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Quartette

◆Quartette. 斎藤和眞(さいとう かずま)



古い怪談で耳に馴染み深い話、お屋敷の大事な皿一枚を割った使用人が

叱責(しっせき)されて生真面目(きまじめ)である(ゆえ)に心を()んで井戸に身を(とう)じたという悲劇(ひげき)

一枚二枚と幾度数えても割れた皿は戻ってきません。誰の責任でもない

割ったのは自分だと嘆き続ける無間奈落。現在じゃワンコインの店舗で

購入できる程度の過ちじゃないですか。吝嗇(ケチ)(あるじ)でも不問に処すと思う。


芸術的価値の高い品なら使用人に触らせないでしょう。実用的な品なら

一枚や二枚割れたくらいで怒鳴(どな)ってちゃ負けです。自分の価値が下がる。


時代という空模様が変われば、罪に問われる案件も少なくなるようです。


例えば今朝起きた出来事を記録してみましょう。小さな家庭での小事件。

水を()かした鍋を不注意で結果的に空焚(からだ)き。内側に塩や生姜(しょうが)等を入れた

跡がこびり付いて茶色く汚れたくらい現在の鍋は容易に洗い落とせます。

気づいたときは腹も立つし、生まれ持った性格次第じゃ泣きながら鍋を

ボイラーの温湯(ぬるゆ)で丁寧に洗浄しなきゃと嘆いても樹脂(じゅし)で加工された鍋は

あっさり汚れが落ちて、今度は注意してキッチンから離れずに鶏胸肉(とりむねにく)

()でられました。サラダチキンは鍋で放置された後、昼食の一皿に登場。

朝寝してる主人、自室に引き籠って何やってるか知らない少年や居間の

ストーブの温風を浴びながら過ごせる位置で安眠中の猫さんも知らない

奥さんの小さな失態で事件終了でーす。「些細(ささい)なことだよ。気にすんな」


大難を小難にするのは「心」の向きを変えりゃ済むんですよ。

床に伏して泣いてるよりも自分の手を動かしましょう。働け。

人間という生き物は他の誰かの役に立てるよう必死に務めて

子孫と未来を繁栄させていきゃ宜しいんじゃないでしょうか。

例えば千年前と現在を比較したら生活様式や常識など随分と

変化しました。心に描く遼遠(りょうえん)の風景ですね。憧れてくれたら

遠い昔、寒い冬を嘆き春の到来を待ち望んで暮らした人々も

幾らか報われるような気もします。冬の次は必ず春が来ます。


循環(じゅんかん)。地球が丸いと知られない頃から観測者たちは空を眺め

天体の位置を詳細に記録し続けてきたのですから称賛(しょうさん)します。

干支(えと)に木星の公転が関与してるなんて知りませんでしたもの。

木星の公転周期は約十二年。そして、土星は約六十年の周期。

時間の経過に「十二進法」が使われてる謎が少し解けた気分。


ニシムクサムライ。西向く士。二、四、六、九、十一。

三十一日までない月を表す語呂合わせ。覚えて損なし。

地球の公転を数えて分配して太陽暦(たいようれき)を完成させた(いにしえ)

賢者にも頭が下がりますね。閏年(うるうどし)()年、(たつ)年、(さる)年。

干支が決まってるのも面白いと言えるかもしれません。


時計。七曜表。ちゃんと()(かな)った数字の魔法だったんです。

六十といえば赤いちゃんちゃんこ着てお祝いする「還暦(かんれき)」が

思い浮かびますね。俺も家族がいた頃は人並みに祝いました。

還暦は五回目の年男年女を迎えて、十干と十二支が一巡(いちじゅん)した

本卦還(ほんけがえ)り」暦が戻ってきた一種の生まれ直しなんですって。

赤は魔除(まよ)けとなる色。昔の産着(うぶぎ)は赤を使っていたとのことで

無事に育ってほしいと願う気持ちが込められてたと思います。

ちゃんちゃんこは本来子供用の羽織ですから「赤ちゃん」に

目出度く還ったお祝いには相応(ふさわ)しい格好(かっこう)だったんでしょうね。


考えてみりゃ俺たちバケモノが迎えた還暦は二回。本当もう

有り得ない存在ですよ。干支を覚えたり、祝う気になれねえ。


牢獄に移される以前は…それ以上の歳月を逃げ惑ってきた…。


食うや食わずで腹空かせるバケモノなんか格好悪いにも程が

ある…ない。思い出したくもねえ。過ぎ去った昔話ですから。

古い表現となる「(くさり)(つな)がれた(けもの)」同様の記憶が不可解です。



明々白々に思い浮べられる景色を見出(みいだ)したら()べると思ったんですけど

都合好く運ばないものですね。地続きじゃない異空間の景色になるのか。

牢獄に囚われようと全員を(たぶら)かした存在は、何処へ逃亡したのでしょう?

序列四位氏(じょれつよんいし)、全員を突き落として高みの見物してるのかもしれませんよ。

記憶という鎖に繋いで思い出した途端、即席バケモノ憑きの出来上がり。


そうはさせるかって話になっちゃいます。憑かれた彼が可哀想…俺も…。


でもなぁ、引き出される記憶が俺のとは違った。そこは確認できたけど

それじゃ俺は何なんだろう?って話になるのが本物の恐怖を感じる部分。

バケモノ憑きになる以前の俺はサボらず真面目に仕事して日銭を稼いで

大家に下宿代を渡す倹しい労働者。通りすがりに一目惚れした白文鳥は

室内に放鳥して()でる唯一の朋友。朋友を生かす目的で頑張って働いた。


一方の彼は自身の幼少時の記憶を何一つ思い出せない。バケモノとなり

そこからは詳細に振り返れるというが、俺は産着に包まれた頃の記憶も

思い出せちゃうんですよ。おむつに排泄(はいせつ)して、部屋に入った誰かが声を

上げたのも憶えてる。祖母か家政婦。尻の下に大きい異物(いぶつ)が挟まってて

不快で取り除いてほしくて泣きました。まだ言葉を知らないから誰かを

呼び寄せるには泣くのが一番。家の者は排泄臭で分かったでしょうけど。


彼自身(アッちゃん)穴凹(あなぼこ)に気づくことで観測者に動きがあったら怖い。そこがダメ。

この世界を完全終了してくれるなら儲け物なのに(おそ)れを(いだ)く自分がイヤ。

舞台の袖裏に行けない。以前は行けたらしいが記憶にない。そこがヤダ。


抜け落ちた穴の向こうに行く方法が見つかりゃ早い。核まで落ちてみる?



当たり前ですけど現在の季節は冬で夜が長い。十六時を過ぎたら室内の

灯りを点けないと暗い。空が白いと感じる時刻は、朝七時近いと思う頃。


昼の長い時期に思い立つのが適当だった冒険旅行。生きて帰れるものか

()御期待(ごきたい)と結びたいですが、幾らか予想がついてきた。寝返ったから

歪んで拗けた世界となったんでしょうかねぇ。時を戻せる筈もないのに

何かに強く祈りたい気持ちになる。時を戻せても俺に幸せな時間は皆無。


時が戻れば戻るほど絶望の白靄(しろもや)が包み込む。このまま終息するのを祈望(きぼう)


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


反側(はんそく)停滞(ていたい)融合体(ゆうごうたい)か。気持ち悪くて鏡を見る気にもなれねぇってさ。

鏡に映るのは一人の死にぞこない。これでも朝の身支度(みじたく)は済ませたが

陰鬱な夕闇が瞳の奥に沈んでると俺でも気づく。まだ朝なのに夕暮れ。

もう終わり…説明の難しい気持ちが(かぶ)さってくる…。こりゃ無理だよ。


食事前の管理と食事を完了。飯は一応冷凍保存しとくが日付を入れて

分かり易くする。発電機が働いて(かろ)うじて電気の供給が続いてる奇跡。

塞で暮らす女子たちにはショッピングセンターが光で満たされていた

昔話は理解できねぇかもしれねぇよな。栄枯盛衰(えいこせいすい)。衰えて枯れた後に

再び(おこ)る奇跡を望んでるから些細な出来事に動じない。大山(たいざん)…山か…。


アメトリン・カテドラル


あの山に行っても停滞の延期が続くだけなら何の意味もない。

雨降り続きの重い雲を吹き飛ばして青天に太陽が煌く強力な

魔法を撃ち放ってくれる冒険者パーティーだったら話が早い。

なんて、発想と知識が漫画やゲームから得た情報って時点で

古い人間である証明なんだろうな。週刊漫画誌が俺の参考書。

新しい流行歌が街から聴こえてきた時代も遠い昔の出来事だ。


個人の意見としてはガキの頃に戻りたい。病気と無縁の時代。


小さな学校が建てられていく様子を遊び仲間たちと楽しみに

眺めていた頃が最高だったかもしれない。知らないからこそ

何もかもが明るく輝き、胸の中は希望の灯火が照らしていた。


学校が完成して、入学してからだ。光明(こうみょう)に影が差したのは…。


駆けっこして誰が速い、誰が遅いと順番がつけられていった。

テストの点数。アレが出来て、コレは出来ない。比較された。

歌が上手い。音痴。容姿の善し悪し。線が引かれていく生徒。

敗北感(はいぼくかん)なんか数え切れねぇや。遠くから勉強しに来た普段の

言葉と違うアクセントの連中に拒絶感(きょぜつかん)を持つのも現れたっけ。

小さな学校の仕切りに囚われ、順位に喜び嘆くようになって

前向きなヤツは「良かった探し」に(いそ)しんだ。自分にも少し

良いと認められる部分があると希望を持ちたかったんだろう。


新入りのバケモノ憑きに思い出せる景色は先輩方より圧倒的に少ない。

しかし、全員揃って同じ村の寄宿舎付学校で勉強してきた背景がある。

今回と以前とに分けられる学校時代を振り返るのが、この旅の目的だ。

(した)()の新参者はそう受け取ったが、同行する先輩方は違うのかもな。


本来なら自動車も必要としない一室で済ませられる心の旅路(たびじ)だろうが

旅らしい気分を尊重したくて、停滞作用のある俺を同行させようって

今回も以前と変わらず悪戯好きな一組級長が発想即行動した訳なのか。

吉と出るか凶と出るか誰も知らない。新参者は下働きに徹するつもり。

そう思っても不機嫌な器の機嫌取るのも難しい。(こじ)れると知ってりゃ

迂闊に手も出せない。向こうが主導権(しゅどうけん)を握りたいなら、黙って眠ろう。


懐かしい景色と出会えたら一緒に眺めさせてもらえりゃ十分な報酬(ほうしゅう)だ。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「この冬は降雪量が少なめかもしれない。冬用タイヤに履き替えても

まだ一度も除雪せずに都合よく運ぶことは喜ばしい。だが、不可解だ」


運転手側の後部座席に着いた一組級長が車内で一番よく声を聞かせる。

誰かが話し相手を務めなくても勝手に喋り続ける。面倒なくていいが

学校時代のキャラから随分(ずいぶん)遠ざかってる。無邪気(むじゃき)な元女児のお喋りだ。


(えり)に茶色いファーの付いたカーキのモッズコートを羽織(はお)って、頭には

アビエイターハットを被ってる。白いマスクと伊達眼鏡(だてめがね)とゴム手袋は

外して座席の脇へ置いてるんだろうな。涼しげな表情しても焦茶色の

フェイクファーが花田の狸っぷりを上げている。冬らしい重装備(じゅうそうび)だな。

季節を問わず自分の身体の冷えを避けようと完全武装(かんぜんぶそう)するのが鬼軍曹。


まだ目出(めだ)(ぼう)じゃないだけマシ。あれば躊躇せず被ってると想像つく。

噂には聞かされてる。学校時代の除雪勤労奉仕四人組の一人が被って

残りの三人から流石(さすが)に止めた方がいいと言われた一組級長の目出し帽。


「不可解って…。緊急検証部のOBでもねぇのに何が不可解なんだ?」

助手席から声をかけた。極力無言(きょくりょくむごん)でと依頼されたものの偶には誰かが

相手してやらなきゃ気の毒だ。不可解って言葉はOBとして胸を打つ。

「もう二週間以上、車を走らせっ放しな時点で気づけよ。彼方此方(あちこち)

地域(ちいき)の道路に繋げられて走行してるんだ。車窓の景色も見慣れねぇし」

ハンドルを握る鼠の親分に一瞥(いちべつ)された。下っ端は反射的に頭が下がる。


考えてみりゃ故郷の村は中央の都会から飛行機だと一時間程度の距離。


妨害(ぼうがい)されても仕方ねぇ予定だから、全て今までどおりとはいかない」

純粋に車の運転を楽しんでる少年が声変わりしてない声を低く出した。

「雪が少ないと重要なヒントを出してやったのに何も気づかないとは

緊急検証部OBの名が(すた)る! もっと早く新参者が騒いでみせるべき」

右肩から下ろす気のない布鞄に左手を入れた花田。昨夜のキャンプで

炊いて拵えた白い(にぎ)(めし)を取り出し、一人だけ十時のオヤツを始めた。


車内の空気は変わらない。全乗員の頭上に停滞した雨雲が広がってる。


頭数としては四名。意識を人と同じに数えたら増えるのかもしれない。

ずっと親友だと俺に話してた狸猫を苦手にしない者は一人もいない筈。

以前の世界を知ってると頼りになる味方は一人も居なくなるのが狸猫。

「静かなのも落ち着かない。小魚泥棒、カーステレオから音楽を流せ」

助手席に備付けてあるミラーで大きく丸い握り飯を食べ終えた花田が

淡々とした口調で運転手に依頼したのを確認。口を休まず動かしてる。

「ハシム、選曲は任せるから頼まれてくれ。足元のケースに入ってる」

わざわざ停車してまで鼠の親分が忠実に従う行動じゃない。下っ端の

出番となるのは花田も知ってのことだろうが(うつわ)元親友(さいとう)現実逃避中(げんじつとうひちゅう)

後ろの座席に着く潤を気遣うような姿勢で助手席を前に詰めて座って

カナル型イヤホンを耳に()してDAPから流れる音で心を逸らしてる。

鼻歌で始まって溜め息で終わるデスメタル。お分かり頂けただろうか?

誰が見ても分かる不機嫌(ふきげん)全開の顔してるから村元黎の意識が表面担当。

全員不機嫌を隠してる。二週間以上もドライブとキャンプの繰り返し。

本日が何月何日か気にかけても無駄なんだって。不可解な自動車旅行。

水と食糧は不思議と尽きずに停滞してる。生理現象にも苛まされない。

狸猫の希望により日没後(にちぼつご)から夜明(よあ)けまで路上にキャンプして休息する。

座り続けてエコノミー何とかになると困るから足を伸ばしたいってさ。

器に添加された停滞の効果で計測と食事が必要ない身体でいられても

それぞれマイペースを装って誤魔化し取り繕ってる。道行(みちゆき)じゃ古いな。

ロードムービー的演出が欲しいところだ。運転手を除いた三人は大柄。

モンスター退治できるんじゃねぇの。特に一番の上座(かみざ)で偉そうなヤツ。

平然とした顔で俺の背中を撃ったアクマ。元警備会社勤務って嘘だろ?

現世に以前の賑わいが続いてたなら違う稼業からスカウトされそうな

度胸(どきょう)だけは持ち合わせてると思う。まだ布鞄には得物を忍ばせてる筈

だから全員が死ねないバケモノでも元女児に遠慮してる。面倒だもん。

鼠の親分は出発後から相当消耗(そうとうしょうもう)させられた。「高収入、低身長」とか

「容姿のピークが齢一桁まで」他にも厳しい言葉の刃を投げつけられ

車の運転に集中することで感情の爆発を(こら)えてるんじゃねぇだろうか。


学校時代なら全力で(かば)ったに違いねぇ器が自分の声を出そうとしない。


ゆっくり車窓を眺めたい気持ちも浮世の()さを忘れ、安逸(あんいつ)(むさぼ)る人を

繰り返し聴いてる器の動きまで完全に支配できない。足元のケースを

開けて辻占(つじうら)みたいな気分で適当なアルバムを出し、カーオーディオの

スロットに投入した。アイドルじゃないけど曲調がアイドル的だった。

鼠の親分の好みなのは確実だけど、吉と出るか凶と出るかは知らねえ。


愉快で軽いポップスは学校の一組に合ってたと思うが後ろのコンビの

好みまで把握してないのが下っ端扱いされる所以(ゆえん)だ。離れの古書館で

司書の仕事を真面目に務めてた。ボヤ騒ぎを起こしてダメにした本が

惜しい。今更遅いが焦げたし濡れたし、紙には最悪の扱いしたもんな。

司書失格の烙印押されても仕方ない。心を逸らす思考に陥るのも曲が

いまいち俺好みじゃなく徐々に聴いてて気恥ずかしくなってきたから。


…?!…


器から中身が零れてるとでも表現すりゃいいんだろうか。車内の音が

普通によく聞こえるし、イヤホンから聴いてる曲も拾えるのが不思議。

下っ端の意識は器の外にいるんだろうな。また頼まれごとする場合も

あるだろうから問題なし。今、視界は閉じてる。器から離れてるなら

自由に景色を見たい。融合って不可解な構造、新参者には分からねえ。


四~五分経ちゃ曲目が変わる。「ツイてない」歌でも愚痴(ぐち)ってやがる。


この間ずっと無駄口を聞かずに聴き続けてる四人。神に不満を告解し

愛を求める曲が終わり、カップルの喧嘩実況中継(ケンカじっきょうちゅうけい)曲が後を引き継いだ。

陰鬱(いんうつ)な過去の記憶を引き出されるヤツもいそう。いや、俺のことだが

黙ってる後部座席の二人が既婚者(きこんしゃ)だった以上、無い筈ない男女の(いさか)い。

特に俺の後ろに座る方のお相手は以前も村で通りすがりに見てるんだ。

電球破壊(でんきゅうはかい)じゃ済まない危険な美少女、学校入学の日に弟が頭に包帯を

巻いてた理由が…。見たから言うけど普通じゃなさが表情から覗いて

並の男なら逃げ出すよ。要は一緒に居られる時点で桜庭潤は生き神様。

学校時代だったら誰より喋って空気を清浄しようと努めたんだろうが

現在は以前の学校にいた一組の小柄な副級長の気難しさが表に出てる。

一組の俺も級長からの指示で無視した。級友の美少女の弟も沈黙して

一組全員が無視した形になる。孤立(こりつ)した潤を(かば)ったのが三組の通学生。

校庭の隅、行き場のない大きな石が放置された場所に(たむろ)する外道共(げどうども)

昼休みや放課後、潤を仲間に入れてたのは知ってる。黙認(もくにん)された交友(こうゆう)


以前と現在の違いは色々あるよな。学校の生徒全員に名前がついたら

見た目が大きく変わって現れたのが何名か現れた。この車内にもいる。

運転手以外の三名は嘘みたく変身してる。さっきも触れたけど一組の

副級長はクラス内で一番背が低かった。一組の教室に身長計があって

授業の一環として全員が測ったんで賑やかしの名無しの記憶にもある。

一組級長は容貌に大きな変化はないが()れた(はだ)手首(てくび)(きず)持病(じびょう)から

解放され、現在は誰より軽快な心でドライブ旅行を楽しんでる最中だ。

「また心の声が聞こえるようになった。どういう仕掛けか知らないが

昔と今の間違い探しは非常に不愉快だ。大昔の想起など心身を不調…

あっ、幹線沿(かんせんぞ)いで営業していた飲食店(いんしょくてん)か。小魚泥棒、停車を命じる!」

親分は黙って中央線を越えた車を右端(みぎはし)に寄せて()めた。我儘な狸猫の

要求に応じなきゃ暴言を浴びる刑。つまみの豆菓子ミックスに入った

片口鰯(カタクチイワシ)でミネラル補給するくらい大目に見てくれと思う俺も背が低い。


器の首が動いたんで確認することができた。個人経営の軽食喫茶の店。

大規模展開のチェーン店じゃないのが逆に珍しい。美味いメニューで

客がリピーターになって繁盛(はんじょう)してたのかもしれない。単なる予想だが。

右肩に布鞄を引っ提げたままの花田が一人で店舗へ侵入して、店内に

残ってる砂糖(さとう)(しお)といった賞味期限(しょうみきげん)のない調味料を頂戴するんだろう。


俺に五月蠅いと煩く言った男が降りて、溜め息も吐かない三体の人形。


「おい、暴力と荷物運(にもつはこ)担当(たんとう)が動かないとは不備(ふび)にも程がある。出ろ」

助手席窓(じょしゅせきまど)を叩いたかと思うと背を向けた花田。従順(じゅうじゅん)に同行するのが吉。

自分の身体と呼べない右手が億劫(おっくう)そうにドアハンドルを引いて開けた。

心の声ってヤツは器にも届いてるんだろうか? 車で出発した日から

不機嫌全開な表情のまま過ごしてる。目的地に到着した一瞬でもいい。

少しは以前の学校にいた名無しの二組級長みたいな能天気(のうてんき)陽気(ようき)な…

余計な語句を足す必要のない満面(まんめん)()みを見せてほしい。助手席側の

二人の先輩は沈黙中。人形同然に黙られると辛いから運転手の谷地が

空回りしてでも声を出してるんだと思う。本能的自衛行動(ほんのうてきじえいこうどう)だと察する。


暴力と荷物運び担当の出番か。器の前科を一つ知ってるが他にもある?


空と薄灰色の雲が混ざった部分が目に付く曇り空の下を数歩も歩かず

施錠されない店舗(てんぽ)に入った。突然の災厄(さいやく)(ほろ)んだ世界じゃない証拠(しょうこ)

目で確認しておきたい。止まった時計は午前か午後か分からないけど

六時五十分前で力尽きるような感じで乾電池の寿命が切れたんだろう。

店舗内はテーブルなど薄く(ほこり)が載ってる。花田みたいにマスクしたい。

空気が僅かな隙間から流れて(ただよ)い細かな(ちり)を運び去る。時間の経過を

示す自然の仕事が堆積(たいせき)していく埃。客の入るスペースでも興味本位で

触れたくない。俺にもゴム手袋が必要だろう。元親友同士が親友なら

気軽に頼める場面なのに下っ端は只管(ひたすら)ガマン。店の水道も使えない(はず)


手洗いに貴重な飲料水を使えねぇし、保温器に入った客用おしぼりも

乾いてて使い物になんねぇのは確実だと思う。黙って花田の声を待つ。

何も無けりゃ荷物運びの用はない。手を汚さずに済む。空振(からぶ)りに期待(きたい)


DAPから大音量で速く激しい曲が響いてる現実なのに、どこ吹く風。

周囲から漏れる雑音程度にしか感じないでいられる。視界は出入口に

固定されてるとこに器の本音が垣間見える。俺は本物の風になりてぇ。


埃っぽい店内で厨房に入ったと思われる花田を待つことに…。

俺の思考が狸猫の大将に届いてるのか知らない。故意に悪口

言ってやる。(ほお)(つま)まれる展開になったら器も黙ってねぇ筈。

まず春になったら最優先で南瓜(かぼちゃ)の種を植えるに一票入れとく。

じゃが(いも)は当然だし、(くり)も嫌いじゃない。小豆(あずき)も必ず植える。

あ、農作物を植える時期もあるよな。何でも春って決まりは

なかったんだ。自宅にあった畑の手伝いやっときゃ良かった。

土に触りたくないって、親の稼ぎで食ってたクセに好き勝手

言ってたんだから()きれる。アレもコレも自分の()いた種だ。


予め蒔いた種が芽を出し、花を咲かせ実っただけ。自己責任。


因果(いんが)(めぐ)ってると思う。一期一会の人生で。心掛(こころが)けを正しくしときゃ

現在ここにいなくて済んだのは確実だもん。「ココジャナイドコカヘ」

そう思ったのが運の尽きだった。身に沁みたから、今をより良くする。

目蓋を閉じたんで目蓋の裏側が赤くなって見えてる。器の血液の色が

緑じゃなくて良かった。緑の肌だったら超人(ちょうじん)扱いされて見世物になる。

顔色の悪さを表す緑色。この国じゃ青と表現される顔色。世界は広い。


今頃、車内に居残って留守を預かる二人は雑談でもしてるんだろうか?


「それは難しい。桜庭さんは仕事中。意識(いしき)だけ()んで捜索(そうさく)してるから」

(ひと)(ごと)? 器が喋って心の声に答える感じで新参者の疑問に回答した。

車内で黙り込んでたのは不機嫌になって(ふさ)()んでる訳じゃなかった。

日没後のキャンプで潤が…心ここに()らず…状態だった理由も()けた。

しかし、これじゃ他の疑問が湧いてくる。一体、誰の捜索してるんだ?

「二組にいた長老様(ちょうろうさま)に決まってる。以前から俺は苦手なんで消えても

捜そうと思わない存在だが、三人の思い入れが強いから捜してるんだ」

異世界、そう呼ぶしかない世界と俺にも馴染み深い以前の幻世(げんせ)での話。

それを合わせて思い入れが強くなる人物なんだろう。以前の学校じゃ

昼休みの軟式庭球倶楽部(なんしきテニスクラブ)も活動してなかった。放課後の緊急検証部も

もっちーの気紛れにチアキとケン坊、二人に俺が乗っかった形となる。

大抵(たいてい)カードゲームに(きょう)じてたけど部長の気紛れで始まる()()な嘘と

知りながら部員が聴き入る部長の怪談はスゲェ面白くて勉強になった。

庭球部長の竜崎順(りゅうざき じゅん)が部員を勝手に王子(おうじ)呼ばわりしたり、にゃん語尾(ごび)

罰ゲームを始めたのも幻世と現世で変わらない順らしい納得の発想だ。

俺は遊んでストレス発散したかったから二つの部に掛け持ち加入した。


昼休み限定の庭球に参加できなかった寂しさが…(つめ)たく(こお)りついて…。


「余計な詮索(せんさく)()らない。もうすぐアレが戻ってくるよ。空振りして」

まあ、そうだろうな。ひもじくなった連中が入り込んで盗まれるのは

当然の結果だと思うし…。飢饉(ききん)になったら生き抜くための知恵が働く。

そこまでして生きたいと思うのが血肉に囚われた人間の(ごう)なんだろう。


経験を積むことで永眠、草生(くさな)(しかばね)となったら未来へ繋がる道標となる。


善悪と別れる行動も後ろに続く者たちの道標となるなら、意味がある。

実際のところ、そう(うそぶ)かなきゃ(むな)しくなるってのもあると思うけどな。


考え無しに足音を立てないのが狸猫。いつの間に…と従者を驚かせて

現れてみせるのが当人のお気に入りらしい。申し分ないと薄笑いする。

どんな夢も全て()くし(やぶ)れても平然とした表情で()ましてるのが狸猫。


「空振りでも清浄な外の空気を吸えたことに感謝すべき。下々の者に

僕の慈悲の心を向けたのだ。有難く思え。以上の言葉は二人に話した」

花田が稀有(けう)な微笑と共に甲側を向け軽く握った右手を差し出してきた。

俺自身の意思で動かせた右の(てのひら)を伸ばすとヒンヤリした感触が触れた。


plastic smile 作り笑い come up smiling 挫けずに笑って立ち直れ


ふと学校で覚えた言葉が頭を過ったけど何のことはないプラスチック。

ガムシロップかと思ったけど胸の奥が「違う」と厭きれたように否定。

よく見りゃ透明な液体入りのケースに英語で書いてある。mouth wash


飲食店で使い捨てのマウスウォッシュがサービスで置かれてあっても

おかしくはない。人が消えていく以前はサービス過渡期(かとき)でもあったし

全人類が楽な方向へ突き進んでた時代だ。時間の淵で泳いで暮らして

幸せな身分だったと振り返られる。戻りたいけど戻れないんだろうか?


「洗面所の手洗い場の蛇口脇(じゃぐちわき)に置かれてた。僕もどうかしてたけれど

ガムシロップではないのだから盗み目的なら誰も手に取らない代物だ。

大きさと形状がガムシロップに似ていて、この僕が不覚にも(だま)された。

不注意な勘違(かんちが)い。それを伝えたくて持ってきた。笑い話にすればいい。

そんな訳だから返せ。僕が使う。期限切れも停滞が持ったら役に立つ」

再び手を伸ばしてきた花田がマウスウォッシュを右肩の布鞄に収めた。

「洗面所は使用後に手を洗うためのトイレも併設(へいせつ)されてある。個室を

終息の場に使用した亡骸(なきがら)があった。わざわざ片付ける必要のない状態。

ある意味、良い方向へ向かう道標(みちしるべ)だと信じよう。ドライブも残り僅か。

安逸を貪る者たちの負け犬の遠吠えみたいな悪口に動じる僕じゃない。

ハナから僕には勝てやしない。鳥や魚は猫に捕食されるのが自然の理」

勝利宣言した花田は一瞬目を合わせて出入口に向かった。二人同列に

負け犬呼ばわりしてくれたのは、きっと器の所業が影響してるんだな。


宣言(せんげん)といえば村元黎である俺は、もっちーから宣言された経験が皆無。


殆どのバケモノが集まって暮らすようになっても滅多に寛いだ状態で

長い会話する機会がなかった。十一月に俺の部屋を訪ねてくれたのは

羊の先生の気紛れに()るところが大きかったと思うが、花田の所為で

何の言葉も残さず姿を消した望月漲。鈴木義則でも慈友君でもねーよ!

現世では望月漲が学校一組の同級生だった。先生じゃなく望月部長は

今頃どこにいるんだろう?…全員が無事に再会できりゃ最高だけど…。


俺たちの行動で何かが変わる結果を信じたい。全員で駒を動かすんだ。


こっちは自動車で、もっちーは自転車。目的地も違うだろうが

()()げようとしてることは全く同じと踏んでいる。現状打破(げんじょうだは)

現状に絶望してちゃ前に踏み出せない。深く絶望したら終わり。


トイレで…。見ない方がいい現実に目を向けない。()(とうと)紳士(しんし)なら

見に行かない筈だし、黙って忘れよう。ゴミを漁る動物になっちまう。


「普段なら飲料水を届ける担当は桜庭さんだったのにハシムが現れた。

そこに強い違和感(いわかん)を覚えたんだよ。(あん)(じょう)といえる展開(てんかい)が続いたけど」

いつもと違う。独り言といった調子で珊瑚の寄生魚(きせいぎょ)に伝えてきた宿主(さいとう)

避けようと思えば避けられた筈の運命を受け入れて散る駒に似ている。

「疲れ果てて座り込んだのが悪かった。二日連続で狸猫に負かされて

このザマだ。イヤなのは知ってるけど、後もう少しだけ我慢してくれ」


入口脇に設置されたマガジンラックの週刊誌がボロボロに崩れていく

様相(ようそう)を見せてる哀愁(あいしゅう)。出入口のドアを開け閉めした際に生じる空気の

動きが衝撃(しょうげき)に変化して紙が散る。空気の流れが変容(へんよう)を生む。諸行無常(しょぎょうむじょう)

花田に続いて暴力と荷物運び担当の従者は…空の手で飲食店を後に…。


曇り空から青天井(あおてんじょう)が丸く覗いてた。器が見上げたから伝えられる光景。


勝手に身体が歩いて助手席を開ける。俺は斎藤に取り憑いた霊体かよ。

着席と同時に車が走り出す。道路状況や歩行者に注意する必要のねえ

ドライブだから(あら)っぽくなって当然だろうが、鼠の親分は運転も乱暴。

勢いよく加速していき、さっき入った飲食店も(はる)彼方(かなた)へ消えていく。

首を捻って確認することは無理。頑なに後部座席を見ようとしねぇし

命令するように強く意思を伝えたら切り離されるのかもしれねぇけど

停滞を外したら利用する目的で連れてきた狸猫の機嫌を損ねて面倒か。

珊瑚の魚の能力に関して詳細に把握し切れてない。停滞(ていたい)(よど)みを呼び

最終的には汚らわしいゴミ同然のモノに変わる。始末されて終わりだ。


(おか)に上がっちゃいけない魚。時間の淵は緩やかながらも流れがあった。


現在の世界も完全に止まってる訳じゃない。塞の女子たちは無邪気に

生きている。不安を隠しての集団生活だ。安心できる流れを作りたい。

狸猫は未来の夢を持ってるだけ上等だと思う。流れを望むバケモノだ。

使う手段が常識外れでも元女児がバケモノ相手に遊びたかったんだと

前向きに捉えとく。身体に銃弾を残されてるし、虎の先生の力添(ちからぞ)えで

何とかなったような状態。以前の村じゃ夜間学校(やかんがっこう)講師(こうし)をしてたっけ。

夏目翼(なつめ つばさ)は、その虎の先生に選ばれたってワケ。下っ端は我儘を抑える。


虎の先生自体は村の住人一同と馴染んでたと思うよ。そうそう、確か

子連れ女性と…ああ、そうか…面倒な方向に進む話だ。そっとしとく。

たぶん色々と面倒が多くなるから、虎の先生は基本無口なんだと思う。

一瞬でも虎の先生の片目を潰したっていう狸猫は筋金入りの常識外れ。

無邪気だと思いたくても単に「()ちたい」の一心で銃を向けたんだし

おそらく以前から問題の多い花田と狸猫が混ざった影響かもしれない。


「前にトンネルが見えてきた。これまで走ってきて初めてだと思うが

素直に通り抜けていいもんか謎だよな。確か…北にある街から村まで

計三本のトンネルを通り抜けることはハシムだって記憶してると思う。

停車してコイン放り投げて運命を決めたくなるが、そうもいかねぇし」

今までに比べたら減速させた状態で運転しながら訊いてきた鼠の親分。

ついさっきまで途中に田畑が見える(さび)れた旧道(きゅうどう)と喩えたくなる道路を

走っていた筈だが気づいてみりゃ山間(やまあい)といった景色が目に付いてきた。


フロントから見えるトンネルに見覚えはない。小さな山を貫いた隧道(ずいどう)

そんな印象だ。坑門の上に緑の題額(だいがく)が見えても文字まで読み取れない。

現状じゃ当然なのかもしれねぇが、トンネル内の照明は切れて()(くら)


「そのまま行けってさ。それが目的地に通じる迎えのトンネルだって」


背後からと説明するまでもなく知ってるヤツなら声で分かる潤の発言。

「ん、ライト点灯させなきゃ暗くて見えねぇな。思いきり突っ切るか」

昼間の所為で当然ライトの光は目立たない。視界は基本的に左上固定。

おそらく活動時間は乗員(じょういん)の中じゃ一番の長老だけど、見た目は少年の

谷地がアクセルを踏み込んだ。身体に衝撃を感じず加速していくのが

所謂高級車(いわゆるこうきゅうしゃ)ってヤツの乗り心地なのかもな。機械の仕組みに興味なし。

「ようやく戻ってきたか。役に立たない連中と同じ車内で過ごすのは

無期懲役(むきちょうえき)匹敵(ひってき)する苦痛だった。ご苦労。塩むすびでも食べないか?」

後部座席に並ぶのは学校じゃ一組の級長と副級長を務めていた二人だ。

「え、いや、気持ちだけで…。もうすぐ着くし、食事は後にしとくよ」

学校の同級生でありながら遠い昔は父と娘だったという複雑な二人だ。

ちなみに運転席は二組副級長で助手席は二組級長、三組の生徒二人は

塞の留守を預かってくれてる。鼬と虎の両先生なら間違いない筈だし。


長いトンネルの出口側に白い(もや)(ただよ)ってるのは目の錯覚(さっかく)だと思いたい。


そう思い込んどかねぇと強い不安に囚われる。車に乗った四名が無言。

真っ直ぐなトンネルに入ってから誰も声を上げないから不気味だった。


今までが夢なら授業中で担任の先生に注意され、笑われても構わない。

転寝(うたたね)して目を覚ましたら平穏な日常が戻ってりゃ大団円(だいだんえん)。感無量だな。

何人かのバケモノが同時に見せられてる夢の中、現実に帰りゃ寝床か。


それなら今まで全部を忘れ去って結構だ。時間の淵で泳ぐ魚は夢か幻。


…?!…


拒絶めいた意思が届いた。意思の持ち主は現実より夢を選びてぇのか。

目の前に迫ってきた白い靄と同じ曖昧模糊(あいまいもこ)なモノで安堵(あんど)する者らしい。


「明るい陽光が射してる。トンネルを抜けると太陽が出迎えてくれる」

俺の視る出口に白い靄が漂う景色はマガイモノとでも言うのだろうか?

狸猫の瞳には白い靄など掃い清められたトンネル内が映ってるようだ。

違う。とは言えない。鼠の親分と潤の視界が知りたい。全員違うかも。

視えてる景色を互いに言い合ってみても仕方ねぇし、心に収めとこう。


さっき降りた飲食店付近の上空は曇り空だった。本当の雲は無色透明。

空に浮かんで移動する雲の正体は水や氷の粒だと考えたら納得いく筈。

じゃあ、どうして雲に白や灰とか色が付くのかは日光が影響してると

何故か俺でも即答できる。光の全色が合わさって白、光が弱まったら

闇の色が混じってくるから灰色の陰鬱とした重たい印象の雲に見える。


白い靄は光の祝福を純粋に歓喜(かんき)して受け取ったから純白。トンネルを

抜けたら晴れ間が射した景色が映る。花田はそう言いたかったのかも。

光が作用して多様な色彩を生み出してる不思議。光を認識できる以上

神と呼べるか知らないけど何かに有難いと頭を下げたくなる気持ちだ。


頭数四名、実際は五名以上いそうな気もするバケモノの群れを乗せた

谷地の運転する高級乗用車は長いトンネルを約二分かけて通り抜けた。


グレード最上級車に相応しいアナログ時計を器が確認した(つい)でに俺も

確認した形になる。俺自身に空腹感は全然ねぇが時刻としては正午前。

取り憑いた霊体が食いもんを欲しがるって現世の習慣が抜け切れない

人間に執着した亡霊だと思うよ。他人事っぽく笑ってなきゃ情けねえ。

透明な存在の癖に、我慾(がよく)に囚われてるから天へ昇れない事実に気づけ。


風に揺れる草原、段々畑には果樹が葉を茂らせてる目に眩しい光景が

出迎えたのは『夢』じゃなきゃ何だっていうんだよ。不可解の極みだ。

故郷の村と似てるけど、冬の寒さが肌に感じねぇし、雪が降ってねぇ。

どこなんだろう。疑問符が生じる寒くない寒村(かんそん)に入ったと思うんだが

ここが四名の目的地なんだろうか? 何も言わないのが本当に不気味。


トンネルを抜けてから道路が舗装(ほそう)されてない。土埃(つちぼこり)が舞い上がってる。


ちょうどいい広さの空き地と呼べそうな原っぱに自動車を一旦(いったん)停めた。

四人揃って申し合わせたかのようにドアハンドルを引いて押し開けた。


花田以外の三人は開けたトランクルームから荷物入りの鞄を取り出し

肩に提げたり、背負ったりしてる。貴重な携帯食料も入れたようだし

着替えも入れて寝泊まりする可能性もある遠出といった内容の荷物だ。

これから向かう場所は下っ端の新参者には「禁足地」かもしれねぇな。

故郷の村に似てるけど…以前の世界とも違うような…俺だけ仲間外れ。


冬とは思えない暖かさに違和感を覚える。羽織ってた上着を脱いで

仕舞い込んだヤツが二人いる。歩いてると汗ばみそうな陽気だから

寒がりじゃなきゃ脱いだ方が無難か。出先で脱いだら荷物になるし

薄手の長袖Tシャツ一枚で歩いて平気かもしれない。ここは南国か?


少し陽当(ひあ)たりが悪いのが原因か、雑草の背が低い辺りに集まった四人。

仕切り担当が口を開く前、器は空の様子を数秒眺めた。澄んだ水色の

空が綺麗だと思った。浮かんでる雲が純粋に白と呼べるのは悪くない。

青じゃなく水色と表現するのが相応しい色調。きっと天女(てんにょ)羽衣(はごろも)の色。

小魚と同じことを感じてるのか、器の白文鳥の心境までは分からない。


「ものの数分でサクから状況を読み取れた。ここは僕に任せてほしい」


南中の太陽を背にした狸猫の花田、当然ながら姿が暗く陰るが本人は

知る由もねぇんだろうな。昔は多弁じゃなかったけど口を使う行為を

好むのは自動車旅行で十分に思い知らされた。本人を目前としながら

平然とした口調でキツイ悪口も言いたい放題だし、本当どうかしてる。

誰かの悪口を言うのは愚かな行為の一つに挙げられると一組の倫理の

授業で黒板を背に発表した一組の級長は遥か遠くへ消え去ったようだ。


三組の級長に似てる。あ、十一月の夕食後に見た光景が脳裏(のうり)(よぎ)った。


学校内の(いじ)めのオヤブンだった三組級長と陰湿な虐め被害に遭ってた

一組級長が仲良さそうに接してた場面。遠い昔を知らない新参者には

強く違和感を覚える光景だったが、俺の脇にいた羊の先生は特に何も

思わなかったようで同じ寄宿舎生だった二人に不快感を示さなかった。


タヌ…キメラ猫の記憶と繋がった花田、鼬の記憶と繋がった街の浅井。


学校時代は険悪でも遠い昔は家族の一員みてぇな仲なら親しく接して

風呂の貸し借りくらい余裕なんだろう。街の浅井が無口になったのも

鼬の記憶が作用してるんだろうが、学校時代は外道兵(げどうへい)って呼ばれてた

三組の通学生は誰も生き残ってない。オヤブンは得物(えもの)(うば)われた形だ。

ザマーミロって言いたくなるよ。俺の過失でボヤ騒ぎを起こした翌日、

歓声を上げた噂は自宅で謹慎中(きんしんちゅう)の俺にも届いた。やった側は忘れても

やられた側はきれいさっぱり忘れ去るのが難しい頑固な汚れに苦しむ。

血や泥が布地に浸み込んで洗っても漂白剤に浸け置きしても落ちない

酷い汚れ、どうやって人目から隠しゃいいのか頭を抱える破目に陥る。


人の心を(ぬの)に喩えてみたけど、()(さら)な布に戻す良い方法ってあるの?


「村元、教室だったら廊下に立たせて放課後に居残り勉強させたいが

気持ちは解らないでもない。だが、複雑な心を隠して笑顔を作るのが

真の大人の態度なのだ。過去を水に流すことも難しいと心得ているが

そこを耐え忍ぶのが大人。おまえ等に狸猫呼ばわりされる程度の逆境、

どこ吹く風と大山に(なら)って聞き流すのが最善だ。布に汚れは付かない。

兎に角、村元は黙って人の話をよく聞け。おまえが大人になる第一歩」

担任に自宅謹慎を申し渡された日、一緒に来た級長の言葉を思い出す。

当時は級長ってだけで偉そうにと思ったが、百年以上も自分の考えを

変えてないのは無邪気な常識外れの頑固者と笑えない(したた)かさを感じる。

「いや、もう十分だろ。要は二手に分かれるって話だ。何か起きたら

携帯端末(けいたいたんまつ)…この辺は電波が届かない場所だな…自動車で待つとしよう」

仕切り担当である鼠の親分こと谷地が途中で自分の携帯端末を覗いて

残念そうに呟くと舗装のない道を歩き始めて器が谷地の後ろに従った。


学校時代の一組と二組に分かれての行動となる。俺は一組なんだけど

白文鳥に寄生してる魚は頭数として認めねぇんだろうな。器に任せて

寄生魚は眠った方が良さそうだ。時間の淵があるなら…俺も見学さ…。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


歪んで拗けた世界より更に不可解な印象となるに違いない執着(しゅうちゃく)異境(いきょう)


渾淆(こんこう)魔境(まきょう)へ足を踏み入れる探検隊の一員になった心境で御座います。

テレビカメラ等の撮影スタッフが先導してくれないことには雰囲気が

今一(いまひと)つといった感じ。黎明期のテレビ番組は庶民の純粋な夢と憧憬(どうけい)

詰め込まれていたのでしょうが、夏の夜空に開いた花火のように儚く

散って消えた現在…全てを夢と諦めたくもあるような、ないような…。


俺たちが向かう場所を説明いたしますと「過去(かこ)亡霊(ぼうれい)」で御座います。


混沌(こんとん)とした残骸(ざんがい)の街と村の混合体と申し上げるのが宜しいでしょうね。

以前の世界に於ける街と村は現世とは異なるのです。竜崎順の実家や

浅井壱琉(あさい いちる)の実家は街にありました。現世で中央と呼ばれた都会がなく

俺の実家である旅館は街より南西の海辺の町、辺境(へんきょう)に位置してました。

村から南下すると少しばかり華やかな港街があって、貨物船へ荷物の

積み下ろしする人夫(にんぷ)たちが昼夜問わず仕事に励んだ活気あふれる場所。

余談ですが酒場とか夜の商売が盛んだった港街。うちの小さな旅館は

そういった喧騒(けんそう)を嫌う客層が訪れる御蔭で何とか暮らしていけました。

夜行列車(やこうれっしゃ)に乗り込んだ翌朝、目が覚めて間もなく辺境(へんきょう)の無人駅へ到着。


わざわざ俺を迎えに来てくれた祖母の笑顔は現在でも胸に残ってます。


といっても学校時代、寄宿舎生は全員揃って寄宿舎に缶詰(かんづめ)状態でした。

以前の学校では夏と冬の長期休暇(ちょうききゅうか)が御座いません。交通事情が不便で

十年間の勉学という懲役終了、卒業して()()がれた実家に帰っても

家業を手伝う体力がなくて情けない気持ちを誤魔化す目的で診療所の

シンちゃんを訪ねたら居着いちゃって…何度も思い返す必要ねぇな…。

現世と変わらない秘められていた真相、少年時代を同じ場所で過ごす

苦行(くぎょう)を金銭で購入していた学校なので御座いますから巫山戯(ふざけ)てやがる。


此処(ここ)は、それぞれの透明にできない記憶の群れが形となって佇む世界。


「何ぼけっとしてんだ斎藤、街が見えてきたぞ。()見櫓(みやぐら)まで競走!」

号令の掛け声を省いて走り出しました。現世では二組の軍師を務めた

アッちゃんが胸の持病を捨て去った足の速さを見せつけたい様子です。

現世と幻世で君主を務めた俺が付き合って差し上げなきゃいけません。

こっちはグレーの七分袖のTシャツに黒のツナギを着てきたんですよ。

元親友には「暴力と荷物運び担当」と位置付けられてしまいましたが

現世では五年生秋のマラソン大会で望月漲が俺に発した反則的応援の

後押しもあったものの「学校生徒1位」の実力を持つ美脚(びきゃく)があります。


若さというのもアレですが重苦しい車内を降りて心身共に軽くなった

心地ですね。余裕で追い抜けそう。両足が前へ前へ大きく伸びていく。

忘れもしません。スタート直前、望月漲が近づいて俺に見せた微笑み。

人差し指をゆらくるさせ「斎藤は、校内1位でゴール!」と宣言して

その宣言が何故なのか本当に成就(じょうじゅ)してしまったという(ウソ)みたいな事実。


しかし、目の前に示されたアッちゃんの走りが嘘みたいな現実でした。


体育の時間は教室で過ごす彼の実力など想像したこと御座いませんが

明らかに尋常(じんじょう)じゃねぇ。体格差(たいかくさ)を無視したスピードです。距離として

数百メートル、呼吸の乱れを微塵も感じさせない美しい姿の走行姿勢。

只今の俺は必死になってアッちゃんの後ろ姿を追い駆けておりました。


彼は火の見櫓近くで更に加速して五メートル以上の差をつけてゴール。

楽勝したと言わんばかりに両手を高く(かか)げて喜びを表してやがります。


…?!…


「アッちゃん、左手が戻…。あ、治って…。その手、どういうこと?」

喉や胸が苦しくない訳じゃなくても息を整える前に質問する方が先決。

「そりゃ当然だろう。以前の二組に居た背の低い名無しは左手の指に

障碍(しょうがい)はなかった。この異空間の作用で容姿が以前に巻き戻されただけ。

そういう斎藤も顔と背格好が変身しなくても以前の容姿に戻ってるぞ」

斎藤千馬(さいとう かずま)と名乗るのが()って()けな名無しの二組級長の姿になったと

軍師より指摘されました。確かに今の状態じゃサイズが大きいですね。

さり気なく暑さを表すようにツナギの上半身を下げ、腰で袖を結ぶと

多少は人目を誤魔化せる筈でしょう。全天候対応の完全装備ですから

誰にも文句は言わせません。イザとなったら、暴力で片を付けまーす。


ちなみに二人はバックパックを背負っております。アッちゃんの鞄は

普段使いに適したシンプルなデザイン、俺のバッグよりずっと軽い筈。

こっちは不利なワンショルダータイプ、頑丈であることを最優先して

選んだ品ですし、目一杯に荷物も詰め込んでますから重くて当然です。

俺のツナギもボトムが重くて足捌(あしさば)きが不利だったと(かえり)みる部分ですね。


要は何が言いたいかってぇ申しますと『只今(ただいま)勝負(しょうぶ)はノーカウント!』


大体おかしいです。歯科治療(しかちりょう)した際、奥歯に加速装置(かそくそうち)を仕込まれたに

違いありません。逸早く走り出したのも「カチッ」と噛み締める音を

俺の耳に入れない詭計(きけい)を巡らしたからです。流石は二組の意地悪軍師。


いや、知ってますよ。アッちゃんが人体改造以外の手段を講じたのは

誰が見たって明らかでした。でもでもね、そこを突いたら()()りぃ。


「名無しの級長が積もり積もった不満と不機嫌で崩落寸前(ほうらくすんぜん)の表情だな。

言いたいことがあるなら言えよ。私に負けて悔しいんじゃないのか?」


『私』という一人称を使用した時点で一耳聴然(いちじちょうぜん)。白い賽子の喫茶店の

初代マスターだった夏目宙(なつめ そら)です。頭の不調は回復してるようで何より。

アッちゃんは生体加速装置(せいたいかそくそうち)と事前に融合してたって訳か。卑怯(ひきょう)(きわ)み。

今まで誰にも気づかれずにいたのがスゲェ。二組の二人は四人だった。

狸猫に酷い暴言吐かれても耐え切ったのは裏方に控えた秘書(ひしょ)御蔭(おかげ)か。


「いや、勝てない相手に負けても…。こんな下賤(げせん)を相手にして頂いて

光栄至極(こうえいしごく)に存じます。秋のマラソン大会で本気出してなかったでしょ。

家族とか身内が応援しに来る通学生に花を持たせるための行事ですし、

五年生の秋、俺が1位になったのは望月漲の気紛れな心模様で(ささや)いた

宣言の後押しが効いただけ。美しい走行姿勢が拝見できて感無量(かんむりょう)っす」

鹿さんはバケモノの中じゃ最上級の俊足(しゅんそく)。瞬間移動すりゃ勝てるけど

夏目宙の快気祝(かいきいわ)いも兼ねて支障ない会話に止めとくのが吉と出ました。

「その(おもね)るような言い方やめろよ。あっ、私としたことが三十年以上

前と全く同じ台詞を言ってしまった。今の台詞、コピペじゃないから」

冬毛の小動物さんの眼差(まなざ)しが冷たく突き刺さりました。十年生の夏に

ぶちのめして実力を知らしめてもケンカ腰巾着(こしぎんちゃく)さんは理解できないの?

「兎に角まぁ、私が常時監視(じょうじかんし)してるから馬鹿げた行為は(つつし)むようにな」

アッちゃんに取り憑いた霊の口寄せが終了したようです。成仏しろよ。


「斎藤、どこかで座って休もう。全力疾走(ぜんりょくしっそう)なんか経験したことなくて

ダメージきついや。ソラも斎藤が相手だから手加減する気なかったか」

しゃがみ込んじゃってアッちゃんの袖を捲ったシャツを着た上半身が

大きく上下する様子を観察することになりました。俺の方は体調万全。


一走りした後の回復は既に完了。もう一勝負にも即座に応じられます。


この異空間にいる限り、数値(すうち)を気にせず何でも食べられて好きなだけ

身体を動かせる幸福が得られる。そう考えたけど…塞に戻れば病人…。

泡沫(ほうまつ)の万能感に()()れてらんねぇんだ。(おご)れば驕るほど泣きを見る

結末が訪れるのは必至。心臓は常に俎板(まないた)の上。この異境は竜宮城です。

絶世の美女と出逢っても手渡す土産は受け取るな。絶望の白煙が上る。


空を見上げます。地面よりも境界線のないシンプルな風光(ふうこう)を眺めたい。


空は天女の羽衣の色か。ハシムにしちゃ洒落た言葉の選択してたよな。

確かに青空と呼ぶには淡い色調かもね。天空を舞う羽衣が似合う彩り。

目出度く死ねたら…名前や過去、血肉に囚われた身体と縁が切れる…。

分解された成分が天に昇ったら、宗教的だけど「成仏(じょうぶつ)」って状態かも。

何も思わず(ちゅう)に浮く透明な名無しになるのか。死んでからの楽しみだ。


生存する以上、地面を歩いて血肉を養わなきゃいけないシステムです。


「アッちゃん、何とか立てそう? 座敷に上がって食べられる食堂が

街に何軒かあったと思うし、少しぶらついてみよう。まだ歩けない?」

本来なら全力疾走なんて無理な身体を秘書が無暗に暴走させたんです。

非常時の呼吸を通常時に抑えることも彼は経験不足かもしれませんね。

「大丈夫、行けそうなら異境へ行ってみようって提案されたときから

この街を歩くのを楽しみにしていたんだ。この程度で負けて堪るか!」

見た目だけは年寄り染みた台詞など恥ずかしい十六歳の少年ですから

勢いよくといきませんが静かに立ち上がってみせただけでも上等です。


鏡は見てませんけど、きっと俺も十代半ばの姿に戻されたと思います。

ハシムという名の停滞した寄生魚の能力も必要ない健康状態っぽいし

心が軽い。矢鱈と軽い。大笑いしたい気持ちを(かろ)うじて堪えてまーす。


能天気とハシムに評された名無しの二組級長の笑顔が表に出てきそう。


アッちゃんが歩きながらバックパックのサイドファスナーを引き下げ

「ソラを後見人というか頼りにする必要があったのは、コレが目当て」

同行する俺に笑顔で見せてくれた物は寄宿舎(きしゅくしゃ)小銭泥棒(こぜにどろぼう)愛用品(あいようひん)です。


『すっかり()びついた蓋付(ふたつき)の丸くて茶色い缶ケース(元はチョコ入り)』


爆撃蹂躙の憂き目に遭う前の世の中で使用できた懐かしい硬貨紙幣が

詰め込まれたマジックアイテムでした。缶の蓋が勝手に開かないよう

ベージュに赤と茶のライン入りのゴムバンドで押さえられてますけど

物持ちがいいにも程があるアンティークな品物。白い賽子の喫茶店で

レジ代わりに使用してるとマスターから見せられたのを思い出します。


以前の幻世に於いても使用されていた何者が発行して流通させたのか

謎ですが思い出深い金銭。そっと胸の奥底に仕舞い込んだ記憶と共に

眠り続けてきた秘蔵金(ひぞうきん)を使わせてくれるなんて、(ふと)(ぱら)にも程がある。


「手始めに昼間の飲み食いを済ませよう。身体を動かして腹が減った」


靴底に触れる地面が全身を支える安心感。偶に角ばった石が突き出て

(つまず)いて転んじゃったら格好悪いし笑われます。ズボンの(ひざ)が破れたら

衣料品店で適当な替えを見繕(みつくろ)わなきゃなりませんから被服費が(かさ)むし。

俺は未経験でも以前の二組じゃ(ゆう)ちゃんが一番ズボンを裂いちゃって

新しいのを買おうとなったら大きなサイズがないと騒いで大変でした。

悠ちゃんのお母様は手先が器用、既製品(きせいひん)は厳しい体型になった息子に

お手製の服を誂るようになりました。腰回(こしまわ)り調整等の工夫を(ほどこ)された

高級素材の制服は裕福な家庭に生まれ育った証拠です。羨ましかった。


商店街の通りに入りました。人々が道を()()ってる。それだけで…。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「準備体操しといて良かった。マラソン大会にも出てみたかったな」


学校時代は敷居(しきい)が高くて入り(にく)いと通り過ぎてた手打(てう)蕎麦(そば)の店へ

この際だからと記念の初入店いたしました。古びた佇まいで照明は

落ち着いた雰囲気の演出でしょうか(ひか)えめな電球色(でんきゅうしょく)が使われてます。

この温もりある灯り、懐かしいな。実家の旅館でも使ってたっけ…。


奥の座敷席に上げてもらって、各自で座布団を出して向かい合って

座卓で注文の品を待っているところです。出された蕎麦茶の風味が

自分の口に合うようです。モガミ屋で何杯もお代わりして飲んでた

(ほう)茶好(ちゃず)きにも目を付けられそうな(かぐわ)しい味わい。クセになるかも。


和風の紺布張りの御品書きを開いてみると全メニューが絵画(イラスト)付きで

説明されてありまして、初入店でも分かり易くていいと思いました。

昼食時なので寛いでもいられない客の入りですが、二度とない機会。

お互いに後悔のないメニューを選んで美味しく食べようと考えた末、

アッちゃんは「天ざるセット(小親子丼)」、俺は「かき()げ丼」を

注文しました。俺は蕎麦嫌いじゃなく人前で(めん)(すす)りたくないだけ。

「じゃが芋の入ったカレー南蛮(なんばん)も美味そうだが斎藤は我慢したのか。

学校時代は夕飯を食いに下りて来ない晩は、斎藤たちの部屋の前が

カレー(くさ)かったっけ。長老の所為でカレーライスが月イチだったし

即席(そくせき)カレー麺はささやかな抗議(こうぎ)の意味も兼ねてるのかと思ってたよ」

月に一度か二度、食堂に下りたくない晩の言い訳に使ってた即席麺。

全く大好物じゃないのに周りからはカレー好きだと思われてた模様。

「そんな時代もありましたね。昔のことですから忘れてくださーい。

只今の俺はドンブリ(めし)をかき込みたい気分なんでーす。かき揚げで」

天丼より小海老と帆立に玉葱等の野菜の旨味(うまみ)をギュッと詰め込んだ

かき揚げの方が絶対得だと思ったんですよね。個人の好みとしては

しっとり揚がった舞茸(まいたけ)やトロトロになった茄子(なす)天麩羅(てんぷら)が最高です。

生姜と大根おろしの天つゆで食します。美食家じゃないので薀蓄(うんちく)

傾ける趣味は御座いません。()(まで)も名も無き民草(たみくさ)の食事の話です。

衣がサクサクしてたら文句なしの及第点(きゅうだいてん)。後は天つゆで何とかなる。


蕎麦茶で喉の渇きを癒やしたアッちゃんは上記の台詞を聞かせると

マガジンラックから新聞を持ち出してきました。未成年に見えるし

年配の常連客さんの目を考えると俺なら躊躇します。適当な雑誌を

捲って時間を潰すでしょうね。関係ない人々から生意気なガキだと

思われるくらい気にする必要なくてもアッちゃんの真似はできねぇ。


注文の品が来るまで新聞を広げて感慨深(かんがいぶか)い眼差しで眺めていた少年。

日付とニュースを見りゃ引き出せる記憶、幾つか情報が得られる筈。

俺も一緒になって新聞を見て情報交換する気になれません。それは

女子っぽい関わりだと認識されるんですよね。和やかに話し合えば

温かな思い出として胸に仕舞(しま)われるのに、気恥ずかしさが先に立つ。


車の運転を続けてただけのアッちゃんがいつ何処で準備体操なんて

やってたのか疑問が残りますが…()くのも野暮(やぼ)ってヤツでしょう…。


客を迎える声、お辞儀で送り出す声が繰り返し響く店内の賑わいが

寂寥感(せきりょうかん)しか湧かない終末を辿(たど)ったバケモノの耳に痛い。挨拶や雑談。

他人の会話に聞き耳を立てるのは無粋(ぶすい)と知っても傾聴(けいちょう)したい気持ち。


三十年程度と(あなど)れない。変化を遂げるには十分な歳月です。

誰が選択を誤って、市街の賑わいを消し去ったのでしょう?


二人のハンソクがゲームをしたのが原因だと指摘されたら

極刑に処されても償い切れない重罪とされるのでしょうね。


反則と反側は…(ゆが)んで(ねじ)けた世界の想像者(そうぞうしゃ)なのですから…。


逃げたい。駄目だ。彼は逃げてない。現状を打破するため旅立った。

罪滅ぼしする目的で彼の親友に逢おうとしてる筈。親友が鍵を握る。

現世での学校時代は幻世と違って成長の遅い王子様だった彼の親友。


劉遼と望月…慈友君の交渉次第で現状に再び光を掲げられると祈望!


偉そうにと思われるでしょうが、希望を残さず消えるのも胸が痛む。

ひと時の幻影でも牢獄世界は良い方向へ進んでるように見えました。

田舎道を走行しても朝夕には渋滞時間(じゅうたいじかん)がありました。職場や学校へ

往復する人々、買い物へ出かける人々、発生した不備が改められて

改良を重ねて発達していきました。笑顔で暮らせる人々が増えると

遠くから観察していたバケモノの目は、明るい兆候(ちょうこう)を感じたんです。


この世界を潰すなら潰すと意思表示してくれても良さそうですけど

アッちゃんも聞かされないようです。舞台の袖裏で蠢動(しゅんどう)してる(やから)

何を望んでいるのか殆ど意思疎通(いしそつう)(はか)れないそうでも心を()()

表現に喜びを示すことに気づいた以上、音楽や絵画などに打ち込み

舞台の袖裏に生きる意志を懸命に伝え続けます。俺たちバケモノは

塞まで連れてこられて集団で暮らす生き残り女子たちが安心できる

未来を目指して、何とか出来る限りの最善策(さいぜんさく)(こう)じてみせましょう。


ここで逃げたら地面に囚われる亡霊決定です。天に昇れませんから。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


蕎麦湯を飲み終えたアッちゃんが会計を済ませ、蕎麦店を出ました。


アッちゃんの(おご)りじゃなく、夏目宙…寄宿舎生(きしゅくしゃせい)()とした小銭(こぜに)…を

貯め込んだ金銭ですから多少は遠慮しましたよ。海老天(えびてん)穴子天(あなごてん)

乗っかった特上天丼を頼んだら冷たく睨まれちゃいそうな予感だし

かき揚げ丼で十分美味かったんで全く問題ありません。手が勝手に

土産用(みやげよう)の無料天かすを1袋もらっちゃってて、我ながら不可解です。

車内で塩むすびを頬張ってた狸猫に突き出しゃ(むさぼ)()ってくれる筈。

それまでバックパックに放り込んで、存在さえ忘れちゃいましょう。


「まだ休み足りねぇんだよな。座り心地の上等な席で(くつろ)ぎたい気分」

幻世の学校で勉強してた名無しのアッちゃんは贅沢しない控えめな

生徒だったんですけどねぇ。鼠憑きになると金遣(かねづか)いが(あら)くなるのか

お次は高級そうな談話室(だんわしつ)(かん)した喫茶店の出入口の階段を上ります。


現世でも街には焼き菓子や季節の果実を盛り合わせた冷菓(れいか)で有名な

店舗があったらしいけど縁が無くて行きませんでした。寄宿舎生が

集まって土産のチョコケーキを切り分けて食べたのも遠慮した記憶。

形ばかりの付き合いで適当に済ませてた黒く塗り潰したい過去です。


只今はアッちゃんの後ろを歩く下っ端ですし。二組の君主は遠くで

()()にして、頭と胴体が離れて転がってるかもしれません。白旗(しろはた)


大尽(だいじん)に付き従って太鼓(たいこ)持ちするのが任務というなら仕方ないけど

余計な思考は極力抑えて、今回の最終目的地まで同行するだけです。

階段を上ったら硝子扉の上部に店名が白いシールで示されてました。

躊躇(ためら)いもせず扉を開けて入っていく少年の後を追う気の弱い男子が

脚本に綴られた俺の役かもしれません。中身が少々混沌としてても

気にする必要ありません。場合に拠っては、暴力で片を付けるだけ。


勿体つけた態度で歩く裕福そうな少年が上客(じょうきゃく)と映ったのでしょうか。

奥まった座席へ案内されました。テーブルの手前には白い硝子入り

パーテーションが設置されてます。背の低いテーブルにソファーを

組み合わせた寛いで過ごせる席。ワイン色のクッションが柔らかく

入口近くの木製椅子とは比較しちゃ失礼ですね。安心して全体重を

預けられる造りです。けれど偉そうに()()り返ったら最後、大恥

かく顛末(てんまつ)が予想できますから、空想だけに止めるといたしましょう。


「アッちゃん、この店は初めてじゃない感じだな。何度か来てる?」


汗のかいた茶色い業務用グラスで水を飲み、やっと客になった気分。

窓からは商店街の通りが一望できます。行き交う人々は幸福の象徴。

辛い出来事から逃げられない牢獄に見えても結局、地上は楽園です。

「先代に連れて来られ、この卓で面接みたいに向かい合って話した。

生きるために何でもしてみせる気骨を示せと言われた以上、手術を

受けると答えるしかなかった。こっちは寝ていりゃ済むことだから。

それで契約が決まったんだろうな。悪魔の鎖に繋がれる取引だって

気づくほど大人じゃなかったんだよ。あの日に時刻を戻せるなら…」

顔を隠す姿勢で喋るアッちゃんが現在の(ねずみ)ですけど、やっぱり違う。

そう言いたいんでしょうかねぇ。飽く迄も二代目(にだいめ)にしか過ぎないと。


面接してもらえるだけ遥かに扱いが上等。白文鳥は俺の墓を倒して

遺灰(いはい)をばら()いたんですよ。話し合いっていうか会話も成立するか

不明としか言いようのねえ妖怪変化(ようかいへんげ)でしたもの。「知的に障碍が…」

彼を見たら真っ先に(よぎ)る印象です。死に装束(しょうぞく)かよって格好だったし

影に紛れて動く普通じゃなさ。でも、鳥が物心つく頃からの記憶が

俺に宿ってるのです。完全に自分のモノとして受け取り済みの情報。

他人事として評価したら恐ろしいほど世間知らずな鳥。祖母の手で

雨風その他あらゆる外界の刺激から遠ざけられた過保護(かほご)見本(みほん)です。


「待たせちゃ悪いな。注文の品を決めよう。斎藤は何か食いたい?」

アッちゃんが取り繕うように茶色い型押しの皮革カバーが施された

メニュー帳を開きましたが首を横に振りました。食べてきたばかり。

「何も要らないけどブレンドでいいよ。頼まない訳にもいかないし」

幻世の学校時代は街まで外出する機会は希少でした。日常の用事は

村内の施設で済ませてきたんです。現世みたいに大きい車に乗って

街まで移動、バス遠足なんて本当に夢のような出来事だったんです。


自転車だって小遣(こづか)いで買えない高級な宝物。現世じゃ三度盗まれた

思いきり黒く塗り潰したい過去の受難と共に思い出す三台の自転車。

物の有難みを学ぶことなく生きてきたら粗末(そまつ)に扱うし、簡単に盗む。


罪悪感に苛まされない脳の障碍を負ってると気づかず生きる犯罪者。

防犯対策すればするほど盗人に挑発行為(ちょうはつこうい)として受け取られる悪循環(あくじゅんかん)

罪を犯したら現行法に於ける罰を受ける。それでいいと思いますよ。


現世に於ける俺の場合、貯金の分を残した後の小遣いは使い切った。

学校の世話になって見事なまでに金銭感覚が荒くなっていた事実に

気づいたのは卒業して数年過(すうねんす)ぎてから。学校時代から指摘されても

気づけなかったのは根底に貧乏鳥(びんぼうどり)が取り憑いてた所為だと思います。

食玩を全種揃える大人(オトナ)()いも言葉を知る前から当たり前にやってた。

八年生の夏期休暇で実家へ帰った際も一緒に出掛けた母親に驚かれ

財布と預金通帳の残高を調べられ…(しま)いには家族全員からの糾弾(きゅうだん)…。

もっと貯金できる筈だ。何を買ってるんだ?…勉強できるだけでも

有難いと思え云々…。跡取り息子を売り飛ばしといて言いてぇ放題。

予定より数日早く学校へ戻りました。行きがけの駄賃として旅館の

マスターキーを1本盗んでみたものの、馬鹿らしくなったんだよな。

封筒に入れて切手を貼って出したら届く状態で引き出しに入れたら

肝心要(かんじんかなめ)の鍵が抜き取られていたんですよ。焦って部屋中探し捲った。

その鍵を何故か桜庭潤が寄宿舎の廊下で拾ったというのが複雑怪奇(ふくざつかいき)


『インビジブル』彼の悪戯(イタズラ)だったとしても動機が不明。天罰で結構。


「この店はカレーが美味いんで有名だって先代から聞かされたんだ。

カレーといえば、あいつが出てくると思うけど、俺と斎藤と陽春(ようしゅん)

三人は入学早々言われたんだよな。信じたくはない問題発言だった」

幻世と現世で二度言われた台詞を忘れられる筈ないじゃないですか。

「うん。今でも俺の胸に突き刺さった心的外傷(トラウマ)だよ。ひどいにゃん」


アッちゃんと陽ちゃんより(ひど)言掛(いいがか)りでした。そんなの記憶にない。

それでも長老様の島梟さんの頭に詰め込まれた消せない記憶らしい。

容疑者より被害者が尊重されなければ…。それなら俺が圧倒的不利(あっとうてきふり)

彼の発言で苦境に立たされる。実際に手を下したとは言ってません。

しかし、史書(ししょ)(つづ)るとしたら俺の名前が使われる。そんな事柄です。


「俺が言いてぇのは、あいつの居場所に行きたくねぇよなって話さ。

桜庭と花田が喜び勇んで出向くんだろうし、わざわざ俺たち二人が

行く必要ねぇと思う。長老の件は桜庭と花田に任せよう。役割分担」


紺の制服を着たウェイトレスが注文を聞きに来ました。残骸の街も

多くの人が働いて、廻っているようです。俺たちが姿を消した途端、

砂の城の如く波に(さら)われて消え去ると考えたくない。俺たちも同じ

夢や幻と喩えられる存在ですから背景まで覗き込む無粋は控えます。


停滞せず流れ続ける世界を眺められる幸せを味わいたい。それだけ。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


気を取り直す。そんな感じで現実には百年以上の昔話を振り返りました。


鈴木様だった羊の先生が二名様で桔梗(ききょう)()に宿泊予約を入れた真夏(まなつ)(ゆめ)

事務室で見た印刷された書体のように美しい書き文字もヒントでしたが

そんなこと当時の俺には知る(よし)もありません。普通に離れを清掃した後、

礼が消え去ったり小さくない悪夢が起こり、学校時代の三人の同窓生が

鈴木様が宿泊しに訪れる露払(つゆばら)いのように現れたのも水無月(みなづき)白日夢(はくじつむ)です。


アッちゃんはアッちゃんで梅雨時(つゆどき)単独大博奕(たんどくおおばくち)を打ってたらしいですが

ずっと逢いたかった旧友の先生と再会を果たし、輝かしい勝利を収めた。

獲得した報酬は学校の再始動資金(さいしどうしきん)やベニが主催(しゅさい)した施設(しせつ)で使われました。


元より私腹(しふく)()やそうって考えを持たない清貧(せいひん)な小動物さん。最低限の

上質で満足して、普段はカップ麺を喜んで食ってるんですから安上がり。

仕事の合間の贅沢がオランジェットでした。至福のチョコがけオレンジ。


何か与えて見知らぬ誰かが喜ぶ顔を眺めりゃ十分。見返りを求めません。

実は彼が誰より頼りになる不思議な天使さんなのでーす。俺も(あやか)りてぇ。



もっちーは、アッちゃんにとってはナギちゃん。俺の知らない呼び方で

以前から隠れた盟友(めいゆう)だったようなのです。鞄持ちとは格が違う真実の友。


その年の旧盆明け、予約した日時に鈴木様御一行が桔梗の間へ宿泊しに

当旅館を訪れました。詳細を綴る必要なく、もっちーとアッちゃんです。


望月漲が偽名と知らなかったのはアッちゃんも…。村の診療所に関する

恐ろしく重たい裏事情も知らなかったし、理由を聞く気にもなれません。

彼は千年以上の懲役(ちょうえき)に服した存在と考えています。極刑(きょっけい)の方がマシだと

嘆きたくなる星霜(せいそう)を過ごしてきた筈。それなのに空より上品に映る笑顔。

両親の持つ遺伝情報を受け継いだ美形。語るより佇まいに気品が表れる。


当の鈴木義則先生は元緊急検証部の部長だけあって、休暇を幽霊旅館で

愉しもうと訪れたのでした。出るなら出ろ。でも、なるべくなら出るな。

そういった心模様を愉しみたく目に付いた雑誌で見た離島(りとう)幽霊旅館(ゆうれいりょかん)

気紛れな人差し指をゆらくるさせ、二名で宿泊予約の手紙を出しました。

その後アッちゃんと再会したんだから結果オーライ、雨降って地固まる。


当然でしょうけど室内に置かれた大伯父(おおおじ)遺影(いえい)を見まして、一人は苦笑。

現在、俺と向かい合って座る一人は床に転がり大笑いした訳であります。

「こりゃ出るもんも出ねぇな!」少しばかり品位に欠けたアッちゃんの

笑い声が桔梗の間に響き渡りました。元から幽霊が出たという噂もなく

大女将(おおおかみ)である祖母が客寄(きゃくよ)せ目的で新聞や雑誌のクチコミを利用した噂が

事の真相であるとバケモノとなった旅館の跡取り息子が白状しましたよ。

そんな訳で昼間は三人で島内を観光して、予定通り二泊して帰った二人。

ちなみにアッちゃんは二組の同級生だったことを隠し、お客の鈴木様の

(おい)()といった設定で過ごしました。考えてみると享年(きょうねん)十六の同級生が

昼日中(ひるひなか)に現れた方が余程のオカルト事案ですね。記念写真も心霊写真だ。


幻世にいた俺が大伯父の生き写しなのが不可解で靄つくってだけの挿話(そうわ)


クリームソーダ。村の学校に通ってた低学年の頃なら大喜びで口にした

背の高いグラスの底に沈んだレッドチェリー、たくさんの氷が浮かんだ

メロンソーダの上に載ってるバニラアイスを()の長いスプーンで(すく)って

食べるのが楽しかった。溶けかけたアイスと凍みかけたソーダの混合が

絶妙に美味しく何度も繰り返し口に運んだっけ。最後に俺が食べたのも

きれいさっぱり忘れてるのに、味わった記憶を忘れないのが不思議です。


十六歳の少年姿のアッちゃんが注文したクリームソーダは、子供時代が

懐かしくて食べたくなったんでしょうかねぇ。彼の真意は分かりません。

親子丼の天ざるセットを完食してきたのに食欲が若くて羨ましいと思う。


齢は…あぁ、軍師様の誕生日は水無月だった…。オレンジピール入りの

手作りチョコケーキを寄宿舎生たちに一切れずつ分けて祝ったんだっけ。

十年生の六月、寮母さんの指導を受けた彼女が頑張って焼いたんですよ。

あの騒ぎが起きなゃ彼女…池田ミサさんとアッちゃんは…うちの旅館で

再会できたかもしれないのに、彼女は島を出て村へ戻って、それっきり。


二人が擦れ違ったのは天の采配(さいはい)? それとも舞台の袖裏で操作された故?


「冷えるな。サイダーを頼んどきゃ良かった。この注文は失敗だったか」

両肩を上げたアッちゃんの発言、冷めた珈琲を飲みながら耳にしました。

考えてみると白い賽子の喫茶店でも飲んでましたもんね。()えて好物を

外したら失敗パターン、実によくあることです。好きを遠ざけたら必ず

涙を零す破目に陥るんですから、何としても手放さないことが得策です。


極上なんて見栄を張る必要ないと思います。無難で十分じゃないですか。


クリームソーダは些細な気の迷いが選んだモノ。今度はサイダーを注文。

「些細なことだよ。気にすんな」過ちにも分類されない挽回できる失敗。

取り返しのつかない結果、ハズレ籤を引いた者の転落、烙印を押されて

無間奈落へ消える者に比べたら…。二階にある喫茶室は天に近いんです。

何より安心を得られるんじゃないかしらって思うの。落ちる心配は無用。



生き物の行動原則は「安心(あんしん)」の二文字に縛られてると思います。

あらゆる欲の果ては安心を得るため。食べるのも、寝るのも…。


欲深者(よくぶかもの)も単なる一つの欲に囚われてるだけ。「安心」を得たい。


昔の君主にしても領土を拡大する根底(こんてい)には不安が付き纏うから

戦争(せんそう)略奪(りゃくだつ)をして周囲を出し抜いてでも不安感(ふあんかん)を拭いたかった。

君主一人が安心したら巻き込まれる被害者も減るのでしょうが

それに気づかず被害を拡大させ、不安と共に天命は尽き果て…。

人生をやり直せるものなら、人生が二度あれば的思考に囚われ

地面に()()けられるのです。「もっと、もっと…」の先には

たった一つの安心が欲しいだけなのに空を見上げることも忘れ

地面に繋がれた黒い(もや)。既に(おのれ)の肉体は…透明な空気なのに…。



「羊の先生、今頃どこを彷徨ってんだろうな? 舞台の袖裏に向かわず

たぶん俺たちとは逆方向へ進んでると思う。ズレてんのが先生らしいや」


レッドチェリーを残した状態でクリームソーダを完食した感想が盟友の

状況を気にかける発言でした。俺たちは望月漲の誕生日を知りませんが

現世の編入生シンちゃんと違って、年上ということは有り得ない筈です。


数年間、三代目鞄持ちは羊の先生と車中生活を共にしてきた仲でしたが

お互いにプライベートな内容を話し合う機会から逃げてきたと思います。

明確な理由がありました。気恥ずかしいとか抜きに一組生徒の望月漲で

ご実家が運営する施設の病院で医師として勤務していた鈴木義則先生は

非常に厄介な裏事情を抱えていらしたのであります。()(こも)るしかねえ。

一組の生徒たちなら気づくと思う。俺とアッちゃんは二組だから問題に

気づくまで幾らかの時間を必要としました。挨拶や天気、交通情報など

当たり障りのない事務的用件の会話なら特に問題なかったんですけどね、

腹を割って会話しようと考えた途端、厄介(やっかい)な問題に直面してしまいます。


きっと今回の自動車旅行に同行した学校一組の級長と副級長のコンビも

厄介な件として知ってる筈です。眠り込んで気配を消してる寄生魚も…。

部活はエンタメだから許される部分もあったんでしょう。エンタメだと

笑って済ませたら後腐(あとくさ)れなく過ごせる筈です。寄生魚(ハシム)や飛島君なんかは

気性の激しい部分が垣間見えたけど、抑制できたのはオヤギの御蔭かも。


或る年の旧盆明け、大伯父の霊が現れると噂される桔梗の間に宿泊した

もっちーとアッちゃんのコンビも二日目の晩に(いさか)いの火花が散りました。

それで『簀巻(すま)き』以前の学校にいたヒデェメ担当大臣の慈友君を見習い

脳内を冷やして頂くことにしたのです。好きでヤった訳じゃありません。


気をつけなきゃいけない相手であると気づいた以上、こっちも忘れない

ために印を付ける必要がありました。向こうもバツが悪い。車中生活も

それなりに鞄持ちが気を遣ってきたんですよ。発言に腹を立てないよう

心を()らす訓練を続けてきました。だから、現在は程良(ほどよ)い距離を置いて

関わっていたのです。適度な距離感で何とか誤魔化し取り繕える関係を

続けてきたんですがねぇ…。当人が一番苦しんでると分かっているから

()()れません。現世に於ける彼の宿業(しゅくごう)が周りを巻き込んで共に苦しむ。


羊の先生は特殊(とくしゅ)異空間(いくうかん)である実家の施設から出られない理由があって、

あの病院でしか医師の務めが果たせなかった。学校時代も言動の端々に

首を傾げたくなる部分や不具合を感じ取っておりましたが、あの笑顔で

帳消(ちょうけ)しされてきたんですよ。誰が見ても得をする容姿がペナルティとは

普通なら気づかないでしょうが、歪んで拗けた世界では超絶美形だった

某生徒の言動も凄まじいトラブルを招く元凶(げんきょう)だったんですから困りモノ。


望月漲と名乗る存在には(まった)(もっ)て罪の意識なし。そこが本当に困りモノ。


異空間牧場から放された羊さんが喜び勇んで旅行先の景色を愉しんでも

それを伝えようとしたら(こじ)れる。釘で刺されたような心痛を覚える者も

現れて当然だと思います。それでも多くの生き残り女子たちを捜し出し

塞まで導いた功績があるのですから許されなくちゃ。いつか彼の宿業も

(ゆる)されると信じます。そのとき雲一つない青天の笑顔が(のぞ)めるでしょう。


余談ですが、以前の三人を振り返ってみると共通点が明らかになります。



『三人とも死んでる』二人は病死、一人はインビジブルに撃たれて死亡。



現在三人が生きてるのが不思議ですけど、強く地面に繋がれて彼の世へ

旅立てない状態なんですよね。俺が鏡を覗く限り、未だ透明な空気にも

黒い靄にもなってない人間の状態。名前と過去を捨てる覚悟はあるのに

身内は迎えに来てくれず、しつこく今も生き長らえてる不死のバケモノ。

今から逃げず向き合ってるだけ。勝敗に関係なく、現状打破(げんじょうだは)を望んでる。


今日(きょう)日付(ひづけ)を訊きたい気持ちを胸の奥に仕舞い込み、喫茶店を出ました。


「覗いてみたい店を思い出した。生き残り女子たちに土産(ミヤゲ)が買えるかも」

階段を下りたアッちゃんが左を向いて進んだのに従って後ろを歩きます。

現実の世界と切り離された彼岸の異境でも向き合って考えるのは今だけ。

七分袖のTシャツに隠れた左肘がヒリヒリと痛む。これも俺の現実です。

ちょうど一年前に負った低温火傷(ていおんやけど)(あと)(いま)だ些細な刺激で痛み出す現在、

異境の日付など気にする必要ないと思えてきます。季節の視えない街で

過去にしがみ付くより前を向いてるアッちゃんを見習いたいと思います。


四人の小さい子供たちが一列になって二人を追い抜いて駆け出しました。

二人は子供たちの日常にはインビジブルとしか認識されないのでしょう。

近所の子供同士遊ぶことで社会性を学習します。小さく狭い世界の中で

一番とビリ、出来る出来ないの距離が測られていく厳しい競争が始まる。

どうしても一番先頭を走る子と一番後ろを走る子が現れてしまうのです。



俺の知る十姉妹(じゅうしまつ)は足が速かったけど仲間と群れることなく一人で歩いた。


音楽の道を進むと信じてたのに小さい船の渡し守にならなくても

良かったのに…好きから遠ざかって壊れたように思えて…。


彼なりに無難な航路を選んだに違いないが、彼の船は

暗礁(あんしょう)に乗り上げた後、海底に沈んで消えました。


それなら好きな道を歩いた方がいい。


後悔しない道を選んでください。


一度きりの人生ですから。



俺たちを追い抜いた子供たちが商店街にある駄菓子屋に(たむろ)していました。

店頭に設置されたオレンジ色の自販機(じはんき)銅貨(どうか)を1枚投入したみたいです。

一人が割り箸を手にして器用にクルクル動かし、綿菓子(わたがし)作りの真っ最中。


学校時代の胸が靄つく思い出と診療所(しんりょうじょ)師弟(してい)コンビとの温かな思い出が

同時に(よみがえ)ってきます。自販機の右脇に不機嫌全開の表情で立つ俺もいる。


目に見えない記憶に封じ込められた情けない俺の姿は…インビジブル…。


手拭(てふ)きを買えるなら思い切って買おうかと思うんだ。折角(せっかく)機会(きかい)だし」

アッちゃんは後ろを向かずに話したので聞き返すことを躊躇(ちゅうちょ)しましたが

わざわざ異境の街で手拭きを購入するというのも()せません。布類なら

塞の商品倉庫に未使用品が眠ってる筈ですし、意図が読めませんでした。


「あのさ、どこで手拭きを買うの?」

「え、手拭き? 珈琲(コーヒー)(こぼ)したなら

さっきの店でダスター借りて拭きゃ

良かったのに、何を今頃になって…」

「いや、どこも俺は汚してないけど

アッちゃんが『手拭き』が欲しいと

言うから、どこで買うの?って質問」

「手拭き…。ああ、俺が話したのは

テフウキン。手で奏でる風の楽器さ。

手風琴、アコーディオンのことだよ。

それを買いたいから楽器店まで行く」

目の前の交差点を右に曲がりました。


以前の俺には街で一番重要な(なつ)かしい小路(こみち)でした。この並びに楽器店(がっきてん)

あるんです。通い詰めて勇気を出して店主と交渉して、中古のギターを

月賦払(げっぷばら)いで購入いたしました。手入れの方法とか教えてもらったっけ…。


それは兎も角、アッちゃんが手風琴(てふうきん)なんて洒落た言葉を使うもんだから

ヤヤコシイ余計な遣り取りをしてしまったんですよ。アコーディオンと

最初から話してくれたら全く問題なかったんですけど、異境の街並みが

古びた言葉遣いしたい気持ちを(いざな)うのでしょうね。夕闇色が似合う景観。

全ての空気がオレンジ色に染められていく日没前の静けさが待ち遠しい。


この異境の楽器店では店主と知己(ちき)の仲だった俺はいるのか、いないのか

何とも予測がつきません。季節が取り払われ、日付も分からない異空間。

学校の制服を脱いだ状態ですし、元から印象が薄い名無しの級長でした。

契約の書類に何を綴ったのかさえ憶えてない。どうして名前もないのに

月賦払いが出来たんでしょうかねぇ。制服と級長の腕章が身分証代わり?

現世の学校じゃ腕章がなかったもんな。気に入ってたのに忘れてました。


出入口の脇には硝子のショーケースがあってキラキラに磨かれた楽器が

並べられてるんですよ。如何にも街の楽器屋さんって風情で好きでした。


フルートとサクソフォンが飾られてたのは九年生の春です。常春の異境?


「フルートとサックスは木管楽器に分類されるんだっけ? 小テストで

満点だったの斎藤と誰だったっけ?…ああ、副級長だった松浦だろうな」

悠ちゃんと仲が悪かった訳じゃないのに愁いを湛えた表情のアッちゃん。

少し俯いた後に気を取り直した勢いで楽器店の扉を開けて入店しました。


現世での悠ちゃんは登校拒否気味の問題を抱えた生徒となりましたから

一年生の春、アッちゃんが立ち上がって俺とタッグを組んでくれたのは

物凄く僥倖だったと身に沁みています。一組と三組みたく副級長に村の

通学生が関わってなくても、二組は二組の個性が主張されておりました。


てっちゃん、しいちゃん、三年生の夏期休暇中に起こった悲劇、二名の

通学生の死も二組の色を周りに印象づけたと思います。緑色など大嫌い。

瞳に映らない白旗の揚がる荒涼とした二組の教室も忘れたいほど大嫌い。


しかし、以前の世界じゃ二名の通学生の失踪事件など起きませんでした。



現世の二組級長の心が氷りついたのは…幻世に於ける反側を断罪して…?



…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「おっ、久し振り。随分とハイカラな格好してるなぁ。今の流行りか?」


店主が俺に挨拶してきたんで驚きを隠せそうにない。この異境は一体…?

じろりと半分脱いだ状態のツナギを眺められたけど、アコーディオンを

見てるアッちゃんの相手を始めました。不良になったかと思われてそう。

「暴力と荷物運び担当の作業服です」とは申せません。譜面の売り場を

眺めて過ごすといたしましょう。新譜は入ってない。ここは停滞してる。


夢幻の異境は俺というインビジブルを知覚できる者も置いてくれました。

名無しの二組級長にも親しげに接してくれた数少ない学校外の友人です。

月に何度も足を運ぶ訳にもいかなくて滞在時間が濃密なモノとなって…。

楽器店の店主と交わした他愛ない雑談を寄宿舎の同室者に自慢げに話し

眠りに就くとき反芻してました。外からの刺激は籠の中の鳥には新鮮で

喜ばしい感慨だったんです。教室での退屈な授業よりずっとマシでした。

担任は幻世でも変わらず男声の美人女性教師でしたから映画女優の如き

見目麗しき女性など全く興味を持てなくなるのが二組生徒の多大な弊害。


まともな大人から平凡な言葉をかけてもらえるだけで幸運だと感謝した。


アッちゃんと店主はアコーディオン購入について会話してるようですが

何故かアッちゃんは俺を呼ぼうとしません。自分の車まで持ち帰るなら

同行する荷物運び担当を利用するのが早いでしょうに無視。その理由は?



…!!…



もしかして、店主の前で俺の苗字を言うのを避けてるのかもしれません。


名無しの級長にも現在は名前があると知ったら面倒な事態を引き起こす

可能性が無きにしも非ず…。幻世と現世を結びつける訳にはいきません。


俺という名無しを店主が記憶に留めてくれる。それだけで十分すぎます。


…?!…


夏目宙の缶ケースに入った金銭を全部出したところでアコーディオンを

購入できる金額になるんでしょうか? 肝心要な部分を忘れていました。


「海辺の町で病気の弟を看病して暮らすお嬢さんに鼠の奥方様が楽器を

贈って差し上げようと奥方様らしい非常に良き計らいを閃かれたそうで

屋敷に勤める私が姉弟のお宅へお届けに上がるよう言い付かったのです」

アッちゃんの声が夏目宙の口調に切り替わっていました。中の人、変化。


この辺りで生活する人々は『鼠』の一文字に敏感なのです。異世界から

訪れた鼠さんは夢幻の異境でも様々な事業を興し、雇用の促進に努めて

経済を大きく発展させたのですから街の住人の誰もが多少に係わりなく

鼠さんの世話になってる状態です。商店街で太っ腹な買い物しますから

鼠さんは商人に多大な利益を与えてくれる上客としても知られてました。


実は奥方様でもある器の口から適当な嘘を並べ立てて、楽器の支払いを

鼠さんの屋敷まで請求するよう書類をまとめたみたいでした。恐るべし。


夢幻の異境には村の寄宿舎付学校の生徒を見に来たバケモノたちがいる。

恐ろしい事実が判明した。死に装束のバケモノが村を彷徨ってるのかよ。

夢幻の異境へ侵入した…あのバケモノは曖昧模糊を漂う白い靄…と同様。

忘れてるのなら無理に思い出したくない。あいつは碌なこと考えてない。

違う。本来は普通の人物でした。関わった連中に心を掻き乱されたから

普通でいられなくなっただけ。完全な被害者なのに泣き寝入りも出来ず

貧困と空腹で心身が蝕まれていったバケモノです。記憶を覗けば分かる。



校内や寄宿舎で肌に感じた視線、あの視線は誰のモノだったのでしょう?



気を取り直して前向きに進んで参りましょう。不可解な事案は一切無視。


時折幻世に現れる紅玉の鹿は自分の俊足を活用して、主に手紙や小包の

配達を務めておりました。桜庭潤の御養父が村の配達夫をしてましたが

急ぎの用もありますし、配達夫は何人いても困ることのない職業でした。

幾らか交通の便が良くなった後も流通関係の職業は慢性的に人手不足で

街から街へ寝ないで重い荷物を背負って走り続ける激務だったようです。


現世では配送局という大変便利なシステムが出来上がっていましたから

以前の世界での葉書一枚の便りを送る大変さを忘れてしまっていました。

世の中の面倒な問題が片付けられ、便利に変わったのは良いことですが

現世は終わりに近づいて常に夕暮れ時の日常が続くようになったのです。

日没を阻止したくて塞を出た…四人以上のバケモノに何ができるのか…。


白い靄のバケモノは日没と共に沈んで散って構いませんけど、その前に

正しい未来を辿る道筋を見つけ、その道へ案内できたらと考えています。


まともな大人じゃなくても自然な言葉を話す人になろうと努力しました。

掴んだ事実もある。俺の憶測を誰かに話す勇気を持てないままですが…。


蜘蛛の糸みたいに頼りなくて構いません。そろそろ切っ掛けを掴みたい。


「すみません。熨斗紙はありますか? 僭越ながら奥方様の名代として

私が一筆認めたいと思いますので…。はい、そちらで結構です。では…」

胸ポケットに挿してある筆ペンを取り出し、流麗に筆を滑らせています。

学校の三組の生徒は全員揃って書き文字が美しいですから、表書きなど

朝飯前でしょうね。俺も訳あって独学で字の練習した時期がありました。

少しは自分なりに上達したと思いますが、毛筆となると自信ありません。


「あっ、もうこんな時間…。申し訳ございません。他にも用があるので

少しの間、席を外すことをお許しください。用が済みましたら、戴きに

上がりますので…。ご心配なく、早く戻ります。はい、失礼いたします」


丁寧な口調で楽器屋から抜け出すことを告げてる。俺を置いてくつもり?


もうこんな時間…。まるで他にも予定でギッシリみたいに装ってるけど

俺は全く何も聞かされてません。事前に打ち合わせした訳でもないし…。


アッちゃんの方に目を向けると、さり気無い感じを装いながら右の掌を

何度か押さえ付けるジェスチャーを見せておりました。目にした以上は

こっちも店主に気づかれず首肯してみせるだけ。二人の意思疎通は完了。


急いで行かなきゃという様子のアッちゃんが楽器店から出て行きました。


もしかしたら、鼠殿の屋敷までご機嫌伺いに出かけたのかもしれません。

鼠殿の屋敷は街のどこかにあるんでしょうが、バケモノから仲間外れの

木っ端の頭が記憶する情報は御座いません。逃げて逃げての繰り返しで

底辺に残されてる温かさは、狸が猫に化けた飲食店主人との関わりだけ。


下っ端の木の葉は上官殿の指示に従って、風に運ばれ地面に落ちる運命。


肌の不調で上官殿が胸の奥に何を隠してるか全く読み取れませんでした。

待て。そう告げられたら駐留し、上官殿の帰りを待つといたしましょう。

彼是と頭を悩ませても時間の無駄です。気紛れな天気同様に移り変わる

情勢で細かく篩い落とされても地面に落ちるのは決まりきった宿命です。

無暗に抗うのは見苦しい真似であると存じてます。戯れに水辺へ落ちて

木の葉舟となって愉しめば、一枚の木の葉も不運ばかりじゃなかったと

空を見上げて微笑んで過ごせる筈です。木枯らしに散らされる瞬間まで。


「お嬢さんに手風琴って重くないのかな? 胸から腹が隠れる大きさだ。

ピアノの鍵盤が分かるなら弾けるとは思うけど、見た目が重そうだよな」


店主にはアッちゃんと俺が同級生なのを内緒にして話しかけてみました。

白銀を基調とした洒落たデザインの手風琴。キラキラと輝くラメは虹色。


「テフウキン? その呼び方を知ってるなんて流石は学校の級長さんだ。

まあ、ツナシを過ぎた娘さんなら大丈夫だろうね。病気を患ってるのは

弟さんだって話だし、病床で聴かせてあげて、少しでも姉弟に思い出を

残してあげようって鼠の奥方様のご配慮だろうな。大金持ちの戯れだね」

当然のことながら手拭きの件は内緒にしときます。級長らしく優秀さを

漂わせた言動を残したいですもの。せめて店主との思い出の中だけでも。


ツナシは「十」を表してます。九つを過ぎると晴れて「ツ」から御卒業。


「試しに持たせてやりたいけど売約済みの商品だから何かあったら困る」

こっちを見て、悪戯っぽく微笑んでみせました。気持ちだけで十分です。

店主との思い出は胸の奥底に仕舞い込んだ筈なのに、目の前で会話して

魔法で過去の姿に戻ってるだけのバケモノを馴染みの客と扱ってくれて

それだけで感慨深い心境になります。感動を抑えなきゃ耐えられそうに

ねぇっす。コレは夢幻の異境が映し出す幻影、俺にもあった…幸せな…。


作業台の上に載せたアコーディオン入りの段ボールを器用に少女向けの

梱包用紙で包んでいく店主。この贈り物は塞の生き残り女子たちの中で

誰が手にする楽器となるのでしょうね。少なくとも俺にはトクベツです。

粗末に扱う女子だったら容赦なく注意しますけど、鍵盤弾きといったら

アサオシオリと予想がつく。アッちゃんは昔から女子の好みがブレない。

誰も特別扱いしちゃいけないと頭で考えてても仕出かしちゃう享年十六。


シオリならデカいし、全く問題ない。彼女が弾き熟す様子が目に浮かぶ。


現世に於ける恋という遊戯の盤面でも効果的な位置に駒を配して降りて

彼女の心の中では最高の存在となりました。晃ちゃんの身体を利用した

悪魔の所業は知らない方がいいのかもしれませんね。大金を引き替えに

複数の女性と交遊してた事実は探偵じゃなくたって古い実話誌を捲りゃ

載ってるんですから言い逃れなんて見苦しい。しつこく食い下がるのは

下衆の極み、彼だって聖人君子じゃありませんから黙って差し上げます。


夏目宙の筆跡で表書きされた蝶結びの水引が印刷された大きな熨斗紙を

貼り付けて梱包完了させました。一度も楽器を試し弾きしなかったから

不具合ねぇのか気になりますが不良品は置いてない店主の意地でしょう。

万一の際は返品交換いたしますってことで…二度と来られない異境だ…。

無理に頼んで弾かせてもらえば良かった。後悔しても今更遅いってのに。


「平日だけど、学校は休みなのか?」

実は日付も知らないとは申せません。

「先生方の研修会で臨時休校中っす。

自習にも飽きたんで、暫しの息抜き」

思いつきで誤魔化し取り繕いました。

「教える側も日々研鑚を積まないと

商売にならない。もちろん俺だって

目に見えない努力は積み重ねている。

そいつを誰にも見せる気はないけど」

店主が子供っぽい微笑みを見せたら

「級長さん、昼メシは食ったのか?」

柱時計は午後二時を過ぎております。

日めくり暦が近くに掛けられてた筈。

壁を見たら四角い隙間が空いてます。

不安から生じる声を喉が抑え込んで

「心配なく、もう済ませてきました」

優秀な級長さんに隙は御座いません。

かき揚げ丼が胃もたれしてる現実は

ひた隠し、無難な回答に止めました。


美しい幻燈が儚く霧散するのはヤダ!


「お茶でも出して、ゆっくり話したい気分だ。急ぎの用事はないよな?」

遠い昔の俺なら大喜びで付き合って、晩は同室者に自慢話したでしょう。

俺の存在を認めて声をかけてもらえる有難さ、長らく忘れてた心の動き。

基本的に無視するか、されるかの二択で動いてきました。今日みたいに

誰かと外食するなんて非日常も俺には随分と久し振りのことでしたから

どのように反応するのが相手にとって都合いいのか全く見当つきません。


厚意を向けられる。ほんの些細な傾きでしょうが、俺には大きく重たい。


「はい?…時間は有りますけど、大切な宝物となる商品が並んだ店内で

飲食するのはご遠慮したいところです。自分は演奏者として未熟ですし」


生意気な若造が堅物な台詞を吐いてみせるのが名無しの級長に相応しい。

そんな気がしました。幻世の学校で二組級長だった俺も遼遠に位置して

どういう性格してたのか把握できなくなりました。思い出せなくなった。

笑顔を作って誤魔化し続けた幻世の十年間。現世じゃ早々に音を上げて

陽ちゃんや望月漲のような心から晴れ渡る笑顔を羨望の目で見てたっけ。



夕闇の下でギター弾いて歌ってた名無しの級長は俺だったのでしょうか?



…………………………。


…………………………。


…………………………。


「それが普段着か。学校の制服を脱いだ級長さんを見るの初めてなんで

随分と印象が違って見えるもんだなぁ。口を開けば真面目一辺倒だから

級長さんだと思うけど、その格好は少しばかりワルっぽいな。不良少年」

店主は不良少年で俺を囃し立てるように顎を上げたポーズで言いました。


この夢幻の異境に於いて百三十二歳のバケモノは学校の生徒に戻されて

不良少年だと揶揄われています。どんな色の靄か無性に鏡を確認したい。


地面に囚われて天に昇れないバケモノは無色透明じゃなく視界に映る靄。


奥の住居内にあるトイレを借りました。トイレ手前の洗面所で鏡を確認。

思ったとおり現世から解き放たれると十センチは縮んでしまう幻世の俺。

この顔と姿は以前いた世界で馴染み深い名無しの二組級長に間違いない。

自分とは言い難いほど離れた自分ですが、長く付き合ってきた自分自身。

一言付け加えますと現世に於ける大伯父の生き写しなのが不可解の極み。


幻世の姿でも現世で作った肌の傷が消えずに付き纏ってるのが煩わしい。


どんな仕組みで現れるバケモノなのか、当の本人が一番知りたいですよ。

天から下りてきた視えない糸で操られてる人形です。そうとしか俺には

思えません。自分の意思や意志を貫いた経験のない希薄な存在ですから

最期は操り糸が切れて…夕闇に融けました…。曖昧模糊な白い靄と同じ

風に煽られ消えゆくモノです。透明な空気。名前も過去も何も無い空気。


記憶という情報を持ってるようでも死ねば終了。全てを手放し、器は…。


余計な考えに囚われ無駄な時間を消耗したら恥ずかしい誤解されますね。

だらしない。他人から借着したようなツナギを着直すといたしましょう。

ツナギの袖を外し、袖無し状態で着ます。ボトムは二回まくっときます。

少し底の厚い靴を履いたら誤魔化せる長さ。季節や日付が不明な異境で

全天候に応じた服装を考慮したんですけどねぇ。若さで誤魔化さねぇと。

自分の意思と無関係で変身する事態を想定してなかったのが悔やまれる。


車の運転をアッちゃん一人に任せた状態で、運転用の眼鏡は外しっ放し。


大伯父の顔に眼鏡は似合いません。寄生魚にも眼鏡を触らせるのが嫌で

バックパックに仕舞いっ放し。眼鏡を使う必要なく帰れるよう心で祈る。


鏡に映るバケモノは細く見えるから折角のツナギが大きく見えるんです。

要は俺に似合ってないと言いたいのでしょう。そこまで深く立ち入った

仲じゃないんで「その格好は不良少年」と笑ってみせたんだと思います。


現世の容姿を気に入ってる訳じゃありませんが、貧相よりマシですもの。

十センチ違っちゃうと運命だって分岐するレヴェルになりますでしょう。


大は小を兼ねる。あ、忘れちゃいけない肝心要のトイレに寄らないと…。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


過去と現在は寄り添うようで重ね合わせることは出来ないパズルの隙間。


幻世に戻ったような気がしても手で透ける幻影、単なる思い込みですよ。

出された番茶を飲める。人物に触れられる。全て過ぎ去って消えるモノ。

そう割り切らなきゃ心を患います。入り込んだら戻れなくなる迷宮です。


俺にとって懐かしい楽器店は魔法の幻燈で灯された過去の幸せな思い出。


事務机に座って飲んだ茶の味わいも忘れたくないけど無暗に執着したら

見苦しいですし、何より自分自身が苦しむ結果になると分かり切ってる。

近くても違うんです。仲間と時間を越えて旅するファンタジー活劇など

頭の中で描くだけに止めときましょう。虚しい。必ず現実が迎えに来る。


学校の授業、それとなく漂わせる感じで二組担任の酷さを店主に伝えて

茶を飲んで談笑して過ごしました。幻燈の登場人物の画になった心境で

心を氷らせて時間経過させないと強い執着が生じる予感がいたしました。

現実のバケモノ寮へ帰ってから重い後遺症に悩まされそうな空虚な時間。

不死のバケモノは能天気な笑顔で場を取り繕うしかできません。空笑い。


夢の空間に放たれた小鳥が止まり木の上で囀ってるだけ。夢であるのに

相手の心情を考えて効果的な発言で好印象を懐かせようと潜心する自分。

相手は幻影なのに、店主が夕飯を食べ、風呂に入り、寝床で眠る頃には

俺の存在など消え去ってるに違いないのに…良かった時間にしたくて…。

きっと現在の自分は学校時代よりずっと幼い心に退行してると思います。


良かった。そう思える時間が遠く過ぎ去って、良かった時間が堪らなく

愛おしい宝物だと気づいてしまった所為でしょう。夜空に輝く星と同じ。

背伸びして伸ばした手が届かなくても、心の拠り所となる小さな煌めき。

塞に望遠鏡があるなら拝借して、夜明けまで星を眺めて気を紛らわせる。

帰宅後の暇潰しは星の観察。楽器演奏が趣味だった名無しの二組級長は

役目を終えて病死したのです。微かな記憶に留まる夜空で瞬く星と同じ。


執着心に囚われた夜更けはバケモノ寮の屋上に出て、星を眺めましょう。


耳を誤魔化す余計な音など不要です。舞台の袖裏に蠢いてる魑魅魍魎も

手出しできねぇ天を彩る恒星。勝手に名前を付けられたって訴えもせず

我が身を灯して光を放つ星の群れ。迷い人に方向を指し示す案内者たち。


「ん、お客かな?…もしかして、級長さんの同級生?…ちょっと見てよ」


現れたのがアッちゃんなら「さっきのお客が戻ってきた」と言う筈です。

そうなると、彼かアレレ…。店主に顎で促され、道路の側を向くことに。



…?!…



アレレが一人で覗いてました。飼い主さんが手綱を外しちゃって逃げた?


不審者登場。左の五文字を打つアレレ登場を予測していたつもりが違う!



俺と目が合って手を振ってるのはシンちゃんでした。その隣りにはベニ。


現世に登場した林原晃司「晃ちゃん」じゃありません。林原紅司でした。

赤毛で長身、日傘を差して歩く二組生徒です。顔中に散らばった雀斑は

ベニには全く御座いません。灰色の瞳で見下すような表情して笑ってる。

当然のように左手で黒い蝙蝠傘を差しかけ、陰を纏っていても笑ってる。

学校二組の「笑ってる生徒」現る。無性に腹立つ二組で一番の美形男子。


ルーズに伸ばした赤毛に二組の象徴となる緑色のスカーフが

双方を際立たせております。目立つ。誰が見ても注意を引く。

二人は制服姿でした。懐かしい。けど、他人の目で眺めると

古めかしい時代錯誤なデザインが野暮ったく思えてきますね。

白い二本のラインが襟と袖口に入った紺のセーラー服の上下。

こんな制服、十年も着てたのが恥ずかしい。腕章まで付けて。


シンちゃんが「楽器店に入っていい?」と訊ねる表情してる。

後頭部の寝癖が逆立ってて風に揺れてる。今すぐ飛び出して

シンちゃんに抱き着きたいけど、躊躇してしまう二人の幻影。


ベニの瞳が苦手だったことを思い出します。雨雲と同じ灰色。


シンちゃんから視線を逸らし、ベニを見ていました。勝手に身体が動き

ベニが逃げ出したら追い駆ける勢いで硝子扉を押し開けると道路へ一歩。


「あ、違った。スミマセン。他人の空似だったみたいだ。失礼しました」


こっちに軽く頭を下げたベニが背を向け、駅の方向へ進んで行きました。

「え? あっ、きゅ…学校の級長さんと間違えました。失礼しました!」

顔色を変えたシンちゃんが慌てた様子でベニの後を追い駆け去っていく

後ろ姿を何も言わずに見送りました。それより今日は何月何日でしょう?


夏服じゃなかった。それは兎も角、あの二人がコンビ組んで出歩くって

有り得なかったことなんですけどね。夢幻の異境は不可解な幻影を映す。

ベニは仲間に加わる場合があっても特定の生徒と親しくなかった筈です。

シンちゃんは俺に倣ってベニを苦手としていたんです。それなのに何故?


二人を追い駆け、適当に調子を合わせて訊いてみたらいいのでしょうか?


「やめておけ。灰色の瞳が一瞬、晴れ間を覗かせていた。見抜かれてる」

声がした右を向くと、今度こそ不審者登場。頭に飛行帽を被った元親友。

道中の車内で見飽きた服装、カーキのモッズコートに安心感を覚えます。

俺と違って殆ど背が縮んでない。幻世と現世でも変わらず恵まれた体躯。

それから大きいマスクの下に隠れた皮膚が面皰にヤられてるって分かる。

アッちゃんの左手の障碍が治ったんですから、元親友が面皰面になって

当然だと予測できても炎症で赤くなった肌が痛々しい。見てられません。


「おまえと小魚泥棒が好き勝手に動いて滅茶苦茶だ。必要があったから

四人組で一揃えにして旅立ったというのに。ああ、小魚といえば村元を

使用すべき非常事態なのだ。村元ではなく村元に取り憑いてる淵主だが」

肌の絶不調を全く気にしてないと告げる涼しげな伊達眼鏡越しの眼差し。


「火の見櫓まで競走」の掛け声に誘導され、背後を気にしなかったのは

言い訳しようのない事実であります。ランチに食後の珈琲も愉しんでた。


どうかしてた。夢幻の異境で四人が二人ずつに分かれて行動してました。


それがどういう結果を引き起こすのか聞かされてませんし、長い時間を

車内で過ごして疲れていたと言い訳したいところです。現在の仲間内で

序列最高位の鼠殿へ向けた狸猫の度重なる非礼な発言も腹立たしかった。

ぶん殴りたい気持ちを堪えるので精一杯だったのです。暴力担当なので。


「ハシムを撃った上に使用するって道具扱いが腹立つけど理解できる?」

理解できる神経が抜け落ちたから生きた仲間に銃口を向けられることは

俺にも理解できます。螺子が外れ抜け落ちた不良品に等しくなった狸猫。

どんなに歪んで拗けても平然と生きていける神経だけは見習いてぇけど。

「僕は村元に用があるのだが…。この僕が一人で歩いてる時点で察しろ。

今から一時間前にトラブル発生だ。此処は何者かが操作して遊んでいる。

サクは順の家まで様子を見に行ってまだ戻らないが、僕は行きたくない。

屋敷まで行くのなら、村元に憑いてる淵主を使用すべきだと思い至った」


…………………………。


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…………………………。


「そのまま行けってさ。それが目的地に通じる迎えのトンネルだって」


桜庭潤の声で意識を取り戻したと思ったら…目の前にはトンネルが…。

「ん、ライト点灯させなきゃ暗くて見えねぇな。思いきり突っ切るか」

運転席に着いてハンドルを握ってるアッちゃんの淡々とした声が響き

真っ暗な口を開けたトンネルへ入る前にライトを点灯させたようです。


時間が戻ってる。トンネル内の照明が全部切れてるのにアッちゃんは

スピードを加速させ、直進の隧道を突っ走って行きました。元親友の

顔を窺いたいけど振り返る勇気が出せねぇ。確か桜庭潤に塩むすびを

勧めたような…。到着した直後に外した筈のDAPから曲が流れてる。


フロントパネルに装備された小型のアナログ時計を確認したら正午前。


元親友は遠い昔の継父に慰労する言葉をかけて俺たちを役立たずだと

罵った後に塩むすびを勧めると、もうすぐ着くからと断られた筈です。


出口の付近に白い靄が漂ってます。それを見て、トンネルを抜けたら

「太陽が出迎えてくれる」と元親友が喋ったのに…沈黙を貫いてる…。


DAPの電源を切りました。元親友が何を喋るつもりなのか聴きたい。


トンネルを抜けると風に揺れる草原、段々畑には果樹が葉を茂らせる

目に眩しい光景が同じよう視界に入り、車が走ると土埃が舞い上がる

未舗装の道路を進んで行きました。俺の記憶だけ置いてけぼりにして

リプレイしてる状態です。助手席に取り付けたミラーで後ろの様子を

覗き見ました。両手で顔を覆って下を向いた元親友が座っていました。


「おい、大丈夫か? 車酔いしたのか? ヤッチ君、モンクちゃんが

スッゲェ具合悪そうなんだけど、俺が戻る前から黙り込んでるのか?」

桜庭潤がアッちゃんに向けて訊きました。俺が不貞腐れ顔全開にして

過ごしてきたのを知ってると思いますから無視するのは当然でしょう。

「花田は一人して色々と喋って食って、口が疲れたんじゃねえのかな。

もう少し開けた場所に出たなら車を停める。それまで様子を見ててよ」

前方から首を動かさず誠実に答えたアッちゃん。出発してから長らく

背後から言葉の散弾を撃ち込まれても挫けない鍛え上げられた心です。

「ヤッチ君に喧嘩売るような口ばっか聞いてたのは俺からも謝るケド、

車ん中の空気が張り詰めてるって俺でも分かるよ。何かあったって…」

間違いなく苛立ってると俺にも感じ取れる桜庭潤の声、後ろを向いて

「いや、えぇと、そのォ、十時のオヤツに塩むすびを食べてたんだよ。

それで調子を崩したのかなぁ? 俺も音楽を聴いてて分かんなくって」

桜庭潤が更に靄つく言葉を発した自分を殴りてぇ。暴力担当ですから。


「曖昧な言葉は不要だ。停車したら明らかにする。何より小魚泥棒に

釘を刺しておくが勝手に街を動きまわるな! 次やったら容赦しない」

右眼を手で押さえた鬼軍曹降臨の苛烈な表情で前方を睨んでおります。

「次って何だよ。ここへ来たのは初めてなのに…。そこに車を停める」

アッちゃんには今までの記憶が消え去り、蕎麦屋で天ざるセット食べ

喫茶店でクリームソーダを飲み食いしたことも完璧にリセットされて

昼時の食事を再び愉しめるのかもしれませんね。羨ましくねぇけど…。


タヌ…キヨも俺と同じくリセットされてないと知っただけで安堵する。


ちょうどいい広さの原っぱの全く同じ位置に自動車を再び停めました。

意識的にずらそうと考えていても四人全員が申し合わせたかのように

ドアハンドルを引いて押し開けたのであります。天から操られた気分。

意思など有るようで無いと思い込みそうです。視えない糸で動く人形。


「そこの低い草の茂った位置に三人並べ。車から降りた僕らが最初に

ミーティングした場所だ。憶えている仲間はカズ一人だけのようだが」

これも二度目になりますけど南中の太陽を頭上にしたキヨが仕切り役、

左眼一つの鬼軍曹に刃向かえる者はいません。元女児が最強男子だし。

「悪りぃが何も憶えてない。不測の事態が起きたからモンクちゃんが

気焔を吐いてんだよな。すまねぇが完全に記憶が抜け落ちてるようだ」

身頃は赤、袖は白地に赤とグレーのチェックのジャケットを羽織った

桜庭潤が蟀谷を押さえたポーズを取りましたが、それより昼の陽気を

不快に思ったかジャケットを脱いで左腕に掛けました。アッちゃんも

空気が読めない人じゃない。集中してキヨの話を聞こうって姿勢です。

紺色のショート丈のダッフルコートもキヨが話した後に脱ぐでしょう。


空が天女の羽衣を思わせる美しく澄んだ色彩、現在は唯一の心の支え。


「僕ら四人の邪魔をして遊びたい輩が仕掛けてきた。それでリセット。

村元の飼い主、淵主の力を借りたら二時間以上の時間が巻き戻された。

白文鳥に寄生する魚の村元は眠り込んでて役に立たない状態だったが

村元に取り憑いた淵主が窮地に陥った僕らの頼みを聞き届けてくれた」

ハシムへの悪口を織り交ぜながらキヨが簡単に事情をしてくれました。

「淵主様がハシムに憑いてる? ハシムは村の淵に長く棲んでたって

聞いてるし、以前からハシムは生粋の村人だった。庇護されて当然か」

幻世と現世で村に住居があってもワケ有りで生粋の村人とは言えない

桜庭潤が半ば羨んだ声で相槌を打ちました。村と無縁の遠くから来た

二組の二人は黙るしかありません。しかし、もっちーセンセの指示で

淵主様の祠を破壊した犯人は紛れもなく俺でした。怨んでねぇのかよ。

それにハシム本人から先祖がヒバカリを虐め殺した犯人と聞きました。

俺やハシムを怨んで祟り殺しても文句なし…黙って空気に融けます…。



時間の淵



俺は幻世と現世を合わせても数える程度しか近づいた記憶のない

不思議な色合いの「淵」と呼ばれる深淵が寄宿舎付学校のあった

村の片隅にありました。不気味と言っちゃったら失礼でしょうが

川音が遠ざけられ、時間が塞き止められたと感じるような雰囲気。


俺は普通じゃない気配を肌で感じて…淵で泳げなくなりました…。


幻世の学校に通ってた頃は夏になると生徒たちが水遊びに興じる

憩いの場所だったけど、名無しの二組級長は自分の趣味に逃げて

学校や寄宿舎の日陰に隠れ込み、ギターを弾いて過ごしてました。


現世でも低学年の頃に誘われ、行ってはみたけど落ち着かねぇし

六年生の晩秋、山で亡くなった生徒しいちゃんの母親が入水して

二組級長の俺には山と双璧の忌まわしい場所として認識された淵。

雑誌でもホラースポットとして紹介されてるのを読みましたから

無関係とは言えない立場の俺は口を閉ざすしかありませんでした。


今から三十年前、もっちーセンセの三代目鞄持ちを拝命した俺は

村を訪ねて直ぐ低血糖状態で意識を失くして倒れたそうですけど

悪運が尽きず復活しちゃったんです。何故かキヨがシンちゃんの

子孫が開業する病院まで訪ねてきたのが謎。それより有難かった。


退院後に三人で村の淵まで出かけて、焼きそば作って食べたっけ。


もっちーがアッちゃんと二人で「コーラルの魚」にしたハシムを

見たがってたんで連れてったというのが真相のピクニックでした。


もっちーはハシムより淵を覗き込んで観察してたのを憶えてます。

案の定、淵に足を突っ込んで片方の靴を落っことしちゃいました。

焼きそば食ってたマーメイド姿のハシムは立ち入り禁止の場所に

転がったから行けないって言うんで諦めるしかなかったんですが

神様にも私的空間が必要なのかなぁ。もっちーの靴(右)は淵の底。


ハシム曰く、淵主様は素顔と余所行きの顔を使い分けるらしくて

平凡と美形、二つの顔を持つ奇妙な設定に親近感を懐いてました。

その淵主様が寄生魚に寄セ…憑いてたなんて、全く知りません…。


キヨは周囲の心の声が五月蠅いくらいに聞こえちゃうバケモノだから

多少は周辺の空気が読める程度のバケモノより情報量が多いのかもね。


寄生魚に憑いてる淵主様の心の声も聴こえた。それで存在に気づいた。


知った以上、使えるモノは神でも利用しちゃう強かなバケモノがキヨ。

時間の淵に佇む存在がリセットして、協力者となってくれたようです。


それが吉と出ると信じたいですが俺たちの邪魔をして遊びたい輩って?

舞台の袖裏からの指示で涌き出たマモノの群れみたいなもんなのかな?


「今のところは断定できない。僕らに縁のある存在を駒にして動かし

僕らを攪乱しようと企んでると思える。ここからは四人で共闘しよう。

力を合わせて慎重に行動を選択していくのだ。現状を打破するために」

実際には声に出してない俺の心の声を聞き取って答えちゃうのがキヨ。


寄生魚から話は聞いてます。キヨは村のモガミ屋みたいな子供たちや

通りすがりの客がバスを待つ程度の時間、落ち着いて休める軽食店を

経営したいって考えてるんですよ。右肩に提げた帆布鞄に黒い得物を

忍ばせて、いざって時にはブッ放す気満々の不審者でも心の奥底では

不快な刺激のない穏やかな日常を望んでる。遠い昔、身一つで現れた

俺に飲み食いさせて…売上金まで渡してくれた心の美しい先輩です…。


キヨには夢がある。健康な身体がある。心に描いた夢を叶えてほしい。



それは兎も角、楽器屋を覗き込んでたシンちゃんとベニは邪魔する駒?



ベニの雨雲と同じ色した瞳が晴れた…空色に変わった…ということは

俺が名無しの級長じゃないと見抜いたんだと思います。二組の担任が

麗しい女性の姿を纏ったオッサンだってベニも晃ちゃんも入学時から

指摘してたんです。俺に斎藤和眞という名前があり、死ねない病人と

見抜けば、シンちゃんに「他人の空似」と話して当然かもしれません。


「最初、ここで話したとき村元が心で喋る声が五月蠅くて敵わないと

思ったのだ。しかし、やっぱり間違いなく誰よりも五月蠅いのはカズ。

遠い昔から徹頭徹尾として騒々しい。最早、五月蠅く思うのも戸惑う

バケモノだから流石の僕も黙り込むようになった。得物があったなら

躊躇なく銃撃したのだが、当時は便利なモノが入手できず残念に思う」

悪意を向けたつもりは全くないんですが、五月の蠅に喩えられました。


撃ちたかったら十一月の下旬にハシムじゃなくて俺に銃口を向けたら

目出度く人生終了できて万々歳でしたが、月夜に腹鼓を打つ代わりに

朝から晩まで毒舌を吐き続けなきゃ生きてゆけぬ病に侵された元親友。

遠い昔から気の毒であるが故、狸猫の大将は毒舌を吐くようになった。

亡霊でもない限り、陽射しの下に立つと影が生じるのです。仕方ない。


「ほら、五月蠅い。静かに見せかけて僕が話した分以上に返してくる。

死にたくて仕方ないのなら、いずれ僕の手で彼の世に送り出してやる。

そんなことより現状打破。暴力と荷物運び担当としての任務を果たせ。

サクは幻想の街を見る必要ない。視えない情報収集に専心してほしい。

マモノが惑わせようと近づいてくる前に教えろ。そして、小魚泥棒は

僕らと一緒に街の浅井家まで行って御堂の異常を確認すべき。いいな」

 

逆光で暗い顔をしたキヨに殺害予告を受けた俺、喜んでいいのか否か。


「ん、ああ…。以前の俺はイッチの先生とは盤面で競う相手だったが

ちょうどいい案内者が側に付いているから問題ない。本拠地に赴こう」

そうでした。アッちゃんには街の浅井の縁者で生体加速装置でもある

夏目宙が憑いてるんです。火の見櫓まで競走するなら再戦してもいい。

久々に俺のエスパーな部分を披露できる機会です。有効活用しなきゃ。


「あ、よく見りゃヤッチ君も斎藤と同じで影がダブってる。なるほど。

ツバから離したソラを連れてきたんだな。二組の軍師は準備がいいな」

ジャケットをかけた腕からジャケットを掴んで今度は肩に引っ掛けた

桜庭潤はベニと同じで目に視えない情報を掴んじゃう大きな熊猫さん。

モノトーンは似合わないと思ってるのか白や黒を着た姿に見覚えなし。

喪服なんて縁起でもないし、赤やオレンジの陽気な色が彼に相応しい。

影がダブってるという発言に後ろを見ちゃいましたが短い南中の影は

霊感なんて全くねえ俺の目には単に縮んでるとしか思えませんでした。


三人が気づく前に準備体操を済ませた二組の名軍師は見事な采配…?!


「花田と桜庭には久し振りとでも言えばいいんだろうか。私は記憶が

抜け落ちてないみたいだ。さっきは街の浅井家の門口へ到着した瞬間

視界が真っ暗になって気が遠くなっていった。谷地が浅井家の御堂で

何をしようと考えていたのか私は知らない。鼠じゃなくて谷地自身が

御堂に向かった。この発言は谷地の記憶には止めないでおくべきだな」


夏目宙の口調で三人に話したアッちゃんが不審げに俯いてみせました。


楽器店に俺を置いて他に用があると向かった先は街の浅井家でしたか。

丁寧な口調で楽器店から抜け出すことを告げたのは、当のアッちゃん。

有能な秘書にも目的を告げずバケモノの本拠地と呼べる御堂へ入って

何しようとしたのか序列四位の鼠殿に聞き出せる下っ端って、いるの?


それに記憶の操作できるのは狸猫の領域だと思うんですけど鹿さんが

宿主の記憶を弄れるなら俺も寄生魚に何かされそうで非常に困ります。

俺が他のバケモノに収納される場合は眠ってるのと同じで自意識なし。

自分の勝手にできる身体がない状態で干渉するのも馬鹿らしいですよ。

五感を閉ざした方が気楽。取り憑く亡霊に見聞きされるのイヤでしょ?


アッちゃんを小魚泥棒呼ばわりできるキヨが何を言うか様子を見ます。


「おい、ヤッチ君! 急にふらついて倒れそうになったんで驚いたよ。

車のシートを倒して横になって休んだ方がいい。少し様子を見ねぇと」


…?!…


既の所を咄嗟の動きで受け止めたと言わんばかりの迫真の演技でした。

桜庭潤がジャケットを草の上に落として小柄なアッちゃんを担ぎ上げ、

連携したキヨは既に助手席のドアを開けてシートを倒しておりました。

そこに手早く押し込んで、しゃがみ込んだ桜庭潤が宛ら看護師みたく

懸命に気遣う様子を見せてる。この勢いじゃ何の疑念も湧いてこねえ。


俺も何度か彼に助けられたんだよな。有無を言わさず俊敏に動くから

猫科大型肉食獣みてぇな男子だと思ったっけ。思い出した。暁の魔獣。


現世じゃ卒業式の翌日、結構な時間を共に過ごしたカルテットの一人。


頼りになる存在だ。四人の中で一人だけ親になった経験有りだもんな。

自分は十姉妹の面倒を見て親代わりを務めたつもりになっていたけど

傍から見りゃ失格の烙印を押されるだろうな。十姉妹は落ちた籠から

飛び立って、今頃どこの枝に留まって囀って…ダメだ。忘れなきゃ…。


「谷地は少し休ませて、僕らは着替えを済ませるとしよう。この先は

カズが喩えたとおり『夢幻の異境』と呼ぶべき異空間だ。動きやすい

服装に整えておくべき。流石の僕も寒いだのと言ってる場合じゃない」


そう言いながらキヨ専用の魔法瓶から注いだ紅茶を飲もうとしてます。

昼間の陽気で湯気は見えませんが、停滞の魔法がかけられて熱々の筈。

冷たい物は意地でも飲まないと心に決めてるようですから無言が無難。


「そう言っても俺は着替えを持ってない。満杯のトランクルームには

私物を押し込む隙間がなかったし、精々ツナギの袖を外しとく程度だ」

女子並みに大量の着替えを持ち込んだ約一名へ厭味を一つぶちまけて

前回は楽器店奥の洗面所で済ませた一連の着直し行為を済ませました。


ちょうどぴったりな服のサイズが直に緩くなる。それだけで意気消沈。


アッちゃんの世話を焼いてた桜庭潤が開け放したトランクルームまで

近づいてきたので、俺は邪魔にならないようバックパックを取り出し

少し離れた位置に控えました。頭上に広がる天女の羽衣でも見上げて

一息つきましょう。この旅行が終われば始末してもらえる僥倖を得た。


些細な悩みに溜め息を吐くこともない永遠の眠りに就けるんですから

有難いにも程がある。五感から解放される。空気の悪さに悩まず済む。

肉体が無きゃ性別も無い。姿が無きゃ名前や過去に囚われる必要ない。


天国に旅立たなくても永久不変の平穏な世界に逝けると信じましょう。


「サク、おまえには僕が特別に用意した服がある。これなら問題ない」

遠い昔の継父には労いの言葉をかけ、衣服も別個に用意する特別扱い。

つい見ちゃったら目の毒になりそう。普通に気持ち悪りぃ光景だよな。


「いや、こりゃ問題大有りだよ。これを着ろって、怨みでもあるの?」


…?!…


微笑ましくも気持ち悪りぃ展開が続くのかと思ったけど嫌がらせ行為?


「サイズが子供服の百六十センチだよ。同じ身長のモンクちゃんでも

こんなもん小っちゃくて着るのは無理だろ。俺なら問題ないっての?」

桜庭潤が衣装を手に持ってモンクちゃんことキヨに突きつけてました。


脇に白い二本線が入った臙脂色のジャージでした。ちょっと笑えるぅ。


でもでもね、間もなく縮んじゃうって知ってる俺は笑うに笑えません。

まず服を渡すのが早過ぎるし、説明しなきゃ桜庭さんが納得しません。

事前に説明しても受け入れてくれるものか、前回の二人を見てねぇし

何も知らずに手渡されたら、俺でも腹を立てます。現時点で着るのは

困難なサイズですもの。歩いてる途中に縮んだからって路上で衣服を

脱いで着替えるのも恥ずかしくて無理。様々な受け入れ難いこと特盛。


助け舟を出すしかないでしょう。キヨは肝心要を抜かすところが玉瑕。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「ああ、確かに考えてみりゃ縮小率は四人の中で俺が最大だろうケド。

着替える必要…もあるかもしれねぇけどさ、俺以外の全員で俺のこと

バカにしてぇだけなんじゃねぇの? この中で一番ちっこくなるから

わざわざ身長百六十センチ用の赤ジャージを用意してくれたんだよな。

実際には百六十に届かねぇってのに気ィ遣わせて感謝の言葉も出ねえ」

普段は周囲に和やかな空気を放出する歩く空気清浄機の不貞腐れた声。

「俺も十センチは縮んじゃったんです。ゆったり感を装って着られる

衣装だから誤魔化せたようなもんでしたけど、縮むのはキツイっすよ」

正直な心情を吐露しました。たいしてフォローにならねぇでしょうが。


「事前に備えておくべきことだ。最初は窮屈でも歩くうち肌に馴染む。

前回は腹を壊したと途中の家で厠を借りた。そっちの方が恥ずかしい」


衣装持ちの狸猫さんが二本線じゃないスポーツブランドのジャージに

着替えてやがります。普通に腹立つよな。現世の体格と殆ど変化なし。

飛行帽を脱いで青白橡と呼ぶのが相当なニットキャップを被ってます。

羨んでも仕方ねぇ。夢幻の異境で勉強してた俺たちは誰もバケモノに

憑かれてませんでした。多かれ少なかれ憑かれたバケモノから影響を

受けてるだけと思われます。まず俺の場合、鏡を覗くと一目瞭然です。


夕暮れ間近って陽射しの墓地を彷徨い、墓を荒らしたバケモノが映る。


「何度も言わせるな。五月蠅い。村元みたいに心の音声をオフにしろ」

涼しげな眼差しで冷やかな発言した後、顔を白いマスクと伊達眼鏡で

覆い隠しました。もう少し街に近づくと肌に幻世の影響が現れるのか。


身長が縮むのと痛々しく膿んだ面皰が顔中に現れるのを選ぶとしたら?


心の音声をオフにする方法があるなら、疾うの昔に手は打ってますよ。

ハシムみたいにって言われても寄生魚の小細工なんか聞いてませーん。


そういえば寄生魚の声が全く聞こえません。これが心の音声オフ状態?

かといってハシムに話しかける用もない。夢幻の淵を泳がせましょう。


…?!…


肝心要の違い、今になって気づきました。指先だけじゃねぇ変化部分。

幻世の街ではアッちゃんが声変わりした低い男声に変わってたんです。

現世じゃ十六歳の誕生日を過ぎても迎えなかった成長を告げる変化は

幻世じゃ問題なく通り越してたんですよね。小柄なだけで普通の少年。

こっちも姿を変えてましたし、夢幻の異境に馴染んでたって思います。


お互い幻世じゃ親しく接した記憶も薄かった仲、現世でタッグ組んで

二組に必要な人物だと分かったんです。教室に笑いを起こす魔道士様。

死ねない身になってこその苦労も経験したでしょうし、再会した日は

純粋に物凄く喜んで過ごしたと思う。アッちゃんの笑顔は二組の宝物。


異境で細けぇ修正はあっても容姿に大きな変化がなくて羨ましい限り。


こっちは別人ですもの。器が大変身を遂げます。運動能力が向上して

身体を動かす競技に適した器となった故、暴力と荷物運び担当を拝命。

幻世じゃギターを奏でる級長だったのに見事なまでに生まれ変わった。

街の運動用品店に入ったら野球少年を装って金属バット振り回します。

ある意味、十姉妹ですよ。負けたら袋に砂を詰めて土嚢作りに励んで

水害に備えます。生命の炎が燃え尽きる日まで働き続ける最前線の…。


脇道に逃げず、俺より変化の大きい一組副級長さんの手助けしなきゃ。


上は半袖のTシャツにスウェットのパーカーでも羽織ってもらったら

身長縮小後に余らせちゃう袖の長さを幾らかは誤魔化せると思います。

下はロールアップしても格好良いボトムを穿いて、布ベルトは必須か。

どうしても具合が悪けりゃ洋品店でアッちゃんに購入してもらいます。

鼠の名前を出しゃ効果覿面なのは自分の目で確認済み。きっと大丈夫。


「十五分近く寝たみたいだな。立ち眩みするなんて数十年ぶりかも…」

上着を脱いで白いシャツとグレーのボトムを合わせた冬毛の小動物が

目の前まで現れましたよ。オヤツを与えたら頬袋に入れるでしょうか。

「ずっと座って運転し続けたのが原因。無理しなくても大丈夫だから。

マモノが現れた際、後方で攻撃補助呪文を詠唱してくれりゃ楽勝っす」

胸を張って自然と言えるか自分には全く分からない笑顔を向けました。

「斎藤は車を降りたら落ち着いたようだな。出発してから移動する間

ずっと不機嫌な顔して無反応だったから、ちょっと怖かった。君主の

ご機嫌が治って軍師は一安心。花田とも馴染んでるみたいで良かった」

現世の学校時代、八年生の夏期休暇前にも見た晴れやかな笑顔でした。


ラジオでリクエストの葉書が読まれて、チョコ詰合せギフト交換券を

送ってもらえると級長の俺に報告した前髪の重たい二組の名軍師です。


懐かしいな。こんな気持ちになれるから重ねに重ねて崩れ落ちそうな

過去の記憶を潔く投げ棄てられないのか。馬鹿な君主を見守ってきた

軍師と旗下一同がいたから学校の二組はピースが欠けても卒業できた。

卒業式には出られなかった軍師が…いる…。笑顔を向けてくれる以上

アッちゃんへ余計な疑念を向けたくない。君主が軍師を信じてなきゃ

戦に勝てません。今回は一組の級長副級長コンビと四人揃って向かう。

どういった結末を迎えようと受け入れます。首が刎ね飛ばされても…。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「昼食を外食で済まそうという考えから間違ってるのだ。塩むすびで

十分満足できる筈。炭水化物を抜いたら肝心なときに頭脳が働かない」


先陣を切って歩くのはキヨ。上記の発言だけで何者か気づくでしょう。

濃紺に白のポイント使いのジャージを着て、ハイネックの襟を立てて

颯爽とウォーキング。後ろ姿はダイエット中と視えない文字で説明付。

大柄ながら女性的な身体つき。その事実を指摘したら敗走確定でーす。


リセットされても胃袋が空になった気がいたしません。巻き戻る前の

胃もたれが続いてるから食欲なし。揚げ物は無理になった高齢の妖怪。

しかし、どこで塩むすびを食べろと言うのでしょう。飽食の時代じゃ

なくても多数の人目が突き刺さると予想は可能。その他に温かい汁物、

多種多彩な惣菜が詰め込まれた重箱でもあれば形になりそうですけど。


四人の服装も四散してるカルテット。キヨの数歩後ろをアッちゃんと

俺が横並びで歩いてます。桜庭さんは振り返って確認するのも難しい。

背中で感じる気配からの想像じゃ十メートルは離れた位置をトボトボ

歩いてるように思えます。幻世を窺いながら一人で何か考え込んでる。

飽く迄も俺の肌で感じ取った全く根拠のない想像にしか過ぎませんが。


「それぞれ意見はあるだろうが、まずはゆっくりと落ち着いて座れる

食事処で一休みしよう。俺は座卓のある和食の店に入りたい。花田は

外で待っててもいいけど、もし食べたいもんがあるなら俺が支払うよ」

少年探偵団のエースと呼びたくなる軍師の声が火の見櫓を通り越すと

変声期を迎えた少年の声に変化します。それが凡庸な君主には寂しい。


アッちゃんの思考パターンは前回と殆ど変わりないのかもしれません。


麺類が好きみたいですし、近くまで来たら手打ち蕎麦の店に入ろうと

声をかけるでしょうね。食後は休み足りないと喫茶店に立ち寄るから

クリームソーダを選ぼうとするところをサイダーにしたらと促すのが

二組の君主から軍師へ向ける助言になる筈です。その次は楽器店へ…。


今回はキヨたちが同行してるんです。賽の目や駒の動きは予測不能の

双六遊びをしてると考えた方がいい。楽器店に現れた二人の二組生徒、

シンちゃんとベニの動きが気になって仕方ないけど幻影と捉えなきゃ

辛くなる。あの二人は疾うに此の世から旅立った存在でもありますし。


下手すりゃ自分自身のドッペルゲンガーと出会っちゃう不可解現象に

遭遇しかねないことにも気づいた。この四人と重なる四人が気になる。

用心に越したことはないと思う。桜庭潤のアンテナが頼りなんだけど

その頼りになる御仁の様子が…誰でも憂鬱になりますけど…おかしい?


後ろの空気が不安定、俺まで呑まれそうになります。雲行きが怪しい。


そう思うことも失礼ですよね。彼も幻世じゃ幸せとは言えない過去に

翻弄されたのです。病死より生き続ける方が辛い場合もあるでしょう。


以前の俺は彼を無視した覚えありませんが、三組の通学生たちの如く

受け入れはしませんでした。俺も毎日が最前線な学校生活でしたから

たった一人のために時間を割いてきました。能天気に笑って屋上まで

上がって、ギターを弾きながら歌う夕闇の小宴を演じ続けてきました。


俺自身が手負いになっても親友を死なせなかったのが生涯の恩賞です。


歩いてるうちに火の見櫓を通り越しました。商店街を行き交う人々が

視界に入ると胸に痛みを覚えます。何度繰り返したって構わない感傷、

現世の絶望感を癒す温かい疼痛、夢幻の異境に突入した四人の探検隊。

前回はアッちゃんと競争して心地好い汗をかいて過ごせて幸せでした。

今回は気が重い。後ろが重たい。引かれてない後ろ髪を引かれる感じ。


下手な思いは向けない方が無難です。助けを求められたら早急に動く。


「小魚泥棒が支払いを済ませるなら天麩羅蕎麦にする。学生の身では

気安く入るのは躊躇した手打ち蕎麦の店があった。ほら、あの蕎麦屋」

実家の旅館へ宿泊した際、南瓜の天麩羅を大食いした前科持ちさんが

こっちを振り返って狸に似た笑みを見せました。…と見せかけながら

さり気無く桜庭潤を観察したのでしょう。流石キヨ、芸歴長い狸役者。


くるりと背を向けて元気よく歩き出しました。重たい内心を無理やり

軽く見せようと演じてる。二人は二回目、今度は上手くヤりましょう。


「俺も蕎麦がいいと思ってたんだ。上手い具合に気が合って良かった」

アッちゃんが俺を見上げて微笑みました。頭を撫でたい衝動はガマン。

俺は盛り蕎麦でも頼もうかなぁ。二回続けて揚げ物を食うのはキツイ。


「斎藤、車を降りて俺が立ち眩みを起こしたときソラが現れたのか?」

アレコレ言わずに頷くのが無難と出ました。心に従い頭を下げました。

「あいつの足の速さを利用して斎藤と競走しようと考えてたんだけど

俺の密かな企みは不発に終わってザンネンだ。また次も仕掛けるから

油断しないで待っててくれよ。一度くらい思いきり走ってみたいんだ」

微笑んで頭を下げました。1位でゴールする喜びは蜜の味ですもんね。

「病み上がりのソラを同行させたことには理由がある。街での行動を

補助してもらうのが主な任務になるんだけど、コレが一番の目当て!」

アッちゃんが歩きながらバックパックのサイドファスナーを引き下げ

同行する俺に二回目も笑顔で見せてくれた寄宿舎の小銭泥棒の愛用品、

百年以上も前から時計の針が止められたままの丸くて茶色い缶ケース。


白い賽子の喫茶店で学校時代の懐かしい記憶と共に眺めたチョコの缶。


実際には戻れない過去の幻影と再び向き合う所存です。夢幻の異境に

潜んでる『にゃん語尾の大将』にも今度こそ再会しなきゃいけません。


「こらっ、三人とも俺を置いてくな。蕎麦なら俺はカレー南蛮にする。

景気付けにタッツンが憎悪してきたカレーを敢えて平らげてやるっ!」


やっと三人の後ろを歩いてた小動物さんが駆け寄ってきてくれました。

陰鬱に広がってた雨雲が遠くに去って晴れてる。悲嘆の雨が降らずに

雨雲の群れは移動したようです。桜庭潤が懐かしい小動物に変身して

登場しました。小動物が二体に増えた。それだけの些細な出来事です。

アッちゃんが冬毛の貂なら、桜庭潤は冬眠から目を覚ました幼い熊猫。


「その声…。比べちゃいけないけど俺は桜庭が小柄な頃の声のファン。

折角だからカラオケに行きたいけど、この異境にはなかった娯楽かぁ。

斎藤がギターで伴奏してやりゃ歌えるよな。食後は楽器店にも寄ろう」

和やかな空気の中、二体の小動物が並んで歩いてます。ひどいにゃん!


今度は君主が一人歩き。手打ち蕎麦の店はもうすぐです。

今回は胃に優しそうな大根おろし蕎麦を注文しましょう。

あ、胃の不調ってヤヴァいな。以前の死因が胃癌ですし

幼少の頃から一度に大食いできない体質でした。要注意。


蕎麦茶が楽しみ。キヨは何回お代わりするか予想しよう。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「飲食店で他の食品の持ち込みはご遠慮ください」そう注意されても

隠れ食いするのが狸猫の大将なんですよね。天麩羅蕎麦を食べながら

塩むすびに食いつくんですから見てる方が恥ずかしい。一体いつから

こんな風になっちゃったんでしょう。蕎麦茶だけにしときゃいいのに。


男と知りながらも異性のあられもない姿を見せつけられた気分になる。


可愛らしい女児が大勢の前で音を立てて洟をかもうが大食いしようが

大らかな心持ちで見守るのが大人の務めと存じておりますけど靄つく。

ただでさえ一番デカいのに態度までデカいと困りモノ。ふてぶてしい。

狸猫の顔へ目を向けるのが痛ましい。沢山の未遂事件を思い出させる。


二体に増えた小動物たちも揃って大食いを競いました。幾ら食べても

身長には一切影響しないで体重が増加するだけなのに懲りる気配なし。

胃袋の大きな熊猫さんは、カレー南蛮にカツ丼を平らげてみせまして

座布団を枕にして食後の休息中。昼時ですから店主から注意されても

文句言えない身分なのに鼠の親分から目をかけられてるアッちゃんが

同席している所為か堂々と過ごしていられる。分不相応で恐縮します。

アッちゃんはブレることなく天ざると親子丼のセットを食べましたよ。

これじゃ街まで贅沢しに訪れた村の学校の悪ガキ共です。恥ずかしい。


「蕎麦茶がレジで売ってる。必ず買え。塞に帰ってから一人で愉しむ」

モガミ屋のように蕎麦茶のお代わりを注ぎに行き、客席に戻って報告。

「買えって俺に命令してんのかよ。本当に偉い宇宙王者だな、花田は。

その前にちょっとトイレ。車を降りたら身体の内側も動き出してきた」

アッちゃんが席を外す宣言をして、座敷を下りて奥へ姿を消しました。


「ヤッチには要注意な。自分と融合中の秘書にも疑念を向けられてる。

一人きり御堂へ行って、何をしようとしたのかが俺たちの問題になる。

前回は二人で何処をうろついてたんだ? ちょっと話して聞かせてよ」

軽く鼾をかいてたように映った桜庭潤が素早く起き上がって尋問体勢。

しかし、この三人で組んで隠密行動する計画なんか立ててはいません。

アッちゃんは二組の名軍師、一組の二人よりも俺には大切な存在です。


彼を孤立させるのは避けたい。陰口みたいな話も言いたくありません。


「喫茶店に入った後、楽器店に立ち寄った」現実を素直に伝えました。

楽器店で購入した銀色の手風琴はアサオシオリに贈るつもりだろうと

推測の域を出ない情報を渡す程度に止めました。今度は行くかどうか

予測不可能です。浅井壱琉の実家に行ったと証言したのは夏目宙だし。


「此処は何者かが操作して遊んでる」喉元にキヨの言葉が引っ掛かる。

邪魔や妨害工作じゃなく『遊んでる』って表現、どうも腑に落ちない。

桜庭潤が竜崎家を訪ねた理由も聞かされてません。竜崎家で遊んでた?

「サクは単独行動厳禁。学校時代を超えた遠い昔から続く不運が来る」

キヨが吐き出すと桜庭潤も眉を顰めて俯いた。本人も承知済みの不運。


バケモノ憑きになっても、なる前も、バケモノ本体が不運を招く存在?


「お、サックンが起きてるな。それじゃ出よう。行きたいとこがある」

アッちゃんの演劇的口調が耳に痛い。聞き耳を立てられてた気がする。

「小魚泥棒、忘れるな。支払うとき僕に蕎麦茶を買うのが最重要任務。

金に糸目をつけず全部まとめて買うのも許そう。夢幻の異境で遊興し

散財するのも楽しい思い出に変わる筈だ。今度は喫茶店に行くのか?

長生きしすぎて妄想癖の出てきたカズから前回の二人の行動を聞いた」

腰を落ち着けて湯気の立つ茶碗を両手に持つキヨが隠し事などないと

言いたげにマイペースな姿勢を貫いてみせました。視えない靄が白く

周辺に漂ってるのに「無い」と断言するのでしょうねぇ。現状打破を

固く誓った元親友は宇宙王者の称号に恥じない言動をするつもりです。

「喫茶店か…。デザートが食いたいなら寄ってもいいけど、俺自身は

喋りながら食ったんで他に食い足したいもんはねぇよ。三人の用事が

特にないなら、俺は街の浅井家に行って御堂の中を確認するつもりだ。

おまえらが俺に隠し事する気がねぇんなら俺も一切隠し立てはしねえ。

鼠の…いや、全員の石を見てみたい。この異空間じゃまだ俺たち全員

バケモノに憑かれてない状態みてぇだし、元の宝石を確認してみたい」

少し俯き加減の姿勢ですが、正直な気持ちを伝えてくれたと信じます。

「ここに来た俺も以前のチビに戻ったんだ。憑いたバケモノの能力は

残ってる気がするけど、それぞれ分離してるんだろうな。タッツンと

面会して詳しい話を聞いた方が無難だと俺は思うけど、街の浅井家の

御堂で供養されているバケモノの石を見れるのはヤッチ君だけだから

気になるなら石を確認していい。でも、それをよく思わねぇのもいる。

マモノ憑きの駒が邪魔する前に動こう。タッツン曰く、無言が無難!」

幻世じゃタッちゃんを他の誰より崇めてた桜庭潤が立ち上がりました。


俺も倣ってワンショルダーのバックパックを肩にかけると、蕎麦茶を

飲み干したキヨも四次元トートバッグを右肩に提げ、出発の準備完了。

「ああ、僕は揚げ出し豆腐の約束をしていたのだ。食べたかったのに」

背中を向けて靴を履いてる途中、キヨが珍しく悲痛な声を上げました。

「モンクちゃんの今の台詞で絡んでた頭の糸が解けた。約束してたが

異世界での話だと切り離して忘れよう。向こうもリセットされてるさ」

俺の後ろに立つ桜庭潤は元々優れた送受信アンテナの持ち主ですから

封じられていた記憶を取り戻したのでしょうね。どこで食事したのか

話を聞いても揚げ出し豆腐ってだけで俺にはエヌジーなメニューです。

永遠に一組の級長と副級長コンビの胸の奥に秘めといてくださいませ。

レジ脇のトレイに土産用の無料天かすがありません。長居してる間に

他の客に持ち帰られたんでしょうね。些細な運命の違いが見えただけ。


村の学校で勉強する四人の不良少年が手打ち蕎麦の店を後にしました。


ぶかぶかの衣装が落ち着かない様子の桜庭潤、靴のサイズが違うのを

気にしながら歩いてました。急いで駆け出すとスッポリ脱げそうです。

蕎麦屋に入る前に近づいてきた際も足を引き摺りながら走ってたっけ。

馬鹿の大足、間抜けの小足、中途半端のろくでなし。いいとこなしだ。

俺は馬鹿の大足なんでハイカットの靴を無理やり履いて誤魔化してる。

間抜けじゃなくても桜庭さんは三十センチ近く背が縮んじゃってるし

靴擦れが懸念されますね。ちょうどいいサイズの靴を履いた方が良い。


幻世の商店街の靴屋はどこにある? 俺たちは絶賛成長期でしたから

頻繁に買い換えしてた筈。あ、そうか。思い出しました。俺は実家に

頼んで靴を送らせていた。自分の小遣いから出すのをケチった理由は

譜面や手入れの品などギター関係が主になるんですよ。家族に隠して

購入しちゃった楽器ですから実家に金銭を無心できません。怒られる。


「おまえは本当にグチグチ五月蠅い。靴屋なら僕が知ってる。行こう」

キヨが先頭に立って三人が付き従う形となりました。あ、そういえば

キヨの実家は街から南東にある温泉地だったもんな。買い物なら街で

済ませて当然だと思う。行った覚えはないけど鄙びた温泉地ですから。


「あー、サイトーさぁん! うちの級長さんに似たサイトーさんだ!」


四人が交差点を左折する間際の位置で背後からバケツに入った氷水を

浴びせ掛けられた心地で御座います。確認するまでもなくシンちゃん。


ストーカーだと制服を脱いだ後ろ姿でも分かっちゃうものなんですか?


「本人は駒と気づいてないマモノ憑きの駒、ノブの登場か。厄介だな」

耳に慣れない男声のアッちゃんが呟いて一杯の冷水を耳に注ぎました。


苗字のない二組の「(まこと)」がバタバタと靴音を立てて近づいてきました。


俺にはシンちゃんでも、二組の殆どから「ノブ」と呼ばれてきた生徒。

彼を大切に思う優等生からは「マコ」やマコちんと呼ばれてましたね。


靴音は二つ。それも確認するまでもなく林原紅司、ベニなのでしょう。

二組で唯一の姓名を与えられた特別な生徒でした。級長の俺は名無し。

アッちゃんも一組の級長も名無し。一組の副級長は「(じゅん)」と呼ぶ下の

名前だけ与えられておりました。一組には漢字の違う三名のじゅんが

いるという特徴が設定されていたのが理由。四人の中じゃスター同然。


潤をも凌ぐパーフェクトな紅い彗星ベニが現れちゃうのは全く以て遺憾。


潤はベニとの相性サイアク。俺も二組の生徒じゃなきゃ敵視したと思う。

あらゆる言動が気に障って仕方ありませんでしたが、現世に舞い降りた

林原晃司、二組の晃ちゃんは赤毛の天使でした。見てるだけで笑えたし。

夢を実現したのは素晴らしい善行です。しかし、再びベニとなった彼は

十姉妹を…見捨てた…。俺からの緊急要請を無視し、天国へと旅立った。


いや、違う。見捨てたのは俺だ。礼を十姉妹呼ばわりするなら、いっそ

本当に何かの宝石と十姉妹を組み合わせたら、今も仲間として…いる…。

何の手も打たず、迎えに来たお兄ちゃんと一緒にバイバイさせたのは俺。

今頃になって振り返っても遅い。過ぎ去った時間は神様だって戻せない。

だから、今を大切にして過ちを何度も繰り返さないよう生きていくだけ。


『やめておけ。灰色の瞳が一瞬、晴れ間を覗かせていた。見抜かれてる』


前回、俺の胸を刺し貫いたキヨの言葉が頭の中で繰り返し再生されてる。

シンちゃんが俺をサイトーさん呼ばわりした時点で前回と大幅な変更だ。

幻世の名無しの級長じゃなくシンちゃんにとってのサイトーさんなのは

嘘じゃありません。でも、その事実を誰が俺のシンちゃんに教えたんだ?


振り向かなきゃダメなのかよ…。シンちゃんが俺に悪意を向ける筈ない。

幻世と現世で十二分なほど世話になりました。その理由も大体掴んでる。

夢幻の異境でも現れてくれた俺の守護天使を有効活用してみせないと…。


「何度でも繰り返すが五月蠅い。サイトーさんの家臣は怖くないだろう。

駒と思うのなら上手い位置に動かしてやれ。自分を王将だと信じるなら」

キヨの声に促されて後ろをみなきゃ声の主が確認できねぇヘボ君主です。

シンちゃんとベニだと知っててもアッちゃんの低い呟きに操られる傀儡。


緑のスカーフを首から下げた何度繰り返し見ても懐かしい二組の二人が

怖いワケねえんだっ。胸を張って威風堂堂とした態度を示せ、斎藤和眞!


空から俺を操る視えない糸など無い。しっかり自分の意思で意志を貫け!


前回は楽器店の道路に面した窓から覗いてた二人が並んで立ってました。

どんな顔をして何を言ったらいいのか戸惑ってる。白旗を揚げたら最後。


「すごく不思議ィ…。どこからどう見ても級長さんなのに別人だなんて

オレには他の三人も一組の級長さんや学校の仲間にしか見えないけどな。

そっちは村の共同浴場でよく一緒になる潤君じゃない?…そっくりだ…。

心臓に持病のある名無しの同級生に似てる人の顔色良くて元気そうだし

二組の教室にいるときよりずっと明るい感じがするから別人な気がする」

自制して遠巻きに四人を眺めるシンちゃん。全員を別人と知ってる様子。

「俺の顔色が良くて元気そうに見えるのは優れた観察眼を持ってる証拠。

おまえ、将来きっと名医になるよ。金が必要なら先行投資してやろうか」

気を良くしたアッちゃんがシンちゃんに悪魔的な取引を持ちかけました。

「え、いや、お金はもらえない。オレ、学校と診療所で勉強の途中だし。

名医になれるなんて…。初対面なのに調子良いこと言わない方がいいよ」

流石のシンちゃんも鼠の親分となったアッちゃんに少々怯んだようでも

言うべきところは押さえてみせました。視えない鮮やかな太刀筋を見た。

前回も確認した後頭部の寝癖が逆立って風に揺れてます。うねった黒髪。


「おい、そっちの赤毛に教えとくが雨は降ってねーよ。傘差しても無駄」

ベニの体質を知ってるのに初めて会うような疑問を投げつけた桜庭さん。

「俺の場合、昼間に傘が必要だから差してんですよ。肌や眼が弱くて…。

ここへ来た以上、俺について御存知かと思ったんですけど、リンバラは

そっちの世界じゃ影の薄い生徒のようですね。疾うに死んでるのかなぁ。

常日頃から当たり前のように侮蔑嘲笑の被害に遭って身投げしたとか?」

俺たちへ挑発的な眼差しを向ける雨雲と同じ瞳。晃ちゃんが叶えた夢を

詳細に証言可能な元異父姉は元異父弟に一言も口を開きません。虚ろ…。


「それは兎も角、皆さんも不思議だと思うでしょうから先に説明します。

村の学校二組の俺とノブは、或る人物から依頼されて迎えに来たんです」

タッちゃん?…としか考えられませんが、不用意な発言を避けてしまう。


こういう場で張り切る一組級長の様子がおかしい。路上で今にも昼寝…?



…!!…



名無しの一組級長に関する肝心要の違いを忘れておりました。大失態ッ!


「もしかしたら高血糖状態になってる気がする。食後、気を失うような

急激な眠気に襲われるのは食事の糖質で血糖値が急上昇した場合に多い」

低血糖時のように速やかな処置を必要とする訳じゃなくても身体に悪い。

声をかけても反応が鈍い。持病を抱えてる身体でインスリンを打たずに

天麩羅蕎麦と塩むすびを食べたんですから、こうなってもおかしくない。

現世で俺が発症した持病に気づく前、食後よく気を失って寝入ったっけ。

「斎藤、指で…バチンと血糖値を測る装置。アレ、持って来てねぇの?」

穿刺針と自己検査用グルコース測定器、肝心要のインスリンの注射一式。

寄生魚の停滞作用で俺には必要ない。余計な私物は持ち込めなかったし。

「病院に運びましょう。近くの人に訊いてでも緊急で処置してもらおう」

身体から力の抜けた四人の中で一番大柄の男子を担ぎ上げられなくても

救急要請して大金を請求されても何とかしなきゃ…。忘れちゃいけない

以前の幻世からずっと親友を続けてきた同じ名無しの級長を苛んできた

持病のことをキレイさっぱり忘れ去ってた間抜けな俺を即刻処断したい。


「ど、どーかしたの? 一組の級長さんに似た人、気ィ失っちゃってる。

こんな道端で眠り込んじゃうのは普通じゃないよ。病気の症状かなァ?」

「似た人…兎に角、彼も一組の級長と同じ病気なんだ。高血糖(こうけっとう)だと思う。

近くに知ってる内科の病院は? 早くインスリンを打ってもらわなきゃ」

近づいてきたシンちゃんに話して状況が変わる訳じゃない。早く病院へ。










◆張替え. 九藤三七



彼に最高の追い風を吹かせたいと願いを込めて十指を動かしても

あらゆる風を向かい風としか受け取らなくなった神経の持ち主へ

不機嫌な表情で目に触れることさえ拒まれても、想いの風を贈る。


雨音のように激しく打ちつける文字で綴るしかない感謝の気持ち。


心の向きを変えて考えたら向こうの気持ちが読める。俺に対して

ほぼ殺意と断言していい激情を十年間ずっと向けてた存在だった。

そう仕向けたのは他でもない俺本人。ずっと黙殺し続けてきたし

誰にも心を開けなかった。最悪な場所から卒業した後、俺自身の

文章と本気で向き合うようになって、漸く気づけた相手の気持ち。


構想の練り直しと書き直しを繰り返し、多様な立場があると知り

北の村の寄宿舎付学校の全員に無礼を働いたと今更だが猛省する。


教室の中では到れなかった。思い切って都会へ出向いて良かった。

俺の場合、田舎での不遇より都会での不遇の方が居心地良かった。

俺が学校に引き籠ったままだったら、彼にも悪影響を与えたかも

しれない。大都会の片隅で点描として生きる現状に何の不満なし。



現在の神は電気だろうか? 万能のようで儚く脆い泡沫に思える。



文章を海に流しても電気という血液が通わなくなった電脳世界は

視えない無常の風が吹き荒ぶことだろう。石に文字を刻んだ方が

幾千年もの風雨を耐え忍んで後世の者たちを喜ばせるに違いない。

他愛ない馬鹿げた文章でも遠い昔に生きた者が考えて石に刻んだ

苦労として侮蔑や苦笑も交えて後世に語り継がれるかもしれない。


電気。導体を通る血液。現在を生きる者たちの命脈に等しい流れ。


誰かの目に留まれ。保存してくれ。心で願っても叶わないけれど

九藤三七の運試し。作品の巻末に添える文章を知る者が見たなら

違和感を覚え、大笑いする筈だな。一人称と文体が特殊な作者を

演じてきた。年齢と性別不詳な人間を装って作品を発表してきた。


クドウが何者か噂してる輩がいると知れば文章を流す意味もある。


俺が俺として生まれた当時から既に在った電気。白米を炊くのも

湯を沸かすのも電気が火から仕事を奪った。遊戯も電気が支配し

人生に於ける全ての出来事に絡み付き、薄気味悪いと感じていた。

瓦斯を点火させることにも電気の力を利用しないといけないのは

奇妙な不自由だと思った。電気という動力源を安易に頼りすぎて

電気を使えなくなる時代なんて想像できないんじゃないだろうか。

便利になった。スイッチ1つで部屋の空気を快適に調整できると

気分は最高。窓を全開にして空気の入れ替えしようという考えも

消し飛んで忘れ去ると思うよ。空気清浄機って装置もあるんだし。


電気という一つの動力源に寄り掛かり切ってる現在に愁いを懐く。


数分の停電が社会に闇と混乱を齎すんだから決して停められない。

万が一の場合を想定して考えられる者が何人いるというのだろう。

絶対なんて有り得ない。地震という天災で数日は電気が停まった。

この先も絶対に起こらないとは言えない。恐竜という種が繁栄し

絶滅した理由を完璧に説明できる者は現れるのか? 俺の予想は

生存環境の激変が起きたと考えている。地球という惑星の重力が

巨大な種を受け付けなくなったのが絶滅の原因なんじゃないかな。

氷河期とか何より先ず地球が大きく変容した以外に考えられない。


だから、人間が電気に頼れなくなる日が訪れないと断言できない。


炭を熾しての炊事。冷たい水を使って手洗いする洗濯。ハタキと

箒と雑巾を使った清掃作業。主婦の仕事も今は電気の御蔭で楽だ。

地獄の沙汰も…。此の世は金次第で便利を得られる極楽でもあり

地獄にもなる世界だった。千年以上も古くから文字が記録を綴り

史書が残されるようになっても見受けられる此の世こそ黄泉の国。


地獄も極楽も此処に在る。心の向き次第で生存途中に辿り着ける。


生きてる間に何か出来たら良かったと思う妄想だけは何度もした。

彼がネットを見てると考え難い。メールを使わず手紙を利用した

同い年の父親みたいな同級生を救出して暮らした時期もあったが

子供らが成長したら簡単に破綻した。空の籠。虚しい関係だった。

現在は他の同級生の協力者として暮らして女装姿で生活してると

聞いた。以前と現世で失った彼女との恋が同い年の父親代わりを

歪ませたのかもしれないし、以前の女教皇を演じてる予感もする。

俺も同級生の興した児童保護施設を何度となく訪問したよ。俺が

表した幻想物語を自分の声で朗読して聞かせた。カーテンを閉め

薄暗くしてる所為か朗読の途中で眠り込む幼児も多数だったけど

偶に逢う施設支援者としての女装養父とは会話も儘ならなかった。


空の天気が変わるみたいに仕方ない状況を受け入れろって話も…。


雨が降って困るなら自分の得物を薙ぎ払って雲を吹き飛ばしたら

いいじゃないかと思う。力尽くでも晴れ渡る空を手に入れてみろ。

嘆いて何になる。厚い雨雲を吹き飛ばす気概を見せられなかった

将軍の負けだ。運を味方に出来なかっただけだよな。ああいうの。

小説を読むと水に絡まれ囚われてる。魚にさせられる運命の悪戯。

作者が意図して彼に火傷を負わせたと分かる。負けたのが悪いと

思わないけど操られたように水を被ってる。魚にしようって魂胆。


横道に逸れた。今日の天気が雨だから心も雨雲に向いたんだろう。

俺だって天気は変えられない。雲を吹き飛ばすのは心の整理だよ。

落ち込まないよう心に晴れた青空を覗かせる。そういう意味の話。


昔は靴の紐がなけりゃ靴が履けないと思い込んでたけど現在じゃ

敢えて靴紐を通す穴を残したデザインの靴紐不要の靴が売ってる。

偏見で頭を固めてたら馬鹿を見るのが時代の風潮。心掛け次第で

どうにでも変化を遂げる。孤独でも笑顔で暮らせりゃ申し分ない。

同い年なのに過剰に依存、甘え過ぎた。来世…再び逢えたなら…。



昔話を残す。学校を卒業した後に覆い被さった遠い昔の思い出だ。



当時の俺を喩えてみたら籠に入れられ、飼われる小鳥と同じ状態。

朝の光に目を覚ました途端、倦怠感に苛まされ、身体が思うよう

動かせなかったんだよ。疲れた。その言葉しか出てこない絶望感。

腕や足、日や時間に拠って変わるけど、身体の何処かが必ず痛い。

歩くのも儘ならない。起き上がるのも一苦労。手洗いに行きたい

気持ちを押し殺してしまうほど動けなかったんだ。赤ん坊みたく

オムツを着けられたら死んだ方がマシだと思って半ば這うように

行って用を足したけどな。兎に角「疲れた」その言葉しか出ない

日々を過ごしてきた。立ち上がろう。歩こう。当たり前のことが

全く思うよう出来なくなった。本当になってみないと分からない。

想像じゃ無理。何もしてなくても常に物凄い疲労感に苛まされて

何かしようという気力も削がれた。世話になってきた屋敷の主が

医者を呼んで診てもらったっけ。原因不明。そりゃそうだろうな。

当の本人に何一つ心当たりがない。呪いってのも信じられないし

効かない薬、滋養に富んだ食品、勧められるまま口にしてみたが

疲労は消えない。身体を起こすのも辛い状態と縁が切れなかった。

何人かの医者と向かい合っても説明するうちに痛い場所が動くし

こっちが虚言してる。親に甘えたい気分が抜けないだけと屋敷の

主に耳打ちして帰った医者もいた。俺は原因ない筈ないと思った。

俺の症状を調べる方法も分からない医者が勉強不足だと考えてた。


朝が来て、去ると夜…。その繰り返しを与えられた寝床で眺めた。


身体の不調は回復せず、春が訪れた。寝床から中庭に通じる襖が

朝になると開けられるようになり、花の香りが微かに感じ取れる。

風が当たるだけで痛いという症状はない。左右の目玉を動かせる。

しかし、身体を起こすことが出来ない。気持ちまで塞ぎ込む毎日。


三度の食事と薬を運んでくるのはバケモノだ。男か女かも不明な

小柄で不器量な融合体が俺の世話係を務めてたっけ。朝になると

埃を立てないよう襖を全開にして音を立てないよう掃除していた。

上から話し相手になれと言い付かったらしく天気や中庭の変化を

話しかけてくるが無視した。その頃は口を聞く気力も尽きてたし

バケモノの知己なんて必要ないと思ってたんだ。彼には長いこと

世話してもらった身だけど、正直言って苦手なタイプだったから

蝙蝠の羽を付けた白猫のバケモノと親しく接した覚えはなかった。

食事や薬が気に入らない場合は必要最小限の意思表示で済ませた。

世話係も表情の変化に乏しい一人の姉弟。笑顔なんて見せないし

想像つかなかった。屋敷の主であるバケモノの方が人間らしいが

父親代わりだけあって厳しい。食事や薬の融通を利いてくれても

甘えられるタイプじゃなかった。その陰で俺のために評判の良い

医者を探してくれてたらしい。随分と金銭を手放したみたいだし

占い師にまで頼ってたのは知らなかったけどさ、悪くない笑顔を

見せてくれる先生と出会ったんだっけ。その先生が処方した薬で

少し身体が楽になった。寝て過ごすから運動不足で体力が落ちて

元気よく走り回るのは難しいが、中庭を歩ける程度には回復した。

それでも昔の仕事をする気力が湧いてこない。気づくのが数十年

後になったけど、結局は俺もバケモノの身内にさせられてたんだ。

痛くて疲れが取れない身体のまま、死ねない苦痛を背負わされた。

怨み言は誰にも向けられない。融合体で暮らす姉弟のバケモノも

黄色い爺犬が勝手に不治の病で亡くなった女児をバケモノにして

持病の症状を緩和する目的で女児の弟もバケモノにしたそうだし

今になって不満をぶつけても遅すぎる。バケモノ全員、被害者だ。


で、その春も俺は憂鬱な気分で中庭の花を遠くに眺めて過ごした。


出入りの業者は折に触れて俺の目にも触れることがあったんだよ。

記憶に残るヤツは滅多にない。だけど、彼は俺には特別だったな。

襖の張替えに来た。それだけなら俺の印象に残る訳なかったけど

何故か作業を終えて帰っても気になった。俺より少し年上っぽく

見えたけど正確な年齢は知らない。自分の実年齢も憶えてないし。

要は何が言いたいかって籠の小鳥が普通の人間を見るのは新鮮で

変わった様子がなくて羨ましかった。淡々と無口に仕事を片付け

横たわる俺を気遣う一言もなく次の仕事先へと向かったところが

癪に障るほど。一見の彼が全身の痛みや疲労感なく動けることに

嫉妬を覚えた気もする。それが奇妙な縁を結んだのかもしれない。


彼が襖の張替えをして間もなく俺の世話係は露天の茶店を任され

食事や薬の世話は黄色い爺犬が担当することに…。身体の不調は

一進一退ってところ。俺の症状は湯船に浸かってる間は楽になる。

風呂を出て身体がまだ楽な時間だけ縁側へ出て涼むこともあった。

それでも基本は寝て過ごす毎日。寝て見る夢が数少ない俺の娯楽。


それだけじゃ飽き足らず、起きても夢を見るようになっていった。


頭に収納しきれなくなった頃、世話係を介して俺の父親代わりに

紙と筆を頼んだ。当日の夕方には一揃いの筆記用具が届けられた。

喜んで筆を持って白紙に書こうとした途端に右手と腕が痛くなり

腹を立てて寝床に臥せたことも現世では遠い日の思い出、痛みで

寝ていた無駄飯食いも下手な文筆業で自立してるのが一番の奇跡。

下手すりゃ死ぬかもしれない病気からも卒業した。神を恫喝して

俺と同い年の父親代わり二人分の病気を快癒させた。肝心の彼が

発症した病気を知らなかったのが悔やまれる。以前いた世界でも

痩せ衰えて村の診療所で夭折したと聞く。義兄となる同級生から

詳細を聞かされても親しくなかったから通夜だのにも出席を拒否。

大人になれなかった俺は養父から相続された学校で暮らし続けた。


遠い昔の話を続ける。俺を見舞いに立ち寄ってくれた二人がいた。


二人は序列としては俺の下になるが見た目から読み取れる年齢は

年長の姿をした男性だった。人間として生きてた頃に呼ばれてた

名前は棄てるしかないんで宝石と一緒に使われる動物で呼ばれる。


暑い夏の日の午後、寝床まで顔を出した狼と俺と色違いの白文鳥。


「この部屋は涼しくて過ごしやすいですね。以前お邪魔した日も

そう思ったんですよ。中庭も朝顔やら向日葵なんて夏らしい花が

咲き誇ってるのに、この部屋は夏の陽気を忘れちゃうほど涼しい」

何年か前、襖の張替えに来た若い男性が無邪気な笑顔を見せてる。

後ろ暗い陰影が全く感じ取れないから普通の人間にしか見えない。

彼の先輩である狼に恩義があるのか信頼を持って接してる様子が

三十分に満たない滞在時間でも十分に読み取れた師弟関係だった。


襖の張替えに来たときには気づかなかった快活な喋り声を残して

二人は猫四姉妹を追う仕事に戻った。その頃には思い出したけど

俺は猫四姉妹を殲滅させようと挑んで敗死。上品な笑顔の先生が 

処方した薬で痛みと疲労感が軽減された御蔭で宵闇に抜け出した。

で、敗北した恥辱から当時の記憶を封印。現在も日付や時間には

囚われない。朝と夜が分かりゃ支障ないよな。誰もが暦や時計に

囚われるようになって、社会が窮屈で面倒な仕組みになったんだ。


誕生祝いなんかも昔はなかった風習だ。昔は全員揃って大晦日に

齢を重ねたっけ。面倒がなくていいと思うよ。年末年始の祝いは

恙無く齢を重ねた祝いでもあるんだ。贈り物だのパーティーだの

必要ないと思うよ。家族で穏やかに過ごせる以上の幸福はないし。


それから何年経過したか正確な年数は答えられない。深く眠って

数年間は目覚めない時期もあるから何年の何月だの記憶にないが

彼との三度目の遭遇は夕暮れ時だった。中庭の襖が開いてるから

季節としては春過ぎから晩秋前の頃だろう。咲く花を憶えてりゃ

花がヒントになったに違いないが俺にとって花は花。名や色形に

興味が持てない。観察眼を向けたいモノは現実より夢想の世界に

あったんだから仕様がない。心は自分が拓いた世界を訪ねて飛ぶ。



…?!…



声は出さなかったが内心じゃ驚いたんだ。寝床の俺に背を向けて

白い着物姿の髪の長いヤツが座り込んでたから俺だって亡霊かと

凝視してしまう。死者からの怨みは売り出せるくらい購入済みだ。

背を向けてる亡者も犯人に怨み辛みを吐き出したくて来たんだと

思い込んでしまった。数え切れない人間を平気で斬り捨ててきた。

現在の激痛と疲労感に苛まされた身体は亡者たちの怨念の仕業と

考えられなくもない。(怨念という現象が実在すると仮定したら)


俺の方に振り返るのを待っていたが亡霊は襖を向いたままだった。


独り言みたいに何か喋っていた気がしても聞き取れない小声だし

背中を見ていたら掻き消すように消えた。夕暮れ時は逢う魔が時。

そういった類の靄を見ただけ。縁起でもない。早急に忘れ去ろう。


それから幾星霜も過ぎて、音も無く俺の寝床を訪ねて消えた者の

正体を知ることになった。白い着物姿の性別不詳の亡霊は白文鳥。

音も無く現れて消えたのは瞬間移動という能力を使っただけの話。

タネと仕掛けが分かりゃ驚くまでもなくなる手品。知らないまま

ずっと不思議に思ってた方が俺自身の戒めになったかもしれない。


襖の張替えしたみたいに姿を改めた背景を覗き込むつもりはない。


ただ、物書きの視線で俺の部屋を訪ねた理由を推測するとしたら

彼は襖を見て、普通だった頃を思い出したかったんじゃないかと

思えてならない。答え合わせはしない。正解を知るのは彼一人だ。


現世での彼が白い靄みたいな亡霊に憑かれたなら全てを思い出す。

知らない方が良かった事柄も全て思い出すのは気の毒だと思うよ。

俺の同窓生には同情しか向けられない。その中でも彼については

謝りたい気持ちを併せ持つから遣り切れない。普通の人間として

生きて死ねたら、こんな牢獄から出してもらえて卒業できた筈が

この文章を目にした時点で「御愁傷様でした」と頭を下げるだけ。

どんな死に方しても死ねる時点で幸福だ。生き続けるより遥かに。


俺は狡いから家族揃って死を選ぶ。仲間に誘ってやれなくて御免。


俺も高齢者と呼ばれる齢まで頑張って生きた。血縁じゃないけど

三人の孫が出来た。最後の最後に人並みの幸せが掴めて良かった。

最近のニュースが本気で不穏だ。集団行動するのが好きな連中に

碌なのがいねえもんな。ケモノが群れで家畜を襲う様相が窺える。

どうしようもねえ災難に見舞われるのが予想できる。確実に人災。



どんな惨状に立っても一人じゃない。協力して立ち向かってくれ。



あの明るく快活な声の持ち主を知ってることは俺の財産でもある。

逢う魔が時に見た亡霊と同一だって面白い冗談も全て俺の財産だ。


無視しない。彼だけじゃなく全員が明るい未来を掴みますように。

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