諸葛恪
五
司馬懿が亡くなって、息子の司馬師があとを継いだことにより、朝臣は司馬師がどんな人物であるか噂をたてはじめた。
なぜなら司馬師と司馬昭は喪に服しているため、朝廷に出仕していないからである。
「なんでももとの大将軍(曹爽)を斃すとき、撫軍大将軍(司馬師)は三千の私兵を養っていて事にそなえていたらしい」
「すさまじき覇気よな……」
「その政変の前日、安東将軍(司馬昭)は一睡もできなかったのに、撫軍大将軍は泥のような眠りについていたというぞ」
「肝のすわったお方ということか」
「さすがはあの相国(司馬懿)のご長子だ。かんたんにはおこころを明かす方ではないのかもしれぬ」
かつて曹爽を降伏させる説得をした許允は、左遷され鬱々としている友人の夏侯玄のもとをたずね、
「もう畏れることはない。相国がいなければ、なんじがにらまれることはない。
王朝は大きな柱をうしなったばかりで、なんじのような有能な人間が必要とされるさ」
とあかるくいった。しかし夏侯玄は憂い顔をかくそうともせず、
「なんじはなにもわかっておらぬ。わが家と相国の家は古くからのつきあいがあったので、われをよく遇してくれたが、撫軍大将軍と安東将軍はわれに遠慮はせぬ」
とひくい声でいった。
(あのとき夏侯覇とともに蜀に行っていればよかったか)
本気で夏侯玄はおもった。夏侯覇は死んだときこえてこないので、きっと蜀で皇帝の親戚として厚く遇されているのであろう。
※
ところで呉では、司馬懿が亡くなった八月に台風にみまわれ、江水と海の水が陸地に流れ込み、多くの民衆が溺れ死んだ。
この年七十一歳になっていた孫権も、そのしらせに心身を弱らせ、病牀につくようになった。
建業の南郊で自然を鎮める祭祀にみずから赴いた際、肺炎に罹ったともいわれている。
侍中の孫峻にむかって意識朦朧とした孫権は、まえの皇太子である孫和をよぶようにたのんだが、さきの騒動で皇太子は孫亮にきまっているため、よぶことなどはできなかった。
十二月、いよいよ死期を悟った孫権は、年少の孫亮を補佐すべき宰相を誰にするか諮問した。
孫峻らが一致して推挙したのは、大将軍の諸葛恪である。
諸葛恪は諸葛亮の兄である諸葛謹の長子で、その才覚は呉国内でもならびなき者とされている。
孫権は病牀にいながら年を越し、二月に改元をおこなった。呉でいう神鳳元年(二五二)である。
四月になって孫権は逝去した。享年七十一歳である。国政をまかせるものとして諸葛恪を太傅としたものの、軍事に関して最後まで不安をもっていた。
孫亮が皇帝として即位した際、また改元がおこなわれ、建興元年とされた。つまり一年に二度改元がおこなわれたことになる。
諸葛恪の宰相としての内政は、辣腕であった。百官の行儀を品級によって差をつけ、未納税を取り立てなくともよくし、関税をなくした。
国民は前年おこった災害によって困窮していたため、その政治をおおいに歓迎した。
臣民の人気をあつめた諸葛恪は、それで満足するような質ではない。
魏に対する軍事を計画しはじめた。
前年までは王淩が呉の抑えとして機能していたのが叛逆により排除され、王淩を排除した国家の柱石であった司馬懿も死んだ。
すなわち魏は宰相となった司馬師が喪に服していて、あらたに南方の守備についているのは諸葛誕である。
二人とも己より軍事の才能が劣っていると判断した諸葛恪は十月、これを好機と東興に巨大な隄をつくり、その両端を山につないで、山上に二つの城を造築した。
城の守将は、全端と留略に命じた。
諸葛恪は、魏の攻撃を誘発するねらいである。
はたして鎮東将軍にして揚州刺史の諸葛誕は、揚州への圧迫になるとみた。
さっそく喪中の司馬師に、警告の書簡をおくった。
「孫子の兵法では、人に致して致されずとあります。呉があらたに築いた二城から攻めてくる前に、こちらから上流をおさえ、将と軍を派遣すべきです」
司馬師は書簡を読んで、司馬昭にはかった。
「諸葛誕は呉のあらたな二城を気にしているようだが、はたしてほんとうに呉が攻めてくるものかな。
放置してもよいように思えるが……」
「そうですね。呉とて孫権の喪中、軍を動かすのはよくないはずですが……諸葛恪はよほど礼をしらぬ人物なのでしょう」
「そうか。とはいえ……」
諸葛恪がそれほど己の才覚をひけらかし、礼を軽んじる人物だとしたら、調子に乗って合肥まで兵を侵攻させるかもしれない。
朝廷からあらためて軍を動かすか諮問された司馬師は、
「鎮東将軍(諸葛誕)に二城を攻めさせ、征南将軍(王昶)に江陵を、鎮南将軍(毌丘倹)に武昌を攻めさせましょう」
と回答した。
毌丘倹は、かつて父の司馬懿と遼東の公孫淵を攻めた将軍である。北方の幽州刺史だったが、これより先に異民族の高句麗を攻め、大勝した功績で豫州刺史・鎮南将軍に昇進したのである。
魏軍は司馬師の奏上どおり、三軍で呉に侵攻した。諸葛誕は揚州の兵を、王昶が荊州の兵を、毌丘倹が豫州の兵を同時に南下させた。
客観的にみて、策戦としてはわるくない。
呉は孫権が死に、若い孫亮が皇帝についたばかりなので、政権が盤石ではないという理由もある。
諸葛誕の副将は胡遵である。彼も司馬懿の遼東征伐で活躍した名将で、ひきつづき司馬師にも信用されたのであろう。
船で巣湖をわたったふたりは、東興隄に上陸し、たがいに兵をわけて二城を攻めはじめたが、芳しい成果はあげることができなかった。
東興隄の二城から、「魏軍襲来」の急使が建業に送られた。
想定をうわまわる大軍が寄せてきたことに、諸葛恪は自ら出陣することにした。
魏軍をみくびっている諸葛恪であったが、配下には古参の驍将である丁奉がいた。
丁奉はすでに老将といえる歳ではあるが、甘寧や陸遜について功績をあげてきた履歴はすさまじい。
魏軍が先に攻防に有利な地をうばってしまったら、勝ち目がないと三千の兵で先行したいと諸葛恪に申し出てゆるされた。
「このように寒ければ、城を攻めようがないな」
おりしも雪が降り出した十二月の東興隄で、諸葛誕と胡遵は兵たちに休息を与えていた。
寒さをまぎらわすため、兵たちは酒を呑んで宴会などして夜を過ごしていた。
だが、この油断に丁奉がつけ込まぬはずはない。先に到着した三千の兵だけで、魏軍を急襲する覚悟をきめた。
兵たちには鎧を脱がせ、兜だけをつけさせた。鎧を着ていれば隄を登るのに敏捷さを欠くためである。
「鎧を着ていない兵が、隄をあがってきます」
報せを受けた諸葛誕は少々おどろいたものの、呉兵の少なさをきき、
「高地に陣取っているのはわれらだ。呉軍を蹴落としてやれ」
とあわてなかった。
その悠長な態度が、勝敗を分けた。
丁奉は兵たちが隄の上に達すると、突撃の太鼓を叩いた。もちろん先頭は丁奉自身である。
剣と盾をもった身軽な呉兵たちが、魏の陣に猛攻をしかけた。
すっかり油断していた魏兵は、まさか雪の中少数の鎧を着ていない兵に襲われるとは予想しておらず、あっというまに壊滅した。
巣湖に橋がかけられていたが、そこに逃げる魏兵が殺到したため、数万の兵が冬の湖に落ちて溺死した。
「先陣が崩れただと」
諸葛誕と胡遵が本営で敗北を知ったときには、すでに丁奉が本営に迫っている。
「もはや戦陣を維持することはできません。退却すべきです」
胡遵のことばにしたがって、諸葛誕はその日のうちに退却したので、討死をまぬがれた。
それだけ丁奉の急追は熾烈だったということである。魏軍の死者には、数人の将軍たちがまじっていた。
王昶と毌丘倹も、
「三つの鼎の足が一つ欠けたのだから、これ以上の滞陣は無益だ」
とはなしあい、営塁を焼き払って撤退した。
丁奉の功績は大きい。滅寇将軍に昇進し、都郷候に封ぜられた。
「そうか、三軍は撤退したのだな……」
司馬師は敗北の報をきいても冷静だった。
(やはり冬の喪中に軍を動かすことが誤っていた)
司馬師は、失敗を他人のせいにしないという美点をもっている。
「このたびは、朝臣の意見をききすぎましたな」
司馬昭も、気がすすまない軍を発したことに反省している。勝敗は兵家の常、敗北のときに将帥の器が問われる。
司馬師は、
「軍の発議は鎮東将軍(諸葛誕)からあったとしても、それに賛成し敗北したのは、われの過ちである。諸将には過ちがない」
といった。さらに、
「安東将軍(司馬昭)は全軍を統率する立場なので、安東将軍の爵位を削る」
という決定をした。
司馬兄弟で、敗北の責任をとるという態度に朝廷はおおいに驚いた。
「敗北の将の責任を問わぬとは……」
「大将軍(司馬師・撫軍大将軍から昇進)の度量の大きさよ」
朝臣らのあいだで、司馬兄弟の人気が高まったのはいうまでもない。
一方の勝者である呉の諸葛恪はどうであったか。
首都建業に帰還して賞賛をあびた結果、増長に増長を重ねていた。
陽都候に封地替えがなされ、荊州牧と揚州牧が加えられ、全軍事の統括権があたえられた。これで増長するなというほうが無理である。
敗北から多くのものを学んだ司馬兄弟とちがって、勝利から諸葛恪が学んだことはなにひとつない。
軍をすすめるだけで魏軍を大破できたのだから、追撃して合肥まで侵攻できたのではないか、という欲がでてきた。
じつは丁奉の卓越した勇気と戦術があってこその大勝だったのに、諸葛恪はやはり魏には名将も強兵もいないと錯覚してしまった。
その結果が、夏に再度魏を攻めたいという奏上となった。
呉の群臣は冬に魏と戦ったばかりなのに、兵が疲れているし糧食もたりないと反対したが、諸葛恪に人のことばをきく耳はすでにない。
もちろん合肥を目的地にさだめ、蜀の協力のもと再度出師することになった。勝利が諸葛恪を独断専行の人に仕立て上げてしまった。
共同戦線を担う蜀であるが、この年の正月に、蔣琬の後継者であった大将軍の費禕が暗殺されるという事件があった。
魏から降伏してきた郭循という将軍に、宴会の最中に刺殺されたのである。
費禕は姜維と違い、内政充実型の宰相であったから、魏としては難敵であった。峻厳険阻な蜀の地形で国力を温存し富ませると、いつまでも蜀を攻略できない。
ところが費禕の死によって衛将軍の姜維が後継となり、魏を攻めたいとおもうようになった。
姜維は諸葛亮に見いだされた才能であり、その軍事は比類ないとされている。
蜀は漢を継ぐ正統王朝であるという考え方は、いまだに諸葛亮が丞相であったころから変わらない。漢を簒奪した魏を討伐してこそ、蜀の正義は貫徹される、と姜維は信じている。
蜀の皇帝である劉禅も姜維の出師に賛成した。ここに呉蜀の共同戦線が張られることとなった。
諸葛恪が編成した呉軍は二十万という大軍であった。首都建業を進発し、江水を渡り、魏との国境近くまで進軍した。ねらいは合肥新城である。
蜀の姜維も数万の兵を率いて武都郡を出発、石営を攻め、董亭を経て南安郡を進む。費禕の生前は一万以上の兵を与えられなかった姜維であるから、数万というのは五万未満であったとしても勇躍している姿が想像できる。
呉蜀の連携は、ひさしぶりに機能している。
魏の朝廷に、東西から「敵軍襲来」の急報が同時にはいった。
合肥新城が二十万の呉軍に包囲され、南安郡の郡府が数万の蜀軍に攻められているという。
さすがの司馬師も腕を組んで、対応に苦慮した。
「中書郎はいかにすべきかとかんがえるか」
中書郎とは虞松の職名で、司馬懿に抜擢された才能である。遼東征伐にも加わり、文才もある。
「両方面からの攻勢で、わが軍は士気が阻喪している。しかも急を要する案件だ……」
たしかに昨年の冬に諸葛誕が呉を攻めて大敗しており、守備に徹しなければならない今回の戦は士気軒昂とはいかない。
「まず、敵の目的を看破することが大事です。強そうに見えて弱い敵と、弱そうに見えて強い敵がいます。
まず諸葛恪ですが、合肥新城を包囲して動かないということは、狙いはわが軍の救援を野戦で撃破することをもくろんでいるのです」
「なるほど……」
「姜維に関しては、呉が合肥を攻めているのでわが軍の西に兵がいなくなると期待しているのでしょう。
しかし兵站はお粗末なもので、占領したわが国の麦をあてにしています。
そこで関中の諸軍を南安にむけて急行させれば、かならず姜維の不意を衝くことができ、勝つことができます」
「よし。まずは蜀軍を撃退し、合肥新城は守りをかためさせよう」
司馬師の表情が、生き返った。
※
合肥新城の守将は、張特と楽方である。
主将の張特は諸葛誕から無能と侮蔑されていたことがある。しかし先の敗戦で諸葛誕は鎮東将軍から鎮南将軍に異動し、かわって毌丘倹が鎮東将軍になったため、そのまま城の守りについている。
魏の将軍を見下している諸葛恪も、張特という名は初耳であった。
二十万という大軍で合肥に上陸した呉軍はやすやすと合肥新城を包囲した。
「見わたすかぎりの大軍とはこのことだな」
張特は、ことさら表情を変えずに感想をのべた。
「援軍は間に合うでしょうか」
副将の楽方が、不安を押し隠して張特に訊いた。
「援軍は来ぬ」
「え……」
「まずは南安を攻めている蜀軍を撃退したのちに、合肥新城を攻め疲れた呉軍を追い払うために援軍を出す……大将軍(司馬師)のお心はそうなっている」
目前にいる二十万の大軍の猛攻は、すでにはじまっている。
「もちこたえられるでしょうか」
楽方は、青ざめた表情でいった。
「なに、合肥新城は難攻不落さ。一度二度と呉軍を撃退しているうちに、城兵の耐性もつくだろうよ」
張特は、こともなげにいった。
一方の諸葛恪は、一日中ひたすらいらだっていた。
城壁を攻めのぼった呉兵はことごとく撃退されて、それをくりかえすうちに士気が落ちてきている。
偵察を出している兵からも、一向に魏の援軍が寄せてきたという報せはない。
想定していたとおりに戦が進捗しないので、なんども諸葛恪は将軍たちに罵声をあびせた。
総帥の叱咤に萎縮した兵たちは昼夜問わず攻城をつづけたが、死傷者はふえるばかりであった。
二十万の大軍勢である。なんども兵を入れかえては城を攻めるのだが、合肥新城はそのたび猛攻をはねかえした。
しかも諸葛恪が不審におもうのは、いつまでも魏からの援軍が合肥に到着しないことである。
その援軍を野戦で大破することが目的で、二十万の兵をそろえたのだ。諸葛恪は司馬師の戦略が見えず、いらだちはますばかりであった。
諸葛恪の思惑は、虞松に看破されていたといっていい。
司馬師は虞松の献策どおり、征西将軍の郭淮と雍州刺史の陳泰に、
「関中の動員できる兵すべてを率いて、南安郡の包囲を解くように」
と命令をくだした。
郭淮は曹叡の死後、姜維との戦いをつねに先頭に立って差配しているが、大敗したことはない。陳泰はあの名臣陳羣の子である。
「私が先に行って姜維にあたります。姜維は諸葛亮のように兵站を万全にして出師する将軍ではないので、兵糧は南安郡の麦をあてにしているはずです。
わが軍があらわれたら退路をふさがれるのをおそれて、戦わずして撤退するに違いありません」
さすが陳羣の子だけあって、陳泰も名将である。おおいにうなずいた郭淮は、
「それはよい。まずは南安に急行し、蜀軍にひとあたりしてくれ」
と承諾した。
郭淮の妻は、かつて謀叛をおこした王淩の妹である。その妻を連座させねばならないところを、司馬懿は法をまげて郭淮のために命を救ってくれたことがある。その恩を郭淮は忘れたことがない。
(司馬家の兄弟には、姜維をしりぞけることで恩をかえさねば)
もう老将といえる郭淮は、陳泰の軍を見送ったあとすぐさま南安にむけて進発した。
魏の大軍到来、の報をきいた姜維は驚愕した。諸葛恪のはなしでは呉が合肥を二十万で攻めているので、魏の軍勢はほとんどが合肥にむかうはずではないか。
魏の陳泰と郭淮が関中の兵をまとめて南安郡の境である洛門に到達した時点で、姜維の戦意はなくなっていた。
先行した陳泰と一戦も交えず、漢中に還ってしまったのである。
諸葛恪が二十万の大軍で合肥新城を早々に陥落させていれば、姜維の北伐は順調に機能するはずだった。心中で呉軍のふがいない戦いぶりを嘲りつつ、姜維は無益な出征を終えることになった。
※
「呉軍が土を盛って、城の高さまで山を築こうとしているだと」
張特は楽方からの報せをきき、城壁から下を眺めると、数え切れないほどの呉兵が土を盛る土木作業に従事している。
「三十日経っても城が陥ちないので、諸葛恪も知恵をしぼったか」
「しかし、鎮東将軍(毌丘倹)からの援軍はほんとうにこないのでしょうか……このまま山が完成してしまうと城壁を乗り越えられる懸念があります」
楽方が不安を口にすると、
「蜀の姜維が兵を退かないかぎり、援軍は来ぬ……大将軍の策を信じるしかない」
張特は達観したようにいった。その風貌にかつて諸葛誕が無能と罵った面影はない。
楽方は唖然として、
(われらは大将軍に見棄てられたのではないか)
との疑念を払拭することができなかった。
一月を要してようやく呉軍の築いた山は城の高さと等しくなってきた。
そうなると激戦の再開である。
「ここでわが軍の救援が到来すれば、敵は目前の大功を無碍にして退かざるをえない。励めよ」
張特が発する督励の大声が戦場にこだまする。楽方は絶望しつつも、目前にせまった呉兵たちの異常に気づいていた。
「呉の兵たちの動きがにぶくないでしょうか」
「……たしかに」
張特も、楽方の意見に同意した。
呉兵は城の目前まで迫って攻撃してきているのに、覇気がなく士気の高い魏兵に土山から突き落とされている。
(とはいえ……)
楽方は、圧迫されている城兵にも死傷者が増えていることを認識している。
「呉の陣では、疫病でもはやっているのではないか」
張特は戦況をみつつ、つぶやいた。
図星であった。
この年の夏が異常に暑かったこともあり、生水を飲んだ呉兵たちは下痢をおこすようになった。衛生環境の悪化により、またたくまに呉の陣では疫病が蔓延し、兵たちがつぎつぎと倒れていったのである。
諸葛恪が報告を受けたころには、すでに半数のあたる十万の兵が病死あるいは疫病に罹患しており、陣内のあちこちで兵の屍体が夏の太陽にさらされている。
半月を過ぎても、城は陥落しなかった。
諸葛恪が焦りに焦っているところに、なんと合肥新城から使者がきた。
守将の張特が、面会を求めているという。
やっと降伏する気になったかと胸をなでおろした諸葛恪は、面会を許諾した。
翌日、身に寸鉄も帯びぬ条件で呉の本営に通された張特は、長期間の激闘による窶れがみえるものの、存外健康そうである。
「本題からもうしますと、すでに城内の兵は戦えません」
率直に意見を述べた張特に対し、諸葛恪は、
「そうであろうな」
と余裕をみせるふりをした。呉の陣営も限界が近いのである。
「魏では、百日すぎて援軍がこないときは、降伏しても妻子に罪がおよびません。
合肥新城は呉に攻められて、九十日以上経過しております。
じつを申しますと、城内には四千いた兵は半数が死傷し、戦えません。
これから降伏に同意するものとしないものを峻別し、名簿にしたためる作業をいたします。いつわりではない理由に、印綬をおあずけいたします」
張特の潔い態度に感服する諸葛恪ではない。
ただ、己の威厳がそこなわれることだけを懸念して鷹揚な態度をとった。
「うむ。よき決断ぞ。なんじの従順さに免じて、われは印綬を受け取らぬ」
とはいえ諸葛恪は、背中に冷たいものを感じていた。
(死傷者が千余りだと……)
二十万の大軍で数ヶ月合肥新城を包囲していた呉軍の死傷者は、十万余りである。死者においては、疫病死も含めると数万はいる。
(このような凡愚な男に、名をなさしめたか)
現実を認めたくないが、戦が終息する喜びに本営内は和気藹々とした空気である。
一方城に帰還した張特は、
「呉軍の陣内には、あちこちで屍体が積み上げられていた。
われの虚偽の降伏を、疑いもせず受け入れたのも道理よ」
と楽方に笑いかけた。
「まことですか……」
「おう。この分では幾日か呉軍の攻撃はないぞ。徹夜で城壁を補修し、家屋を取り壊して柵をつくってやろう」
張特の楽観的な態度に、楽方にも笑顔がもどった。さっそく民も導入して、全軍で城の防備を重厚にする工事をおこなった。
三日後、張特は軍使に諸葛恪への書簡をもたせた。
「待ちかねたぞ」
諸葛恪は、書簡を読むなり怒りでそれを取り落としそうになった。
「われには戦いによる死あるのみ」
書簡には、ひとことだけしるされていたからである。
「おのれ、張特……」
諸葛恪は書簡を破り捨て、ふたたび合肥新城に猛攻撃をしかけた。
しかし一度弛緩した軍の空気は引き締まらず、がぜん重厚になった城の防備にはねかえされるばかりであった。
「張特はよくやっている。そろそろ報いてやらねばなるまい」
洛陽にいる司馬師は、ついに司馬昭に二十万の軍勢を率いさせて南下する命令を下した。
加えて鎮東将軍の毌丘倹と揚州刺史の文欽に大軍を動員させ合肥新城にむかわせた。
魏の大軍が接近中、との急報を受けた諸葛恪は無念さに唇を噛んで全軍の撤退を命じた。
諸葛恪からすれば、蜀の姜維があっけなく軍を返したのも想定外であれば、合肥新城を攻め疲れた今になって魏の大軍と野戦をおこなわなければならないというのも、想定外であった。
司馬師としては、虞松の献策がまんまとあたったことは否めない。
もちろん功績第一は張特である。張特は将軍の位と列侯に封じられ、安豊太守に転じた。
呉兵の屍体が敷きつめられた戦場で、安堵の息をついた張特と楽方は、司馬師の慧眼にあらためて敬意を表したであろう。
※
司馬師はある日、わずかな供をつれて秦朗の邸を訪問した。
諸葛恪の人となりを、諸葛亮と親しかった徐庶に訊きたいとおもったからである。
あいかわらず恬淡としている徐庶は、歳をとってやや高くなった声でいった。
「諸葛恪は、若い頃から才はあれども軽はずみなところがありました。孔明(諸葛亮)もそれを危ぶみ、孫権に軍事の要職につけてはならないと書簡を送ったこともあるのです。
こたびの戦も、彼は先の戦勝に気をよくして、必要のない出兵をしました。執政としては孫権が亡くなって間もないのに、新しい君主をないがしろにし、民を無用の戦にかりたてたのは、孔明の心配が的中したということに他なりません」
「たしかに……」
司馬師は諸葛恪の性格や履歴を思い返して、納得した。
「人はかならず理によって動くとはかぎりません。諸葛恪は群臣の最高位にいるのに、勝っても昇進はせず、負ければ威信を傷つける賭けにでたのです。
それは己の自尊心を満足させるためだけの執着であり、その程度の器である諸葛恪ならば、遠くないうちに禍によってぶじではいられなくなるのではないでしょうか」
秦朗も徐庶のことばを補足するようにいった。
「それは私にいわれているようで、身につまされますね」
司馬師は秦朗と徐庶に苦笑した。
「大将軍は、諸葛恪と反対のことをなさればよろしいのです。簡単なことです」
秦朗も、笑顔でいった。
「しかしその簡単なことが、位人臣を極めるとみえなくなってしまうのも事実……」
徐庶は、相変わらず辛口である。
「あなたがたは、亡き父のことばを私につたえてくださっているようだ。これからも弟ともども、父のように善導していただきたい」
司馬兄弟は、相変わらず謙虚で謹直である。
※
諸葛恪は死んだ。
おだやかな死ではない。武衛将軍の孫峻が皇帝である孫亮を説得して、粛正されたのである。
合肥新城で少数の魏軍に敗北した諸葛恪は、皇帝に出兵の結果を報告することをせず、江水のほとりに兵をとどめた。
十万余りの敗残兵をつかって、屯田をするつもりだという。
このまま建業にもどらなければ、天子の兵を私兵にしたことになる。配下の将軍たちは、諸葛恪に秘密で孫峻に現状報告する書簡を送った。
やむなく孫亮の帰還するようにうながされた詔にしたがって建業にもどった諸葛恪は、まるで凱旋将軍のように軍を華やかにかざった。
しかし事実をしっている臣民の目は、以前とはちがい、冷えたものであった。
諸葛恪は不機嫌になり、孫亮のもとに敗北の報告すら行かなかった。
それどころか、また兵を集めて徐州を攻めてやるという。
孫亮と孫峻が仰天したのは、いうまでもない。そのとき群臣のあいだに、諸葛恪は大軍を率いて徐州を攻めるふりをし、軍兵ともども魏に降伏する、といううわさがひろがった。
この情報操作は徐庶がおこなったものであり、かつて義兄弟のようにつきあってきた諸葛亮の兄にして諸葛恪の父である諸葛謹とのパイプを利用した流言飛語である。
果たして、諸葛恪は出兵前に、孫峻と皇帝の孫亮に宴と称して呼び出され、宮殿内で殺害された。
諸葛恪の一族もみな殺された。
以前父の諸葛恪が賢しらな諸葛恪をみて、
「わが一族を栄えさせるのも、滅ぼすのも恪であろう」
と預言したが、そのとおりとなった。
諸葛恪は才能があっても、その器は父や叔父の諸葛亮にはおよびもつかなかった。
しかし、皇帝が若いことで政変や謀叛がおこりやすくなるのは、魏も例外ではなかったのである。