姜維
八
毌丘倹の叛乱と司馬師の死が起こった年、すなわち蜀の元号では延煕十八年(二五五)に、衛将軍の姜維は魏の隴西郡に攻め込んだ。
費禕が魏の刺客に暗殺されたあと、姜維が軍権をにぎるようになり、毎年のように魏に出兵をくりかえしている。
今回隴西郡に侵攻したのは、淮南で大乱が起き、まだ魏南方の人心が安定していないのと、司馬師が死んだ間隙を狙ったものであろう。
姜維の狙いは、亡き諸葛亮の戦略を模倣したものである。
雍州の交通を遮断し、雍州の西部から涼州までを蜀の版図に加えることだ。
諸葛亮の北伐の目的はそれであり、第一次北伐の際には馬謖の失策さえなければ、それが達成される寸前まで成功したこともある。
しかしなんども同じ失敗を繰り返しながらも出師をやめない姜維に、反対意見を述べるものも少なくない。
たとえば鎮南将軍の張翼は、出兵の回数を控え、国力を蓄えるべきだとたびたび進言した。頑固な姜維がそれを無視したのは、いうまでもない。
姜維は張翼と夏侯覇をともなって、隴西郡に出兵した。
夏侯覇とは、曹爽が司馬懿に排斥された政変で、蜀に亡命したあの夏侯覇である。
今では皇族として遇され、車騎将軍に任命されている。
迎え撃つ魏の雍州刺史は王経である。直情の名士であるかれだが、用兵は長けているとはいえなかった。
蜀軍の侵攻にあわてた王経は、長安にいる征西将軍の陳泰に、
「姜維と夏侯覇、張翼が、三道から祁山、石営、金城に進んでいる。ゆえに兵を三つにわけ、涼州軍も投入する」
と急報した。
(おかしいな……)
陳泰は蜀軍とは長年連戦しており、姜維が三つの道から侵攻などできないことを承知している。おそらく王経は、情報戦で姜維に攪乱されているのであろう。
「かつて蜀軍が三道を侵攻したことはない。あわてて自軍を分けずに、長安の兵力と合力させるほうがよい。
涼州の兵力を、越境させるのもよくない」
と、陳泰が戦場に到着するのを待つように説いた。
やがて、やはり蜀軍はひとつの道を通って洮水に進もうとしているという後報がきた。
洮水は長く大きな川で、隴西郡をつらぬいている。洮水のちかくには狄道という要地がある。
陳泰は、王経に指令を出した。
「狄道にまで軍をすすめて駐屯し、われが到着するのを待つように」
陳泰はすでに長安を出発して陳倉に至っている。しかし陳倉から狄道までは、郡をみっつまたがねばばらず、その指示が到着するまでに、王経は軍をうごかしてしまっていた。
狄道を出て、故関で蜀軍を迎撃する態勢をとった。
故関は古い関所で、数万の蜀軍と対峙するには心もとない場所といわざるをえない。
蜀の姜維は、すぐに王経の将としての力量をさとった。
「蜀軍が進撃してきただと」
王経は、あわてた。故関に拠って戦う姿勢をみせれば、姜維は進軍をとめると予測し、その間に陳泰の軍を待つつもりであった。
故関で戦うということは、洮水を背に戦うということになり、兵たちの士気が下がった。
姜維は王経に策がないことを知り、全軍で焔のような総攻撃をしかけた。
背水の陣を敷いてしまった王経の魏軍は、蜀軍に圧倒され、我先にと船にのがれた。
船に乗れなかった兵たちはいうまでもなく、洮水にたたき込まれた。八月ということで凍死した兵はいなかったものの、蜀軍に追撃され戦死および溺死した兵はなんと一万以上に達した。
王経の惨敗である。
ひさしぶりの大勝に酔った姜維は、洮水のほとりからさらに王経を追撃し、狄道の城を包囲した。
ここでも張翼から追撃は無用、蛇足になるとの諫言を受けたが、兵法の常道では敗兵は追撃せねばならぬと信じている姜維は、頭からこの意見を却下した。
「雍州(王経)がすでに大敗しただと」
陳泰は、自分の命令が王経に到達しなかったを悔やんだ。ともあれ現状は、つつみかくさず洛陽の司馬昭に伝えねばならない。
「狄道城には一万余の兵が籠城しているとのことです」
(一万だと……)
陳泰は王経の現状をきいて、内心舌打ちした。王経は数万の兵を擁していたはずであり、三万近くの兵は死傷したか離散したということになる。
軍を急がせた陳泰は、陳倉から渭水沿いに西進し、冀県にとどまった。そこに司馬昭からの指示がとどいた。
鄧艾、胡奮、王秘が援軍としてむかっているという。
鄧艾は毌丘倹の乱のとき、文欽をおびきだす役をこなし、諸葛誕の命によって呉軍を撃退した功績で、安西将軍に任じられている。
胡奮は名将胡遵の子で、用兵にあかるい。
「大将軍は、安西将軍(鄧艾)ら用兵の達者を援軍によこしてくださった。かれらが到着するのはまちがいないので、狄道を救いにいくぞ」
陳泰は南安郡を通過し、隴西郡に入った。
郡府のある襄武には、急行してきた鄧艾ら援軍と同時に到着し、軍議をはじめた。
「き、姜維は雍州(王経)に大勝して勢いにのっています。わ、わが軍はそれに比して、昨日今日あつめられた烏合の衆であることは否めません。
て、敵の勢いを分散させるために、よ、要害の地にわかれて布陣し、し、蜀軍の疲れを待つのが最上の策です」
吃音のある鄧艾が、安全策を提案した。
「これは、安西将軍とも思えぬ策だ」
陳泰は、昂然と積極策をのべた。
「姜維は、軽兵をもってわが国深く侵攻してきた。ゆえに糧道はつながっていまい。
もし東進して櫟陽の食料庫を奪われていれば最悪の事態であったが、姜維は東進せず狄道の城を包囲している。短期決戦をのぞんでいるのは明白ではないか。
われらは籠城すると思っている敵の考えを、逆手にとる。高所から疾風迅雷のごとく急襲すれば、たちまち敵はあわてふためき敗走するであろう。これこそ最上の策よ」
諸将からは、感心の声があがる。陳泰の積極策の方が、支持されたとみていい。
(ち、陳羣の子が……)
鄧艾だけは、目をさげて無反応であった。
茨の道を素足で歩いてきたような経歴をもつ鄧艾は、名門の子弟である陳泰を好まない。
姜維をみくびりすぎているのではないか、とも感じた。
洛陽にいる司馬昭も、陳泰と同意見である。
「諸葛亮にできなかったことを、その弟子の姜維がなしうるはずがない。
征西将軍(陳泰)がすみやかに狄道城に救援へむかったのは、さすがである」
と安心した。
「高城嶺を越えて、狄道城にむかう」
そういいはなった陳泰を、諸将は驚きの目でみた。たしかに大軍は南路を進みやすいが、蜀軍の偵察に発見されるであろう。
(ち、地形のことはよく調べているな)
農政畑出身の鄧艾は、地形調査で戦歴を飾ってきたので、高城嶺という直線移動で敵の意表を突く陳泰の策を見直した。
姜維も魏の援軍は南路を進むとよみ、伏兵をおいておいた。が、三日経っても魏軍はあらわれない。
突如狄道城の東南の山岳地帯にあらわれた陳泰らの軍は、蜀軍への夜襲をおこなわなかった。
まずは、狄道城の王経と兵たちを救援することが優先である。
「烽火をあげよ。笛と太鼓もおおきく鳴らすのだ」
これでは、高城嶺を越えて蜀軍の意表を突いた意味がない。それでも、狄道城の王経と将士を安心させる効果はある。
蜀の大軍に包囲された狄道城では、糧食も尽きかけており不安にさらされている。守将の王経を斬って、姜維に通じようとしている者もいるだろう。
それらの懸念を、陳泰はまず払拭したかったのである。
魏の援軍が突然山上にあらわれ、夜明けとともに蜀軍に攻め下ろうとしているのを察知した姜維は、心中狼狽した。
狄道城からも援軍に呼応して出撃する兵もいるはずであり、目算がおおいに狂った。
(姜維は安西将軍らの兵がどこにいるかも知らぬ……この戦は勝った)
陳泰は、心中で断定した。
朝になってふたたび太鼓をはげしくうちならしながら、陳泰は狄道城を包囲している蜀軍むかって攻め下った。
しかし姜維も諸葛亮におとらず、兵たちを訓練しつくしている。精鋭ぞろいの蜀軍はむきを陳泰の軍に変えるや、激しい戦闘になった。
(さすがは諸葛亮の弟子……)
陳泰も、姜維を見直さざるをえなかった。
高所から攻め下った魏軍の方が優位であるにもかかわらず、一進一退の攻防がつづいた。
「よし、狼煙だ。安西将軍(鄧艾)の兵を投入するぞ」
魏軍が押し負けてきた頃合いをみはからって、陳泰は鄧艾と王秘の軍を投入するよう命じた。
やがて鄧艾の軍があらわれ、蜀軍の側面に攻撃をくわえた。にわかに蜀軍の陣形がくずれる。
「いいぞ」
陳泰が声をあげたとき、狄道城内からも狼煙があがった。
(あれは、なんぞや……)
援軍はすでに到着し、蜀軍を押し返しはじめている。それなのに、城内からも援軍を告げる狼煙が上がっている。
陳泰ですらその狼煙の意味をはかりかねているのだから、姜維がさらに混乱したのは明らかである。
姜維はその狼煙を城内から兵が出撃する合図とみて、退却を命じた。張翼が後拒をつとめ、整然と軍を返していった。
「兵糧が底を尽きかけていたところに、征西将軍(陳泰)の援軍が到着しましたので、わが国は一州をうしなわずにすみました」
狄道城の包囲が解かれたあと、王経は慇懃に陳泰へ礼をのべた。
「それほどのことではないが……あとそれと、城内から上がった狼煙はどういう意味だったのかな」
陳泰が王経にたずねると、
「あれは涼州軍におくった合図です。涼州刺史が州境を越えて、雍州に入ったものですから」
とこたえた。
(涼州の軍は、動かさないように命じたはずなのにな……)
陳泰は、あらためて王経が軍事に不向きであることを認識した。
しかし、ここでのんびりしている場合ではない。退却している蜀軍を追撃せねば、大敗を補うことはできない。
蜀軍が態勢を整え、陣をはったのは、鐘題という土地である。
洮水のほとりにあり、狄道からは八十里は離れている。
「鐘題の蜀軍を攻めずとも、兵糧は一月も残っていないであろう。越冬できずに撤退するはずだ。しかし……」
陳泰は、万が一姜維が反撃に転じる可能性を思案した。
魏軍を交代させ、狄道城の城壁を修理させて万が一に備えた。
しかし姜維率いる蜀軍は、鐘題で越冬したのである。諸葛亮が発明した木牛・流馬という兵糧運搬器具が機能していたのだ。
とりあえず北伐を勝ちのかたちでおさめた姜維は、春になって大将軍に任命された。蜀の群臣では最高位に昇りつめることになった。
尊敬する諸葛亮に近づいたおもいがした姜維は、漢中太守の鎮西将軍である胡済を出撃させ、南と西から陳泰を挟撃する策をたてた。
一方の魏で、まさか姜維がここから進撃を開始することを知るものはいなかった。
大敗を喫した王経は更迭、陳泰は洛陽に召されて尚書右僕射となった。
陳泰に代わって対蜀戦線の責任者になったのが、鄧艾である。昇進して安西将軍、仮節領護東羌校尉になった。
「姜維は鐘題で越冬したので、さらに反撃する力はないでしょう」
配下の武将たちはそういって気を抜いていたが、鄧艾は違った。
「と、洮西での敗戦は大きかった。軍は粉砕され、将は戦死し、食料庫は空になり、百姓は離散してしまった。い、いまが存亡のときに立たされていることにかわらぬ。
と、とりあえず姜維は退いただけで、勝ちに乗じた勢いがある。
し、蜀軍の訓練しつくされた兵をみたか。そ、それにひきかえ、わが軍は交代したばかりで兵の士気は高くない……」
準備を怠らなかった鄧艾の予測は、正しかった。
「か、かならず祁山に姜維はむかう。き、祁山には麦の倉庫があるからだ」
地形と兵站を知悉している鄧艾は、まさしく姜維の前にあらわれた新たな敵手であった。
祁山にむかった姜維は、魏軍の防備が万全なのを知って、おどろいた。
陳泰の他に、じぶんにかなう敵将はいないはずである。
軍の向きを変え、天水郡の中央部に侵攻しようとした。天水郡は姜維の故郷であり、地理には自信がある。
しかし鄧艾はひそかに姜維の軍を尾行しており、武城山に軍を上げて迎撃態勢をとっていた。
またも敵に遭遇した姜維は、ややあせりをかんじたものの武城山を奪うように攻撃をしかけた。
「き、きたぞ。と、洮西の借りを返すのは、今しかないぞ」
はげしい太鼓の音、武器がぶつかる音で、白兵戦がはじまった。
洮西の敗北をとりもどしたい魏軍は、つよい気魄で蜀軍にぶつかった。
陳泰の軍ではない魏軍を甘くみていた姜維は、士気軒昂な魏兵を見直した。このまま合戦をつづけていても埒があかないとみて、兵を退いた。
「み、みなよくやった。し、しかし、姜維は兵の進路を変えてくるぞ」
鄧艾は、上邽に向かおうとしている姜維の思惑を見抜いている。
姜維はその夜のうちに渭水を渡って、上邽に急行した。上邽には胡済の軍がむかっているので、合流して上邽城を攻略しようとしたのである。
姜維が率いる蜀軍は攻城兵器をもっていないので、漢中にいる胡済に大型攻城兵器を曳いてくるように命じたのであろう。
ところがその攻城兵器の大きさと重さがあだとなり、胡済はまだ上邽に到着していない。
背後には、鄧艾が懸命に姜維を追ってきている。
このままでは鄧艾に追いつかれるとふんだ姜維は、軍の向きを変えて段谷という土地で魏軍を迎え撃った。
「す、進めや、進め。ひ、退くことはかんがえるな」
鄧艾の意気はすさまじく、魏兵のすみずみにまで浸透した。
胡済の軍を期待していた姜維は、段谷で合戦をおこなうことを予想していなかったので、どうしても指揮が及び腰になった。
激しい合戦がふたたびおこなわれたが、勝敗はあきらかである。
魏軍の大勝であった。
散り散りに逃げ惑う蜀軍を、鄧艾は徹底的に追撃し、数千の兵を死傷させた。
死傷した兵の中には隴西郡の諸部族が含まれている。姜維が毎年のように隴西郡を攻めたので、姜維の蜀軍に味方する諸部族が増えていたのに、この敗北でかれらのこころは離れてしまった。
姜維は敗北だけでなく、隴西諸部族の協力による徴兵の機会すらも失ってしまった。
張翼がいっていたとおり、洮西での大勝利で帰国していれば、あらためて漢中の胡済との二正面作戦も練り直されていただろう。
まさに、段谷での敗北は蛇足であった。
姜維は帰国後、諸葛亮が街亭での敗北でみずから官位を落して臣民に詫びた過去を思い出した。
尊敬する丞相(諸葛亮の死後、蜀では丞相はおかれていない)に倣わねばならない。
敗北の責を皇帝の劉禅に報告した姜維は、後将軍・行大将軍事に官位を落した。
行大将軍事とは、後将軍でありながら大将軍の任務を行うことである。降格のありかたも、かつての諸葛亮と同じであった。
諸葛亮は、街亭での大敗北のあともすぐ陳倉に出兵していたので、姜維もはやく魏への雪辱を果たすべく焦燥していた。
※
一方の魏における司馬昭の官位は上昇を続けていた。
大将軍から大都督となり、宮殿に上がる際に剣を帯びたまま、履を脱がなくていい特権をあたえられたが、特権に関して司馬昭は固辞した。
その代わり皇帝の曹髦は、司馬昭に仮黄鉞をあたえた。
仮黄鉞とは黄金の鉞であるが、魏の軍事をすべて司馬昭に委託するという特権である。
叔父の司馬孚は太傅となり、三公は大尉に高柔、司徒に鄭沖、司空に廬毓という顔ぶれとなった。
廬毓は後漢の名臣・廬植の子である。廬植はあの劉備の師匠であったことでも知られている。
「姜維は、懲りずにまたわが国に侵略をおこなうでしょう」
黄門侍郎の鐘会は、司馬昭に注意を喚起した。
「われは諸葛亮の侵略の際も、相国(司馬懿)に従ったことがある。姜維は軍事には明るいが、どうみても諸葛亮にはおよばぬ。
諸葛亮が出師するときは、蜀の内政に緩みがなかった。姜維は国力を疲弊させるだけで、軍事を断行しつづけている」
「そのとおりでございます」
鐘会は自信ありげに、司馬昭の目をみていった。
「姜維は自国の民を思いやるこころをもたず、わが国を侵攻することを念頭において行動する癖があります。
あと十年も経たぬうちに朽木がおのずと倒れるがごとく、蜀の国力は疲弊して滅びにむかうでしょう」
「蜀を征伐するのは、そのときまで待てばよいというわけだな……」
「はい。蜀は険阻の地です。ことを急いでは元候(曹真)やその子(曹爽)と同じ轍をふむことになるでしょう」
魏の国力は、蜀の数倍はある。それをたのんで蜀征伐を行ったのは、曹真であり曹爽であった。
ところが峻厳な山道や変わりやすい天候に阻まれて、二度の遠征は蜀軍に翻弄された結果、頓挫している。
「姜維という人物はどうみるか。もとは天水郡の吏員だったそうだな」
司馬昭は豆をかじりながら、鐘会に訊いた。
「はい。諸葛亮の最初の侵攻で、天水郡が寝返ったとき、諸葛亮直々に取り立てられたそうで……それは絶賛を浴びたということです。二十代の頃から軍の中枢で諸葛亮の兵法を学んだとか」
「諸葛亮は馬謖の例もあるように、人を見る目はないともいうが」
「半分はそのとおりで、半分は諸葛亮の期待に応えているようにおもいます」
「ふむ……」
姜維は死んだ郭淮や、陳泰、鄧艾といった名将と互角にわたりあっており、先日の洮西の戦いでは王経を大破するなどの功績をあげている。
一方でその戦略は竜頭蛇尾、漢王朝の復興をうたった壮大なものでありながら、魏の西部をちまちまとあらしまわっているに過ぎない。
「なんじが姜維なら、わが国をどう攻める」
司馬昭の問いに、鐘会はやや首をひねって、
「蜀の険阻に拠って、数年は国力と軍事力を養うでしょう。
それらが充実した時期をみはからって、一気に長安を攻め落とす策をとります」
といった。
「諸葛亮の最初の出師に倣う、というわけだな」
「そうでなければ、蜀の正当性が担保できません。小分けにわが国を切り取れたところで、漢王朝の復興という大義を臣民にしめすことができましょうか」
「……苦しいのだろうな、姜維も」
そのようなことが、今や現実として成功するとは思えない。
苦しいのは、司馬昭も同様である。
内憂外患、淮南で二度も大規模な叛乱が起きたあとの鎮撫はゆきとどいておらず、呉と蜀は隙をみせれば、国境を越境して攻め込んでくる。
なにより皇帝の曹髦から、司馬昭は疎まれているのを実感している。
(諸葛亮は、えらかったな)
司馬昭は、敵ながらしみじみ諸葛亮の功績をおもった。
中華を三分して、つかの間の平和を享受する「天下三分の計」は、未だその効力をうしなっていない。