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Oui continuer.

◆Oui continuer. 望月漲(もちづき みなぎ)



Oui, j'ai l'intention de continuer.  恥や(あやま)ちを()てての継続。



まだ続ける気でいたゲームもゲーム(ばん)崩壊(ほうかい)した時点で続行不可能(ぞっこうふかのう)


この世界は爆撃蹂躙(ばくげきじゅうりん)の憂き目を乗り越え、電脳世界(でんのうせかい)と容易く繋がり

情報収集と友人知人と連絡が可能な世の中と変わり復興を()げたが

(つか)()(たわむ)れだったらしい。全ての生命が尽きようとしている現状。


現状維持(げんじょういじ)、問題なし。思い込みの世界で生き続けようと必死な自我。


相方(あいかた)()えた反側とのゲームを続けたくても無理なのかもしれない。


だがしかし、絶望に身を投じるのは遠い昔の悪夢。逃げたりしない。



日没を待つ世界に再び(まばゆ)い光を灯したい。私の手足を役に立てよう。



まずは命を…生き残り泣いてる命を救い出し…(ぬく)もりに触れさせる。


その後は、面倒でも人間同士で力を合わせて生きていく姿勢の学習。

集団の中に馴染むのは辛く厳しい。私が知ってるから学んでほしい。


生き難い立場に追いやられる弱者に手を差し伸べる勇気を持つ者が

現れてくれる奇跡を祈望(きぼう)しながら…今日も歩いて家屋の扉を叩く…。


普通じゃない鼻が役に立ってる。異臭に耐えられる異常こそ好都合。


腐敗して分解への過程を辿(たど)る遺体、白骨と化した遺体を見つけたら

身内の掃除班へ連絡する。手慣れた彼らに遺体の処理を任せている。

以前は生きていた空の容器へ深く敬意を払った扱いには感謝の至り。


既に死者の世界へ旅立った者に出来ることはない。生者を優先する。



塞と名付けた終着駅へ向かう列車、そこで何を学び取れるかが重要。



たった一人で誰かを待ち焦がれる者の(もと)へ運命の糸が結びつくよう

天に祈る気持ちで歩みを進める。…いる…。まだ何処(どこ)かに待つ者が。

手を伸ばし塞と名付けた居住空間まで連れていく。未来は視えない。


否定ばかりじゃ(むな)しい。前へ進もう。私の足は懸命に前へ進むだけ。


前後左右。上下優劣。秋空へ笑顔を向けることで小さな愉悦(ゆえつ)を得る。


心だけじゃなく血肉を伴って生きていくことで得られるモノがある。


現世は三次元にある。様々な角度から観察可能。美しい面、醜い面。

誰かの醜悪な面を見せられ凹む気持ち、自分の学びへ変えてほしい。



現世で一番美しい光景は自分の胸の奥に広がっていく。それが学習。



今という時から逃げ出せないと知った以上、必死の(てい)で今を生きる。


より良い未来へ繋げていくための活路、祈望を棄てず未来へ挑もう。









◆…現在の私は…. 浅尾栞(あさお しおり)



以前の私は『不明瞭(ふめいりょう)な閉ざされた世界』にいました。

そこから私を救い出してくれた人物が羊の先生です。


最初は大きかった銀縁眼鏡(ぎんぶちめがね)、現在では私にピッタリ。


以前は外耳の周りに脱脂綿やスポンジなどを使って

かけた現世で唯一の『不思議な魔法の道具』でした。


私のために自分の銀縁眼鏡を与えてくれ、代わりに

不明瞭な世界の中で生活してくださる救い主の先生。


この御恩(ごおん)(むく)いるため、私は何が出来るのでしょう?


…………………………。


…………………………。


…………………………。


目付きの悪い名無しの少女、それが以前の私でした。


もう動かず腐敗していく家族、()()う虫、ニオイ。

それらを思い出さないよう言い含められていますが

思い出さない日はありません。二度と帰れない場所。


それでいて名前や誕生日、年齢を思い出せないのは

自分でも奇妙だと思います。家族から呼ばれていた

名前を忘れるなんて、普通じゃない気がしています。


物凄い年寄りだという保護者の皆様方も全員揃って

バケモノだと話して聞かせます。親切で優しいのに。


普通じゃないと教える先生に囲まれ、大事にされて

現在の私は「アサオ・シオリ」という名前を贈られ

明瞭な世界の中で生きています。それが悲しいです。


幸せになると不幸になる人が現れるのを知りました。


与えられた明瞭な視界は羊の先生の多大な犠牲(ぎせい)の上。



疑問です。自分の幸せを素直に喜んでいいのですか?



…………………………。


…………………………。


…………………………。


キラワレモノ。大勢になると必ず現れる暗闇を被せられる者。


史書にも、もっと多くの者たちが目を通す書物にも記される

暗闇を被せられた者、嫌えません。犠牲者としか思えません。


敵役(かたきやく)、キラワレモノがいてくれて結束を強める者たちもいる。


そう切り替えないと胸の痛みに耐えられません。空を見上げ、

自在に舞う光を想います。被せられた暗闇も地上では単なる

通過点にしか過ぎません。肉体の縛りから解き放たれた瞬間、

光であることに気づきます。皆は元から光の粒だったのです。


生物であるが(ゆえ)に記された上下。下にされた者を弁護する者もいません。

彼らを罪人扱いするのは止めにしたいです。そのために孤軍奮闘(こぐんふんとう)します。


戦場は胸の内、誰かの心に光の矢を放ってみせます。心を動かすために。


私は敵役で結構です。嫌悪(けんお)侮蔑(ぶべつ)嘲笑(ちょうしょう)拒絶(きょぜつ)…。

それで貴方(あなた)が笑顔になれるなら、少しも辛くない。


地獄の沙汰を見て溜飲(りゅういん)を下げる存在こそ地獄に落ちて(しか)る醜悪な者。

蜘蛛の糸に群がる罪人、これぞ狂気と呼ぶべき地獄の沙汰ですよね。

黙って見送る罪人は元から地獄に落とされないのです。それが残念。


いつでも戦場に立つ覚悟はできています。光の矢を()(はな)つために。










◆青が抜けた空の下. 斎藤白百合(さいとう しらゆり)



この現世に存在するのは『おかしい』と感知する者を見る場合

決まって、青が抜けた空の下にいるのです。嘘じゃありません。


落ち着いて全体に馴染んでると感じ取れる色調だと思いますが

見事なまでに裏切ってくれました。明るい光の青が隠れた天空。


生まれて初めて怪異(かいい)を見た日も雲が空一面に広がっていました。


事の詳細を書き綴って共有してくれる仲間を求めてはいません。

終末の世界に於いては、必要ない記述ではないかと思うのです。


不可解な現象として映像が収められてます。身銭(みぜに)を切ってでも

見たがる者がいたのが不思議ですが、どうして見たいのですか?

かつては生きるための刺激を(ほっ)する者たちがいたのでしょうね。


停滞しつつある世界です。明るい未来など視えなくなりました。


今朝は一人…今朝も一人です。誰かと挨拶することも拒まれる

日常を過ごす破目(はめ)(おちい)ったのは正直だった私の発言が原因です。

誰からも避けられるようになりました。それで声が出せません。

避ける人たちを悪く思うことは出来ません。自業自得(じごうじとく)ですから。


目覚めて…食堂で朝食が摂れるだけでも有難く思わなければ…。


朝の白い光が射す食堂の隅に座りました。私の近くに座る者は

誰もいません。私と同じ仲間外れにされるのを恐れているから。


期限切れの携帯食料を口にしました。厚いクッキーが美味しい。


様々ある味の中ではチョコ味が一番好き。嫌いな味もないけど。

そう思っても言葉に出来ないのが寂しくて、泣きたい気持ちを

(こら)える目的で屋上に出ました。誰もいない御蔭(おかげ)で落ち着きます。


空に浮かぶ眩しい白の群れ、直視するのは厳しい太陽、全色を

映し出す鏡と喩えられる色が私にとっては最高の色彩、クリア。


透明をたくさん重ね合わせると白くなるのが何だか不思議です。


光を重ね合わせると白。

色を重ね合わせると黒。


反対の性質となる二色。


私の名前に含まれる白が一番好きなのは当然かもしれませんが

私の肌に似合う色は黒となってしまうのが私の抱えた現実です。


きっと誰にも名前を憶えてもらえない目に(とど)まらぬ端役(はやく)の嘆き。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


以下は「死後の世界」があると仮定した話です。

妄想と呼んで笑うのが相応しいかもしれません。


外へ出たら視界に入る澄んだ空の「青」が消え去った世界です。


私は生きてないと判断される状態となりました。所謂(いわゆる)…死者…。


残された生者たちは醜悪な死にゆく者の姿を目に残さないため

荼毘(だび)に付すことでしょう。全ての者が先に往ったならいいけど

生まれてきた以上、何かしらの形で誰かの世話になる運命です。

こんな世界に好きで生まれたんじゃない厄介なキラワレモノの

後片付けなんて勝手にどうぞ。もう誰にも頭なんか下げません。


秋冬なら多少は暖房代わりになれるかも。春夏だったら大迷惑?


迎えが来るのでしょうか? 親しくしていた身内もいないのに。

母も喜んで出産したとは思えません。金銭等で始末を()()

手を打ってくれる存在がいなくなって、私を産むしか選択肢が

残されなかったのではないかと推測してます。責める気もない。

私との縁が切れて安堵してることでしょう。そうだと信じます。


不可解な現象を見聞きしても、結局のところは信じられません。


あのとき見たアレは本当に自分の目で見たのか証明できません。

深夜に聞いた女性がすすり泣く声は幻聴だったかもしれません。


幻覚、錯覚と判断されたら肯くしかない出来事が殆どでしょう。


死んだとしても落ち着ける場所に迎え入れてもらえるなんて

都合良い話があるものかと思います。神様、天使、夢か幻…。


私という意識は肉体と同じ苟且(こうしょ)の間柄です。死ねば消え去る幻。

名前や血筋と同じで選べないモノ。生きるため必要であるモノ。

一緒に育って一緒に先の視えない旅をする唯一無二(ゆいいつむに)のトモダチ。

死んだら別れられる、きれいさっぱり全て忘れてしまえばいい。

要は物凄くクールな関係です。死ねば体温も失われて冷え切る。


馴れ馴れしく知ったような顔して何者か来た場合は嘲笑(あざわら)います。

生きてるとき何の手助けもしない冷淡なモノに愛想笑いなんて

無理です。魂の旅、前世とかいうのも馬鹿馬鹿しい過去形の話。

姫君だった過去世で優越感に浸れるのなら安上がりな幸せです。

どれだけ占断(せんだん)に真実が含まれるか信じない私は理解できません。

口先から出た言葉で人の心を如何様(いかよう)にも操ろうなんて(ごう)が深い

商売だと考えてしまいます。お客は歩く財布同様に扱われます。


前世は既に過ぎ去ってしまった夢物語、触れはしない幻影です。


夢や幻の類に惑わされる必要ない。あるのは今という私の現実。

辛くて惨めで泣きたくても、最期の瞬間まで生を全うするだけ。


身体や五感を失っても自分で居続けたいなんて強欲にも程が…。


ただ、どうしても想ってしまうのは私が生きているのが原因。

青が抜けた空の下、ぼんやりとした動く何かが…いる…以上

心を惑わされながら生き続けるのだと思います。死こそ救済。


…目出度く死んだら…


もう何事にも囚われなくていいのです。一切の柵はありません。


何もかも棄てて、全てを忘れて消え去りましょう。それでいい。

教え導いてもらうとか馬鹿らしい上下関係は必要ないですよね。

自由でいいと思う。好きな時に逗留(とうりゅう)するのも(そら)に浮かぶも自由。


皮肉、名前、過去、衣服を脱ぐのと同じ、脱ぎ棄てて構わない。

余計なモノに執着する方が滑稽(こっけい)です。笑えないのに笑われそう。

要らない(おそ)れに囚われる必要ありません。ないモノに拘らない。


生き物が身体を失った最終地点は、全てを()かす透明な(きら)めき。



時折ふと不可解な姿を現してしまうのは…青が抜けた空の下…。









◆現在、一人行方不明. 桜庭潤(さくらば じゅん)



『罪を裁く者のいない(ゆが)んで(ねじ)けた世界の中で悔悛(かいしゅん)

立ち上がり、前を向いて歩き出そうとしてる者がいる』


白い賽子(さいころ)の喫茶店から反則氏と斎藤の二人が姿を消し

ヤッチ君が話した言葉、今も耳に残って離れずにいる。

あの二人を指してると直ぐ気づいた。遠い昔の世界で

相当な不始末ヤらかしてるのは、周囲に知られた事実。


この世では器を変え、学校時代を一緒に過ごした仲間。


特に一人は同じクラスの一員。一年の頃から不思議と

落ち着いた物腰で…窓を眺めては涙を流してたっけ…。

泣き虫もっちー、学校の一組じゃ浮いた存在だったな。

誰とも交わろうとせず、歯医者に通いたくないからと

毎食後の歯磨きを誰より丁寧(ていねい)に済ませた姿を憶えてる。


三年生の春、一組の教室にオルガンが設置されたんだ。


春の学習発表会から新たな渾名(あだな)の『むぐらもち』君が

誰から教わったか知らねぇが休み時間に()(こな)してた。

俺の親友と同じよう自在に左手も動かせるのは(すご)いと

思って眺めてたな。親友が真似て弾き語りを始めたら

音楽室や講堂のピアノを弾きましょうという話になり、

六先生の夏休み前には片付けられたオルガンだったが

あいつが歌う童謡(どうよう)伴奏(ばんそう)して寄宿舎でも同室だったし

専任のプリンス・リトゥル(りょう)様の世話係に落ち着いた。


入学時は俺たちと同じだった遼の成長が停滞し始めて

段々と差が露呈してきて、六年生から遼は夜尿(やにょう)の開始。

反則氏は汚れたシーツの洗濯と敷布団干しに追われて

苦労してた。俺たちも干し終わった布団の取り込みを

手伝ったり、遼を共同浴場へ連れてったりもしたっけ。

でも、朝昼晩の食事の世話とか誰より頑張ってたのは

反則氏(はんそくし)だと知ってるよ。目を覚まさない遼を背負って

教室に入ってきたのも一組ではよくある出来事だった。

教室の後ろ側に用意された昼寝用の布団を敷いてやり

寝かせながらの授業も一組名物と呼べる光景だったな。

良い兄ちゃんとして本当よく頑張ってきたと(たた)えたい。

卒業するまで自分の名前を平仮名でしか綴れなかった

プリンス・リトゥル遼、現在の姿は如何(いかが)なものか少し

気になるけど逢いたいと思えない。遼遠(りょうえん)となった存在。

以前の学校にいた俺たちと変わらない遼を知ってると

現世じゃ「おトイレ行きたーい」と言ってたし笑うよ。

あいつを女児のよう着飾らせ、可愛がってたのもいる。

以前の世界じゃ大食漢(たいしょくかん)の喧嘩好き、相当なワルだった。

この世の舞台の袖裏に入れるんだろうし、舞台監督を

務めてるのかもしれねぇよな。誰より(した)ってきた者と

疎遠(そえん)になったんだし、その怨み辛みが現状に重なると

窺える。しかし、反則氏は舞台の袖裏や観劇者たちに

媚を売る真似はやんねぇだろう。頼んだって無理な話。


何故(なぜ)って慈友(じゆう)君は羊と猫の『記憶の後継者』を担当し

以前いた慈友君とは中身が違うんだ。俺も容器が違う。


望月漲という偽名を使い、学校時代を過ごした同窓生。

本名は鈴木義則というらしい。特殊な世界に暮らして

病と傷を治療する日常に己の身を捧げ、生きてた先輩。


羊猫先生は最悪の籤を引いた現実を認め、生きていく。


懸命に歩いて、この世界に生きる者たちの味方として

全てを捧げようとしている。元から羊の先生の足腰は

スリムな割に鍛え上げられてる。平然と何キロも歩く。

集落の一軒一軒を訪ね歩いて、確認作業に余念(よねん)が無い。

そうやって羊の先生である反則氏が見つけた生存者の

送迎役を鞄持ちが担当し、俺たち掃除班は死者を担当。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


本日は空振りに終わった形となる。反則氏の食料も尽きたそうだし

まだ午前中だけど少し前に携帯端末で羊の先生専属運転手を呼んだ。

二時間近く待ったら車が来る。俺たちの作業も滞りなく済ませたが

入らせてもらった製造工場の倉庫に備蓄されていた期限内の食料を

頂戴することにした。保存食と瓶や缶に詰められた飲料は貴重な品。

塞に暮らしてる生き残り女子たちへ進呈する。笑顔が雑用の報酬だ。


その(むね)を通話の際に伝えたんで、送迎用の車に乗って斎藤が来る筈。


「近くに医院を見つけた。使用可能なインスリンが保管されてるか

探してみようと思う。みんなを待たせないよう早めに戻るつもりだ」


返事も聞かず背を向けて目的地へ向かっていく義兄(ぎけい)の姿を見送った。


数十年前、再会したら身に着けてた空色のアームカバーが秋の空と

重なって視界に映える。いつ洗濯してるか不明な品、予備もあると

思い込むしかねぇな。少なくとも二人で長い逃走劇を続けてた時期、

風邪で寝込んだ際も洗濯を頼まれてない。汚れも(いた)みも目立たない

不思議と気になって視界が(うつ)し込む青空と同じ色したアームカバー。


以前の学校じゃ義兄の親友から贈られた形見とも呼べる品に似て…?


()く機会は幾らでもあった筈なのに何故か疑問が湧かなかったんだ。

普通は女性が身に着けるものだし、専用の魔法アイテムと思っとく。


インスリン、それに依存して生きている者が寄宿学校の同室者で

俺の目には間違いなく親友同士と映っていた二人に何かが起きて

元親友(もとしんゆう)とかいう間柄になったそうだ。俺は覗き込みたくない挿話(そうわ)

斎藤から冷やかな扱いを受けても平然とした様子で必要な薬剤を

少しでも多く見つけ出そうとしている。あいつは薬剤が切れたら

元二組の副級長殿に頼んで…永眠(えいみん)()こうと考えてるらしいが…。


遺体を荼毘に付すため、掃除班は斎場(さいじょう)に行く必要がある。

虎の先生も掃除班の一員として気丈(きじょう)に頑張ってくれてる。

二遺体を収容した車内で羊の先生と雑談に応じてるのが

スゴイとしか言いようがねえ。数年前、くも膜下出血(まっかしゅっけつ)

倒れたソラを介護というか自分と融合(ゆうごう)して養生(ようじょう)させてる。

死なせようという考えはない。最後まで希望を棄てない

姿勢は立派と言いたい。こんな世界の現状であっても…。


三十年ほど前だと思う。ソラと二人で歩いた記憶もある。

嫁入りする女子の同行者を務めたんで、行きは超特急で

済ませたんだよ。やっぱり長時間一緒にいない方が気楽。

幸せな生活してたらしい元従兄弟。詳細まで聞かないが

妻だった者を縁切りせず旅立たせない執着には心が痛む。


装備を解いて車外で過ごす。こういった時間も悪くない。


秋晴れが寂しく映る。野山は紅葉に色づいてるというのに

紅葉を見に出かける家族や仲間連れなど見る事はない地上。


太陽が地上に生きる力を与えても、生命たちは()えていく。


犬猫といった動物の姿も見られなくなった。まるで神隠し。

別世界で繁栄してりゃいい。バケモノ以外、死に絶えても

違う世界があるなら安堵できる。どうしても安心を求める。

この世界から旅立った存在全てが別世界に転生していると

信じたいんだよ。希望が持てなきゃ心が闇に囚われるから。


太陽の下、地面を踏みしめ生きていこう。最後の瞬間まで。


今更遅い。不平不満に疑問を投げつけても先には進めない。

喧嘩を売って、ぶつかり合って、お互い疲弊(ひへい)を迎えるだけ。

無暗矢鱈と思考を巡らすな。俺の根底に強く言い聞かせる。


「医院に目ぼしい薬剤はなかったが、無駄足と思ってない」


…?!…


背中を向けてた不覚は俺にあったけど、気配を消して

近づかれるのは困る。気を抜いてた。俺が振り向くと

空色のアームカバーが目立つ格好した義兄が戻ってた。

「ここより高台から見たら、山に栗の木があったのだ。

車を出して栗の実を手土産にしよう。栗の殻斗(はかま)ごと

持って帰れば、女子たちには良い学習教材となる」

喋りながら掃除班の移動車、運転席に近づいてる。


虎の先生に口を聞いたらすぐ車が出されるだろう。

昼食前の運動は栗拾いに決定。袋に詰めれるほど

拾えたら有難いが、行ってみなけりゃ分からない。


塞が大騒ぎになると容易に想像できる毬栗(いがぐり)の土産。

時には小さな刺激も与えようという魂胆(こんたん)だと思う。

生き残りは…何故か十三~十七歳の女子ばかり…。

生命力の強さなのか、何らかの裏があるかは不明。


運が良かった生き残りを塞と名付けた場所に預け

共同生活してもらってる。村の学校と寄宿舎での

日常生活に近いだろうけど全員揃って心細い筈だ。

かといって深く干渉(かんしょう)する訳にもいかない。俺たち

保護者は全員揃って投獄(とうごく)されたバケモノなんだし。


牢獄世界が終焉(しゅうえん)に近づいてる状態。そうだと思う。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


羊と虎の先生は車内で待っててもらう事にして、秋の山を歩いた。

二人は熱心に話し込んでる様子だった。学校時代は予測不可能な

組み合わせだし、遠い昔の時分も二人が会話する姿は記憶にない。

だからこそなんだろう。実際に話してみたら話題が尽きなかった。

年を経て初めて気づいた意外な名コンビが誕生するのも悪くない。


そう歩かなくても着く距離らしいが、迎えの車を待たせないよう

手早く作業を済ませる必要がある。無言で義兄の後に付き従った。


「山野に入って飛び交う羽虫や足元の蟻を見つけるのが愉しみと

感じるようになってきた。遺体を(くら)(うじ)(はえ)さえ生命力の象徴だ。

汚らわしいとは思えない。学校時代ならキレて全滅させた筈だが」


振り返りもせず独り言みたいに話したモンクちゃん、齢を重ねて

人懐こい素振りも見せるようになった。一世紀近く前は知らない

余裕を感じ取れる。何が起きても風が吹くよう受け止めるだろう。


陽気を装う義兄の愛と悲哀に満ちた過去が俺の頭に入って掴んだ。

竜崎家の両親が余命幾許(よめいいくばく)もない娘の結婚を許した理由も分かった。

モンクちゃんは合格したから寄り添えた。短くても幸せだった筈。

今だって笑顔を引き出すために活躍し、喜んで道化者(どうけもの)を演じてる。


生き物の減った奇妙な世界に生き続ける者たちの強かさが窺える。


受け答えせず目的の場所に到着した。樹々で少し薄暗いと思うし

緩い傾斜を歩く足元も湿った感じ。空を見上げたら白く曇ってる。


以前は米の入ってた茶色い紙袋に落ちてる栗の実や毬栗を

拾い集めた。たいした量じゃないが煮炊きするなりして

塞の女子たちも秋の味覚を愉しんでほしいと思った。


ささやかな土産でも平穏に生きていられる幸福を味わってほしい。


拾った栗の袋、重くはないが刺さったら危ない殻斗ごと入ってる。

二人で支えて歩く形で帰路に就いた。転がさないよう慎重に進む。


「田畑の作業をしっかり習得しておくべきだったと悔やんでいる。

生み出す力を持っている者に依存しすぎていた。そこは反省する」


姿を消したままの先輩が一人いる。蹂躙の後、白い賽子の喫茶店

近くに移り住んで田畑や陶芸をして悠々自適に暮らしてた筈だが

おかしくなってきた世界に慌てて連絡を取ると、田畑を処分して

行方を晦ませていた事実。それが俺の何処かを黒く塗り潰してる。


無言が無難を信条とする先輩、舞台の裏袖に引っ込むのは早いよ?


捜索したくてもバケモノより生きた人間を優先させると決まって

燃料節減のため遠くまで車を走らせることもできねぇ。(もや)つく…。


おかしい現状を何も出来ずに受け入れて、生きる自分が嫌なんだ。


栗の実を拾って預け、遺体の埋葬を済ませて帰る仕事が嫌なのか?

此処じゃない何処か遠くへ逃げたい本音を隠してる自分がイヤだ。


他愛ない雑談に応じるのも負担と感じる俺。このままじゃヤバい。


声を出す。大声を出したい気持ちを隠してるようにも読み取れる。

歌いたいんだろうか? カラオケなんかに興じていられた時間が

懐かしく思えるほど遠い過去の思い出になってる。そいつが辛い。


何も知らない頃が幸せだった。開けなくてよかった扉を開けた罰。

異世界の記憶に繋ぎ止められた現在の自分を受け入れ生きてきた。

憑かれた自分でいる状態に疲れていると思うが逃げ出す訳には…。


もう少し喋ってみよう。馬鹿馬鹿しい雑談を愉しんだ方がいいよ。


頭では答えを出せても実行を躊躇(ためら)う。黒く塗り潰された何処かが

いつか病や事件を呼びそうな気もしてる。本当に何なんだろうな。



とりあえず白賽子の喫茶店二代目マスターの意見を聞いてみたい。



…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


黄昏。雲間から光の梯子が射す下、遺灰となった人体の成れの果てを

土に還す作業を終えた。黙々とした日常風景となってしまった夕暮れ。


ツバが運転する大型ワゴンに乗り込んで塞近くの宿舎に帰りゃ休める。


樹木葬と呼んだらいいんだろうか? 斎場の近く、躑躅(ツツジ)の下に葬った。

読経する者はいない。光の梯子に導かれて天に昇るよう心で祈るだけ。

植物の根が葉になった遺灰を陽射しの明るい光に当てて導くと信じる。


遺灰となった者が信仰心を持っていたか読み取れない以上は

空から燦々と降り注ぐ光に導いてもらうイメージをするだけ。


有難い無上の光。地上の生き物を育んでくれるから天に感謝。


空を飛べないから天使をイメージした者がいて概念(がいねん)となった。

悪を成敗、受胎告知、道に迷う者を導いたり、人のため働く。


十分に満たされた人間も空を見上げ、天に幸運を祈った筈だ。

視えない存在を意識し始めたのは、一体いつからなんだろう?


しかし、寝起きする部屋に死霊とかが訪ねてきた覚えがない。


死者と会話できねぇ。俺に遠い昔の息子みてぇな能力はない。

繋いだ糸から辿り着けません。俺は逆に切っちゃうタイプだ。

遣り取りできりゃ後ろ暗い部分から気を()らせたんだろうに

都合よく運ばない。訪れる困難は唯一無二の朋友(ほうゆう)、歓迎する。


爆撃蹂躙の後は、常に大量の情報が入り込んで処理に困った。


その頃も孤独に生命を終えていく者たちがいたのを知ってる。

遺体を自治体に任せた後、痕跡を懸命になって掃い清めてた。

礼など要らない。身体に浸み込んだ行動、自己満足の仕事だ。

街の灯りが煌びやかに輝いた時期も瞬く間に通過していった。


今から十五年ちょっと前の現実を聞かせたら嘘扱いされるし

自分自身も信じられない。ここまで寂れるとは思わなかった。


現在では心を澄ましても静寂、滅多に情報を掴めなくなった。


空き部屋を掃除して家財を運び入れて体裁(ていさい)を整えた俺の住居。

そうは言っても実際に使用するのは布団と洗面用具くらいだ。

四階からの眺めは悪くない。自然光を求めるとき窓を開ける。

光合成。陽射しを浴びると落ち着く。日向ぼっこする年寄り。

罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐き出したいなら俺に向かって好きなだけどうぞ。


管理室からマスターキーを頂戴して施錠を解いた部屋に住み着いたんだ。

出かける際は施錠しない。空き巣の心配も要らない現状となったんだし

欲しい物を見つけたら全部持って行って構わないと思ってる自分がいて、

そういった境地に戸惑いを覚える自分がいる。心が幾つも増殖(ぞうしょく)してる…?


答えは出さない。頼れる誰かがいない現実を認めて、無事に日が暮れた。


食糧(しょくりょう)という物資を譲ってもらった。誰かがいたら罪を問われるんだろう。

空き家に住み着いて家賃を払わず暮らしてるのも法に照らしたら犯罪だ。

強い不安を覚える日常生活とは目を合わせない。非現実と思える世界を

認めたくはないけど俺が生存し呼吸を繰り返す世界の現状、こんなんだ。


無理やり受け入れて日夜を数えないよう誤魔化して暮らしてるのが現実。


昔と比べたら無口になった自分がいる。遠い昔の自分に戻っただけ。

思い出せる。掃除の仕事を終えて、大量の飯を食ってた熊猫がいた。

山で取った根曲り竹を入れた飯を炊いて食った思い出を忘れてない。

色々あったもんで身内との関わりは極力避けてた頃の出来事になる。

食う事で地上に縛られた重圧感から解放された気分も味わっていた。


不可解な遠い昔の記憶と縫い合わされ、生き続けてる現在がイヤだ。


嫌でも生きてる以上は自分でいなきゃ働けない。役に立てないのが

何より辛いから取り繕ってでも自分で居続けようとしてるのが現状。


バケモノの仲間として終末の片付けを請け負うよ。掃って清める。

その程度でも役に立てれば御の字だと考えている。役に立ちたい。


衣食住の中で最重要といえる食糧、生きる以上は必要不可欠。

自然に生った栗の実も大事な食料として生存者たちに供する。

茸狩りのスキルがないのが問題だ。怪しいのは与えられない。

茸を採っても少量じゃダメ。全員の口に入らなきゃ無意味だ。


畑仕事を本格的に取り掛からなきゃ将来の食事に困ると判断。

来春からは清掃より食糧作りに励んでみよう。勉強しなきゃ。


先輩が一人いないだけで手痛い。俺の何処かが黒く塗られた。

負けて堪るか。このまま停滞させないため、もう少し頑張る。









黎明(れいめい). 村元黎(むらもと はしむ)



明け方、新しい何かが始まると信じてみる。強く希望してみる。


自分の心を明るい朝の光に照らし、新鮮な空気を吸って吐いた。



アメトリン・カテドラル



夜が明けた。山の白靄、森林の吐き出した洗い清められた空気。


鼠の親分に同行して数日、まだ話し合いの回答は出ねぇらしい。

神を恫喝(どうかつ)するとか何としてでも終焉(しゅうえん)回避(かいひ)できねぇもんなのか?

以前は花田の武具を回収して差し出したら回避できたそうだが


今回は取引できる材料もない。観劇者の心を揺さ振る何かが必要なんだ。

この牢獄世界を元通りの世界、親子が笑顔で歩ける世界に戻してほしい。


俺も病に倒れる前、公園で見たよ。小さい子を連れた家族の幸せな笑顔。


山にいる二柱の神は味方でいると信じたい。元々は近所の幼馴染(おさななじみ)だった。

よく遊んだ。一緒に叱られもしたっけ。神とは程遠い悪ガキだったのに

少年姿の二柱の神様だった事実が不可解。俺は不敬の限りを尽くしてる。


その天罰が現在の姿なのかもしれない。珊瑚(コーラル)。病を得て不老不死の身か。


真珠と同じってのが笑える。海から生まれた石、病は癒えず生き続ける。

時の針が動かない時間の淵で魚のように暮らすと持病の進行は塞がれる。

淵主様の承諾(しょうだく)を得て陸に上がって暮らして数年、時は動いて腎臓病患者。

透析(とうせき)の代わりが…回復力に優れた仲間と融合して過ごすってのがなぁ…。


深く思い悩まねぇ。眠って目を覚ますのと同じ感覚だ。しばらくの辛抱。

それで当分の間は病を忘れて過ごせるんだから、バケモノ万歳って心境。


俺の持病なんか些細な問題、自分より世界の病気の完治を望んでる。

交渉班の一員として良い成果を待つ仲間たちに希望の光を届けたい。


親子が笑顔で歩ける世界になると誰より祈望するヤツの笑顔が見たい。

涙の雨に濡れた泣き顔より眩しく晴れ渡る笑顔、誰よりも似合ってる。



たった一人の生き残り…部員としての望み…望月部長の笑顔が見たい。



この山から神々その他が(うごめ)く舞台の裏側に潜り込めるなんて

悪い夢でも見てる気分。そんな馬鹿げた設定が通る世界の外。

俺は長いこと時間の淵で生きていた。世界の病気が治ったら

再び淵に潜りたい。村の淵が俺の故郷と呼べる場所になった。


時計の針が動かない淵、コーラルの魚が暮らす村の淵へ帰る。


思い浮べるだけで胸の弾む場所があるって物凄く幸福だよな。

舞台の袖裏なんて見たくも知りたくもない。時間の淵が極楽。


アメトリン・カテドラルは世界の外、その手前で待機してる。


そのまま素直に言うと、遠い昔は寄宿舎付学校のあった村の

山を少し上った場所にいる。昔、春は山菜、秋は茸や栗とか

()る目的で遊び歩いた十一月中旬の冬間近の山中に(たたず)んでる。


一年前の初夏に来たような…時の流れが尋常じゃない山中…。

毎日メモ帳に記録しなきゃ浦島さんになりかねないって場所。


生まれ育ちが中央の都会だった鼠の親分には世界の裏側に続く

アメトリン・カテドラルって場所となるそうだが説明されても

いまいち納得いかねぇ不可思議、ガキの頃なら笑い飛ばしてる。


バケモノになって不可解な現状を有耶無耶に受け入れてるだけ。


谷地(やち)が戻ってきたら、淵で泳ぎてぇな。人の肌には冷たくても

バケモノ魚の俺には温泉に()かってるような心地に(ひた)れるんだ。

淵で暮らしてる限り食事の必要もない。飲食物の食欲をそそる

ニオイを不快と感じてる自分、バケモノになった(あかし)なんだろう。


淵から上がっても最低限に抑えてる。あまり飲食には興味ない。


蛋白質の制限。糖尿病の患者が糖質を控えるようなもんだけど

肉や魚のニオイが駄目になった。我慢して食える食材は豆腐類。


飲食物を口に入れ、噛んで飲み込む一連の動作が受け付けない。


アニメか漫画で見たキャラかよ!って自分にツッコミたくなる。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


山林から人影が姿を現した。宵闇色のスーツを着た谷地、元少年が

婦人用の高級スーツを着てる時点で腹を抱えて笑いたくもなるけど

そんな俺も時間の淵じゃ人魚を気取った姿で自由に泳ぎ回っていた。

もっちーの病院での再会時は十六歳の少年だったと記憶してるのに

しばらく顔を見てなかったら…俺の真似か?…何かあったと窺える。


先延(さきの)ばし、精々三か月って期間だろうけど世界の終息(しゅうそく)(まぬが)れたよ。

この三か月に起こる何かに期待したいところだ。心を揺さ振る何か。

観劇者の皆様方はソレを期待してるんじゃねぇかと俺は感じ取った」


心を揺さ振る。予想どおり明確な名称で語れないモノを所望してる。


女声でも口調は学校時代に比べりゃ物凄く乱暴になったと感じる。

以前の学校で春秋の学習発表会に毎回招待されてた来賓方の主賓、

そいつの正体が谷地だったとは夢にも想像しなかった。悪い夢だ。

二組の担任も影響を与えてる筈。声と喋りがオッサンの美人教師。


秘書みたいに付き従ってた綺麗な姉さんの正体がタコ(ちゅう)なのも…。

タコ宙は現在療養中、虎と融合して養生してるって。だから俺が

代理で同行してるって訳。話し相手くらいの役にしか立てねぇが

俺たち人間側の代表が単独なのは酷い話、交渉班の従者を頑張る。


「足元、靴が汚れてる。車から雑巾(ぞうきん)持ってくるんで、そのままで」


スカート穿いて、ハイヒール履いて、山に入る時点でヤバいよな。

遭難したくて堪らないんじゃねぇの?と頭の中身を心配する。

身内ならメンタル専門で診る評判の良い医師に診せるよ。

しかし、現在の世界で俺が知る医師はもっちーだけ。

バケモノの下っ端は、下に停めてる車へ向かう。


「必要ない。この辺、どこも泥濘(ぬかるみ)だし車まで歩くよ。

腹が減ったし、湯を()かしてラーメンでも食おうか」


鼠の声が追いかけてきた。この人、麺類が好物らしい。

缶詰より即席麺を選択するタイプ。バケモノが栄養の

偏りとか気にする方がおかしいんだろうけど心配だよ。

湯を沸かすならマカロニを()でてやるか。卵も茹でて

簡単なサラダみたいな朝食にするってのも悪くねぇな。

慢性的といえる野菜不足となる現在の食生活。鶏卵(けいらん)

塞に暮らす女子たちの働きで手に入る貴重な蛋白源(たんぱくげん)だ。


時代や国を問わず、誰彼かの御蔭様(おかげさま)で生きていられる。

幾千年を超えても変化してない現実じゃないかと思う。


俺は腎臓、確か鼠も心臓に弱点を抱えてる筈なんだが

谷地は俺なんか敵わないほど元気だ。バケモノだから?


ゆっくりと歩こう。転ばねぇよう足元にも注意しよう。

紅葉もいいけど寒風に身を(ゆだ)ねる草紅葉(くさもみじ)が眼に優しい。


空を見上げて地面を歩く。人間は自力で空を飛べない。



平和を祈願し、淵で泳ごう。その日まで地上に留まる。









◆容器と内容. 藤田笑見子(ふじた えみこ)



出張から帰った二人の男性が塞を訪れました。

久し振りに姿を見せたという保護者の二人。

交渉班の任務を果たし、ご帰還しました。


今年の十一月が残り数日で終わる頃の帰還です。その日は

保護者の皆様方が塞の食堂に勢揃(せいぞろ)いし夕食会となりました。


メニューはカレーライスです。カレーライスが大の苦手な

保護者の方が現在行方知れずな御蔭で出せる献立なのです。


カレーのルーはバターで小麦粉を炒めて作りました。

倉庫に残った市販品は既に期限切ればかりですから

大人数で食事する際に使うなんて流石に躊躇(ちゅうちょ)します。

バター等は冷凍保存してますが、肝心の自家発電が

いつまで保つのか考えると皆で集まって食事できる

他愛ない時間が物凄く幸せな出来事に感じられます。


現在は事情があって二名だという交渉班の方を交えた夕食。


男性と言っても一人は女性にしか見えない容貌と服装です。

夜空みたいな黒に近い濃紺の高価そうな秋冬向けスーツは

塞で暮らす女子が着るのはまだ早いデザインだと思います。

付き従ってる一人は他の保護者さんと比較する必要のない

普通の男性にしか見えませんが、前髪の一部が赤い色です。

保護者の皆様方が全員帰ったら格好良いとか騒ぎ出す人が

予想できました。隠れて悪いことしてそうな雰囲気だから。

保護者全員同い年と聞かされていても上下関係があるのは

誰でも見たら気づくでしょう。綺麗な三十代女性に見える

交渉班のリーダーには他の方々が控えた態度で接してます。


遠くから戻った鼠の先生が「堅苦(かたくる)しいのは止めにしよう」と

最初に発言したので、それぞれ食事しながら話を聞きました。

彼方此方からカレー皿に銀色のスプーンが当たる音がする中、

食堂の前方に一列となったテーブルに着いた女性姿の先生が

ここに生き残ってる皆へ向けたメッセージを話し始めました。


「まず塞で暮らす女子たちに頼みたいことがある。歌や演劇、

そういった誰かの心を動かす技術を磨けるだけ磨いてほしい。

生み出す、作り出す、そういった行動で十分だと考えている。

不出来で構わない。人目を()く花が咲いてりゃ必ず誰か見る。

葉や花弁(はなびら)が千切れて無残な姿でも太陽の下で輝いてりゃいい。

上手く説明できず申し訳ないが、みんなで頑張って生きよう」


その後、塞での日常生活を文章で記録するよう言われました。


想ったまま自由に書き綴ってほしいとのこと。唯一の条件は

『嘘偽りのない正直な気持ち』を表してほしいのだそうです。

婦人服で声色も女性そのものですけど喋り方が乱暴な印象の

先生は全員をより良き未来へ進ませるため提案した様子です。


「文章を用いた記録、しばらく前に僕から女子に言い渡した。

数日前、一編受け取ってる。まだ原稿に目を通していないが」

鼬の先生の発言。私の班が拵えたカレーは口に合わないのか

半分以上は残してました。普段は早食いで有名な先生なので

不味いとしか考えられません。ルーが好みじゃなかったかも。


さり気なく他の皆様方の様子を覗いても普通に口にしてます。

隣席のクルちゃんもお代わりしそうな勢いで食べてますから

鼬の先生個人の舌に馴染まないメニューだと推察できました。

振り返ると先日、他の班が出した肉じゃがも(はし)が進んでない。

そう思って見た憶えがあります。具沢山(ぐだくさん)美味(おい)しかったのに。


秘蔵していた上等の冷凍肉を解凍したけど…食後は反省会…。


十月に入ってすぐ鼬の先生から塞の女子たちに通達(つうたつ)がありました。

偶々近くにいたベニちゃんが最初の記述を依頼されたようですが

もう書き終えたのですね。私も引き受けて書いてる途中ですけど

想ったままを綴っていいなら素直な心情を思いきり叩き付けます。


「さすがはイッチの先生、先手を打つのが誰より得意だもんなぁ。

例えば日記を書くような感じで日常生活を文章の形で残してくれ。

このカレー、すっげぇ美味(うま)いよ。手間暇(てまひま)かけて作ってくれたのが

口にして伝わってきた。塞で暮らすみんな、どうもありがとう!」

女性姿の先生が場を収める形で、お礼の言葉をかけてくれました。


発言の後はカレー皿に盛りつけられた食事を片付ける作業の続き。


食べ物を残すなんて塞での生活に()いては最も嫌われる行為です。

鼬の先生も覚悟を決めた勢いでスプーンを口に入れては飲み込む

片付け作業を繰り返し、無事に私のカレーを平らげてくれました。

無表情で洗い場へ姿を消した様子を確認したのが寂しかったです。

「美味しかった」という笑顔の一言を期待する方が負けとなる戦。


「あ、先生の食器は私の食器と一緒に運びますから。そのままで」


羊の先生に声をかけたのは栞さん。白髪が目立つ物静かな先生は

失礼を承知で書くと外見から受ける印象は保護者の中では最年長。

それでも視力の悪い栞さんが着用してる銀縁眼鏡を与えてくれた

救い主様だから肉親より遥かに特別な星みたいに輝いてる筈です。

出来る限りのことをしたい様子ですから先生も任せたのでしょう。

微笑んで頭を下げ、食堂から出ました。滅多に声を聞かせません。

そろそろ伸びた髪を切った方が良さそうですし、私も声をかけて

(ハサミ)を使わせてもらわないと。雪が降る前に済ませようと思います。


前髪の一部が赤い交渉班の男性が羊の先生の後を追う勢いで

空にしたカレーの皿を置きっ放しで食堂から出て行きました。

きっと急いで席を立った理由は羊の先生に用があるからだと

思います。気づいた私が席を立つとき一緒に持って行きます。

隠れて悪いことしてそうな人が表立って礼儀知(れいぎし)らずな行動を

見せました。格好良いと騒ぐ女子がいたら教えるつもりです。


普段は食堂に姿を見せない保護者さんも夕食を済ませて洗い場へ

姿を消しました。今晩の皿洗い担当は白百合さんだった筈です。

食事を終えた大人から「ごちそうさま」等お礼を耳にする係。

誰とも会話しない女子が少し会話に近い気分を味わえます。

白百合さんは皆が避けてると思い込んでるようですが…。


これまでに一度も全員で御馳走様の挨拶をしたことはありません。

私たちの保護者の皆様方は揃って堅苦しいのを好まないようです。

食前の挨拶もしたい人が小声で言う感謝の気持ちの表明でしょう。

たくさんの犠牲を頂戴してると知っている以上は大きな声を出し

感謝と供養の気持ちを伝えるのが本当は正しいのかもしれません。

自宅では母親に言わなきゃダメだと注意されてた覚えがあります。


いつも気恥ずかしさみたいなのに(さえぎ)られ、大声で挨拶できません。


自分の中には強い(しん)が通ってないのでしょう。欠陥を抱えてます。

一人一人を詳細に評価したら、長短が的確に表されるでしょうか?

評価をする者によって最高も最悪も違ってくるような気がします。

歴史書は当時の著者の好き嫌いの指針(ししん)を示すだけかもしれません。


カレーライスをお代わりする人はいません。全員分のレシピにも

お代わりする分量は想定されてません。不思議と全員満足します。

余ったら冷凍して、空腹で困った誰かが現れた際に食べさせます。

普段から大食いする人は「見っとも無い」と陰口を言われるだけ。


塞での集団生活の中で現れたりしません。女子ばかりですから…。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


夕食の後、片付けが済むと当番の人たちが慌しくシャワーを浴びます。


シャワー中に簡単な洗濯も済ませるので入浴は時間との闘いなのです。

ゆっくり湯船に浸かるなんて夢の話、全身をきれいに洗えば充分。

寒くなってきたので風邪を引かないよう気をつけなければ…。

不自由だと不平不満を言えばキリがない話になるのです。

そこを(こら)えるのが現在の集団生活で学ぶ箇所(かしょ)でしょう。


ボイラーを使用する時間にも限りがあります。無駄遣いできません。

シャワーの前は脱衣所に入って、待ち構えるように順番を待ちます。

髪の毛や爪先まで全身を二十分以内で洗い流さないと後が(つか)えます。

短い時間で全身の洗浄を効率的に行うコツも三年の間に覚えました。

湯上りに休む余裕はありません。洗った衣服を身に着けて就寝前の

準備に移行するだけです。歯磨きやお手入れで洗面所が賑わう時間。


のんびりゆったり落ち着ける時間、仲間たちと会話を楽しむ時間は

寝る前の少しの間くらいと言えるでしょう。寝ないと翌日に響くし。

悩んで愚痴(ぐち)を吐けるのも今を生きているからこその贅沢(ぜいたく)な悩みです。


読書や音楽を聴くというのも贅沢で幸せな時間の過ごし方。

班の居住スペースに戻ってから、私はノートに記録を開始。

なるべく簡潔に伝えたい気持ちを文章に綴っていきました。


電灯の交換作業で藤田班のスペースに入った掃除班の人が

「病院の大部屋みたいだ」と微かに笑ったのを憶えてます。

年中アームカバーして両腕を覆っているのが不思議な人物。

私たちは「人に見せたくない傷痕がある」と推理してます。

掃除班なので危険なものに触れたか事故に()ったのかも…。

マスクと眼鏡で顔を隠してるのも顔に自信がない所為だと

笑う女子もいますが注意深く観察すれば違うのは明白です。

見えてる肌はキレイですし、愛嬌(あいきょう)ある印象を受ける眼差(まなざ)し。

塞で人気の鼬の先生より話したら面白そうな感じがします。


掃除班の三名は毎日忙しそう。冬場は除雪(じょせつ)作業で大変です。

面倒な高所の作業を請け負ってもらい本当に感謝してます。


昨日の晩は初雪が降りました。生き残りの救助に懸命な

羊の先生も当分は休養期間に入るのではないでしょうか。

三年前、自宅を訪ねてくれた先生の御蔭で不自由ながら

生きていられます。仲間と面白い出来事に笑えるのです。


塞に暮らす全員にとって一番の特別な先生は命の救い主。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


容器ばかり磨いても肝心の中身が薄っぺらな内容じゃ恥ずかしいです。


藤田笑見子として生きていく限り、容器の内容を充実させていきます。










◆以心伝心?. 村元黎



誰の目が見ても不可解と呼べる光景を目撃してしまった。


保護者用宿舎五階での出来事、或る先輩二人の遣り取り。

最初から最後まで一部始終を記憶の映像に収めたと思う。

お互い無表情で素早く手を動かしてた。きっしょきもい。

怪しい手の動きを済ませ、それぞれの部屋へ入ってった。


一人きりで見たなら一刻も早く忘れようと努めた筈だな。

そのとき俺の隣りに立つ他の先輩がいた御蔭で捩じれた。


「なぁ、今見たアレって手話だっけ?」


隣りに立ってる先輩方でも一番の最年長に訊くのが早い。

「学校時代を思い返したら、簡単に答えは出せるだろう。

一組の生徒は手話でのコミュニケーションを学んでるし」

羊猫の望月部長の物静かで落ち着いた声が廊下に響いた。

「そうなんだけどさぁ、あんなの習ってない動作だよな」

元は放課後を過ごした仲間だった先輩には嘘を吐けない。

「そのとおり、アレは正式な手話と呼べない対話だろう。

彼ら自身が気づいていない。指摘したら驚くに違いない。

動作と会話の内容は対話する度、違っていても通じてる。

あの二人にしか通用しない声のないコミュニケーション」

解説後、話すだけ無駄と言いたげに目を伏せた望月部長。


銀縁眼鏡を視力の悪い女子に与えてからも何とか歩いて

生き残りを捜してきた。無表情から疲労は読み取れない。

伸びた白髪が最年長の年寄りに見えて痛々しい。切るか

染めるかしてほしい。化けりゃ見た目を整えられるのに

自然に任せた姿で…。いや、俺たちは不自然の塊だった。


「参考になった。遠い昔話を知らない新参者(しんざんもの)には助かる」


学校時代は一組と三組の級長同士、声のない会話だった。

一世紀以上前には信じられない光景を胸の奥に焼付けた。

自分が生きてられる不思議な魔法が働く奇妙な世界だし

学校時代にしても国や法のない歪んで拗けた世界だった。

いちいち驚く必要ない。少しばかり余生が長すぎるだけ。


「こっちも初雪が降ったんだっけ? 世界はどうであれ

季節は巡り続けるんだな。秋が来たと思う間もなく冬か」

「天空に倣って、じき地上も新しい息吹(いぶき)が生じるだろう。

悪いように考える必要はない。冬の次は桜の花咲く春だ」

無表情が微笑んでみせた。花が(ほころ)んだような微かな笑み。


置きっ放しの温風暖房(おんぷうヒーター)の灯油が満タンだったか気になる。


「温風ファンヒーターの給油は僕が済ませた。問題ない」

隣室のドアが開いたと思ったら花田が現れ、伝えてきた。

「あ、こっちが留守の間に仕事してくれたのか。どうも」

依頼してない仕事を留守中に完了させるのが狸猫の習性。

「寝る間際に給油を訴える音が鳴るのは不愉快で面倒だ」

一つ善行を積んだと言いたい表情を見せ、ドアを閉じた。


「昔から誰より気の()く者と思い込んでいた仲間だった。

悪いように受け取る必要ない。楽できたと喜ぶのが正解。

外気が冷え込んできたね。話があるなら早く中へ入ろう」


部長に促され、自室のドアを開けた。廊下の電灯が人の心を(なだ)めて

落ち着かせると気づく。以前は夜の闇に恐れを(いだ)くことはなかった。

逆に闇の中、安らいで(ひれ)を動かしてた。村の淵は居心地が良かった。

淵の底に佇む存在、普通なら怪談のネタなんだろうけど全然違った。

俺にとっては時間の淵が彼の世と同等の浄土。流れと無縁の小宇宙。


「あ、そうだ。あいつの部屋も五階だったよな。ついでだし呼ぼ…」

「まだ彼は帰ってない。今晩はカレーを食べたから外を歩いてるよ」

長いこと生活を共にした先生の鞄持ちについて見越した返答だった。

「一人で歩いて大丈夫か? 体調を崩したとき誰かが側にいないと」

「倒れたら終わりにすると彼自身が決めてる。余計な真似できない」



終わり?



冷涼に伝わる声が堪らなく哀しいと感じた。死ねない。それでも…。

普通の人間として生涯を閉じた先輩たちがいる。それに続く気かよ。


バケモノの命を操作できる年長者がいる。亡くなった筈が生きてた。

十六歳の姿で現れた梅雨時(つゆどき)の午後、俺には忘れることは無理な再会。

幽霊じゃない証拠とでも言いたかったのか自動ドアを開けてみせた。

現在の俺がバケモノの姿で生きてるのも鈴木先生の病院で再会した

谷地の御蔭だと思ってるし、視えない何かの導きがあると信じてる。



…?!…



「さっきから玄関先で五月蠅(うるさ)い。村元たち、話なら部屋に入るべき」

銭湯(せんとう)へ出かける支度をした花田が出てきた。近くに温泉あったっけ?

「温泉が湧いてるなら多少遠乗りしてでも行きたいが、ボイラーが

故障して浴室を使えなくなったのだ。しばらく鼬を頼ることにした」

心の声に答える発言をして鼬の部屋にノックもせず侵入していった。


「花田は騒々しい世界に入り込んでる。さっき見た身振り手振りは

浅井に風呂を借りる依頼をしていたんだろうね。それじゃ入ろうか」


以前から変化なし、神経質の塊に言われたら退()くのが賢明(けんめい)だ。

騒々しい世界、(すなわ)ち「サトリ」になったと言いたいんだろう。

心の声まで丸聞こえの境地に入ったら正気を保つのは難しい。


先に上がって流しの電気を()けると望月部長も靴を脱いでた。

随分と履き込んで草臥(くたび)れた感のあるトレッキングシューズだ。

毎日歩いて頑張ってるのが靴を見て分かる。人類愛の証明品。


引き戸を開けて古きを(しの)ばせる吊り下げた蛍光灯を引いて点けた。

幼少の頃には当然だとしか思えなかった電灯の明るさに安らぐ心。

安らいだ気持ちが綺麗に煌く「心の宝珠」ってヤツなんだろうな。


胸の奥底? 正確な場所は明かせない収納場所に仕舞われる宝珠。


久々に自分の部屋で落ち着く時間、もっちーがいることが嬉しい。


ソファに着く前に冷蔵庫から梅酎ハイ等の飲料を出して

カーテンを背に腰を落ち着けてる元緊急検証部の部長に

手渡した。眼鏡無しの白髪頭でも最高に品の良い笑顔で

缶の蓋を開けて一口飲み込んでくれた。乾杯なんて無粋。

わざわざ勧めなくても上座(かみざ)に着いた。面倒なくて助かる。


コンセントに電源プラグを挿し込んで温風機のスイッチを入れた。

少し待てば運転開始。小型で安価な割には暖房効率に優れた逸品。

塞のある地域も雪国に含まれる。冬は雪が降って当たり前の土地。


「罪を犯して死を迎えた者は地獄とかいう場所に送られると()う。

しかし、灼熱(しゃくねつ)地獄や極寒地獄は葬られた善人でも味わえる責苦だ。

死後の肉体と神経は繋がっていなくても観想したなら感じ取れる。

土に還る遺灰は直射日光の熱さや冬場の冷えを味わう破目となる。

生きているうちだね。ストーブで身体を温めながら程良く冷えた

アルコールを飲んで寛げるという贅沢ができるのも。ありがとう」

アルコールがよく作用して、もっちーが機嫌良く喋って聞かせた。

感謝の五文字が感謝される程度のことをしてなくても嬉しく思う。

「礼なんて必要ねーよ。荼毘に付されるのも失礼な喩えだろうが

灼熱地獄そのもの。墓の下に収納されりゃ冷気と湿度が気になる」

この人と向かい合って過ごす時間が懐かしい。オカルトにホラー。

そういった話題を()()きと解説してくれた部長が目の前にいる。


「無為、そう評価されても弁解できないような人生だったと思う。

持病が悪化して死に至ったら大喜びしたほど最悪な病状だったし

最悪だった状態から救い出してもらえたことは奇跡の魔法だった」

飲み物を口に運んだ。本来の進行から外れるところも俺の悪い癖。

「過去形で語れるなら気にする必要ない。過ぎ去った出来事だと

切り離してしまって、もっと気を楽にしろ。重荷なんか背負うな」

珍しく命令形を使った言葉を耳に入れてきた。普段は控えめでも

(まれ)(あら)っぽい口調を聞かせてくれた。開けなくていい秘密の扉だ。


学校時代、七年生春の放課後も今じゃ別の視点から眺められる話。

この人の背景を覗きたいと思わない。俺には望月部長で充分だし。


「無為という言葉を()(ざま)に捉えるとネガティブな印象になるが

本来は良い意味で使われる。否定語と結びつくと悪い方に転がる。

調べると『自然』を表す意味を持ってるし、何もしないじゃない。

無為にして化すという言葉もある。ありのままの自然体でいよう」


何もせず無意味に過ごすという意味で捉えていたのは確かだった。


でも、地面じゃねぇんだ。自然体でいたら春には草木が芽吹いて

夏の陽射しで緑の葉を煌かせ、秋風に吹かれて儚い終息を迎える。

冬は雌伏(しふく)の時期、土の中で春の訪れを待ち続ける…とはいかねえ。

持って生まれた『徳』がなけりゃ自然体なんて芸当は通用しない。


どれだけ待っても受粉した種のない地表から芽が出ることはない。


「新しくなった時代の酒は混ざり物が多く含まれているようだね。

我々と同じ不自然な化合物(かごうぶつ)に頼って熱量(カロリー)を控えめに売り出した酒。

それでも香りや口当たりの良さに誤魔化されたらしく飲み干した。

きっと売上げの多い商品だったんだね。私も安かったら手に取る」


自分の財布出して商品を購入する様子が想像できない先輩の感想。


病院に勤めてた頃、愛飲していた梅酒は団体の女性信者お手製の

品だったそうだ。献上品を喜んでた笑顔。確かに美味かったけど。


あの独特な囲いの中でマイペースを貫いてたのは普通じゃねーよ。


普通と違った望月漲を好きなだけ利用してた腹黒野郎が俺だった。

故郷から遠く離れた西の都会へ流れ着いた俺が次第に体調を崩し

診てもらう病院に事欠いて雀の涙程度の金銭で弱者の支援団体の

信者となって潜り込んだら医師が学校時代の同級生だったとは…。


もっちーが早くも空にした缶を持って出て、もう1缶取り出した。

「高級な酒は飲まないから部屋にないんだ。これで我慢してくれ」

塞の商品倉庫から持ち出した既に賞味期限が切れた麦酒(ビール)を置いた。

「随分と寝かせた麦酒になるね。毎日が発見と研鑚(けんさん)の積み重ねだ」

言いながら缶の蓋を開けて、発言を終えた口にご褒美を与えてる。


普通の麦酒だ。缶に表示される原材料名は最低限で保存料無添加。


不味(まず)かったら飲むのは止めて。腹を壊しても責任取れねぇから」

念のための注意書きみたいに言葉の釘を刺しとく。明日は土曜だ。

偶には二日酔いだのの理由で保護者全員休養する日があっていい。


新しいカレンダーはない。テーブルに卓上用の万年暦(まんねんごよみ)を置いてる。

これも開け放たれた雑貨店から頂戴した品物だ。盗品とも言える。

捕らえる者が現れなくても心に刻まれる罪悪感をずっと引き摺る。

金銭という手放す代償は、文明社会で生きていくのに欠かせない。

万年暦を確認すると罪の意識に囚われ、罪を(とが)める。身に沁みた。


「風呂といえば水が必要不可欠だったね。ハシムは知ってるか?」

缶麦酒の飲み口から離した口で含みを持たせた調子で訊いてきた。

「この宿舎と塞の水道水は掃除班の三人が()んできてることか?」

部長を酔わせるつもりじゃなかったけど、そっちの流れに傾いた。

どうでもいい酔いに任せた雑談に付き合う予定じゃなかったのに。

「そのとおり、調理には使うなと注意されたが口には入れられる。

歯磨きするときコップ1杯の口を(すす)ぐ水がないと困るものだから。

かつての水道水と同程度の塩素を混入させてると花田が話したが

貯水池まで専用車を走らせ、水を詰め込んで建物の給水タンクに

入れ替える仕事を請け負ってくれる者たちがいるんだ。有難いね」

その御蔭様を知ってる所為で毎日欠かさず風呂に入れなくなった。

シャワーを浴びる時間も短い時間で手早く済ませるようにしてた。


建物の給水タンクの水量は花田か桜庭がチェックしてるんだろう。

この宿舎で暮らしてから蛇口から水が出て来ないことがなかった。

断水の経験をせず生きてられるのも面倒を請け負ってる者の御蔭。

何事も陰になって時間と労力を提供してくれる者が控えてるから

不自由なく暮らせる。日常の飲料水もポリタンクに詰めたものを

わざわざ配達してもらってる。近くの湧水(わきみず)から汲んだ天然の清水。


沸かして飲むよう言われたが、汲みたては普通に美味しく飲める。

時間が経つと苔っぽい匂いが少し気になる天と地が濾過した水だ。

炊飯とか様々な形で調理に使用したけど、腹を壊した経験はない。

掃除班の連中が配っていくポリタンクから浄水機能付きポットに

移して冷蔵庫で保管してる。夏場は冷蔵庫に入れないと不安だが

冬の台所ならポリタンクを(じか)に置いてる。天然の冷蔵庫と同じだ。


「私の記憶に間違いなければ、この製造元の麦酒は結構な高値だ。

これでも特売日のスーパーに出かけて購入した経験は何度もある。

純粋に麦酒と呼べない低価格品も悪くないけど、昔ながらの品が

安心できて()心地好(ごこちい)い。心の天秤(てんびん)は体調や環境、些細な要素で

指し示す数値がクルクル変化して、全く当てにならない天秤だが」


缶を空けた望月部長の顔が紅潮(こうちょう)してるのを確認。部員の任務発生。

席を立って、冷蔵庫に仕舞っている同じ麦酒缶を献上(けんじょう)することに。


部屋に呼び出して飲ませるのが目的じゃない。切り出せないだけ。


ソファの自分の位置に腰かけ、頭を抱えたくなる気持ちを(こら)えた。

考えてみりゃ向かいに座って麦酒を飲んでる望月部長は学校じゃ

計量しない者の代表だった。十年生秋には重曹事件を起こしてる。

パンケーキの生地に入れるベーキングパウダーを大量に投入して

出来上がった料理を試食した一組全生徒の舌が酷い被害を(こうむ)った。

レシピの分量を見て計測するってことを忘れる困ったヤツなのに

一度も医療事故を起こさなかったのが奇跡なんじゃねえかと思う。


元耳鼻咽喉科(もとじびいんこうか)勤務医(きんむい)自力(じりき)万能医(ばんのうい)へとバージョンアップして

時代と国境を飛び越えた長い旅路の終着駅がバケモノの仲間入り。

開けて覗きたくない扉を自ら開ける破目(はめ)(おちい)った事態も数知れず

経験したんだろう。アバウトな部分を持ってるのが隠れた魅力と

前向きに捉えてやろう。キッチリしてたら耐えられなかった境遇。


「ハシムが出してくれる酒は不可解と言いたくなるほど不思議だ」

黙って麦酒を口に運んでたかと思ったら放課後の部活動の再開か?

「不可解って、お約束の発言だな。商品倉庫に貯蔵されてた酒を

持ち出して冷蔵庫に入れといただけ。タネや仕掛けの仕込みなし」

いくら不可解でも嘘偽りなく俺が話した通りの行動しかしてない。

「それでも三十年くらい前の賑わった時期を思い出させる味だよ。

爆撃蹂躙の憂き目から立ち上がり、活気に満ちていた頃の味わい」

もっちーが機嫌良さそうな笑顔を見せてくれるのは嬉しいけどさ。


飲食物の時間の流れを調整して停滞(ていたい)を保ってるだけ。

本来なら停滞の先に待ち構える(よど)んだ自己、それを

()()たりにして深く絶望する。流れを塞き止めて

良い筈ない。循環(じゅんかん)から外れて目出度(めでた)しとはいかない。

世界は不自然なバケモノを封じ込めたパンドラの箱。


無為(むい)に生きた人間として言わせてほしい。絶望より希望がほしい。


「僕の予想が的中した。こんな雰囲気(ふんいき)の光景が()けて見えていた」

()硝子(ガラス)()めた引き戸が開いたと思ったら入浴後の花田だった。

反射的に壁掛け時計へ視線を向ける俺。時刻は午後九時ジャスト。

「空きっ腹じゃなくても酒の(さかな)なしじゃ飲みの楽しみが半減する。

待ってろ。僕が用意してやる。(たま)には愉快に過ごす晩も悪くない」

参加しようって魂胆(こんたん)なんだろうか? 狸猫は可成(かな)り酒癖が悪そう。

「台所に保存してる食品を使って調理する。話の続きでもしてろ」

言いながら冷凍庫を開けて冷凍食品を取り出してる音が聞こえた。

確かに酒ばかり出して肴を忘れてる俺の方が間抜けなのに気づく。


「気の利く男が現れて都合よく動き出した。今宵(こよい)は良い流れだね」


返事する気になれない。久し振りに帰って歓迎してもらえてると

自分を持ち上げる気になるのは無理だった。面倒な流れに入った。


「酒のつまみ、完全に頭から抜け落ちてたんだ。気が利かなくて」

ヘボ部員が部長に向かって頭を下げた図を浮き上がって見る気分。

「自分を責める必要ない。私が望んだ展開だよ。何が出てくるか

(たの)しみに待ってよう。酒の肴なしじゃ飲みの楽しみが半減するし」

つまみがほしかったら自然体のまま言ってくれりゃ良かったのに

こっちだって多少の料理は出来る。西の都会で生活してたんだし

基本は自炊だったから適当でも出せる。寄宿舎仲間(きしゅくしゃなかま)だった花田の

料理の腕を知ってて登場するのを待ち望んでたのかもしれねぇが。


「酒の肴が運ばれるまで間を持たせる取って置きの怪談を披ろ?

ハシム、これは上官命令だよ! つまらない話を傾聴(けいちょう)する勉強だ。

まずは顔から聞く姿勢を表してくれ。愉しそうな素振(そぶ)りの表情で」


望月漲が得意とする『心からの笑顔』の手本を作って見せていた。


この表情だけは「演技が上手い」と評価されそうな部分だと思う。

学校では低学年の頃「泣き虫もっちー」と呼ばれた控えめな生徒。

それでいて(まれ)に下手な演技も見せてくれた不思議な羊猫だったな。


二名の部員の交際話に刺激を受けた部長は同じ寄宿舎生の女子に

好意を持ってたんじゃないかとチアキと二人でいるとき(うわさ)してた。

どうやっても勝ち目のない(いくさ)を愉しんでるとしか思えない片思い。

七年生の春、二人の見学者を迎えた放課後も言動が普段と違って

悪どい感じ。彼女のこと勧誘(かんゆう)してたし、二人は心の中で笑ってた。

本当に女子と公表されたのは八年生だけど寄宿舎生なら以前から

気づいててもおかしくない。長身で不機嫌そうに押し殺した声も

魅力と感じ取りゃ側に置きたくなるかもな。俺は身長でパスだが。


学校と寄宿舎の狭い世界の中で様々な心模様を描いてた望月部長。


掴み所の無い人物が雨上がりに晴れ渡る空のような笑顔を見せる。

うちの家族が惹き付けられた魅力の持ち主だったのは嘘じゃない。


大人たちの関心を掴んだ学習発表会の一組の演劇で見せた笑顔が

七年生春、緊急検証部創設の鍵になったんだ。魔法仕掛けの笑顔。

それまで関わらなかったのが勿体無(もったいな)いほど博識(はくしき)で色々聞き入った

放課後を過ごせた。遠い知らない場所について案内してもらうと

空想でも部員の三人が実際に旅してる錯覚に浸れて、楽しかった。


実際に導かれ…辿り着いた場所は『時間の淵』と思い知る停滞…。


「ハシムは長旅で疲れてるようだね。心が違う場所に飛んでるよ」

缶麦酒をテーブルに置き、両手を組んだ姿勢を見せた部長がいた。

「あ、悪かった。えぇと、上官殿の命令を聞く訓練だったっけ?」

誤魔化すよう口に飲み物を軽く含んだ。人の話はちゃんと聞こう。

「そう。だから、まず手始めに何をしたらいいのかは憶えてるね」


「笑顔、もっちーの笑顔を見てたら学校時代のこと思い出してさ

つまんねぇ怪談も懐かしいよ。出だしでオチまで読めちゃうヤツ」

「とりあえず傾聴できる姿勢を見せてもらえたから話してみよう。

といっても、眼鏡無しだからハシムの表情は気配で読み取ってる。

泣き言は封印したくても生きていると恥を重ねてばかりが現実だ。

今朝も顔を洗って身支度を整え、出てきたつもりでも塞の女子に

耳と前髪に泡が残ってると物陰で指摘された始末。洗濯をしても

きれいに汚れが落ちてるのか確認できないんだよ。実は困ってる。

それでも返せとは言えない。あの女子から明瞭な視界を奪えない」

泣きそうな笑顔、これが望月漲の作ってない表情だと理解できた。


自分の名前と年齢を思い出せない美少女、学校時代から長いこと

ラジオのパーソナリティしていた元アイドルの名で呼ばれる女子。


単に言いたくないだけじゃねぇかな。言ったら恥ずかしい類の…。

書いても読み難い字って可能性もある。名前は面倒なもんだから

名付けられた子が苦労するんだ。そういう俺も説明が必要な名前。

学校の通学生仲間は入学前から「レイ君」なんて呼ぶのもいたし。


目付きの悪さから視力に異常があると判断して自分の銀縁眼鏡を

与えてやったそうだが、他に残ってる眼鏡を使うとか無理なのか?

処方箋(しょほうせん)で眼鏡を作る職人がいなくても他に手は打てそうだけど…。

もっちーの分厚(ぶあつ)いレンズの眼鏡が合うなんて特殊(とくしゅ)なタイプの女子、

実は娘でしたってオチじゃねぇの。視力の悪さも父親譲りってさ。


声に出せない。台所で料理してるサトリの狸猫には聞こえてるか?


「周りの意見に流されるつもりなどないクセに聞き耳を立てるな」

魔法?と錯覚するくらい気づかぬうちにテーブルの上に置かれた

つまみの皿があった。喋ってない言葉に返答するのが狸猫の習性。

自分の右眼を閉じて俺に釘を刺してる。ツッコまれるべき存在は

自分だと知っていながら場を(なご)ませようとしてることに気づいた。


「あ、厚揚(あつあ)げを焼いたんだね。生姜醤油(しょうがじょうゆ)の良い香りで美味(うま)そうだ」

眼鏡無しの近眼先生も分かったらしい。嬉しそうに綻んだ笑顔で

逸早(いちはや)く割り箸を右手に持ち、誰より先に箸を付けようとしている。

「解凍後、片栗粉に(まぶ)して胡麻油と味醂(みりん)多めの生姜醤油で炒めた。

こういった食材も贅沢品だ。来春からは生産の作業に取り掛かる」

「畑仕事や建築まで器用に熟す人が姿を消してしまって困ったね。

放り出すような性質じゃないと信じてたけど、事情を知らないし

寒さに震えて春の訪れを待つ気分でいよう。きっと戻ってくるよ」

茶色く味の絡んだ厚揚げの群れが白い湯気を立てる皿に割り箸を

伸ばした。羊の先生は嘆き苦しむ姿を見せないよう努めてるんだ。


何事もなく過ぎていく時間の中に封じ込められていく情報の数々。


「酎ハイだと思ってたら緑茶の缶とは…。禁煙に続いて禁酒か?」

俺が手に持ってる緑色の缶を見た花田が毒針の吹き矢を飛ばした。

飲酒に逃げる気分になれなかった。誰かの発言に耳を貸す時間も

村の淵で泳いだ頃は滅多になかったこと。人間同士の(まじ)わりから

遠ざかっていた時分(じぶん)が長かった所為なのか人間らしい振舞(ふるま)いにも

戸惑(とまど)いを感じ続ける日常生活。食べ物のニオイに心が奪われない。


どうして、こいつらは普通の人間のままで居続けられるんだろう?


「その答えは自分で見つけて出すべき。ヒントなんて出すものか」

心の声に無用な返事して、サトリの狸猫こと花田は台所に戻った。

「コレ、美味いよ。ハシムは食べなくて大丈夫?…美味いけどな」

視力に関係ない上手な箸使いで何度も厚揚げを口に運ぶ望月部長。

チーズの焦げるニオイが漂う。オーブンレンジを利用してピザか

グラタンみたいなもんを作ってるんだろう。本当よく動けるよな。


個人の部屋だなんて胸を張って言えない。仮住まいに近い居場所。


金銭が動かなくなって停滞した世界に強い不安を感じている以上、

まだ自分は人間なんだと信じたい。死ねないバケモノであっても。


「完全に復調するまで時間を要する場合もある。暢気(のんき)に過ごそう」


ゆっくり飲食を愉しむ学校時代からの友人が贈った心遣いの一言。

調子が戻ってないと思うことにする。俺の地面は空の雲に隠れて

陽射(ひざ)しが届いてない状態だ。そのうち晴れた日にだって出会える。

水生動物だった時間が長過ぎて、すっかり孤独に馴染んでただけ。


食事や会話が苦手になっても人間は口を使わなきゃ生きてけない。


言葉を使ったコミュニケーションで思いを伝える必要があるから

言わなきゃ先へ進めない。より良い未来を目指して一歩ずつ前へ。

言葉を持たないと思える生き物も鳴き声や身振りで意思表示する。

どんな生き物も好き嫌いその他の意思を各々で持ってるようだし

俺という人間を装ったバケモノも同い年の先輩に意思を伝えたい。


舞台の袖だか裏側に潜んでる連中に逢って話し合おうと誘いたい。


アラーム音が鳴った。電気仕掛けの機械でも音や光を使って連絡。

直接向かい合って、お互いの意思を伝え合ったら明るい春が来る?


春よ来い。我儘をぶちまけるとコーラルの魚は村の淵に帰りたい。


「横になって休んだ方がいいと思うなら、お(いとま)させてもらうけど」

さっきから気遣う相手の呼気には少しも酒の匂いが混じってない。

向かい合う者に(いささ)かの不快さを感じさせないのが物凄い不思議だ。

洗顔の泡を残して歩いても耳の垢みたいに顔を(ひそ)められない先生。


村の学校で初めて見たときの印象は百年以上経っても変わらない。


昔に比べりゃ草臥れた容貌になってるが不思議なほど透明な空気。

昔の話を思い出してみることが扉を開く鍵になるような気がする。


「高野豆腐の生地に具は冷凍ミートソースを使って焼いたピザだ」

部屋にある食材と器の位置を全部把握してるとしか思えない男が

大きな皿に切り分けた四角いピザを置いてった。熱々とした音を

聞かせる所為か、羊の先生は迂闊(うかつ)に手を出すのを躊躇(ためら)ってる様子。


料理人の手で生命力を新たに吹き込まれ、食材は新たな姿を得る。

そう考えると食事は有難いと思う。料理されて生まれ変わった命。

犠牲と嘆くより感謝の気持ちで腹に収め、活かして生きていこう。


水で戻した高野豆腐を5ミリ程度の薄さに切り広げるのは手間だ。

好きじゃなきゃ作らねぇ糖質控えめの料理だな。俺なら遠慮する。

食材が乏しい。それが理由でも狸猫の親友してた存在がチラつく。

俺に狸猫の渾名を教えたヤツは学校時代の隠れた悪友だったんだ。

以前の村では自宅を訪ねるような付き合いじゃなかった筈なのに

今回は漫画の貸し借りから親しい仲に。以前と違う箇所といえば

ギターを弾かなくなってたのが一番大きい。元から音痴(おんち)だったが

見た目が別人みたいに変わっていた。変身。誰か操作してるのか?


自分がバケモノであることに気づいてからは

変身を繰り返して遊んでたかのように映った。

あいつの正体は…以前と現在…どっちなんだ?


「元級長から御馳走を出してもらえて有難い。他者との繋がりを

面倒のタネみたいに(うと)ましく感じ取る必要ない。空模様と同じく

気長に構えるのがいいだろうね。熱かったら手を出さないに限る」


まだピザからチーズの()ねる音が小さく聞こえて手を出せないと

言いたい様子。気長に構えてられる刻限(こくげん)は一体いつまでなんだよ?


春を待っても春が来なかったら、春を呼ぶ儀式でもするつもりか?


「さっきから何度も頭上に疑問符を乗せてるな。そのうち電灯も

点けるつもりなのか? 僕は声が五月蠅くて、非常に迷惑してる」

湯気を立てた紙コップを持ってきた花田。煎茶(せんちゃ)()れたんだろう。

ソファには腰かけず、座布団を置いてない床の上に胡坐(あぐら)かいてる。

住人の俺より居心地良く過ごしてる感じ。勝手に出入りしてるし。

「私の助言など不要だろうが、心の声に聞き耳を立てる必要ない。

それより花田も酒を付き合わないか? 何故なのか美味い麦酒だ」

羊の先生が声をかけると誰でも年下になった錯覚に陥ると思うよ。

学校時代から子供扱いされてきた。活動時間は千数百年余の先生。

それが本当なら受け入れて曾孫(ひまご)みたいに甘えた方が無難だろうな。


「止めておく。僕に予知する能力はないが鼬の様子で先読み可能」


追跡無双の鼬の先生が動くなら塞の女子たちにトラブル発生だな。

塞の隅々に鼬の監視が行き届いてる。抜け出せない迷宮に似てる。

陰湿な無視とかに()を上げて逃げ出すのも許されないのは可哀想。

言いたかないが強制収容所同然だ。不自由の中、懸命に生きてる。


「村元は昔と変わったな。陰鬱な思考に囚われたら心身に悪影響。

学校時代は自宅物置でボヤ騒ぎを起こして謹慎(きんしん)を言い渡されても

どこ吹く風といった調子、何事にも動じない大山(たいざん)のようだったが。

飛島(とびしま)八木橋(やぎはし)は、村元の側にいると安心できたから友人だった筈」

花田の口から懐かしい二人の名前が出た。二度と逢えない級友だ。


俺がケン坊の陰になることで彼女を淵から村へ帰すことが出来た。

だからって恩着せがましい気持ちにはなれない。以前の世界でも

筒井由子(つつい よしこ)はケン坊の身代わりとして村の淵へ我が身を沈めたんだ。


ケン坊は女装が好評を博すほどの容姿、淵主様の心を掴んで当然。


どうして淵主様(えんしゅさま)が従者を求める情報を知ったか謎だが、ケン坊の

代わりに仕事を務めたのは相当な度胸の持ち主である証拠だろう。

昼夜問わず淵主様の側に寄り添い、言葉を傾聴し、尽くし続けた。


現在の世界ではケン坊が三十一歳のとき彼女と再会させてやれた。


仕掛けは単純。淵に現れたコーラルの魚が淵主様の歓心(かんしん)を買って

新しく(つか)えることになったってだけ。女装までした甲斐(かい)があった。

淵の底に佇む謎の存在は美貌(びぼう)の持ち主を側に置きたい性質らしい。

首を支えてやらなくても紅い人魚の姿を眺めて満悦(まんえつ)してた淵主様。


ケン坊とチアキは、人間として一生を終えた。目出度し目出度し。


俺は大山じゃない。今じゃ紅い小魚だ。緩やかな流れで泳ぎたい。

しかし、こんな現状に手を打てない以上は地面に留まるしかない。

時には紅い人魚に化けることもある時間の淵で泳ぐ魚に戻りたい。


淵の奥底、許可無き者は侵入厳禁の領域へ侵入したら…きっと…。


「何が目的で望月を部屋に呼び出したのかは承知した。代わりに

話をまとめてやろう。それは兎も角、僕も村元たちに同行しよう。

現在は降雪(こうせつ)した道路を除排雪(じょはいせつ)する者がいないのだ。人手が必要だ」

花田が勝手に話を進めている。ただでさえ面倒な展開に同行って?

「ん?…雪中行軍(せっちゅうこうぐん)の話でも始めるつもり?…極寒に備えた装備が

重要だって教えてくれる本当にあった出来事だね。現在の人間が

誤った道を進まないように導いてくれる道標(みちしるべ)となった犠牲者たち」

もっちーのズレた言動、酔ってなくても通常なのはよく知ってる。

「そうだ。望月、僕たち三名で雪中行軍をしないと道が開けない」

花田は左眼一つの鬼軍曹降臨(おにぐんそうこうりん)状態で部長を見た。混沌(こんとん)とした沈黙。


「私が雪道にトラウマを持ってると知った上で北へ向かう気か?」


もっちーが見て分かるくらい冷めた表情を浮かべた。嫌悪と拒絶。

「望月が出向けば大雪も雪、雪は雨に変わる。おまえに言いたい。

学校時代は校長の孫の世話に免じ除雪作業に参加させなかったが

歩ける体力があるのならスコップを持って道を切り開いて進もう」


早朝の学校で除雪作業やってた四人のことはチアキから聞いてた。

一組と二組から二人ずつが代表して前庭の雪を片付けてたそうだ。

一組は級長と副級長のコンビが早起きして頑張ってくれたんだよ。

御蔭で俺たち通学生は登校時間に雪の(やぶ)を踏んだ覚えがなかった。

何も考えず歩いてたけど黙って働いてくれた仲間たちがいた御蔭。


で、もっちーが世話した成長の遅い同級生の別な姿を知ってると

胸中は少々複雑になる。慈友(じゆう)君は以前を知りながら黙認(もくにん)していた?


以前を知る現在、羊の先生をおまえ呼ばわりする鬼軍曹に小魚は

何も言い返せない。長い時間を生きてきた先輩が吐き出した言葉。


否定も肯定も出来ない。空気という自然になって沈黙を守るだけ。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


しばらくの沈黙を自ら破った。目を伏せて誰の姿も捉えてない様子。


「今から三十年ほど前、私は白い賽子みたいな喫茶店に入ったとき

あの場にいた全員から糾弾(きゅうだん)されるのを覚悟していたんだけどなぁ…。

誰一人として羊猫に詰め寄る者がいなかった。それが不思議だった。

普通に食事をして食後の飲み物まで出て、平静を装うのに苦労した。

何故キミたちは黙ってた? 御蔭で落ち着かない。今も悪い夢の中」


悪い夢。現状を含めて全員同じ悪い夢の中を漂う仲間なんだと思う。


発言した者はソファに腰かけてるのに、まるで罪を犯した者を崖に

追い詰めるような光景を重ねていた。彼の味方でいたいと願っても。


「あの日の喫茶店の様子を思い起こしたら自分で答えを出せる筈だ。

喫茶店にいた仲間全員が現実から視線を()らしてたのだ。仕方ない」

まだ湯気を立てる紙コップで両手を温めるような姿勢の鬼軍曹の声。

「ああ、そういえば花田はタブレットに向かって文章を打っていた。

あの可成り長くなりそうな手紙は綴り終えたのかな? まだ途中?」

追い詰める探偵役を鷹揚(おうよう)な態度で(かわ)そうとする犯人みたいに見えた。

「もう終らせた。白い賽子の中に引き籠って長い手紙を綴っていた

あの頃は自己顕示欲(じこけんじよく)承認欲求(しょうにんよっきゅう)肥大(ひだい)していたと自己反省している。

あの当時は自己発信する情報に溢れていた時代、僕も()まれたのだ。

思い返すと物凄く巨大な蜘蛛(くも)()、様々な情報の巣が広がっていた」

発言した後、遼遠を臨む眼差しで軽く音を立てて茶を(すす)ってみせた。


俺の知らない時期、皆それぞれ世間と関わり続けて生きていたんだ。

俺は時間の停滞した浄土を漂って過ごしていた。死んでるのに近い。


バケモノである俺たちは全員で死後の世界を漂って夢を見続けてる。


「情報の海は便利なようで儚かったね。キミが一年生の夏期休暇に

描いた金魚の絵をスキャンして放したけれど、もう見れなくなった。

当時の私も囚われてた籠から出た勢いで気持ちだけは高揚していた」

伏せた瞳が遠い時代を眺めるように動いてる。正直な心情の吐露(とろ)だ。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


白文鳥と羊猫が車中生活してた頃、狸猫と三人で淵を訪ねてくれた。


「恥ずかしながら復活した」照れ笑いした顔でギターを弾きながら

歌って聴かせた斎藤、三人とも穏やかな表情してた。温かな思い出。

花田は鉄板を出して焼きそば作って「村元、食べろ」一皿もらって

内心イヤイヤだったけど食ってみたらスゲェ美味くて完食したっけ。


羊猫の先生は透明度の高い『時間の淵』に興味津々な瞳を輝かせた。

底に佇む淵主様の姿を視たのかも。俺にも思春期の少年かよ?って

視線を向けてたのが笑える。俺が見世物の(あか)い人魚の姿してたから。



時の流れ、生命の循環から外れたバケモノ四人の平穏で幸せな記憶。



真っ新な布きれになってたから幸せを享受できたと端くれは思った。

恥や罪の記憶は洗い流され清められた。真っ新な布きれだから幸せ。


名前や記憶に囚われない極楽浄土。学校は全員の幸せな思い出の地。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


「僕は将来の夢を持ってる。夢を実現するには現状の打破が不可欠。

目的達成のためなら苦労は惜しまぬ所存。風邪を引いてる暇もない」

煎茶を飲み干した花田が言った。バケモノが将来の夢を持つなんて

不思議な気もするが、普通の人間らしく過ごしたくて何とかしたい

気持ちは俺にも伝わった。市井(しせい)(まぎ)れて平穏な日常を送りたいんだ。


「それで冬の最中、雪道を除雪しながらでも交渉に向かいたいのか」

温和な表情を取り戻した羊の先生が両眼を伏せたまま花田に言った。

「そうだ。僕は流行(はや)らなくても通りすがりの客を相手に商売したい。

学校のあった村にあったモガミ屋みたいな店を経営してみたいのだ。

立地は学校かバス停付近を希望したい。テーブルは三台あれば充分。

大判焼きと焼きそばを売りにする。焼きそば(小)は児童の小遣いで

食べられる値段の具は玉葱だけのオヤツ、大人向けには玉菜と肉を

入れた商品も用意する。空腹を満たして、ゆっくりと過ごせる場所。

ほうじ茶は飲み放題、真夏でも冷たい飲み物は客に出してやらない。

牢獄世界に生きる者を正しき道へ案内するため力を尽くしてきたが

(しば)しの休息。現状打破した後の世に平穏な時間と場所を提供したい」

遠い昔から狸猫の大将は長いこと飲食業を経験してきたと聞いてる。

猛暑(もうしょ)でも氷菓子を食わない主義で、大汗かいて熱い茶を飲む変タ…。

「まずは客が来ないと話にならないし、食材の仕入れをするために

生産と流通を再開させなければいけない。花田は停滞してる世界を

(はら)いたい気持ちなんだね。それで…私を交渉の場に立たせたいと…」

「そういうことになる。望月がアメトリン・カテドラルへ進行しろ。

小魚泥棒(こざかなどろぼう)は停滞の続行しか出来ないのだ。それじゃ何の意味もない。

舞台の袖裏に(ひか)えている連中は望月漲の登場を()()びている筈だ。

生存者の捜索も重要だろうが、おまえの意思を舞台裏に伝えるべき」

舞台裏か。牢獄世界は表舞台で舞台の袖裏がある。そこへ行けと…?

「三十年ほど前、白文鳥と共に村の山まで行って二柱の神に詫びた。

二人とも魂を消される覚悟だったが一笑(いっしょう)()され、帰されたんだよ。

しかし、こんな現状となった。彼らじゃない何者かの意志を感じる。

谷地では(らち)が明かないと言うつもりなら、私が行っても構わないが」

もっちーは伏せてた目蓋を上げ、大きな瞳で花田の顔を見て言った。

「良かった。本当に助かる。道中の運転は新参者の俺が務めるから」

花田に車のハンドル握らせるのは厄介だ。一組の全員、一年生から

思い知ってる。具体例を挙げりゃキリがない。完治不能の方向音痴。

右と左の区別が曖昧(あいまい)でも生きていけるって歩く標本みてぇな男だし。


「僕に聴かれてると知りつつ短所を論うとは命知らずの新参者だな。

まぁいい、出発の準備をしよう。防寒具に食料と除雪の作業…あ!」


喋りながら空の紙コップをテーブルに置くと、小さな目を見開いた。

「村元、谷地と北に向かった日と帰ってきた日をよく考えてみろ!」

少しばかり興奮した声色になった花田が俺の方を向いての上官命令。


学校時代に聞いた怪談のネタにも多くあった戦地を彷徨(さまよ)う兵士の霊。

兵士は上官の都合よく動かされる(こま)。命令に従う動く人形みてぇだ。

死んだ後も上官の命令に従うパターンが虚しい。自分の家に帰れよ。

死んだら装備を()いて気に入ってる格好に着替えろって思うけどな。

兵隊さんを見習いたい箇所(かしょ)は…俺と違って集団行動できるところ…。


話を逸らしてる暇はなかった。俺と鼠の親分が宿舎から車を出して

北へ向かったのは今年の初夏だった。色々と記憶が抜け落ちて

思い出せない部分が多い。俺が同行する必要あったのか?


「ほら、黙り込んでる。記憶がない空白の期間、小魚泥棒に体良(ていよ)

()き使われた証明。北の街にある御堂(おどう)()(こも)り夏を過ごしたのだ。

管理する者がいない状態だから、掃除など手伝わされたに違いない」

記憶がない空白だらけの長期出張してた。そいつは間違いない事実。

「北の街にある御堂? そんなとこに車で向かった覚えないんだが」

北の街は村と隣接(りんせつ)した市街のことを()してるのは何となく分かった。

「下っ端が余計な部分を知る必要ない。上官の配慮だと思えばいい」

薄い笑みを浮かべ、こっちを下っ端呼ばわりする序列九位の元女児。

「要は運転手を小魚泥棒にすれば話が早いのだ。すっかり忘れてた」

「彼を忘れるとは酷いね。いい加減に小魚泥棒という渾名も止し…」

テーブルの紙コップを握り潰すと立ち上がってゴミ箱へ放り込んで

「村元、トイレを借りる。しばらく引き籠るが失礼な誤解はするな」

雑音のない身動きで自分の靴を手に素早く玄関脇の扉の中へ隠れた。


元九歳女児の言動はオカルトを通り越した不可解さに満ち溢れてる。


「普段から聴く必要のない声が耳に届いて大変らしい。誰かの声を

聴きつけたに違いないね。私たちも様子を見てみることにしようか」

花田が視界から消えて安心したのか、再び麦酒に口をつけてみせた。

心の声に気を逸らし、先生の言葉を聞かない花田こそ失礼の極みだ。


灯りを点けない化粧室(トイレ)は真っ暗、ずっと掃除してないのに気づいた。

黒カビが発生してるのは間違いねぇだろうな。洗剤を入手しねぇと。


花田と鼬の先生との遣り取りを思い出す。花田の行動は怪しさ満点。


そいつを指摘すりゃ面倒なのが目に見えてるから誰も言わないだけ。

格好は辛うじて普通に近い。紺とグレーとカーキが好みの色らしく

学校時代から私服は好きな三色を使用した組み合わせで着ていたが

今じゃ以前の学校でも身に着けてた空色のアームカバーが気になる。

今も肘まで袖を捲った濃紺のデニムシャツから覗いた雲一つない空。


あいつは狸猫を元親友と遠ざけているが…化粧室に籠ってる方は…。


ドアチャイムが鳴り響いた。この時点で言えるのは外に立つ人物が

花田と比べるまでもなく最低限の一般常識を身に付けた者ってこと。

誰であろうと俺の先輩であるのは間違いねぇな。まずは話を聞こう。


ドアホンを手に取ってみると男の子…鼠の親分の声が聞こえてきた。


子供扱いは失礼だけど十六歳過ぎても変声期を迎えてないって意味。

あいつは少年探偵団呼ばわり。暗に声変わりしてないと指摘してた。

少年が大きな理由を抱えてることに気づいてからは止めた呼び名だ。


もっちーに用があるらしい。部屋で飲んでると告げて玄関を開けた。


玄関の三和土(たたき)に並ぶ履き物は、住人の俺に客として招いた先生の靴。

それ以外の人物を捜すような瞳の動きをさせたのが少し気になった。


この時間になって俺の部屋を訪ねてきたのは、享年十六だった少年。

普段の女装を完全に解除して、懐かしくも忌まわしい梅雨の午後を

思い起こさせる風貌。耳を澄ますと雨音を感じる。冷たい雨の夜か。


「俺の部屋は二階だから五階まで上がるのキツイな。ナギちゃんも

部屋は二階だけど訪ねたら留守だったんで、推理に時間がかかった」

少年探偵団の一員みたいな発言して無邪気と騙される笑顔を見せた。

トイレに籠ったヤツが謎だが、靴を脱いで上がるよう谷地を促した。

「あ、その…花田は…斎藤か桜庭の部屋に出かけてるんだろうか?」

花田は俺の隣人でもある。それで訊いたと思っとこう。有耶無耶(うやむや)

濁すようにして知らないと答えた。どっちも怒らせると面倒な御仁(ごじん)

「そうか。いや、実を言うと部屋を間違えたんだよ。最初に隣りの

花田の部屋を訪問したんだ。…で、つい魔が差して上がってみたら

コント仕掛けの笑える部屋だったんだ。おまえ、入ったことある?」

首を横に振るしかできなかった。魔が差した行動の選択が運の尽き。

「笑うしかねえ仕掛けだった。ここは基本的に誰も施錠(せじょう)しねぇから

侵入者を歓迎というか混乱状態に陥れようってぇ魂胆なんだろうな。

四桁の数字合わせの南京錠をかけた金庫の中身が凄まじくて笑えた。

あの巫山戯(ふざけ)た数列を売り場で探してる場面を想像しただけで大笑い」

好奇心旺盛(こうきしんおうせい)なタイプの少年が魔窟(まくつ)に入った代償、どう支払わされる?

「兎に角まぁ、笑いの仕込みは悪くなかった。短い時間で楽しめた。

それにしても食いもんの良い匂いさせてんなぁ。生姜焼きの匂いだ」

塞で入手したと思われる当時は流行してた型の運動靴を脱ぎながら

機嫌良さそうな声を出した。高級婦人スーツを身に着けてる状態と

声に変化がないから違和感ってヤツを覚える。色々悪巫山戯しすぎ。

「ご飯はないですけど、羊の先生が残してたら箸はつけられますよ」

引き戸を開けて先生が座ってる居間に案内すると鼠の親分も黙って

付いてきたんで先に通した。現在のシナリオは俺が料理を用意して

羊の先生を()()してるってことにしよう。トイレに引き籠ってる

困った性質の元女児(もとじょじ)が何を考えてるのかまで知りてぇとは思わねえ。


「あ、その格好が楽でいいよね。声が同じだから姿を確認するまで

どんな姿をしてるか想像つかないところが面白い。交渉お疲れさま」

塞の食堂では会話しなかった二人、古くから気心の知れた仲だった。

羊の先生が和やかな調子で声をかけると若干照れた様子で応じてた。

さっきまで俺が腰かけてたソファに鼠の親分を座らせることにした。

右手で席を指すと察してくれる。飲み物は冷えたラムネでいいよな。

「それにしても半袖のTシャツ一枚は若いと褒める前に寒そうだよ。

半纏(はんてん)でも羽織(はお)った方が安心して眺めてられる。ハシム、何かない?」

Tシャツとジャージ、十一月末らしくない格好だが暖房の効いてる

部屋で寛ぐなら割と普通だ。家の中で厚着する方が大袈裟(おおげさ)だと思う。

「ストーブ点いてるから大丈夫。さすがに廊下は肌寒かったけどな」

傍目(はため)で見りゃ先生と生徒くらいの年の差に思える二人が馴染んでる。


ヘタなこと言わずに様子を見守るしかねぇ。隠れてる男の動向が謎。


台所の冷蔵庫を開けながら化粧室の向こうを窺ってみるが気配なし。

電気を点けて扉を開けたら花田が消えてる怪ってオチも出てきそう。

壁を壊しゃ花田の部屋に通じる現実に気づいた時点で有り得るかも。


心は勝手に彼方此方(あちこち)うろついても自分の身体はラムネの瓶を谷地の

前に差し出してた。羊の先生と同じ自然な振舞いを装ってみせよう。

割り箸を渡そうとしたが、先に高野豆腐のピザをつまんで食ってる。

病みきった世界じゃなきゃ平穏無事に迎えた宵の小宴と呼べる光景。


見る気もねぇのに()けて(うつ)しっ(ぱな)しのテレビ、そんな昔が懐かしい。


「あ、瓶入りラムネか…。それも麦酒以上に美味いかもしれないね」

俺は飲んでねぇから保障は無理。学校時代から細い割には食い意地

張った言動してたっけ。大食いしても太らねぇ体質が羨ましかった。

「出張中に常飲してたけど普通だよ。不味くないのは確かだけどな」

慣れた手つきでビー玉を落とし込む動作を見せる飲酒をやめた少年。


先生にラムネを一口飲むか飲まないか尋ねる場面を沈黙して眺めた。


「ありがとう。見せてもらっただけで大体の予想ついた。なるほど」

眼鏡無しの大きな眼で何が視えてるか謎、納得してるのは先生だけ。

「無駄な説明の()らない先生で助かる。当分の間、貝になりてぇし」

「遠い昔の悲劇だね。肉体を失くせば当然のこと脳も無い。余計な

考えに囚われない平穏を得られる。貝の暮らしを否定する気ないが」

羊猫と鼠の正確な年齢を聞いたことはない。知らない方がいい話だ。


「キミが貝になりたいと言っても嘘なのは目視で得られる情報だよ。

口を聞くのは面倒でも夜遊びに時間を費やす余裕はあるみたいだし

他の身内たちも知っている。ハシムを連れて夜遊びに興じてたのは」



…?!…



「先生、余計なクチ挟まないでくれよ。場所を(わきま)えて話してほしい」

ソファの上で立膝ついてる…小鼠と俺が夜遊びに出かけてるって…?

「私は目視で情報を得ることが可能でも何してるのかは知らないね。

現状では貴重な車の燃料を無駄遣いすることは好ましくない行為だ。

隠れて何をしていたのか、私と彼の前で正直に打ち明けた方がいい」

先手を打って出入口となる引き戸を塞ぐ位置に立ってから口を開く。

「もっちーの発言に嘘はないんだろうが、本気で記憶に残ってねえ。

一体どこまで夜遊びに出かけて何していたのか俺にも聞かせてくれ」

記憶に抜け落ちてる部分が多い理由は他人に操作されてるってこと?


「えぇと、燃料の無駄遣いはしてない。その件だけは弁解(べんかい)させて!」

晴天が土砂降り。バツの悪そうな表情に変わった少年姿の小動物が

申し開きからの釈明を開始した。おそらく俺が必要な理由は読めた。

「その件は目視で読み取れた。ハシムを御目付役(おめつけやく)に利用してたのか」

「うん、そういうこと。ハシムがいるから美味い麦酒が飲めるんだ」

持ってる瓶を垂直(すいちょく)に傾け、天井を見上げた姿勢でラムネを飲んでる。

ビー玉が飲み口を(ふさ)いで口の中に入ってないのは誰が見ても分かる。

無邪気と可愛らしさを装った子供の演技だ。お笑いで誤魔化してる。


こっちは手駒の一つ、利用するのは勝手だが記憶の操作は気分悪い。


「そろそろ質問に答えて。宿舎から車で出かけて何して遊んでた?」

静かで穏やかな口調で再び鼠へ質問した。真面目で誠実な表情だが

苛立(いらだ)ちに似た気配を感じる。キレたら口調から何から変わる先生だ。

谷地も悪ガキの演技は止めて言うとおりにした方がいいと思うけど。


「うん、山の方までドライブしてた。単純に運転を楽しんでただけ」


瓶から口を離してソファの上で正座して素直に喋った。俺が貸した

漫画の影響だな。少年に戻ってジャージを穿いた理由は車の運転か。

「何かに熱中できるのは全然悪いことじゃない。羨ましいと思うよ」

このまま悪天候かと思う間もなく先生の心象風景には星空が戻った。

月齢(げつれい)とかいうのに全く興味ねぇ。今夜の月がどんな形か想像不可能。

実際には(こご)えりゃ雪に変わる雨が降ってる。月と星は雲より遥か上。

「あの頃は法規(ほうき)が備わって窮屈(きゅうくつ)に感じる者もいたのかもしれないが

大勢の人間が同じ社会で暮らすためには必要不可欠な法規だったね。

網の目を潜って規制を抜け出す人々、それを否定はしない。ん…?」



…?!…



「玄関の方から聞こえてきた。ロケット花火みたいな音だったけど」

俺の耳もパンパン何かが弾ける音を聞いたが、この季節に花火って

結びつけるのが少年の感性だと思った。昔の懐かしくもある思い出。

「とりあえず俺が見てくるんで、二人は部屋で暖まっててください」

微妙な敬語っぽい口の聞き方してる…俺を嘲笑する昔の俺がいる…。


引き戸を開けて台所に出た。あ~あ、玄関脇のドアの隙間から

硝煙(しょうえん)()れてる。引き籠ってるヤツが何かやらかしたのは確実。

幾つもの爆竹(ばくちく)が鳴るような音が響いた。花田は狭い中で何を…?

向こうの機嫌を損ねて構わねぇ。ここは俺の部屋だ。開けよう。



俺がドアの前に立った瞬間、(ねら)()ましたよう扉を押し開けられた!



敗因(はいいん)に気づいた。思考を飛ばし過ぎてた。聞こえてるなら俺も押す。

対「狸猫」は俺のノックアウト負け。考えるより先に動かねぇと…。








◆状況報告. 谷地敦彦(やち あつひこ)



側にいるだけで役に立っていた村元黎は流しの床板に転がっていた。


目蓋を閉じて身動きしてねぇ。トイレの扉を音立てて開いた花田が

トイレと流しの間に立って…珍しく呆然(ぼうぜん)とした表情を見せていた…。


「小魚泥棒なら分かると思って釘を刺す。村元は僕に自分の思考を

読まれているのを知っていた。勢いよく扉を開けてみせたのだって

他愛(たわい)ない余興(よきょう)のコントに過ぎない僕の演出だったのだ。それなのに

これはワザとなのか?…首を傾げたくなる様子で村元の体が転げた。

痛くなかったとは言えないが大袈裟すぎる。望月を呼んできてくれ」


玄関辺りから聞こえたロケット花火みたいな音は花田の仕業らしい。


ご丁寧に自分の靴まで隠して俺を笑わそうって魂胆だったようだが

ハシムの様子を目にする限りは笑えない。居間に通じる戸を開けて

そのまま羊の先生に声をかけた。来てもらわなきゃ話にならねぇし。


「奇妙な転げ方をして気を失った。扉との衝突後、僕と目が合うと

全身が脱力したかのようグニャリとしゃがみ込んで天井を見上げて

このとおり、機能停止したロボットみたく横たわった。何なんだ?」

一歩前に出た花田が羊の先生に状況を説明している。狼狽(ろうばい)(こら)えた

(うれ)いを見せている。糸の切れた人形でも見た気分でいるんだろうな。


この世界の意思が流れの停滞を許さないのは分かった。それでも…。



「どこへ行こうとしてる?」

「より良き未来に繋がる道」



靴を履いて玄関の扉を開けて出た。北に行けるか、車を出してみる。


…………………………。


…………………………。


…………………………。



車を出す必要なかった。もっと都合よく運んでくれるのがいたんだ。



小雨(こさめ)が細かい氷となって風に舞ってる。

宵闇の中で(はかな)い煌めきを見せて綺麗だ。

街灯も(まば)らな世の中、夜に出歩くのは

今じゃ変わり者か不審者か、気の毒な

持病に苛まされた者と相場は確定済み。


ヤツの燃料が切れると厄介だから遠慮してた。まずは動作チェック。








◆マゼンタの布. 望月漲



「これは他愛も無い余興のコントに過ぎないようだね。起きて」


目視で得た情報、マゼンタ一色に染まった布が掛けられた小箱。

ここからは私の憶測(おくそく)、小箱の中には真紅(しんく)珊瑚(さんご)が収められてる。

糸の切れた人形を見たら動揺(どうよう)する者と知って選択した逆転劇(ぎゃくてんげき)か。



Magenta. (たと)えるなら薔薇色(ばらいろ)



谷地が部屋を出た理由も読み取れた。死に至ってないとの判断。

命の灯が消えたら出ない。世を去った者へ処置を施すか訊く筈。


谷地は時代と流れに即した姿を採択(さいたく)している。

遠い昔では年長者の姿でいる必要があったが

現在では余り好まれないため、求められない

姿だと考えて止めたのだろう。好悪(こうお)と流行は

時代と呼ばれる空模様次第で移ろいゆくもの。

鼠と桜文鳥より気になるのは蝙蝠(こうもり)との関わり、

いずれ彼自身の言葉で語ってくれると有難い。


現在この場に残るのは学校時代、全員一組なのも皮肉を感じる。


「異常はないのか。それなら良かった。こんな姿は見たくない」

逆ドッキリを仕掛けられていた人物が安堵の言葉を吐き出した。


糸の切れた人形を再始動させる意図の呪文をかけた。そろそろ

眼を開けてくれても…疲労を見せていた…眠ってしまったのか。


目蓋(まぶた)が動いてる。狸寝入(たぬきねい)りのつもりが本当に寝入ったようだ。

すまないが寝室に運んで寝かせてやってほしい。おそらく彼は

普段から飲食を控えていたに違いないね。塞の食堂で出された

カレーライスを消化吸収するので彼の消化器官も疲弊(ひへい)している」

この三名で一番体格が良い者に依頼する。喜劇を演出した代償。

「だが、村元の状態は不可解だ。本当に必ず目を覚ますのか?」

糸の切れた人形としか映らないのだから疑念を懐くのは当然だ。

「心配無用だよ。だが、今までどおり心の声は聴けないだろう。

私だって普通は隠しておきたい心情を耳にされるのは御免蒙(ごめんこうむ)る。

ハシムはキミの耳を防ぐ手を打ったんだろう。それで安心して

思わず眠り込んでしまったのだ。花田、すまないがハシムを…」

ある程度は花田が納得のいく理由を告げておく。不安を消そう。

「さっきまで色々喚いてた者から全く何も聴こえなくなるのも

安寧を通り越して不快な刺激だな。まぁいい。寝床まで運ぼう」

以前の世界ではよく(かつ)がれていた者が手慣れた様子でハシムを

担ぎ上げた。ちなみに三名の中で一番小柄となるのが村元黎だ。

訊かれたら彼は百七十と答えるだろうが正確な身長は百六十六。

「少し席を外してもらえると助かる。トイレを借りたかったし」

正直な言葉と笑顔を向けた。ハシムへ告げる前に引き籠られて

どうなるものか見守っていたのが現実だ。早く済んで助かった。


「ああ、酒を飲んだら近くもなるだろう。僕が配慮に欠けてた。

出発は明日で構わないが、交渉の場に出てくれ。頼む、望月…」


これで大丈夫。花田が眠り込んだハシムを連れて行ってくれた。

心身ともに疲れる時間を過ごしたのだ。朝まで眠った方がいい。


アメトリン・カテドラルへ私自身が進行するのか。構わないが。


トイレに入って直ぐ小窓を開けて換気した。隅に置かれている

ブリキ製のバケツに仕込みのタネを見つけた。使用後の爆竹束。

予めトイレの中に爆竹など運び込んでる花田も相当な困り者だ。

何故ここに金魚の餌…喜劇の演出となる小ネタだったらしい…。


閑日月(かんじつげつ)の生活の中、自分と周囲に笑いを与えようと考えただけ。


道化て周囲を笑わせようと花田なりに闘ってみせてると窺える。

静寂の世界に笑顔の花を綻ばせようと種子や肥料を撒き散らし

懸命に働いてるのだろう。以前と比べて無表情じゃなくなった。

調理して食事を出すのも喜びの笑顔を引き出す彼の得意な魔法。

戦地に(おもむ)血花(ちばな)を咲かす将より道化師の方が心身も傷つかない。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


花田が後の片付けを済ませて帰ると言う。今宵の宴は御開きに。


古い建物の階段を下りた。私たちバケモノと変わらないと思う。

年月を経て彼方此方に支障が出てる。切れた電灯、壁のヒビ…。

普通の方法では視えない箇所も経年の傷みが表れて当然だろう。

この世界に生まれた以上、全ての物は朽ちて土へ還る道を辿る。


元から取り壊しの決まっていた建物だから空室が多かったのだ。

この公共住宅に住み着いたのは我々と似てるように感じたから

誰から言い出すこともなく、それぞれの荷物を運び込んでいた。


無理できない。歩いて気づいた。私は羊の記憶を持っていても

生まれ持った肉体は普通の人間だ。揃って不可解な現状に立つ

死ねないバケモノといった存在の一名。消え去るのが相応しい。


古い建物は取り壊され、新たな建築物が姿を現す。社会の循環。

生命も生死を繰り返してる。それが自然の流れ、(ことわり)なのだろう。



寄宿舎付の学校があった村、その高台にあった墓地を思い出す。


数人の通学生が墓の下に葬られていた。遺灰となったマコも…。

年老いて村中総出で見送られた清福(せいふく)な人生だ。本当に良かった。

齢九十七で寿命を迎えた自分の実妹より強く激しく胸に迫った。

鯨井信が必死になって周囲の役に立ってきた走馬燈(そうまとう)を目にした。


飛島家の墓は村内にはなかったし、自宅も更地(さらち)に変わっていた。

()(すが)るのも見っとも無い話、カシコは幸せに生きたと信じる。


村の浅井家(あさいけ)の墓に彰太(しょうた)君の影が見えなかった。若干気懸(じゃっかんきがか)りだが

谷地の手により処理された筈…。他人は詳細を知らなくていい。

彼が他人に涙を隠して泣いてきたことを知ってる。それで十分。



『203』私が寝起きする部屋の扉を開けて入り、一息ついた。


私が勤務した病院の出入口前に設けた喫煙所近くに降り落ちた

二つの紅いモノ。村元黎は此の世ならざる者からの祝福に拠り

紅い魚の依り代を得た。特殊な能力は酒食を口にして納得した。


谷地も知ってて利用していた様子だった。便利だから使われる。

村にある淵を「時間の淵」と呼ぶ者がいた時点で気づかないと

いけない。『時間の淵、世界の外』あの村は非常に特異な場所。


何者かの入れ知恵か咄嗟(とっさ)(ひらめ)きか知らないが

珊瑚の魚は思考を読ませない方法を習得した。

その場で「糸の切れた人形」に化けてみせて

無邪気に驚かそうと考えた白い猫に反撃した。

下の者と(あなど)れない。彼の意見に従っておこう。


目に視えないマゼンタの布で心の中を覆い隠したのは興味深い。


視えないモノを認識できる自分も霊感めいた能力を持ってると

勘違いしそうになるが違う。金儲けできない幻影を視てるだけ。


私も一つの幻影にしか過ぎない。誰かの見てる夢に()んでいる。

囚われた諦観(ていかん)の中で過ごしてきた時間、否定ばかりじゃ(むな)しい。


消え去る前、私の思い出に眠る景色を広げて映し出してみよう。



村の学校に連れてこられた日、この世界が牢獄だと思い知った。



幼かった所為か()(どころ)なく溢れて零れる落胆の涙、

落涙を堪える知恵に欠けていた。恥ずかしげなく

自分の抱えた心情を泣き顔で表して、日が暮れた。

寄宿舎の同室者から「何が悲しくて泣いたんだ?

こうして以前の仲間と再会できて俺は嬉しいけど」

そんな言葉をかけられたのを憶えている。以前の

世界でも横に並んで歩いてたと言うが信じられず

心を塞いで過ごしてきた。一年生の冬期休暇明け

二組に編入された生徒、(たちま)ち心の天気が荒れ狂い、

心情を打ち明ける者も皆無。孤立無援(こりつむえん)な一生徒を

押し通そうと考えていたが、一人の級友に(なぐさ)めの

言葉をかけられたのは三年生の春の出来事だった。


全ての出来事に目を逸らし続けて生きてきたのに

演劇の舞台で、うさぎのお父さん役を演じたいと

思った小さな希望が主役の心情を動かしたらしい。

「どうして、お父さん役を止めたの? みんなに

投票してもらったなら諦めなくて済んだ筈だよ!」

クラスに在籍する生徒全員は朝夕の挨拶程度の仲、

投票したら(みじ)めな気持ちに追いやられるだけだと

分かっていたから止めて他の役を選んだと答えた。

「センセと話せて良かったよ。気持ちが分かって

本当に良かった。これからは何でも僕に聞かせて」

それからは何でも打ち明けられる親しい友となる

奇跡は起こる訳なかったが、誰もいない場合だけ

彼へ率直な心境を伝えてみる気にはなったと思う。

騒がしい歳月の隙間を縫うような関わりだったが

明るく励ます言葉を贈ってもらえて感謝している。

卒業後に着る衣類や靴も揃えてもらって助かった。


別の姿に変わっても心残りだった落伍者(らくごしゃ)(もと)へ逢いに来た彼の思い。


大きな気づきを受け取れたと思う。過去や未来は思うしかできない。

傍観する以外に何も出来ないなら執着心を手放した方が自分のため。


今を見据え、今をより良くするため、全力を尽くそう!と祈望する。



私の大きな罪、気づいても絶対に戻せない時間、今更悔いても遅い。



見ようとも聞こうともしなかった。学校では三年ほど誰に対しても

冷淡な態度で罪を重ね続けた。それが引鉄(ひきがね)、牢獄世界は崩壊を辿る。


以前の世界に於いては親友であった者が徐々に成長を止めていった。

以前の世界では身近な存在だった筈の彼の親族が姿を見せない世界、

その異常さに気づけなかったし、私の中で「慈友君」は消えていた。


過去の記憶で目立つのは「罪と恥」ばかり…。平穏にも感謝できず

遠い昔の重大な過ちを悔いて泣くだけの私に呆れ果てても仕方ない。


入学の日、彼への態度が違うものだったら…現在も違っていた筈…。


傍から見たら「成長の遅れ」「夜尿症」と挙げられる症状を見せて

全力で私に抗議していたのだろう。放課後の私が他の同級生たちと

交遊して過ごす姿も許せなかったのかもしれない。入学した日の晩

親しげに声をかけてきた筈が、いつの間にか会話の成立しない仲に

なっていた同室者。一組の授業を受けるのを止め、童謡を歌ったり、

折り紙や塗り絵など楽しむようになった。彼の家族に事情が聞けず

休暇中に二人の世話をしてきた遠い親戚という女性も語らない真実。


彼の大叔父(おおおじ)である校長を確認できなかった。以前の世界でも孫から

拒絶された事情はあったが、影さえ見せないので何も言えなかった。

私の銀縁眼鏡を(あつらえ)てくれた同室者の父や叔父の劉先生に相談できず

私自身も異常な現状に慣れた。何者かの強い訴えが必要だったのに。


人生の道行きは一期一会、今回は薄い関わりの者たちと思い込んだ。


それでも放課後の級友たちとの関わりで余裕ができた私は、親友に

出来る限りの世話をしてきたと信じてる。卒業後、十年近くも彼の

住居で共に暮らしてきた。外の世界を知らなくても閉ざされた中で

平穏無事な日常を過ごしてきた。罪を許されていることに気づけず

遠い昔の大きな過ちを詫び続け…泣き続ける姿を彼に見せていた…。


そんな或る日、彼が始めた喫煙(きつえん)は私と共に放課後を愉しんだ仲間の

一人の真似をしたのだと決めつけていた。きっとアレも抗議(こうぎ)の手段。


それに気づけず村の診療所で待ち続けるマコの許を訪ねていた。

マコとの再会は私にとって紛れもなく幸せの珠玉に数えられる。

私が居なくても自分の手で全てを得る能力を持ち合わせていた。

それを私自身の眼で確認できたのは本当に良かった。けれど…。


親友と話し合う機会から逃避し続け、百年以上の歳月が過ぎていた。


私自身が胸の奥にマゼンタの布をかけて誰にも触れさせなかったと

気づいた以上、私の目的地は元親友の住居。自転車を借りて行こう。


この宿舎に住み着いて間もなく、数台の古い自転車が置かれていた。



「特に施錠する必要ないのは分かっちゃいるけど手が癖になってて」



長い間、車中暮らしを共にしてきた相棒がチェーンをかけていたが

どの車体も数列は頭に入ってる。大量の記憶を引き連れて旅立とう。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


ウィンドブレーカーを羽織って軍手を嵌めた。飛ばされると厄介だ。

帽子は被らないでおこう。雨具にも頼らない。飲食物など必要ない。

生き残りを捜す訳じゃないから大きな背嚢も背負う必要ないだろう。


道中で天命が潰えて構わない。私は親友だった彼に逢って話したい。

以前の世界での思い出話を分かち合える友を蔑ろにしたことを謝る。


慈友君の記憶を振り返れる今、親友に心から謝罪の言葉を伝えたい。


私は行く。私の意思が天に届くと自然に道は目的地へ繋がってきた。

中央の空港からタクシーで二時間近くで郊外の閑静(かんせい)な集落に入った。

(あか)い屋根の二階建てが目印だったが、道を覚えようとしても何故か

頭から消え去り困惑を覚えていた。この世界の外にある建物だろう。


シルバーの車体を駐輪場の柱から外し出す四桁の数列は「サマヨイ」


眼鏡無し故、誰かの眼を頼りたくなる開錠作業を私一人で済ませた。

悠長に書置きを残す余裕はなかった。外したチェーンを地面に置き

僅かな思いを汲み取ってほしいと願って、細雪(ささめゆき)の舞う夜に自転車の

ライト一つの灯りを頼りにして、南の方角へ向けて()ぎ進めていく。



停滞した世界に光を掲げ、前へ進もう。私の心と体は前進あるのみ。



あの屋敷から出奔(しゅっぽん)した早朝を思い出す。空がオレンジ交じりの曇天。

北の街では葉桜の頃だったが幻世と現世の結び目は雪の夜空だった。

玄関の前に置かれた自転車を拝借し、ふらつきながら屋敷から出た。

夜の雪空は不思議と真っ暗とは言い難い。風の叫び声も耳に優しい。

自転車で走れるだけ走ろう。大丈夫、雪の藪に入ったら歩けばいい。


懐かしい元親友の住居に変化があるとは考えられない「珊瑚(さんご)屋敷(やしき)


夏冬の長期休暇用に用意された広い庭付きの屋敷だったと思われる。

夏は暑かった。吹き抜ける風が縁側に吊るした風鈴を打ち鳴らして

耳に涼を伝えた。庭からは蝉の鳴き声、宵闇に染まれば蛙の大合唱。

殆ど会話なし。五月蠅くても夏の音が消え去る静寂よりマシだった。


彼が楽曲を歌い出したら広間のピアノで伴奏、終わったら拍手した。


「あめふりくまのこ」低学年の頃、他の生徒が歌ってたのを覚えて

真似して歌った姿を思い出す。その童謡を歌った後には雨が降った。

気圧の変化を肌で感じて歌っていたのかもしれない。再会できたら

種明かしを()おうと思う。この(とし)になって童謡を歌えとは言えない。


彼の姿は一体どのように変化してるだろう? 以前の世界に於いて

私は蛇の銃弾に倒れたから物語の終盤を知らない。この現世で私の

相棒を務めた者も以前は病で早世(そうせい)してるし、(あか)(りゅう)の成長した姿を

許されるものなら見せてほしいと願う。そのとき彼の名前を呼ぼう。


珊瑚の屋敷で過ごした夏の休暇、午前中は好きなことに集中できた。

虫捕りを覚えた彼は甲虫(カブトムシ)鍬形(クワガタ)を捕まえた。(セミ)の抜け殻も集めてた。

小さなビニールプールで彼を水遊びさせ、私は縁側で読書に(ふけ)った。

衣食の世話をしてくれるお姉さんが水菓子や氷菓子を運んでくれて

友と並んで味わった涼味。贅を尽くした持て成しには感謝している。


五年生の夏期休暇中は退屈凌ぎにゲルマニウムラジオを組み立てた。

上手く出来たら自由課題の作品として提出しようと考えていたけど

耳に挿したイヤホンは雑音さえ拾ってくれなかった。ハンダ付けや

コイルの作製に随分と手間がかかったのに見映えの良いガラクタを

手作りしただけかと落ち込んだが、気を取り直して寄宿舎で試すと

女性パーソナリティの喋り声が聴こえてきた。忘れられない午後だ。


浅尾栞、思慕(しぼ)(じょう)がある訳じゃなくても私にはトクベツな女性の声。


冬は屋敷の雪片付けを手伝って、日頃世話になってる恩を少しでも

返そうと頑張った。降雪量自体はそれなりだから学校で除雪作業に

(たずさ)わった四名の勤労奉仕少年団には敵わなくても私だって降雪との

奮闘を経験してきたのだ。誰にも訊かれないから答えなかっただけ。


雪だるま、雪うさぎ、雪灯籠(ゆきどうろう)、かまくらも彼を喜ばせようと拵えた。

かまくらの中で彼と一緒に餅を焼いて食べ、熱い甘酒で体を温めた。


よく考えると不可解だと気づく。屋敷は中央より南西に位置する筈。

空港から出て走るタクシーの車窓から確認した案内標識の地名は…。

地図上では除雪どころか降雪さえ珍しいと思われる温暖な地域の筈。

おそらく地図では指し示せない場所だ。どこにも属さない境界の地。


幻世である故、現世より暑い夏と寒い冬を心ゆくまで満喫していた。


十年生の秋、百貨店一階の催し物用に用意された舞台に立った彼が

即興(そっきょう)で一曲歌って、偶然その舞台前を行き交った買い物客たちから

拍手喝采(はくしゅかっさい)だったと聞かされた。既に九年生の頃は私が教えた曲目を

アルバムを再生するように歌い熟していた。彼の天真爛漫(てんしんらんまん)な歌声は

聴いた者の心に(まばゆ)()()す。魅力的な歌唱の魔法の使い手だった。


私の好きな楽曲を歌ってもらえたから、私も変わりなく生き続けた。


現在の世界に於いてでも思い出は胸の奥底から溢れ出すくらいある。

出奔後、慈友君だった世界での学校の記憶も徐々に思い出してきた。

私が眼鏡を必要とする理由、彼が私の側に付き従った理由もあった。

現世で自ら名付けた望月漲という偽名(ぎめい)を捨て去る決意で彼の許へ…。


彼との友情を取り戻せる。空白を埋められる。常に進路は前を指せ!


風雪が止んだ。視界は薄暗いが交通事故の危険はないと信じて漕ぐ。

心に溢れる私の思いを先に届けよう。恥も過ちも全て認めて進もう。

絶対に世界の外へ続く道に繋がると信じて自転車を漕ぎ続けて往く。

飲み食い排泄、そうなったら考える。臨機応変に鷹揚な心持ちで…。


年単位でも構わないほど沢山の思い出がある。胸の奥に映し出そう。


親と別れた私が迎えられた日、与えられた銀縁眼鏡で視界が明瞭に。

生まれて初めて奇跡を体験したことは忘れ難い。心から感謝したい。

親がなくても生きていけた。稀有(けう)な経験でも現実を認めて生きよう。



珊瑚の屋敷、長期休暇では背中の視えない羽を思いきり広げられた。


穏やかな日曜の朝、そんな景色を心に映して笑顔でいようと望んだ。



私は大金と引き換えに棄てられた子ども。頭には実際未体験ながら

数々の狂おしい犯罪の記憶が詰め込まれていたので、夜になるのが

苦痛だった。学校生活では彼の世話で疲労困憊、寝つきは早かった。

しかし、屋敷ではお姉さんが彼と同室して寝かしつけていた御蔭で

一人きりの寝室は暗闇より深い思考が渦巻いて、眠れぬ夜が続いた。



「見るな!」



踏切で列車に轢かれ、首だけ転がった者が周囲へ絶叫し訴えた意思。

実際には無理な話。首だけでは叫び声を発せない。大声を出すには

胴体が欠かせない故に人体の仕組みを超越した怪談であると分かる。


発声練習で指導を受ける際、どういった言葉をかけられるだろうか?

よくある例では「腹から声を出せ」といった類の発言を耳にする筈。

大きく覇気(はき)ある声を出すには喉だけじゃ不足だという人体の仕組み。


何者が考えたものか不思議に思う。人智を超えた宇宙にも似た設計。

生存している以上、一人じゃない。細胞や腸内細菌といったものを

含めると、宇宙的な数の存在が生息する広大な世界の主となる生物。


孤独を愁いて命を棄てたらダニや細菌から怨みを買うかもしれない。


私が心底怖いと震える怪談を聞いたことがない。大概は穴があるし

恐怖の先には滑稽な笑いが待ち構えているのは誰の采配(さいはい)なのだろう?


簡単に(おそ)(おのの)いてるようじゃ命を奪うか奪われるかの地に立てない。

もしかしたら、恐怖心を笑うことで誤魔化していたのかもしれない。


無駄な感情を()ぎ落とし、的確な判断をし、即座に動かなければ…。


駒として生きるなら悩み嘆く時間は不要。上手く操演されたら上等。

勝ち負けに拘る必要ない。勝敗は上で操る者の問題、駒には無関係。


空を見上げ、真の天上へ往くことを夢見てた。

満ちて欠ける白銀色の月を傍で眺めたかった。

肉体の柵から解き放たれたいと願う私がいた。

囚われを抜けたら、月に近づけると信じてた。

しかし、現実は地面から一寸も動けなかった。


過去形で表される言葉は遠くへ放してやろう。過ぎ去った重い想い。


自分自身を隠し続けてきた。自分を出したら知られたくない傷痕を

晒すことになる。この新しい身体を与えられながらも過去の記憶に

苛まされ続ける生き地獄。打ち明けて共有すれば傷は更に(えぐ)られる。

狂気に囚われた新月の宵闇の中…自分の胸を苦無(くない)で何度も突いた…

傷痕を覆い隠した。綻びを取り繕って誤魔化し続けてきた学校生活。


そんな十年間も遼遠へ過ぎた。記憶も全て消し去って構わない程度。


と言えず必死になって過去に執着し、何度でも反芻しようとする私。



マゼンタの布を取り払い、穏やかな気持ちで眺めてみよう。

視界に頼らず自転車を漕ぎ続けていけば、きっと辿り着く。



今を見据え、今をより良くするため、全力で(のぞ)もう。祈望よ、届け!









◆辺りを漂い彷徨うモノ. 草野緑(くさの みどり)



それは色の無い気配。無色。光明を得れば白く輝くモノ。


無用な自己主張せず、全ての色を映し出す優しさを(たた)

いつも貴方の近くにいます。それでいいでしょう。透明。


空気。風。全身に満ちたかと思う間もなく吐き出される。

繋がり離れる。幾度となく繰り返す生命の循環。縁の道。


黄金色の煌めきと空が結びついた色が緑となって地に満ちます。

生命力は天空から与えられ、地上で豊かに繁栄するのでしょう。


数え切れない色を目で触れられる世界を作り出すのが

辺りに漂う透明なモノ。光と影を素直に表現するモノ。


地上に生きる命たちを天空と繋ぐ働きを司る透明な空気に感謝。









◆続・マゼンタの布. 村元黎



そんな大した内容じゃない個人的備忘録(こじんてきびぼうろく)だ。不要なら無視して。


普通に考えりゃ入院誓約書(にゅういんせいやくしょ)を担当医師が確認することはない筈。

事務方に渡る書類だろうから連帯保証人の欄に記入した名前を

もっちーが知る訳ねぇよな。もし見てたら…見てても言わない。

望月部長が下衆(げす)台詞(セリフ)を吐いたら俺というファンが凹む破目に

陥るってだけ。知らなくていい。知る必要ない俺個人の背景だ。


そのとき世話になった保証人さんとも縁が切れ…俺から切った。


荷物を部屋に置きっ放しで逃げた迷惑極まりない同居人だった。

元は職場のバイト仲間、ルームシェアという形で転がり込んだ。

朝から晩まで掛け持ちでバイトして生活費を稼ぎ出した根性と

丈夫な身体は俺と関わり続けるなんて勿体無い逸材だと思うし

普通に幸せを掴んで家族と共に笑顔で過ごせたんだと信じてる。


竹輪(ちくわ)豚挽(ぶたひ)(にく)じゃが、俺には美味かった。貧乏くさい食卓も

周りの目を気にしなけりゃ平和で楽しく生きていけるもんだな。

雪国育ちの俺でも西の都会で笑って暮らしてた。努力の賜物(たまもの)だ。

我儘を通せば欲が増すばかり。多少堪えた方が平穏だと学んだ。

俺なりに幸せを掴んだつもりが…過酷(かこく)な運命に(あらが)えなかった…。


俺自身の家族とも逢わないまま、流れに流れた時に任せた別れ。


予想より深刻な検査結果に驚いた俺は、北の村に暮らす家族へ

入院治療するための書類を記入して返送するよう頼んだ手紙と

肝心の入院手続きに必要な書類を同封して送ったんだ。金銭の

援助も助かると綴った記憶もあるが親は見事に無視しやがって

病人を気遣う一言もなく、家族欄への記述と捺印(なついん)した書類だけ

返送してくれたよ。書類が返っただけ立派、学校に行く前から

散々やらかして両親から勘当(かんどう)だの何だの言われた二人目の息子。


ようやく天罰が落ちた程度にしか思ってなかったかもしれない。


元同級生と思われる存在が託した珊瑚と紅い小魚を依代として

死ねないバケモノの身内となった。改まった形式の歓迎会とか

開かれる訳じゃねぇし、俺は北の村の外れにある(ふち)で過ごして

他の連中について殆ど知らねぇ。正直ぶちまけると苦手なのも

いたんで興味なかったんだ。時間の淵を泳げるだけで十分だし。



夜が明けた。黎明の時を物思いに耽って過ごす贅沢も悪くない。



とりあえずカーテンを開けた。窓から白い光が射し込んできて

目が覚めた気持ちだけ味わったところで、すぐ横になって休息。

掃除班は早朝から水汲みだの頑張ってくれてる筈。ご苦労さん。


昨夜(ゆうべ)は花田が枕元に座り込んでて「寝ろ」と言われても

何するか予測不能の狸猫の指図(さしず)に従うなんて無理だった。

狸寝入りも出来なくて、ぽつぽつ通り雨が降り出すよう

どちらともなく話し始めて最終的には俺が聞き役だった。

学校時代を振り返るまでもなく花田と長い時間を()いて

会話したのは奇跡に近い。潔癖症で名の通ってたヤツが

碌に掃除なんかしてない俺の寝室で平気だってのが意外。


()むのが惜しいと思う花、そんな花を(いく)つも眺めてきたのだ」


自分の(せい)にかけてるような口振りだったが、死別した妻の話か?

いや、幾つもってことは複数だから奥さんだけじゃねえと思う。

聞き返すのも躊躇する。二度の学校時代から遼遠とした関係だ。

担任と一緒に家庭訪問と説教されたのは俺が一組で一番だった。

まあ、喫煙した方が悪くて当然だな。悪くしたのは肺じゃなく

腎臓だったが、生まれついての宿命か天罰なのかは断定不可能。


「約束した以上は責務と考え、枯れて命が尽きるのを見届けた」

何だか矛盾を覚える表現だ。約束、責務、何と繋がるんだろう?

「役立つ存在と知りながら、徐々に大輪が(しお)れていく(さま)を見て

僕は自分の命が惜しいと思ってしまった。命というよりは記憶、

自分に残された価値は、長い長い時間を生きてきた記憶だけ…」

まだバケモノの仲間に入って日の浅い新参者に聞かせていい話?

「亡くなれば長い間かけて刻み込んだ記憶も灰となって空気と

混じって消えゆくのだろう。(むくろ)は自然と元素へ分解されていき

他の生命の(かて)になる。骸に湧いた蛆は羽虫になって空中を舞う。

そういった転生も悪い気はしない。煩悶憂苦(はんもんゆうく)などに苛まされず

純粋に生命としての役割を果たす。(はかな)き幻影こそ(とうと)いと信じる」

儚い命を掲げて時代に忠節を尽くした者たちが尊ばれてほしい。

吟遊詩人の語らいを拝聴するつもりで耳を傾ける素振りしとく。


閉じたカーテンから漏れる光が青白い。夜明けには早い筈だが。


「枯れて地面に落ちて消えた花、彼とは遠い昔に二人とも同じ

女児の姿で出会った。市場を通ったら金持ちの娘に見えたのか

よく喋る商人に髪飾りの購入を勧められて困っていたところに

その界隈(かいわい)では大金持ちとして知られた屋敷の末娘に助けられた。

というより、元の彼は他人の物が欲しくなる性質だったらしい。

その当時の僕は八歳だった。彼は僕より僅か年上に見えたが…」

(つぶ)らと喩えたくなる元一組級長の両眼が遠くの景色を眺めてる。


遠い昔の世界を心に映して確認作業しながら語ってるんだろう。


大金持ちの末娘、上には三人の姉がいると付け加えるつもりか?

「そのとおり、防御壁を取り除いたのか? 今の声は聴こえた。

遠い昔の不思議な縁が姿形を変え、再び一緒に歩くことになり

彼方此方の地を旅してまわった。愉快な観光ではなかったけど

優秀な駒になる資質に気づき、いつか迎える別離を懼れていた」

自分が駒であると知っての発言だ。バケモノは指し手のない駒。

「或る者との約束で彼は出張先の地で(よわい)五十三の生涯を閉じた。

旅館の客室係が出立時刻になっても部屋を出てこず不審に思い

彼が宿泊してる客室に入ったら、永遠の眠りに就いてたそうだ」

伝聞で話し終え、花田は目を閉じ(うつむ)いた姿勢で沈黙してみせた。


彼の名前は…村の墓地には葬られず客死した土地で…訊かない。


摘み取りたかった花を摘まず、自然に任せた。それだけの話だ。

無邪気で残酷な三匹の仔猫が記憶を取り戻すことなく旅立った。

彼ら三人の名前を記憶に留めるのは地上に縛り付けるのと同じ、

忘れてやろう。花を手向けるより良い供養になると俺は信じる。

元四女猫であり、序列九位である花田の手でラブラドライトの

斑猫(ぶちねこ)にされた彼は普通の人間として永眠できたし、良いことだ。


羊の先生に長女猫の記憶は…。俺たち下っ端の連中が無理やり

叩き起こしたら悪夢の中へ放り出すのと変わらない。先生自身

知らないままにしとくだろう。目覚めさせちゃいけない寝た子。

そいつが先生の中に…いる…現実は仲間揃って忘れた方がいい。


「偶然だろうが譫言探偵(うわごとたんてい)の児童保護施設で職員をしていた自称

佐藤という男も寝具の中で眠ったまま、二度と目覚めなかった。

一人は持病を抱え服薬していたが、元三組同窓生の奇妙な一致、

安らぎの中で天に召されたと送り出す者たちは納得しておこう」

同窓生の佐藤? ああ、たぶん三組の帽子が目印だった生徒か。

村じゃ憶測から噂話の標的にされてた夫婦の息子の兄だと思う。

森魚(もりお)は偽り、村では佐藤という苗字が本当らしいと噂されてた。

「正解。村元は村の通学生だから裏事情も耳にしてたようだな」

「うーん、大人の言うことだし真偽は不明だ。うちじゃ森魚と

遊ぶなって言われてたけどさ、元から接点なくて遊ばなかった」

森魚の弟はモルとヒナとトリオ組んで遊んでたのは憶えてるが

兄者の方は…ああ、猫二人とトリオ組んで踊ってたんだっけ…。

気難しくて取っ付く島のねえ自分の殻に閉じ籠ったヤツだった。

もちろん俺の角度から見た話、他のヤツには違って見えてた筈。

「おまえ、詳しいな。僕の方が参考になった。同僚の佐藤とは

打ち解けた会話をした覚えがない。互いに多忙で余裕がなくて」

見下すのとは違う薄い笑みで目を合わせてきた。狸猫も過去に

林原紅司(はやしばら こうじ)が叶えた夢の施設で働いたそうだ。弟思いの姉として。

「僕は…中身はオバサンの要素が大きく()めていても…男性だ。

男性だから竜崎家(りゅうざきけ)三女と結婚できたのだ。そこを忘れては困る。

譫言探偵を姉の眼で見てはいない。個人的に尊敬すべき者だと

感じたので事業に協力しただけだが、実に有意義(ゆういぎ)な時代だった」

自分をオバサンと認めてるだけ偉いと思う。二人で軽く笑った。

「しかし、生き物としては欠落箇所(けつらくかしょ)があると言わざるを得ない。

だからこそ医師より余命宣告された(ねい)さんと共に過ごすことを

竜崎家に許されたのだ。(かえ)って幸運だったと切り替えているが」

笑みを止め、心に広がる景色を眺めてる花田。欠落が幸運か…。


心の向きを切り替えなきゃ先へ進めないと教えてくれてるんだ。

特撮ヒーローが変身するような勢いで前進するための進路変更。


「特撮といえば、村元の隠れた悪友の属性は宇宙刑事に入る筈。

クラスの誰とも馴染めない異星人だった事実を頑なに拒否した。

現在より以前の世界での姿の方が顕著(けんちょ)であったが鷹揚(おうよう)な態度で

実際は全く余裕なくても余裕たっぷりに見せかけるのが得意で

あいつは無理をしていた。今では分かる。変身する者の苦悩だ」

自分の元親友を言ってんのか。本当は泣きたい気持ちを堪えて

大袈裟に笑って、夕闇の屋上でギター弾いて歌ってた二組級長。


現世じゃ模型を集めて並べることに小遣いと時間を注ぎ込んで

学校で浮き上がって馴染めない現実から目を逸らしてたんだよ。



あいつの行動は…学校での唯一の親友だった一組級長のため…。



以前の世界で患っていた狸猫の持病が消え去り、その代わりに

あいつが被った不治(ふじ)(やまい)。この宿舎に俺たちが住み着いてから

再び学校時代と同じ黒縁眼鏡をかけるようになったのは何故だ?

「糖が多く含まれる血液は血管を壊す。長きに(わた)って糖尿病の

合併症(がっぺいしょう)を起こさず生き続けてきたのが宇宙刑事の奇跡と言える。

しかし、視力…乱視が酷くなってきたのだろう。そのため僕が

あいつに贈った弁償の眼鏡を再び使用するようになったらしい。

あいつの故郷の離島に立ち寄った際、僕が上手く立ちまわって

眼鏡の処方箋(しょほうせん)を入手した。フレーム探しには数年かかったけど

品物を用意したのに再会できず…手渡したのは爆撃蹂躙の後…。

現状では信号や道路標識等に留意する必要ないが明瞭な視野を

得たいのだろう。悪ぶってみせても性根が真面目すぎるからな」

十年生秋の課外活動で踏み壊されたと言ってた眼鏡、戦災後に

弁償の品を受け取ったのか…。バケモノなのに病気に障碍(しょうがい)だの

肉体の欠陥に悩まされて生き続けなきゃならないのが不思議だ。

回復能力に優れてるって触れ込みの虎さんもミンチにされたり

一瞬のうちに焼き払われて灰になったら、元に戻るんだろうか?

「さぁな。実験するなら僕だって見学させてほしいところだが

右眼を針で突いて失明させたときは数秒も経たずに治っていた。

この僕が加害者当人、本当に僕というバケモノは困り者なのだ」

この世界を破壊しようとまでした男だ。困る程度じゃ済まねえ。

「また心を防御壁で隠したようだな。静寂はいい。よく眠れる」

昔は宇宙刑事と親友の仲だったロボット刑事に似た男が(うそぶ)いた。


今日は疲れた。話を聞く耳と話を思慮分別する頭脳も疲れるし

休ませた方がいい場合だってあるよな。…もう今日は疲れた…。


「長大な記憶がある限り、一人でも笑って過ごせる至福を得た。

僕は精神的にも相当な強者(つわもの)。どんな困難が立ち塞がっていても

決して(くじ)けず、邪魔立てするもの全て撃ち抜く気概(きがい)で生き抜く。

職場の訓練では射撃も得意だったのだ。大都会は物騒である故、

繁華街での銃撃事件なんて日常茶飯事(にちじょうさはんじ)、怨恨や強盗目的その他、

他者の命を傷つけ奪う罪業に躊躇しない連中が(うごめ)いていたから

良心の呵責に苛まされず平然と撃ち放った。業務の規程により

手足しか狙えなかったが、僕個人を怨んで付け狙う連中もいた」

剣呑(けんのん)な発言を淡々と続け、相当なサイコだと自己紹介した模様。


付け狙う勇者一行をぶっ潰し、颯爽(さっそう)と鬼軍曹花田は今を生きる。


「全ては遥か遠くへ過ぎ去っていくだけ。振り返るに(あたい)しない。

過去への執着は敗走と等しく、醜態を晒して時間を無駄にする。

数十年前の僕が陥った現実逃避だが、執着なんか手放した方が

動くべき時、即座に行動可能。余計な荷物を背負う必要はない。

此の世にたった一人の我が生涯を他人の視点から評価されても

無意味なことだと心得ている。人それぞれの角度から観察され

秤や物差しの単位も異なる。列伝に記載された一人に対しても

評価が一致するとは限らない。我が人生を認める存在は一緒に

同じ人生を歩み続けてきた僕一人で十分、全行程を全肯定する」

自己否定よりは肯定した方が健康的だ。他人の眼に怯えてたら

歴史書に残された遠い昔、生きてた皆様方に失礼かもしれない。


もっちーの話に出た『あの相当長くなりそうな手紙』を書いた

時期のことを花田は無駄と思ってる様子だった。俺が読んだら

面白いと思って、最後まで夢中で読み耽るかもしれねぇけどな。


「この先は自分で自分の満点を目指す。まずは現状を打破する」


立ち上がって少年漫画の主人公っぽい威勢のいい台詞を吐いて

朝が早いから部屋で寝ると出て行った。狸猫の大将さんの夢は

村にあったモガミ屋を模倣した軽食を出す店舗の営業だってさ。

交渉が上手く運ぶと実現する。ポジティブな思いで応援しよう。


学校時代は「発想即実行(はっそうそくじっこう)」の五文字が花田の口癖だったな。

思い立ったら動け。自主清掃する姿しか思い浮かばねぇが

プラス思考で動いて自分が正しいと信じた道を歩いたんだ。

色々とアレな短所も多いが、案外よく喋るって分かったし

今後ともヨロシクって心境に近い。知らない人生に触れて

言葉を聞くのも勉強だ。教室の席に座ってるより役に立つ。


怨み辛みにしがみ付いてたら停滞する。停滞は澱みと腐敗の元。

そうなる前に気持ちをプラスに切り替え、変身して自分と闘え。



ベッド用のマットレスを床に敷いただけの寝台に横たわり

どんなに手を伸ばしても決して届かない過去の時間を想う。


学校時代は暇だと実家の離れで古書館(こしょかん)司書(ししょ)やってた。

ボランティアで漫画の貸し借り。悪くない時間だった。

卒業して実家の仕事を手伝うのが面倒で有り金持って

都会へ雲隠れ。仕事を求めて西の都会まで流れ着いた。

馬鹿にされても職場にしがみ付かなきゃ生きてけねえ。

そこで運命の繋がりを得たのは幸運だった。繋がった

縁を長く伸ばしたかった。そう願うのは誰でも同じ筈。

不味かった手料理が美味くなった。休みは一緒に掃除、

片付けに追われて日が暮れた。もっと愉しめる場所へ

連れて行きたかったけど寝て休むのが一番だと言うし

朝寝坊してる隙に昼食を作ってやって、感謝を伝えた。

炒飯とスープだけでも喜んで笑顔を見せてくれたっけ。


今が辛いときの逃げ場所でも執着してたら未来が遠ざかる。


傍から見りゃ確かに醜態だろうな。停滞した状態そのもの。

花田の発言は(もっと)もだ。でも、大事な宝物にして生きる者も

多いと思う。花田自身が過去の思い出を生きる糧にしてる。

執着しねぇ程度に心を癒すとき触れるのはOKにしとこう。



過去の自分という(サナギ)から脱皮した(ちょう)だと観想する。野原を舞う。


あ、今は冬だったんだっけ。やっぱり、まずは春を呼ばなきゃ。


望月漲が舞台裏に入って交渉すりゃ世界は瞬く間に変化を遂げる。

当然だと強く信じる。不安な気持ちは余計な荷物だ。投げ捨てろ。

ゆっくり寝てる暇ねぇな。荷物まとめて長旅の支度を調(ととの)えとくか。


…………………………。


…………………………。


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…………………………。


…………………………。


昨夜は俺が流しの床板に寝込んで、もっちーを帰しちまう失態をした。

詫びの品もねぇし、素直に謝っとくのが一番だよな。部屋を訪ねよう。


自室は二階だって聞いたけど部屋番号を覚えてねぇな。表札出してる

ヤツもいねぇし、誰かに訊いた方が早いと思う。とりあえず下りるか。


羊の先生で望月部長はアメトリン・カテドラルへ(おもむ)く気にはなってた。


気紛れな雲が動いてくれようとしてる絶好の機会(チャンス)(のが)しちゃいけない。

温かく新たな生命の息吹に満ちた春を呼ぶ雲だ。雨なんか降らすかよ。


五階から二階へ。もっちーが住むフロアへ向かってみた。顔が見たい。



…?!…



塞に収容された女子が二名、廊下に立ってる。もっちーの自室前かな?


俺が女子たちに近づいた気配を逸早(いちはや)く気づいた仮名の女子が俺を察知。

「おはようございます。羊の先生にお逢いしたくて訪ねたんですけど

失礼かもしれませんが玄関の呼び鈴を何度鳴らしても応答がなくて…」

数十年も昔に聴いた記憶のある現実にいた女性ラジオパーソナリティ

浅尾栞が目の前に立ってると錯覚しちまう美声の女子が質問してきた。

本当の年齢は不詳らしい長身の女子、俺より少々背が高くて目線が上。

望月漲のファン歴は俺の方がずっと長くても本物の女子には敵わねえ。

「俺も用があって来たんだけど、いないってことは生き残りを捜しに

出かけてるかもしれねぇな。あの先生にとっては一番の仕事だろうし」

施錠されてねぇから入りゃ不在かどうか確認できてもプライバシーの

侵害できねぇもんな。でかいリュック背負って遠くを歩いてるのかも。

それが通常の任務みてぇなもんだし、起きたら身体が勝手に動いても

仕方ないと思う。もう何年も続けてる行動を止めるのは難しいだろう。

「ですが、先生の運転手さんと私たちの同年代くらいの男子も先生を

捜してるみたいでしたよ。今朝、会ったとき車を出して先生を捜しに

向かったところをベニちゃんと一緒に見かけました。誰にも行き先を

告げたりしないで、先生が遠くへ出かけることがあるんでしょうか?」

斎藤と谷地が一緒に捜してる? 鼠の親分なら許可なく上がり込んで

中の様子を見たと思うし、もっちーが部屋に居ねぇのは確かだろうな。

鼠の親分は小柄だし同年代扱いされても仕方ねぇか。ちょっと笑える。

あ、笑ってられねぇな。今朝は白い曇り空でも俺だって青天(せいてん)霹靂(へきれき)だ。

「昨晩ちょっと会って話したけど、一人で遠くへ行く予定はなかった。

仲間が捜しに出てるんなら待つしかないだろうな。塞に戻っててくれ。

羊の先生が帰ってきたら俺から伝えとく。言伝(ことづて)があるなら預かるけど」

昨日の時点では望月部長一人じゃなく同行する予定人数は四人だった。

専属運転手が捜してるのは異常事態だと思う。しかし、勝手に何処へ?

「あ、いえ…。保護者の皆様方が捜してるというのが気になったので

心配になっただけです。無事お戻りになったら私たちも安心できます」

地味な格好してても昔なら都会の繁華街を歩いてたら目利きの連中が

放っとかないと思える超美少女が203号室に目を向けたまま答えた。

浅尾栞に似た長身美少女の背後に隠れた小柄な女子は付き添いらしく

余計な口を挟まずにいた。二人とも誰かに似てる…そんな気がする…。

長身女子も浅尾栞じゃねぇんだよ。思考を(めぐ)らすと言葉が喉で詰まる。


滅多に顔を合わせる機会のない交渉班の男が現れても役に立たねぇし

落ち着かねぇんだろうな。挨拶の言葉もなく二人の女子は姿を消した。

もっちーの部屋は分かったけど、勝手に入って手掛かりを探すなんて

ゲームみてぇな不届きな真似はできねぇよ。プライバシーの侵害だし。

斎藤と谷地から事情を聞く方が早い。無駄な行動してたら糸が絡まる。


腕時計を覗いてみる。午前九時。もっちーがいなけりゃ話になんねぇ。


自分の部屋で黙って待つか、駐車場まで下りて待つか、ここは二択だ。

さっきの長身女子が話して聞かせた「今朝(けさ)」って何時だったんだろう?

今朝どこで二人を見かけたのか、もう少し突っ込んで訊くべきだった。

俺が探偵の適性を持ってないことは分かった。とりあえず足を使うか。


バケモノ寮の薄暗い階段を出入口まで下り、屋外の空気を吸い込もう。


俺の場合、頭脳より身体だ。幾ら思考を巡らしても名案は出てこない。

時間の淵へ戻りたくて、頭上に停滞してる雲を動かそうと思いついた。

雲を吹き飛ばす芭蕉扇(ばしょうせん)の持ち主が行き先も告げずに姿を消すだろうか?


「ほら、そこに村元がいた。こいつの声は他より大きく聴き取り易い」


階段を下りて出入口へ向かって数歩の場所で水の入ったポリタンクを

それぞれ両手に持って歩く掃除班たちがいた。発言したのは三人の殿(しんがり)

花田で間違いねぇな。甘く気怠(けだる)い独特の声色は何故だか耳の奥に残る。


その(さきがけ)を歩いてた夏目は軽く会釈して擦れ違うと階段を上って行った。

虎の先生が立ち止まって挨拶とか有り得ねぇ。学校時代に色々あって

未だに引き摺るほど嫌いだ。俺の知らねぇ良い部分もあるんだろうが

べつに知りたくもねえ。切り刻まれた後で灰になる被験体となるなら

新参者の俺も見届けたいところだけどな。十年生の夏期休暇明けから

頭だけ出家(しゅっけ)して、左眼尻(ひだりめじり)の辺りに(あざ)がある。不可解な特徴を残した姿。

無口になったのも不気味。きっと知らない方がいい裏事情を隠してる。


「何だか落ち着かないって顔してるな。出張疲れを引き摺ってる感じ。

メシ食ったら横になって、ゆっくり休んだ方がいいんじゃねーのォ?」

中庸(ちゅうよう)の位置に立てる一組の副級長を務めてた桜庭が声をかけてくれた。

「そうじゃない。村元の相手は僕が相応しい。サクは先に行ってくれ」

義兄(ぎけい)であるサトリの狸猫が義弟(ぎてい)に言うと口答えせず桜庭は引き下がる。


周囲の空気を和やかにする動く清浄機は擦れ違って班の業務に戻った。


「昨夜見せてた鼬の不安は塞の女子たちじゃなかったようだ。羊猫が

勝手に一人で動き出した。先ほど確認してみたら駐輪場から自転車が

1台消えていたのだ。昨夜飲んだ酒の勢いで思い立った出奔だろうな。

望月はアメトリン・カテドラルとは違う場所へ行ったのだと思われる。

僕を方向音痴とバカにしてないで、望月を縛り付けておくべきだった。

望月は気紛れな羊雲(ひつじぐも)、それを忘れていた初代鞄持(しょだいかばんも)ちの僕も迂闊だった」

2本のポリタンクを床に置いた花田が一息で捲し立てた後、溜め息…。


外から射し込んできた陽射しが逆光になって、花田の表情が窺えない。

きっと学校時代から見飽きた神経質の塊みてぇな顔してると思うけど。


望月部長が自転車で出かけたって? ()(ぱら)いが近くのコンビニまで

酒を買い足しに行く場面を想像しちまう。3缶しか飲んでなかったし。

だが、現在の世界で営業してる店舗を探しても無駄。不可解な行動だ。


頭上に停滞した陰鬱な雲を吹き飛ばそうとしたのに、羊の先生自体が

羊雲だったってオチかよ。選択ミスのバッドエンドでゲームオーバー?


「塞ぎ込む必要ない。昨夜、僕が同行者に加わった時点で勝利は確定。

この僕という一騎当千(いっきとうせん)の武将がいるし、必ず正しき道へ辿り着く運命。

些細(ささい)な刺激に(おび)えて嘆くようではいけない。大山の心持ちで進攻せよ」

一人で戦場に出る勢いの花田は俺に励ましの言葉を吐いてるらしいが

これから何をしたら正しき道へ辿り着くのか具体的な意見が全くない。

そいつは兎も角、一騎当千の武将って自己評価が天空を遥か超えてる。

「そう急かすな。むぐらもちの行き先を追跡無双である鼬に掴ませる。

僕の代わりに飲料水のタンクを配達してほしい。本日は503号室と

僕の部屋の前に置けば完了。塞へ行ってくる。村元は自室で待ってろ」

くるりと背中を向けた自称一騎当千の武将がバケモノ寮を出て行った。


満タンの飲料水を両手に持って五階まで上がれって上官命令が下った。


ポリタンクに近づいたら陽射しが隠れた。窓から覗くのは一面の白雲。

夏目と桜庭の姿は見えてたのに、花田だけ表情がよく分からなかった。

顔の造りは脳内にこびり付いた焦げ目と同じくらい焼き付いてるから

全く問題ねぇけどな。開け放してる出入口から冷気が入り込んで寒い。

やっぱり俺の場合、頭脳を使うより体力勝負で役に立つ方が気楽だよ。


週刊連載の次号を待てって気持ちでいよう。心に留め置き来週を待つ。


気を長くして発売日を待てば話の続きが読める。ポリタンクが重てぇ。

腰をやられねぇよう慎重に足を進めよう。掃除班の三人はスゲェ体力。

年中無休で朝から力仕事に遺体の(とむら)いまでしてるんだから頭が下がる。

しかし、重いな。まだ二階なのに足腰が辛くなってきた。両腕が()る。

肩が重い。満タンのポリタンク2本を運ぶ程度でコレかよ。情けねえ。


…………………………。


…………………………。


…………………………。


花田の部屋の前にポリタンクを置いて力尽き…てられねぇんだった。


もう一つのポリタンクを斎藤の部屋に置いてやらなきゃ完了しねえ。

五階は少し変わった並びで同じフロアの数メートルの移動が厳しい。

昼休みのテニスじゃ俺とチアキのダブルスが最強だと思ってたけど

遠い過去の話だもんな。俺の後衛も普通に年老いて墓に葬られてる。

しがみ付いてちゃいけないのか。残った方が損する人生ってゲーム。


バケモノだからって無限の体力じゃないのが漫画やゲームと違う点。

生き残って良かったと思えない。逢いてぇ連中は彼の世の住人だし

時間の淵に浸かってねぇと病状の進行は抑えらんねぇ。不具合過多(ふぐあいかた)



むぐらもちの望月君がバックレた。期待を裏切るのが隠れた趣味か?


夜中に何か起きたんだろうか?…俺たちに言伝も残さず自転車で…?



503号室、施錠されてない斎藤の部屋のドアを開けた。気配なし。

昔を思い出す。離れの古書館の硝子引き戸に蹴り入れたバカヤロー。

激情に駆られるとヤバい性質なのを学校と寄宿舎の中じゃ苦労して

隠し続けてたが、親しくなってすぐ斎藤のヤバさに気づいた。短気。

普段のんびり鷹揚に振舞(ふるま)ってるのは演技、誤魔化し取り繕ってた姿。


入っていいよな。これでも手癖は悪くない。器物破損の趣味もない。


玄関の三和土に飲料水入りのポリタンクを置き、靴を脱いで上がる。

俺の部屋と同じく静けさに包まれて不安を覚える。床板に座り込む。

引き戸を開けて居間を覗き込むのは止めとく。甘い芳香剤みてぇな

匂いを鼻腔(びくう)に感じる。フルーツ。でも、人工っぽくない自然な香り。


きれいなオレンジ色の果実が頭に浮かんでくる。ビタミンカラーだ。


まぁいいや。身体に負担かけた上に頭脳を疲弊させる必要ねぇよな。

答えを知っても、そんな宿題は出されてねえ。単に下衆な勘繰(かんぐ)りだ。

もしかしたら、あいつの持病の匂いだろうか? いや、違うと思う。

以前の世界にいた同病の花田から匂いがしてると感じた記憶がない。



『以前の世界?』



果たして俺は本当に存在してたんだろうか?…いつから居たんだ…?


名前、家族、住所、親類、学校、級友、村の景色、商店、共同浴場、

村の淵、古戦場、一組副級長である潤の家は墓地に隣接した小屋で

墓地のすぐ脇に植えた唐黍(とうきび)とか美味そうに食っててスゲェと思った。

ケン坊は石集めと磨くのが趣味で特に仲の良い友達はいなかったが

嫌われてる訳じゃねえ。俺たちが遊びに誘っても断られてばっかり。


以前の学校じゃ起きて寝るまで慈友君は校長の孫と一緒に過ごした。

遼の大食いに付き合わされ、村の食堂では玉葱のスープを飲んでた。

オニオングラタンスープっていうのを好んで口にしてたと聞いてる。

バジルと粉チーズを大量に投入して退屈そうにスプーンで(すく)ってた。

村の食堂は無国籍な雰囲気で、俺は親子丼と水餃子をよく頼んでた。


二人の事件は数知れねぇ。校長の孫が校内の彼方此方で喫煙するし

誰にでも喧嘩を吹っかけてくる。遼の臍無(へそな)疑惑(ぎわく)の追及。生首事件。

慈友君はクラスのトラブルメーカーだった遼の尻拭(しりぬぐ)いに専念してた。

以前の学校じゃ長期休暇もなかったから息抜きする時間もなかった。


あ、サイ…。一組と二組の級長には名前がない。俺も同様に名無し。


名前を持つ生徒がトクベツだった。彰太君、慈友君、三人のじゅん。

ケン坊、壱琉…。夏目の従兄弟は姓だけ。それでも個性を発揮して

それなりに愉快な学校生活を続けてきたよな。名無しの級長二人や

夏目の従兄弟(いとこ)が喧嘩して仲直りするのもお約束として演じられてた。

夏目の従兄弟は従兄が「髪切れ!」従弟が「イヤだ!」の繰り返し。

名無しの級長二人は…見てるのが辛くなる遣り取りを担当してて…

笑えない物語、悲しい二人、覗き込みたくないと遠ざけられた二人。


(けい)(しゅう)の双子、てっちゃん、しいちゃん、(ゆう)ちゃん、(よう)ちゃま…。


フルネームじゃなくても名前を与えられた生徒が増えてきたっけ。

俺は名無しの賑やかし。基本的に物語の傍観者(ぼうかんしゃ)の位置に立ってた。

誰かを羨む気持ちはなかった。複雑(フクザツ)な感情を持ってなかったんだ。


それでも念願だった名と姓を与えられ、俺に生命が吹き込まれた。


俺の名前で作文を綴られて、本当に嬉しかった。ミートパイには

なりたくねえ。もっちーが可哀想だと思ったけど役を下りたのは

紛れもない本当の話だよ。もし投票になりゃ俺が一票入れたのに。

もっちーは言葉選びが下手で余計な力が入り過ぎるタイプだった。

望月漲が自然な喋り方を習得するまで長い時間を必要としたんだ。



俺が一人で世界の外に座ってる気分だ。ここは…斎藤和眞の部屋…?


天井、壁、床もない空白の中に放り込まれた感じだった。落ち着け。


時間の淵、世界の外、本当は何処からでも舞台の裏袖(うらそで)へ繋がるのか?



…?!…



白いパーカーに黒いダウンベストを羽織った黒縁眼鏡の斎藤が居た。


いつドアを開けて玄関に入ったか視界に映らなかった。突然の登場。

慌てて座り直し会釈する。昨日の食事会でも言葉を交わさなかった。

自室に呼ぼうとしたが、羊の先生が食後は外を歩いてるだろうから

部屋を訪ねても無駄と釘を刺したんだ。こいつの元親友も来たし…。


現状打破。それが主題だ。こんな停滞した世界に流れを取り戻そう。


「飲料水のポリタンク、持って来てくれたのか。どうもありがとう」

言いながらハイカットの靴を脱いでる。のんびりした斎藤の口調だ。

「自炊するヤツには必需品(ひつじゅひん)だもんな。俺も食堂まで行きたくねぇし。

そうだ。もっちー部長は見つかったのか? 谷地と捜してたことは

塞の女子から聞いた。生存者を探して、どっかの集落にいたのか?」

白いポリタンクを軽々と持って移動すると台所の定位置に置いてる。

「話が早いな。でも、アッちゃんと羊の先生が行きそうな地区まで

車を出したんだけど見つけられなかったよ。どこ行ったんだろう?」

冷蔵庫の前に立ち、勝手に入り込んでた俺を見下ろす姿勢で喋った。

寄宿舎暮らしに馴染めなかった斎藤だが、もっちーとは割と良好な

関係を築けたらしい。長い間、主治医として世話になったそうだし

十数年ほど二人で彼方此方走り回って車中生活を愉しんでたようだ。

お互いの性格を知り尽くした上で距離を置いて専属運転手を務める。

「あ、花田が鼬の先生に追跡を頼むとか言って塞に行ったんだけど

見かけなかったか? 鼬さんは昨日の晩から異常を感知してたって」

こっちは立膝ついて斎藤を見上げて言った。花田の名前を出しても

斎藤は表情を変えない。最初から無関係な他人として扱ってる様子。

「元々追い駆けっこが仕事だった先輩だから委任(いにん)する方が早いよな。

まさかアレ、俺の部屋に来るの?…それは物凄く迷惑(メーワク)なんだけど…。

羊の先生の行き先なら俺でも予想できる。長期休暇に先生の親友と

過ごした屋敷だろうな。どうやって行くのか地図を見ても無理だし

仮に俺たちが後を追っても、羊の先生を引き止められないと思うよ。

それより狸猫の顔なんか見たくない。アレと話すことは何もない!」

名前を出すのは許容範囲内でも対面するのは範囲外らしい面倒な仲。

「悪かった。疲れたんで休ませてもらっただけ。俺の部屋に戻るよ」

立ち上がり玄関へ一歩踏み出したら、扉が開いて花田が顔を出した。


「えぇと、ここで話を済ませて構わないけど俺は奥に引っ込んでる」


学校時代は共依存(きょういぞん)してた狸猫の急襲(きゅうしゅう)狼狽(うろた)えた表情へ切り替わった

斎藤が勢いよく喋り終えて、居間へと続く引き戸に右手をかけると

「姿を消してもいいが僕の用事が済んだら呼ぶ予定、待ってた方が

余計な手間がない。すぐ済む。おまえには不可欠なモノなのだから」

俺を挟んで少々意味深(いみしん)に感じる言葉を話す花田。斎藤に必要なモノ?

あ、さっきは持ってなかった四次元トートバッグを右肩にかけてる。

花田は部屋の前に置いたポリタンクを片付け、室内に入って自分の

鞄を持ってくる余裕があったのか。廊下を歩く足音も響かせないで。


「俺の注射とか探さなくていいから。こっちが頼みもしないことを

勝手にして満足? こっちは迷惑だよ。もう長居するのは御免だ!」

停滞して澱んで腐敗しつつある世界に長居したくないと言い放った。

「この世界を引っ掻き回したハンソクの分際で終わりを望むことは

許されぬ話。ハンソクには牢獄世界の終着駅まで付き合ってもらう」

玄関扉を塞ぐように直立不動の姿勢で立つ花田が犯人を追い詰める

探偵みたいな言葉を吐いて、何の犯人でもない斎藤を動けなくした。


ハンソクは反則? 学校時代の桜庭が望月漲を反則氏と呼んでたが

どうして斎藤が反則呼ばわりされるのか俺には全く背景が窺えない。



…?!…



花田が自分の左手を布鞄に入れると黒…デリンジャーを取り出した。

今それを出して…この部屋で何をしようと考えてんだ?…撃つのか?


逃げようと動いた。背を向けたら勝てねぇのに背中…息が苦しい…。


「昨日の晩、村元の部屋のトイレで黙って谷地と望月の会話を耳に

入れたところ、天から僕の脳内へ一直線に閃光(せんこう)が射し貫いたのだ!

コーラルの魚の有意義な活用法を思いついた。コレが正しき解答だ」



昨日も今日もやられっ放しで終わり…停滞した雲は晴れないのか…?

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