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Penalty

◆Penalty. 桜庭潤



何が何だか話の終わらないうちに分裂(ぶんれつ)したと思う。

二組の名無しの級長と生徒は駆け出して姿を消した。

残された二人。モンクちゃんから「着替(きが)えろ」と指示。


悪ふざけも大概にしろと思ったのは間違いなく憶えてる。


名無しの級長が臙脂(えんじ)のジャージを見せたのは二回目だった。

故意に繰り返して俺を試した。以前の記憶が有るか無いか。

見事なくらい完全にリセットされた状態だった。視えない

何かに頭ん中を(いじく)(たお)された状態なんだから仕方ねぇだろ。


斎藤が間に入って取り成してくれて、手持ちのパーカーに

ウエストを紐で絞れるカーゴパンツを穿いて歩いたんだよ。


手打ち蕎麦の店に入って座敷で食事を済ませた後、不意に

モンクちゃんが「()()豆腐(どうふ)云々…」悲痛な声で嘆いて

その文句が俺の消された記憶を元通り修復した鍵となった。


俺たちの初回侵入時は、俺が体操用ジャージ上下を持って

半ば不貞腐(ふてくさ)れた気持ちでモンクちゃんの後ろに付き従って

トボトボって副詞を付けた状態で街を目指して歩いたんだ。

街外れの火の見櫓を過ぎた辺りだった。視界は下がり落ち

服が…上も下も靴も…全部ブカブカだ。歩いてらんねーよ!


「僕の忠告に従って百六十センチのジャージを着て歩けば

余計な荷物を持たず済んだ。サクは視野狭窄に陥ったのだ。

そう断言可能。島梟の影を追い求め縋り続けた抜け殻同様。

心身に新鮮な空気を詰め替えるべき。まずは服を着替えろ」

くるぅりと振り返った伊達眼鏡にマスクの男子は一組級長。

白いマスクから食み出た真っ赤な面皰。痛々しく膿んだ色。


名前を持たない名無しの一組級長が現れた。対する俺は潤。

姓は無い。一組の三人いる「じゅん」の一人である…潤…。


通りの途中に並ぶ一軒家の群れ。適当に選ぼうと思っても

清潔感が漂う接した路面を掃き清められた屋敷の呼び鈴を

鳴らしてる自分がいた。突然の侵入者も快く受け入れると

打算に近い願いを込めて鳴らすと即座に家の者が出てきた。


以前の世界じゃ現在より何でも老けて映る。眼鏡をかけた

ひっつめ髪の和装婦人も実年齢を聞いたら若くて驚くかも。

眼鏡も安売りの老眼鏡っぽく窺える。赤いプラフレームの

老眼鏡なら硬貨一枚でも購入できた筈。現世で生き残った

バケモノには老眼鏡を使う奴がいない。もし人間だったら

身体や頭脳に多様な老化が現れて当然だろうが、現世じゃ

上位の一名を除いて三十前後の外見を保ってる。医療費が

嵩まないって点だけは有難いと思ってるけど肝心の医師が

飲み会の後、どういう気紛れか知らねぇが自転車を漕いで

そのまま行方知れずになっちまったんだ。置手紙もなしに。


行き先の目星はついてる。しかし、死ねないバケモノでも

容易に踏み込めねぇ隔絶された真の異空間。下っ端連中は

羊の先生の旅の無事を祈るしかねぇ。再会できりゃ十分だ。


達筆な草書体の表札が読めなくて、何と呼んでいいか困る。

通りすがりのガキ共が何の気なしに小母さんって呼べない

威光を放っていた。舐めた態度を取らせないし、取ったら

お灸を据えられる程度じゃ済まない叱責を蒙る予感がした。

もう人間自体が残り少ねぇが、現世じゃ絶滅した類の婦人。

紺地の着物に同じ藍染で矢羽根柄の白糸の刺し子の入った

膝下丈の水屋前掛けを帯留めの少し下の辺りに結んでいた。

ガキに世間の厳しさを教える歩く向かい風みてぇな刀自に

恥ずかしいのを必死で我慢してる形相で下っ腹を押さえて

急な便意を訴え、厠を借りる事に成功した。第一段階突破。


…?!…


開け放した玄関に面した通りの向こう側から光速の一矢が

背中から心臓を貫いた。そんな妄想を抱かせる眼力の主が

電柱の陰に潜んで観察してやがる。某投手の姉ちゃんかよ?


以前は現世みたいに親しい間柄じゃなかったのを思い出す。


俺が人生最大級の不始末を仕出かしたらクラスの全員から

無視され続けた。葬儀の後まで…。担任も表立って味方に

なってくれず、授業を受けられるだけマシだと耐え忍んだ。

怪我や病気、忌引以外で学校を休んだら学校からの手当が

減額される決まりがあった。入学時の説明会で父兄方には

知らされていたらしい。皆勤だと賞与がつく不思議な学校。

生活のため、登校拒否なんて親不孝な選択は出来なかった。


何故か仲間に入れてくれた三組の大魔王閣下と外道兵たち。


英雄扱いされるのは迷惑だったけど教室より遥かに気楽で

休み時間と放課後は校庭の隅で雑談の輪に入って過ごした。

いつもの場所に集まった仲間から頼まれると無伴奏独唱で

好きな曲を歌ったっけ…。今じゃ古いって思われる流行歌。

いつも制服に帽子を被ってる控えめな双子の兄が俺の歌で

涙を流して感動したと騒いだから大袈裟だと笑って濁した。


悪くない時間だったと振り返られる。胸を吹き抜けた陣風。

しがみ付いてちゃ見っとも無い。二度と出逢えない昔話だ。


心の空を見上げて以前の俺を冷淡に扱った名無しの級長を

きれいさっぱり忘れ去ろう。現世じゃ俺のモンクちゃんだ。

方向音痴で偶に箍の外れたドカ食いするのが玉に瑕な義兄。

空模様が変わるように全員の心模様も見事に変わり果てた。

良い方向から吹く風を背に受け、最後まで笑って過ごそう。


血肉に囚われた姿も別れの瞬間が来るのは分かり切った事。


「通りすがりの者が快く御手洗を使わせて頂く僥倖を得て

感謝の念に堪えません。早速ですが、お邪魔いたします!」

屋敷の留守を預かる刀自の耳で採点すりゃ合格点は無理な

言葉遣いだろうが今回は緊急事態って事で許してもらおう。

厠に駆け込みたいのを我慢して、行儀よく振舞ってる設定。


あ、いっけねぇ。家の者から許可の言葉なしに上がれない。


「玄関で長々と喋ってないで、どうぞ早くお上がりなさい」

そう言って刀自は上り框に来客用のスリッパを揃えたんで

「あ、ハイ、すみませんでした。それでは失礼いたします」

焦り気味に上がってスリッパを履くが刀自に背中を向けず

脱いだ靴の先を引き戸へ向けて揃え、下駄箱の方に寄せた。

もちろん全然焦る腹具合じゃないけど焦りつつも不調法な

真似は出来ないと頑張る村の学校の副級長を演じてみせる。


「うちの御不浄は遠くて不便なのよ。途中まで案内するわ」

腹を押さえて俯きながら屋内に目を向けず足元を見て歩く。

「この廊下の突き当たりが御不浄の扉なの。大丈夫よね?」

縁側のある廊下の突き当たりが厠らしい。今時の家屋じゃ

滅多にない構造だと思う。大概の住居は玄関の近くが多い。

厠に近づいて物音に聞き耳を立てる真似はしないと言葉を

使わず自然な形で示すのが古き良き時代の淑女だ。頷いて

長い廊下をよたよたと副詞を付けながら歩いてみせて到着。


「そこに電球のスイッチがあるでしょ。点けてから入って」


刀自の声に従って木戸の脇に設置された黒い電源を入れた。

今時の住居のトイレみたく磨り硝子の小窓もついてねぇ扉。

閉じた木戸の隙間からオレンジの電球色が僅かに漏れてる。

廊下の向こうに立つ刀自に会釈して開けた木戸の中へ侵入。


狭い和式だ。ここで着替えは無理だな。厠の木戸の構造と

床のタイルが古めかしくて落ち着かない。ガキなら夜中の

小便は、おばけ屋敷の探検以上の勇気が必要だ。寝る前は

水分補給を控えて当然だよ。窓も小さく電気を点けなきゃ

薄暗くて困る。木戸を開けてすぐに男性用小便器があって

洋式トイレに慣れた目には新鮮に映った。小さく薄汚れた

ピンク色と新しい黄色い芳香ボールが小便器に転がってる。

白地の砂壁には暦と網に入った吊り下げ型の芳香剤が鋲で

留められてる。暦は酒屋の店名入り、妙齢の女性モデルが

露出度の高い衣装で媚びた微笑を見せてる。刀自の洒落か?


酒屋の暦に刀自の何らかの意図が隠されてる気がしてきた。


暦は卯月と皐月と水無月が横並びしてる珍しい三か月綴り。

縦に並んだ三か月綴りの暦は予定を確認するのに便利だが

コレは字が小さいし、曜日と祝日以外の暦注が載ってない。

日めくり暦だったら日付が分かるけど厠向きじゃねぇよな。

今朝の新聞を見せてもらえば確実だが、図々しい気もする。


水が上から下に自然な流れを作るような脚本を頭に書こう。

演じると大根でも良い脚本家として認められる先生もいる。

面と体格が駄目なチビだと知ってるし、表より裏を選ぼう。


光を浴びて輝く側と日陰の縁の下を支える側が必要なんだ。


厠は住居に必要不可欠な設備でも自慢なんて憚られる個室。

俺の立ち位置に相応しい。ひっそりとした拠り所になろう。

清閑な聖域。神様とは違う凡俗な俺が最終的に目指す位置。

しかし、今は厠みてぇな存在になれりゃ上等だ。必要時に

恩着せがましくならねえ程度に重宝されりゃ俺は満足だよ。


プラスチック製の蓋をした和式便器は汲み取り式だろうな。


大きい用を足す目的で入ったけど証拠品を残すのは御免だ。

清掃を欠かさなくても毎日確実に汚れと臭いが蓄積するし

荷物を背負ったままで小用を済ませ、小窓の隙間を覗いて

次の一手を考える。どこまで見っとも無く生き恥を晒すか

自分との闘争だ。勝っても負けても、心に空しい風が吹く。


庭に植えられてる金木犀が天然の芳香剤となって吹き込み

厠内の空気を洗い清めてる。しかし、小さなオレンジ色の

花を咲かせる時期は…確か秋だった筈…。春でも初夏でも

なくて、秋が正解かもな。俺には異境の時を断定できねぇ。


俺たちの心に居残る過去の幻影群に正確な時間は必要ない。


トイレットペーパーじゃなくて網籠に入った灰色の塵紙が

置かれてるだけで時代の変遷を感じる。現世でも貴重な紙。

近隣から掻き集めて、塞の女子たちに使用させてるものの

生み出し、作り出した者たちの有難みをひしひしと感じる。

生産、流通、消費、人間の社会を支える重要な三本の柱が

消えると途端に日常生活が成り立たなくなる。引き籠って

社会に参加してねぇようでも実は立派な「消費者」なんだ。

自分は何もしてないと嘆く必要ねぇって話。今は雌伏して

いつか雄飛する日が来ると信じて待ってりゃいいと思うよ。

兎に角、自分を責めたり虐めたりするのが一番無駄だから

物凄く辛い時は薬の力を借りて、眠って過ごした方がマシ。


俺も向きを変えりゃ屑と呼ばれる類、偉そうに語れません。


中を見ないように蓋の開け閉めする音だけ立ててみたケド

それだけで他家の秘めたニオイを嗅ぐ破目に…。天井から

ハエ取りリボンが吊るされてないだけ上等だと思い込もう。


生き恥を重ねた口上を並べて、風呂場の脱衣所を借りよう。


木戸の鍵となる二本の横棒を左にスライドさせて押したら

扉が開く。戸の内側しか施錠不可能な仕掛けがいいと思う。

わざわざノックしなくてもよく見りゃ厠の使用中と分かる。

急用なら木戸越しに会話すりゃいい。和装の刀自が忙しく

厠に近づく姿を想像する事もできねぇ。その時は一大事だ。


真っ直ぐな長い廊下に誰の姿もなかった。そういや昼食時。


勝手場を使ってるとこを邪魔したのかもしれねぇ。飯時に

迷惑極まりねぇ食欲失くす用件で訪ねてきたガキが俺かよ。

殆どの部屋は襖で仕切られて、他人が気安く覗くのは無理。

初めて屋敷に上げた素性の知れないガキを放っとく筈ない。

そう思っても刺々しくない緩やかな気配も漂わせてたっけ。

出るにしても一言挨拶しねぇと失礼だな。勝手場を探そう。



…?!…



玄関から近い部屋の襖が開け放たれていた。声が聞こえる。


「これほど美味い玉子焼きに有り付けるとは思わなかった。

僕の母親には真似は不可能。既に故人なのだが煮物以外の

料理は全般的に不得手としていたし、実家へ帰った際には

近所にある商店の御惣菜が我が家に於ける母親の味だった。

父親からは鉄のフライパンが重たくて使えない令嬢育ちと

聞かされた。板場の料理人に男性が多い事実を考慮したら

仕様がないと許す気にもなる。そう子供たちを慰めたのだ。

その御蔭か大根おろしを載せた玉子焼きも心打たれる逸品」

聞いてる方が赤面するような発言を初対面の刀自に長々と。


言葉遣いを直した方がいいんじゃねぇかな。生意気すぎる。


モンクちゃんの母親が料理音痴というのは初耳だったケド

現世じゃ一年生の夏期休暇の数日間、花田家に招待されて

宿泊して食事も御馳走になった。忘れられないメニューが

俺にはカレーじゃなくて「南瓜ライス」になる。家族全員

風変わりな食い方に慣らされてるっつーかタッツン並みに

南瓜の煮付が受け付けなくなる状況を辛うじて免れたっけ。


きっと花田家の母の一番の自慢料理を披露したに違いない。


俺には衝撃的なオレンジ色の汁かけ飯が喜ばれると信じて

花田家の朝食に出したんだ。朝に糖質を摂って頭と身体に

十分なエネルギーを蓄えて昼まで頑張れっていう母心かも。

管財会社は頭と身体をよく動かさなきゃ大変な仕事だから

社員に指示を与えて、社長自ら仕事現場の清掃業務に励む。

スーパーの惣菜でもパックから出して皿に盛り付けるのは

手抜きじゃないと言い切ってやる。うちの奥…以下自粛…。


桜庭潤は花田家から最高の持て成しを受けた。これでよし。


スリッパの足音を響かせながら近づいた。開け放した襖の向こうは

この屋敷の居間で食卓も兼ねているようだ。陽当たりが良くて広い。

中央に四角い座卓が置かれてあって、モンクちゃんが背を向けてる。

客人だから下座に着くのが当然か。呼び鈴も鳴らさず、いつの間に

入り込んだか謎だが、俺より先に屋敷の住人と打ち解けて昼食まで

出してもらってる。調理された野菜の色が目に優しく映る。求めて

止まない新鮮な葉物野菜、塞の生き残り女子たちに持って帰りたい。


俺の気配に気づいてないモンクちゃんじゃなくても素知らぬ様子で

玉子焼きに舌鼓を打ってみせてる。バケモノ憑きで死ねない自分を

受け入れて、日没前の現世になってから徐々に人懐こくなった義兄。

どうでもいい雑談で周囲に馴染もうとする努力。潔癖症を抑制して

他人の座敷に上がり込んで柔和な笑顔を作ってみせてる。合格点だ。

己の欠点を克服しながら、誰からも愛される存在になろうと奮闘中。


刀自と目が合っても上手い言葉が喉から出てこない。深く会釈した。

食事中に厠関連の話は御法度。もじもじと気恥ずかしい副詞の出番。


俺の言い出し難い素振りを読み取った刀自が静かに廊下へ出てきた。

こっちが縮んだのもあるが並ぶと同じくらいの身の丈。耳打ちして

着替え場所を貸してもらえるか頼んでみた。どうか察してください。

要は着替えなきゃ外に出られません。言葉に出さず気持ちを伝えた。

「汚れてるなら風呂で洗った方が…」恥ずかしそうに首を横に振り

突き当りに洗濯機の置かれた洗面所のある廊下に案内してもらった。

「ここが浴室、もし風呂を使いたいなら沸かすから外で待ってるわ」

半分開かれた硝子戸の内側には菫色のカーテンが下りてる。湿気が

気になるけど黴ないよう窓を開けてマメに換気してるんだと思った。

古い住居を工夫して、より居心地良くしようと努力してんだろうな。


幻影かもしれない。けれど、以前の世界でも街で暮らす人々はいた。

様々な背景を抱えながらも懸命に生きてる市井の人々を観察できて

感謝しなきゃいけないと思う。最後まで希望を捨てずに道を繋ごう。


カーテンを押さえて脱衣所に入った。薄暗い午後の色相が落ち着く。

十代のガキが薄いカーテン1枚の向こうで脱ぐのは恥ずかしい。

正体は百歳を越えたバケモノでも脱衣所の硝子戸を閉めた。


チビな身体も懐かしいが、過ぎ去った器という感慨もある。

臙脂のジャージを入れた袋には白い靴下も同梱してあった。

ついでに真っ白な男児用下着も…。義兄だったら穿くのか?

他人の下着に興味ねぇが悪戯好きの不審者も穿かない筈だ。

おそらく揶揄った標的の反応を想像して薄っすらと笑みを

浮かべるんだろう。鬱屈した名無しの級長の憂さ晴らしだ。


捻じ曲がった根性は生後間もなく患った持病の所為と俺も

学校の殆ど全員も迷惑行動に我慢した。同じ名無しである

親友の二組級長も一組級長には決して強硬な態度を示さず

常に穏やかな物腰で親友の深く傷ついた心を和ませようと

夕暮れ時には屋上で得意なギターの独奏会を開いてたっけ。


遠い昔の俺が可愛がってた九歳女児が成人男子の姿となり

再会した日を思い出す。全て諦めきって表情の硬い男子は

舌に触れると仄かに甘い茶を出したんだ。俺の実の息子と

融合してると知らされたのは遅れて訪ねた羊の先生から…。

性別も男子の様で違う「どちらともいえない」状態だった。

黄色い爺犬の独善でバケモノとなって現れた当初は妙齢の

女性の姿だったと聞かされている。だが、女性特有の体調

管理が煩わしくて、男でも女でもない身体に変えたらしい。

無邪気に笑って飯事遊びしてた元女児は思春期と呼ばれる

成長過程を省略されたまま大人としての責任を背負わされ

指示された職務に従事していた。どういう生活してたのか

気安く尋ねられる雰囲気でもなくて、当時は一番下っ端の

檻に入れられた見世物だった大きな熊猫に憑かれた異形は

序列上位の者の世話を焼くために生み出されたそうだから

与えられた任務に従事するしかなかった。親子関係の破綻。

馴れ馴れしく近づく訳にいかなくなった寂しさを目の前の

心身ともに弱り果てた目上の先輩を世話して埋め合わせた。

そんな時期もあったっけ。同級生になっても同様だった奴。


…?!…


脱衣所の鏡を覗いた向こうにリンバラ、二組の林原晃司に

よく似た落ち着かねぇ表情のチビが立ってんのに気づいて

情けない気持ちになった。昔は背丈が百六十センチもない

チビでも特に不満なく気丈に生きてたんだ。負けて堪るか。


『睨まれたら相手が目を逸らすまで睨み返せ!』


目には目を…。親父から言われた訳じゃなく自分で決めた

報復律。向こうが喧嘩売るなら喜び勇んで買い叩く覚悟で

他の奴等が手出しする気になれねぇ気の強さを見せつけた。


今は和やかを通り越した気弱さに満ちた眼差しだ。現世は

体格には恵まれてたから余裕を見せても問題なかったケド

この姿に不満なく過ごすのは難しいな。背中を丸めてりゃ

知らねぇ奴等から舐められるだけ。堂々としてみせないと。


現世での居心地の良さに浸り切ってたんで、以前の自分を

受け入れ難くなってる事に気づけたんだ。鏡に感謝しよう。

学校時代のリンバラにも感謝しとく。奴との縁は切れたし

別の平和な世界で元気に暮らしてると思い込むのが供養だ。


しばらくの時間、三人で明日の視えねぇ放浪生活したのは

良かったと言っていいのか真相は分からない。林原紅司が

永眠したという事実が残されたきり…。最期を看取ったり

埋葬に立ち会った訳じゃない。「時間が来た」と向こうが

当てのない暮らしを止めたい感じで喋ったから別れたんだ。


失せモノ探しで知られた霊感探偵と別れて間もなくだった。

この地上が空爆と蹂躙の憂き目に遭って、現世で生まれた

一人息子の家族や親類縁者一同全滅。死ねないバケモノの

血を引く者と関係者の根絶やし作戦だと思った。死ねない

バケモノ連中だけ牢獄みてぇな最悪の異空間へ送り込んで

封印すりゃいいのに牢獄世界の支配者は半端な事しやがる。


普通の暮らしする市井の人々を犠牲にした理由を知りたい。


「風呂の必要ないです。お気を遣わせ、失礼いたしました」

硝子戸の向こうに一声かける。座卓に着いた義兄は昼食を

出してもらってるし、礼の言葉だけじゃ足りない恩義だな。

「先に友達の子に出しちゃったけど、貴方も食べてってね。

たいしたおかずじゃないから遠慮なく、ごゆっくりどうぞ」

通行人にしか過ぎない十代半ばの生意気なガキ共に世話を

焼いてくれる親切な市井の刀自もいる。俺が求めた憧憬が

形となって現れたんだろうか?…ここは街と村の亡霊だ…。

眠ってるとき見る夢に近い心の奥底に潜むモノが現れる筈。


結局、半ば自棄になって下着から全部渡された品に着替え

鏡に映る情けなくて気弱な表情と縁を切って脱衣所を出た。


臙脂のジャージは三十年ほど前の体育の時間の小学生みてぇな格好。

殆ど他人事だけど塞に戻る頃には懐かしいと思う自分がいるかもな。

移動を教えるように履物の音を軽く立てながら屋敷の居間へ戻った。


「根曲り竹の味噌汁には若布が最も合う。具材は二種類だけで結構、

これに油揚げが入ると途端に邪魔だと感じるから不思議に思います。

油揚げ自体は大好物です。醤油を全体に塗してカリッと焼いたのが」

他家の飯を食いながら機嫌良く喋り続ける義兄モンクちゃんがいた。

玉子焼きの次は味噌汁について語ってる。学校時代の基本は拒食で

昼食を茹で卵で済ませたり病的な印象だったが、偶に発症させてた

『ドカ食いしたくて困っちゃう症候群』に苛まされたモンクちゃん。

寄宿舎の調理場でおから団子とか自作してたっけ。ヘルシーっぽい

和菓子を食ってた。たぶん体重を考えてたんだと思う。その理由は

俺が答えられる。何故なのか桜庭潤と花田聖史と斎藤和眞の三人は

身長と体重を測ると同じ数値を指したから。要はイヤだったんだな。

俺はオヤツに袋ラーメンをよく食ってた。学校時代は義兄と一緒に

軟式庭球倶楽部の部員として活動した。三人それぞれ、食の好みも

日頃の活動内容も違うのに揃って同じ身長と体重なのが面白かった。


頭の中は浮遊してても身体はスリッパを脱いで義兄の右隣に着いた。

刀自が苦笑交じりの表情で座布団を勧めたんで、頭を下げて敷いた。


座卓の上には玉子焼きの他に白菜と法蓮草のお浸し、大皿に載った

黄色い沢庵、手綱に結んだ蒟蒻と蓮根の油炒めが載せられてあった。

慢性的野菜不足となった塞の現状を考えると贅の極みと言っていい。

刀自が白飯と根曲り竹と若布の味噌汁を出してくれた。小豆色した

塗り箸が箸立てに何本も詰められてる。この屋敷は普段から来客が

多いのかもしれない。この通りを抜けると商店街だし通行量も多い。

俺みてぇな道中の厠に困って借りる手合に慣れてるんだよ、きっと。

「さっきも言ったけど遠慮しないで召し上がれ。十代の男の子には

箸を伸ばしたいおかずが少ないかしらね。うちは亭主が出稼ぎだし

息子も自活しちゃってて、小母さん一人きりだと質素な食卓なのよ」

ご丁寧に箸立てから箸を一膳取って渡してくれた。会釈で受け取る。

さっきモンクちゃんが「既に故人なのだが」と自分の母親について

語ったから家庭の内情を俺たちにも聞かせる気になったんだろうな。


当時の出稼ぎ場所といえば街より南にある盛り場と呼ばれる港町だ。

貨物船に荷物を積み下ろしする人夫や船員たちが利用する異国風の

酒場や下宿屋といった施設の従業員として頑張って働いて、実家に

仕送りする労働者たちが多くいたんだよ。卒業後、某探偵事務所で

調査員として仕事するようになってから度々訪ねなきゃいけなくて

胡散臭い稼業の連中とも関わる破目になったっけ…。大人の裏側を

観察するにはいい場所なのかもしれない。真面目な人も金のために

歯を食いしばって涙を隠して笑顔で働いてる。そんな盛り場だった。


刀自の亭主に息子さんは家庭と将来のため、本日も働いてんだろう。


「通り掛かりの迷惑かけに来たガキなのにすみません。折角だから

遠慮なく戴きます。小袋入り鰹節はお浸しに使うんですね。使おう」

慢性的に野菜不足となった終末世の俺は若菜色した白菜のお浸しを

食いたかった。小皿に取り分けて鰹節と醤油をかけて口に運ぶ白菜。

瑞々しい。メシのおかずには不十分でも俺には最高の滋養となる味。

学校時代はガキだったのもあるけど野菜を粗末に扱い過ぎたと猛省。

肉と炒めたのも野菜が邪魔だと思いながら食った覚えがあるもんな。

湯気を立てる白いメシより、お浸しをしみじみ味わう老叟になった。

幸いな事に俺たちが百歳を超える異形とバレてない。玉子焼きにも

箸を伸ばし白飯と味噌汁を口にした。皆に味わわせたい贅沢な食事。

やっぱり箸を伸ばしたくなるのがお浸しになる。パックの鰹節さえ

風味豊かで手抜きな品とは思えねぇよ。他の家族がいない状態だし

削り器を使うのも手間だよな。今は留守を預かるのが一番の仕事だ。

楽できる事は楽に済ませ、好きなだけ羽を伸ばしたらいいと思うよ。


俺が形ばかり養ってきた妻子は美味いもん買い食いするのが趣味で

有名なベーカリーの材料から何から拘り抜いたパンを焼き上がりの

時間を並んで待って持ち帰ってた。本人たちが満足なら構わねぇが

飲食を味わう余裕なしで休みなく働いてる父親について考えた事は

一度もなさそうだったし、お気楽な身分だとしか思えませんでした。


大黒柱の責任か…金が無いと嘆かせないよう頑張っただけなのに…。


「サクもお浸しに夢中か。いよいよ僕らは畑仕事を頑張らないとと

闘志を燃やしてるところ。葉物野菜は欠かせない。初心者向けのを

調べて、チャレンジしないといけない。譫言探偵の児童保護施設で

畑を開墾するところから始めて、テレビや雑誌で紹介されるまでの

生産農場を作った男がいたのだが、その頃は師事する余裕なかった」

刀自が奥の勝手場まで向かった合間に話しかけてきたモンクちゃん。

何事にも嘆く暇がないくらい懸命に働き続けたんだよな。羨ましい。

「そうだ。御蔭で嘆かずに過ごせた。僕の選択は正しい道を辿れた。

手を動かしていないと悲嘆に暮れて、馬鹿げた考えに囚われるから

村の学校を再始動させたり、かつての弟の施設職員となって働いた。

それもこれも自分について振り返る余裕を持たないためだ。一時期

遠い昔話をサクのタブレットを借りて記述するのに夢中だったけど

それも己の心を絶望から守るために講じた僕自身の戦略だったのだ。

当時は牢獄世界を破壊しようと企んでいたのだから頭の熱を冷ます

必要があった。現在は僕の新たな夢を叶えたい。そのため活動する」

村にあった焼きそばと大判焼きの店舗を再建するのが『僕の夢』か。


死んで名前も過去も全て消し去りたいと望むより遥かにマシな夢だ。


死ねない以上、前向きに生きる道を探して進もう。順番が来るまで

俺も地味に掃除屋の手伝いでもして過ごしてぇけど…どうなるか…。

「そんな思いに囚われたら地面に縛り付けられる。今は味わうべき」

そう言って蒟蒻と蓮根の油炒めを口に入れた。本当よく口を動かす。

きんぴらといえば後に続く言葉は牛蒡の方が一般的な気もするけど

蓮根も負けず劣らず美味い。寄宿舎の寮母さんもよく作ってくれた。

袋ラーメンを常食してた自分に腹が立つ。外食や買い食いは駄目だ。

まあ、今の状況に陥ったから至った心境でもある。当時は自作して

食う俺は偉いと勘違いしてました。具材も入れりゃ完全栄養食だと

思い込んでた自分が恥ずかしい。こいつも辛さ控えめでメシに合う。

野菜の旨味を舌で感じ取れるようになるのが成長の印かもしれない。

珈琲も低学年の頃は牛乳と砂糖を大量に入れなきゃ無理だったのに

八年生に進級した頃にはブラックで平気になってた。不思議に思う。

「僕は喫茶店の仕事で出していながら珈琲に強く興味を引かれない。

しかし、大嫌いで口に出来なかった食材は相当な数を克服してきた。

学校に入学する前は赤い食材全般が食べられなかった。例を示すと

赤茄子や鮪の刺身、もちろん苺も食べられなかった。魚卵など最悪。

台所で焼いてない牛肉を見て悲鳴を上げたそうだし、僕は赤い色に

恐怖を懐いていた節があるように思える。未だに克服不可能なのが

赤紫蘇を巻いた梅干しだ。弁当や握り飯によく使われる丸いものは

好物じゃないが食べられるから十分だろう。青じそは大丈夫なのに

赤紫蘇だと無理だ。茄子に赤紫蘇を巻いて焼くと箸を付けられない」

学校の食堂がバイキング形式で得してたのが現世の一組級長らしい。

「現世の僕は嫌いなモノを好きになる道を辿ってるのだと感じてる。

梅や桃なんて食べ物の香りであると認識できなかったが今は平気だ。

嫌いだった相手とも関わっている。焦らず気長に構えるのが正しい」


生姜焼きの匂いが居間に漂ってきた。突然の侵入者にしか過ぎない

ガキ共に気ィ遣う必要ないのに、俺たちが十代男子に見える所為で

肉を食わせてやろうと思ったんだろうな。間違いなく良い母親だよ。


「これも僕らの日頃の良き行いの報いの一つ。正しき道を辿ってる」

この義兄の側にいる限りは聞かない事のない台詞を口にしてくれた。

本当よく喋るし食べてる。塞の保護者で一番口を動かす者になった。

「サクが僕の代わりに無口となったのだ。心の声は以前と変わらず

多様な言葉を聴かせるのに喉から発した声は滅多に聞かなくなった」

「ああ、そっちの耳の良さに頼り切ってた。喉を使わなくて楽だし」

「歌う気もないクセに…。今は親切に甘えて、口を動かすとしよう」

茶碗を空にしなくても満腹になりそう。お浸しと金平で満足してる。

これに生姜焼きの皿を持ってきたら、お代わりを頼まなきゃ失礼か。

お世辞抜きで数十年ぶりに美味い昼飯を堪能してる。二組の二人も

一緒に歩いてりゃ良かったな。二人だけじゃ勿体ねぇ御馳走だもん。

商店街にある定食屋より遥かに上等なメシに有り付けたのは幸運だ。


葉物野菜の味に飢えていた。我が身を持って現実を知る事が出来た。


居間と勝手場の仕切りとなる硝子扉が開けられ、美味そうな匂いの

生姜焼きが皿に盛りつけられてきた。モンクちゃんが俺の代わりに

喜びの気持ちを言葉で伝えて、俺も同調するよう刀自に頭を下げた。


学校時代と逆転しちまった一組の二人。チビになって鏡の向こうに

林原晃司を見つけた事も結構ダメージがキツかった。二組級長から

晃ちゃんって愛称で呼ばれてた落ち着かねぇ目付きの小柄な男子は

以前の俺だったのかもな。周囲から見下され嘲笑われたピン芸人は

かつての父親への奴なりの復讐行為。それで気が済んだら許すケド。

『赤毛氏はいらなーい』親友の放った言葉の矢は奴の胸を貫いた筈。

謝り足りないのは俺だし、たいした会話もなく旅して歩いた仲間を

生きてる限り忘れない。素晴らしく見違えた林原紅司との思い出を。


そぅっと空にした茶碗を出したら笑顔で受け取った刀自、勝手場に

姿を消して十五秒も経たないうちに銀舎利大盛りの丼を持ってきた。

これ以上は身長が伸びなかったが、慈母の願いとして受け入れよう。

豚の生姜焼きも口に入れたら反射的にメシを掻き込みたくなる味で

メシも程無く平らげた。チビの頃から継続中の大喰らい。とはいえ

これ以上は食いたくない。箸を置き「御馳走様」と締めの挨拶した。

隣りのモンクちゃんは、お浸しと蒟蒻と蓮根を炒めた皿を空にした。

厠で排泄物を出して、食卓で胃袋を満たした図々しい小僧と連れも

いつまでも長居する訳にはいかねぇもんな。柱時計は午後一時半か。


「気持ち良いくらい食べてくれて、小母さん嬉しかったわ。最後に

お茶を一杯ご馳走になっていきなさいな。それが食後のエチケット」

刀自は俺たちの食う様を眺めるだけで自分の茶碗に飯も盛ってない。

ガキ共の昼食の世話をして腹が膨れた訳ねぇのに軽く立ち上がって

勝手場に姿を消した。空にした茶碗や皿を持ってくのが寄宿舎での

常識だったけど、ここは初めて入った苗字も知らねぇ他人の屋敷だ。

この屋敷の刀自の城塞と同等の勝手場に入り込むのは気が進まない。


「サク、彼是と悩むな。食後の僕らに熱い茶を進ぜるとは婦女の鑑。

美味しく戴いて先を急ぐとしよう。二組の馬鹿二人を見つけたなら

帰りに四人で夕食を御馳走になれば良し。馬鹿二人も絶対に喜ぶ筈」

ヤッチ君と斎藤を見つけるのが厄介だな。待ち合わせ場所といえば

乗ってきた車を停めた空き地の筈。それぞれ持ってきた携帯端末の

電波も不安定と聞かされたから通話は期待できねえ。街で隠れん坊、

鬼が不利だよ。あいつらの目的と行き先を聞いてなきゃ予測不可能。

「僕は最初の空き地で最初の話し合いを綿密に行うべきと思ったが

谷地の大声で僕らが揃って攪乱された。小鼠が何を考えて別れたか

そこに鍵が隠されていると予想可能。サク、小魚泥棒の考えを読め」

遠くを臨む眼差しで居間の閉まった窓を見る義兄。硝子の向こうに

映るのは季節の植物だろう。そう思っても肝心の月日が分からない。

亭主が出稼ぎじゃ新聞は購読してないと思える。無駄な出費だもん。


「今日は何月何日ですか?」普通に生きてりゃ知ってて当然だから

聞くに聞けない。知能に問題を抱えてると思われそうで俺には無理。


厠の小窓から金木犀の香りを感じてもオレンジ色の小花を見てない。

屋敷の庭に金木犀の樹があって、その花が群れ咲いてるのだろうか?

厠の小窓から金木犀の樹を見てない以上は「ある」と断定できない。

厠に漂ってきた金木犀の香りは隣りの家からだったのかもしれない。

生垣みたく整えてる家もあるらしいし、あの香りは人工的じゃない。

金木犀の香りは周辺に季節の彩りを分け与える花の精霊の恩寵だな。

雄株しかない金木犀の精霊は、オレンジ色の花冠を被った童子の姿。


厠の壁に貼られた暦は春だったが、金木犀の告げる季節は秋だった。

で、この異空間に於ける本日は何月何日なんだ?…結局そこに至る。


「少女のような夢想を描写してるところに口を挟むのは忍びないが

現在は精霊や日付より小魚泥棒の動向を知りたい。読めないのか?」

茶碗に小皿を重ねて置いてるモンクちゃんに左眼一つで睨まれた俺。

立派な漆器の汁椀は分けて置いてる。寄宿舎じゃプラスチック製の

安い汁椀だったから、扱い方を誤らないよう気を遣ってるのかもな。

俺も級長の真似して皿と丼鉢を重ねてみた。合格点をもらう自信は

微塵もないけど、俺たちが美味いと平らげた様子を見て喜んでたし

躾の成ってねぇガキ共の不調法には目を瞑ってもらえりゃ有難いが。

「上官命令だ。首を刎ね飛ばしはしないが、速やかに遂行してくれ」


座卓で皿を並べて重ねてる俺を見た上官殿の冷やかな声と軽い脅し。


「俺は真昼の陽射しの下で並んでたヤッチ君の影が少し気になった。

俺の目には斎藤と同じように映った。目の前の皿と茶碗と同じく…」

「重なってると言いたい訳か。小鼠の行き先は、この僕が予測可能。

彼を案内に利用して、街の浅井家の御堂に入ろうという魂胆だろう」

彼当人は外に出て首を上に向けりゃ自動的に名前が現れる仕組みだ。

「ゆっくり話すのは外に出てからにしとこう。食後の茶を美味しく

頂戴するのが客側のマナーみてぇだし。モンクちゃんが魔法瓶から

紅茶を注がないのもマナーだと知ってたんだろう。流石は一組級長」

上官殿を持ち上げる発言も追加。水分を摂りながらじゃねぇと食事

できねぇ者もいるそうだが、実は消化に良くないって何かで見たよ。


喉に餅や海苔が貼り付いた等の緊急事態なら早急に処置すべきだが。


引き戸が開いて湯呑みに入った二杯の茶が運ばれてきた。来客用の

茶托と蓋のない縦に長い湯呑みは普段使いと思われる。手を抜いて

気安く接してもらえてるんだと逆に感謝したくなる。学校時代じゃ

冬場は雪片付けした後に食堂で熱い飲み物を出してもらってたんだ。

この異空間じゃ季節が混沌としてるけど、現実じゃ真冬だったっけ。


降雪してない時点で不可解だ。早く村に向かって約束した場所へ…。


「うちの同行者の不具合で突然お邪魔したというのに、こんなにも

持て成して頂くとは光栄の極みと言えば大袈裟に感じるでしょうが

美味しい昼食、どうもありがとうございます。こちらの茶にしても

専門店で購入した上質の玉露のように思えますが、不勉強なもので

もし宜しければ御教授いただけませんか? 僕は玉露が好きでして」


…?!…


名無しの頃は誰に対しても心の扉を閉ざした印象だった一組級長が

路線変更に成功して、今じゃスッゲェ甘え上手。愛嬌のある表情と

声を使い分けるようになってきた。長い間、修行した成果がコレか。

絶望的に表情の硬かった男子が柔和な微笑みを見せて世間話してる。

将来の夢のため、客商売向きの性格になろうと前向きな努力してる。


最初と口の聞き方を変更させてる。俺の諫言に従ってくれるとは…。


「あら、私もお茶を飲むのは好きだけど銘柄とか殆ど知識ないのよ。

でもねぇ、これは昨日買ってきたばかりで、まだ名前も憶えてるわ。

えぇとねぇ、カリガネ。渋くないお茶が飲んでみたいって話したら

お茶屋の女将さんが薦めてくれたの。雁が音は玉露の茎だけの茎茶、

淹れ方も教えてもらったのよ。お湯を入れたら急須の蓋をしないで

一分弱待って淹れると良いらしいけど、そのうち忘れちゃうかもね。

喜んでもらえて良かったわ。お茶屋の女将さんにも報告しなくちゃ」

笑顔と素直な気持ちは相手からも笑顔を引き出す。見て学習できた。

「急須の蓋をしない淹れ方もあるんですか。低温で抽出して玉露の

甘味を引き出すのですね。以前の僕は、日本茶を入れるとき急須を

揺らしてしまう悪い癖があって、直すまで時間を必要としたのです。

ほんの僅かな一手間で味わいに差が出るのですから、淹れる所作も

大事にしなければいけませんよね。お話を伺って勉強になりました。

カリガネ、雁が音、玉露の茎茶、試験に出なくても憶えておきます」

元々優秀だから級長なんだけど、少しばかり鼻につく感じの優等生。


すらすら台詞を言い終えたと思ったら食べ終えた皿と茶碗を持って

立ち上がったんで、こっちは下っ端みてぇな調子で義兄の後に続く。

「あらあら、本当に村の寄宿学校の生徒さんは躾が行き届いてるわ。

水場に置いてる盥に入れといてくれたら結構よ。本当ありがとうね」

刀自の目にはデカい方が真面目で気の利く男子と映ってんだろうな。


モッズコートを脱いで置き、紺と白のギンガムチェックのシャツに

深いVネックの綿素材の白いニットを重ねて、サックスのデニムを

合わせてる。季節に合ってる着こなしかは不明。当然だが飛行帽や

マスクは外して四次元トートバッグに収納させてる模様。鼈甲縁の

伊達眼鏡は一組級長の優秀さを演出する小道具として役に立ってる。

さり気無く「既に故人なのだが」と告げたのも刀自の心を掴んだ筈。

彼のために何かしてあげたい、喜ぶ顔が見たいという気持ちになる

魅力を放つようになった血星石。蜥蜴石なんて自嘲する必要ねーよ。


ちなみにモンクちゃんの顔立ちは爬虫類系から遼遠に位置する容貌。

通りすがりに厠を借りに来たジャージを着たチビは劣等生役でいい。


以前の学校で潤というチビは思い出すのも最悪な過ちを仕出かした。

現世で過ちを償えたんだろうか? 洗っても落ちない汚れと同じで

魂に焼きついた罪業と思ってる。思い出さなきゃ普通に死ねたのに

八月の降雨日、村道の脇で泣いてる赤ん坊の救い主様である親父に

結婚の報告をする目的で北の村へ帰郷した俺は開けなくていい扉を

自分から開いてしまった所為で死ねないバケモノの記憶を取り戻し

現在も生き続けてる。何故あのとき親友と共に行動しなかったんだ?

俺が支える親友もイナイ牢獄。掃除班の一員として飲料水を汲んで

使える物を探して、見つけた人間の亡骸を地に還す仕事を続けてる。

牢獄世界から消え去る選択をしなかった天罰。親友と同じ不思議な

楽器を奏でる四歳女児の姿が目に焼きついてる限り、俺は生きるよ。


空の丼鉢や生姜焼きの皿だのを落とさないよう慎重に盥まで運んだ。


「もう帰っちゃうの? 仕方ないわよねぇ。用事があるから街まで

来たんでしょうし。あっという間の短い時間を過ごした気分に

なったのは思い出せないくらい久し振りだったわ。本当に」


モンクちゃんと別れるのが名残惜しくて堪らないようだ。背後から

刀自が声をかけてきた。俺の場合は齢を重ねると時の流れの速さに

戸惑ったものだけど、この屋敷で一人きり留守を預かる身になりゃ

家事を済ませた後は買い物や近所の用事でもない限り、話し相手も

いなくて寂しいのかもな。離れて暮らす二人の息子がいるらしいし

刀自にはモンクちゃんが理想的な息子として重なって映ってるんだ。


奇妙な異空間に暮らす人物でも夢を見たいし、叶えたいに違いない。


「此方こそ、通りすがりに立ち寄っただけの縁を大事にして頂いて

僕らにしてみれば、贅を極めた昼食まで御馳走になったのですから

このまま帰ってしまうのは名残惜しいです。雁が音も良い味でした」

背筋を伸ばして相手の目を見て話すようになった模範生の一組級長。

「貴方たちはロールキャベツって食べた事あるかしら? 寄宿舎で

寝起きしてるのなら当然ハイカラな洋食にも慣れてるんでしょう?」

脇役の俺が出しゃばる必要ねぇよな。ここはモンクちゃんに任せる。

「はい。夕食のメニューに出されたりもしますが、僕個人としては

洋食より和食に軍配が上がります。シチューよりおでんが好物です」

正直に南瓜の煮付や天麩羅が大好物ですと言わないとこが憎らしい。

「あら、そうなの。昔話になっちゃうんだけどね、うちの二番目が

まだ幼い頃、友達の家で食べたロールキャベツが美味しかったんで

お母さんも作ってほしいって頼むから、近所のお宅から献立の本を

借りて読ませてもらったのよ。でもね、昔は今みたいに洋風出汁が

売ってなかったの。どうしても必要なら洋食屋さんにでも出かけて

頼んで分けてもらわなくちゃダメでねぇ。無知なだけでしょうけど。

だからねぇ、おでんの出汁でロールキャベツを煮込んじゃったのよ。

『友達の家で食べたのと違う。どうして?』と、がっかりされたの。

今はコンソメやシチューとか洋風メニューの既製品も多くあるのに

昔は購入するのが難しかったし、小母さんも知識がなくってねぇ…」

以前の学校で出される食事も殆どが和食だった。ロールキャベツも

赤茄子の水煮缶を入れて作った真っ赤なスープに浸かってたもんで

モンクちゃんは他の生徒に食べさせてたのが真相だけど無言が無難。

「息子さんの頼みを聞いて作ってくれたなんて、幸せな息子さんだ。

ロールキャベツは、おでん出汁によく合うし、洋風出汁より遥かに

美味いと思います。そういった些細な揉め事で気に病む必要はない。

離れて暮らしている二番目の息子さんも今頃は感謝してるでしょう」

余所行きの穏やかで丁寧な口調に本来の尊大な喋りが混ざってきた。

義兄も頑張ってみせたんだろうが所詮は付け焼き刃と言いたくなる。

「あ、えぇと、あのね…。今晩もし時間に余裕がるならでいいけど

貴方たちに私の作ったロールキャベツを食べてもらえたら嬉しいの。

正直に打ち明けると、次の帰省のとき二番目に作って出したいのよ。

小母さんの招待を受けてもらえないかしら?…迷惑じゃなかったら」

俺としては願ったり叶ったりだ。昼メシも四人揃って食いたかった。

しかし、村の寄宿学校の生徒としては街を歩くのは難しい時間帯か。

以前の世界じゃ徒歩で約一時間の距離。体力より根性が重要な往復。

当時は珍しい自転車なんて高級な玩具を乗り回す奴は居なかったよ。

現世でも在学中は村と街を繋ぐ路線バスがなかった。山奥だったし。

「迷惑だなんて…。あの、実は街で学友と待ち合わせしてるのです。

四人でお邪魔して差し支えなければ、後ほど伺わせていただきます」


…………………………。


…………………………。


…………………………。


その後、刀自に揚げ出し豆腐を食べたいと頼んで出してもらう事に

成功したモンクちゃん。一人だけ意気揚々と屋敷を後にしてみせた。

現世じゃ新鮮な豆腐も食べられねぇし、母のない男子として刀自に

甘えてやろうって魂胆だろうな。困るほど強かすぎる性質になった。


義兄は再び飛行帽を被ってモッズコートを着て歩き出した。人々が

行き交う往来に出てもモンクちゃんの他に誰も外套を着て歩く者は

いなかった。薄着でもなく誰もが春秋に着る合服のような姿ばかり。


通りに金木犀の樹を見つけられなかった。あれだけ強く香ったのに。


「見ろ。水洗いしたかのような天空だ。僕らは奇妙な常春の異境に

迷い込んだのかもしれないな。歩くだけで身体も温まって悪くない」

ジャージ着て歩いても汗ばむ陽気なのに厚着男子が涼しげに言った。


空を仰いだ。ああ、街の浅井家を訪ねてみる必要があったんだっけ。


以前の世界じゃ街を出歩く休日もあった。街の様子や道の繋がりも

把握していたつもりなんだが…。俺の頭と足が行き先に苦慮してる。


「足の向くまま歩いてみよう。僕らの両足は正しき道しか辿らない」


刀自の屋敷を出てからずっと横に並んで歩いてた義兄が早歩きして

背中を向けて歩き出した。「正しき道を辿る」とプラス思考で歩く。

だが、過去も未来も混沌とした世界のように思えて不気味でもある。

見覚えのある建物、見知らぬ建物、不安定に繋がってて心配になる。

そんなマイナス思考が不運を呼ぶんだろうが頭から掃い除くのは…。


「地面を歩いてると思うな。しばらく雲の上を歩いてる気分でいろ」


雲の上を歩くような気分か。普通の人間なら夢心地かもしれないが

俺には地獄堕ちと言っていい。高い所から落ちて死んだ記憶はない。

それなのに物心ついた頃から駄目すぎる。飛行機に乗れたんだから

多少は克服できたと思い込みたいけど…無理…絶対に克服不可能…。

三十年くらい前の悪夢を思い出す。この俺がチビになってんだから

斎藤も名無しの二組級長の姿だよなァ。とりあえず顔を合わせたら

一発ガツンと殴らせてもらう。あの桟道へ瞬間移動してくれた礼を

思いの丈の重圧感を込めて後払いしたって構わねぇよな。御礼参り。


「街の浅井から以前暮らしてた屋敷の所在について訊くべきだった。

しくじった。フェレットとも打ち解けた会話が可能となったのに…」

街の浅井は鼬憑き。フェレットは少し間抜けで可愛らしい愛玩用鼬。

キメラ猫のバケモノ当時の記憶を辿ると鼬を世話してた事に気づく。

舌のない障碍を持つ本翡翠の鼬とキメラ猫は手腕の動きで会話して

コミュニケーションしてたんだってさ。手話とも違う心の通じ合い。


「俺も関わりたくない相手だったし…。街でも立派な屋敷だろうが

何処にあるかは知らねぇや。それでも街に実家のあった順だったら」

「ああ、この世界では竜崎の実家は街に在るのだった。訪ねるべき」

「そう言っても道の繋がりが以前と違う。無事に辿り着けるかなァ」

「視ずに感じ取れ。おまえは容易く可能な能力を持つと自負すべき」

後ろを向いて左眼一つで睨まれた。おまえ呼ばわりされると腹立つ。

以前の俺なら喧嘩開始の合図となった筈。仲の悪さで有名な一組の

級長と副級長だったから。覆い被さった記憶がムカつきを抑えてる。

くるぅりと背を向けて胸を張って進んで行く名無しの級長に従った。


見た目に殆ど違いなくても底意地の悪さは…。いや、過去は流そう。


一組に三人いた「じゅん」の順は好き嫌いなく誰とでも関われる奴。

この世界での学校卒業後も街暮らしの卒業生と親交があったらしい。

順の屋敷に行きゃ使用人の誰かに聞ける。何人かと顔見知りの仲だ。


雪国じゃ珍しい瓦屋根の邸宅。寺院みてぇな…。足よ、辿り着け…。


「この床屋、学校卒業後の僕らが入り浸るとは思いも寄らなかった」

現世じゃ義兄となった級長が営業してる理髪店を横目に吐き捨てた。

この理髪店が夜逃げ同然に空き店舗となった頃、二組の霊感探偵が

仮事務所を置いた。何故か霊感探偵の調査員として雇われた俺たち。

仲が悪いを通り越し、級長から一方的に憎まれ続けてきた副級長が

卒業した後、仕事の同僚として二人が結びつきを得た過去もあった。

理髪店跡に無理やり机と椅子を運び入れ、置きっ放しだった客用の

長椅子を寝床代わりに利用してた霊感探偵。奥にある勝手場や厠の

掃除なんかする筈ねぇから調査員が無料奉仕で片付けて掃除してた。

名無しの級長が現世で病的な潔癖症になったのは探偵が原因かもな。

客用の洗い場で顔と赤毛を洗ってたな。雇用主だから所長と呼んで

尊敬しろと探偵が愚痴ってたけど、普段の様子を見りゃ無理だった。

「あ、煎餅屋だ。懐かしい。甘い擂り胡麻を塗った煎餅が食べたい」

商店街から外れた位置にあった知る人ぞ知る手焼き煎餅の小売店舗。

「先立つもんがねぇから購入すんのは無理。ヤッチ君が一緒なら…」

以前は胸に持病を抱えた物静かな名無しの生徒だったけど現世じゃ

副級長になって普段から明るく快活に笑う生徒になったのが不思議。

鼠憑きだから社会生活に必要不可欠な金との縁が尽きる絶望がねえ。

ヤッチ君は爆撃蹂躙の後に廃された古銭を持ってきた可能性が高い。

「仕方ない。今は我慢だ。小魚泥棒に会ったら買占めさせてやろう」

はためく煎餅屋の幟を横目に序列上位の先輩への暴言を吐き捨てた。


歩き進んでいくと徐々に建物が少なく寂しい景色と移り変わって…?


不安になるなと言われても異空間に迷い込んで平然としてらんねぇ。

いつの間にか舗装の傷んだ道路を歩いてる。軽く上り坂になってる。

「この道には覚えがある。このまま進んだ先に村元の自宅があるし

村元家を越すと村の淵があるのだ。三十年ほど前にドライブしてる。

ほら、そこに六地蔵の湧水が…。冷たくて美味いと二人は言ったが

僕は魔法瓶に入れた熱い紅茶を飲んだ。生水で腹を壊すのはイヤだ」


…?!…


モンクちゃんが指差す道路の左脇、防風林の手前に地蔵が並んでた。

チョロチョロ細い水道管から湧水が出てる。ナニコレ? 瞬間移動?


疑問も湧き出すが、このまま歩き続けたら約束した場所に辿り着く。

雲の上を歩いてる気分で瞬間移動してるって…要は斎藤の仕業か…?

あの日の悪夢みたいに空中に浮いてんじゃねぇかと見まわしたけど

人間の姿を模った白くて気持ち悪りぃバケモノは周辺に居なかった。


不安になるな。足元の不安定な桟道じゃねえ。約束の場所へ急ごう。



…!!…



「僕は壁じゃない。普通に痛覚があるから痛かった。確かに僕は

視ずに感じ取れとは話したが、僕が振り返った瞬間にぶつかるな」

少し顔を上げたらモンクちゃんと目が合った。一組で一番チビと

一番デカい生徒同士となった。この身長差が情けねぇ俺の現実だ。

「確かにサクの言った通り、道の繋がりの不条理さを確認できた。

このまま進んで村の淵を訪ねても意味がない。引き返すとしよう」

「この先に…。いや、ヤッチ君たちも俺たち二人を捜してるかも。

モンクちゃんの言うとおり、引き返した方が無難な気がしてきた」

義兄の背後が異様に暗い。目の錯覚に決まってるが、回れ右した。


世界の外に食み出ちまいそうな真っ暗闇が潜んでたのは…錯覚…。


「道が白く靄がかってる。この辺りが山に近い場所だからだろう」

身長差の分、こっちは短い足を素早く動かさなきゃ追い着かれる。

モンクちゃんの声を背中で聞きながら歩く動作に全力で集中した。


濃い霧の中を通り抜けたと思ったら村から街へ続く道を歩いてる。


もう少し歩くと街に入る地点だ。視えない何かに操られて移動中。

「今度は塞の神の祠がある。村と街の境に建てられた厄除け石だ」

モンクちゃんが道案内する者みたいに説明の言葉をかけてくれた。

さっきの非礼を謝らずに歩く義弟を気にする事なく許してる義兄。

「既知だろうが、ちょうど此処に置かれてた赤ん坊が俺なんだよ。

以前の世界も現世でも八月の降雨日、おくるみ姿で泣いてたって」

ずぶ濡れの赤ん坊を拾ってくれた救い主様に逢いたい。…親父…。


「以前は熊と見紛う扮装をして街道を歩いて信書や小包を運んだ

寄宿舎生には馴染み深い存在だった。現世では配送局に勤務して

足音もロッカーを開け閉めする音さえ立てずに私信や小包の類を

届けてくれ、彼には心から感謝している。天から使わされた者に

間違いないだろう。彼の姿は…白文鳥…あいつの本体に似ていた。

本体といっても壊れてからの姿だ。魔性の女に狂わされた所為だ。

本来の姿を棄て、彷徨する物狂いとなった。あいつと僕の関係は

『最悪』の一語に尽きるのに何故だか憎めない。…悪漢なのに…」

塞の神の祠の前に二人して立ち止まり、俺の親父と親友を語った

モンクちゃん。性別も年齢も掴めない白い靄みてぇなバケモノを

まるで愛おしむ様に述懐してみせた。寧さんとは別の愛情だろう。

うちの親父に似てたっけかなァ? 親父は性別の見分けの難しい

容姿だったケド。現世じゃ街で若い男子から告白されたそうだし

以前の世界じゃ相対死に巻き込まれて早世した。容姿が良いのも

つまんねぇ揉め事に絡まれて良い事なしだと残された俺は思った。


心を支える縁が容易く切れ、永遠の別れとなった幻世の我が生涯。


過ぎ去った話と思って忘れなきゃ耐え切れそうにねぇ以前の時間。

同じ様に繰り返しちゃいねぇ以前と違う現在を迎えた。再会した

奴等とも再び離別した。二度と逢えなくなっても心の中を覗けば

いつでも逢える宝玉へ姿を変えただけの話だよ。別れは辛くない。

生きてる限り…いる…。死ねないバケモノが生きる活力が記憶だ。


「そうだ。全ての出逢いは心の中に記述され続ける物語となって

僕が生きてる限り、永遠に存在し続けるのだ。シ…ノハィヤダ…」


…?!…


頭ん中がぐにゃりと歪んだ感じがして、思わず義兄の顔を仰いだ。

大丈夫、額の面皰が痛々しい一組級長が背筋を伸ばして立ってる。

モンクちゃんの声が古いカセットテープを再生したように歪んで

聞こえた気がしたけど、風のざわめきが雑じって聞こえただけか。


小さくなった自分の両手も見た。存在してると確認する気持ちで。


塞の神の祠は現世じゃ神として祀られる事無く、裸の大きな石が

赤ん坊だった俺の傍らに侍していた。…俺と一緒に雨に濡れて…。


いつ誰が生家から連れ去って置き去りにしたのか、未だに謎でも

雨曝しにされてた赤ん坊が当時十代の若者に拾われて、そのまま

育てられても何とか生き延びたんだ。以前は儚く切れた縁の糸が

現世じゃ繋がった。家政婦兼看護師の坂田さんが常駐してたけど

表向きは円満な普通の家庭生活できたのは本当に喜ばしい奇跡だ。

まだまだ糸は伸ばして繋げられると信じて進もう。寒々しい塞で

何も知らずに留守番してる生き残りの女子たちの未来を繋げたい。


遠い昔、この場所で雨に濡れてた赤ん坊がいた。それだけの昔話。


「懸命に歩く姿を視界に入れて進むのも悪い気はしない。サクの

足に任せてみるとしよう。まずは小鼠と小鳥と呼ぶ気になれない

黒いツナギを着た烏を目指してくれたら上々。己を信じて進め!」

祠の前に立つ上官から命令の声。ここで立ち止まってちゃ時間の

無駄になるし、同行した二人に会うには街の方向へ歩くしかない。

子供扱いされてる感じで気が滅入るけど、大人になって堪えよう。


運動靴がデカくて靴紐をきつく結んでも足が落ち着かず滑る感じ。

着替えたとき脱いだ靴下を重ねた方がいいような気がしたんで

ちょっと待ってもらって足元の状態を整えた。靴擦れすりゃ

面倒だし、金があるなら買い換えた方が良さそうだが…。

これも俺の運命かよ。異空間に辿り着いた四人の中で

一番酷い受難を蒙ったが、今は戦力低下を嘆くより

いざって場合に走って逃げれる装備が重要だな。


敵の攻撃を躱して逃走。今は勝つより上策。


「あと数時間も経過したら美味い揚げ出し豆腐が食べられるのだ。

そう思えば足取りも自然と軽くなる。常日頃の正当な行為の報い」

大層ご機嫌麗しく夕食を思ってらっしゃる声を俺に聞かせてきた。


正当な行為に拳銃を使うとこが並大抵の神経じゃねぇと思うケド。


ダメだな。チビになってから義兄に対して少々喧嘩腰になってる。

以前の世界での出来事は疾うに全てが過ぎ去った。振り向いたら

俺に向けて銃を構えてたなんて事でもねぇ限り穏やかな心持ちで

歩いてなきゃいけねぇよな。背の低いブロック塀で区切られてる

街外れの墓地を通り過ぎていく。寺院が管理してる墓地じゃなく

おそらく昔から集落の墓地として利用されてきた土地なんだろう。

苔生した誰にも参られてなさそうな墓石が目に入る。朽ちていく

途中の段階。見知らぬ者が葬られてるだけ。深く思う必要ねぇか。


…?!…


「どうした? こんな場所で立ち止まって、墓を荒らす妖怪でも

視えたとでも言いたいのか? 見通しがいいし、墓参りする者の

人影など見えないが。そういえば以前は墓地の脇に住んでいたな。

サクにしてみたら落ち着く光景なのか? 入りたいなら僕が許す」

背後から鷹揚な声が近づいてきた。右足の爪先が擦れて軽く痛む。

「違うよ、観光すんじゃねぇんだ。ザジん家の近道を思い出した。

この共同墓地を通り抜けりゃすぐ近くなんだ。そんな記憶がある」

頭に浮かんだイメージは、このブロック塀より高くて白い壁面を

通り抜けてたんだよ。そこから出て少し歩くと順の屋敷があった。

「竜崎の屋敷に近いのは真実のようだが、どうも僕らは視えない

何者かに操られてる気がしてならないのだ。慎重に行くようにな。

僕はそこに見える墓参者用の東屋で待たせてもらう。見通しいい

造りだから、サクからも分かりやすい筈だ。僕は魔法瓶の茶でも

愉しんで休ませてもらう。竜崎の家に喜んで付き合う僕じゃない」

駐車場みたいな空き地の側に水を汲むためのバケツ等が置かれる

棚があった。東屋みたいなテーブルと椅子も確認したから自然と

俺一人がザジの実家に向かう形になったのが運の尽きだったかも。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「俺からの視点で語った一回目の侵入は大体こんな感じで終わる。

ザジの屋敷に向かったんだと思うけど暗闇に入り込んだのに近い。

墓地の中を急ぎ足で通り抜けた気がするのは間違いねぇんだが…。

ああ、竜崎やザジってのは一組の楽器を弾く順を指してるからな」

俺の話に耳を傾けてる誰とも目を合わせたくない。そんな気分だ。


「いや、俺の前で体裁を取り繕うなんて『愚か』の一言で終わる」


四人掛けのテーブル、俺の左脇の席にヤッチ君が着いてくれてる。

斎藤は居ない。おそらく病室の中か前に居るんじゃねぇかと思う。

モンクちゃんの処置は滞りなく済ませられたようだ。鼠の親分に

目をかけられた男子が側に付いてると知りゃ街の連中なら誰でも

揉み手して頭を下げてくれる仕掛けが整ってんだもん。高血糖で

運び込まれた義兄も特別な救患として、丁重に診察を受けられた。

シロップみたいに血が甘くなってんのか無知な俺は知らねぇけど

生理食塩水の点滴が終わった後は、インスリンの注射剤その他を

処方される手筈になってる。それまで無駄に動かず全員が待機中。


ここは街の内科医院の二階。談話スペースみたいになってる場所。


俺たち来訪者二人の向かいに座ってるのは村の学校の制服を着た

二組のマコちんとリンバラ。俺はテーブルで手持無沙汰にしてる

三人に初回来訪時の出来事を話したって訳。ヤッチ君が自販機で

購入してくれた甘ったるい缶珈琲を口に運びながら語ってみたが

以前から霊感探偵の赤毛ヤローが話にツッコミ入れてきやがった。


「俺は墓地に見知った者の名前を見つけ、戸惑ってる姿が辿れた」


そう言うと、お子様向けの炭酸飲料を気取った仕草で口に運んだ

リンバラ。得意気に唇の右端を上げてやがる様子が気に入らねぇ。

「そうだ。そのとおり。以前は俺と親しくしてた学校の通学生が

葬られてんの見て、動揺しねぇでいられるかよ。事故? 急病?

あいつが自ら命を絶つなんて有り得ねえ。俺と約束してたんだし」

白木の墓標に記されていた俗名は…浅井彰太…。何故なのか村の

墓地じゃなくて街の共同墓地に葬られていた。一体あいつに何が?

「彰太君は、マツーラ君たちの意地悪に耐え切れなかったんだよ。

将来きっとオレのお兄ちゃんになってくれるって約束してたのに

法要で街の浅井家へ泊まりがけで出かけたとき…発作的に首を…」

彰太君の一番の心の支えでもあったマコちんが空ろな目で教えた。


以前の学校じゃ虐めの被害者だった三組の彰太君。二組の副級長、

松浦悠一郎が黒幕なのは周囲に知られてても実行犯は高橋虎鉄に

新山紫峻の狡賢い二人。三組のほぼ全員から無視され孤立してた。

だから、通学生兼寄宿舎生だった俺が相談に乗って励ましてたよ。

雪の日曜、俺ん家で一緒に塩ラーメン作って食べた。冷え切った

身体が大汗かくほど暖まって美味かった。忘れらんねぇ思い出だ。


しかし、おかしい。彰太君が自死するのは卒業して十年後の悪夢。


どうして早まったんだろう。以前、街の浅井家で自死したんだよ。

俺たちの姿は十年生、彰太君は頑張って耐え切って卒業したのに。


この異空間は牢獄世界以上に歪んで拗けて…千切れちまってる…。


松浦自身は穏やかで人当たりの良い副級長だった。そこが歯痒い。

彰太君への憎悪の理由が分からなかったし、きっと誰が訊いても

核心は閉ざし、別の雑談へ移行させ、誤魔化すつもりだと窺える。


現世じゃモンクちゃんが村の学校を再始動させる目的で彰太君と

コンビを組んで、手始めに傷んだ校舎の清掃と修理をしたそうだ。

外装と内装設備に学校周辺の交通設備を整えたんだからスゲェよ。

資金面で蔭から援助したのが義兄曰く「動いて歩く財布」だった

ヤッチ君との事。一方、その頃の俺は仕事と家庭に振り回されて

朝から晩まで忙しく働いてた。それでも一度出張で中央まで来た

義兄と彰太君の二人が狭苦しい我が家にも足を運んでくれたっけ。

早産で生まれた長男を意外と慣れた手つきで抱き上げ、あやして

くれた様子は黄緑色に煌めく宝玉と姿を変え、俺の心に残ってる。


浅井彰太の色は明るい黄緑や不思議なオレンジ交じりの青なんだ。


以前と違う輝かしく誇れる生涯を終えた浅井彰太を生きてる限り

俺は忘れない。学校時代は最悪な関係だったのが悔やまれるケド。

向こうから昔の間違いを認めて謝って仲直りを望んでくれたんだ。

現世に於ける奇跡『死なせないための反側』の一つに数えられる。

それで俺も彰太君に倣って…心残りだった奴と共に歩む決意を…。


この異空間じゃ俺の姿も大きなパーカーを着た見窄らしいチビだ。


でも、だからって彰太君が在学中に自ら命を絶つなんて酷過ぎる。

モンクちゃんも以前の持病を忘れ、胸を張って強かに過ごしてた。

たぶん初回侵入では刀自の料理が血糖を上げ難かった品ばかりで

食後に歩いてたのも良かったように思えるが、二回目の侵入では

天麩羅蕎麦に塩むすびを食ったら…高血糖で意識を失うなんて…。

当の本人も想定外だったに違いねぇよ。現世で一型糖尿病なのは

斎藤なんだし、義兄は健康体と同じように振舞って当然だと思う。


「他にも…。えぇと、桜庭さんでしたっけ。貴方は隠してるのか

言えない事情を抱えているようですね? 憶えてないんですか?」

被疑者を言葉の槍で突いて追い詰める探偵の灰色の瞳は笑ってる。

「いや、言えなくはない。呆然となって彰太君の墓標を見てたら

小さい女の子に声をかけられたんだ。俺には全く心当たりのない

見た目は五歳くらいの女の子だが、向こうは俺を知ってる感じで

そこが不気味だったけど、大事な用件だから話を聞いてほしいと

俺を墓地から連れ出そうとしたんで、戸惑ってたところで記憶が

途切れちまったの。バサーッと幕を引くように目の前が暗転して

気づいたら、ヤッチ君が運転する車の後部座席に座ってたんだよ。

俺が中途半端に証言を切り上げたのは、霊感探偵の読みが完璧か

確認したかったのもあった。学校二組の探偵の眼が以前と同じか」

当人が知る由ねぇだろうが俺と義兄は林原探偵事務所の調査員を

長く務めてきた。仕事の依頼人との遣り取りも頭に残ってんだし

それなりの態度を取りたくもなって当然だよなァ。観客の皆様方。


「女の子って、竜崎の姉さん? 花田と桜庭の嫁さんは竜崎家の

御令嬢だったもんなぁ。あ、違うか。小さい女の子じゃおかしい」

サイダーの缶を右手に持ちながらヤッチ君が会話に混ざってきた。

「俺は昔から女運が悪りぃみてぇで一人きりで出歩くと女絡みの

トラブルに付き纏われてきたんだよ。おそらく見知らぬ女の子も

そういった類の面倒を押しつける役割だったんじゃねぇかと思う。

思い出しゃ寝逃げしたくなるほど、昔から女には泣かされてきた」

包み隠さず正直に白状した。女運の悪さは俺が一番と自負できる。

現世でも女子に囲まれて難癖つけられたのは一度や二度じゃねえ。

「何だか異国から訪れたような服装の子ですね。小奇麗な格好で

街や村の女児とは違う垢抜けた印象。俺に辿れたのは以上ですが」

折畳み椅子に着いて俺の頭か背後の辺りを窺っていたリンバラが

一応探偵らしく調査報告をしてみせた。ここは以前の世界だから

全体的に服装のセンスが一昔以上は古めかしいんだ。俺の目には

今時の女の子って感じだった。親にブランド服を着せられた女児。


ちなみに中井美空じゃない。顔立ちや雰囲気とか全くのベツモノ。


「しかし、サックンが聞かせてくれた話は今じゃねぇのは確かだ。

そうなりゃ俺たちに打つ手はある。今回の侵入は二回目なんだし」


そう言ったヤッチ君は残りのサイダーを飲み干して立ち上がると

自販機の脇に置かれたゴミ箱に放り込んだ。俺も珈琲を空にして

後に続いた。ああ、そういやヤッチ君の言う通りかもしれねぇな。

「以前の世界じゃ無糖の珈琲を好んで飲む人が少なくて自販機で

売ってねぇから仕方なく甘ったるい珈琲を選ぶしかなかったけど

現世じゃ普通に売られていたし、世界の様相も一新されてたんだ。

要は俺の頭ん中もきれいに掃除して一新しちまえばいいって話か」

並ぶと同じくらいの身長になった二人。でも、ヤッチ君の左手や

声に明らかな変化がある。受け入れるしかねぇ部分もあるだろう。


それでも我慢ならねぇ運命をぶっ壊す気概を見せたっていい筈だ。


「んーとまぁ、そうなるよな。あの帆布鞄に黒いデリンジャーを

忍ばせて平然と歩いてやがる花田の手に任せりゃ掃い落とせるさ」

以前の学校じゃ笑顔なんて見た事なかったヤッチ君が晴れやかな

表情を見せてくれてんだもんな。俺たち来訪者は名無しじゃねえ!


思いきり叩き付ける勢いで鉄合金製の空き缶を放り込んでやった。


彰太君は死んじゃいません。今回は白木の墓標を見ちゃいねぇし。

今回は刀自の家に寄らず手打ち蕎麦の店に上がって四人で昼食を

済ませた結果、モンクちゃんが受難を蒙っちまったが些細な事だ。

斎藤以上の歳月を自己管理してきたエキスパートでもある義兄が

この程度で戦意喪失する訳ありません。物凄く強かな無双の勇者。


「いい加減に聞かせてほしいんだけど、ノブとリンバラの二人は

何者に頼まれて、わざわざ街まで俺たち四人を迎えに来たんだ?」

懐かしい学校の制服姿の二人が待つテーブルに戻ったヤッチ君が

反撃の先陣に立った。後方支援なんて生温い場所に控えるような

御方じゃねぇのが心強いよ。ゲームのプレイヤーキャラみてぇに

自分の得物を手にして単独で敵陣に突っ込んでいきそうな大将だ。

俺には分かる。ヤッチ君は軍師じゃなくて馬上で指揮する将軍だ。

「う、うん。そのさァ…予想つくんじゃないかな?…つかない?」

マコちんが憂鬱そうに顔面を歪めてんのが靄つく。以前の学校を

知ってる俺たちが容易に予想できる相手だとでも言いたいのかよ。


いつも陽気でいるよう努めてるマコちんが名前を言いたがらない。


「俺たちに予想しろってか? あ、出来た。そいつが出てきたか」

ヤッチ君には黒幕が何者だか分かっちまったらしい。右手で顔を

覆って俯いた姿勢になって固まってる。親分が怖気づく相手かよ。

手負いになっても最前線へ出ようとする意気が削がれちまってる。

以前の名無しの二組生徒じゃねえってのに知った途端、沈黙状態。



三国志で例えりゃ呂布みてぇな天下無双の武力を誇る将軍…あ…!



…………………………。


…………………………。


…………………………。


「おまえ等は誰の通夜に出なきゃならないのだ? あ、分かった」


背後からモンクちゃんの声が聞こえた。俺たち四人の様子を見て

幾らか事情は読み取れたようだった。通夜の席みてぇになっても

仕方のない相手と対峙しなきゃなんねえのは「分かった」らしい。


「もう夕刻だ。そいつには明日必ず村の学校に行くと伝えてくれ。

そういった訳だから、今日のところは二人揃って村へ帰るがいい。

僕ら四人には何より重大な約束があるのだ。…揚げ出し豆腐の…」


…?!…


「モンクちゃん、刀自との約束は無効になってるんじゃねぇかな。

揚げ出し豆腐を食いてぇ気持ちは分かるケド、今それどころじゃ」

「テーブルに着いてる四人へ命令だ。さっさと立て。制服を着た

二人は気をつけて村へ帰れ。白シャツと大きなパーカーを着てる

二人は小母さんの夕食を御馳走になるため屋敷へ出向くとしよう」


「そんなガキの使いみたいな真似できないって分かりませんか?

体調が回復したんならタクシーに乗ってでも村の学校まで俺たち」

「林原は馬鹿なのか! いや、失敬した。成績の悪さに関しては

校内でも折り紙つきの寄宿舎生だった。それは兎も角、六名全員

タクシーに乗るなんて定員オーバーにも程がある。分乗するのも

僕の経済観念からすると絶対に許せぬ行為。歩くのは健康に良し。

以上が理由となる。全員が目的地まで徒歩で移動するとしよう!」

一喝して滑らかに喋ってる。頭も身体も十分回復したのは確かだ。


一組級長に似過ぎてる男子へ口答えできる奴がいる筈ねぇもんな。


四人がガタガタ音を立てながら席を立った。僅かばかりの抵抗だ。

「オレたち、人質を取られてるんだよぅ。学校の四人の仲間たち。

持病のある二人はマエダ先生が診療所に入院させて保護したけど

残りの二人が反省房に入れられてるんだっ。サイトーさんたちを

連れて戻ってくるまで食事を与えないって話してた。だからっ!」

マコちんが泣きそうな表情で懇願してきた。人質の四人ってのは

きっと俺たち四人のドッペルゲンガーみてぇな存在なんだろうな。

二人は持病を抱えてるから校医の先生が乗り込んで助けられたが

反省房に放り込まれてる二人は…ダイエットにゃ絶好の機会か…。


俺は馬鹿げた理由で反省房入りさせられた記憶なんて持ってない。

要するに歪んで拗けて千切れた異空間だからこその巫山戯た展開。


だが、モンクちゃんは敵対者に立ち向かえる反逆の勇者でもある。


数々の疑惑を向けて奴を倒そうと企てた真の怖いもの知らずの漢。

口だけだったら楽勝確定、持病が再発した状態なのは非常に不利。

今だって分身が校医の先生の手で診療所に移された状態なんだし

どうやって過ごしてるか誰より一番心配だ。級長、自傷すんなよ!


「グダグダ言うな。この僕が帰れと言ったのだ。素直に帰るべき。

小魚泥棒、鼠のツケ払いで二人をタクシーに乗せてやってくれ!

これ以上グダグダ言われ続けたら目障りで敵わない。撃ちたいッ」


モンクちゃんが右肩に提げてる四次元トートバッグを煩わしげに

動かしてみせた。ヤッチ君がやれやれといった表情をさせながら

マコちんとリンバラを引っ張り出すような勢いで視界から消えた。 

ヤッチ君は心臓にあった持病が全快したみてぇな元気の良さだな。

もちろんソラのサポートが大きいんだろうけど、マラソン大会に

出場しても余裕で完走できそうな身のこなしだもんな。融合って

普通に考えなくても気持ち悪りぃんだが…時と場合によっちゃ…。


いや、イヤだ。斎藤の不機嫌全開な面の方が正解だよ、俺の場合。


…?!…


そういや、斎藤の姿が見えねぇな。側についてると思ってたのに

モンクちゃんが横になってた病室の片付けでもしてるんだろうか?


「カズは僕の都合を首尾よく調えるために寄生魚と奔走したのだ。

疲れただのグダグダ言っていたが直に姿を現すだろう。問題ない」

俺の心の声に答えてくれた。斎藤から詳細を聞くのは控えたいが

瞬間移動とかハシムが時間の巻き戻しで働いてたんじゃねぇかな。

白文鳥と魚が隠密で工作活動に従事したなら、晴れがましいより

差した傘も穴が開く土砂降りの不機嫌全開だと想像できる心模様。


そこまでして刀自の作った揚げ出し豆腐が食いたいっていう義兄。


「あ、そうだ。サクは融合状態に興味があるようだな。よければ

僕と融合して膵臓機能を補助する働きをしてくれても構わないが」

「イヤ!…いや、その、インスリンがあるんだし、問題ねぇよな」

一足先に階段を下りて玄関でモンクちゃんと斎藤の二人を待つか。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


一階にある処方薬の受け渡し窓口の側に置かれた古びた長椅子に

斎藤が腰かけてるのを見つけた。声をかけるつもりで近づいたが

奴の周囲に陰気な効果線が渦巻いてるのに気づいて、足を止めた。

斎藤の脇、ちょうど俺から見える位置に白い紙袋を置いたまま…。

紙袋にモンクちゃんに処方された注射その他が入ってると思うが

長椅子から身動きしないで座り込んでる。一体どうしちまったの?

疑問符が頭上に点灯したけど近づき難い。そういった空気だもん。

どんよりしてる。『暁天に見た夕闇』を思い出させる以上に暗い。

事前に予想できたケド、そいつを遥かに上回る激鬱暴風雨だった。


本日の昼食後、血糖の急上昇で昏睡状態になったモンクちゃんを

病院まで連れて行こうと近くの店から電話してタクシーを呼んだ。

待ってる途中、寝ながら嘔吐したんだっけ。着衣を汚さねぇのが

モンクちゃんらしいケド、見守る側は窒息したらと焦りもしたし

天麩羅蕎麦と白い飯粒が散らばった路上の片付けも無視できねえ。

そういった訳で、搬送したタクシーに同乗したのはヤッチ君だけ。

停滞作用を持つ魚と融合した状態にある白文鳥はモンクちゃんに

近づく事さえ出来ずにいたんだ。自分が触れたら数値に悪影響を

及ぼすんじゃねぇかと思い至った故だろう。残った俺たち四人は

徒歩で内科医院へ向かった。全員無言、物凄く陰鬱な行軍だった。


「どうした? 片想いの男子を遠くから見つめる女子の真似か?」


背後からモンクちゃんの声の砲撃、多多益益ダメージを喰らった。

「あいつは現世で持病を発症した故、昔の病気の事情を知らない。

バイアル瓶入りの注射剤、小さいが太い針の自己注射器を目にし、

居た堪れなくなったのだろうな。以前の学校でも僕とは同室者で

僕の持病の自己管理を見てきたのに、カズは胆の小さい奴なのだ。

昔、僕と些細な口論からケンカしたとき昼食の前に一組の教室に

忍び込んで、僕のインシュリン注射一式を隠したりもした馬鹿だ。

そういった反省も含めて僕の持病を引っ被ったと思ったのだが…」

振り向いたら遼遠を望むような眼差しの名無しの一組級長がいた。



『死なせないための反側』長々と患う親友の持病を被った白文鳥。



「おっ、斎藤だけじゃなくて、そっちに桜庭と花田も見つけたぞ。

揚げ出し豆腐だか食いに行くんだろっ。タクシーに乗って行こう」

二人を送り出し、再び医院の正面玄関から入ってきたヤッチ君が

威勢よく声をかけてきた。その大きな声に驚いたのか診察室から

看護婦さんが現れてモンクちゃんに近づいてインスリンの注射や

自己管理についての確認を始めたんで、外野は物静かに見守って

その後、四人揃ってモンクちゃんと俺が最初に縁を繋いだ刀自が

一人きりで留守を預かる屋敷までタクシーに乗って向かう事に…。


「リンバラは俺から何か辿ってるような視線で薄気味悪かったが

黙って蝙蝠傘を片手にタクシーに乗ったし、何とかなるだろうさ。

ノブの奴は大好きな二組の級長が人質に取られてるから最後まで

同行を懇願してたが、タクシーに押し込んで強制送還してやった。

俺たちは名無しじゃねえ。紅い龍なんか楽勝で斬り捨ててやる!

明日は俺の車で村の学校まで乗りつけてやろうぜ。学校の奴等を

俺たち全員に取り憑いた珠玉の煌めきで魅せてやる。楽しみっ!」

軍師の振りして実は好戦的な将軍が意気揚々とした笑顔を見せた。


モンクちゃんが当然の如く文句を言ったが、急に歩いたりしたら

今度は低血糖の懼れもあるので安静にと看護婦さんから諭されて

斎藤は助手席、後部座席の上座からヤッチ君、義兄、俺が並んで

出発した形になる。紺と白を組み合わせた車体のタクシー会社は

鼠の資金援助で営業開始できたって大きい恩義があるそうなんで

既に鼠の後継者として知られるヤッチ君に媚びる言葉をかけてた。

異空間での本物の名無し生徒は村の診療所で過ごしてるってのに

ヤッチ君も口が上手い。きっと現世での経験からだろうが熱心に

接客指導してた。俺がタクシーを利用するのは基本的に飲み会の

帰りだから殆ど記憶にございません。ぼったくられなかったのが

タクシー運転手の良心だと思うよ。寝てる俺の財布を抜かれても

飲み屋か道の途中で落としたと思い込ませる事だって可能だもん。

という訳で、俺はタクシー運は良かったと言えるのかもしれない。


十代半ばのクセに上から目線で喋るガキの言葉に相槌を打つのも

会社という組織に属して金銭を得るため頑張って働く大人の務め。

そして、ヤッチ君が乗車中ずっと偉そうに喋り続けたのは二組の

軍師として貝のように黙り込んで陰鬱な空気を周囲に拡散してる

君主の気を紛らわせ…笑わせるために奮闘したんじゃねぇかと…。


だけど、当の君主は氷りついた無表情で沈黙して車窓を眺めてた。

親友の心情を察してるモンクちゃんも口を動かさずに過ごしてた。


義兄が助手席に着いた奴の心の声に耳を傾けられたかは知らない。


ハムスターが乗った回し車だけ勢いよく回転して必死に道化ても

動かしたい奴の心が動かなきゃ空回りしてんのと同じ。空しいよ。

「お代は結構です。日頃の勉強疲れを癒して、楽しんでください」

営業トークを残して営業所に戻っていく運転手の横顔は疲れてた。


流石のヤッチ君も作戦失敗と言いたげに少し表情を曇らせていた。


刀自の屋敷に到着して俺が玄関の呼び鈴を押したら、程無くして

待ちかねたと言わんばかりの表情で俺たち四人を迎え入れたのは

間違いなく初回侵入時に会った紺地の和装に自作したと思われる

藍染に生成り糸で矢羽根柄を刺繍した水屋前掛けを結んでる刀自。

ひっつめ髪に赤いプラフレームの眼鏡をかけた一見した印象じゃ

気難しそうだが、心を開いて言葉を交わすと生意気なガキ共にも

親切に接してくれる淑女と気づく事ができた。出逢えて良かった。


終末状態となった現世の塞で共同生活してる生き残り女子たちは

若い小娘ばかりってのもある所為か母親世代の婦人が逆に貴重だ。

おかしな誤解されそうでも万遍なく様々な世代の男女がいねぇと

世間が成り立たねぇと思うし、寂しい。邪魔にできる存在は皆無。

それだけは強く断言できる。生老病死、全て受け入れて生きよう。


玄関の引き戸が開いてすぐ食べ物の美味そうな匂いが漂ってきた。


この夕食にありつくために時間の巻き戻し、瞬間移動に変身など

斎藤とハシムが使う魔法と呼んで構わない能力を駆使したらしい。

四人の中でも憂鬱を通り越して空っぽ状態と言える斎藤の様子が

やっぱり気になる。食欲を掻き立てるロールキャベツの匂いにも

全くの無反応なんだもん。これじゃ作ってくれた刀自に失礼だよ。


義兄とヤッチ君は滞りなく挨拶を済ませ、先に居間へ上がってる。


「斎藤、ぼーっとしてねぇで食卓の席に着かせてもらうとしよう」

入ったきり立ち尽くしてハイカットの靴をを脱ごうとしねぇんで

斎藤に声をかける事にした。内気で遠慮がちな男子って設定かよ。

「ん…あぁ、スゲェ美味そうな匂いだな。器が俺に委任したんで

とりあえず俺が夕食会に付き合わせてもらうって事でヨロシク!」

上り框に座って靴を脱ぎ始めた。家の者に背を向けちゃ失礼だが

そういう礼儀作法を親から教わってねぇハシムに言っても無駄か。

夕食に招待してくれた家の者に挨拶の言葉とか期待したって無理。


刀自が上り框に立つ状態で内幕をばらすような発言しちまったし

先が思いやられる。招待客なんだから無言が無難とはいかねぇ。

刀自に形ばかりの会釈をして居間に入ったハシムは俺と同じ

劣等生のカテゴリに入れとくしかねぇよな。苦笑交じりで

刀自に深く頭を下げて挨拶して、脱ぎっ放しになってる

斎藤の靴を揃えてから上がらせてもらった。二組の

君主代行ならヤッチ君が如才無く務めるだろう。



我が心にある清閑な社へ詣で無事を祈る。



祝詞も忘れちまったし、刀自より老骨なバケモノが俺の正体でも

ここは奇妙奇天烈な異空間の中でも安らぎに満ちて過ごせる場所。

屋敷の廊下が他所に繋がったりしない。安心できる場所と信じる。


見た目のまま、偶にはガキみてぇに振舞って寛いだっていいよな。


と、その前に俺は預かってた煎餅屋の白い紙袋を刀自に手渡した。

「あら、ここの煎餅屋さん美味しいわよね。嬉しい。ありがとう」

移動の途中で降りて手土産を購入しといて良かった。報酬は笑顔。


作り物でも客人には家の者の笑顔が硬くなった心を和らげる魔法。

不細工でも笑顔には笑顔を返すよ。和やかな空気を生み出す魔法。


呪文や特別な作法を必要としない魔法は現実世界に有り余ってる。


居間に入ると既にモンクちゃんは自己注射等を済ませてたようだ。

刀自に気を遣わせないための隠密行動、食えないメニューは無い。

ロールキャベツより揚げ出し豆腐を一番の愉しみにしてる義兄は

上手くインスリンの量も調整してるだろう。俺には計り知れない

苦労を重ね続け…心を壊した時期も知ってるけど…現世の学校で

朝から晩まで掃い清める修行して、心の弱さを克服した真の勇者。

庭地の草花で飯事遊びしてた女児が心と表情の硬い青年に変わり、

それなのに下っ端の俺は、たいして助けもせずに放置しちまった。


バケモノの序列九位であるキメラ猫は自分で自分を支えない限り

いつまで経っても立ち上がれないんだと幾星霜かけ、自己学習し

ふてぶてしく感じるまでに強くなったんだ。少しも地味じゃない。


個人の感想だけど、血星石は誰より強かな輝煌の宝玉だと信じる。


己の弱い部分に気づけりゃ鍛えられる。傷ついて壊れたら絶好の

機会が到来したと喜ぶ意欲を見せていい。立ち上がって笑うんだ。

そうなった男が目の前に…いる…。嫌がらせや侮蔑嘲笑に負けず

あらゆる困難を撃ち抜く男になっちまった現在がアレすぎるけど

現状打破するため戦地の最前線へ出向いて長槍を振るう大天使だ。


俺は後方支援で前線の役に立てりゃ十分。平和な日常を望むだけ。


不格好なチビが勝手場に入り込むのは厚かましいと百も承知だが

居間の座卓に皿を並べる手伝いくらい率先して頑張ってみせよう。



…??…



暖簾が掛かった硝子戸を開けて入った。勝手場に刀自の姿がない。


焜炉に載った両手鍋や大皿に盛りつけられたメニューがあるから

食事の用意は完了してると言っていい筈だが、どうしたんだろう?

「あら、どうしたの? お腹が空いて待ち切れなかったのかしら」

居間じゃない別の廊下に繋がってる引き戸から刀自が入ってきた。

「あ、いえ、その、俺に何か手伝いできる事があったらと思って」

俺の喋りが林原晃司みてぇに落ち着かない。目付きも似てそうだ。

「わざわざ手土産を持って来てくれる学校の生徒さんですものね。

本当しっかりしてるわ。頂戴したお煎餅を仏様にあげてきたのよ」

煎餅代を出したヤッチ君とソラに礼を言うのが本筋なのにゴメン。


そこから廊下へ出た先には仏間があるんだろうな。嫁さんとして

きっと朝夕のお膳の上げ下げだのも欠かさず務めてるに違いない。

視えない御先祖の監視つきで一人暮らしも気楽じゃねぇだろうな。


今ここに自分がいるのも両親、それぞれの両親、多くの生存者が

紆余曲折を経たり、悠々自適に暮らしたり、多くの人々の様々な

人生の夢の途中に置かれてる事に気づく。此の世に生まれたいと

願った憶えはなくても生きてる以上、御先祖様に感謝しねぇとな。


永眠したら夢の中に放り込まれるんだ。人生の苦痛から完全解放。

痛くも痒くもねぇ無重力の中、上下左右無しに燦めく。分からん。


うちの…以下略…。今になって妻の恥や欠点を数えても意味ねえ。

現在の居室に仏壇を置いてねぇ時点で、こっちの方が薄情すぎる。

家族は一握りの灰も残さず消え去った。悔いて嘆いても戻らない。

夢にも出てこない。起きても印象に残る夢は最近ずっと見てない。

心を覗き込むと幾つもある宝玉の一つに姿を変えた。それで十分。


繋がる。そんな能力に長けてるかもしれねぇが電話みてぇなモノ。


相手が鳴り響く受話器を取って出なきゃ無意味なんだ。彼の世に

電話は通じねぇのか俺には故人の口寄せ不可能。現世でも電話を

無視する輩は多かったんだし、重要な用件でもなきゃ話さねぇか。

場合に依っちゃ彼の世からの呼出音を無視してる生者がいるかも。

ウソウソ、気にすんな。肉体がない状態で話し合いなんて不可能。

胡散臭い輩の発言に惑わされて言われるまま大金を出さねぇよう

気をつけてほしい。余程の事情がない限り、亡者と話す必要なし。


舞台から降りた連中に執着する必要ないけど、無下には出来ない。


寄宿舎寮母の高橋さんを思い出す手慣れた動作で刀自は支度する。

今頃きっと我が心の慈母も寄宿舎の調理場で夕食の支度を済ませ

悪ガキ共に笑顔を見せてるんだろうな。俺の分身は食えねぇケド。

「もう六時過ぎてるのねぇ。それじゃ早速で悪いけどコレお願い」

返事は下手な笑顔で頷くだけにして指示されるまま傍を楽にした。


傍を楽にすりゃ働くとなる言の葉の妙。漢字も妙だが言霊は絶妙。


糸や鎖のように次々と繋がっていく。縫い合わせる事もできるし

繋ぎ止める事もできるだろう。束縛って字面になりゃ辟易するが

縁に縋りつきたいし、結びつきたいと願うのも生き物である証拠。


約束の場所へ向かう承諾は取り付けた。明日、そこへ行けたら…。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「タヌキがキツネ食ってやがる。俺たちを笑い死にさせる気かよ」

「小海老と人参と玉葱のかき揚げはタヌキか。食ったら共食いだ」

ヤッチ君は隣りのハシムとコンビ組んでモンクちゃんを揶揄った。


前年の長期出張ではソラの代わりにハシムを同行させたんだから

既に気心の知れた間柄だろう。新参者は上官殿を持ち上げるのも

仕事の内だ。学校時代も含めて考えりゃハシムは鼠の親分さんの

味方になるのも当然だな。どっちの学校時代もハシムの喫煙癖や

素行問題で担任教師と級長には何度も家庭訪問されてるんだし…。


刀自はモンクちゃんの言葉を覚えていてくれたらしく、油揚げに

醤油を塗って焼き網を使ってカリッと炙った一品を出してくれた。

元々好物なんだからモンクちゃんは一番槍とばかりに箸を付けた。

移動の車中じゃ背後の義兄から終始キレて当然な発言されてきた

ヤッチ君だし、地の利を得たら言葉の槍で反撃したくなって当然。


ヤッチ君の「タヌキがキツネを…」は、その瞬間を茶化したんだ。


モンクちゃんの渾名が狸猫だと知らない刀自が不思議そうな顔で

食卓を眺めたが自分の二人の息子も同じだったと思い出したのか

見た目だけは十代半ばの男子たちを懐かしそうに見守ってくれた。


当のモンクちゃんが言葉の挑発に乗るかよ。平然とした箸使いで

菜っ葉の繊維質に続いて豆腐の蛋白質を口に運ぶ作業に勤しんで

おそらく聴覚は機能してなさそうだ。口と舌と喉が最前線に立ち

茶碗と皿を平らげる完全勝利目指して食事という戦闘に挑んでる。

主食である白い飯は糖質、戦いの終盤に控える総大将とも言える

生存に欠かせない頭脳の最重要な兵糧は糖質。補給線は断てない。


ベーコンを巻いたロールキャベツは細かく刻んだ赤茄子が入った

洋風スープで煮込まれ、ウィンナーや輪切りの人参などの具材も

良い彩りとなって洋食屋で出される一品みてぇで美味そうだった。


二番目の息子さんも美味いって喜んでくれるに違いないだろうと

刀自に伝えた瞬間「え?」と、刀自が怪訝な面持ちを俺に向けた。


…?!…


ロールキャベツは二番目の息子が帰ってくる日に出す予行演習で

作ったメインメニューだった筈なんだが、二回目だから違うのか?


魚が時間を巻き戻して、屋敷へ侵入したのは俺に変身した白文鳥。


斎藤の心模様が荒れ模様で中身をハシムに変えちまって、肝心の

打ち合わせが全く出来てない状態だもんな。そうなりゃ戸惑うよ。

頼みの綱であるモンクちゃんは食べる専門でしか口を使わないし

義弟の俺が焦ってんのに何処吹く風の義兄は揚げ出し豆腐に夢中。

ハナからソレ目当てで来たんだから文句言うつもりはねぇけどさ。


「うちの二番目はロールキャベツが好物だったの。近所の家から

洋食の献立の本を借りて勉強して作って出したら、喜んでくれて

それから毎月一度は夕食に出してあげていたのよね。懐かしいわ」


…?!…


刀自の発言が変化してる。過去形だし、おでんの出汁で煮た話は?


「懐かしい」喋った声が蝋燭の炎を吹き消す感じで寂しげだった。

もしかして、刀自が屋敷の仏壇に供えた煎餅を受け取ったのは…。

無闇矢鱈に決めつけちゃダメだな。正体は枯れ尾花と決まってる。


奇妙な異空間に存在する刀自の屋敷で美味い夕食を御馳走になり、

図々しくも四人の宿泊が許された。おかしな噂を流す近所の輩も

いないんだろうし、刀自が根拠のない噂話に負けるとは思えない。

遠縁のガキが学友を連れて泊まりにきたと笑って済ませるだろう。


毎日一人で掃除の行き届かない隙間なんて見当たらないってほど

きれいに磨き上げ、湿気が籠らないよう空気を入れ替えてる刀自。

制限時間三十分の入浴も快適に済ませる事ができた。電化製品が

少なくて不自由な暮らしと思うのは無駄に未来を知る自己中だけ。


ほんの少し開いた窓の隙間から吹き込んでくる風が肌に心地好い。


それを実感できて良かった。団扇や扇風機の起こす気流で喜んだ

時代があったんだもん。欲をかいたらキリがない。上を目指せば

終いにゃ墜落するって相場が決まってる。ゆっくり歩いて進もう。


内風呂があるって良いよな。以前は銭湯通いも普通だった世の中。

毎日の入浴だって以前の世間じゃ潔癖で贅沢と非難する者もいた。

今じゃ体調に不具合ない限り、入浴しねぇと不潔で非常識な奴だ。


時代と天気は移り変わる。現在の空模様に合わせて生きていこう。


ラジオ放送もない静寂な世界、以前の俺たちが生きた現実だった。

日が暮れて夜になりゃ夕飯食って宿題済ませて風呂に入って寝る。

ラジオやテレビっていう電波に心を煩わされる心配なく暮らせた。

同じ時刻に同じ局に周波数を合わせなきゃ明日の話題に困るって

悩みもなかったんだよな。現世じゃ村の学校に入学して間もなく

中央にラジオ局が開局して、北の外れの山村にも賑やかな音声を

伝えるようになった。音楽も俺が一番好きな永久不変の名曲より

「老若男女の多くから愛される歌手××さんの曲を聴きましょう」

違和感を覚える曲の売り出しが耳目と癇に障るようになってきた。

同調しろ。なんて発言してねぇのに強要されてる気がしたんだよ。

本来は音楽が好きだった筈なんだけど、仕事に追われて暇がない。

そう自分に言い訳して移動の車中も電源オフ、停波が通常だった。


学校卒業後、中央に出て入社した物流会社を定年まで勤め上げた。

一人息子も妻子を持ったし、人間の振りしてた熊猫は仲間と再会。

探偵と親友と三人で不自由な旅暮らしの日々が始まり、夕方から

ラジオ番組を聴くようになって、懐かしく思う名曲に触れられた。

深夜、親友の奏でる弦楽器の音色を耳にした歓喜は生涯忘れない。


俺が三つの世界に生きて積み重ねた経験と記憶だけ残されていく。

水が蒸発して、いつか雲となるように始まりと終わりを繰り返す。

死んで終わり。過去に生きた者として記憶の中にだけ留まる存在。

そうやって生き物は長い月日を歴史へ変えていく。それでいいが

長く過ごした牢獄世界を終焉させたくない。流れを取り戻したい。


その目的で異空間まで出向いたんだ。塞で留守を預かる元三組の

二人の先生と生き残り女子たちへ心からの安堵を伝えるために…。


この異空間じゃ俺の戦闘服代わりとなるのが臙脂のジャージ上下。


スウェットのパーカーや裾捲りしたボトムで誤魔化すのは止めて

この屋敷との縁を繋いだ臙脂のジャージに潔く着替える事にした。

もう少しマシなデザインの…文句を言うのは許されねえ。義兄が

事前に予測して着替えを用意してくれただけ有難いと思わなきゃ。

このジャージは俺の罰則と捉える。自前の着替えは今じゃデカい。

三十センチ近く縮んじゃ身幅は兎も角、手足の長さが違い過ぎる。

上はダボダボ状態になった半袖、下はジャージのズボンを穿いた。


湯上りじゃ暑いし、首にバスタオルかけ、上着を肩に引っ提げて

脱衣所を出た。ジャンケンで決めた風呂の順番じゃ俺は三番目だ。

ビリになったのはハシム。三人に圧勝したのはモンクちゃんだが

入浴中低血糖になっちゃ困るとヤッチ君に一番風呂を譲ったんだ。

発症後は自己管理の日々が続く。常に自分を監視、自制していく。

日常生活に支障なく動けるし、知らない奴からは健康体に見える。

そこが辛い持病と言えるだろう。絶望と葛藤を混沌とさせながら

他人事みたく毎日朝昼晩と自分で自分に足りないホルモンを補う。

血糖の乱高下は身体に負担となる。低めで安定を目指す自己管理。

入浴後も安定してるようで良かった。一人にしないよう見守ろう。


俺がチビになるより長く付き合ってきた持病の再発状態となった

モンクちゃんこそ四人で一番のペナルティを科せられたと言える。


長い間忘れてた病だろうに、辛い心情を何処吹く風と受け流して

顔に面皰が再発しても周囲には平然とした面構えを覗かせている。

些細なトラブルじゃ動揺しねぇ大山の心持ち、遼遠を臨む眼差し。

現世じゃ離れてた時期も長かったけど、心身ともに最強クラスの

存在に成長したよ。序列の真ん中じゃねぇ列伝の筆頭となる男子。


居間の開いた襖からヤッチ君の笑い声が聞こえてる。その大声が

変声期を迎えた声で違和感を覚える。四人全員が変容した状態か。

予め知ってたヤッチ君は女装を止めた? いや、知らなくていい。

そんなの誰も挫ける必要ねぇ些細な事象。以前の俺たちが当然の

運命として受け入れてきた自然現象だもん。俺も義兄を見習って

大山の心持ちで遣り過ごそう。暴風雨の夜だって愉快に過ごすよ。


どんな艱難辛苦も必ず終わりを迎える。空模様に戸惑う必要ねえ。



…?!…



玄関の引き戸が静かに開いたと思って、そっちを見たらハシムだ。

正確に説明すりゃ以前の少しばかり美形な斎藤の中身に納まった

序列最下位コーラルの魚。以前は名無しの通学生だったんだから

スッゲェ出世したと思うよ。俺も偉そうに言えた立場じゃねぇが

名前と個人の物語を担ってきたんだ。物語の内容は内緒にしとく。


宵の口で闇夜の烏となった白文鳥の登場。黒いツナギを着てるし

どうしても器の斎藤には桜色の嘴とか白く儚げな印象が持てない。

現世じゃ斎藤の肌は徹底したインドア派なのに健康的な地黒だし

俺の目には「白」から程遠い奴なんだ。悪りぃけど嘘は吐けない。

そうなりゃ俺も同類か。昔からモノトーンは苦手なんで選ばない。


刀自から買い物を頼まれたらしい。籐編みの買い物籠を持ってる。


薄暗い廊下からでも白っぽい購入して間もない籐の色は目に付く。

徐々に色が濃くなり艶が出て、使う者の愛着を増していく籐製品。

仮に俺たちを籐製品と喩えりゃ生まれながらにして持ってる色が

目に見えて変化してる筈だよな。誕生から百年以上も経過してる。

無垢もアレだが、経年劣化で下品な色が染み込んでたら情けない。


余計な足音を立てず居間の脇を通り抜け、上り框まで迎えに出た。

「うわ、小型化した桜庭さんの動き、ますます猫科すぎますって。

桜庭さんが本物の猫さんなら、好きなだけ頭を撫でまわすのにィ」

桜庭さん呼ばわりした時点でハシムじゃなく器の斎藤だと気づく。

小型化って…。小さな熊猫って言いたい訳か。ケダモノ扱いかよ。

身長差も十センチ以上あるから可愛い小動物だろうなァ。腹立つ。


あ、そうだ。ハシムじゃねぇなら受け取ってほしいモノがあった。


「痛ってェ! わざわざ出迎えに来てくれて喜んだら拳骨制裁?」

斎藤の言動は以前と現世で変わりなくアレな部分が垣間見えるし

あのとき空中浮揚して俺を高所恐怖症だと指摘した冷酷な表情を

はっきり想起する事ができる。現世より容姿端麗になった分だけ、

あらゆる言動の腹立ち具合が上昇する。だが、白い賽子の茶房で

低血糖発作を起こしたっけ。脳が上手く働けない状態は可哀想だ。

記憶する事も困難になるようだし、元気なようで意外と死に近い。

「三十年ほど前の怨みな。一発殴って気が済んだ。斎藤も忘れろ」

お互いに喝を入れる目的での軽い戯れだよ。猫パンチと似た感じ。

「その一言で忘れられるなら何もかも全部忘れ去りたいですけど

意外と根に持つ性分だったんすねぇ。桜庭さんファンの女子たち

この場面を目撃しちゃって幻滅したかも。今の時代、暴力なんて

流行遅れにも程があります。全く以てスマートじゃ御座いません。

まあ、俺も積み重ねられた恨みは千年超えても忘れませんけどね」

戯けた調子で冷え切って氷りついた瞳を見せた。普段は隠してる

白文鳥の本性だ。太陽がある限り、影が現れるんだから仕方ねえ。

何処吹く風の大山みてぇな眼差しもありゃ凍てつく眼差しもある。

深い絶望を懐いて心が氷りついてるんだ。奇跡が起こせたなら…。

「この時間で空いてる店、街にあるのか? 何を頼まれたんだ?」

丈夫なナイロン製で保冷剤を入れられるエコバッグが主流の現在、

数十年以上前の懐古趣味なデザインとなる買い物籠を覗き込んだ。

「優秀なアンテナを持つ桜庭さんだって夜目は利かないでしょ?

玄関の内と外の灯りは点けてないんですよ。電気が勿体無いから」

「夜行性じゃなくても硝子瓶に入った飲み物なのは俺でも分かる。

街の酒屋って晩酌する亭主のために夜遅くなっても開いてんだな」

「えぇ、アッちゃんが飲みたいって頼むもんで買っちゃいました」

「えぇえっ?! 本当の年齢をバラしちまったんじゃねぇよな?」

刀自にバケモノ四人組と知られるのはキツイ。少年の振りでいい。

「大声出しちゃいけませんって。村の学校の優秀な生徒四人組が

風呂上りの晩酌しようかってぇ飲酒しちゃったらヤヴァいっすよ。

桜庭さん、灯り点けてもらえませんか。暗くて靴が脱げないんで」

斎藤の言うとおり薄暗い中での会話だった。斎藤に言われたまま

勘と手探りで電気のスイッチを点けると周囲が電球色に染まった。

消費電力の無駄を避けてか玄関内は暗めの電灯で済ませてるのが

賢い家庭婦人に相応しいよ。一時期は何でも明るくしすぎだった。

玄関や厠は動作に支障ない程度の明るさで十分じゃねぇかと思う。

バケモノである所為か幽霊なんて信じらんねえ。死んだら終わり。


生きる限り…傍を楽に…。靴を脱ぐ斎藤から買い物籠を預かった。


籐編みの籠の中には牛乳瓶入りの林檎果汁が計5本。融合してる

ハシムやソラが味わえねぇのが残念な逸品だ。茶色く透き通った

林檎果汁は湯上りの喉には最高に美味い飲料の一つに数えられる。


村の共同浴場の帰り、商店に寄って親父に買ってもらった思い出。


「元々アッちゃんから頼まれたのはハシムだったんですけどねぇ、

寄生魚の弱点が分かっちゃいましたよ。ハシムは新参者だからか

夢幻の異境に馴染み難いようで、酒屋に辿り着けなかったんです。

それで、古参兵の俺と交代するしか打つ手がなかったってぇオチ」

きつく結ばれてたらしい左右の靴紐を解き、上り框に身体を乗せ

靴紐を適度に結び直して整えた斎藤はハシムと違って脱いだ靴を

そのまま放置する事なく、目立つ靴を三和土の隅に揃えて置いた。

わざわざ褒めるつもりはねぇけど脱いである来客用のスリッパを

ちょうどいい位置に揃えてやった。それくらい自然の動作だよな。


この異空間を「夢幻の異境」って呼ぶとこに斎藤らしさを感じる。


そして、自分を古参兵と喩えたのが寂しい。つい軽口を叩いても

こいつは長く二組の級長を務めてきた。安っぽい存在じゃなくて

多くの経験を積み重ねたベテランなんだよ。謂わば『名無しの鑑』


俺とモンクちゃんは何故か思うよう街を歩けなかった。繋がりが

突然おかしくなって村の淵へ向かう道を歩いたりもしたんだっけ。

斎藤とヤッチ君の二人は問題なく行きたい場所に行けたようだし

斎藤は一人で酒屋まで行って買い物してきた。今日一日の動きを

振り返ってみると、四人で一緒に行動すりゃ万事間違いねぇ筈だ。


…!!…


そういや、モンクちゃんの足には…方向を狂わす恐怖の呪詛が…。


俺もチビになって凹んでたし、それで彷徨う破目に陥ったのかも。

しばらく義兄の背中を見て歩いてたっけ。俺が先に立ってりゃ…。

反省しても時間は返ってこねぇ。明日は何事も最高に上手く運ぶ。


全員の心を重ねて進もう。団結すりゃ楽勝で現状を打ち破れるさ。


「じゃあ、俺はハシ…忘れちゃいけない…俺も風呂に入らなきゃ。

今宵の入浴は本日最重要の逃げたら損の自分に対する責務っすよ。

スンマセン、桜庭さん。居間にある俺の荷物を頼めませんかね?」

明るい喋り方に反して目を伏せた陰鬱な表情だった。内科医院で

一階に下りた俺が見た長椅子に座り込んでる姿を思い出しちまう。

居間のモンクちゃんと顔を合わたくないらしい。元親友が元通り

親友に返り咲くのは難しくない筈だ。向こうの気持ちが分かる故

避けたくなるんだろうが、融けない氷のままじゃ天には還れない。


恥や自尊心を抑え込んで俺に頭を下げた自分自身で氷を融かして

逢いに来てくれた奴が心を過る。アレも死なせないための反側が

生み出した奇跡の一つ。我が心を覗くと映る煌めき輝く宝玉たち。


買い物籠も持ったままだし、こっちは何の問題ねぇ。居間に入り

ヤッチ君に買い物籠の中を見せると無邪気に歓声を上げてくれた。

俺の座布団の上に一組のスカーフと同じ色した上着を置いてから

隅に置かれてある斎藤の荷物を手に取ったらモンクちゃんが一瞬

見て分かる不審な表情となったが、何処吹く風と気を取り直して

三人じゃ唯一の北の外れを故郷とする者として林檎果汁について

ヤッチ君に熱く語り出した。混濁と透明の違いや製造法とかの話。


居間に刀自の姿はない。俺たちの寝床を支度してくれてるのかも。


斎藤も隠密行動が得意になった手合だ。玄関内の消灯を済ませて

居間から少し離れた廊下に背中を貼りつけて立ってた。…暗い…。


名無しの級長は少女漫画の主人公が片想いする美形キャラの風貌。


以前の世界でも村の女の子軍団から注目されてたよ。それなのに

八年生の春頃から放課後になると学校の屋上に上がって続けてた

夕闇独奏会で女子たちの恋心が次第に離れてった。演奏は兎も角、

歌が壊滅的にセンスなくて、お笑い芸人のネタみてぇだったから

黄昏時、楽しみに聞いてた奴はいたよ。思いきり笑い飛ばせるし。


俺がワンショルダーのバッグを手渡すと案内なく浴室へ向かった。


斎藤の奴、瞬間移動を駆使して屋敷の構造を把握したんだろうか?

俺が訊いたって誤魔化して取り繕うのが分かり切ってるからなァ。

絶対にモンクちゃんの説明じゃ腹を壊した俺が厠を借りる場面を

強調して話したに違いねぇ。必要な用件がありゃ会話できるのに

強くなったモンクちゃんを極力避け、遼遠とした関係を続けてる。


居間に戻って俺も瓶入りの林檎果汁を味わう事にしたよ。義兄は

まだ蓋を開けてない。果汁を飲みたい気持ちはあるに違いねぇが

冷えた飲食物は意地でも口にしないと誓いを立てたモンクちゃん。

言っても無駄だな。生きてる限り直すつもりはないと知ってるし

何より胃腸が弱いのもあって、食い気が強くても刺激を避けてる。


俺は妥協できるなら躊躇わず妥協するよ。

何かに執着するほど苦しみが深まるだけ。

執着を手放せると知れば情熱が遠ざかる。

我が命が尽きる瞬間まで冷静に生きたい。

その後は知らない。時の流れよ、永遠に。


居間はモンクちゃんの甘くて気怠い話し声が響いてる状態だった。


義兄は林檎果汁が温くなる頃合いまで喋り続ける気かもしれない。

義兄の話を聞き流しながら瓶の中身を空にしていた。ガキの頃は

長い時間かけて味わったと思う。大きくなっても得は僅かだった。

舌に甘くて懐かしい林檎果汁を飲み干したのが無性に悔やまれる。

冷たいから渇いた喉が求めるんだと思うが、余計な口出し無用か。


「四年生の春だったと思う。親戚ではないから父の友人か知人の

林檎畑まで一家で繰り出して人工授粉の手伝いをした記憶がある。

林檎の花粉は硝子の小瓶に詰めてあった。花粉はピンク色だった。

本来の花粉に何らかの特殊な加工されていたものかもしれないが

僕の家は農家じゃないし、農作業について知ったかぶりできない。

花粉を耳かきの梵天に似た道具に付けて、五つか六つ咲いた花の

中央に位置している花の中央部分に花粉を付けるよう指示された。

初めての作業だし、天気と景色の良さばかりが印象に残っている。

林檎畑の隅に湧水があって水色の四角いタイルが貼られた桶の中、

緑がかった透明な硝子瓶、地元の工場で作られたサイダーの瓶が

何本も冷やされてたのだ。僕の中では『涼しげな光景』といえば

真っ先に思い浮かべるのが湧水で冷やされたサイダーの瓶となる。

手に取って、栓を抜いて飲み干したい気持ちに駆られてしまって

つい欲望の赴くままに1本のサイダーを飲み干してしまったのだ。

美味かった。炭酸水に甘味料と香料で味を調えた透明な飲み物が

爽やかに喉を通り抜けていった。時には冷たい飲み物も悪くない」

林檎に人工授粉した話なんて初めて聞いた。貴重な体験だろうな。

しかし、冷たいサイダー飲んで腹を壊しちまったってオチとは…。

「何故サクは先読みをするのだ。僕の恥ずかしい事を口に出すな」

「えぇっ?…あ、その、帰りの車内で騒いだ場面が頭に浮かんで

映画やテレビみたいな映像が浮かんでたから喋ってるとばかり…」

俺の心を読んで怒声を上げた義兄。黙ってりゃ問題なかったのに

『僕の恥ずかしい事』って言ったら言い逃れできねぇってのにな。

「僕が心の声を聴くようにサクは心に思い描いた光景を視るのか。

厄介だ。不謹慎極まりない。とりあえず風呂場の状況を聞かせろ」

「いや、覗きみてぇな真似は無理。そっちも声は聞こえないだろ」

「実際の声と同様に聴ける範囲が限られる。サクも近距離限定か」

「分かんね。いつでも見れる訳じゃねえと思うし、見たくねぇよ」

「僕の耳も現世で身に付いた能力だ。余計な会話を必要としない」

昔は先輩になった娘との些細な面倒に煩わされた記憶がなかった。

「能力自慢する必要ねぇよ。花田の話を聞いたら俺もサイダーが

飲みたくなってきたな。サイダーかラムネも頼んどきゃ良かった」

ヤッチ君が会話を締めてくれた形。俺も渇きが癒し切れないケド

斎藤が風呂から上がるまで黙って過ごそうと思う。そんな気分だ。


ドライヤーが家庭に普及してない時代だもんで髪の毛はタオルで

水分を拭き取った後は自然に任せるのが普通。居間の窓が僅かに

開けられて入り込んでくる微風が心地好い。昔は変質者だのって

気にする必要なんてなかったよな。常識と非常識の境目は時代で

移り変わっていく。俺には異空間の時代が性に合ってるみたいだ。


車内は無惨な光景だったよ。知られりゃ恥ずかしくて怒って当然。


そんなの見たくて見たんじゃねぇ。覗き見する趣味は持ってねえ!

何故だか無音のドラマみてぇに見えたんだから説明できねぇって。

音声やニオイまで伝わらなくて良かった。四年生になった級長が

あんな非常事態を起こしてたなんて目撃した方が落ち込むっての。

義兄が意地でも冷えた飲食物を口にしない理由が明らかになった。

それだけの話だ。昔から冷えは万病の元って言うし、予防が一番。

喉が渇いたなら魔法瓶の紅茶を飲みゃいいんだ。身も心も癒せる。


あ、でも…。最近ずっと見れねぇ状態を普通としてただけだった。

三十年ほど前も白い賽子の茶房のマスターが話してるとき光景が

頭に浮かんできた。映画かドラマかって感じで眺めてたんだっけ。

「死後、私の遺体を標本にしてくれ」なんて相当な覚悟を決めて

依頼した事は伝わったな。標本作りの場面はリアルでキツかった。


単に忘れてた能力を思い出しただけ。覗き見は俺の趣味じゃない。


霊感探偵も依頼者の余計な状況まで視えても黙ってたんだろうな。

本当に無言が無難だ。知らない方、言わない方が無難な話ばかり、

表情を氷塊みてぇに冷やし固めるしか遣り過ごす方法がなくなる。


そんな方法じゃ周囲の空気まで凍てつかせる。俺の主義に反する。

背景を映す能力は使わない方が無難と俺は踏んで、現在に至った。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「ハシムが戻ってくる。あいつの声は本当にデカくて判別し易い」


義兄の声を合図として居間の襖が開いた。ワザと閉めといたんだ。

ハシムって事は風呂から上がった斎藤が器の中身を変えたんだな。

「林檎ジュースがあるって聞いたけど、まだ俺の分も残ってる?」

名無しの二組級長の皮を被ったハシムがタオルで頭を拭きながら

訊いてきたんで、座卓の布巾で瓶の汗を拭き取ってから手渡した。

「あのさ、昔みたいに潤って呼び捨てでも大丈夫? 問題ない?」

「桜庭さん呼ばわりされるより気が楽。このチビの名前は潤だし」

顔を窓に向けたままで答えた。冷たいと思われても心は痛まない。

「それじゃ俺は潤の隣りに座らせてもらう。ここでも級長さんが

一番の上座に陣取ってんだなぁ。昔の学校時代から全く変化なし」

以前の副級長と級長の仲の悪さを知ってるハシムが同意を求めて

話を振ってきたけど聞こえない振りしといた。昔話したくねぇし。

「気づいたら湯上りで、全身が暑くて髪の毛も濡れてるんだけど

風呂に入った気分は微塵もねぇよ。自分で洗わねぇからだろうな」

今度は独り言っぽく不満を漏らした。器の立場になりゃハシムも

勝手に洗わせようって考えねぇだろ。同性でも見られたくねぇし。

「ふーん、ハシムがそう思うなら俺と融合してるソラも同じ事を

思ってるのかもな。あいつは無駄口を叩かない分、優秀だけどさ」

ヤッチ君が新参者に五寸釘を刺した。モンクちゃんの言うとおり

声が五月蠅いかもしれねぇな。物語の紡ぎ手としては優秀でも…。

「ああ、そういえば、ハシムはこの辺りの道には不案内なのか?

この時間に開いてる酒屋に行けなかったって聞いた。煙草屋なら

迷わず行けたのかもしれんが、今は誰も喫う奴いねぇから場所も

忘れちまったのかァ? 通学生も街にゃ出かけてたと思うけどな」

純粋な疑問と情報収集のため、この場面は意地悪役を引き受ける。

「うん…。酒屋の場所は知ってるのに行けなかった。おかしいよ。

ここは以前の世界にあった街に似てるけど違うんじゃねぇのかな」

そう言って口を押さえて黙り込んだ。似てるけど違う。俺と同じ。

「ハシムは、この異境の街と相性が悪かっただけ。僕らも仲間だ」

僕らって…。義兄は俺まで方向音痴の仲間に巻き込むつもりかよ。

「病室で横になって休息してる間、僕の思考をまとめてみたのだ。

この『夢幻の異境』は街の形をした生き物であると考慮するべき。

だから、人間同士のように相性が現れる。異境の街と馴染み深い

夏目宙が相性の良い代表格と断言可能。それで迷わされる事無く

小魚泥棒も単独で行動可能だったのだ。学校時代、街の楽器店に

足繁く通っていたカズも結びつきが強くて愛着がある分、気軽に

行動する事が可能であったと予測できる。僕は初回の侵入時の際

サクを捜して墓地の中を歩いていたら、寄宿舎の同室者のカズが

よく話を聞かせた商店街の楽器店に吸い寄せられるよう移動した。

二組の生徒二名が店内を覗き込んでいたのも僕に都合よく働いた。

その刹那、この異空間が生きている。駒を操る者がいると悟った」

林檎畑からの帰りに起きた四年生春の受難を振り払うかのように

風を読む眼差しで語ったモンクちゃん。街の形で生きてる異空間?


「全員お風呂から出た? 寝床の用意が整ったから休みなさい」


勝手場に通じる硝子引き戸が開いて刀自が姿を現した。ハシム、

いや、斎藤は風呂の後始末をきちんと済ませて出たんだろうか?

風呂場のボイラーが灯油式か瓦斯式かって事も気にしなかった。

これから刀自が入るかもしれないし、任せとくのが無難かもな。


この屋敷の造りは独特だ。勝手場から奥は厠や風呂場と離れた

別の繋がりになってる。仏間や刀自の寝室等があると思ったが

俺たちの寝床も勝手場から奥にある部屋に用意したんだろうか?

村の寄宿学校の生徒って身分が明らかなだけの初見のガキ共を

世話してくれた恩は忘れない。短い縁でも心から深く感謝する。


それぞれの荷物を手に持ち、刀自の後ろを一列になって続いた。


「狭いけど、二人の息子の部屋に二人ずつ休んでちょうだいね」

思ってたより長い廊下を途中で左に曲がって直ぐにある二間を

分けて使えとの事。雨風凌げて身体を伸ばして眠れるだけでも

有難いと思う。色々あったが寝て朝を迎えりゃ村へ向かうんだ。

行方知れずだった先輩とも無事連絡が取れたし、この異空間に

繋ぎ止められてるだけ前途洋々、全員が明るい未来へ繋がった。

必ず上手く運ぶと信じる。確実に現状打破へ近づいたんだから。

「本日は誠にありがとうございました。息子さん二人の私室を

使用させて頂くのは恐縮ですが、遠慮なく休ませて頂きます!」

四人を代表してモンクちゃんが刀自に向けて挨拶をしてくれた。


四人揃って一礼すると笑顔を見せ、刀自は勝手場に引っ込んだ。


「襖の柄は…奥が山水で、手前が笹霞だな…。どっちを選ぶ?」

ヤッチ君が仕切ってきたが、一組と二組で分かれるのが無難か。

「僕らが奥を選ぶのが妥当。ん?…廊下の突き当たりがドアだ」

壁と同じ木目調の壁紙で解り難くされてあるが注意深く見ると

単純に開け閉めできる蝶番が付いたドアだと分かった。義兄が

腕を伸ばすと厠へ行く廊下に通じてる。夜中の尿意も億劫がる

必要なさそうだ。よくこんな造りの屋敷を建てられたもんだよ。

私的空間と客人が出入りする区域を上手く分けてるのはスゴイ。

「忍者屋敷っぽくていいな。俺も自分で設計して建ててみたい」

荒廃した現世じゃ無理な相談だが、どんな夢を見るのも自由だ。

ヤッチ君の脳内に飼われるハムスターが回し車を大回転させて

面白い大邸宅を空想してるに違いない。最高の家を建ててくれ。


「サク、入ろう。明日は早いし、アラームをセットしなければ」


アラームという語句が出ると気持ちが萎える。目覚まし時計を

使うのが普通なのに、要は現世から来た俺たちが異端って事か。

携帯端末を時計や記録、連絡に使う。以前は考えられなかった

文明の利器、未だに何かと頼り切ってる。確かに便利だったし

端末から様々な情報が得られた時期もあったよ。高々三十年で

現世は荒廃の道を辿り、情報も閲覧できなくなって…寂しい…。


山水柄の襖を開けると灯りが点いてて、二床の布団が並んでる。


室内の机や本棚を見ると、十代で就職して家を出たって分かる。

他人に見られたくないモノもあるだろうし、家探しは失礼だな。


「この家で眠っても寝冷えはなさそうだ。上着は脱ぐとしよう」

俺に着せた二本線のジャージとは違うメーカー品のジャージの

ジッパーを下ろすと…半袖のTシャツの袖にアームカバーが…。


傍目じゃTシャツを重ね着してる印象になるよう身に着けてる。

白い半袖Tシャツに空色のアームカバーを合わせて着てた義兄。

ずっと着用してるのに汚れも傷みも目立たない不思議なカバー。

入浴時くらいしか外さないと思うよ。探偵の助手してた時代も

着けてたっけ。夜明けを待ちながら愛おしむように眺めてたな。

冬期も防寒具として役立ててた。心が靄つく不可解な魔法の品。


…?!…


隣りの部屋からヤッチ君とハシムが大笑いしてる声が聞こえた。

「僕が桔梗の間で見たのと似たようなモノを見つけたのだろう」

上着を脱いだ義兄は布団に身体を滑り込ませ面倒そうに喋った。

「桔梗の間?…んーと、斎藤の実家の旅館?…何を見たんだ?」

こんな場合、義兄の心に浮かんだ光景が見れりゃ便利なんだが

そう都合よく行かない。俺と疎遠になってた時期の話だろうし。

「昔の持病を忘れた所為で急上昇させた高血糖を通常の数値に

戻したのだ。身体中の血管が悲鳴を上げ、僕は非常に疲労した。

このまま寝かせて…あ、林檎果汁を居間の座卓に残したままだ。

まぁいい。あの小母さんが飲みたければ飲むだろう。おやすみ」

義兄から色々と聞きたい話が残ってるけど、明日に持ち越しか。


眠剤に頼らず眠れるようになって、モンクちゃんも成長したな。


べちゃくちゃ二組の名無し級長と名無し生徒の話し声が響いて

耳栓がありゃいいのにって思う。隣室は修学旅行の気分らしい。

正確にはヤッチ君とハシムの雑談だが矢鱈と笑い合ってる様子。

携帯端末を覗くと時刻は午後九時半近く、端末の充電したいが

勝手に使うのも気が引ける。普段なら一人静かに過ごす時間だ。

部屋の電球を消して自分の布団に潜り込んだ。晒し布の裏地が

縫い付けられた掻巻布団の肌触り、こいつも古き良き逸品だな。

隣りの二人は寝る気ねぇんだろうな。喋り明かす勢いで会話中。

微妙に内容が聞き取れねぇから雑音が耳に入ってるのと同じだ。


話し声よりラジオでも聴きたい。親友の奏でる音色が聴きたい。



あの日のまま


時を停めて過ごせたら


そんなんで良いワケねぇだろ!



停滞し続ける時間の中で静かな安らぎに満ちて過ごす。

理想的だが地面から離れて飛んでって蜘蛛の巣にでも

引っ掛かりそうだ。食われたり箒で掃われて終了だな。

今という現実を見据えて、しっかり地面を踏んで歩く。

大きな熊猫に取り憑かれてるバケモノの出した答えだ。



以前の世界と現世は違ってた。佐々木妙江と俺のスミレは

見分けのつかない双子だったのに双子じゃなかったもんな。

俺を生んだ本当の両親と再会する裏では竜崎家の義父殿が

動いてくれてたんだが、妙江さんからの拒絶的な態度には

形だけでも…和やかに…と考えてた俺も辟易した。以前の

佐々木家の養女になった妙江さんはスミレと息子の葬儀が

済んだ後、しばらくの間を空けた再会で双方の両親からの

勧めに従いたいと桜庭潤の別名、佐々木雅生の妻になると

申し出てくれた。内心イヤだったと思うよ。こんなチビの

奥さんになるなんて…当の俺だって鏡を見りゃ凹むもん…。


俺から断って潤は潤のまま、探偵の助手として生きたんだ。

理髪店跡の汚ったねぇ事務所、安月給、報われねぇ奴等と

向き合って生きたっけ。孤独でも仕事の相棒となったのが

今も隣りの布団に寝てるし、潤の生涯を否定する気はない。


現世じゃ思いきり拒絶の意志を貫いてくれて逆に清々した。


以前と出会いの形は違うけど、中央に出て竜崎菫と出会い

事細かく詳細を語るのは無理だがモデルや女優になっても

おかしくない美貌のスミレに凡庸な俺が執着されたんだよ。

騙し討ちに近い手口で既成事実を作られてのデキ婚だった。

運命の流れは俺にとっては『最高』と高笑いできる形だが

花田聖史は遠い昔から繋がりの深い寧さんと結ばれたけど

寧さんは死の淵に立ち、余命宣告を受けた状態での婚姻だ。

モンクちゃんと寧さんこそ誰もが羨む最高に幸せな二人の

生活を送ってほしかった。キメラ猫なんかの記憶を被らず

普通の人間として…妻子に囲まれ、暮らしてほしかった…。


俺も開けなくていい扉を開けて現在に至る。死にたかった。


親友と一緒に舞台の袖裏へ特攻を仕掛けて散りゃ良かった。

何故か熊猫は兎より蝙蝠を選んだ。親友が戻ると信じて…。


蝙蝠は静かに生涯を閉じた。ここでリンバラと会ったんで

気持ちは複雑だ。雨が降る前みてぇな眼差しは憂鬱になる。

本心じゃ言いたくねぇのに厭味を幾つも投げつけたくなる。

遠い昔の我が子は心を洗い清めて、一人で天へ還ったんだ。


探偵助手として仕えた時期、一緒に旅をした時期もあった。


自分なりに向き合ってきたんだ。肯定したいから努力した。

自分と妻だった女性の血を受け継いだ息子が全盲だった事、

同性愛の傾向があった現実を受け付けられずに拒絶もした。

長い紆余曲折を経て、色々な形で向き合ってきて良かった。

曇り空みてぇな瞳をしてるのに、それでいて何故か青空を

思わせる穏やかな眼差しで直向きに善良な行いを続けてた。

最後は親友も認めた『最高に格好良い探偵』になった息子。

あいつが牢獄世界から旅立つ事が出来て、本当に良かった。


百年以上も昔の話を蒸し返したりしても無駄だと知ってる。


手に入れたモノたちは全て泡沫。消えて去った。何も無い。

我が心に煌めく宝玉、覗いて愉しむ泡沫の儚き者となった。

夢でも逢いたい。そう望んでも現れてくれない薄情者たち。


序でに言うと金縛りも未経験、霊感は無いと胸張って言えそうだ。


自分の妻子も死なせないための反側、家族として暮らせた奇跡は

どれだけ感謝しても足りねぇよ。賽の目を動かした奴が…いる…。


だから迎えた現世の終焉の危機、それを止めるため俺たちは闘う。

ハシムが切り出した『停滞に流れを生む目的で最前線へ向かう旅』


村の寄宿舎付学校にはバケモノに憑かれる前の俺たちが…いる…。


あの学校には現世じゃ全く姿を見せなかった校長の一族がいる筈。

そいつらに勝負を挑むか何かすりゃ現世に大きな流れが生じる筈。


そう強く信じて戦う。塞の生き残り女子たちへの土産は…希望…。


グッドナイト、皆様方。隣室からの笑い声が気に障るけど寝よう。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


音を小さめに絞った携帯端末のアラームが鳴り響いて目が覚めた。


遮光性の低い薄っぺらな格子柄のカーテンから朝の光が射し込み

時間の経過を知る。あれから寝たんだろうけど疲労が抜けてない。

夢は見てない。というか記憶に残らねぇんだよ。俺の夢は薄情者。


首を右に向けたら既に布団が畳まれ、居ない。朝の自主清掃でも

始めてんじゃねぇだろうかなァ。刀自からの評価一番を狙うなら

名無しの一組級長は表の掃除をするのが手っ取り早いと考える筈。

液晶板が知らせる時刻は午前六時過ぎ。それより早く起きるのは

モンクちゃんにとっては余裕で可能な芸当だもん。血糖値測定や

自己注射も済ませてるかもな。刀自には持病を隠したいようだし。


頭は働いてる。俺も身体を起こして傍を楽にする行動開始するか。


昨夜は刀自一人に布団敷きをさせて申し訳なく思うが、ガキ共が

たいして役に立たないと踏んだに違いない。寄宿舎で殆んど毎日

布団の上げ下げしてたのに、その肝心な部分を説明してなかった。

押し入れに布団を入れるのが肝心要なんだ。刀自が腰を痛めちゃ

心苦しいもん。この俺が義兄の布団も一緒に仕舞っといてやろう。


しかし、誰より気の利く男を自称するモンクちゃんが布団一式を

押し入れに片付けてないのが気になる。見ちゃいけねぇモノでも

見つけて放置したって筋書きもありそうだ。静かに覗いてみよう。



…?!…



押し入れじゃなかった。この襖、隣りの部屋に通じてやがるのか。


道理で矢鱈と隣りの二人の声が響いてきた訳だ。襖越しだもんな。

変わった造りの屋敷だな。和室に布団を仕舞う所がないのは変だ。

一体どんな大工が設計したんだろうって疑問が湧く。不手際だよ。


ヤッチ君と斎藤の姿したハシムが眠り込んでる。アラームの音で

起きなかったし、不用意に声かけて不機嫌な表情を見る必要ねえ。

昨夜は随分と話し込んでたみてぇだし、朝食まで放っといてや…?


どうして隣室の机の上に…斎藤和眞…の写真が飾ってあるんだよ?


自然な笑顔の白黒写真だ。落ち着いた木目調の額に収められてる。

黒縁眼鏡をかけた学校二組の級長、斎藤和眞と断言可能な写真だ。

この異空間はカラー写真が珍しかった時代と窺える。携帯端末で

自撮りって奇妙な習慣も珍しいを通り越して全然なかった筈だし

昨夜の斎藤が誰からも案内を請わずに浴室へ行けた事を考えりゃ

ここは親類の屋敷なのかも…。否、刀自から一言も挨拶なかった。

斎藤は陰鬱な表情で廊下に立ってた。親類だったら雑談の一つも

交わして当…あ、いや、待てよ。こっちじゃ姿が違うんだっけ…。

ここでの斎藤は眼鏡を外し、愁いを湛えた美形男子の容姿なんだ。


そこの布団に寝てる奴と写真の人物は、普通に別人と断定できる。


『僕が桔梗の間で見たのと似たようなモノを見つけたのだろう』


眠りに就く間際にモンクちゃんが話してたな。コレがそうなのか?

昨夜の二人が大笑いしてたのは、この写真が原因なんじゃねぇの?


昨晩、屋敷の廊下で陰鬱な表情して斎藤が立ってた理由はきっと

この写真を見ちまったのが原因かもしれねぇよな。考えてみりゃ

赤いフレームの眼鏡をかけた刀自は斎藤和眞に面影が重なる感じ。

この部屋の主である息子さんの写真を飾ってる。そんな気がする。

机の上には写真だけじゃなく、花瓶に白百合の花が活けられてる。

刀自にとって『偲ぶ場所』の部屋だ。それで息子さんの写真を…。


ロールキャベツについての語りが変化した理由は二番目の息子が

帰省する事さえ出来なくなったから。真相を見せられるとキツイ。

それにしても同一人物と勘違いしそうなくらい斎藤和眞に似てる。

この異空間で腹を抱えて笑ってる奴が何処かに潜んでるのかもな。


遊んでやがる。遊ばれてる方は堪ったもんじゃねぇ。ぶっ飛ばす!


「おまえ等はいつまで惰眠を貪る気でいるのだ。朝食を戴いたら

村へ出発するというのに。昨夜、眠りに就くとき僕が決めた予定。

小魚泥棒、村元、早急に起きろ! 僕に撃たれたくなかったら…」


背後から勢いよく声を張り上げてる義兄の登場だ。朝から絶好調?


「んー?…花田は鬱…撃つ?…無関係な家を事件現場にするな!」

最後の台詞は絶叫。不機嫌な表情したヤッチ君が身体を起こした。


義兄に撃たれて斎藤に寄生した状態のハシムも不機嫌面で起きた。

現世じゃ不貞腐れ全開の陰鬱な表情が元から得意な斎藤が器だし

斎藤が寝てるハシムを強制的に起こしたのかもな。元親友の声を

耳にしたら何か思う筈。氷りついた瞳で俺たちを睨むよう見てる。


「遅いが、お早うと挨拶しよう。全員洗顔を済ませて居間へ来い」


伊達眼鏡とマスクを外した素顔の義兄は面皰が目立って痛々しい。

上記の発言を済ませると、くるぅりと背を向け部屋から出てった。

アラームが鳴るのを知ってて様子を見に来たんだな。相変わらず

冷たいように見せかけて温かいのが現世の義兄、モンクちゃんだ。

立つ舞台が変わると筋書きの変更はあっても堂々と演じてくれる。

安心して共演できる仲間でバケモノとしては俺の先輩になる存在。


周囲に辛いとこ見せない強かさを現世の修行で会得した一組級長。


「あのマイペースには俺も敵わねぇや。朝っぱらから絶好調だな。

こっちは夜中に二人で抜け出して、浅井家の御堂を確認してきて

疲れてるって正直に話しても聞くような花田じゃねぇのは、長年

関わってきたんで知ってる。後で薬局から滋養剤を買って飲もう。

それは兎も角として、そこの襖は押し入れじゃないのか。桜庭も

起きたばかりって顔してる。花田以外は寄る年波に勝てねぇよな」

そんなヤッチ君も起きたばっかりなのによく舌が動くよ。元気だ。

それに俺たちの知らぬ間に屋敷を抜け出して御堂へ行ってたのか。

しかし、宵闇に紛れて侵入したって宝石の状態が分かるのか謎だ。

疑念が生じると途端に靄つくが、それをぶつけても意味ねぇケド。

「俺も押し入れだと思ったんで布団を仕舞うつもりで襖を開けた。

寝起きの無防備な姿を眺める趣味はねぇし、とりあえず厠に行く」

そう宣言して襖を閉めた。軽く頭痛がする。モンクちゃん以外は

揃って不調かもな…。もちろん一番の不調を抱えてる奴は誰かと

問われたら義兄と答えるよ。元気なようでも命に関わる持病だし。


布団を畳んでから荷物を持ち、世話になった部屋に一礼して出た。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「刻み葱の入った納豆に根曲り竹と若布の味噌汁、塩辛い焼き鮭、

懐かしいにも程があるって朝メシだったよなぁ。一つ欲を言えば

あの小母さんが作った玉子焼きが食いたかったな。甘塩っぱくて

懐かしい味付けなんじゃねぇかと思うよ。いっそ居候しようかな」


車を発進させたヤッチ君が自分の眠気覚ましを兼ねてだと思うが

威勢よく朝食の感想を喋り出した。葱入りの納豆ご飯は現世じゃ

食えない。豆腐も乾物の高野豆腐か冷凍の厚揚げくらいしかない。

まずは何とか大豆を実らせ、豆腐作りを学ばなきゃ話にならない。


それに葉物野菜がほしい。お浸しの味はヤッチ君には早かったか。

白菜や法蓮草の皿に箸を伸ばしてなかった気がする。野菜嫌いも

調理次第で好きになる筈。いつか全員に美味いと言わせる野菜を

育てる事を目標にするのも悪くない。心の清閑な社に祈りを捧ぐ。


「小魚泥棒は残念だったな。僕とサクは初回の訪問時に出された

昼食の際、小母さんの作った絶品の玉子焼きを口にしているのだ。

甘さも程好くおろし醤油とよく合って美味だった。羨ましいか?」

義弟として心で諌める。義兄は口の聞き方を何とかした方がいい。

「昼食で出されてたのか。村からの帰りに何か手土産でも持って

また図々しく寄らせてもらうとしようか。ちょうど昼飯前にでも」

多少の言葉の棘くらい動じないヤッチ君は難無く和やかに収めた。


悪路で一時間近くかかりそうだが、四人は懐かしい村へ侵入する。


ここは特異な異空間らしいが通勤する労働者たちの姿が目に付く。

この異空間じゃ現世で失われた生産、物流、消費が成り立ってる。

そう思うと歯痒い。決して亡霊じゃなく朝の陽射しを浴びて人の

影が視界に映ってる。夢みてぇな幻影とは違う。生きた人々の姿。


…!!…


この異空間に出入りして働き口を見つけりゃ金銭を稼げるんだよ。

それで買い物できるんだ。現世の全員が移住すりゃいいんじゃ…。

しかし、ここは歪んで拗けて千切れ落ちたような異空間でもある。

俺たちの姿も以前の状態に戻されたんだよ。現世に生まれ育った

生き残り女子たちにどんな影響が及ぶか分からない。やめとこう。


兎に角、村へ行こう。モンクちゃんの様子も見守ってやらなきゃ。


斎藤は携帯機器で音楽を聴いてるようだ。斎藤かハシムかは不明。

モンクちゃんは車内で喧嘩せず車窓を眺めて過ごしてる。義兄が

黙ってるから運転手のヤッチ君が代行して彼是と実況し続けてる。

「あの屋敷は居心地好かった。古き良き時代を凝縮してたもんな。

唯一の不満は、早起きした筈の花田が洗面所を独占したくらいか。

洗顔なら兎も角、歯磨きくらい化粧台から離れてても出来るだろ。

まあ、歯医者が居ない現状だから神経質になる気持ちは分かるが

鏡を覗き込んで歯のチェックが長すぎる。人並みの容姿のクセに」

一組級長は無類の紅茶好きだから歯の着色汚れを気にしてるんだ。

消費者からの多様な要望に応えた商品、肝心の歯科医に通えりゃ

モンクちゃんだって神経質にならなくて済む筈。あ、そういえば

塞から姿を消した反則氏も俺の知る限り、三食の後には歯磨きを

欠かさなかったっけ…。反則氏を思うと寄宿舎の洗面所で丁寧に

歯を磨く姿が真っ先に浮かぶ。不快な音も立てず気品ある所作で。

着替えとかの荷物を持ってねぇだろうと203号室の家捜しした

ヤッチ君が教えてくれたけど、食いもんや洗面道具とか何もなく

どうやって自転車の旅を続けられるんだよ。戻ってりゃいいケド。


バケモノでも新陳代謝が行われる不可解な身体を養う必要がある。

汗かいて汚れた身体を洗い清める必要がある。普通の人間らしく

衣食住を満たしてやらねぇと苦しむって時点でバケモノ失格だよ。

こっちは働いて日銭を稼いで飯を食ってたんだ。バケモノなのに。

そんな時間を過ごし続けるのに疲れてきた。人間として生涯を…。


「空元気で車道を突っ走ってみせてるものの、気ィ失うのが怖い。

滋養ドリンクの他にもう一つ買い足しときたい品を思い出したし

街道の途中にある適当な薬局に寄らせてもらう。すぐ済ませるよ」


俺たちの分身が存在する村の学校まで行くんだから

ヤッチ君の逸る気持ちが口を動かしてると思われる。

真夜中に冒険したと話してたが、疲労感は窺えない。

昂った心境が肉体の疲れを吹き飛ばしてるんだろう。

薬局で何か買いたい品がある言い訳だと俺は思った。

誰かが運転を変わる必要なさそうだ。俺は義兄から

鎮痛剤をもらって服用したものの、まだ効き目なし。

神経が昂りゃ頭痛だの言う気分も吹っ飛ぶだろうが

今のところ、気分を高揚させた男子はヤッチ君だけ。


ヤッチ君は出掛けに刀自へ謝礼金を渡そうとした。刀自は微笑み

「そういうのは大人になってから。またいつでも遊びに来なさい」

そう言ってくれたんで、感謝を込めて四人揃って深く頭を下げた。


初めて訪ねた食後に出された雁が音、義兄の我儘な訪問で夕食に

出してもらったロールキャベツの味は忘れない。忘れたくはない。


厠の小窓から感じた金木犀の香りは謎のまま、再び訪ねた際には

刀自に訊いてみるか、屋敷の庭を歩かせてもらえば分かるだろう。

笹霞の部屋に飾られた写真と花も気になるが、そいつは聞かない。

知らなくていい。そんな気がする。興味本位の見聞は必要ねぇし。


本日が何月何日か季節も分からないまま、車は道路をひた走った。


街と村を結ぶ道に入りゃ建物もなく山林を切り開いた光景となる。

田畑へ向かうのか帰るのか農作業の格好をした人々も目に入った。

夢幻の異境と呼ばれようと今ここに生きてるのは間違いない者の

姿を心に焼きつけた。現世も今後は似たような光景が目に入るさ。

きっと俺たち侵入者が最高に上手く運んでやる。あの牢獄世界に

革命を起こし、牢獄と呼ばなくて済むよう俺たちは戦ってみせる。


「見ろ。今日も水洗いしたかのような天空だ。外歩きしたくなる」


薬局に寄った車から出たモンクちゃんが空を見上げ大声で伝えた。

外歩きしたくねぇよ。散々おかしな方向へ繋がって奇妙な女児に

出会ったりしたんだっけ。心当たりない女児は何だったんだろう?


「奇妙な幻影に惑わされる必要ない。僕らは正しき道を辿るのだ」


涼しげな眼差しの義兄が座席に戻って応答した。何故なのか俺は

一人で外を歩くと、女性絡みの受難に遭ってばかりの運命だった。


遠い昔、両親から生まれた家を追い出されて路頭に迷ったときも

老齢の侍女に俺の体格を見込まれ、女主人の屋敷の使用人として

務める事になったんだよな。或る意味、不幸の始まりだったかも

しれないが、給金と土産を手にして実家へ帰ると弟や妹に慕われ

両親たちからも喜ばれたっけ。和やかに微笑ましく過ごした時が

あった以上、死ねずに生き続ける数奇な運命を呪うつもりはない。


現世でも親友のバカな服装の件で女子たちに囲まれ、糾弾されて

散々な目に遭ったが過ぎ去った出来事だ。蒸し返す気になれない。


今ここにいる自分を否定して虐めて何になるんだよ。時間の無駄。


気づいたら高名な女占い師の亭主に納まってたのが不思議だけど

誰が父か知らない継子の女児が可愛くて出会えて良かったと思う。


今も俺の右側に座ってる。以前の世界や現世で性別が変わっても

俺には遠い昔の無邪気な姿が眼に焼きついてる。だから守りたい。

女児には異父弟となる実子を背負って可愛がってくれた恩もある。

重篤な病に侵されていた事を知らず痩せ細っていく継子に栄養を

付けようと果物や饅頭を与え続け…死なせた無知な継父だった…。


「お待たせ。ここから先はノンストップで村へ乗り込んでやろう」


何を買い込んだか訊かねぇが大きな袋をトランクに仕舞い込むと

無邪気そうな笑顔で車を再発進させたヤッチ君。魚の停滞効果で

食欲等が制御されてる俺たち。トイレ休憩も必要ない不思議な旅。

少しばかり我儘になった義兄が無理言って車外で休憩してたんだ。

一人キャンプ気分で飯盒炊爨したようだが、俺は心が分離してて

付き合う気力ゼロ。必死になって電話をかけ続ける状態だったし

仲間たちとの遣り取りなんか憶えてらんねぇ。トンネルの手前で

やっと抜けてた魂が肉体に収納された感じ。完全回復を目指して

心身を落ち着けなきゃ。きっと上手く運命を最高に導いてみせる。

賽の目を操る者に惑わされるな。そんな奴、実は何処にもイナイ。


後ろを向いてちゃダメだ。現状を受け入れて、最善を選び取ろう。


信号もねぇ自動車が擦れ違うのも難しい幅の街道を村に向かって

走らせていく。傷んだ舗装路は懐かしいが戻れない時間と重なる。

もし俺の分身を見つけても何のアドバイスもしてやるつもりねえ。

季節のない異空間に囚われた俺の分身は今を大切に生きてほしい。

過去の失敗を清算して遣り直しできるなら…俺が先に実行する…。



ヤッチ君が運転する車は呆気なく塞の神の祠を通り過ぎて行った。



あの場所に捨てられた赤ん坊は死ねないバケモノの仲間となって

年齢は百三十一歳、今の見た目じゃ誰も信じそうにない事実だが

異空間の牢獄世界に囚われながら生き続ける現実の中に…いる…。


時折、車のタイヤが路面の凹凸を踏む感触が微かに伝わってくる。


向かってる。徐々に近づいてる。そう感じても俺の心は逸らない。

車窓に映る気持ち良く晴れ渡る空を眺めても俺の心は重たいまま。

取り返しつかない過ちをした俺が堪らなくイヤで我慢できなくて

学校のある村へ行きたくないのかもしれない。もしかしたら今も

あの一軒家で、スミレは寧さんと坂田さんの三人で逗留中かもな。


俺を止めよう。人殺しと同じ道を辿る。バカな真似すんなって…。


ダメだ。かなり自己中に陥ってる。俺たちは何しに村へ行くのか

よく考えてみろ。たった一つの目的を達成したくて訪れた異空間。

通り過ぎた道筋を繰り返し心の眼で追っても時間は戻って来ない。

現世じゃ一家の亭主が腹立つくらい好き勝手に遊び暮らした二人。

以前とは違う安穏な道を歩んだって俺自身が納得すりゃ済む話だ。



現世を生きる俺は義兄の夢を叶えるため、全力で現状を打破する。



それが遠い昔の継父が出来る継子への…罪滅ぼし…だと信じたい。









◆クラブノ二. 花田聖史



サクが助手席側に着いたのも有効的だったに違いない。

街の共同墓地に関する記憶を消去させた効果が出てる。


小魚泥棒が運転する車は何事も無く通り過ぎて行った。


共同墓地を訪ねても白木の墓標など立てられてイナイ。

村の浅井は自死してイナイ。学校へ行けば再会でキル。


逢いたくない三組の副級長でも彰太君は優れた働きを

見せてくれたし、彼の助力で村の学校は再始動できた。

彼の功績を讃える。奈落の底辺に落とされようと僕が

弁護人を引き受けよう。彼の全面無罪を強く主張する。


そもそも罪を作り上げ、地にしがみ付き嘆くのは当人。


落ち着き払って、雲の上を越す勢いで飛び立てばいい。

飛べないと思い込むのは止めろ。不安に陥るのも禁止。

思ったより遥かに自然体と気づく。自分の影も消える。


足枷を外せ。思いきり自由を愉しむ星霜が与えられる。


遠い昔、広場で催された市で邂逅した富裕層の少女と

現世では村の学校を卒業した年月を十二年ほど過ぎて

或る人物より手紙を受け取り読んだことが縁の結び目、

僕へ依頼した者との約束を果たすため、彰太君と共に

村の学校を再始動させる計画を起ち上げ、彼の協力で

廃墟同然だった校舎が息を吹き返し、目標は達成した。


漠然と夢想するだけじゃ面白くない。心に描いた夢を

現実のモノとして掴もう。出来た。燦爛たる完遂体験。


僕の思いを高く掲げよう。自信とは自分を信じること。


思いを貫けば世界は姿を変える。現世に存在する魔法。

白旗など揚げてなるものか。見上げた空こそ僕の旗章。


僕が塵と埃を掃い除けば魔法発動。雨雲を吹き飛ばし

洗い流された空の色だけ残される天。僕が好きな色で

見下ろしてくれたら喜ばしい。多彩な青空が僕の朋輩。

いつでも僕の声を耳にして、眠れぬ夜に綴った手紙を

目にしてくれる。適度な間合いで僕を見守る最高の友。


たった一人で残された世界に何も求めるつもりはない。


そう悟った以上、この僕が全力で現状打破に臨場する。

立ち塞がってるつもりの障壁など僕が容易に撃ち抜く。

何の躊躇いも無用と知った以上、平然と弾を撃ち放つ。

この僕に何一つ不備はない。筋書きは出来上がってる。


天下無双のバケモノ猫が紅き龍を退治する。感謝しろ!


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「ノブが待ち構えてる可能性が高いな。この辺に車を停めとくか」


背の高い草に覆われて誤魔化せる場所に車を停車させた。車体に

擦り傷くらい問題ない。この場に乗り捨てる覚悟は出来てる様子。

流石の僕も小鼠と軽視できない気概だ。長大な記憶を受け継いで

谷地なりに思うところがあった模様。計画を実行へ移す予定なら

協力してやらないでもない。僕らは…檻の中に収まる必要など…。


「ここから学校まで歩くのか。俺の靴を買い換えときゃ良かった」


臙脂の二本線入りジャージを律儀に着てるサクが不満を漏らした。

「その必要は無用となった。手持ちの動きやすい衣服に着替えろ。

靴も逃げ遂せる耐久性の高くて靴擦れしない運動靴を履くように」

僕らがバケモノである現実を忘れるほど疲れ果てたのだと察する。

「えぇ? だって、ここは夢幻の異境に置かれた村なんだろう?」

「以前の僕らに想いを馳せる一夜があってもいいと考えた次第だ。

僕らは思うがまま自在に容貌を変化できるバケモノだというのに。

この僕は滅多な場合では容貌を変化しなかったが、必要に応じて

臨機応変に対処してきたのだ。この車の運転席と助手席に座った

学校二組に在籍した二人の過去を思い出せ。本物のバケモノを…」

「花田が説明するバケモノの本物と偽物の違い、俺も聞きてぇな」

運転好きな小鼠が後ろを向いて生意気な口を聞いても無視に限る。


助手席に着く者は何も聞かせずドアハンドルを押し開け、車外へ。

心の声も聞けない以上、器の中に満たされてる意識は村元だろう。

村の通学生だった寄生魚が景色を眺める猶予は、この僕が与える。


僕の無言には慣れてる小魚泥棒も抗議の一瞥してから車外へ出た。


「変身つっても実は未経験なんだよ。どうやんの?」

本来の風貌に優れた者である故、贅を極めた未経験。

長い年月、何をして過ごしたか逆に聞きたくなるが

お互いに空白期間を経たから信頼できる仲となった。

「サクには永遠に小柄なままでいる許可を与えよう。

以前の世界でも難無く探偵助手が勤められたのだし」

車内は窮屈だった。洗い清められた空を見上げよう。

「いや、あのさァ、もしかしたら三人で俺のこと…」


手腕が憶えたドアハンドルを押し開ける動作をした。


バッグから取り出した携帯端末の液晶画面を確認すると、時刻は

午前九時を十五分過ぎていた。通常なら学校は一時限目の授業中。

しかし、携帯端末に表示される日付は異空間で通用しないらしく

曜日も季節さえ把握できない。不可思議な状況下に置かれている。

それならば、僕自身が好む服を着るのが正しい。装備を固めよう。


既にトランクは開けられた状態だった。春とも秋とも判別不可能。

山の色合いに季節を告げる色彩が皆無な事態は不気味と表現可能。

山紫水明と呼びたい風情なのは確かであるが、何か抜け落ちてる。

遠い昔から変わることなく僕を安心させてくれる存在は天空だけ。

足元の地面より決して手の届かない世界、心から憧れて已まない。


着替えを済ませ、大きな紙袋を抱えてる小鼠と小鳥が離れてから

トランクへ向かった。風が肌を刺す。移動中の服装に着替えよう。


季節も日付も無い異空間である以上、他人の思惑は意に介さない。


ざわめく。雑木林と風が奏でる音は遠い昔から僕の神経に障った。

この僕が村に入った歓迎の音楽がコレとは…死神には相応しい…。


…?!…


村元が後部座席に近づくと、口を押さえて笑ってる。何が起きた?


「桜庭さん、面白芸人すぎますってば。元の大きさに戻れたなら

また小柄になりゃいいだけの話でしょ。焦らないで以前の姿へ…」


サクを桜庭さん呼ばわりしたということは器と中身が完全に一致。


前日の遣り取りを振り返ると寄生魚である村元は現世で副級長と

呼称したサクを以前の学校時代のように潤と呼び捨てにしていた。

一組の三人の「じゅん」を区別なく呼び捨てにした周囲の人物は

村元に限らず殆ど全員と断言可能。三人とも姓がない背景を持つ。

それでも一組の副級長という肩書きを得た潤は周囲から基本的に

副級長と呼ばれていた。少しでも区別しないと音の響きで混乱し、

様々なところで支障を来すのだから仕方がない。僕も文書以外は

副級長と呼んできた。姓名は便利だ。名無しの気楽さも承知だが

個人の特定に関しては重要な手掛かりとなる。僕のように現世は

関わる下賤を苗字で呼び捨てする主義を貫く者には打って付けだ。


「コツを掴んだら問題ないでしょ? じゃあ、俺とアッちゃんは

シンちゃんが村道で張り込んでいないか先に行かせてもらいます。

特に異常ないなら適当な場所に潜んで待ってまーす。乞う御期待」


僕の方を一瞥しようともせず、空き地から姿を消した小鼠と小鳥。


「コツと言えるか分かんねぇけど、思えば器の形も変わるんだな」

カズを大笑いさせた臙脂のジャージを着た小柄のサクが車を降り、

話しかけてきた。ここは夢幻の異境、思うことで空だって飛べる。

恐怖心を完全に除去した後、この僕が飛び立って御覧に入れよう。


「動きやすい服装ってもなァ…。ジャージの持ち合わせはねぇし

パーカーとカーゴパンツの組み合わせでいいや。あ、そういやァ

モンクちゃんは暑くねぇの? その重装備は動きづらそうだけど」

トランクから手荷物を出し、バックパックから折り畳んだ衣服を

取り出して汚れや畳み皺を検めてみせた。僕から見ても異常なし。


「僕に問題がなければ動きづらいだの周りに言われる筋合イナイ。

僕は現世の忌まわしい山を眺めよう。その間に着替えを済ませろ」

この僕の命令口調も優位を示す馬鹿らしい子供の遊びに過ぎない。


秋の訪れで散り落ちる広葉樹の葉と同じモノ。僅かな合間の儚く

美しきモノが秋風に舞う姿を想う。心を空にした無心で見つめる。


光と色彩。遠い昔から人の心を動かし惑わせてきた。無限の夢幻。

僕が見るアメトリン・カテドラルも緑の彩りが風に踊らされてる。

山の上に占める天空の眩さ。遥かに上級であると告げて…いる…。


八の次の九は宇宙と呼ばれる空間になる。望月は数字に喩えると

「九の領域」を進んでる。進んでるのは幻覚。動いてなどイナイ。

時間も距離も無意味な世界を漂い彷徨う。距離を時間で割っても

速度は出せないのだ。不可視の気流は心に任せて自転車を漕いで

移動して遊んでる真っ最中か。或いは遊ばれてるのかもしれない。

今頃、銀色の自転車は紅き龍の長い腹の中を通行中かもしれない。

望月の視界には平坦な路上を漕いで進む幻影が映ってるだろうが。


目的地に辿り着けるか否かは橙羊先生の望月自身が決めるだろう。


苗字で呼び捨てても心の底には彼を敬う気持ちが残ってるらしい。

この僕が先生との歩き旅の日々で学んだのは主に絶望感となるが

血肉に囚われた者が求めるモノが何か、身を持って叩き込まれた。

だから、取り除いた時期もあった。僕が背負ってる視えない弟も

女性に近い容貌ほど喜ぶようだし、訊かれても答えない性別不明。

そうやって誤魔化し取り繕って旅を続けた。先生に心配されても

「何もありませんでした」有を無に変え、全てを流した同行者は

先生から卒業する結末を選んだ。空の変遷と同じモノ。始まりが

あれば終わりを迎えるのは至極当然。僕と先生が手を差し伸べた

紅玉の少女が少年の姿となり、橙羊先生の二代目同行者となった。


数多の雲が天空を渡って迎えた季節の移り変わりにしか過ぎない。


僕という器の中身を弟に明け渡し、何をしても構わないと告げて

眠りに就いて、僕として目覚めると寝所が紅い炎に包まれていた。

見知らぬ土地での出来事。弟は僕の身体を利用して男性に嫁いで

このような最悪の事態を招いたようだ。一つの集落を壊滅させた。

弟から事情を訊こうとしたが…回線切断…。急いで安全な場所へ

避難した。集落全体が延焼する様子を眺め、夜が明けたら珍しく

鼠が馬車に乗って僕らを迎えに来た。馬車を操るのは少年姿の鹿。

小さな茶店の営業を辞めた鹿は鼠の秘書に近い役割に就いていた。


鹿に羊の先生の行方を尋ねた憶えもあるが、心模様に任せた旅を

続けてるのだろうということで心痛を落ち着けた。気紛れな羊雲。

先生にしてみれば鞄持ちは鼠から押し付けられた足枷だったから

足枷が取り除かれ、今頃は気の向くまま旅の空の下を歩いてる筈。

世界の果てにいようが先生は傷病を癒す者としての務めを果たす。


気を取り直した頃には、僕の中身が重くなっていたのに気づいた。


どうしようもない現実と共に生き続ける三位一体のバケモノ誕生。

小さな茶店の営業を任された頃、時と場合に拠っては中身を変え

二人に任せてきた。どのような賽の目が出ようが文句は言わない。

そうやって一緒に存在し続けた二人と漸く縁の糸が切り離された。

遠い昔キメラ猫だったバケモノの現在は単なる白い猫に過ぎない。


手紙での依頼を引き受けた。僕自身が一介の職員として奉仕した。


知らなくていい。三者三様の心模様を映すことなく生き永らえた

無間奈落から解放された喜びは僕一人の恩賞だ。知らなくていい。


現世に生まれた僕は歓喜に満ちた奇跡を与えられた真実を知らず

学校の卒業前にコンタクトしてきた存在の能力を頼ってしまった。

そして、玉手箱を開けた浦島太郎は死ねないバケモノ猫の記憶に

憑かれて生き続ける限り、ふてぶてしいほどに強かな存在として

仲間たちの記憶に留まってみせる所存。泣くより笑った方がいい。


都会での暮らしを止め、実家へ帰ってからの日常も馴染めずに…。


僕なりに気を利かせた行為で家族へ日頃の感謝を告げているのに

返されるのは微妙な笑顔、給与を必要としない身の上でも心愁う

日々を過ごすしかなかった。何処へ向かえば落ち着くのか考えた。


ここにいても微妙な笑顔に囲まれて意気消沈し続けると察したら

誰だって心からの笑顔を向けられる場所を探し出そうと考える筈。


手を動かしてないと悲嘆に暮れて、馬鹿げた考えに囚われるから

村の学校を再始動させたり、譫言探偵の施設職員となって働いた。

ソレもコレも自分自身について振り返る暇を持たないためだった。


譫言探偵には亡き妻が僕に託した品を預けた。正しき選択をした

報酬が僕の両腕に着けた青天だ。最期…糸の切れた人形となった

世界に一人しかイナイ…僕の親友から贈られた魔法仕掛けの品物。

汚れない。傷まない。経年劣化しない。あまりにも不思議な遺品。

糸の繋がった人形は忘れてる。あいつが思い出すと魔法の効力も

消え去るに違イナイ。だから、両腕を見せても種明かしはしナイ。


長い長い記憶の行き場を持て余した頃は、文章の記述に熱中した。


就眠時に見る夢と似た日々から覚めた。この悪夢からも目覚める。

夢に実を求める必要ない。この村と同じ幻影。忘れ去られるモノ。


いい加減に忘れて構わない過去を手放すとしよう。そうすべきだ。


叶えたい夢を夢想で終わらせず、現実にしたくて異空間を訪れた。

糸口はサクの手で繋がれた。夢想は現実に姿を変えたと断言可能。


「村の景色に見惚れるのも悪くないケド、そろそろ移動しない?」


…?!…


サクが僕の右側に並び立ち、同じ景色を眺めようとしたようだが

時間の方が気懸りだった様子。異空間で気にする話じゃないノ二。

「サクは最低二人以上での行動を好むようだ。僕とは相容れない」

現世に於ける中央の警備会社の仕事で集団行動を叩き込まれても

時間にすれば百年以上も前の昔話だ。僕が単独行動を好む性質と

分かっただけの職歴だった。小鼠と小鳥が待ってる。道を歩こう。


「そういうワケじゃねぇよ。群れて歩く連中は碌な真似しねぇし」

現世と以前の世界でもサクを必要とする連中に囲まれ賑わってた。

そのサクが以前の世界では某女子の誘いに応じて騒動を起こした。

憎悪に火の点いた僕は潤が孤立するよう陰で動いた。卑劣で最低。


長い冷戦状態を経た関係だったが、卒業後に職場の同僚となった。


糸の切れた人形を見て、切れた心の糸が再び繋がるまで幾年月を

必要としただろう。この僕も結局は上からの指示に従い動く人形。

心が哀傷に囚われると両腕に着けた青天を眺めて堪えた僕の生涯。


潤には感謝してる。頼りない相棒を支えて共に歩んでくれた傍輩。


指摘された僕が改善すべき点は幾星霜かけても直していく心構え。

同じ身長である所為か同じ歩幅で歩んでいく。それを避けるよう

一歩前を歩いた。村道は傷んだ舗装路、足を取られて転ばぬよう

気をつけて歩みを進めねば。以前は村道の癖も足が憶えていたが

現世は以前と様相が違う故、大方を忘れてる。黄信号が点灯して

僕に注意を呼び掛ける。鯨…いや、二組の信は現れたのだろうか?


二組の生徒だった二人に任せれば信に登校するよう容易く促す筈。


学校を目指して懐かしい村道を歩いて行く。現世では村の学校を

再始動させる目的で僕と村の浅井が道路標識や表示、信号機等の

設置に尽力した時期を思い出す。しかし、ここは異空間。僕らの

粉骨砕身の業績が生まれる以前の遠くへ過ぎ去った風景が占める。


現世が終焉を仄めかせようと、春に芽を出す種子を見つけ出そう。


僕はクラブの2。フォーカードに並んで初めて存在価値が生じる。

ファイブカードと変容させるカード。といっても普通は知らない

者が多いと思う。手始めにジョーカーを抜いてポーカーしないと

話にならない。僕が親に買ってもらって読んだトランプのルール

ブックでは「クラブの2」が特別なカードとして紹介されていた。

現在も通用するルールか否かは別とした話。最弱札。クラブの2。


「おまえの渾名は煙と聞いた。煙は煙らしく高い場所に上ってろ」


以前の寄宿舎付学校での話になる。些細な口論から始まった喧嘩。

この僕が同じ名無しの同室者に向けた言葉が胸の奥、魂に刻まれ

深刻な影響を与えたのなら、歪んで拗けて千切れて堕ちた世界を

創造して仕方ないようにも思える。反則に寝返った反側として…。


現世に於いては七年生の夏期休暇明けから始まった。一組の生徒、

村元の自宅にある「古書館」と名付けられた不要となった古本を

積み上げた廃屋に出入りするようになって、村元と紫煙を燻らす

仲間になったのだ。戻ってきた同室者の髪や服に残った不快臭に

気づかない僕じゃない。古書館に出入りする際は僕の指示として

ニオイ消し効果のあるミントのど飴を口にした後で僕らの部屋へ

入室するよう強いたが、一度も僕の指示を忘れることがなかった。


百年以上前、僕からの申し出を拒絶され、親友は元親友となった。


自責は見得と同じ。崩れ落ちた信頼の砦を築き直す気力は失せた。

僕は長いこと融合した状態が通常であったので身を挺する行為に

何の躊躇も感じない。それが異常だなんて考えたこともなかった。

一つの身体に複数の意識が混在しても、普段は器が自身を操って

他の意識は眠りに就いた状態。呈された臓器が働いてくれている。



長く苛んできた僕の持病を被った友の優しさに報いたいと思った。



それなノ二、拒絶されて投棄された。廃品なノ二、強かな素振り。


僕は偽らない。苦無のように突き立てて物申すだけ。嘘より真実。

路上に背を向けた小鳥と小鼠、二人が並んでる。信の除去作戦は

当たり障りなく成功したと思える。いや、重役出勤と渾名された

二組の生徒だった。通常ダイヤの大寝坊に拠る遅刻かもしれない。


「待たせて悪かった。ヤッチ君は白シャツと薄グレーのボトムに

紺のジャケットを合わせたんだな。履物も子ど…運動靴を止めて

グレーのローファー。本気で動きやすい服装は俺と斎藤だけだな。

昨日もだけど、見事なまでに四者四様なのが俺たちらしいのかも」

谷地の左手と声は現世に戻っていた。血色は良好で自信に満ちて

姿を変えたらタネと仕掛けに頭を惑わせる魔法と手品が使用可能。

僕同様、現世と以前の体格に大差ない。谷地の場合は左手と声色。

僕は顔の彼方此方に現れる赤く膿んだ面皰と自己注射の要る持病。

季節のない異境を僕は冬、谷地は秋の装いで歩いてるのが面白い。

サクとカズは春秋の合服といった格好。暑くなった場合、上着を

脱いだら凌げる。要するに暑くなると一番不都合なのは僕となる。

なノ二、身体を冷やす気になれない。僕は母の血を引き継いだ故

冷え性の気があるらしい。暑いと半裸で騒ぐ愚の骨頂に陥ったら

自決する覚悟だ。我慢大会してると揶揄されようが電気ケトルで

沸かした紅茶や白湯を喉に流し込む。蟀谷に流れる汗こそ青時雨。


僕は青葉を広げた大樹、葉に降り溜まった雨滴が落ちるのと同じ。


汗をかく。唾液が出る。人間なら当然の生理現象から遠ざかった

死ねないバケモノがいた。身体の水分は全て尿になって放出され

筋肉や脂肪に栄養を蓄えるホルモンが欠乏した人間は死んで当然。

この僕も弟を背負ったまま倒れて事切れた。自分が食べなくても

娘に高価な食事を与えてくれた継父の恩に報いるべきと知りつつ

感謝の言葉など向けられない不孝者。継父に投げかけたい言葉は

弾丸となって撃ち放たれる。下劣な親不孝と知る故、無言が無難。


言わぬが花で親孝行。もし言葉の弾丸を撃ち放てば最後だろうか?


…………………………。


…………………………。


…………………………。


朝の光に起こされて目を覚ます。遠い昔、バケモノになる前の話。


寝台から身体を起こし、朝の身支度を済ませる。七つの頃と思う。

家の中の様子が変わりつつあることを朝の光景で感じ取っていた。

母親の寝所を覗くのを愉しみにしていたが遠慮するようになった。

水晶だの煌めく宝珠を日の光に透かして眺めるのが好きだったが

邪魔になりたくない。食卓に着けば小間使いの婆やが食事を出す。

食べたい物を食べ、気に入らない惣菜を残したら食卓から離れる。

その日は晴れていた。洗い清められた天女の衣が空一面を覆って

白い綿埃は遠くに小さく貼り付いていた。僕の着てる服にしても

白い小さな毛玉や埃が付いてない訳じゃない。完璧な衣装を身に

纏う日は天上に広がる女神でさえ滅多にないハレの出来事らしい。

日の光をより晴れやかにするため、青い衣を誂えた思慮深き天女。


家を出ると黄色い爺犬が後を付いてくる。飼われてる訳でもない

僕の侍従を務める存在だった。偶に骨付き肉を与えたりもしたが

飢えてる様子も見せないし、純粋に僕を気に入っていたのだろう。


黄色い爺犬はシトリンのような輝きの被毛で丸い尾を振っていた。

外を歩くときの侍従で、危うい場面では牙を剥いて威嚇してみせ

僕を守ってくれた。当時は何と呼んでいただろう。友人のように

愛称を付けて呼んだ気もするが、僕を死ねないバケモノ猫にした

張本人でもある。いつも汚らしい格好で馬鹿笑いしてた爺さんが

実は山の神だったなんて巫山戯てる。学校では二組の生徒だった。

勉学に飽きたらしく相方のアメジストと共に早々に降板した二人。

仲間たちの世話をして暮らした時期もあった。思い出話は無尽蔵。


青い空と長大な記憶だけが現在の僕を支える味方と呼べるモノだ。


いつ暴発させるか不明な爆弾を抱え、生きている。訊きたいノ二。


島梟の山荘で些細な話が口論となり深夜に姿を消して三日過ぎた。

その間どこで誰と逢っていた?…実母の身体を繋いだ婚約者は…。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


夢幻の異境へ侵入したサクは常にバックパックを抱えて歩いてる。

僕は透視能力なんか持たずとも中身が分かる。異空間なら無いと

断言するのは不可能。おそらく学校より先に足を向けようとする。


さり気無い風を装って、三人の数歩後ろを歩いてる。いつもなら

心の声を聴き取れるノ二無音。僕が寄生魚にした村元を見倣って

心を被膜で覆う技能を習得したのかもしれない。僕を苛立たせる

盗聴避けを得意気に使用したのもあって実弾を撃ったというノ二

寄生魚が特殊能力を周囲に伝播させてるとしたら…ユルサナイ…。


これまで生きてきた全ての記憶を消し去ろう。善悪関係なく消去。

紅い魚の姿にして村の淵に放してやる。停滞した時の波間を泳げ。

新参者が上官に生意気な真似をした報いを受けてもらうだけの話。

素行の悪さも忘れ去って、水の中を泳ぐことしか出来ない紅い魚。

動かぬ証拠を掴んだら直ちに実行する。良心の呵責なく処刑可能。


「二組の信は村道に現れなかったのか? 現世のカズなら兎も角、

谷地なら見分けがつく筈だ。見つけ次第、喰らいつくと予想可能」

小鼠と小鳥の目の前には現れてない。寄宿舎食堂の食事について

語り合って歩みを進めた二人。小鼠はマカロニサラダにチョコと

マーマレードをかけて食うのが美味いと嘯いてみせた過去がある。

今なら三組の従兄弟くらい難無く潰せるのに助けられたのが無念。

「信の姿はなかったようだな。村道は諦めて校門に張り込んでる

可能性もなくはない筈。地下の反省房に入れられた人質の一人が

現世でも変わらず校内では数少ない理解者である二組級長ならば

躍起となるに違イナイ。行動力と判断力のある生徒だし、弓術に

長けているのが不思議というか単に幸運なのか判別するのは困難。

皇帝殺しの矢を放つ射手だ。事と次第に拠っては僕らにも弓矢を

向けないとは限らないし、心して進もう。カズは必要があったら

早急に大伯父の姿へ変われ。信も君主に矢を向けたりしない筈だ」

元親友は無視するらしい。百年以上の歳月を経ても融けない氷塊。


「ん、あっ、村に来たのか!…以前の村だ。何もかも懐かしい…」


無視を通り越した中身の変更。寄生魚は周囲を見回して喜んでる。

この僕は休火山から活火山へ変身しそうだ。それも時間の問題か。

サクに寄りつくのも憚られる。一人きりで歩ける道を探し出そう。

幾度となく正しき道を選択して、その度に僕は正答を掴み取った。


ソレナノ二、サシノベタトモノテヲ、フリハラッタヤツガ、イル。



廃品は回収されない。再利用されない。それなら、僕を必要と…!



「学校の様子を偵察してくる。おまえ等は適当に周辺を見て歩け」


先行しよう。あいつと会ったら場合に拠っては有利に動いてやる。



何一つ思い出さず、都会の喧騒で撃たれて死ねば、良かったノ二。



…?!…


小魚泥棒が僕を呼び止めた。彼の作戦に僕も混ぜ込みたいらしい。

その後…二人ずつに別れて…か。我が身を奪取した後の牙城掃滅。

頭の中で回し車の小鼠が面白い知恵を出したようだ。僕も掃おう。









◆雨神. 取手未央(とりで みお)



うれしい出来事が訪れてくれました。待ちに待ったイベントの到来。

松浦美弥美さんが亡くなられたのです。夕方、松浦班のメンバーが

勢揃いして夕食のメニューに食べたい物がないか訊くため班部屋に

入ったんだそうです。班の全員が松浦さんは布団に仰向けになって

眠ってると思ったみたいです。本当に静かな時間がゆっくり過ぎて

往く様を一分くらい沈黙して眺めて過ごしたと聞きました。映画的。

芸術と呼べる光景だったに違いありません。私も御一緒したかった。

松浦さんが眠っているように見えたから最初は躊躇したそうですが

思い切って声をかけても返事が無くて額に触れてみたら熱がないを

通り越した状態だったので、そこで慌てて鼬の先生を呼びに走って

その後、全員が松浦さんは誰にも看取られず静かに人生を終えたと

知ることになった訳です。その日の夕食時には雨が降り出しました。

雪にならない冷たい雨です。この抒情的光景は誰かさんの零した涙。


今、降り頻る雨は涙雨…。松浦班のメンバー全員は遺体を安置した

塞一階のホールから動こうとしません。これまで私が生きて眺めた

どの景色より美しい光景が広がっているのです。たった一人を想い

皆で集まって零す涙の雫。食事なんか喉を通らないと拒んでますが

いつまで続くのやら。保護者の誰かの怒鳴り声が聞こえる瞬間まで?


といっても私たち塞に収容された女子たちの保護者は現在二名のみ。


松浦さんの死に因って、三か月近く鼬と虎の先生が隠していた謎が

白日の下に晒されました。居ない大人たち、特に羊の先生の失踪は

二名の先生も予想できなかったらしく、時折どちらかの先生が小型

通信機を手に屋上へ向かっていきますが、戻ってくる表情を見れば

誰とも連絡が取れなかったと直ぐ分かります。嘆きと焦りを堪えた

二人の先生に任されている現状の私たち。これから一体どうなるか

予測もつかない霧の中を進んでいるのです。想像したら泣けちゃう?


五里霧中。五の字で始まる四字熟語が活き活き雨降る夜を照らして

空一面に広がる雲で見えない筈の北極星を見つけたような気分です。

一等星ではない小さな煌めきが中心となって星空が完成しますから

星といえば北極星を一番に挙げます。全ての星を操り、方角を示す

中心軸となる存在を蔑ろに出来ません。世界の夜を支配する北極星。


図書室で葬祭についての案内書を何冊か目を通した記憶があります。


喩えるなら本日は通夜。特定の宗教に帰依しない私たちでも死者へ

弔意を込めて蝋燭の灯りと線香の煙を絶やすことは出来ないのです。

交代で仮眠を取りながら死者を惑わす視えない存在から松浦さんを

見守って差し上げなければいけません。魑魅魍魎が蠢いているって

想像しただけで時めきます。鼬と虎の先生は神経質そうにご遺体の

側に座り込んでいます。羊の先生がいらっしゃったなら場の空気も

落ち着いた印象へ変化したでしょうに。二人の先生は涙を零さずに

落胆してる様子。きっと今もご自身を強く責めていることでしょう。


監督不行届。他の保護者さん達が戻ったら問題となる結果ですもの。


反魂香。死者が息を吹き返す術が使えるのなら即座に使うでしょう。

塞を守る二人の先生は魔法を使えない現実が分かってしまいました。

塞から逃げ出そうと企む女子を阻む敵であるのは間違いないですが

障壁は障壁以外の働きが出来ない。松浦さんの死で明らかとなった

大人たちの現実。この塞は鳥籠みたいな場所です。塞から旅立てた

松浦さんは勝利者なのです。今頃は空より遥かに高い位置で彼女が

星のように光輝を放っていることでしょう。はっきり自分の意見を

言います。羨ましいよなぁ。死者が勝利者である塞は不条理の極み。


私は生きて脱出したい。寒くて不自由な塞を抜け出し、真の楽園で

穏やかに暮らしたい。私という小鳥が胸に思い描いた願いは楽園に

飛び立って自由に囀ること。生きて辿り着ける楽園は必ずあるんだ。


塞を留守にして車で移動した保護者の数名は楽園へ旅立ったんだよ。


車を運転して行ける場所に楽園は在る。そう説明できる。行きたい。

生きるために行きたいと願う。このままじゃ私たちもいずれ死ぬと

容易に予想できるもんな。で、動かせる車の目星は付けてあるんだ。

車の鍵を持ってるのは虎の先生。女子だって車を動かす手足と目と

判断する頭脳を持ってるなら容易に車で移動できる。塞に残ってる

駐車場の車を見れば女性が買い物する目的で車を運転してきたって

分かるんだよ。で、おそらく帰れなくなるような事件が起きたんだ。


だから、以前は買い物するための場所だった塞に車とスクーターと

自転車が残された状態で大量の人間が姿を消した。理由は不明でも

車を走らせる計画が実行できたら絶対に楽園を目指せる。信じてる。


通夜なんて本当はどうでもいい。これは絶好の鳥籠から逃げ出せる

機会が巡ってきたと私の本能が告げてんだもん。今夜、動かなきゃ。


良いモノを残してくれた保護者が…いる…。ヒントと手段を残して

先に楽園に向かったんだ。私も追い着いて背中に礼を命中させたい。


雨音は雨神。雨神の正体は私と同じ。一人じゃ厳しい。二人で決行。

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