皇帝廃立
六
中書令の李豊は、名士である。
呉からの降伏者に、曹叡がその名をきかされたことがあるくらいに、他国にも評判の清廉潔白の人物であった。
その評判が功を奏したのか、子の李韜が公主の結婚相手に選ばれ、皇室とは縁戚になった。
中書令とは王朝の中枢である尚書台と皇室をとりもつ職なので、皇室と縁続きの李豊が抜擢されたのであろう。
贅言を弄さず、清廉な李豊は、まもなく皇帝の曹芳に気に入られるようになった。
二年を経て二人きりで話し合う機会が増え、誰も二人がなにをはなしているのかしらない関係を構築した。
政柄を司馬兄弟に握られている曹芳は、縁戚の李豊に親しみをおぼえたということもあろう。
やがて曹芳は政治に倦み、酒と女に溺れるようになっていく。
皇后の張氏の実父である光祿大夫の張緝は、危機感をおぼえ、李豊に実情をききだそうとした。ちなみに光祿大夫は三公につぐ高位だけれども名誉職で、実務能力に長けた張緝からすれば閑職である。
「宮中は酒池肉林だときく。それは本当か」
李豊はすこしおどろいたようであったが、
「君主であることはむずかしく、臣下であることもむずかしいと存じます」
とこたえた。論語の一節で、暗に司馬師に忌憚しながら皇帝であることはいびつなゆがみをうむ、といったのである。
「そうか……」
張緝はすぐに、李豊の真意を察した。以後おなじ皇室の親戚として、また親友として交わりをむすんだ。
魏の皇室に危機感をもっているのは、やはりおなじ一族の夏侯玄であった。
曹氏と夏侯氏は同族といってよく、唇歯のような関係であり、外様の司馬氏が政権を牛耳っていることは、正道にもとるとかんがえていた。
(曹爽一族が殺されたときに、蜀に亡命しておけばよかったか……)
親戚の夏侯覇が、蜀の将軍としてまた皇族として遇されているのはようやく夏侯玄も耳にしていた。
魏に残ってしまったからには、生き延びねばならない。
(今の皇帝をお支えしていかねば意味はないのだが)
王淩と令狐愚の叛乱に加担しなかったのは、彼らが今の皇帝曹芳を廃し、楚王曹彪を立てようとしたからだ。そんな物思いにふけっているとき、
「李豊は、ただひとりで天子の悩みをわかちあっている」
という噂をきいた。
「太常(夏侯玄)から書簡をあずかっていると」
夏侯玄から書簡を受け取った李豊は、夏侯玄と曹芳がおなじ悩みを抱いているとかんじとった。
やがてふたりで書簡のやりとりをしたり、密会をかさねるうちに、
(大鴻臚に皇帝の補佐をしてもらえばいいのではないか)
と確信するようになった。
しかし、そのためには司馬兄弟を打倒しなければならない。
(天子は二十三歳におなりになる……)
すでに成人したのだから、司馬師に大政を奉還してほしいと願い出てそれが受け入れられるかどうか。
(それはむりであろうな)
ならばどうするか。呉の丞相孫峻が諸葛恪を誅殺したときのように、宮殿に司馬師をおびき寄せ刺殺し、近衛兵で司馬昭らのこりの司馬一族を逮捕殺戮するしかないであろう。
(そうか。二月に女官の任命式がある……)
皇帝の曹芳は宮殿の軒先まであらわれ、宮殿のすべての門は近衛兵がかたく守備する。
この日を政変の絶好の機会ととらえた李豊は、子の李韜をよんで計画をうちあけた。
「光祿大夫(張緝)の協力が不可欠である。かれはいま自邸で怪我の療養中なので、見舞いにいくと称して許諾をとってきてくれまいか。
そうすれば曹氏の天下はふたたび白日のもとにもどろうぞ」
李韜は、さっそく張緝の自邸を訪問した。
李韜のただならぬ表情に人払いをした張緝は、
「なにか大事をご相談にこられたとみたが」
と切り出した。
「はい。父は来月に、大事を為そうとしております」
「……つづけたまえ」
「私は公主の婿です。ゆえに中書令の父とは王朝の中枢にいるのですが、大将軍(司馬師)の信頼を得ているとはいいがたく、太常(夏侯玄)も同様でそれを憂いておられます。
曹氏と夏侯氏が国家の政治から遠ざけられているということほど、おそろしいことはありません。
あなたは皇后の父君という尊いご身分。ですが大将軍はあなたを、そのまま安全な地位にとどめるでしょうか。
われらのような、憂慮をもつものはすくなくありません。そこで父はあなたさまに謀に加わっていただきたいとおもっているのです」
(捨て身でわれをさそいにきたな)
張緝は、李韜とその父李豊の覚悟をみたおもいがした。
「同じ船に乗っているものは危難をともにする。われだけがどうしてにげられようか。
成功せねば、禍はわれと中書令(李豊)の一門におよぶ……して、いかなる大事を為そうというのか」
「来月の女官任命式において、大将軍を誅殺します」
李韜の声に、迷いはない。
「……」
「成功すれば、あなたは標騎大将軍です」
「わかった。中書令に力を貸すであろう」
こうして、李豊父子と張緝らの密約は成った。
「つぎは陛下のとりまきを、こちらに加担させる」
李豊は黄門監の蘇鑠、永寧署令の楽敦らを脅しつけて、協力者にすることにした。
蘇鑠、楽敦らは皇居において不法行為をなしているので、それを種に味方につけ、皇帝の曹芳の身柄を確保する手段としたのだ。
「なんじらが、宮廷内において不法をおこなっていることを、われはしっている。
大将軍は厳格なお方ゆえ、そのことを存じておられるぞ。曹爽に与した張当がどのようなことになったか、なんじらも知っておろう」
「な、なんと……」
「そればかりは、ご勘弁を……」
蘇鑠と楽敦はその場に土下座し、額をこすりつけて赦しを乞うた。
「自分たちが殺されたくなければ」
「殺されたくなければ……」
「大将軍を殺すしかあるまい」
「こ、こ、殺す……」
「さよう。なんじらがわれに従えば、死なぬどころか列侯に封じられ、常侍に任じられよう」
「そういうことでしたら、中書令に従います」
李豊は司馬師暗殺および司馬一族を族滅する計画を明かし、蘇鑠と楽敦を味方につけた。
李韜の方は夏侯玄の邸を訪問し、密謀の具体的な計画をうちあけた。
「わかった。陛下のために、中書令と光祿大夫に協力しよう」
夏侯玄もついに司馬師暗殺計画に加わった。
二月に入って、李豊らの計画が近づくにつれ、秘密の使者の往復がさかんになった。
なにしろ、この計画には主だったものだけでも李豊・李韜の父子、夏侯玄、張緝、蘇鑠と楽敦らがいる。
こうなると秘密の保持がむずかしい。
多人数の関係者のなかには、司馬師に好感をもつものも、曹芳に嫌悪感をもつものもいる。
そのひとりが徐庶の情報網にかかった。
「女官の任命式において、中書令らがわれを殺すというのか……」
徐庶からの急使に、司馬師は愕然とした。
李豊には、とくだん悪感情をいだいていない。それどころか好意をもって中書令に任じ、曹芳の放蕩を諫めてほしいと期待していたところである。
「意外でしたね。私のもとにも計画の情報がいくつももちこまれています。
徐庶どのの情報ならば、これは真実とみてまちがいないでしょう」
司馬昭も兄を思いやって、ことばをえらびつつ殺害計画の内容をつたえた。
「王淩に裏切られた父上のきもちが、よくわかるよ」
司馬師は、肩を落していった。政柄を掌握しているとはいえ、法令をおろそかにしたり、民に無理をしいたりしたことはない。
「秦朗どのがおっしゃいましたな。人は理によってのみうごくものではない、と。
兄上は曹氏ではないというだけで簒奪者とみなされ、あの曹爽は簒奪者とはみなされなかった」
「なあ、ほんとうの忠義とは、いったいなにであろうな」
「その孤独の問いにいつまでもなやまされるのが、為政者というものなのではないですか」
司馬兄弟は、しばらく無言の闇に沈んだ。
※
「大将軍が、皇室の諮問で用があると」
さりげない誘いに、李豊は首をひねった。
(陛下のご行状についての諮問か)
と察した。謀叛の計画が露見していたなら、このようなおだやかな使者ではあるまい。
司馬師の邸に馬車で連れられてきた李豊は、堂上に席を設け座っている司馬師が立ち上がるのを見た。
「忙しいところ、ご足労であった、中書令」
司馬師のやわらかい挨拶にこころをゆるした李豊は、
「とんでもございません。大将軍のお召しとあらば」
と堂上に案内され、席についた。
「前置きはやめておく。陛下のご行状についてだが……」
司馬師が困惑したようにきりだしたので、李豊は曹芳の身を案じつつ、謀叛が露見したわけではないと確信した。
「きくところによると、陛下は俳優の郭懐や袁信らを宮殿に招き入れ、裸にして女官らと交合を強いたとか。それをみかねた者が諫めると、陛下は熱く焼いた鉄でその者の身体に押しつけた……存じておるか」
「それは、存じあげません」
「おかしいな……」
司馬師は李豊をのぞきこむようにして、
「なんじはそのような陛下に親政を執らせるため、日頃しきりに張緝や夏侯玄と密談しているのに」
と急転直下、謀叛の計画を暴露した。
李豊は、一斉に全身の血の気が引くのをかんじた。膝と唇がふるえ、つよいめまいがした。
「陛下が親政するためには、われがじゃまになる……よって、なんじらはわれを殺すことにした。
決行の日は、女官の任命式だ。宦官の蘇鑠と楽敦がその手引きをすることになっている」
「……」
「中書令よ、われはなんじを信頼して陛下のおそばにつけた。なのに、なんの不満があって叛逆をこころみたか」
「われは叛逆などしてはおらぬ。叛逆をしているのはなんじら兄弟の方ではないか」
顔面を蒼白にして、なにかに憑かれたように李豊はさけんだ。
「いつから皇室に忠義を尽くすものを叛逆とよぶようになった。社稷をかたむけようとするなんじら兄弟こそが奸臣よ」
罵られながら、司馬師はこころがむなしくなっていくのをかんじた。
(ここにも現実を見ずに、曹氏という血筋のみに拘泥する亡者がいた)
皇帝の曹芳は政治も軍事にも感心をもたず、酒色に溺れて現実から逃避している。
日々臣民のことを考え、呉蜀と戦っている司馬師と司馬昭は、李豊にとっては奸臣ということになるらしい。
「なんじら兄弟を撲滅できず、志なかばで死すのはいかにも無念だ。
くりかえしていうぞ。皇室に弓引く逆賊はなんじらである」
そういうと李豊は立ち上がって、懐から匕首を出して司馬師におどりかかろうとした。
「うおう」
司馬師のうしろから背の高いがっしりとした兵士が大声をあげてあらわれ、李豊の腰を大刀の柄でしたたかに打ち据えた。
「よせ……」
司馬師は兵士を制止したが、李豊はもんどりうって堂上から転げ落ち、落命した。
「生きて捕らえ、与党を白状させようとしたに……」
「はっ。しかしこうしなければ、大将軍のお命が危のうございましたので」
(それもそうか)
怒りをおぼえないじぶんに、司馬師は呆然として李豊の屍体をみつめていた。
「遺体は廷尉にとどけよ」
廷尉とは鐘毓のことで、かつて大尉だった名臣鐘繇の子である。
鐘毓は父の風格をひきつぎ、ものごとの筋道を通す性質である。
李豊の遺体は腰が砕かれて転落死しているさまを検分した鐘毓は、李豊が尋常ではない殺され方をしたと見抜いた。
(大将軍が、私刑をおこなったのか)
しばし考えた鐘毓は、
「中書令は法を遵守して死刑になった遺体ではないので、私が担当するものではありません」
と断言し、司馬師の使者からの受け取りを拒否した。
「そうか。廷尉はそのようにもうしたか」
司馬師は、怒りではなく胸にあたたかさをかんじた。
(叛逆者の遺体一つでも、わが国では法にしたがって埋葬してくれるものがいる)
じぶんの政治がまちがっていなかったと実感した司馬師は、
「廷尉のもうすことは、もっともである。中書令の罪状と命令書をつけるので、もういちど適切に遺体を処理してもらいたい」
と慇懃に鐘毓へ依頼した。
鐘毓は、李豊の遺体を引き取ったうえ、曹芳にも上書をおこなった。
「中書令が殺されただと」
曹芳にとっては、唯一の相談相手である。
「かれに何の罪があったのか、朕みずから聴取する。大将軍をつれてまいれ」
怒り心頭とはこのことである。
郭太后はその不用心さを諫めて、
「宮中にはだれの耳があるかわからないのですよ。李豊の罪を陛下がみとめるようなご発言は、わざわいのもとです」
といった。はたして司馬師と司馬昭のもとにも曹芳が激怒しているようすが、報告された。
「陛下は、詔をご自身で作成できます。いま兄上が参内されるのは危険です」
司馬昭が、眉をひそめて助言した。
「われが陛下に逮捕されるというのか……」
司馬師はうつむいて、うすら寒さをかんじた。
「こたびの叛乱の首謀者は中書令であったが、それを黙認していたのは陛下だ。
無用の叛逆計画で政治をないがしろにしているうえ、軍事政治に精をだしているわれらを逆臣として殺すつもりならば、陛下は国家のためにお役にたてそうもないな」
司馬昭はうでをくんで考え込み、
「簒奪の機会ととらえておられますか」
と訊いた。
「いや……われは呉蜀を屈服させたわけではなく、臣民を納得させる大事業を為したわけでもない。
……とはいえ陛下を廃立することは、状況から見て避けられないかもな」
「ならば、それ相応の叛逆の証拠をそろえることで、廟堂を粛正しなければなりませぬな」
「うむ。そういうことだ……」
李豊の子である李韜は、公主の婿ということもあり、刑死ではなく自殺をゆるされた。
張皇后の父で光祿大夫の張緝と子の張邈、宦官の蘇鑠と楽敦らも死刑となった。
夏侯氏の総帥にして太常の夏侯玄も、廷尉の鐘毓のもとに連行された。
罪人は供述書をみずから書くことをゆるされている。しかし、いつまでたっても夏侯玄は筆を執ろうとしなかった。
鐘毓は名士の夏侯玄に同情していたが、あまりに潔さがみられないすがたに、幻滅した。
「おこころは決しましたか」
見かねて督促した鐘毓に、夏侯玄は目にいかりをともして、
「われにはいかなる供述もない。廷尉のあなたがすきに書くがよい」
といった。
「わかりました」
鐘毓は、夏侯玄の代筆をすることにした。
(謀叛という字を書きたくないのだな)
鐘毓には夏侯玄のきもちがわかる。皇族につらなり名士の誇りが、それを赦さぬのであろう。
「私が代筆させていただきます」
鐘毓が供述書を作成して、夏侯玄に検分してもらった。
「これでよい」
夏侯玄は一読すると、供述書を鐘毓に返した。あなたほどの人物が悪意にみちた供述書を書くはずがない、といわれているようにかんじた鐘毓は、胸に小さな針が刺さったような感覚に陥った。
曹芳はたしかに皇帝であるが、政治に興味をもたず群臣から聴政する態度もしめさないから、李豊や夏侯玄のような善臣が心をいため司馬兄弟を除こうとした。
曹芳に遊び惚ける暇があるなら、悪政をおこなっていない司馬兄弟や、李豊や夏侯玄の意見をききつつ王朝を運営できていたはずであり、李豊や夏侯玄は謀叛を起こして死ぬことはなかったのである。
夏侯玄は無言で刑場に送られ、刑死した。
しかし、かれの著した「楽毅論」は不朽であり、書道の世界においては名作として後世に遺った。
さて、ここにひとりの才能が萌芽しようとしている。
鐘会、字を士季という。
鐘繇の末子で、夏侯玄を取り調べた廷尉の鐘毓の末弟でもある。
学問に熱心で、なんと五歳のときに、
「常人にあらず」
という評価を周囲から得たというので、よほど早熟な人物なのであろう。
呉の諸葛恪に似た性質を感じさせるが、鐘会はこの年二十五歳である。
尚書に昇進していた。
いまや司馬師にその才能を愛され、謀略の懐刀といわれている。
司馬師はさきに叛逆した夏侯玄に親しかった許允を流刑にしたが(流刑地で病死)、そのかかわりは大きくなかったので、許允の二人の男子をどう処分しようか迷っていた。
呼び寄せた鐘会に、
「尚書よ。さきの鎮北将軍(許允)に二人の男子がいる……平凡な才気であれば見逃してやりたいが、有能であれば王朝の害になるやもしれぬ」
と見定めてきてくれるよう依頼した。
「わかりました。くわしく観察し、ご報告いたします」
鐘会は、許允が流刑にされた後のこされた妻の阮氏のもとに訪れた。
しかし阮氏もすぐれた婦人である。わが子らを鐘会が吟味しに来たことをすでに察知していた。
「尚書が大将軍の内密を受けて、なんじらを検分に来ました」
はたして、許奇と許猛という二人の子は動揺した。
「しかし、おののくことはありません。なんじらはそれぞれ良い才能をもっていますが、尚書をおびやかすほどの才能ではありません。
よって、尚書の問いには素直に答え、尚書が話し終えたら、話をやめるように」
といい含んでおいた。
慧眼の鐘会を出し抜くことは、幼い許奇と許猛にできるはずがない。
それならば、ありのままの二人をみてもらい、脅威を取り除く方が無難だとかんがえた。
やがて鐘会がやってきて、許奇と許猛に簡単な質問や意見を乞うた。二人は感じるままに受け答えし、会見を終えた。
(ふむ……素直なだけが取り柄の子らか)
二人に悪い印象を受けなかった鐘会は、微に入り細に入り会見の意見を司馬師に報告した。
「それならば、殺害するにおよばぬ。引き続き妻に扶養させてやろう」
司馬師も安心し、阮氏と許奇、許猛の兄弟は扶持をあたえられ、死を免れた。
策士で知られる鐘会を欺いたのだから、阮氏は夫の許允に劣らぬ賢婦であった。
ちなみに、兄の許奇は司馬師の死後司隷校尉になり、許猛は幽州刺史になったのだから、相当な優秀さをもっていたのだろう。
※
司馬昭が許昌から洛陽にもどってきた。蜀の姜維を征伐するためである。
司馬師の右腕は、なんといっても安東将軍の司馬昭であることは万目の一致するところである。
そこで、またしても陰謀が発覚した。
司馬師の暗殺がむずかしいとなれば、右腕だけでももいでおきたい。
そう、次の標的は司馬昭であった。
しかも奇妙なことに、陰謀発覚は司馬昭みずからもあとになって気づいたのだった。
事の次第はこうである。
暗殺者たちは、宮中に近い者であろう。皇帝の曹芳に、征西する司馬昭が辞を献ずるところを殺害しようともちかけた。
「なるほど」
曹芳は上の空できいている。暗殺者もこれには不安になり、
「陛下はただ安東将軍(司馬昭)を討て、と仰せになるだけでよろしいのです。かれを殺害できれば征西軍をわがものとでき、大将軍が兵をかきあつめる前に政柄をにぎることができます」
としつこく念をおした。曹芳は、
「そうか。では、そのようにせよ」
とまるで虚無であるかのごとき返事をした。
司馬昭は暗殺計画に気づかぬまま、洛陽城に入った。
曹芳は平楽観から群臣と兵が通るのを観るのが通例なので、そこに昇ってくる司馬昭を殺害する詔が作成された。
司馬昭が平楽観にきたとき、なぜか曹芳は栗を食べていた。
(今だ)
暗殺者たちは曹芳の命を待ったが、曹芳は栗を食べるのをやめただけであった。
業を煮やした俳優の雲午が、
「青頭鶏、青頭鶏……」
と唄いだした。青頭鶏は鴨のことで、音は「おう」であるから「押」つまり司馬昭を押さえよ、と曹芳をせき立てたのである。
さすがの曹芳も青ざめて表情を消し、司馬昭が征西の辞を述べているあいだ、震えが止まらなかった。
(どうかしたのかな……)
猜疑心が強くはない司馬昭でも、曹芳の怯えた態度や雲午の唄など奇妙な緊張感がただよっていることにきづいた。
(そうか。われを殺すつもりなのか)
結局暗殺はおこなわれず、司馬昭は兵のもとにもどった。
「なに、こんどはなんじを殺そうとしたと」
李豊らによる司馬師殺害計画の余波が冷めやらぬうちに、手を替え品を替え、曹芳周辺で司馬兄弟排斥計画が続けざまにおこったのだ。
「陛下に近い者らでたてた計画のようでした。結局陛下の優柔不断で、私は難を逃れたようです……取り調べて検挙しますか」
「いや、なんどしてもおなじであろう」
司馬師は一点をみつめて、しずかに目をあげた。
「いまの陛下がわれらを除こうとしているご意志がおありになるかぎり、われらは命を狙われつづけることになる……」
「まさか、廃位を」
「そのまさか、よ。陛下が荒淫と謀略を悔悟される気配はみられぬ。ならば、天下のため思慮分別のある天子をお迎えし、政道を安んじなければ堂々めぐりだ」
「さようですか……私はこれから蜀征伐に出向かねばなりません。どうか、ご無理なさらず粛々と事をお運びください」
司馬昭も、ここに至って曹芳の廃位に反対することをやめた。漢の霍光や王莽のように、皇帝を廃した臣が急速に衰亡していった例を思ったからだ。
司馬師は司馬昭を見送ったあと、永寧宮に密使を送った。永寧宮には郭太后が住んでいる。
郭太后からの命令書を受けた司馬師は、それをなんども読み返し、大きなため息をついた。
(われは董卓になってはならぬ)
董卓は己の恣意で少帝を殺害し、献帝を即位させた後漢末期の逆臣である。
九月、ついに司馬師は群臣を招集した。
「もしや、陛下を……」
「しっ、声が高いぞ」
ほとんどの公卿と高官が集められたということは、誰しもある種の予感をもっていた。
皇帝の廃位がおこなわれる。
そのことである。
司馬師は一同を見わたして、頃はよしと判断して、凜とした声でいった。
「ここに皇太后からの命令書がある。読み上げてもらうので、よくきいてほしい」
官人がうなずいて、大きな声ではっきりと命令書を読み上げた。
「皇帝曹芳は、天子にふさわしくない行動をやめないので、斉に帰藩させ退位させる」
群臣は色めき立った。
(やはり……)
ひとことでいって皆が感じたのは、これであった。
廃位は一大事ではあるものの、酒色にふけり謀略にまみれた曹芳がこの憂き目をみることは、誰もが心の隅にとどめていたからである。
「皇太后の命令は……」
そういったところで、司馬師はとつぜん嗚咽をもらした。目から涙があふれている。
「……以上で……非常に重いものと考える。
諸君らは皇室をいかがしたいと考えるか」
司馬師の涙は、儀礼のものではなかった。
兄弟で明帝の遺命を保持しようと、厳粛に政権を運営してきた自負がある。
それでも叛逆者は絶えず、あろうことかその源は曹芳である。かれを廃位しなければならないことが明帝曹叡の遺命に背くかどうか。
短い間に、司馬師は自問自答していたのだ。
群臣の中にも、涙を流すものが幾人もいた。
しかし決断は下さねばならない。
「漢の時代、霍光は天子を廃位することで政治を安定させました。大将軍は、それをいまなさろうとしておられるのです。
だれが皇太后の命令に背きましょうや」
司馬兄弟が大権をにぎっていることはまぎれもない。しかし荒淫の曹芳が親政をおこなうよりは、はるかに堅実で清潔な政治を運営しているのはあきらかである。
司馬師は涙をぬぐい、群臣にむかって、
「わかった。諸君らの意見にしたがおう」
といった。
事は重大である。司馬師は重臣と大臣の連名による皇太后への上奏文をつくった。
もちろんそれは、皇帝曹芳の弾劾でもある。
長い上奏文をなんども読み返した司馬師は、天を仰いで、
(これでよかったのだな)
と心中でつぶやいた。今遠征の途にある弟の司馬昭や、明帝の盟友であった秦朗、徐庶らのことをおもった。
意を決すると、皇太后の叔父である郭芝を呼んだ。郭芝は率直な人柄なので、適任だと選んだ。
「これを、皇太后におわたししてほしい」
「うけたまわりました。つきましては」
「うむ……」
「太后からつぎの天子を問われたとき、だれとおこたえいたしましょうか」
「われは彭城王がふさわしいとおもっている、とお伝えしてください」
彭城王は曹拠といい、曹操と環夫人のあいだに生まれた子である。文帝曹丕の弟であり、年齢は司馬師よりも上であろう。
性格はとげがなく勤勉なので、
(彭城王ならば思慮分別がある)
と司馬師は熟慮の末推薦した。践祚したとき曹芳のような幼帝ならば、当然政治をみることができないので、君側の奸がつけこみやすくなる。
さて、永寧宮に使者としておもむいた郭芝は、郭太后が曹芳と話しているところに出くわした。
「大将軍の使いです」
気まずさを打ち消すように郭芝が告げると、曹芳は立ち去らず、郭芝をにらむように顔をむけた。
「大将軍は陛下を廃位し、彭城王をたてようとおっしゃっています。群臣の意見は上奏文をごらんください」
さらにいやな空気をふりはらうように、郭芝は使者としての目的をつげた。
曹芳はわずかにおどろいた表情をしたが、熅然として早足で部屋を出ていった。
「陛下のおられるところで、いうことか」
郭太后が眉をひそめて、郭芝を批難した。
「国家の大事ですゆえ……それに太后は若い陛下を善導できませんでした。どうか大将軍のご意見を受け入れてくださいますよう。
城外には万一のときにそなえて、兵が準備しています」
「私をおどそうというのですか。大将軍と会って話がしたい」
「今はできません。すみやかに陛下から璽綬をとりあげてください」
叔父の郭芝や太后のじぶんが今重んじられているのは、司馬兄弟あってのことである。
「……わかりました」
曹芳を実子ではなくとも幼少時から傅育してきた郭太后はつらそうであったが、宮人に郭芝の意図を伝え、曹芳のもとに遣った。
(さて、陛下はどう出るか)
もちろん郭芝も廃立の場面に立ち会うのは初めてなので、最悪曹芳が璽綬をわたすことを拒否する可能性も考えた。
しかし、意に反して宮人はすぐにもどってきて郭太后のもとに行き、なにごとか話したあと辞去した。
「陛下……いや、もう斉王とおよびすべきですね。斉王から皇帝の璽綬をお預かりしています」
郭芝は、郭太后のそばの机の上に置かれている皇帝の璽綬を確認した。
(あんがい素直にお渡しになられた)
曹芳の抵抗にあわなかった郭芝は、胸をなでおろした。
「それは、まことですか」
司馬師も曹芳の行動には意外であったらしく、沈鬱な表情が晴々とかわった。
「では斉王には斉王の印綬をおわたしし、西宮におうつりいただこう」
ここでも曹芳は、うやうやしく斉王の印綬を受け取り、司馬師の使者のいうことにしたがった。
(皇帝の位には、未練がおありではないのか……)
たしかに曹芳は司馬師が推測するように、一切の抗議や弁明をしなかった。表情を波立たせることなく、遣わされた藩王の車に乗り込むときだけ、郭太后に頭を下げた。
車中で、曹芳は人知れず涙をながした。
数十人の群臣が曹芳を見送ったが、その後の曹芳は朝廷を困らせる荒淫をいっさいわすれたかのような日々をおくった。
二十年後、四十三歳で薨じた。
司馬師は永寧宮の郭太后に、皇帝の璽綬を譲り受けようと使者を派遣したところ、郭太后から条件を提示された。
「大将軍のおこころにある彭城王が天子になられたら、私は朝廷に居場所がなくなってしまいます。
彭城王は私にとって季叔で、明帝(曹叡)のあとつぎがいなくなるからです。
そこで、私がつぎの天子にふさわしいとかんがえるのは、高貴郷候です。この人は文帝(曹丕)の長孫で、明帝の甥にあたります。どうか配慮してください」
司馬師の使者に皇帝の璽綬をわたさなかったことからも、郭太后のかたくなな意志がつたわってくる。
高貴郷候とは、曹髦である。
文帝曹丕には九人の息子がおり、明帝曹叡の弟に曹霖がいて、その次男が曹髦というわけだ。この年、十四歳である。
要するに、郭太后は幼帝を傅育する立場になければ、自分の尊厳が保てないといっている。
郭太后は、司馬兄弟にとって氏神である。その意見は最大限に尊重されるべきであろう。
「また幼帝になるのか……」
司馬師は、こころがおもくなった。できれば現状を理解でき、分別のつく大人の皇帝の方がよかった。
(ふたたび天子の廃立はしたくない)
司馬師の頭に、いやな予感がよぎったが、ともかく群臣の意見を聞き、郭太后の意見を通そうときめた。
「いま、天子の位は空位となっている。
われは彭城王を推したが、郭太后は高貴郷候を践祚させたほうがよいとおっしゃっている。皆の意見はどうか」
「高貴郷候……」
「どのようなお方なのか」
「賢明なお子といううわさは、聞いたことがある」
群臣の曹髦に関する知識といえば、その程度であった。
賢明な幼帝であり、皇太后が推薦するとなれば、それに異議なしという空気でまとまった。そうではないか。依然として政柄は司馬師と司馬昭が握っており、皇帝はお飾りにすぎない。従順なほうが、政権の運営はうまくいくであろう。
「そうか。皆は皇太后のご意見に賛同してくれるか。ならば高貴郷候を洛陽宮に召すよう、皇太后にお願いしよう」
司馬師は上表文をつくらせた。この上表文をもって、司馬望(司馬孚の子)ら五人の使者が曹髦の住む河北の元城にむかった。
そのあと、郭太后による詔がくだされた。
「高貴郷候曹髦は、高祖文皇帝の孫にあたり、大成する器がある。よってかれを明皇帝の後嗣となすことにする」
魏王朝の、四代目の皇帝の時代がはじまった。曹操は長命したが、魏王のままで亡くなり、初代の曹丕は四十歳、二代目の曹叡は三十四歳、三代目の曹芳は廃立時に二十三歳と、いずれの皇帝も短命の政権におわっている。
こんどの四代目皇帝曹髦は、どうであろうか。
曹髦を迎える使者は、璽綬をもっていない。
郭太后が自ら曹髦に与えたい、ときかないのだ。
「私は高貴郷候の幼い頃をしっています。高貴郷候を安心させるために、かれが到着してみずから璽綬をわたしたいのです」
司馬師も使者には、やや辟易としながら、
「そういうことで、高貴郷候には手元に璽綬がないことを不審に思われるかもしれぬ。
事情は丁寧にお伝えし、ご安心召されるようにしてほしい」
と伝えた。
高貴郷候の曹髦は、宮廷からの使者が到着したことをきかされると、
(われが践祚することになるのだ)
と即座に理解した。
曹髦は幼い頃から学問を好み、十四歳のいまではすでに博識である。
曹髦は太古の聖王のなかでも、夏の小康を尊敬していた。
小康は、夏王朝の中興の祖である。
いまの魏王朝は政権を司馬師と司馬昭の兄弟に握られ、小康登場前の夏王朝に似ていないことはない。
(われが、魏王朝中興の祖となるであろう)
曹髦は洛陽への車中で、その誓いをあらたにしていた。
曹髦が洛陽に到着したのは、十月である。
洛陽城の北にある玄武館にはいった曹髦は、
「城内の前殿は、先帝(曹芳)ゆかりの建物なので畏れ多い」
と城内に入らなかった。玄武館を出て西廂を宿舎とした。
「お若いが、皇嗣としての礼をよくご存知だ」
「融通のきかぬお方でなければいいが……」
賛否があり、まだだれもよくしらない曹髦を判断しかねるようであった。
曹髦が宮城に入ったのは翌日で、群臣たちは西掖門に出迎えて拝礼した。すると曹髦は輿から降りて答礼したので、礼儀を司る役人が、
「ここでの答礼は不要です」
と助言した。しかし曹髦は、
「われはまだ皇帝ではない。璽綬をあずかるまでは人臣です」
とこたえた。さらに止車門で、曹髦は輿から降りた。ふたたび、
「ここで輿から降りる必要はありません」
との役人の助言に曹髦は、
「われは太后に召されただけで、まだ皇帝ではない」
といい、歩いて太極東堂までゆき、はじめて郭太后に会って拝礼した。
(なんと礼儀をわきまえた子よ)
曹髦に好印象をもった郭太后は、わだかまりなく璽綬を自ら曹髦に手渡した。
その日のうちに太極前殿において、曹髦は正式に皇帝の位についた。
「なんという挙措がすずやかなお方よ」
「これで斉王(曹芳)のような淫行はおこなわれまい」
群臣は、堂々とした少年皇帝を見上げて、そうささやきあった。
曹髦はその場でじぶんの考えを述べた詔をくだし、大赦と改元をおこなった。
新元号は「正元」である。
嘉平六年は十月をもって正元元年になったことになる。
「お身体の調子はいかがですか」
即位式から帰ってきた尚書の鐘会が、司馬師のもとを訪れた。
司馬師は右目に包帯を巻き、牀に横たわっている。右目の上に瘤ができ、それが化膿して熱をもったため、侍医に静養を命じられているからだ。
「うむ……ごらんのとおりだ。で、陛下はどのようなお方であったかな」
司馬師の問いに、鐘会は迷いなく答えた。
「はい、才能は陳思王(曹植)、武勇は太祖(曹操)になぞらえることができるお方かと」
絶賛といっていい。
「そうか……そうあっていただければ、社稷も安泰であろう」
司馬師はそういって、しばし無言で考えごとをしているようであった。
人の心情を察することに長けた鐘会は、首をかしげて、
「なにか、ご懸念でも」
と司馬師に訊いた。司馬師は牀で身体の向きを鐘会にむけて、
「若さは韜晦と縁がない……斉王(曹芳)や若き日の山陽候(献帝)も、われや武帝(曹操)に叛逆をさしむけたことがある」
といった。
「いえ、しかし今の陛下は賢明であらせられます。杞憂におわるかと存じますが……」
「斉王や献帝も、若いときは賢く、権勢欲も旺盛であった。山陽候は幾星霜のうち天命を知られ、天寿をまっとうされたが、斉王はわれがおもうにわざと荒淫を演じられていたような気がしてならぬ」
鐘会は興味深そうな笑みをうかべ、
「まさか……斉王は皇帝の座を降りたがっておられた、ということですか」
と司馬師に訊いた。
「斉王は王淩の乱で天子の座を追われかけ、李豊や奸臣にわれや安東将軍(司馬昭)の殺害をけしかけられた。
つくづく天子というものに、嫌気がさされたのだろう。だからご行状を改めず、みずから廃立されるようにふるまった」
「……」
「太后もそれをご存じであったと、われはおもう。明帝に託された斉王が身をまっとうされるには、暗愚を演じ天子の座から引きずり下ろされるしかなかった。
そしてそれは、太后と斉王がなされたわれら兄弟への無言の抗議であった。
われは、それを肝に銘じ、二度と幼帝の廃立は行いたくない」
(ふん……よくいう)
鐘会は冷えた目で、司馬師のことばを聞いていた。自分は司馬師に帝位を簒奪してもらい、そのもとで宰相として権勢を振るうのだ。
「いけませんな。そのような弱気では」
つとめてあかるく、司馬師をはげました。
「なんじもまだ若い。人のこころの奥底にある機微を見逃すと、身をほろぼすぞ」
「……ご冗談を」
鐘会は恐縮してみせたが、その根底には曹髦とおなじ若さゆえの傲慢や気負いがあるのを、司馬師は冷徹にみていた。
曹髦が即位した三日後、司馬師は宮中に召されたが、病のためそれをことわった。
大将軍に与えられる黄金の鉞は、皇帝の使者によって司馬師のもとにとどけられた。
(……今にみていよ)
司馬師に嫌われたとおもった曹髦は、いつか遠くない日に国家の政柄を自らの手に奪還する決意をあらたにした。
やがて蜀の姜維をしりぞけた司馬昭が洛陽に帰還し、司馬師の邸に見舞いにきた。
「陛下は聡明なお方ですね。それゆえ危うさをはらんでいる、ともいえそうです」
宮中では曹髦を絶賛する声しか聞こえてこない中で、かれの危険性を述べたのは司馬昭がはじめてである。
「ほう。なんじにはそれがわかるか」
「はい。斉王(曹芳)は御自ら叛逆を画するお方ではありませんでしたが、いまの陛下ならば……」
「それをわれも畏れている」
「それはそうと、河南尹(王粛)がいうところによれば、白気が天空を横切るのを見たということです。
その意味は蚩尤旗で、東南に乱が起こるという予兆だと」
「蚩尤旗、東南……」
蚩尤旗は古代の英雄の名をとった、兵乱をあらわす星である。
王粛は「太玄経」という思想書を研究して網羅しており、その占いの項から今回の異変を察知したらしい。
「また淮南ですかな」
「ふむ。揚州刺史は文欽で、豫州刺史は諸葛誕……ということは、叛乱をおこすとすれば曹爽と同郷の文欽であろうな」
司馬兄弟にとっては、皇帝の廃立を乗り越えたのち、ふたたびの試練が訪れようとしていた。