淮南三叛③諸葛誕
九
「落ちつかぬことであるなあ……」
征東将軍の諸葛誕は、不安な日々を送っていた。
(大都督(司馬昭)は、いつかわれを誅すであろう)
諸葛誕は毌丘倹と文欽の乱には協力しなかったが、それは文欽と仲が悪かったからであり、毌丘倹が死に文欽が呉に亡命したならば、司馬昭による粛正の対象になる、とかんじた。
なぜなら、司馬師・司馬昭の兄弟は曹爽の縁者をことごとく抹殺してきた過去があり、諸葛誕は夏侯玄と鄧飄と懇意にしていた。
恐怖に駆られた諸葛誕は、寿春において倉を開放し、民衆に分け与えてその心をとった。
さらにじぶんに仕える配下を厚遇し、揚州一円の遊侠の徒をもてなして、数千人にものぼる死をもいとわぬ私兵を編成した。
(毌丘倹の二の舞にはならぬ)
叛乱で失敗した毌丘倹は、兵を挙げたものの、官民を脅しつけて戦にしたがわせたため、合戦になったらすぐに瓦解したことを教訓としたのである。
諸葛誕は淮南の二つの叛乱、王淩と毌丘倹と違い、勤皇の志から挙兵したのではなく、じぶんが殺されまいとして自立しようとした。
これが客観的な見方であろう。
とにかく揚州を強固な防衛体制にした諸葛誕は、自立するきっかけを模索していた。
甘露元年(二五六)、呉軍が濡須水の東に兵をうごかそうとした。
諸葛誕は、手をうってよろこんだ。
「呉軍が、国境を侵そうとしています。どうか寿春を防衛するため、十万の兵をお送りください」
(これで、十万の兵を手に入れることができる)
諸葛誕は、明らかに度を失っていた。
司馬昭は諸葛誕からの書簡を鐘会に見せ、
「征東将軍(諸葛誕)からだ。呉は国境をこえたわけでもないのに、なぜ十万もの兵が要るのか」
と諮問した。鐘会は書簡を一読して、
「叛乱ですかな」
といった。司馬昭は腕をくんで、押し黙った。
「たしかに、征東将軍には大軍をあずけており、それだけでじゅうぶん対応できるはずだ。呉のわずかなうごきに十万の兵を要求するとは、解せぬ」
「十万の兵を、叛乱軍に組み込むつもりでしょう。どうなさいますか」
司馬昭は秦朗に「やさしい」と評されただけあって、みずから疑いの段階にあるものにしかけたりはしない。
翌年の甘露二年(二五七)に、諸葛誕を召して司空に任命しようとした。
もちろん司空は三公の位なので、洛陽に帰還せねばならない。
厚遇である。
淮南の地にいると、王淩や毌丘倹の謀叛の過去もあり、疑心暗鬼にとらわれてしまう。
仮に謀叛の準備をしていたとしても、それを放擲して中央に還ってくれば、三公の位に任じて不問に付す。
どこまでも司馬昭は、いらぬいさかいを回避したかった。
(弟の方は、にぶすぎるのではないか)
鐘会は、司馬昭のやり方を内心軽侮した。
(兄ならば、このようなまわりくどい手だてはとらなかった)
たしかに司馬師ならば、謀叛が確実な相手であれば、謀略と出師の二本立てでことに臨んでいたであろう。
(長史を派遣したりしたのも、われは解せぬ)
長史とは賈充のことで、豫州の伝説的な名刺史であった賈逵の子である。
賈充は清廉潔白で知られた父にくらべて、謀略の能力はあるものの、あざとく、いうなれば司馬昭の佞臣であった。
賈充は一州の刺史としてしか名を知られなかった厳粛な父に、内心反発していた。
「乱世は終わってはおらぬのに、父のやり方は歯がゆすぎた」
そのため、政柄をにぎっている司馬兄弟に近づくには、賄賂や恐喝等手段を選ばなかった。
司馬昭の手を汚さず、みずから汚れ仕事をすることで信任を得てきた賈充は、
「各方面や各州の指導者が、大都督をいかがとらえているか、調査してまいりましょう」
と司馬昭に申し出た。
(露骨なことを……)
司馬昭は嫌悪感をおぼえたが、皇帝の曹髦がじぶんのことを嫌いぬいているかぎり、国内配下の色分けを把握しておきたいのは事実であった。
「ふむ……やってくれるか」
賈充は勇躍して、各方面に出かけた。
地方刺史らは、賈充が虎の威を借る狐であることを知っている。
盛大なもてなしがなされ、各地の珍味・美女らが賈充に献上された。
(こうでなくてはならぬ)
気分をよくした賈充は、
「洛中の群臣は、みな大都督への禅譲を願っておられる。いかが思われるか」
と独断で、踏み込んだ意思確認をおこなった。
もちろん賈充のうしろに司馬昭がいることを知らぬものはいない。
「これまでの司馬氏の貢献や、大都督の功績を鑑みれば、それは当然のことと思います」
どの方面軍司令官や地方刺史も、そのようにこたえた。順当で無難なこたえであろう。
しかし、淮南の諸葛誕だけは違った。怒りをあらわにして、賈充につめよった。
「なんじは賈豫州(賈逵)の子ではないのか。代々曹魏の恩を受けてきたのに、なぜ帝室に背いて帝位を大都督に譲ろうとしているるのだ。
なんじの阿諛は聞くに堪えぬ。万が一洛中で変事が起これば、われは決死の覚悟をもって都に攻め上り、陛下を補弼するであろう」
烈火のごとき諸葛誕の表情にさらされた賈充は、おそれおののき、そそくさと寿春を後にした。
(おのれ征東将軍、おぼえておれよ)
尾ひれをつけて諸葛誕の非を司馬昭に報告した賈充は、
「大都督にひれ伏さぬものは、滅びるがよい」
とくちびるを反らせて溜飲を下げた。
しかしながら、諸葛誕の勤皇の志が、純粋なものであったかは疑わしい。
本来諸葛誕は、夏侯玄や鄧飄と親しく、うわべのきらびやかさをこのむ「浮華の徒」であった。
曹叡と秦朗はそのような浮華の徒をきらい、諸葛誕を免職にした。諸葛誕が復職できたのは曹叡が崩じて曹爽が取り立ててくれたからであり、皇室を尊ぶといっても曹叡はきらっていたはずである。
皇帝をすげかえようとした王淩はともかく、司馬師の専横を糺そうとした毌丘倹は、純粋な勤皇の士であった。
諸葛誕が本当に勤皇の志があったとすれば、このとき毌丘倹に助力していたはずである。
だが、そうしなかったのはなぜか。
個人的に憎み合っている文欽が、毌丘倹の副将であったからであろう。
公より私の情を優先する諸葛誕は、かつてうわべのきらびやかさにくるまれていた浮華の徒の頃と、性根は変わっていない。
(しかし……長史にはいいすぎたか)
諸葛誕は、賈充を罵倒したことに後悔をおぼえた。賈充は、司馬昭にあることないことじぶんの悪感情をつたえるであろう。
「都に呼び出されて殺されるよりは、呉に救援をもとめて挙兵する」
ついに諸葛誕は、叛乱にふみきった。
かつて管輅が秦朗と徐庶に、「三つの大きな叛乱が南方でおきる」と預言したが、そのすべてが実現することになった。
この王淩、毌丘倹、諸葛誕が淮南で起こした三つの叛乱のことを後世「淮南三叛」とよぶ。
それにしても、諸葛誕は呉に救援をもとめたことは、義挙という金看板に汚点をつけた。
みずからが勝つためには敵にも手を借りる、という戦略は魏の忠臣としてのそれではない。
ともあれ、諸葛誕は長史の呉鋼を建業に派遣し、
「寿春を呉に進呈いたしますので、救援の軍を送っていただきたい」
と依頼した。
当時丞相の孫峻は心臓病で三十八歳の若さで病死し、弟の孫綝が大将軍として権力を握っていた。
「諸葛誕が……わが軍をおびき出す策ではないのか」
そういって眉をひそめた孫綝に、取次いだ属官は、
「それが、密使は諸葛誕の末子である諸葛靚をつれてきています。それだけでなく、征東将軍陣営の幕僚の子弟も数多く含まれています」
といった。
「それはまことか。諸葛誕といえば司馬昭の寵臣……つくづく人のこころは謎よの」
孫綝はまだ二十代であるが、呂拠との政争に勝ち抜いてきた度胸がある。すぐ密使の呉鋼と会うことにした。
「遠いところをご苦労であった。われは征東将軍(諸葛誕)に助力したくかんがえているが、まず長史(呉鋼)には陛下(孫亮)に謁見してもらいたい。
征東将軍が、呉に助けをもとめられたくわしい経緯をおはなしねがえるか」
孫綝は慇懃な態度で、呉鋼と接見した。
呉鋼のはなしに嘘がないと判断した孫綝は、かれをともなって皇帝の孫亮のもとに参内した。
孫亮も若い皇帝であるものの、聡明さは若いころの孫権に似ている。
「長史のはなしは了解した。朕も寿春を救うべく兵を派遣するであろう」
即断即決であった。
孫綝が諸葛誕への援軍の将として選んだのは、全懌、全端、唐咨、王祚さらに文欽であった。
主将である全端と全懌は、呉の皇族であるから申し分のない誠意であるが、呉鋼が気になったのは文欽である。
(そりの合わぬ鎮北将軍を、征東将軍はうけいれるだろうか……)
文欽は、亡命した呉で鎮北将軍に任じられている。
わずかな懸念をもった呉鋼だが、総勢三万という軍勢に、諸葛誕も大人の対応をするはずだとおもった。
洛陽にいる司馬昭は、まもなく諸葛誕が呉と提携して叛逆にふみきったことを知った。
「四征を慰労し、中央政権の意見を聴取したことが仇となったかな」
司馬昭は、賈充に冷眼をむけた。四征とは、征北将軍、征南将軍、征西将軍、そして征東将軍の諸葛誕ことを指している。
賈充は内心ややうろたえたものの、
「征東将軍は、人望が高すぎます。さきの不穏な暴言といい、自立して叛逆するのは時間の問題だったのです。
兵をすんなり楽綝にわたさず、一向に帰洛しないことで今日の事態は予想できました」
とひらきなおったようにいった。
(よくいう……)
司馬昭は鼻白むおもいで賈充のことばをきいたが、もっともな意見でもあった。
「そうなると楽綝があぶない。救援の兵をだそう」
楽綝は建国の元勲である楽進の子である。
楽進は曹操が董卓討伐の兵を旗揚げした頃からの旧臣で、その貢献は計り知れないものがあった。
一方の諸葛誕は、すでに頭に血がのぼっている。
「つぎに三公の司空になるべきは、驃騎将軍(王昶)であろう。しかも兵を揚州(楽綝)に引き渡せと……また、正式ではない健脚の者に文書を持参させるとは。謀ったな、揚州」
鍛錬に鍛錬をかさねてきた精鋭である。
身ぐるみはがされて洛陽で逮捕されると確信した諸葛誕は、楽綝を殺すことにした。
楽綝は揚州刺史であるが、治所が同じ寿春にあることがわざわいした。
諸葛誕は精鋭の私兵から数百人を選抜し、揚州刺史の治所に急行した。
何も知らない楽綝は、諸葛誕が訪問したときき、あわてて門を開けで出迎えた。
「征東将軍、いそぎの御用とはなんですか。
なにやら武装されているようですが……」
諸葛誕は景気づけに酒をたんまり呑んで、赤ら顔である。
「さきにつくらせておいた鎧と武具ができあがったのでな。これで賊を討伐するはずであったが、洛陽によびもどされることとなって無用になった。寿春を離れる慰みに、これらを着用して揚州(楽綝)にみてもらうことにした……」
「あっ」
諸葛誕の殺気から不吉なものをかんじた楽綝は、あわてて門を閉じて治所内に逃げ込んだ。
「洛陽に還る前の気慰みよ。なぜ門を閉じる。こじ開けい」
南門を開けて、東門も通過した諸葛誕は、
「城壁にのぼり、攻撃せよ」
と命じた。州民は逃散し、風上から火を放った諸葛誕は、府庫を焼き払った。精鋭のうごきは俊敏で、楽綝はたちまち高楼においつめられた。
「征東将軍、これはいかなるわけか」
悲痛な叫びをあげた楽綝に、
「揚州よ、なんじは前にわれの配下であった。しかも勇敢な威候(楽進)の子ではないか。なぜ、大都督の狗になりさがった」
目をすえた諸葛誕は、すでに刀をぬいている。
「な、なんのことだ。われはしらぬぞ」
「天誅だっ」
大刀を振り下ろした直後、兵たちが楽綝に殺到し、あっというまに斬殺した。
※
揚州で諸葛誕が謀叛の兵を挙げたことを急報したのは、隣州の豫州刺史の王基である。
司馬昭は、王基をもとの諸葛誕の地位である征東将軍に任命し、都督揚豫諸軍事も兼ねさせた。南方の最高司令官は、諸葛誕から王基にうつったというわけだ。
「かたじけなく拝命いたしました。して、すぐに諸葛誕を討伐する手立てを講じませんと……」
と王基が前のめりに使者を問い詰めるた。
「いえ、大都督は諸葛誕の叛乱を太后に奏上し、討伐軍が編成されて南下する予定です。
鎮東将軍(王基)におかれましては、堅塁を厚くして豫州の守備に専念なさいますよう。
そのように大都督はお考えです」
「それでは遅すぎるっ」
額に血管を浮き出させた王基は、大声をあげた。
「そのような悠長なうごきですと、揚州どころか豫州の半分も攻め取られてしまいます。
敵は南方で最大の兵を擁しているだけでなく、その核は数千の死をも厭わぬ諸葛誕の私兵であり、呉からも三万の兵を救援させている。その中には、あの文欽もいるのですぞ」
王基はせわしなく、何度も司馬昭に書簡を送り、みずから出師させてほしいと要請した。
やがて司馬昭から、
「主力軍を率いて寿春にむかうべし」
とそれをゆるされる書簡がとどいた。
「よし、急ぐぞ。まだ呉軍は寿春に到着はしていまい。寿春城外で叩いてやる」
王基は勇敢な将軍で、毌丘倹を討ったときも積極策を献策して司馬師の本営を南下させたことがある。
寿春城に急行して到着した王基は、
「諸葛誕を城から出すな。これから城を包囲する営所を築くぞ」
と兵たちを励ました。
(とはいえ……諸葛誕も間抜けではあるまい。やすやすと、包囲の営所を築かせてはくれぬだろうな)
営所を築く工事をしているときは、豫州軍の防備は弱くなる。そこを攻撃して包囲させないのが戦術の初歩であろう。
しかし、城内からの出撃はついぞなかった。
「ほう。やすやすと包囲させてくれるのか」
王基は、拍子抜けした。
包囲陣が完成したころになって、ようやく文欽が先鋒という名の先導をつとめた、三万の呉軍が到着した。
「諸葛誕め、やすやすと城を包囲させおって……」
包囲陣が完成する前に、城内の兵と呉軍で王基の軍を挟撃したかった文欽は、舌打ちした。
「こうなっては、城内に入るのは至難の業ですな」
土塁で厚く包囲された寿春城をみて、主将
の全端がいった。
「いや、城に入る道は一つあります」
文欽は、寿春城の北側にある山を指ししめした。
「王基は、北側に兵を配置していないようです」
副将の全懌が物見を放って、報告した。
しかし三万の大軍が山中の険路を通過できるのか。
「司馬昭と戦うには、籠城しかない。包囲している土塁を攻めても敵主力が到着する前に消耗してしまいます。山道を通って入場させることが先決です」
文欽は、あくまで籠城戦を主張し、全端らもそれに従った。
「呉の大軍が、北側の山に入ったと」
王基は報告を受けて、しばし戦術を整理した。呉軍は三万もいる。野戦を挑んだところで、王基の軍も死傷者を出すであろう。
(それならば、いっそ城に入れて北側に蓋をし、兵糧攻めにしてはどうか)
にやりと笑った王基は、
「呉軍を攻めるな。山道から城に入れてしまえ」
と配下に命じた。
山に入った呉軍の将兵は、隘路を難儀して越え、動かない王基の軍を尻目に、無事寿春城に入ることができた。
寿春城内からおおきな歓声があがった。
諸葛誕も安堵したものの、懸念はある。
「多数の兵がすでに城内にいるのに、さらに三万も呉兵が加わると、糧食があっというまに底をつくぞ」
ということである。さらに先導してきた将が不仲である文欽であることを知ると、たちまち不機嫌になり、
「鎮北将軍(文欽)は魏軍と戦うのがこわいのか。これから司馬昭が主力を率いて南下してくるのだから、その前に王基の軍をわれの軍と挟撃すればよかったのだ」
と属官に不満をぶちまけた。
一方の王基は、おのれの策のとおり諸葛誕の軍と文欽たちの援軍を城に閉じ込めたあと、文字通り城北の山に兵を配置し、蓋をした。
そこに、思いがけない報せが届いた。
「なに、陛下のご親征だと……」
皇帝の曹髦が司馬昭の討伐軍に同行しているというのだ。しかも郭太后まで一緒であるという。
(なかなか、大都督はやるな)
ふだん茫洋とした司馬昭が兵事をどう指導するか不安があった王基も、おおいにその手法を心中で褒めた。
義兵という大義名分で士気を高めている諸葛誕と文欽の前に、敵として皇帝の曹髦が攻めてくるのである。
(孤立無援の状況をつくりだせば、あっけなく叛乱は鎮圧されるかもしれぬ)
しかし、それが楽観にすぎぬことを、のちに王基は知ることになる。
ともあれ曹髦からの詔を受け取った王基は、夏口を守備していた孫呉の一族である孫壱が、兵をつれて魏に亡命したことを知った。
「呉の大将軍である孫綝が、粛正した呂拠と車騎将軍が親族だったので、暗殺しようとしたということです」
孫壱は呉の皇族であることから、魏では車騎将軍と侍中に任じられている。
「そうか……車騎将軍は呉におられるころから、誠実をもってしられるお人であった。
孫綝は兄(孫峻)に似て、粗暴の指導者ということよ」
王基はそういって、分厚い包囲陣のむこうにそびえる寿春の城壁をながめた。
しかしながら果報者とおもわれた孫壱は、二年後に横死することになる。
孫綝の刺客に殺されたのではない。
美貌でしられる邢氏という廃帝曹芳の貴人を妻に迎え、幸せな生活を送っていた孫壱は、なんと邢氏の使用人の女に夫婦とも殺害されてしまったのである。
邢氏は美人ではあるが、使用人には日頃つらくあたり、そのいじめに耐えられなかった使用人の女に報復された。
せっかく魏の貴族として迎えられたのに、女難で死ぬことになろうとは、孫壱も考えはしなかったであろう。
さて、皇帝曹髦に親征をさりげなく薦めたのは鐘会であった。
「諸葛誕は、陛下の厚遇を仇で返しました。
御自ら叛乱を討伐されれば、たちまちにして賊軍の士気は地に墜ち、戦わずして平定できるでしょう」
鐘会は、曹髦がいずれ政柄を司馬昭から奪取し、親政したい野心を見抜いている。
「黄門侍郎(鐘会)のもうすことは、もっともである。朕の威光で賊軍を戦わせずして瓦解させよう」
曹髦は玉座から目をかがやかせて、親征をきめた。しかしながらまだ成人していないので、後見人として郭太后が追従することになった。
(これで陛下と弟(司馬昭)に恩を売ることができた)
鐘会の策とは、これである。
戦略戦術にあかるくない諸葛誕や文欽の叛乱に、ひるむ鐘会ではない。
その目は叛乱平定後の、朝廷内にある不穏な空気をみていた。
(不意に陛下の謀略で弟が粛正されても、われは宰相として抜擢される)
一方の司馬昭は、はやくから曹髦と鐘会の性格の相似性を看破している。
「黄門侍郎の策でゆこう。諸葛誕は賊であるが、かれの下にいる兵士たちは陛下の赤子である。
戦わずして勝ち、敵味方の兵たちの命を救いたい」
といった。
(のんきなものだ)
鐘会は、部下の将兵をだいじにする司馬昭のきもちがわからない。おのれの志や野望を実現するためには他人を弊履のごとく利用する、というのが鐘会のありかたである。
曹髦は頴水を船で下り、項県に到着した。
項県は毌丘倹の乱のとき、毌丘倹が軍をすすめた場所でもある。
「陛下は、ここで軍をおとどめください。寿春には私どもが行き、諸葛誕を包囲するでありましょう」
司馬昭は激戦がおこなわれる現場に、これ以上曹髦を近づけさせたくなかった。
「そうもゆくまい。朕みずからが前線に立ち、兵たちを鼓舞せねば」
曹髦は司馬昭を制して、寿春についてゆくという。
(このお方のいやなところは、こういうところだな)
司馬昭は辟易として、郭太后に目くばせをした。
「陛下、陛下の玉体はご自分のものだけではないのですよ。
万が一陛下が寿春の戦でお倒れになれば、賊軍をせっかく包囲したのに、全軍が退却せねばなりません。どうか項県におとどまりになってください」
「太后のおっしゃるとおりです。陛下には全軍の元帥として戦がすべて見える場所から督戦していただかなくてはなりません。
前線の汚れ仕事は、どうかわれらにおまかせください」
郭太后と司馬昭が、曹髦をおだてあげるように軍をとどめるようにいうと、
「ふうむ。元帥として全軍を督戦か……たしかに太后と大都督のもうすことが皇帝の役割なのかもしれぬな」
そういって曹髦は、まんざらでもない表情をみせた。
「車駕を、ここにおとどめくださいますね」
「うむ、そうしよう。太后を危険にさらすわけにもゆかぬしな」
司馬昭と郭太后は視線をかわして安堵した。
曹髦と郭太后を項県に駐屯させたまま、司馬昭はさらに主力軍を南下させ、丘頭という土地に至り、そこに本営を設置した。
寿春の包囲陣を指揮するのは王基であるが、本営から的確な指示を飛ばすことができるということだ。兄の司馬師を亡くした毌丘倹の乱の反省を活かしたといえる。
寿春の包囲には、安東将軍の陳騫を派遣し、包囲を厚くした。
また監軍の石苞と兗州刺史の州泰を遊軍として派遣し、これからやってくるはずの呉の援軍に対峙させた。
一方の諸葛誕と文欽がいる寿春城内では、多数の兵が籠城しているため、兵糧が日に日に減少していった。
「鎮北将軍(文欽)、どうする。火急に呉の援軍を迎えるために、包囲を破らねば」
諸葛誕は、憂い顔で相談したくもない文欽に、相談をもちかけた。
「なに、心配はいらぬよ。われが王基ごときにひけをとろうか。包囲陣に穴をあけてみせてくれよう」
文欽に、悲観という文字はない。
「突撃っ」
城門を開けて文欽率いる呉軍が、王基の包囲陣に攻撃をかけた。しかし日時の経過とともに包囲する営所の厚みは増しており、容易に文欽の軍をはねのけた。
「はは、小手調べはおわりだ。王基はわれらが包囲を突破できなかったので、意気消沈しているとみている。
そこを逆手にとって夜襲をかけ、包囲に風穴をあけてくれるわ」
文欽の大言壮語をきいた諸葛誕は、
(やはりむかしとかわっておらぬ)
とあきれた。魏の征東将軍に任じられた王基ほどの将が、昼間攻撃をしくじった軍が夜襲をかけるという兵法の初歩をしらぬはずがない。
「今夜、またぞろ文欽が夜襲をかけてくるにちがいない」
王基は苦笑して、諸将に夜襲を防備する命をくだした。
結局勇んで夜襲をかけた文欽は、備えが万端の王基の軍に逆襲され、さんざんの敗北を喫した。
諸葛誕をはじめ、全端らの冷えた目を無視した文欽は、
「これもわれの策よ。二日つづけて攻めてきた敵はもう出撃しないと王基は安堵しているに違いない。
今夜も出撃して、敵の包囲に風穴をあけてやるわ」
と強気の姿勢をくずさなかった。
しかし、王基は文欽の考えなど手にとるようにわかっている。
「三度つづけて攻撃するとは文欽は愚かだが、われらにとっては御しやすい」
翌日の払暁に疲れたまま出撃した文欽は、兵を入れかえて待ち構えていた王基に、またしても敗北した。
「もうよい、鎮北将軍。意気込みはわかった。呉からの援軍を待って王基を挟撃しよう」
あきれた諸葛誕は、冷笑をまじえて文欽をいさめた。憤懣やるかたない文欽は、諸将を睨めつけて、
「われを嗤っておるな。そうやっているうちに城内の兵糧は減っているのだぞ。なんじらも外に出て戦え」
と八つ当たりした。
(こやつの好かぬところは、こういうところだ)
諸葛誕は、文欽への憎悪をあらたにした。
さて、ようやく呉の救援が到着しようとしていた。
将は鎮南将軍の朱異である。三万の兵を率いてきた。
朱恒の四男である朱異は、父に劣らぬ名将で、これまで魏軍と戦ってひけをとったことはない。
しかし父が魏軍を侮る癖をもっていたため、その考え方まで引き継いでしまった。
対呉軍の救援には、司馬昭は石苞と州泰をすでに向かわせている。
朱異と石苞、州泰は寿春より西南にある、安豊という土地で遭遇した。
沘水という川を挟んで、両軍は対峙した。
偵騎により魏将は石苞と州泰であることを知った朱異は、
「連中を突破せねば、寿春の城を救援できぬ。沘水を渡河するぞ」
といった。配下の将は、おどろきを隠せない。大軍ならいざ知らず、三万の兵で渡河すれば、沘水を半ば渡ったところを魏軍に襲撃されるからである。
それでもためらいをみせず先頭で渡河しはじめた朱異を見て、石苞と州泰もおどろいた。
「われらに勝たせてくれるつもりかな」
「いや、われらをみくびっているのだろう」
苦笑した二人は、先鋒の朱異に猛攻をしかけた。主戦場は陽淵という土地である。
渡河中という負荷があるに加え、朱異が得意な水戦ではなく、陸上戦である。
たちまち石苞と州泰の兵に押されて朱異は敗退し、二千もの兵を失った。
「敵を軽んじるから、こうなる」
朱異から敗報を受けた孫綝は、みずから援軍を率い、江水をわたり、魏との国境を越えた。鑊里という土地にとどまって、将軍の丁奉と黎斐に五万の兵をもたせて、敗北した朱異の軍に合流するよう命じた。
鑊里は巣湖の東端なので、寿春からはかなりの距離がある。そこに本営をおいたということは、丘頭に本営をおいた司馬昭と同じく、危険を避け遠隔指揮をおこなうということである。
丁奉と黎斐が率いてきた五万の兵と、朱異のもつ三万の兵をあわせれば八万の大軍になった。
「これだけの兵があれば、一気に寿春まで進撃できよう」
負けても魏軍を侮る癖がぬけない朱異は、全軍を寿春にむけて前進させた。呉軍は黎漿水という、寿春が臨んでいる肥水の支流に至った。
朱異は配下の将である仁度と張震に、
「よいか、勇者を選んで対岸に渡り、塁をつくるのだ」
と命じた。さきの敗戦から、いささかの工夫をこらしたというべきだろう。
六千人の精鋭は、すみやかに浮橋を作り、対岸にわたって偃月塁を築いた。
それに気を良くした朱異は、輜重を残して兵を対岸にわたらせた。
「よし、これで寿春城の包囲を解くことができる。石苞らめ、いつでもこい」
石苞と州泰にこそ、小さな油断があったというべきかもしれない。
「いま気づいてよかった。呉の大軍にこのまま進軍されていたら、寿春の包囲陣はあぶなかった」
敵を侮ることがない石苞と州泰は、急いで朱異の大軍に襲いかかった。
激戦である。
こんどは朱異に丁奉らの軍が加わって、八万の兵という優勢をたもっている。それでも石苞と州泰は矢を雨のように降らし、敵がひるんだところを騎兵で突撃させた。
朱異はこれまで敗北をしらない常勝将軍だったのだが、このたびの諸葛誕への救援で初めて敗北を知った。
そのことが軍を萎縮させていたのか、はたまた遠征で士気が上がらなかったのか、兵の数で魏軍を上回っている朱異は、またしても石苞と州泰の遊軍に敗北を喫した。
「ええい、敵の矢がわずらわしいわ。高所
に登って装甲車をつくらせい」
朱異は今回の敗北の要因は、魏軍の激しい矢による攻撃であるとみた。
敗れたとはいえ呉軍は八万もの大軍である。
完成した装甲車に先頭を走らせ、魏軍の矢を跳ね返した呉軍は、勢いそのままに寿春にむかおうとした。
「朱異め、考えたな……」
数の比較で呉軍を止められないと悩んでいる石苞と州泰に、泰山太守の胡烈が進言した。
「対岸に呉軍の輜重が残っているはずです。私が少数の兵でもって戦場を迂回し、敵の兵糧を焼き払いましょう」
「それはよい。やってくれるか」
胡烈はさっそく呉の輜重を探し出すと、それは都陸という土地に集積してあることが判明した。
都陸への間道をみつけた胡烈は、ひそかに精鋭の兵を率いて軍を南下させた。
輜重を守る兵は本来強くはなく、少数だったので、胡烈の攻撃を受けるやいなや四分五裂して逃散した。
「よし、朱異がもどってくるまえに輜重を焼いてしまえ」
胡烈は、ためらいなく命じた。
輜重を焼き尽くしたあと、狼煙を上げた胡烈は、作戦の成功を石苞と州泰に報せた。
だが、この狼煙をみたのは朱異とて同じである。
「輜重が焼かれただと」
愕然とした朱異は、うなだれた。もしかすると狼煙は、朱異に輜重を焼いたことをも報せる胡烈の策だったかもしれず、呉の救援軍の士気をおおいに下げた。
「それ、敵は飢えて戦どころではないぞ。
今攻撃をかければ、必ず勝つ」
石苞と州泰は、連戦連勝で気を良くしている遊軍を率いて呉の援軍八万にふたたび攻撃をしかけた。
呉軍には朱異と丁奉という、当時としては最高の将軍がいたはずなのに、兵糧を焼かれて落胆した兵たちを制御することはできなかった。
ふたたび、呉軍の敗北である。
都陸まで退いて頽勢を立て直そうにも、すでに兵糧はない。
「ここまでか……」
朱異は撤退を決断した。従軍していた奮威将軍の陸抗に、意見をもとめた。
陸抗はあの陸遜の子である。能力や人格も父に劣らず、すぐれている。
「それしか、ありますまいな」
陸抗も、朱異に賛同した。
しかし本営の鑊里にいる孫綝は、救援軍の窮状をしらない。あれだけの大軍を送りだしたうえ、名将の朱異や丁奉らが率いているのだから、捷報を心待ちにしていた。
そこに、またしても朱異からの敗報である。
孫綝は怒りのために、書状をやぶり、地面にたたきつけた。
「あれだけの兵をもってして、なぜ勝てぬ。
輜重を失ったのであれば、なんどでも送ってやる。そうだ、兵も三万よこす。
これだけしてやるのだから、こんどはかならず魏軍の包囲陣をやぶれ。
かってに退くことはゆるさぬ」
孫綝の剣幕にふれた使者は、あわてて朱異のもとに帰って行った。
「敵をみておらぬのに、よくそのようなことがいえる」
朱異は丁奉と陸抗に視線をなげかけ、そうつぶやいた。
王基の寿春城を包囲する陣はいよいよ強化されており、そこへよせつけない石苞と州泰の遊軍は精鋭ぞろいである。
なんど戦っても勝てぬ、ということは兵の質の差であり、このまま敵がうごいて隙がでたところをたたくしか手立てがない。
朱異は、そう考えて三万の援軍がきても、兵をうごかそうとしなかった。
九月に入り、孫綝の苛立ちはいや増すことになった。
憤懣やるかたない孫綝はついに、
「驃騎将軍(朱異)を本営によびもどせ」
とさけんだ。周囲の冷えた視線をかんじた孫綝は、
「いや、驃騎将軍と談合したいので本営にきてもらうように」
といいかえた。怒りを朱異に伝えられると、朱異はおそれて逃亡、最悪の場合魏軍に投降するかもしれない、とおもったからだ。
「大将軍(孫綝)のお召しだ。奮威将軍(陸抗)、しばらく軍をたのむ」
孫綝は陸抗を指揮代行に任じ、孫綝のもとにむかった。その際、
(いまの大将軍の神経はまともではない)
と陸抗は不吉さをおぼえた。
陸抗は孫権に濡れ衣を着せられて、父の陸遜を憤死させられたことを昨日のようにおぼえている。
度をうしなったとき、突拍子もない折檻をおこなうのが、死んだ孫権や孫峻であり、孫峻の弟である孫綝もその気質をもっている。
「お気をつけください。将帥は戦場では君主の命令をこばめますし、大将軍の急なお召しには不可解なものをかんじます」
「大将軍は、身内同然のお方だ。疑いはすまいよ」
陸抗の不安を一笑に付した朱異であったが、果たして鑊里の本営はかれの死地になった。
本営で朱異を待ち構えていた孫綝は、入り口に力士を数人控えさせておき、朱異があらわれるやいなや、つかみかからせて、その場に押さえつけた。
「ど、どういうことだ。われは呉の忠臣ぞ。
なんの罪がある」
地面に倒され、おさえつけられた朱異は怒りでふるえる声で孫綝に抗議した。
「大将軍にさからう忠臣なぞ、ここにはおらぬわ……殺せ」
孫綝は、その場で力士に朱異をくびり殺させた。
「救援軍の陸抗は叛臣の子よ。このまま戦場にとどまるのもかんがえものだな」
孫綝は内輪の混乱が起こる前に、軍を撤退させようと考えはじめた。
陸抗と丁奉は、朱異がいつまでも還ってこないことに不審をおぼえていたが、孫綝の弟の孫恩が驃騎将軍代行として乗り込んできたとき、不安が的中したとかんじた。
「驃騎将軍(朱異)は更迭されたと大将軍はいっていたが、おそらく殺されているだろう」
丁奉が暗い表情で陸抗にいった。
「それに間違いありますまい。われらは生きて呉に還らねばなりません。驃騎将軍代行(孫恩)にさからわず、身をつつしむしかありません」
陸抗も目をさげて、ちいさくいった。
「朱異が、孫綝に殺されたそうです」
魏の本営にも内偵からの報せがもたらされ、鐘会が司馬昭につげた。
「朱恒の子までを殺すか……孫綝はいずれ身を滅ぼすな」
司馬昭は、沈んだ声でいった。
(敵将の死を悼んでいるのか)
心中で司馬昭を侮蔑した鐘会は、
「好機です。まちがいなく孫綝らの救援軍は撤退します。監軍(石苞)と兗州(州泰)に追わせましょう」
と意気込んだようすでいった。
「いや……」
司馬昭は包囲陣の王基からの書簡に目を落しながら、
「呉の救援軍は、すぐにはうごくまい。孫綝も朱異を殺してまで主将を交代させたのだ。
戦果のひとつもたてねば、呉本国へのいいわけがたつまい。監軍と兗州は、孫恩を足止めしていればよい。むだに兵をうごかす必要はない」
とはやる鐘会をたしなめた。
(ふん、講釈を……)
また内心で司馬昭の戦術眼をばかにした鐘会ではあったが、呉の救援軍がうごきをみせることはなかった。
単身で乗り込んできた孫綝の弟の孫恩だったが、石苞と州泰の軍の毅然とした雰囲気に呑まれ、攻撃の命令をくだすことができなかった。
陸抗や丁奉の冷たい視線にくわえ、失敗をおかせば兄にどんな折檻を受けるか恐れていたともいえる。
一方の諸葛誕であるが、叛乱に踏み切り城を包囲された頃は、
「わざわざ出撃して王基を破るまでもなく、連中は退却してゆくであろうよ」
と配下の蔣班と焦彝に、得意げにはなしていた。
「そのおこころは……」
孤城である寿春城に呉の援軍が近づけぬうえに、なぜこのような余裕をみせているのか、蔣班と焦彝はふしぎにおもった。
(大雨を期待しておられるのか)
と予想したが、はたして諸葛誕の思いもそれであった。
「ここは大河である淮水にちかく、毎年大雨が降って城の内外は水浸しになる。
かんがえてもみよ。敵がいくら堅固な営塁を築いてもそれは所詮土でできている。土は大雨に溶かされ、汚泥にあふれた王基は退却せざるをえない。
戦わずして我らは勝つ」
(そううまくいけばよいが……)
蔣班と焦彝は顔を見合わせた。
二人の不安は的中した。
いつもなら秋に大雨を降らす天が、魏軍包囲から三ヶ月経過して一滴も雨を降らさないのである。
城内には井戸があるため飲料水には困らないが、諸葛誕の思惑からはおおいに外れた天候であるといわざるをえない。
そんななか、九月にはいって焦彝が蔣班のもとに駆け込んできた。
「呉の援軍の将帥、驃騎将軍(朱異)が大将軍(孫綝)に殺されたらしい」
「なんだと……」
九万の呉の援軍には諸葛誕をはじめ蔣班と焦彝も期待していただけに、司馬昭の遊軍である石苞と州泰に連敗していたのは気がかりだったのだが、ここにきて呉の内輪もめである。
「しかも大将軍は陣を払って、呉に帰ろうとしているというぞ」
「なに。それでは、われらは……」
孤立無援の見殺しではないか、ということばを蔣班はのみこんだ。
雨が降らず、王基の包囲陣はますます強化されている。呉の援軍が帰国すると、遊軍の石苞と州泰、さらには丘頭にいる司馬昭も気がねなく本営を寿春に南下させ、寿春城の包囲に加わるかもしれない。
そうなると魏軍の総数は二十万をゆうにこえる。
「驃騎将軍が死んで、呉軍が引き返すことを城内の兵が知る前に、包囲陣に攻撃をかけ穴をあけたほうがよい」
不安にさいなまれた蔣班と焦彝は、諸葛誕のもとにゆき、進言をした。
「驃騎将軍が大将軍に殺されただと……」
余裕だった諸葛誕の表情は、いっぺんに青ざめた。
「はい。大将軍は座して勝敗を眺めていただけで、自軍が勝てないと知るや呉に撤退するこころづもりのようです。
われらはこのまま死を待つより、団結して決死の攻撃をかけ、包囲をやぶるべきです。
いそがねば城内の兵は呉の実情を知り、士気が地におちてしまいます」
さすがの諸葛誕も、腕を組んで考え込んだ。
みずからの期待がすべて裏切られている今、戦略を変えねばならないか。
しかし、諸葛誕と蔣班、焦彝の密談をかぎつけた文欽が、憤然と大きな足音をならして部屋に入ってきた。
「征東将軍(諸葛誕)、連中の愚策を真に受けてはなりませんぞ」
「愚策とは聞き捨てなりませんな。鎮北将軍(文欽)はなにか策でもおもちなのか」
焦彝が文欽に食ってかかるようにいったので、蔣班がおしとどめた。
「わからぬやつらよな」
文欽は侮蔑の色をかくそうともせず、蔣班と焦彝に冷眼をむけた。
「考えてもみよ。呉の将兵は、北方の魏兵とたたかってひけをとったことがあるか。そこに九万の援軍が加わったのだぞ。負けるはずがあるまい。
くわえてわれや両全将軍(全端と全懌)は寿春城に立てこもっており、父子兄弟は呉に残っている。大将軍(孫綝)が撤退しても、われや皇族の両全将軍のことを陛下(孫亮)が放置するはずはなかろう。
それに、敵もわれらを包囲して百日は過ぎている。疲弊しているのは敵も同じよ。
また中原で、何もおこらなかった年があったか。司馬昭の専横に義憤をかんじる義士や、蜀の姜維が背後をおびやかしてくれる。
変事はかならず生じる。じたばたせず腰をおちつけい」
文欽は、猛将であるじぶんが王基の包囲をやぶれなかったのに、軽蔑する諸葛誕やその属将が勝てるわけがないとおもっている。
また全端と全懌はそれぞれ故全琮の子と甥であり、全琮は孫権の娘を娶っており、全氏は皇族である。
諸葛誕も、この議論には文欽に分があると感じたようで、
「なんじらも、口を慎め」
と蔣班と焦彝をたしなめた。
(鎮北将軍は、呉の皇族をたのみにするしかないではないか)
蔣班と焦彝は、唖然とした。この状況で文欽とふたりのどちらがただしい判断をしているかは一目瞭然である。
懸念したとおり、朱異が孫綝に殺害され、呉の援軍は近々撤兵するのではないかという情報が寿春城内にひろがった。
見回りをしていた蔣班を、城壁のかげから焦彝が目でさそった。
「ついに万策尽きたな。兵の士気は地に墜ち、兵糧も年内には底をつく」
焦彝の力ない声に、蔣班もうなずいた。
「征東将軍(諸葛誕)と鎮北将軍(文欽)は、われらの進言をきかぬだろう。座して死を待つしかないか」
「……めったなことはいえぬが、人のいうことを聞く耳をもっており、無茶な戦いをさせぬ将帥のもとで働くしかないのではないか」
焦彝は、ともに司馬昭に降ろうと誘っているのである。蔣班はおどろかなかった。
「それはもっともなことだ。われらは大都督(司馬昭)が国政を壟断していることを憎み、征東将軍にしたがって義挙にふみきった。
ところが天はこの挙兵に味方せず、雨も降らせてはくれぬ。ふたをあければ、征東将軍と鎮北将軍の器の小ささにものもいえぬ。
機を見てともに大都督に降ろうぞ」
諸葛誕は今になって、巫女らを動員して雨乞いをしたりしているが、要するに神頼みしか手立てをうしなったということである。
「ところで大都督は、寛容な人であろうか。降伏したところで殺されてしまっては、元も子もないが」
蔣班の心配を払うように、焦彝がいった。
「降伏する際にはなんじを誘おうとおもっていたので、内密に城外の鎮東将軍(王基)に、はなしをつけられるようにしておいた。
さっそくわが兵を夜にでも鎮東将軍のもとに派遣しよう」
王基は寿春城内のうごきを注視していたが、蔣班と焦彝から降伏の密使がきたときいて、
「蔣班と焦彝といえば、諸葛誕の両腕に等しい将だ。かれらが降伏したいといってくるということは、城内の士気は衰えているに違いない」
と察し、密使を懇ろに対応すると同時に、丘頭の本営にいる司馬昭に早馬を飛ばした。
司馬昭は、呉軍と連携して兵を出した蜀の姜維に対して、鄧艾と司馬望を派遣しているので、西方への対応をしているとき、おもわぬ報せをきいた。
「まさか佯降ではありますまいな」
鐘会も降伏する相手が蔣班と焦彝ときいて、諸葛誕の策をうたがった。
「それはあるまい」
司馬昭は鐘会をたしなめ、
「敵もつらいのだ。包囲されて百日が過ぎ、期待していたであろう雨も降らぬ。呉の救援は包囲陣にまで届かぬ、となれば憔悴するのが当然よ」
と降伏を受け入れる書状を王基の使者に渡した。王基の使者は、
「両将が城の外に脱出するとき、城門のどれかを開けてもらい、城内に突入するのはどうかと鎮東将軍(王基)はもうしております。
その意見のご回答をうかがってくるよう申しつけられています」
といった。司馬昭は一考もせず、
「それはならぬ。まずは蔣班と焦彝を救出するだけでよい。
孫恩や陸抗が包囲陣への攻撃をうかがっており、孫綝は帰国したとはいえ軍はほぼそのまま鑊里に駐屯している。
このままの態勢を維持し、城内の綻びをまちたいのだ」
と王基の出撃をゆるさなかった。
「よきご判断です。城を降すのは、外からではなく内からです。
蔣班と焦彝という股肱の臣が降伏したとなると、寿春城内はおおいに動揺するでしょう。
ふたりをつかって、親しい将兵を城外に脱出させればさらに効果があらわれるでしょう」
鐘会の策にうなずいた司馬昭は、
「その策はよいな。無用の出血を避けることができる。王基の使者へはそのように申し送りさせよう」
といった。
(また兵の命の心配か……)
鐘会はうんざりして司馬昭のことばを王基の使者に伝えた。
功績はいらないのか。相国になり、王に、帝になりたくないのか。野望のかたまりであるじぶんと司馬昭をくらべると、どうも司馬昭の輪郭は茫洋としてつかみようがない。
「人を多く殺せば、その怨みも大きくなる。武帝(曹操)も徐州のことは亡くなるまで後悔されていた。われは武帝の反省を活かさなければならぬ」
曹操がかつて、父を殺された怨みで徐州の民を大虐殺したことがあった。結果的にそれで諸葛亮などそれに居合わせた者たちの憎悪を買い、それが蜀という反魏の象徴となった。
司馬昭は、ひとつ大きな視野をもって、三国を平和裡のうちに平定したいと模索している。
そのきもちが届いたのか、十一月になって、ついに蔣班と焦彝が夜中城壁から梯子を垂らし、王基に投降した。
「蔣班と焦彝が投降したとは本当か」
文欽が諸葛誕の部屋に、憤怒の表情で怒鳴り込んできた。
「それは本当だ……」
諸葛誕は、ふたりの忠誠に馴れきっていたので、おもわぬ裏切りに呆然としている。
「恩知らずどもめ。城外に打って出るとぬかしたときにすでに降伏の腹をきめていたのかもしれぬ。
あの場でたたき斬っておけばよかったわ」
確実に戦場の空気はかわった。城兵たちの目に生気がなくなり、城の守備もなおざりになってきた。
蔣班と焦彝でさえ、許されたのだ。
兵たちも勝ち目のない戦に倦み、機を見て投降する密談を交わしはじめた。
そんな折、全輝と全儀という呉の救援軍にいる全氏が王基に降伏してきたという。
「大都督、これで勝ちました。天は大都督の徳に恩恵を与えられたのです」
鐘会はその報せをきいて、興奮が抑えられないようすである。
「黄門侍郎(鐘会)、まあ落ち着きたまえ。われは全輝と全儀という人を知らぬのだが……」
鐘会はなおもはしゃぎたい衝動を抑えつつ、
「全氏は数多くいる呉の皇族です。全輝と全儀は、寿春城内にいる全懌の兄の子です。
家族内で諍いが勃発し、訴訟で不利になったので、降伏してきたようです」
と詳細を述べた。
「そうか……よし、まずは会ってみて話をきいてみるか」
司馬昭は、降伏者に対して驕ることがない性格である。
全輝と全儀を出迎えた使者はあくまで丁重で、ふたりを安心させた。
「おお、大都督(司馬昭)は悪逆の人ときいていたが、ずいぶんお優しい方のようだ」
やがて丘頭にある魏の本営に案内された全輝と全儀に、
「よくご決断なされた。理不尽な仕打ちには辟易となされたでしょう。
これで呉の全氏は滅亡をまぬがれました。
しかし寿春の城内には文欽のような野蛮で思慮に欠ける将軍の下で、ご一族が苦しんでおられる。このままでは勝っても孫綝に皆殺しにされ、負けても戦火にまきこまれないとはかぎりません。
ご一族をお助けしたい、とはおもわれませぬか」
と慇懃に説得をこころみた。全輝と全儀も目をかがやかせて、
「お心遣い感謝いたします、大都督。ですが、そのようなことがかないましょうか」
と訊いた。司馬昭は、
「その手立ては、ここにいる黄門侍郎(鐘会)が実現させます。おふたりは、彼にご協力いただけますか」
と親身になってこたえた。
「むろん……」
全輝と全儀は、鐘会に協力することを約束した。
「おふたりと城内の全端どのと全懌どのに信用されている使者に、こういう内容の書簡をおわたしください。
孫綝が魏の包囲陣をやぶれないことに怒り、呉の援軍に従軍している将の一族を殺戮しようとしている、と」
全輝と全儀は、誇大な内容ではあるが、孫綝ならやりかねぬ、と表情をひきつらせた。
鐘会が用意した書簡は、包囲陣の王基に届けられた。全輝と全儀の降伏をはじめて知った王基は、
「なるほど。この策であれば、城内の攪乱と、うまくいけば数万の兵が降伏するかもしれぬ」
と納得し、密使を城内に送り込んだ。
寿春城内に援軍として入った全端も、日に日に悪化する事態に、気を重くしていた。
「まさか、大将軍(孫綝)は、われらを死地に赴かせるために戦線に送ったのではなかろうか」
雨がいっこうに降らない空を見上げながら、全端はため息をついた。
そこに全懌が、小走りでやってきた。
「魏の陣営から、全家の家人が使者としてやってきた」
「なんだと」
さっそく使者を城壁から確認した全端は、梯子をたらして使者を城内に迎え入れた。
「一大事です。この書簡をお読みください」
使者はあいさつもそこそこに、全端と全懌に二通の書簡をわたした。
「これは……剣呑な事態になったぞ」
一通の書簡には全輝と全儀が訴訟で呉を追われて魏に亡命した経緯と、もう一通の書簡には孫綝が全氏一族を殺戮するという内容が詳細に書かれていた。
全氏は呉の皇族である。その皇族でさえおのれの思うがままにならなければ滅亡させてしまう孫綝の非情さに、全端と全懌はことばをうしなった。
ひそかに城内に立て籠もっている全氏をあつめ、対策を話し合った。
「魏の大都督(司馬昭)は悪逆の人ときいていたが、なんと温情のあるお方よ」
「鎮東将軍(諸葛誕)の股肱の臣である蔣班と焦彝ですら降伏し、赦されたというではないか」
「そうだ。この戦にもはや勝ち目はない。座して死を待つより、大都督に降伏し魏で一族の命脈をつなぐにこしたことはない」
一族の誰もが、諸葛誕と文欽の戦のまずさに絶望している。誰一人、孫呉に対する義理立てを主張するものはいなかった。
一族会議の議長役をつとめている全端が、
「寿春城の東門は、われら全氏に任されている……いっそのこと東門を開けて一万の兵ごと王基に降るのはどうか。
その方が一族の命だけでなく、率いている兵たちの命も助けられる」
と大胆な策を提案した。
「おおそうじゃ。われらの兵たちを見殺しにはできぬ」
「秘密裏に決行の日を決め、兵を率いて降伏しようぞ」
全懌以下、一族ことごとく全端の策に同意した。ただし秘密を保持しないと、唐咨と王祚という呉の将軍たちに妨害される恐れがある。
全端と全懌をはじめ、全氏の将兵はみな口を閉ざして、決行の日を待った。
城外の王基は、全端からの書簡を受け取り、おおいにおどろいた。
「全氏だけでなく、一万の兵までもが東門から降るというのか」
さっそく密使のやりとりが王基と東門を守る全端との間で交わされるようになった。
諸葛誕と文欽は、憔悴してたがいに口論するのみで、まさか城内に内通者がでていることを気づくことはなかった。
王基は東門の変事に対応すべく、司馬昭に使者をおくると同時に、東門から出てくる全氏を出迎えるべくひそかに兵を増員した。
王基からの使者を迎えた司馬昭は笑顔を見せて、
「天は横暴な孫綝を見限った。全氏の降伏は、うまくいくであろう。諸葛誕もその巻き添えを食ったというわけだ。
黄門侍郎(鐘会)の策があたったな」
と鐘会に話しかけた。
「しかし、全端も思い切ったことをしますね。東門を開いて兵ごと降るとは」
そういって鐘会は、心中司馬昭のことをおもっていた。
(動かなかったのは、このときを待っていたというのか)
司馬昭は、無理な戦を強いたことがない。一言目には将兵の命が、と敵味方なく人の命を優先させる。
(この弟にこそ、天は微笑んだのではないか)
機嫌の良い司馬昭を、見直すおもいで鐘会は全端と全懌に書簡をしたためた。
ときは十二月の決行の日となった。
「よし!門をあけよ。われにつづけ」
夜明け前の寿春城の寒気を払うように、東門が大きく開け放たれた。
全端と全懌をはじめとして全氏一族と、かれらが率いる一万の兵が城外に出て、王基に降伏した。
城内からはみながあっけにとられるばかりで、なんの追撃も受けなかった。それだけ全氏は徹底した秘密の保持に成功したということだ。のちに全端と全懌は魏で将軍に任じられ、諸侯にも封じられた。
「東門から兵が消えただと」
唐咨と王祚は驚愕してあわてて東門を閉めさせた。ふしぎなことに、王基は開いた東門から兵を突入させなかった。
「なかにまだ、内通者がいるのではないか」
寿春城内は事態の急転に、みなが疑心暗鬼になり、落ち着かず眠れなくなった。
これこそが鐘会の非凡な策であった。
諸葛誕と文欽の口論も、日に日にはげしくなっていった。
「なんじがいうとおり城に籠もっていたから、このようなことになったではないか」
「ここであきらめてどうする。敵はわれらを恐れているがゆえに、東門から城内に突入しなかったのだ。それに、まだ策はある」
「策とはなんだ」
「包囲陣は土でできている。それを突き崩す兵器をつくるのよ。
大小数多くの兵器を兵にゆき渡して、一気に城外に打って出る」
「ふむ……」
文欽の策にのってみることにした諸葛誕は、兵たちに命じて土の包囲陣を壊す兵器を製造させることにした。
兵器が兵たちに行き渡ったとき、年は改まって正月になっていた。
魏の甘露三年(二五八)になったということである。司馬昭と皇帝曹髦も、戦陣の中で年を越した。
諸葛誕は将兵をあつめて、
「いいか、南門から出て、敵包囲陣を突破したら救援にきている呉軍へ合流する。安城には呉軍が進出しているはずだ」
と命じた。
しかし城内には投降をしたい兵が数多くおり、包囲陣の王基に情報を詳細に報告していた。
(いよいよ決戦か)
王基はこころを引き締め、敵装甲車を壊す石車を多く作らせてある。石車とは石を遠くに飛ばす兵器で、これに火矢による攻撃を組み合わせることで敵を殲滅する作戦である。
決行の日、城から多数の兵たちが南門を開けて突出し、激しい攻撃を包囲陣の営塁にしかけてきた。
「さあ、きたぞ。矢と石で敵の足を止めよ」
王基の命令によって、包囲陣から空を暗くする雨のような矢が放たれ、石つぶてが強く叛乱軍に当てられた。
しかし叛乱軍も、必死である。
装甲車が矢でハリネズミのようになりながらも、前進をやめず士気も高い。
「やるな……よし、火矢を放て」
王基は石車と火矢の隊に、装甲車への攻撃を命じた。
まるで天が焦げたかのような多数の火矢と石が装甲車に集中し、つぎつぎに命中した。
木でできている数々の装甲車は、またたく間に炎につつまれ、石で破壊された。
それでも死兵と化した叛乱軍は、破壊された装甲車や屍体を乗り越えて、前進をつづけてくる。
「こんどの敵は違うぞ。安東将軍(陳騫)に、兵をまわしてもらうようにつたえよ」
陳騫は南門以外の西門を包囲しており、
「わかった。われがここを離れるわけにはゆかぬが、兵と武器をまわそう」
陳騫も事態の深刻さを察知し、王基に援軍をおくった。
とにかく叛乱軍の攻撃はすさまじく、昼夜とわず五日間をとおして激しい攻防が展開された。
石車と火矢が尽きても叛乱軍の前進はやまなかったので、営塁をめぐる白兵戦となった。
包囲軍もここをやぶられじと意地をみせたため、ついに叛乱軍は多数の死者を出して場内に撤退した。
城外では血が川となって流れ、屍体は営塁の付近にしきつめられた。
「やったか……」
ふだんめったに動揺しない王基も、安堵の声をあげた。しかし、乾坤一擲の決戦を挑んだ諸葛誕の嘆きは、くらべるべくもなかった。
「もはや天に雨を乞うしかない」
こんどは文欽も諸葛誕とともに、巫女らとともに雨乞いに参加した。もはや大雨で包囲陣が水浸しになることを祈るほかないまでに、城内の手はうちつくされていたのである。
主将たちの弱気は、またたくまに城内の兵たちに伝染した。
「数万の兵が、魏軍に降伏しただと」
報告を受けた諸葛誕が、あわてて城内を巡回してみると、どの門も守備兵がまばらになってきている。
「みたか。魏の兵などものの役にたたぬではないか。みな腰抜けで里心をおこし降伏してゆきおったわ」
文欽の侮辱に、諸葛誕は色をなした。
「なんだと……」
「なんだとは、なんだ。事実ではないか。
いつ内通するかわからぬ兵など、城から出してしまえ。われらの呉軍だけで城を守り抜いてやる」
足を鳴らして部屋を出ていった文欽を、諸葛誕は蒼白な顔色で文欽の背中を睨みつけていた。
(こやつをのさばらせておくと、呉兵ばかりになった城内で、われを弑し、城を乗っ取る算段かもしれぬ)
文欽への憎悪が諸葛誕のなかで、頂点に達した。
かつて毌丘倹の挙兵に助力しなかったのは、その軍幹部に文欽がいたからだ。
三日三晩不眠で考え抜いた諸葛誕は、
「ここに鎮北将軍(文欽)がきたら、殺せ」
とついに左右の臣に命じた。
文欽は勇猛ではあるが、繊細さをもちあわせていない。いつもどおり糧食の算段をしに諸葛誕の部屋に挨拶もそこそこに入ったところを、大力の兵数人に取り押さえられた。
「おい、これはどういうことか」
ようやく事態を飲み込んだ文欽に、
「こういうことだ」
と諸葛誕は手をあげて、文欽の首を落させた。文欽の屍体を運び出させた諸葛誕は、
「文欽の子ら(文鴦と文虎)は猛将だ。われを仇討ちにしようとするだろう。気づかれぬうちに殺せ」
と冷たくいった。文鴦と文虎は兄弟であるのは間違いないが、どちらが兄かは「三国志」
に記述がない。「文鴦文虎」の順で記載されているので、文鴦が兄なのであろう。
「父上が諸葛誕に殺されたとは、まことかっ」
文虎が顔面蒼白で文鴦のもとに走り込んできたとき、文鴦はおもわずさけんだ。
「あれほど、ご注意なされよと忠告したのに……」
文鴦も文欽のうかつさが、ふだんから気がかりになっていたところの凶報である。
「これからどういたします」
文虎の問いに、
「むろん、父上の仇を討つ。この小城にいる兵で数百はいるであろう。それを率いて諸葛誕を急襲するぞ」
と文鴦は目をいからせていった。
「それが……」
「問題があるのか」
「はい。兵を集めましたところ、数十人しか集まらず……」
つまり文鴦と文虎配下の兵たちも、諸葛誕に殺害されることをおそれて、大部分は城外の王基に投降してしまったのである。
「ええい、そろいもそろって腰抜けどもが」
兵を集めそこなっているところに、諸葛誕の兵が、文鴦と文虎のいる小城を囲みはじめていた。
「致し方ない……ここを脱出する」
「脱出……包囲をやぶって呉の救援軍まで走るのですか」
「いや……包囲をやぶる必要はない。大都督(司馬昭)の本営はすでに寿春にあるそうではないか」
「ま、まさか」
「その、まさかよ。大都督に降伏して、諸葛誕を殺す。それしか父の仇を討つ方法があるまい」
文虎は、目を白黒させた。司馬昭は二度も叛乱に加担した文欽を憎んでいるはずであり、その息子である文鴦と文虎を赦すはずがないではないか。
城壁から縄梯子を垂らしはじめた文鴦は、無言で城壁を降りはじめた。たとえ殺されるとしても兄とともに死にたい文虎も、必死で兄のあとを追って城壁を越えた、
王基の軍に身を投じた文鴦と文虎は、王基と面会した。
「文鴦どの、お父上の事情は聞いた。大都督に面会できるよう手は尽くさせてもらう」
王基は、文鴦の驍名を知っている。懐に逃げ込んだ窮鳥をひねりつぶす王基ではない。
軍使がすみやかに、司馬昭のいる本営に到着した。
事情を説明された司馬昭と鐘会は、はたして文鴦と文虎の処置に悩んだ。
「亡き兄上(司馬師)は文鴦の奇襲によって傷口が開き、致命傷となったのです。ふたりを斬るべきかと」
司馬師にも重用されていた鐘会は、ゆがんだ笑顔をむけていった。
「いや……」
(兄上ならば、文鴦を殺してもお喜びになるまい)
司馬昭は、降伏してきた将を斬った司馬師をみたことがない。
たとえ自分が文鴦の奇襲がきっかけで命を落したとしても、彼を赦したはずである。
「文欽の罪は、子らにも適用されよう。だが、かれらは窮してわがもとに身を投じたのだ。
今寿春は陥落寸前なのに、投降者を斬れば、いたずらに城内の結束を固めてしまう。
文鴦と文虎は赦す」
司馬昭はおだやかな口調で、鐘会にいった。
「亡き兄上は、文鴦に殺されたようなものなのですぞ」
鐘会は食い下がったが、
「しつこい。もういうな」
と司馬昭は、本営に文鴦と文虎を連れてくるように軍使にいった。
(また古代の聖王きどりか)
鐘会は司馬師の仇を討ちたかったので、舌打ちをした。
本営に連行された文鴦と文虎をみた司馬昭は、
(よい目をしているな)
と感心した。さすが亡き兄・司馬師を追いつめただけのことはある。
「父上(文欽)のことは聞いた。なんじらのことを赦す。悔しかろう。われに力をかしてくれるか」
思いがけず温情をかけられた文鴦と文虎はおどろき、涙をながした。
「かたじけなくぞんじます」
ふたりは、司馬昭に頭をさげた。
「うむ。しかし、なんじらは身ひとつで逃げてきたときいた。なんじらの兵をも助けたいとはおもわぬか」
文鴦と文虎は、おもわず顔を見合わせた。
(かような温情まで、かけてくださるとは……)
命をともにした兵たちである。助け出したくないはずはない。
すぐに文鴦と文虎は、数百の兵を与えられ、寿春城にできるだけ近づき、城壁のまわりをめぐりながら、
「文欽の子ですら、命を助けられ厚遇されている。もはや諸葛誕に義理は果たしたであろう。投降し、命を粗末にするな」
と叫んだ。
これが、ながく続いた諸葛誕の叛乱へのとどめとなった。
「魏軍に投降しても、殺されぬらしいぞ」
「うむ。文鴦でさえ殺されぬのなら……」
翌日から堂々と投降する兵が各門から増え、城内の兵はかなり少なくなった。
ちなみにこの功績で文鴦と文虎は将軍に任ぜられ、関内候の爵位に封ぜられた。
「そろそろ、総攻撃を命じようかと思うがどうか」
司馬昭は敵と味方の士気と兵数を比較考量して、鐘会に諮った。
「よろしいかとぞんじます」
鐘会にも異存はない。
ここにきて司馬昭は、はじめて自軍に攻撃命令をくだした。おそるべき忍耐力だといえるだろう。
ときは二月になっていた。
寒風吹きすさぶ城壁に魏軍が難なく取り付き、数刻後にはそれぞれの城門が開け放たれた。もはや叛乱軍に抵抗する兵はいなかった、ということだ。
待機していた包囲陣から魏兵が城内に殺到し、叛乱兵らはことごとく降伏した。
ただし、諸葛誕とかれが丹念に訓練した千人の兵は降伏せず、城内の小城に立て籠もった。
「ここまでか……」
諸葛誕はついに、自裁する覚悟を決めた。
ながくつづいた戦いが終わる。
そのことに平安をかんじるじぶんもいるが、戦をしかけたのが諸葛誕であるのに、ほぼそれを受けきった司馬昭の完封勝ちであることには、天意を感じずにはいられなかった。
しかし、最後まで諸葛誕の正義を信じたものたちもいた。諸葛誕が精魂込めて鍛錬した千の兵たちの生き残りである。
「なんじらは、われの首をもって敵に降伏せよ。生きて父母や妻子のもとに還れ」
諸葛誕のことばに、兵たちは涙を流しながら、
「そうしたいものは、すでにここにはおりません。われらは最後まで諸葛将軍にしたがう覚悟です」
と口々にいった。
(嗚呼、天からの恩寵がわれに……)
諸葛誕は感動して、
「よくぞいった。冥府への道も皆で行けばこわくはないぞ。最期の一戦だ」
と立ち上がった。
小城の門を開けて突撃した先は、大将軍司馬の胡奮であった。
壮絶な斬り合いの末、諸葛誕は胡奮の兵に討たれた。
ふしぎなことに、諸葛誕が死んだその夜に空が一転かき曇り、大雨を降らせた。翌朝からは豪雨になり、魏の包囲陣の土塁は溶け流れてしまった。
諸葛誕に付き従った数百の精兵は、捕虜になったあとも、かたくなに降伏をこばんだ。
「なんじらはよく戦った。降伏すれば殺さぬと大都督は仰せだ」
胡奮は哀れみをもって、傷だらけのかれらによびかけた。
それでも、誰も降伏を申し出る兵はいない。
ひとりずつ、みずから首をさしだして、斬首されていった。
「降る、とひとこといえば命は助ける。ひとことでよいのだ」
胡奮もこの異様な光景に憐憫と感動をおぼえて、よびかけつづけた。
兵は結局誰も降伏せず、全員が斬首された。
「烈士たちであるな」
司馬昭は、諸葛誕に最期まで付き従った兵士たちを手篤く葬るように命じた。
「諸葛誕の兵たちはともかく」
鐘会がいいたかったのは、諸葛誕死後に降伏した唐咨と王祚のことである。
「かれらは呉から侵入してきたものなので、赦せば兵たちが江南に還ろうとするでしょう。
これでは、呉の戦力を削いだことになりません。ことごとく殺すべきです」
司馬昭は、目を上げて鐘会にいった。
「叛乱の元兇はことごとく摘んだ。もうこれ以上の殺生は無用ぞ。呉の兵が故郷に還っても、われらの寛容さを示せる」
「……」
鐘会は、あきれた。
敵国の兵に寛容さをしめした大将が、どこにいる。しかし司馬昭は大真面目であった。
降将の唐咨と王祚にも、
「なんじらは、孫綝に命じられて嫌々寿春の救援に来たのだろう。これから呉に帰還することは、なんじらの随意にせよ。
還りたくなければ、魏の将軍に任じよう」
といった。
司馬昭と孫綝の器の違いをかんじた唐咨と王祚は、つつしんで魏に残ることを選択した。唐咨は安遠将軍に、王祚ら他の呉将らも官位を与えられた。
(叛乱で降伏した将兵をひとりも殺さぬとは……)
鐘会は司馬昭の底恐ろしさを、はじめて感じた。司馬昭は三国をそれぞれの国とみとめず、一国の中華ととらえているのであろう。
さきに降伏した文鴦と文虎にも牛と車をさずけ、
「父上(文欽)の遺体を収容して、魏にある祖先の墓に葬ってやるとよい」
とこまやかな心遣いをみせ、兄弟を感激させた。
「ところで……」
司馬昭は、王基に諮った。
「今であれば、孫綝の評判も地に墜ちているし、唐咨と王祚の一族を招聘しつつ侵入すれば、呉を平定できるのではないかな」
王基は首をたてにふらなかった。
「かつて呉の諸葛恪は、東関の勝利に乗じて合肥新城を包囲して大敗しました。蜀の姜維も洮水での勝利に気を良くし、上邽で兵糧不足のため大敗しました。
かれらを教訓となさるべきです。
大勝利の後は、誰もが敵を侮るのです。
呉は国外で負けただけであり、わが国の内憂はやんだわけではありません。今は備えを厚くし、思慮をめぐらせるときです」
「なるほどな……」
「はい。さらにわが軍が出兵して年を越すほどの長期間が経過しています。
兵たちの里心も増し、すぐさま出兵すれば故郷の家族をおもい、士気が上がりません。
なんといっても大都督は、叛乱の首謀者のみを斬り、自軍は無傷という未曾有の功績をあげられました。
武帝(曹操)でさえ、官渡の大勝のあと袁紹を追いませんでした。どうか、ご配慮を願います」
「鎮南将軍のいうとおりだ。われは慢心しておった」
司馬昭は、笑って王基に礼をいった。
それに勝ちすぎると皇帝の曹髦の、司馬昭に対する悪感情が暴発する可能性さえある。
凱旋帰国した司馬昭を待っていたのは、
「大都督万歳」
という洛陽の民の快哉であった。
徴兵した兵をほとんど死なせずに、諸葛誕の叛乱を平定したのだ。兵の家族たちから絶賛されるのも当然であった。
しかし、皇帝の曹髦はそれがおもしろくない。
「朕の親征がなければ、諸葛誕を斬れなかった。なぜ大都督のみが賞賛されるのか……」
目をすえた曹髦を、郭太后は不吉な予感をかんじつつ見守るほかなかった。