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司馬兄弟  作者: コルシカ
7/13

淮南三叛②毌丘倹と兄の死


         七


 毌丘倹、ときけば司馬兄弟の父、司馬懿のもとで遼東征伐にしたがって功をあげた人物である。

 いまは鎮東将軍にして都督揚州諸軍事という、対呉戦線の要職に抜擢されていた。

 かれの下に、揚州刺史の文欽は配属されていた。

 そう、王粛が「蚩尤旗」と占い、叛逆を疑われている人物である。

 文欽は武勇の人物であり、その性格は誇り高く粗暴であるため群臣にはばかられていた。

 とにかく独尊の性質をもっており、上官の命に従わない。戦でも法令と上官の命に従わないので、文欽を弾劾する文書が何通も洛陽に送られてくる。

 当時の揚州都督が王淩で、

 「鷹揚将軍(文欽)は残虐で無礼です。呉との国境を守備させるのはよくありません」

 と上奏をした。ところがときの皇帝は曹叡亡きあとの幼帝曹芳で、政柄を握っているのは大将軍の曹爽だった。

 曹爽は同郷のものにあまく、文欽の罪状をとがめるどころか、しばらく洛陽で厚遇したのち廬江太守に戻し、冠軍将軍の号まで加えてやった。

 「大将軍(曹爽)は讒言などに耳は貸さぬ。われは王朝にとってなくてはならぬ将よ」

 文欽が増長し、以前に増して傲慢無礼になったのはいうまでもない。

 まもなく、寵愛してくれた曹爽が政変で司馬懿に倒されたあと、司馬懿は文欽の武勇を貶めるよりも昇進させて、気分良くはたらいてもらおうという処置にでた。

 前将軍に任じられ、やがて揚州刺史に昇進した。

 しかしいくら文欽が思慮に欠けるといっても、司馬懿のあとを継いだ司馬師と司馬昭の兄弟がじぶんにどのような感情をもっているかは理解している。

 曹爽が排除され、李豊と夏侯玄が叛逆を起こして失敗すると、文欽はおおいに落胆した。

 「だれか、司馬兄弟を倒す侠気をもった臣下はおらぬのか」

 と司馬兄弟を朝廷から排斥するのをのぞむようになった。

 そこに仲の悪かった上司の諸葛誕が豫州に遷され、揚州に毌丘倹が上司として赴任してきたというわけだ。

 毌丘倹は李豊と夏侯玄に親しかったので、このたびの皇帝の廃立には憤っている。

 「やっと話のつうじる武人がきたわ」

 文欽が狂喜したのはいうまでもない。

 毌丘倹は遼東征伐、高句麗征伐を成功させた稀代の驍将である。そして文欽に対しても傲慢な態度をとらない謙虚さもあわせもっていた。

 「鎮東将軍(毌丘倹)は、志というものをよくご存じよ」

 だれに対しても傲慢な文欽も、毌丘倹には忠実にしたがった。

 なにより、ふたりは現朝廷への不満を共有している。曹芳の廃立を知った文欽は、毌丘倹の部屋に駆け込んだ。

 「ご存じですか、大将軍(司馬師)の暴挙を」

 鼻息荒い文欽を冷静に着席させた毌丘倹は、

 「大将軍が明帝のご遺志をまげていることは事実だ……相国(司馬懿)は明帝の遺言を直に受けたので斉王(曹芳)を守ったが、大将軍はじぶんはその遺言をしらぬとばかり天子を廃立した」

 文欽はおもわず大声をあげた。

 「それです。大将軍が田常のごとき逆臣であることはあきらかではありませんか。

 今こそ兵を挙げ、正義を匡さねば、曹氏の王朝が頽廃するのは目にみえております」

 田常は春秋戦国時代の斉の重臣で、王位を簒奪した人物である。

 「それはそうだ。しかし大将軍の逆心を、諸州の刺史たちが共感してくれるかが問題ではないか。揚州のみが義兵をあげたとて、大将軍の管轄する中央の軍には勝てぬ……」

 「ならば」

 文欽は、毌丘倹につめよった。

 「大将軍の罪を弾劾する檄文をつくり、他州にまわせばよろしい」

 毌丘倹は眉をひそませて、

 「しかし、それだけで他州の刺史がわれらに同調して立ってくれるかな……」

 と不安を吐露した。

 「他州の刺史は理解してくれます。鎮東将軍が正義のお人なのは天下万民の知るところ。

 たちまちにして打倒大将軍の兵は燎原の火のごとく、国内にひろがりましょうぞ。

 まあ豫州の諸葛誕のような臆病者には、それを理解する知能はないでしょうがな」

 文欽の放言は、緻密さのかけらもない。

 だが、策をめぐらせばどうか。

 毌丘倹は、司馬兄弟を打倒する計画を練りはじめた。

 息子の毌丘甸が治書侍御史として洛陽で勤務しているので、中央の様子は手に取るようにわかっている。

 毌丘甸は曹芳が皇位を追われたとき、父や文欽とおなじく義憤をおぼえ、

 「父上は東方の重任を背負っておられるのに、おのれの地位にあぐらをかいておられるようでは、国家は傾き、国中の誹りをまぬがれませんぞ」

 と激越な批判の書簡を送ってきた。

 (その意気やよし)

 批判されたにもかかわらず、毌丘倹は息子である毌丘甸が勤王の志をつよくもっていることを内心褒めた。

 「われは、とおくないうちに義兵をあげる」

 毌丘甸の使者に、毌丘倹は明言した。

 使者にきくところによれば、新天子の曹髦に司馬師はいちども面会すらしていないという。

 「天子をないがしろにすることこのうえなし」

 毌丘倹は司馬師の病状をしらないので、曹髦を軽んじているとかんじた。

 冬の間、文欽はなんども毌丘倹のもとにやってきては、司馬師に対する暴言を吐いている。文欽は猛将にちがいなく、挙兵の核になってくれるはずなのだが、かれのいうとおり檄文を諸州にまわしているうちに密謀はかならずばれる。

 王淩や李豊もいたずらに策を練りすぎたあげく、司馬懿と司馬師に虚を突かれて敗亡していった。

 (やはり先んずれば人を制す……か)

 いきつくところ、先制攻撃である。挙兵の準備をせず、おもむろに北上し、優位な戦場を設定すれば、戦いで司馬師にひけはとるまい。

 年末にまた文欽が毌丘倹の部屋にやってきたとき、

 「新年早々、各地の刺史に檄文をまわし、皇太后の詔をしめして挙兵させる。それでよろしいかな」

 と毌丘倹は笑顔でいった。

 「おう、それはよい。しかし皇太后の詔はとどきますかな」

 「詔はすでに手元にある」

 「……なるほど。それでこそよ、鎮東将軍」

 郭太后の司馬師打倒の詔など、司馬師と唇歯の間柄である郭太后から出るはずはない。

 打倒司馬兄弟の偽の詔を偽造した、ということである。

 年が明けて正元二年(二五五)。

 淮南の夜空に彗星があらわれた。長さは数十丈、西北の夜空に尾を引きながら消えていった。

 「ごらんになったか、鎮東将軍。これぞ吉祥。義兵を挙げるのは今しかございますまい」

 文欽が大声をあげながら、毌丘倹の部屋にやってきた。

 「うむ。今こそ兵を挙げるか」

 天空の異変は、地上の秩序を変えようとするものにとっては吉兆と解されている。

 (天が正義を行え、と告げている)

 決意を固めた毌丘倹は、司馬師の弾劾状を諸州にまわし、寿春にいる将兵たちに偽の郭太后の詔を見せた。

 「皇太后は、大将軍を討てと命じておられるぞ。逆らうことは赦さぬ」

 毌丘倹は寿春の城に、官民を入れ、城の西方に壇をつくり、血をすすって誓いをたてた。

 「籠城なさるおつもりではありますまいな」

 積極策を好む文欽の不審げな表情に、毌丘倹は自信をみせた。

 「淮水をわたり、頴水を遡って項まですすむぞ。そこで大将軍の軍と決戦をおこなう」

 「おう、それでこそよ」

 文欽も愁眉をはらって、五万の大軍における士気はおおいにあがった。

 「淮南三叛」の二つめ、毌丘倹の乱が幕をあけた。

 司馬師は、かつて王粛が「蚩尤旗」の預言をしたことで文欽を警戒していたのだが、かれの上司である毌丘倹までが先頭を切って叛いたのは意外であった。 なにしろ、司馬師は右目の上にある瘤を切除したばかりで、病牀に横たわっている。

 微熱が続き、予後は万全なものではない。

 急報を聞き、洛陽にもどってきた司馬昭は、

 「大尉(司馬孚)に出師していただく、というのはいかがでしょう」

 と意見した。

 「いや……」

 たしかに司馬孚の用兵はそつがないが、毌丘倹と文欽という驍将を相手に、応変の策を駆使できるか心もとない。

 「河南尹(王粛)に意見をきいてみよう」

 やがて王粛は、司馬師の病室にやってきた。

 「鎮東将軍(毌丘倹)と揚州刺史(文欽)が、叛いた。ぞんじておるな。蚩尤旗の預言が当たったというわけだ」

 「そのようですね」

 「そこで見識のあるなんじに問う。国を安んじるためには、どのような術が最適か」

 王粛は将軍ではない。いわば軍事を専らにしない文官の彼には、あえて事細かな戦術を問うよりも、漠然とした指針をききたかった。

 「かつて関羽は荊州の兵を北上させ、于禁を大破した後、許昌にむかい天下を志したことがありました。

 しかし孫権の配下である呂蒙に将士の家族を人質にとられたため、関羽の軍はまたたくまに瓦解いたしました。

 いま叛乱を起こした淮南の将士は、その家族が畿内にいるため、いそいで畿内を守備いたしますと、かならずや淮南軍は関羽と同様に崩壊いたしましょう」

 「なるほどな……」

 王粛が期待した以上の意見を上申したことで、司馬師は舌を巻いた。

 毌丘倹と文欽とその兵たちの家族は洛陽にいるのだから、かれらを人質にとっていることと同様である。すなわち洛陽の守備を堅くするだけで、毌丘倹と文欽に勝てるというわけだ。

 (それならば大尉に軍を任せられよう)

 司馬師が討伐軍の総帥を司馬孚に任命しようとしていたときに、鐘会がたずねてきた。

 見舞いのためにやってきたと思っていた司馬師に、鐘会は乗り出すようにいった。

 「こたびは、大将軍みずからが淮南を鎮圧なさらなければなりません」

 「そう申すな……こうでなければ、われが討伐するつもりであったが」

 司馬師は困惑して、包帯を巻いた右目をさししめした。

 「なりません。毌丘倹と文欽は勇猛でしられる淮南の軍を率いて、都から遠方で戦っております。

 もし討伐軍を大尉にお任せになり、手こずるようなことがありますと、叛乱は燎原の火のごとく諸州に広がるは必定……陛下は賢明なお方でありますものの、そのおこころは知れません。

 毌丘倹と通じて大尉が敗退したあと洛陽を占拠しないともかぎりません。どうか、いそぎご出立のご準備を」

 (しかし、また幼少の陛下をかつぎだす奸臣が出てきてはかなわぬ)

 司馬師も聡明にみえる曹髦が少々の賢しらさをかくしもっている気がしないでもない。

 「よし。輿に乗ればわれでも寿春に出向けるであろう。ついては都の守備だが……」

 「いまちょうど衛将軍(司馬昭)が洛陽においでです。姜維を退けた衛将軍であれば、都の治安維持などはお手のものでしょう」

 鐘会が司馬昭を推したので、司馬師もそれに同意した。

 司馬昭をふたたびよんだ司馬師は、

 「蜀の動向はどうか。淮南の叛乱につけこむようすなどはないか」

 と訊いた。

 「征西大将軍(陳泰)は大胆細心、去年雍州に侵入した姜維をしりぞけております。

 かれが長安に駐屯していれば、仮に姜維がまた兵をうごかしても、難なく撃退できるとぞんじます」

 去年陳泰は揚州刺史の王経が蜀の衛将軍である姜維に大敗したあと、少数精鋭の兵を率いて戦場に急行して敵をしりぞける功績をたてていた。

 「西方の守備は征西大将軍に任せるか」

 司馬師は、病牀から身体を起こした。熱は引いていないが、馬に乗ったりしなければ征東軍を引率できるであろう。

 「では昭よ、あとのことはたのむ」

 「はい。おまかせください」

 従者に肩を借りつつ病室を出てゆく司馬師に、司馬昭は不吉なものを感じた。

 「兄上」

 「どうかしたか」

 ふりむいた司馬師に、

 「いえ……お身体をいたわってください。ご無理は禁物ですぞ」

 と声をかけた。

 「はは、多少の無理をせねば、毌丘倹と文欽は倒せぬよ」

 司馬師は微笑んで、出立していった。

 (しかしなぜ鐘会は、兄上にみずから賊の征伐を強いたのか)

 司馬昭は、鐘会の野心を垣間見たように感じた。もちろん鐘会も討伐軍に従軍している。

 (われが毌丘倹を討ってもよかったのだが……あまくみられたかな)

 鐘会は、最高権力者の身近で功をあげたいのだろう。それはわかる。

 (まさか、兄上が亡くなってもそれをよしとしているのではあるまいな)

 鐘会は皇帝の曹髦を才気があるといった。

 しかし今回の毌丘倹討伐では、洛陽で諸州の叛乱軍が蜂起した場合、かれらと通じるかもしれぬ、といった。

 (陛下と鐘会は、相似形かもしれぬ)

 すなわち、鐘会は毌丘倹が勝ち、司馬師が病死したときは、曹髦とともに司馬昭を都から駆逐し、宰相の座を狙っているのではないか。

 (才気走った若者は、やりきれぬ)

 司馬昭は、急にまわりが敵だらけになった心地がした。

         ※

 司馬師の動員令で、三方から兵が許昌に集合しはじめている。

 毌丘倹は当初の目標である、項県に到着している。それだけ勢いよく進軍してきたということである。

 許昌の軍は、荊州刺史の王基を行監軍・仮節に任じ、率いさせることにした。

 王基はこれまでの戦の履歴で、まずい戦いをしたことがない。手堅いともいえるが、応変の用兵もできるということだ。

 「監軍(王基)は、毌丘倹をどう見る」

 司馬師の諮問に王基は、

 「こたびの淮南の叛乱は、吏民が望んだものではなく、毌丘倹と文欽の嚢中から出たものにすぎません。おどされて集められた兵たちは、許昌からの大軍と向かい合うだけで土崩瓦解するは必定……大将軍みずから兵を率いてきたときくと、先をあらそって逃散するでしょう」

 とはっきり答えた。

 「そうか……」

 王基の見識を疑うわけではないが、司馬師はさらに鐘会を召した。

 「最善の策は、戦わずして勝つことですが、ここまで毌丘倹と文欽が突出してきていれば、それはかないますまい」

 「そうであろうな」

 「そこで、次善の策です。毌丘倹の本拠地は寿春です。いまかれは項県にいます。寿春と項県は距離が離れているので、鎮南将軍(諸葛誕)に寿春を攻撃させれば、毌丘倹はこころがおだやかではなくなります」

 毌丘倹に従っている文欽と諸葛誕が不仲であることは、むろん鐘会と司馬師は承知している。

 諸葛誕は現に、毌丘倹からの叛乱の誘いを受けたとき、

 「なにが義兵だ。太后の詔もおおかた偽物であろう」

 と激怒し、使者を斬殺していた。

 「鎮南将軍は用兵に長じているわけではありませんが、毌丘倹の背後をおびやかしてくれれば、ことはたります」

 司馬師はその策を採用し、さっそく諸葛誕に使者を出した。

 「なお征東将軍(胡遵)に青州と徐州の兵を率いさせ、譙と宋まで進ませましょう。振威将軍(鄧艾)には楽嘉城まで急がせ、三方から包囲するかたちをとりましょう」

 (さすがは鐘会、やるものだ)

 毌丘倹は有利な地を占めたいので、勝利を急いでいると司馬師と鐘会はみた。王基の軍をとどめるよう、使者をおくった。

 しかし先陣の王基は、それを消極策であると疑義をいだいた。

 「毌丘倹が項にとどまっているのは、兵たちが叛乱に乗り気ではないからです。

 わが軍までがそれにつきあって塁を築いているようならば、賊をおそれているようにみられてしまいます。

 もし、この膠着状態に呉がつけこめば、淮南の地を失うことになりかねません。どうか南頓にある食料貯蔵庫まで、兵をすすませることをおゆるしください。ここには四十日分の兵糧があり、ここを堅くまもって先手をうてば、賊は戦意をうしなうこと必定です」

 それをきいた鐘会は、

 (王基は功をあせっている)

 とみた。司馬師に、

 「本営と先陣が離れすぎることは、兵法からみても上策とはおもえません」

 と献策した。司馬師もうなずいて、

 「そこまで申すならば、頴水の上流まで兵を進めよ」

 と命をくだした。

 「まだ遠い」

 王基は使者の面前にもかかわらず、大声をあげた。

 「このままでは南頓の兵糧が、敵の手にわたってしまうではないか」

 と書簡をにぎりしめた。

 「よし、待ってはおられぬ。軍をすすめて、南頓の食料庫を確保する」

 属官たちはおどろいて、

 「大将軍の命令に背くと、罪に問われます」

 と王基を制止しようとした。

 「なにをいう。孫子の兵法では、将が軍地にいるときは主君の命を聞かざること可である。

 南頓の兵糧を敵が奪取すればわが軍の不利となり、わが軍が先んずれば敵に打撃をくわえることができる。南頓こそ争城の地ということだ」

 かつて司馬懿も叛乱した孟達を電撃的に討伐したときなど、皇帝の指示をあおがず独断専行したことがある。勝機をつかむには、戦場にいない主君の判断を仰がずともよい、と王基はいったのである。

 やがて王基の軍は南頓に入り、食料庫を確保した。

 その実、毌丘倹は南頓を占領しても守備に不安があったので項にとどまっていただけで、五万の兵たちの兵糧が不安だと属官に告げられると、

 「よし、南頓の食料庫を奪うぞ」

 と兵をすすめた。

 ところが十里先にきたところで、王基がすでに南頓に入っていることを知り、軍を返したのだった。

 (王基に負けるようなわれではないが……)

 毌丘倹は兵をとどめたままで、司馬師のいる本営をしきりに探らせた。

 南頓まで先陣が南下してきているということは、本営も先陣との距離を縮めないといけないはずだからだ。

 「王基が南頓に入っただと」

 鐘会は、いらだちをかくせない声でいった。

 「まあよい。食料庫をおさえられたのはさいわいだ。汝陽まで本営をさげるぞ」

 司馬師はまだ先陣との距離を保ったまま、本営を汝陽においた。

 ここで持久戦に持ち込んでも、敵は戦わずに瓦解する。

 王基の兵たちが塁を高くして防御態勢をとりはじめたことに、毌丘倹はほぞをかんだ。

 (大将軍が持久戦だと……まずいことになった)

 兵糧の心配もさることながら、毌丘倹と文欽の陣から兵たちが脱走しはじめているという。司馬師に王粛が説いた預言が、現実になろうとしていた。

 ここで勝利を得て士気を高めねば、戦況は不利に傾く。思案していた毌丘倹のもとに、一報がもたらされた。

 「振威将軍(鄧艾)が楽嘉に入りました」

 鄧艾の名を聞いた毌丘倹は、

 (あのどもりの男か……)

 とおもった。兗州刺史の鄧艾は曹叡のように吃音で、年をとってから累進した人物なので、威勢のよさは感じない。

 若いころから貧しく、小吏から身を立てた鄧艾は独学で農政や軍事を学び、司馬懿にその才能をみとめられた。

 とくに蜀軍を撃退するのに功があり、征西将軍の郭淮をおおいにたすけた。累進して振威将軍、兗州刺史にまでのぼりつめた。

 (結局司馬兄弟にとりいって、出世しただけよな)

 鄧艾はのちにあの鐘会とならぶ才能を発揮するのだが、独尊の気質がつよい毌丘倹には凡器とうつった。

 「鄧艾を、別働隊の前将軍(文欽)に奇襲させよう」

 そう軍吏に命じた毌丘倹に、軍吏はだまってうつむいていた。

 「どうかしたのか」

 軍吏は声をふるわせて、

 「治書侍御史(毌丘甸)が大将軍に殺害されました」

 といった。

 「なんだと……」

 司馬兄弟の横暴を見て見ぬふりをせず、兵をあげるべきだと父をうながしたのが毌丘甸であった。かれは父が挙兵すると、家族をつれて毌丘倹のいる寿春にむかった。

 あえなく司馬師の追手においつかれた毌丘甸は霊山に入り、追撃兵と熾烈な戦闘をくりひろげたのち、戦死した。家族もすべて殺害されたという。

 (甸よ、なんじの志はわれがかならずなしてみせるぞ)

 毌丘倹は涙を拭おうともせず、

 「わかった。さきの指令を、すみやかに前将軍(文欽)につたえるがよい」

 と闘志をあらたにした。

 「そうか、南頓の大将軍を攻めるのではなく、楽嘉の振威将軍を攻めよとな」

 文欽も敵の意表をつく毌丘倹の策に、勇んで同意した。

 「父上、お急ぎください」

 声をあげたのは、文欽の次男である文鴦であった。文鴦の鴦とは幼名で、本名は文俶であるが、その若さと勇猛さから家族や軍中では文鴦とよばれている。

 「どうした」

 「振威将軍は楽嘉に到着したばかりで、まだ営所も築いておりません。ならば夜間に急襲し、疲弊している敵軍を私が突きます。

 父上も同時に軍を発すれば、私と父上の軍で楽嘉の営所を挟撃できるでしょう」

 「ふむ……それは敵の意表をつくな。やってみよ」

 文欽は文鴦の勇ましさをよしとし、二千の精鋭をつけて楽嘉に送り出した。

 喜び勇んで出発した文鴦は、頴水にそって北上した。夜間の行動なので馬ばかりでなく、人まで枚をかんでいる。徹底した隠密行動であった。

 文鴦は軍を北に迂回させた。鄧艾を奇襲すれば、かならず北に逃亡する。夜間では方角がわからないので、北から攻撃すれば敵は逃げ場を失ったと混乱する。

 若いのに、戦場の機微にさとい男である。

 ところが前進する兵が停止した。

 不審におもった文鴦が、

 「どうかしたか、なにかあったか」

 とたずねると、

 「はい……前方に大軍が駐屯している、ということです」

 兵は、信じられない顔つきでこたえた。

 「大軍だと。振威将軍の兵はせいぜい一万だ。よく探ってみよ」

 夜が明けはじめた。奇襲をかけたい文鴦は事の真偽がわからぬまま、兵を進ませた。

 「大変です。前方に駐屯しているのは大将軍がいる本営のようです」

 「なんだと」

 偵候の兵がつげた情報に、文鴦は仰天した。

 「大将軍は汝陽に本営をおいているのではなかったか」

 「はい……いいえ、旗から判断し、まちがいなく本営であるとのことです」

 偵候の兵も混乱があるが、どうやら前方の大軍が司馬師の本営であることは間違いないらしい。

 「これこそ僥倖だっ」

 勇ましい文鴦は、おもわず大声をあげた。

 「楽嘉に進出した振威将軍は、前将軍(文欽)をおびきだすための囮だ。

 大将軍は本営を汝陽から南下させ、振威将軍とあわせて前将軍を各個撃破しようとしていたのだ」

 「なるほど……」

 「それで合点がいった。しかも大将軍は、わが軍が夜襲をかけてくることを察知しておらぬぞ」

 「ということは、いまが好機……」

 「おうよ。兵が少ないのは仕方がない。

 しかしこれは、天がわれに大将軍を討ち滅ぼせと命じられたと同義ぞ。

 大軍をよそおうために、大声でさわぎ、さかんに鼓をうちひびかせよ」

 父・文欽の兵を待っていては夜が明けきって、兵力のすくなさが露呈してしまう。

 文鴦は夜襲の兵を、そのまま司馬師の本営に突撃させた。

 「なに、奇襲だと」

 本営で飛び起きた鐘会は、愕然とした。

 (文欽ごときに裏をかかれたというのか……)

 信じられぬおもいのまま、鐘会はあわてて鎧をつけた。文欽は猛将のうえその兵は万を下らない。

 しかし大軍で構成されている本営を荒らしまわるには、いかにも文鴦の兵はすくなすぎた。

 「敵将は、文鴦だぞ」

 夜が明けてきたことと相まって、冷静な兵が奇襲の主は文欽ではなく、文鴦であることをようやく判別した。

 「文鴦が、別働隊で夜襲をしかけた。つまりそういうわけだな」

 鐘会の現状把握能力は、俊敏である。

 それにしても、

 「大将軍はいずこぞ。文鴦これにあり」

 と大声で吼える声は、本営を震撼させ、ろくな反撃もできない状態である。

 「敵襲か」

 司馬師はあわてて牀から身を起こすと、驚きと動揺のせいだろう、切開した右目の瘤から、ぬるりとなにかが出てきた。

 右目の目玉である。

 (こんなときに……)

 司馬師はあわてて目玉を包帯で眼窩におしもどし、大声をあげないように布団を噛んだ。

 あまりにぎりぎりと布団を噛んだために、掛け布団はずたずたになった。

 やがて鐘会がかけつけてきて、

 「ご安心ください。文鴦が振威将軍(鄧艾)の陣と錯誤し、奇襲をかけてきただけです」

 と司馬師を牀にふたたび寝かせた。

 「本営は混乱しているようだが……」

 「敵兵は少数です。まもなく駆逐いたしますので、しばらくおまちください」

 鐘会の冷静な対応をきいた司馬師は、ようやく人心地がついて、

 「そうか。万全の策をめぐらせても、戦陣は千変万化の生き物よ。油断はできぬな」

 といって微かにわらった。

 文欽の兵が文鴦の奇襲に間に合っていたなら、司馬師も逃亡しなければならなかったであろうが、文欽の兵数が多かったためそのうごきはにぶく、楽嘉にむかう頃にはすでに文鴦が退却してきた軍に遭遇した。

 「父上、大将軍が本営を汝陽から下げてきており、急襲しましたがおよびませんでした」

 文鴦は、歯がみしてくやしがった。

 「なんと。わが軍が遅きに失したか」

 文欽も、まさかの事態に地団駄をふんだ。

 しかし、こんどは危機が文欽と文鴦にせまっている。

 本営からは、楽嘉にいる鄧艾と南頓にいる王基に追撃命令がくだっているはずだからだ。

 「それにくわえ、本営も落ち着きをとりもどし次第、われらを追撃してくるでしょう」

 文鴦は憤慨しつつ、決断を文欽にうながした。

 「それは、迎撃できる数の兵ではないぞ。項にもどってももちこたえられまい。このまま、呉に逃げ込むぞ」

 呉からは諸葛恪を殺して権力をにぎった孫峻が、毌丘倹の使者を受けて援軍を寿春におくっている。

 ゆえに文欽と文鴦は、呉に逃亡を決意したわけだ。

 孫峻は、けなげに毌丘倹の勤王に助力しようとしているわけではもちろんない。

 毌丘倹が勝ち進み北上した場合、寿春を奪取しようともくろんでいた。寿春は揚州の要であるから、孫峻が寿春を占拠すれば魏の揚州を実効支配できることになる。

 標騎将軍の呂拠と、左将軍の留賛を派遣していた。

 もはや毌丘倹との合流をあきらめた文欽は、呉にむけて急速な退却を開始した。

 「後拒は私におまかせください」

 文鴦は、ゆるゆると手勢を率いて退却をはじめる。

 魏の本営の司馬師は、ようやく落ち着きをとりもどした諸将に、

 「さあ、一鼓でつくられた気魄は、二鼓で衰える。文鴦の兵は果敢にわが軍に攻め込んできたが、文欽の軍と合力することができなかった。ゆえに、その勢いは衰えている。早急に追撃せよ」

 と命じた。この喩えは「春秋左氏伝」にみえる。

 ようやく文欽の軍を追撃しはじめた魏軍だったが、ここでも文鴦に一泡ふかされることになった。

 「追撃軍を徹底して叩かねば、退却はおぼつかぬと心得よ」

 この後拒における文鴦の闘いこそ、獅子奮迅というものであったろう。

 追ってくる数千の魏軍が擁する騎兵の中に、文鴦はひとりで突入し数百人を殺傷、なんとそれを七回繰り返したというから、すさまじい。

 文鴦の豪勇が天下に鳴り響いたのは、この後拒であり、文鴦を恐れた魏の騎兵はこれ以上追撃できなかった。

          ※

 毌丘倹は、水場の足の長い草むらに息をひそめてかくれていた。

 (どうしてこうなった……)

 文欽の軍が敗退し、呉に逃げ込んだという報せがとどくと、項にある毌丘倹の本営はおおいに動揺した。

 「大将軍が、楽嘉まで本営をさげているそうな」

 「そうなると征東将軍(胡遵)と振威将軍(鄧艾)と三方から包囲されてしまうぞ」

 明日には、司馬師率いる主力軍が項に到着する。その前に毌丘倹は、本拠地である寿春にもどっておきたかった。

 「本営を寿春にまで下げる。今夜のうちに城を出るぞ」

 項城を戦わずして退却したことに動揺した叛乱軍は、寿春に近づくごとに兵の脱走が相次いだ。

 (一度も戦わぬうちからこのざまとは)

 毌丘倹は、無念の臍をかむおもいであった。

 それでも援軍を出してくれている呉軍と寿春で籠城すれば、風向きが変わるかもしれない。司馬師が病態であるという情報は、毌丘倹もつかんでいる。

 (大将軍さえ陣中で死ねば……)

 呉軍と協力して、退却せざるをえない三軍をおおいに叩ける。

 ところが呉軍の孫峻は、魏との国境を越えておらず、東興という諸葛恪がかつて築いた城にいた。

 結局のところ、孫峻に毌丘倹を扶助してやろうという義侠心はなく、司馬師が毌丘倹に勝つようならば、戦わずして撤退するつもりでしかなかった。

 夜間で思うように進めない毌丘倹一行は、慎県という場所にたどりついた。まだ淮水で船に乗るまでは百里もある。

 「今夜は露営をするしかないな」

 そういってふりかえった毌丘倹は愕然とした。

 さっきまで道案内をしていた兵が消えていたのである。敗北を確信し、逃亡したのであろう。すると遠くから、

 「そこにだれかいるのか」

 という声がひびいた。追撃軍がもう間近にせまっているではないか。

 暗闇から敵兵の声をきいた毌丘倹は、あわてて足の長い水草の茂みに駆け込んだ、というわけだ。

 毌丘倹は、巨漢である。いいかえれば、肥満しうごきがにぶくもあった。

 夜の闇に毌丘倹の白刃がきらめいたのが、あだとなった。

 たてつづけに二発の矢がはなたれ、毌丘倹の首と胸を貫いた。

 「無念」

 的の大きなからだと、白刃の光が標的となった。短いさけび声と大きな水音をたて、のけぞりたおれた毌丘倹に、兵士がちかづいてきた。

 「死んだか……しかしでかい男だな」

 厳密にいえば、毌丘倹を射た男は兵士ではなく、地元で徴発された漁師の張属という。

 漁業だけでなく、狩猟もなりわいとしているので、弓に長けていた。

 「なんじが、しとめたのか」

 「はい……」

 あとからおいついてきた部隊長が、張属に声をかけた。

 「みたところ、大力の兵のようだが……それにしても良い剣をもっているな」

 毌丘倹は逃亡するために鎧兜を身につけていなかったが、帯剣の見事さはかくしようがない。

 「毌丘倹の下にいる将士かもしれんな。念のため首をとり剣も添えて、上に届け出てみよう」

 張属は、あおむけにたおれて死んだ男をしばらくみつめていた。

 翌朝、司馬師のいる本営に届けられた首をみて、王基はおどろいた。

 「これは、毌丘倹ではないか。いそいで大将軍にお知らせせよ」

 司馬師は起床したところであったが、身なりを整え、王基のいる営所まで出向いた。

 (毌丘倹であったならば、礼を尽くさねばならぬな)

 司馬師は子どもの頃から、父の司馬懿に徹底して礼をしつけられている。たとえ首とはいえ敵の大将と対面する際に、着衣をおろそかにすることはできない。

 果たして、本営にそなえられた首は、毌丘倹その人であった。司馬師は、

 「毌丘倹。わが父はなんじを頼りにしていた。それなのになぜ叛きこのように凋落したか」

 とねんごろにはなしかけた。

 本営内は、おおきなどよめきにつつまれた。

 毌丘倹が死んだということは、この戦は終わるからである。みなはやく都に還りたかった。

 一足先に、毌丘倹の首級が洛陽に送られた。

 司馬師は、ほとんど戦わずして毌丘倹の乱を鎮圧することに成功した。

 毌丘倹を射殺した張属は、なんと列侯に取り立てられたというから天からの恩恵をさずかったというべきであろう。

 さて、毌丘倹の本拠である寿春の城内は大混乱をきたしていた。兵と民あわせて十万はいたが、毌丘倹の死を知ると、城門を破壊して四散した。おおかたの兵は、呉に投降したとおもわれる。

 豫州刺史の諸葛誕が寿春に到着し、住民を慰撫した。無抵抗の叛乱軍本拠をおさえたことで、諸葛誕はふたたび鎮東大将軍、儀同三司、都督揚州諸軍事に任命された。

 いわば、毌丘倹の後釜におさまったわけである。

 しかし、寿春には呉軍の孫峻が接近していた。孫峻には降将の文欽が、

 「相手が諸葛誕であれば、寿春を攻め取れます」

 とつよくすすめてきたが、驃騎将軍の呂拠がそれに反対した。

 「寿春にはすでに諸葛誕の兵が入城しており、それを攻め落とすには何日もかかります。

 そのあいだに司馬師の率いる主力が南下してくると、とても防ぎきれません。いまのうちに撤退するべきです」

 文欽は呂拠をにらみつけたが、現実的に筋が通っているのは呂拠の方であった。

 撤退をはじめた呉軍を、諸葛誕は蔣班に追撃させ、留賛を討ち取る功績をあげた。

 ところが、ここで本営にいる司馬師の病が篤くなった。

 文鴦に夜襲をうけたとき、目の傷口がひらいたのがよくなかったのであろう。高熱を発し、牀に横たわったまま動けなくなった。

 「これから、どうする。軍は寿春まで進むべきかとおもうが」

 王基が鐘会に訊くと、

 「大将軍のお命は長くはもつまい。いそいで許昌まで軍を返そう」

 とこともなげにこたえた。

 (こやつはあわてぬのか……)

 王基は内心おどろいて、鐘会を見返した。

 「寿春の人民を慰撫するのは、どうする」

 「その程度のことは豫州(諸葛誕)でこと足りる。それより、大将軍の後継をご本人に指名してもらわねば」

 「……やはり弟御の衛将軍(司馬昭)か」

 「ほかにだれがいる」

 けんもほろろな返答に、王基は閉口した。

 (こやつ、増長しておるな)

 たしかに鐘会の策で、司馬師本人が毌丘倹討伐に出向いたことで叛乱が終息したのは否めない。さらに文欽を楽嘉の鄧艾に食いつかせたことにより、叛乱軍は空中分解したのである。

 (とはいえ……病身の大将軍を戦陣に引きずり出し、命を縮めたことに後ろめたさはないのか)

 王基は鐘会の若い横顔を、憎々しげにみつめた。大尉の司馬孚か衛将軍の司馬昭を討伐軍の総帥にしておけば、少なくとも司馬師は死なずにすんだ。

 鐘会は己の才能に酔うところがあり、司馬師を叛乱討伐にかつぎだしたことに悔恨などおぼえていない。むしろ、

 (ここで大将軍には退場してもらった方が、都合はよい)

 とさえ感じていた。

 司馬師は、うすうす鐘会の野望に気づいており、さりげなくたしなめられたこともある。

 鐘会は仕える主君が無能な方が、己の旗鼓の才を発揮できるとおもっている。

 理想は劉禅と諸葛亮の関係で、司馬師はまだ劉禅にくらべ配下の鐘会に采をふるう裁量をまかせてくれない。

 (衛将軍の方が、うすぼんやりしていて御しやすい)

 鐘会は、そうおもっている。

 司馬師を輿にのせたまま、主力軍はかなりの速さで許昌に到達した。

 (もはや洛陽まで、わが命はもたぬ)

 そう確信した司馬師は、副都の許昌に洛陽から司馬昭をよんだ。

 司馬師はすでに意識が混濁してきており、目の傷口から発した高熱が全身をおおっている。

 司馬昭の到着は、司馬師の死に間に合った。

 「兄上……」

 司馬師の瀕死の病状をみた司馬昭は、絶句した。まさか目の瘤を切開したことと遠征が、司馬師の命を奪うとは。

 「よくきてくれた……昭よ」

 からだをおこした司馬師は、

 「わが子はまだわかい。諸軍はなんじが総統するように」

 といって、司馬昭の手をにぎった。

 「かしこまりました。父上がなくなって数年なのに、ここで兄上まで喪うとは……」

 「それは天命ぞ……天がわれにかえてなんじに大事をなさしめようとされておるのだ。

 天命は、拒んではならぬ……」

 (昭はやさしい)

 自分も苛烈な政治をおこなってきたわけではないが、弟の司馬昭はひとの命を尊ぶこころがあり、官民にきっと慕われるであろう、と司馬師はかんがえている。

 「毌丘倹がな……われの夢にでてきたよ。

 王淩が父上の夢にでたのと同じだな」

 「かれは、なにかもうしましたか」

 「いいや。だまってわれをみていた。ともに信念に生きたのだ。たがいになにを恥じることがあろう」

 閏月の辛亥の日に、司馬師は薨じた。享年はまだ四十八である。

 「兄上とは、まだ二十年も三十年もともに歩んでいくとおもっておったのに」

 司馬昭は、さめざめと涙をながした。さらに鐘会には、

 「大将軍をよくささえてくれた。今回の叛乱が鎮圧できたのは、なんじのおかげだ」

 と特別に声をかけた。

 「なにをおっしゃいます。われの力は非力であり、すべてのことは大将軍の威光が天から降る大雨のごとく、淮南の大火を消したのです」

 鐘会のことばに涙をふいた司馬昭は、

 (この男が兄を殺した男……)

 との心証をおさえることができなかった。

 鐘会には、そのような司馬昭のこころの機微を察するこまやかさはない。

 「まもなく洛陽の天子が詔を下されるとおもわれますが、お受けになりませんよう」

 「どういうことか」

 「はい。陛下は大将軍が亡くなったのをきっかけに、あなたさま一族の権威を弱めようとなさるでしょう」

 (兵を取り上げられるということか)

 司馬昭は、うでをくんで考え込んだ。

 やがて詔が下った。

 「淮南はおおかた平定されたばかりなので、衛将軍は許昌にて内外の支援をするように。

 尚書(鐘会)は軍を率いて都(洛陽)にもどるように」

 (陛下は、やはりわれのことを好いてはおられぬ)

 司馬昭は、鐘会の予測に納得しつつも、曹髦に不信感をいだいた。

 鐘会はさっそく、

 「いまだ淮南は完全に鎮圧されているとはいいがたく、衛将軍を大将軍に昇進させていただかなければ、非常時に対応できかねます」

 と上奏文をおくった。

 さらに司馬昭に、

 「詔では私が軍を率いて都に還ることになっていますが、衛将軍みずから軍を率いて都にお還りください。陛下の圧力に屈してはなりません」

 と献策した。

 (野心はあるが、頼もしい男だ)

 司馬昭はうなずいて、許昌を出発した。

 やはり曹髦は若年ながら、魏の中興の祖とならんと欲しているのであろう。

 いうがままになっていれば、かつての何晏や李豊があらわれて、朝廷をおもうがままにあやつってしまう。

 (過去からは、学ばねばならぬ)

 気持ちを引き締めた司馬昭は、鐘会らとともに洛陽に軍を返した。

 洛水の南のほとりまできたときに鐘会が、

 「ここで軍を駐屯させるべきです」

 と進言した。司馬昭にもその意味はわかる。

 「大将軍の位待ちだな」

 見方によっては、詔を無視したうえ大将軍の位をねだっているのだから、朝廷に対する圧力である。

 (ここが肝心よ……)

 司馬昭も肝をくくっている。

 「衛将軍の軍が、洛水から動かないだと」

 皇帝の曹髦は、不快な表情を隠そうとしなかった。

 (いまにみていよ)

 少年皇帝はちいさないかりの火をしずめ、

 「司馬昭を、大将軍に任命する。すみやかに城内に帰還するように」

 という詔を下した。

 ほっとした司馬昭の側で、

 「子上さま(司馬昭)は、都と許昌を往復されただけで大将軍になられた」

 と鐘会がわらった。司馬昭は、鐘会にむけて微笑みをみせただけであった。

 その鐘会も昇進して黄門侍郎となり、東武亭候に封じられた。

         ※

 洛陽に還った司馬昭は供のものだけをつれて、秦朗の邸宅を訪問した。

 秦朗と徐庶は、あたたかく司馬昭を迎えた。

 「父を亡くして四年しか経っていないのに、兄も喪いました」

 司馬昭がそういうと、許昌からおさえていた涙がどっとあふれた。

 秦朗と徐庶ももらい泣きした。

 「子元どの(司馬師)は亡くなるとき、天が大将軍(司馬昭)に大事をなさしめようとしているとおっしゃったとか。

 そのおことばを、われらはこころしてご遺言としなければなりませんね」

 秦朗はいまだ泣きやまぬ司馬昭の背をさすりながら、そう諭した。

 「しかし、いまの陛下はお若いのに、ご意志をおもてに出される」

 徐庶がため息をついて、いった。

 「若さは韜晦とは無縁……なのでしょうか」

 司馬昭は、ようやく泣きやんでつぶやいた。

 「それは?」

 「兄上が生前、陛下を評していったことばです。大将軍の位ひとつ継承するのに、陛下は小細工を弄される……私を信頼してくだされぬようです」

 秦朗はやや思案して、

 「陛下は、夏王朝の小康を尊んでおられるとか。わが国の中興の祖とならんと欲しておられるということですね」

 といった。徐庶は、さらに警告した。

 「気性の荒い若者を追いつめると、暴発する可能性があります。陛下と接するに腫れ物をさわるようにせねばならぬとは、もどかしいことですな」

 司馬昭は、苦笑した。

 「まあ、それも政柄をにぎる職のつとめとももうせましょうか」

 「ご苦労が絶えませんな」

 秦朗は、司馬昭のおだやかな態度に安心したようであった。

 「そういえば、河南尹(王粛)の預言は、二つまで的中したわけですが……」

 気がかりな表情で、徐庶が司馬昭にたずねる。

 「淮南で三つめの叛乱がおきると……」

 「あらたに征東将軍になったのは、諸葛誕ですな」

 「征東将軍は亡き兄と親しく、先の二つの叛乱には与しませんでした。そうあってほしくないものですが……」

 室に沈黙が広がった。

 しかしその期待は、まもなく裏切られることになる。

 諸葛誕は叛乱で処刑された夏侯玄や鄧飄と親しく、先の二つの叛乱の地である寿春に駐屯するうちに、

 「われは子元(司馬師)には理解されていたが、おそらく弟の大将軍には容れられまい」

 と疑心暗鬼におちいり、淮南の地で自立する準備を着々とすすめていたのである。


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