで待っててください」
ぐちゃぐちゃに寝乱れた頭髪を弟君に見られてしまって今更ですけど
私にだって羞恥心くらいあります。早く寝室から出てほしかったです。
「いや、その長椅子で酔っ払ったバヵ…旦那さんが眠りこけてるんで
退かしてほしいってのもあって、奥さんを起こしに来たワケなんスよ」
…!!…
使用人の誰かを…と思っても…ここは母屋から離れた小さな新居です。
夫婦水入らずで暮らしていたところを二頭の仔犬が訪ねてきたのです。
周りに怒りの情をぶつけるのは自分の恥です。まずは落ち着かないと。
その日の昼食後、弟君と私の二人で衣類など買い揃えに出かけました。
昼の食卓で「自分はとっくに衣服や飲み食いの必要ねぇ身の上なんで
恐縮っす。大事な金銭を使わせた御恩に報いたいっスが、今のところ
番犬程度の役目しか果たせそうにねぇかも」喋り方は少々アレながら
弟君はお仕着せの制服だけ着せるなんて勿体無い容姿です。私自身の
気分転換も兼ねた外出でした。商家の若奥様という名目の居候なので
知り合いの方々に出会うと挨拶など面倒なことになりますが、弟君は
私の甥っ子になってもらい、進路相談で遊びに来てる設定にしました。
我が家の食卓で夫と弟君から「兄者とは双子でも簡単に見分けがつく」
そう教えられました。仔犬のとき黒毛の兄者と茶色い弟君だったのを
考えると、兄者は黒髪の物静かな雰囲気の少年へ変わったのでしょう。
理髪店跡の仮住まいの状態で営業してる探偵事務所を訪ねたら兄者に
逢えるそうですけど、昨日の今日で再会しに来たというのも何だか…。
衣料の店に入ると弟君の個性が発揮されました。高品質で弟君によく
似合いそうな衣服を試着せず選び、笑顔で店員さんにお会計するよう
頼むのは構いませんが、裕福といえる身になった私でも財布の中身を
気にしないと落ち着かない買い物です。趣味が良くて高品質なモノを
嗅ぎ分ける優れた鼻を持ってるようですが、当分私は贅沢できません。
弟君は安い物を沢山という性質の持ち主ではないと分かりましたけど
嬉しそうに紙袋を両手に持って歩く姿は本当に自分の甥っ子だったら
いいのにと考えてしまうほどの美少年。我儘は極力控えてるようでも
いざ許されると思いきり突っ走ってしまう性質なのが弟君の特徴かも。
お八つ刻です。軽くなった財布の残りも叩いてしまうことにしました。
「弟君の好きなお菓子を買って帰りましょう。高級な舶来菓子以外で」
ショートケーキを何個か持ち帰れる残金でしたが弟君の金銭感覚では
私の知らない高級菓子舗の舶来菓子を大好物だと言って所望しそうで
恥ずかしいのを承知で釘を刺してしまいました。幼少の頃に贈られた
華やかな舶来菓子は包み紙だけで心も甘美さに酔い痴れた気がします。
銀紙を剥いだ中身は洋酒入りのチョコ菓子。それを知らずに与えられ
当時まだ一桁の齢で酔っ払う姿を家族に見られたらしいです。慌てて
開業医の許へ担ぎ込まれたようですが、吐き戻して水分を摂って終了。
もちろん私自身に酔った記憶などありません。それでも聞いただけで
二度と飲酒しないと心に決めました。両親に心配かけたのですから…。
「え、お菓子は…。あ、はい。奥さんの一番好きなお菓子がいいっス」
痩せこけてるとまでは言えないけど、か細い身体が甘い物は苦手だと
代わりに伝えてくれています。それじゃ遠慮なく買い物に付き合った
商家の若奥様が似合わない私を労う和菓子を買って帰るとしましょう。
「おかえり、その紙袋は金鍔焼きだよね。僕は南瓜餡のが食べたい!」
暦では休日ですが、出迎えた玄関先で目敏く菓子屋の名入りの紙袋を
見つけて大声を出す夫が弟君よりずっと幼くて恥ずかしくなりました。
「店の名は知ってましたけど、漉し餡が名物だって初めて知りました。
切って中身を見せた紫芋や枝豆餡の金鍔焼きが美味しそうってぇより
ゲージュツテキだよなぁって思いましたっスよ。自分のリクエストは
栗入りの粒餡でーす。練り切りもカラフルで見てて飽きないっスね!」
夫たちの同窓生と聞かされても十二~三歳にしか見えない弟君の姿が
此の世の存在じゃないと告げているようです。三時間近く外出しても
翌日以降に訪れる足腰の痛みなんて無縁といった風貌で羨ましいです。
「お茶を淹れてあげるから早く食べようね。夕食の時間を遅くしたら
問題ない。ゆっくり過ごそう。日曜でも店の売上げなんて気にしない」
紙袋の一つも預かることなく一人して玄関の奥へ走り去ってしまう夫。
商家の実働経験は殆どない実質的には無職と呼んでもいい人なのです。
自分の書斎で物書きしてるのも同好の士で出版する同人誌の投稿作品。
この小さな家も言い方を変えたら座敷牢と呼んでいいかもしれません。
「タダイマって言葉を忘れた自分も悪いでしょーが、いつもの無視か。
まあ、無視されるのは昔っから慣れてまーす。許可なく上がり込んで
居候している身の上で普段着まで買ってもらってんですから恐縮っス」
弟君が玄関で履物を脱ぐ前の私に向かって深く頭を下げてくれました。
ただいま。ありがとう。という解り易い言葉を口に出すのが苦手でも
普通の人間らしい気持ちで生きてると分かったら無下には出来ません。
「あの人からは私もよく無視されるの。似た者同士ね。入りましょう」
初夏ですが蜜柑色と感じる陽射しが時計なしでも逢魔時を伝えてます。
優しく落ち着いた色合いに染められていく光景を心に焼きつけました。
少年の姿になった弟君との生活にも慣れてきた夏の終わりを迎える頃、
昼食を済ませ居間の長椅子でおとなしく庭を眺めていた弟君が廊下へ
出ようとした私に驚きの表情の後、穏やかな笑顔を向けてくれました。
夫は朝から兄者目当てに理髪店跡の探偵事務所まで訪ねていって留守。
そんな落ち着いた休日の午後、夫の帰宅まで何しようか考えあぐねて
やっと思い付いた行動の選択は「実家へ手紙でも出そう」というもの。
夫の書斎にある便箋などを拝借しようと思いました。入室厳禁という
不文律もないですし、辞書や百科事典といった知識欲を満たす数々の
羨ましい限りの品々を折に触れて役立てないと勿体無いと思うのです。
手紙の書き方について易しく説いてくれた指南書も勉強になりました。
「体調は大丈夫っスか? 朝ご飯が食べられなかったみてぇでしたし」
廊下へ出る引き戸に手をかけた背中に弟君の心配の声が掛かりました。
「そうなの。だから、お昼は素麺にしてみたのよ。お中元で頂戴した
素麺が今年も食べ切れないくらい届いたそうだから片付けも兼ねて…。
細かく刻んだ茗荷と生姜をたっぷり入れたら、美味しく食べられたわ」
最新家電の予約炊飯機能を試してみたくて、今朝早く炊き上がるよう
予約したのはいいんですが、台所の匂いを嗅いで気分を悪くしました。
お釜を寝かせ過ぎて水が悪くなったのかもしれませんね。早起きして
炊いた方が安心して食べられるかも。最新家電に飛びついて結局は損。
ちなみに弟君は居候の遠慮もあるでしょうが年齢の割に食べない印象。
お代わりしなさいと促しても元から大食いは無理な体質とのことです。
仔犬の頃、こっそり弟君に出してあげた玉葱抜きの親子丼も無理やり
平らげてくれてたみたいです。そんなに美味しくなかったでしょうし。
「美味いっスかねぇ…。自分は未だに葱や山葵とか薬味類が苦手っす」
弟君は細く切った薄焼き玉子と胡瓜をつゆ小鉢に入れ、薬味類は抜き。
自分の大好物と称して食べられる物が一つもないと嘆いてみせるのは
お気の毒でもあり、小母さんは痩せた身体を見ると羨ましい限りです。
「味付けの好みは人間にしても人それぞれで一概には言えないんだし
嫌いじゃない物を八分目程度に食べられたら十分よ。頑張って無理に
克服しようと思い悩む方がストレスになるだけ。好きに寛いでいてね」
不思議な双子について根掘り葉掘り知ろうと思わないことにしてます。
そのまま私は手をかけた引き戸を開けて廊下へ出ようとしたのですが
「一週間前、床板にワックスがけしてるんスよ。滑って転ばねぇよう
足の運び方には気をつけてくださーい。怖いんなら這ってでも大丈夫。
草食の四つ足でもねぇ限り、生まれて直ぐは歩けなくて当然なんだし」
笑顔を交えていましたが、普段と比べて真剣な口調なのが逆に不自然。
「さっきから私の身体を気遣ってくれて有難いけど、どうかしたの?」
もう少し痩せた方がいいと弟君から言われても笑って済ませられます。
「だから気遣った方がいい時期だと思うんで、早く診てもらってきて
くださいよ。診療科目は奥さんの心当たりあるトコで構いませんから」
どう返答したか憶えていません。私自身の頭にある螺子が辺りに全部
抜け落ちた状態になってしまいましたから。今朝の炊き立てのご飯の
匂いに咽たのも兆候だった気がします。その翌日、産科へ行きました。
身籠ったと知られた当日から小さな家に様々な家事を手伝ってくれる
ベテランの方が朝から晩まで配属されることになりました。普段なら
うちを訪ねてこない商家の大奥様も小まめに足を運んでくださいます。
喜ばれてる。期待されてる。お腹とは別の何処かに重たい何かが宿り
辛くなってきましたし、弟君も居心地悪そうに過ごしている様子です。
仔犬の姿の頃、庭に出て蝶々に飛び付こうと無邪気に遊んでいたのに
それも遠くへ過ぎ去って、庭樹の紅葉が見てて虚しくなるだけでした。
食卓では家族の会話を邪魔しない配慮で、お手伝いさんは食卓を離れ
庭の掃除など他の作業をしていました。夫婦と妻の遠縁という居候の
少年、計三名での食卓です。主な仕事は探偵事務所の留守番だという
兄者のところへ遊びに行こうかと誘った気もしましたが、やんわりと
断られました。兄者と弟君は根本的な部分に亀裂が生じた関係らしく
適度な距離を置いた方がちょうどいい兄弟と赤毛の名探偵さんからも
伝えられていました。弟君に兄者はいるけど、いない人扱いなのです。
夫も同様でしょうね。弟君の存在は認めても興味があるのは兄者だけ。
普段から挨拶なし。二人が親しく接する場面など見た憶えありません。
「あのぅ、返事したくなけりゃ無視で構いません。こっちの話っスが
村の山の方から番犬の仕事を再開してみねぇかって誘いの声が届いて。
ンで、こっちも新しい家族が増えりゃ大変だし、賑わうでしょうから
この辺で居候をやめて、山に帰ろうと思います。世話んなった御恩は
忘れずに何らかの形で必ず返させてもらいますんで。本当に今まで…」
朝食を済ませた弟君が頭を下げたままの姿勢で家を去ると伝えました。
ありがとう。そんな言葉は苦手な子です。喉が詰まって出なくなって
苦しくなるだけ。肩を震わせてしまうのも苦手な言葉が出せないから。
おしぼりの白い布巾を黙って差し出すだけでした。私も苦手な場面で
上手い言葉が声に出せませんから、弟君がどこを拭いても構いません。
おかしいとは思ってました。珍しく今日は花紺青のスカーフを結んだ
制服を着込んでいたので、食後に外出の誘いでもあるんじゃないかと
予想してたのが大きく外れてしまいました。この家を出て行くなんて
考えてもみません。これから先も弟君とは家族同様に暮らしていくと
思い込んでいました。話し込まなくたって分かり合えてる間柄ですし。
「えー、今月分のパズルは全部解いてくれたの? 解いてくれなきゃ
うちが給金出してでも残留させるよォ。ちゃんと答えの解説も教えて」
いつもは弟君を平然と無視できる夫が情けない声と表情を見せました。
夫が最近夢中になってる懸賞付きパズル雑誌で夫が解けないパズルを
弟君に押し付けていたことは居間の長椅子周辺の有様を見たら誰でも
答えられそうな気がします。弟君は夫より遥かに成績優秀な生徒だと
私でも気づきました。喋り方が周囲に与える印象なんて馬鹿らしいと
私は彼と関わって学習できました。夫は普段の喋り方から印象に懐く
頭の内容は等号で結ばれますが、弟君は会って話し合ったくらいじゃ
本当の良さを見抜けないで終わりかもしれません。時間をかけて同じ
空間で過ごし、初めて実感できる素晴らしさもあっていいと思います。
パズルに詳しくない私が見て分かったのは弟君が左利きだということ。
と言っても箸を持つのは右手でした。未だに違和感があるけど学校に
入学する前、他の子と大きく違う部分をなくしたいと望んだ両親から
矯正させられたそうです。筆を持つ手も叩かれて直されたそうですが
無理だったと見せた笑顔は重たく暗い雨雲と同じ。その夜は寝る前に
思い出して寝つけなくなったほど泣きたい気持ちを含んだ笑顔でした。
「あ、うちの食事が不味いんなら両親に頼んでシェフを常駐させるよ」
内緒話のポーズをしてから弟君に耳打ちするように小声で伝えた夫は
鹿尾菜入り納豆炒飯が口に合わなかったらしく三分の二は残してます。
「パズルなら今月分は全問終了させました。料理人なんて贅沢しちゃ
金が幾らあっても足りません。まずは好き嫌いを克服してくださーい」
大好物がないと嘆いてみせても大嫌いな食べ物もないのが弟君でした。
偶に洋食を出されてもナイフとフォークを正しく扱って食べるのです。
「問題の解説も鉛筆で薄く書いときました。読んだら消してください」
おしぼりをテーブルに置いた弟君は何事も無かったように水差しから
檸檬入りの薄荷水を注いで飲みました。朝のお茶代わりの飲み物です。
「弟君は兄者より気が利くねぇ。同じ屋根の下で暮らせて良かったよ」
夫は薄荷の味を受け付けないそうで飲みません。グラスに注いである
冷たい紅茶を安心した表情で飲み始めました。珈琲など飲めませんし
歯磨き粉に入ってる薄荷が受け付けず、朝晩ゲェゲェ騒いで磨きます。
ここでも夫は弟君の遥か下へと追い遣られたような流れで恥ずかしい。
「山で番犬のお仕事ねぇ。必要とされてるようなら頑張ってみるのも
自分のためになるんじゃないかしらね。私たちみたいな俗物夫婦には
窺い知ることができない苦労もあるでしょうけど、山の仕事に慣れて
また時間に余裕が出来た頃には、いつでも家へ遊びに来てちょうだい」
引き止め、慰留の声、そういった遣り取りは苦手ですから前を向いて
応援するしか出来ません。同じ状態は永遠に続かないと知ってますし
空の天気や季節が変わるように受け入れるべき変化だと考えています。
夫の残した炒飯を片付けることにしました。私たちを気遣った献立を
出してくださるお手伝いさんの気分まで落ち込ませたくないと考えて。
「あ、はい。奥さんは自分のことを最後まで普通に扱ってくださって
本当にありがとうございました。あの、ついで…いや、やめときます」
左手の甲で自分の口を覆った姿勢は言わないで済ませておこうという
弟君の決意を示してるような気がしました。余計な発言を残さないで
苦手な感謝の言葉を置いて出て行くつもりでしょう。それで十分です。
朝食後は身支度もせず、空にした食器だけ残して村の山へ帰った弟君。
毎回検診で体重増加させないよう指導されても残り物を片付ける癖が
抜けないまま臨月を迎えて出産したのは双子の女児でした。おそらく
弟君が口籠った言葉はお腹に二人いるという報告だったと思ってます。
何故って「ついで」と弟君が喋ったとき左手が「2」の形でしたから。
赤毛の名探偵さんその他も赤ん坊が苦手なのか我が家を訪ねなくなり
兄者の音沙汰も知れないままでした。夫も同人誌関係の友人と仲良く
文学論などで盛り上がってるようです。空模様や季節が変わるように
受け入れるべき変化なのでしょう。過去の時間には二度と戻れません。
それでも居間の長椅子は、再び弟君が座ってくれる時を待ち続けます。
寝て泣いて、変化の乏しかった二人の赤ん坊が次第に成長していって
お尻を床に預けて座れるようになりました。二人を見守る側は少しも
目が離せません。背凭れがなければ頭が重たいのかコテンと背中から
倒れ込んでしまうのですから。一歩一歩、徐々に徐々に日々の成長を
見守っていくしかないのでしょう。親が疲れたなんて愚痴を言うのは
まだまだ先に取っておかなければ乗り越えられないと考えていますし
もっともっと数え切れない我が子の変化を目にして心に留め置くのが
見守る側の務めでしょう。この程度で母親が泣き言を口にしたら負け。
姑となる大奥様やお手伝いさんという子育てのベテランさんが両親の
成長も見守ってくださってる状態ですし、何でも楽させて頂いてます。
そんな日曜の午前中でした。外の景色より家にいる我が子を見ないと
いけない頃です。いえ、まだ先は長いでしょう。息抜きしたいなんて
考える方が負けですよね…。桃色と黄色に区別したベビー服を着せた
二人は転がっても大丈夫なように工夫された床面の上で今もお座り中。
赤ちゃん用の椅子もいいですけど体幹を鍛えたいと考えて背凭れなし。
ご機嫌次第でハイハイの姿勢で居間中を這いまわることもありますし
何をするか分かりませんから目が離せません。泣かさないよう笑顔で
落ち着いて見守ります。下手でも私の童謡やお話も聴かせてあげます。
玄関の呼び鈴が鳴りましたが、お手伝いの佐々木さんが対応する手筈。
随分と楽させて頂いてます。アレやコレもの注意を向けるべき方向が
狭い範囲に限られてるのですから。普通の家庭なら慌てて出なきゃと
焦る場面を補助して頂いてるのです。もし来客だとしても夫関係なら
挨拶なしで真っ直ぐ夫の自室書斎へ向かう筈でした。赤ん坊に夢中な
同窓生さんは訪ねてきません。男親である夫も普段は書斎に引き籠り
気分が乗らないと遊び相手になってくれません。男親はそんなものと
割り切らなきゃいけませんね。仕事に出かけてるのだとしたら昼間は
赤ん坊と向き合うのは母親だけになりますし、余計な欲は捨てました。
…?!…
「きゃっ」という佐々木さんの小さな悲鳴が聞こえたと思ってすぐに
照れ隠しを含んだ笑い声。どんな方が訪ねていらしたか気になります。
私たち家族が暮らす小さな住居は玄関から近い場所に居間があるから
玄関での遣り取りは聞き耳を立てようと思えば殆ど聞き取れるのです。
遠慮無用で居間の引き戸が開けられます。オムツの交換中でも
容赦ありません。戸を開ける前に一言かけてほしいと思っても
はっきり気持ちを伝えられない側の怠惰が如実に現れてるだけ。
「若旦那様のお姉様がおいでになりました。お茶をご用意いたします」
そう言って台所の方へ姿を消しました。居間を通り抜けた先に食卓と
台所がある造りとなってます。開けっ放しの引き戸に姿を現したのは
幼い頃に商家の大旦那様の友人の家に養女として引き取られたという
商家の四女さま。妹の亡き五女さまとは一卵性の双生児だそうですが
引き取られたのは姉の四女さまだというのが私には不思議に思えて…。
玄関で対応した佐々木さんが小さな悲鳴と照れ隠しに笑った理由は
彼女を見れば一目瞭然なのです。おばけと勘違いしそうになるほど
容貌が似てますから。しかし、五女さまの近くで接してきた経験を
持つ私は明確な違いを挙げられます。見た目に惑わされることなく
纏ってる空気がベツモノすぎて、四女さまに初めて会ったとしても
不審に思ったでしょう。見えなくても肌が感じ取る明らかな違いで。
お互いを知らず遠く離れて暮らした所為か服装の好みも違うようです。
亡き五女さまが袖を通したのを見た憶えがない無地の撫子色の着物に
黒と金色の市松模様に花柄の入った帯を合わせた上品で控えめな装い。
道中着は玄関に入って直ぐの衣紋掛けを使用したのでしょう。居間は
常春みたいな暖かさに調整されてますが、窓から覗く庭には白い雪が
チラついてるとのこと。二重サッシなので内側の磨り硝子を閉じると
空の白と庭木が黒く映り込むだけ。草葉の緑と咲く花の色が抜けると
寂しげな陰影。うちの娘たちに着せた服が常春に咲く二色の花のよう。
上手く遣り取りできたか自信ありませんが差し障りなく挨拶を済ませ
伯母である四女さまは未だ嫁いでないとのことですが、お姉様と同じ
双生児である娘たちに精一杯の笑顔を向け、あやしてくださいました。
そうこうしている内に佐々木さんが長椅子の前にあるテーブルの上に
お客様用のお茶とお菓子を置いてくださいました。母屋で持て成され
若干お疲れでいらっしゃるよう窺える四女さまは長椅子の座り心地が
お気に召したのか弟君と同じ位置で背凭れに身を預けて放心してます。
「この長椅子、気持ちが休まりますね。愚痴っちゃいけない立場でも
母屋では幽霊でも現れたような周りからの視線に心が折れそうでした。
こちらを訪れて不思議と落ち着きましたよ。いいですね。温かくて…」
持ち手の部分が竹の手提げを脇に置いてる姿を可愛らしいと言うのは
失礼かもしれませんが亡くなった五女さまとは違う道筋を選び辿った
四女さまの人生が佇まいに現れて読み取れる気がしました。清浄な風。
娘たちで姪っ子である二人の様子を見守りながら、茶と菓子を戴いて
窓に映る衣更着の寒さなど嘘みたいに暖かく過ごすことが出来ました。
「あの、母屋の方でもお茶を何杯か戴いたものでして。お手洗いを…」
含羞んだ微笑みの申し出を受け、手洗いは廊下の突き当たりにあると
お姉様にお伝えしました。大人ですから後に付き従う方が失礼ですね。
着物での用足しに慣れた感じが羨ましいです。目を伏せて立ち上がり
引き戸を開けて廊下の奥へと向かったようでした。黄色いベビー服を
着た次女が羊のぬいぐるみに近づいていく様子を黙って見守りました。
左に曲がると夫の書斎へ続きますけど、突き当りの扉には小窓もあり
大抵の方なら一目で手洗いであるのは分かると思います。贅沢ですが
浄化槽に溜める形式の座って用を足す水洗のトイレを設置したのです。
水を流すためのタンクで使用後は手を洗うことができて便利ですよね。
しゃがんで用を足す和式便器は齢を重ねる毎に辛くなるみたいですし
異国の形式でも良いと思えるものは創意工夫を重ねて取り入れた方が
いずれ必ず高齢者となる私たちのためにも良いのではないでしょうか。
受け入れられるもの、気に入らないもの、あって当然だと思いますが
嫌悪や拒絶という否定を向けた後、困る破目に陥る自分を見つけたら
あのとき受け入れておけば良かったと自分を責めて苦しむ気がします。
常に柔軟な姿勢で生きた方が気楽に過ごせます。より良い未来のため。
…?!…
小さく鋭い悲鳴が耳に入ってきました。そして、扉を慌てて閉める音。
夫が鍵を閉めずに用を足してた可能性は大です…。どれだけ言っても
「忘れちゃったんだから扉の向こうの気配を察してよ」と開けた側が
気まずい思いをした上に責められるのです。理不尽としか思えません。
お姉様の細い指で居間に通じる引き戸が開けられました。戸が開くと
不可解な表情を浮かべたお姉様が立っています。どんな言葉をかけて
落ち着いてもらったらいいのか悩みました。かといって細々訊いたら
逆に傷を広げるだけの結果に終わりそうです。安静に過ごしてもらい
忘れてもらうのが一番でしょう。お姉様も長椅子に腰を下ろしました。
「あの…」
二人が同時に同じ言葉を発してました。後に続く言葉は質問でしょう。
「どうぞお姉様から仰ってください」言葉に出さず右手で示しました。
「坂…。あら、ごめんなさい。姉さんのご実家の弟さんか甥御さんが
こちらのご自宅まで遊びにいらしているのかしら? 母屋の方からは
何も聞かされていなかったので何も知らなくて、ご無礼してしまって」
…?!…
誰がトイレを使っていたのでしょう? 夫だったら弟と言う筈ですし。
…!!…
娘たちを伯母であるお姉様に任せた状態で引き戸を開けて自宅廊下の
突き当りまで駆けていました。トイレの扉の向こう側にいたと伝えた
誰かの返答が聞きたくて扉を何度も叩きました。お願い、返事をして!
意を決して扉を開けてみました。トイレに腰かける者なんて居ません。
私の弟や甥と思うような容貌の持ち主はトイレの中に居ませんでした。
使用後だとすれば水を流す筈ですが…水の音は聞こえませんでした…。
トイレの蓋を開けてみましたが何者かが使用した形跡も残ってません。
夫の書斎を訪ねて問い質してみましたがヘッドホンを使用して音楽を
鑑賞していたそうで何も知らないと言います。四女さまが見た男性は
一体誰だったというのでしょう。その場の思いつきで嘘を言う人とは
考えられません。五女さまと全く同じ血が流れた人でも育った環境が
違いますし、お姉様はトイレを使いたい状況で席を立ったのですから
馬鹿げた悪戯する前に…自分の用を済ませるのが普通ではないかと…。
虚しい心模様を抱えて居間まで戻り、お姉様にトイレが使用できると
お伝えしました。「トイレには誰もいませんでした」の言葉は控えて。
今でも居間の長椅子は、再び弟君が腰かけてくれる時を待っています。