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司馬兄弟  作者: コルシカ
4/13

淮南三叛①王淩と父の死

         四


 司馬懿は、曹爽とのつながりがつよかった人物を徹底的に調べ上げ、曹爽の悪行にかかわっていたとみると獄に入れたり排斥したりした。

 夏侯玄は曹爽の姑の子であり、さきの蜀攻めに参加していたが、政変時には征西将軍として西方にとどまっていた。

 「夏侯玄は曹爽の悪事にくみしていたわけではないが、どうしたものか」

 司馬懿が、司馬昭に問うた。

 「征西将軍は清廉な方です。ですが、蜀攻めのときは駱谷から蜀に侵攻すべきと主張したように、学はあるものの実戦にはむかぬお方かとぞんじます」

 司馬昭は、かつての蜀攻めで夏侯玄の副将についていた履歴から、そう進言した。

 「そうか。では洛陽に召還し、大鴻臚に任じよう」

 司馬懿は、夏侯玄を外交事務にかかわる大鴻臚に転任させた。いいかたをかえれば、西方の兵をとりあげたともいえる。

 しかし、司馬懿のこの措置に脅威をおぼえた将もいる。夏侯覇である。

 夏侯覇は、かつて劉備と漢中攻防戦で戦って死んだ夏侯淵の次男である。夏侯玄のもとでは征蜀護軍であった。

 「司馬懿は、曹氏の親戚である夏侯氏にも害をくわえるのではないか」

 その疑いに拍車をかけたのが、夏侯玄の後任の征西将軍に郭淮が任じられたことだった。

 夏侯覇と郭淮は、とにかく仲が悪い。直属の上司に郭淮がくるということは、いずれ夏侯覇はおいつめられ、悪事の粗探しをされたあげく死に追いやられる、とおびえた。

 「西方にとどまることもできず、都に還ることもできぬ……のこされた道は」

 (蜀に亡命してみるか)

 夏侯覇はついにそのことに思い至った。

 蜀の皇帝は父の仇である劉備の子の劉禅だが、その后が夏侯覇の従妹の娘なのである。

 奇縁というものはある。

 建安五年(二〇〇)に夏侯覇の従妹が、家の近所に薪をとりにでかけたまま行方不明になった。

 彼女をさらったのが、劉備の股肱の臣としてしられる張飛であった。

 張飛は少女が夏侯氏の娘ときき、自らの妻にした。その張飛の妻になった夏侯覇の従妹が娘を産み、その娘が蜀帝劉禅の皇后になったということである。

 「敵の敵は味方ということもある……」

 夏侯覇はその縁をたどり、蜀へ亡命した。

 その行動が突発的であったのか、夏侯覇の姿が消えてから魏の追手はこなかった。

 夏侯覇は従者のみをつれ、益州の陰平に入り、険阻な山道を通って成都をめざした。しかし地理不案内がたたり、谷で動けなくなってしまった。馬を殺して食べ、飢えをしのいでいたところ、蜀の現地役人が夏侯覇を救助し、劉禅に急報した。

 「夏侯覇といえば后の縁戚である。すみやかに成都に案内するように」

 疲弊しきった夏侯覇は、やっとのことで劉禅に相まみえることができた。

 「なんじの父は、戦陣において亡くなったが、わが父が殺したわけではない。うらんでくれるなよ」

 そういたわりの声をかけてもらった夏侯覇は、

 (どうやら悪逆のお方ではないらしい)

 と安心した。それから劉禅は、自分の子を紹介して、

 「この子らは、夏侯氏の甥になる」

 といってくれた。この瞬間から夏侯覇は、蜀の皇室の一員として迎えられたことになる。

 夏侯覇は後年蜀で車騎将軍にまで昇ったので、厚遇がうかがえる。没年は不明である。

         ※

 魏では曹爽一味を誅殺したあと、改元がおこなわれた。正始十年を嘉平元年(二四九)とした。

 やがて権力が司馬一族に集中することを危惧する勢力も蠢動をはじめた。

 司空の王淩と、外甥の兗州刺史・令狐愚である。

 皇帝の曹芳は年少なので、曹爽の独裁をとめることができなかった。ならば、曹爽の悪事を一掃したからといって司馬懿の専制をもとめることができないだろう。

 司馬懿は曹爽が政治を私有化したことに反発してかれを討ったが、中身が変わっただけで、結局司馬一族が皇族の曹氏をないがしろにする政権になっただけではないのか。

 かといって、王淩は司馬懿に疎んぜられているわけではなく、大尉に昇進させられ、節と鉞をもたされている。司馬懿の兄・司馬朗と懇意にしているという理由もあるかもしれない。節と鉞をあたえられるということは、南方において軍事政治の独断専行権をあたえられたということである。

 ある日、令狐愚が王淩を訪ねてきた。

 「叔父上は太傅に厚遇されていますが、太傅がこのまま王朝を独裁することをお許しになっておられますか」

 「どういうことだ」

 最初、王淩は令狐愚がかつて曹爽の長史に任命されていたので、

 「曹爽の仇が討ちたいのか」

 と訊いた。令狐愚はかぶりをふった。

 「曹爽の悪事は目にあまるものがありました。私がいいたいのは、王朝を根底から糺したいということです」

 王淩は、令狐愚のことばに興味をもった。

 「つづけてみよ」

 「はい。そもそも明帝が誰の子かもわからない幼少の今上陛下を後継にしたことから、ねじれが生じているのです。

 そこでです。武帝(曹操)には二十五人も子がおられ、なかには明帝と年齢がちかい方もおられます。

 そこから後継の帝を選べば、家臣の専制がおきることはないはずです」

 要するに、成人した曹操の子を皇帝にして、文帝・明帝の頃にもどし、皇帝親政をおこなわせようというのである。

 「いいたいことはわかった。では、だれを帝位につかせたいのだ」

 王淩の問いに、令狐愚はきっぱりといった。

 「そのお方は、楚王です」

 「そうか……」

 楚王とは曹彪のことで、たしかに年齢的には成熟していて、思慮もある。

 曹彪は曹操と孫姫とのあいだにできた子で、数々の移封をくりかえしたのち、楚王に封じられたのは曹叡の時代である太和六年(二三二)である。

 楚の土地は孫権が有しているため、曹彪は白馬に住んでいる。

 「楚王は才徳があり、諸皇族でもそれは抜きん出ております。楚王は武帝(曹操)の子ということで出自もはっきりしており、群臣が権力を濫用することもありますまい。

 文帝と明帝の御代のように王朝の基礎が盤石となるのです」

 王淩はしばし考えたのち、

 「そうはいうが、楚王を皇位につけるには、太傅と戦って勝たねばならぬ。それができるかどうか……」

 といった。令狐愚は声をはげましていう。

 「叔父上の叔父上(王允)はあの董卓を倒した忠臣ではありませんか。董卓を殺すより、太傅をたおすほうが容易です」

 王淩の叔父は、後漢末の動乱期に、王朝を支配していた董卓を呂布とともに誅殺した王允である。その血筋である王淩には、王朝を刷新する資格がある、と令狐愚はいいたいのである。

 「叔父上の兵と、われの兗州の兵をあわせればかなりの数を動員できます。それに、現状を憂いている各地の王侯たちも呼応してくれるでしょう」

 「そうか……」

 王淩は熟慮した。たしかに司馬懿に厚遇され、高位についている自分がいる。

 しかし叔父の王允も董卓に厚遇されながらも、その地位をなげうち漢王朝に忠義を尽くした。

 その王淩は、ことし七十八才になる。

 (王朝への最後のご奉公としては、わるくないな)

 王淩は令狐愚の挙兵案に、のってみることにした。しかしである。

 「われらが挙兵することができても、楚王はいかがおぼしめしておられるのかがわからぬ。それはどうか」

 「私の考えでは、楚王もかならず王朝の現状を憂いておられるはずです。その根拠となるおおきな兵力があれば、お立ちいただけると存じます」

 夏の数ヶ月、王淩と令狐愚はしばしば密会し、司馬懿打倒の計画をはなしあった。そして機が熟したとおもわれた九月に、張式を密使として、楚王曹彪のもとへおくった。

 張式は王淩と令狐愚が、司馬懿の専制を倒し誰の子かわからぬ皇帝曹芳を交代させたい旨を伝えた。

 曹彪は、血のめぐりの悪い人ではない。

 (陛下とわれを交代させるつもりなのだな)

 とすぐに察した。さもなくば、これまで交際したことのない王淩と令狐愚から使いがくるはずはなかろう。

 (うかつに乗れるはなしではない……が)

 どうであろう。挙兵に成功すれば、曹彪自身が帝位にのぼることができ、地方の王としての運命を回転させることができる。

 「わかった。大尉と兗州のはなしはきかせてもらった」

 と曹彪はこたえた。張式の復命をまっていた王淩と令狐愚は、おおきな手応えを感じた。

 そうなると、計画が客観的に成功するかを分析したい。

 都の洛陽には、才人として名を知られた王淩の長子である王広がいる。

 地方にいる王淩より、都勤めの王広のほうが司馬政権の現状をくわしく把握しているはずだからである。さっそく家臣の労精を遣って令狐愚との挙兵計画をしらせ、意見をもとめた。

 「父上のお考えは理解いたしました。ですが、天子の廃立は大事業です……禍いをご自身におうけにならぬようにすべきです」

 王広の意見は慎重なものだった。

 なぜなら司馬懿が曹爽一味を誅殺しても、臣民のあいだに不満の声がまったくあがらなかったからである。

 「太傅は明帝のころの政治を復活させ、賢臣や能臣を抜擢しています。民衆の要求にも応えつつ親子で兵権を掌握しているので、それに呼応する王侯や群臣は少ないのではないでしょうか」

 司馬懿がいまのところ帝位簒奪の野心をみせていないので、王淩が逆臣とみられてしまうおそれがある。こう王広は父を諫めたのである。

 「ふうむ……太傅はまさに難敵よの」

 そうではないか。董卓のように国政を専断し、暴虐のかぎりをつくした相手ではない。

 善政を敷く為政者にたいして、どのような大義名分を立てればよいのか。

 (しかし……数年を経れば太傅一族の政治基盤は盤石となってしまう)

 王淩の年齢もある。今のうちに司馬懿を排除し、曹彪の親政を実現させねばならない。

 「楚王のご意志をしりたい」

 王淩は、令狐愚に策謀を推進するようにいった。

 「さすがは叔父上。忠臣の血筋はまがうことがなかった」

 十一月、令狐愚は喜んでふたたび張式を楚王曹彪のもとに遣わせた。

 ところが、である。

 張式が曹彪の意見をたずさえて復命するまえに、令狐愚は病気で急死してしまったのである。

 (まさか、このようなときに狐愚を喪うとは……)

 王淩は甥の死を悼んだが、むしろその遺志を継いで天子の廃立を成し遂げねばならぬ、とおもいをあらたにした。

 令狐愚が亡くなる前、王淩に教えてくれた歌がある。それは地元で歌われた歌で、

 「白馬は白き手綱で西南に駆けた。それはだれが乗るものぞ。朱虎が乗る」

 というものである。楚王曹彪のあざなは朱虎である。歌が予言をあらわしているものであるならば、白馬に住む曹彪がひとたびたてば、各地の王侯らが呼応し、帝位につくことができるにちがいない。

 とはいえ、策謀の主導者だった令狐愚を喪ったことで、王淩は身内以外の信用できるものを陰謀に加えざるをえなくなった。

 そうして令狐愚死去の翌年嘉平二年(二五〇)は、陰謀を実行にうつすことができなかった。

 策動をつづけている王淩は、しばし星空を観察し、天に異動があると感じた。そのため兗州北部の東平国に使者を遣わし、星占いで有名な浩詳という易者を召した。

 王淩のいる寿春にきた浩詳に、

 「最近天文に常ならざるうごきがあると察するが、あなたはどうみる」

 と王淩は訊いた。

 「たしかに天文には動きがあります……」

 そういって浩詳は胸に動悸をおぼえた。

 寿春は呉と境界を接しているが、戦いがおこる気配ではない。とするとこの占いは王淩個人が知りたい何かがあるのだろう。

 「この淮南は天文においては、楚にあたります。この地に王者が興るでしょう」

 「おおっ……」

 楚の地に王者が興るとは、楚王曹彪が帝位につくということではないのか。王淩はさらに確信を強めた。

 曹彪を許昌で即位させるには、洛陽の司馬懿のところまで攻め上らねばならないが、王淩の自由になる兵はそこまで多くはない。

 「太傅を淮南におびき出し、捕らえれば事は成る」

 王淩はそのように策戦をたて、張式とはかった。

 「楚王は、大尉(王淩)の蜂起をお待ちになっておられます」

 「それはありがたい。が、太傅を南方におびきだすきっかけがなく、躊躇している」

 張式は表情をあかるくして、

 「孫権が兵をあげてくれれば、太傅をおびき出すことができるでしょう」

 といった。王淩はわらって、

 「はは、孫権も七十近くになった。兵事でみずから兵を率いることはないであろう。

 太傅も似たような年齢であることを考えると、機会がなかなか訪れるとはかぎらぬ」

 と張式をたしなめた。

 そんなおり、孫権の皇太子争いにより呉は大変な混乱を迎えたのである。

         ※

 「なに、呉で皇太子の廃立があったのか」

 魏の征南将軍である王昶は、思わぬ報に声をあげた。

 呉は孫権の老耄のため、皇太子の孫和と魯王の孫覇が同等のあつかいをうけ、群臣も二派に分断されて相争っていたはずである。

 丞相だった陸遜も孫権への諫言で怒りをかい、流罪とされ憤死したことは先述した。

 王昶は文武両道、篤実な人柄で呉との対決を想定して水軍の訓練を欠かさず、兵站となる農業も重視して開墾をおこなっている。

 呉との戦場は襄陽となるであろうと、郡府を南の新野にうつしている。

 「呉の太子が亡くなったわけでもないのに、太子を廃立したとはいかなるわけか。詳しくしらべて報告してほしい」

 王昶は、情報の詳細を調査させた。

 するとどうだ。

 孫権の寵愛が潘夫人という側室にうつり、その潘夫人が産んだ末子の孫亮を溺愛するようになっていたのである。

 太子の孫和と魯王の孫覇の後継争いに嫌気がさしていた孫権は、おどろくべき決断をした。すなわち、

 「皇太子を廃し、魯王には死を賜う」

 「孫亮を太子とし、潘夫人を皇后とする」

 という二事である。

 魯王孫覇に属していた重臣の全寄、孫寄、呉安、揚竺らも殺害され、屍体は江水に棄てられた。また孫和を皇太子に復位させるよう訴えた標騎将軍の朱拠は、新都郡の丞に左遷されたという。

 もと太子の孫和は南陽候におとされ、長沙にうつされた。

 「そのほかにもかなりの数の重臣や皇室の関係者が、粛正の名のもと孫権に殺害されたということです」

 「ふむ……それが事実ならば、太傅に報告せねばならぬ」

 王昶は、さっそく司馬懿に報告と征南将軍としての意見をおくった。

 「孫権は二宮(皇太子と魯王)が相争っている際に、良臣を多く殺害しました。

 この隙に乗じて、呉と蜀を攻撃すべきです。

 蜀の巴東郡と呉の建平郡はわが国の新城郡に隣接しており、いま攻撃すれば奪取できるでしょう」

 「いかがいたしますか、父上」

 司馬師と司馬昭も司馬懿の意見を仰いだ。

 「そうだな……征南将軍(王昶)のいうことであれば信用できる」

 司馬懿は、さっそく王朝をつうじて、新城太守の州泰、荊州刺史の王基、征南将軍の王昶に命令を下した。

 州泰には蜀の巴東郡を攻めさせ、王基には王昶にしたがって呉の建平郡を攻めさせた。

 十二月に主力軍を率いて新野を出発した王昶は呉軍を撃破し、大勝した。

 王基と州泰もそれぞれ大きな戦果をあげて、凱旋の途についた。

 その結果をきいて、おおいに喜んだのは王淩であった。

 「これで呉軍は反撃のため、北上するだろう。太傅はその迎撃のために南方に出陣せざるをえない」

 そのとき、呉軍は滁水をせきとめた。しかしこれを機会と上表した王淩は、あきらかに勇み足であった。

 「呉軍が滁水をせきとめています。どうか討伐軍をお出しください」

 司馬懿はこの年七十三歳である。

 持病が悪化し、朝廷に参内できず自邸で政治の決裁をおこなっていた。

 曹芳はそんな司馬懿を気遣い、たびたび司馬懿の邸に行幸しては判断をあおいでいた。

 王淩からの出兵要請をきいた司馬懿は、まずそれをいぶかしんだ。

 「たかが呉軍が滁水をせきとめただけで、あの勇猛でもってしられた大尉が、援兵をもとめるだろうか……」

 司馬師と司馬昭が、

 「例のうわさが、まことなのやもしれませぬ」

 「父上を淮南におびき出し、楚王をかついで天子の廃立をおこなう、というあれですか」

 とかねてから諜報組織によって報告をうけているうわさとてらしあわせた。

 「ふむ……では陛下には大尉の要請を拒否してもらおう。それで大尉の出方をうかがう」

 曹芳は、王淩の要請を却下した。呉軍のようすを監視し、異常があればふたたび報告するように使者を出した。

 (あの大尉が……)

 その有能さに目をかけてやり、三公の位に抜擢した王淩である。

 (人の心はわからぬ)

 司馬懿が悩んでいるようすをみた司馬師が、

 「そういえば秦朗どのが、易者の管輅を自邸に招いたときのことでございますが」

 と大きな叛逆が三つ起こり、それを平らげたときに天下は平定にむかう、という卦をたてたというはなしをした。

 「管輅は天下に名をしられた人物。こたび大尉が裏切るのであれば、一つめの叛逆ということか……」

 司馬懿は首をひねった。王淩の恨みをかうような覚えは一切ない。

 「王淩は、あの王允を叔父にもつ勤王の人物です。陛下が誰の子かわからぬ今の王朝を、わが家の傀儡とみなし、武帝(曹操)の子を帝位につけて親政させるのが王道とみたのやもしれませぬな」

 司馬師の推測をきき、司馬懿はうなった。

 「明帝とて袁煕の子、それで実質天下は穏やかであった。血筋にこだわるだけで中華が静謐をとりもどすものか」

 「大尉も、しょせんは表面しかものごとを理解できぬお方だったのは残念です」

 司馬昭も、父に同意した。

 「太傅をおびき出すことはできなかったか……」

 王淩は、肩をおとした。しかし気魄が萎えたわけではない。

 「太傅は病で軍を率いることはできぬ、ときく。ならば豫州と兗州の兵をあわせて、洛陽に攻め上る」

 とはいえ兗州刺史だった令狐愚は死んだので、新任の刺史である黄華を味方につけねばならない。そのため配下の将軍・揚弘を使者として黄華のもとへ遣った。

 「王朝のゆがみを匡すため、義兵を挙げる。成功すれば三公九卿の位は思いのままぞ」

 そのようにきかされた黄華だったが、

 (楚王を帝の座につけるなど、正気の沙汰ではないぞ)

 とおどろいた。揚弘に、

 「大尉は本気なのか」

 と問うた。

 「本気です。ですが私も大尉のもくろみが成功するとはみておりません」

 揚弘が叛逆にくみしていないことを知った黄華は、

 「そうか、ならばはなしははやい。このことをわれらの連名で太傅に送ろう。これでわれらは罪に問われぬ」

 と早馬で書簡を司馬懿の自邸にとどけた。

 やはり王淩の反乱には、多くの他人をまきこみすぎた。令狐愚だけに情報をとどめているうちはよかったが、弛緩がみえない王朝にあえて逆らう他人はいなかった。

 それを考えると、曹爽一味を一掃した司馬懿は一族しか企てに加えず、情報漏洩はまったくおこらなかった。

 「大尉の叛逆があきらかになった」

 司馬懿は、詳細がしるされた書簡を司馬師と司馬昭に見せた。

 「信じられませぬな……」

 「あれほど事理にあかるく、文武に秀でた大尉が、天子の廃立に執着したことはふしぎです」

 二人はあらためて、王淩が挙兵を企てた理不尽さに人の心の謎をおもった。

 とはいえ、叛逆は討伐せねばならない。

 「父上、私が討伐にむかいます。大尉の挙兵前に先手をうつのが最善かと」

 司馬師が出陣を申し出た。なるほど司馬師は軽挙妄動がなく、沈毅な軍をうごかす術をこころえている。

 「いや、なんじが出れば戦になる。われは病軀だが船にのって南下すればうごけぬことはない。いつもの手でゆくぞ」

 「いつもの手……」

 司馬師と司馬昭は、これまで司馬懿が叛乱をおさめてきた履歴を思い返していた。

 孟達や曹爽を屠ったとき、司馬懿はまず相手にたいして、

 「あなたが謀反をおこしたという噂があるが、私は信じていません」

 と油断させ、電光石火の軍事行動で乱を鎮圧してきたのだ。兵の命は損なわれず、民も動揺することはなかった。

 司馬懿は念入りなことに、討伐軍に王淩の子である王広を加えた。王広は、かつて王淩に叛乱を思いとどまらせようとしていた。

 「われは大尉が本気で叛乱を起こそうとしたとはおもってはおらぬ。

 おそらく死んだ甥の令狐愚が首謀者で、引くに引かれず加担したのであろう。

 いまだ大尉は兵を挙げているわけではないので、なんじが父を説得し、出頭させれば罪を問わぬ」

一方の王淩は、挙兵の出鼻をくじかれてしまった。

 王淩を討伐する軍の元帥が司馬懿と知って、

 「なんということだ……」

 とわれをうしなった。挙兵前なので、兵の数も集まっていない。

 万事休した王淩は、うなだれて司馬懿を出迎えることにした。

 それでも司馬懿は念には念を入れた。

 王淩の子の王広に書簡をもたせ、

 「いまおもいとどまれば、なんじの父の罪は赦す。ゆえに心おきなくわれのもとに出頭せよ」

 といった。司馬懿の寛容さに騙されない人はいない。王広もまた感謝して父のもとにむかった。

 感激した王淩は、涙を流して返書を書いた。

 「いきなり天子の軍が出発し、目前にあるのをきき、私は運命が窮したのを悟りました。

 ところがおおいなる御恩によって死を免れ、ふたたび生きることができるようになりました。私を生んだのは父母ですが、これから私を生かしてくださるのはあなたさまです」

 王淩は淮南郡の寿春にいたのだが、当初司馬懿の軍は、呉を攻める援軍だと思っていただろう。もちろん司馬懿は病身なので、元帥は司馬師だろうと推測していたはずである。

 ところが、おそらく張式あたりの内乱に同調していた臣が、

 「あの軍は大尉を討伐する軍です。しかも元帥は太傅で目の前にせまっています」

 と急報をもたらしたのであろう。

 ともかく王淩は挙兵をあきらめ、属官に大尉の印綬をもたせて先に司馬懿のもとへ急がせた。

 王淩自らは身体を縛って、古来からの降伏の作法に従った。

 やがて司馬懿の大船団が頴水を下ってきた。

 司馬懿の属官が王淩に近づき、縛めをほどいた。

 「かたじけない。これから太傅のもとへゆこう」

 安心した王淩は小船に乗ると、司馬懿の乗る旗艦に近づいてゆく。ところが、旗艦の目前になって護衛艦が旗艦への進路を遮った。

 「いかなることぞ。われは大尉の王淩である。太傅の船に接舷させよ」

 大声で怒鳴った王淩に対し、護衛艦からは、

 「太傅の船へはいかなるものも近づくことはできぬ」

 と返事がきた。

 「そのようなはずはない。太傅をよべ」

 王淩が大声でさけんでいると、やがて司馬懿の旗艦が近づいてきた。その旗艦にむかって、

 「太傅は書簡でわれを召し寄せたのに、会おうともせぬ。われはここにくるべきではなかった」

 と王淩はふたたび叫んだ。すると司馬懿が旗艦の船上にあらわれ、

 「卿が来てくれるとはおもわなかったな」

 といった。王淩は驚愕していった。

 「太傅は、われを欺いたのか」

 「私は卿を騙しても、国家を欺くことはしない」

 冷厳といいはなった司馬懿の返事に、王淩は無念の膝をついた。

 結局王淩は船を下ろされ、陸路洛陽にむかうことになった。印綬が帰され、大尉にもどった王淩は、

 (大尉の位にもどして裁判がおこなわれるのだ)

 とさとった。王淩の左右には六百の騎兵と歩兵が監視している。ついに王淩は、

 「棺に打つ釘をいただきたい」

 と司馬懿に乞うたところ、

 (王淩はじぶんの始末をつけるつもりだな)

 そう感じた司馬懿は、それを許可した。

 頴水のほとりの項県に至ったとき、夜に王淩は属官をよび、

 「行年八十。身は名とともに滅ぶか」

 とつぶやいて鴆毒を飲んで自殺した。

 洛陽について、王淩の子の王広に引見した司馬懿に、王広は猛然と抗議した。

 「太傅は父を赦免するとおっしゃったにもかかわらず、父を殺した。

 あなたのことばを信じて父に降伏をすすめた私は、冥府で父にあわせる顔がない」

 「われは嘘をついたのではない。王淩には大尉の印綬を帰し、復位させた。にもかかわらず、王淩は自害したのだ」

 「……」

 王広は悔恨のあまり司馬懿をにらみつけたが、死刑に処された。王淩の子、および三族も王朝への謀反の罪ですべて処刑された。

 むろん追求の手は、白馬にいる楚王曹彪にものびた。

 使者の大鴻臚は玉璽が押印された詔書を手渡して、曹彪はそれに目をとおした。

 「あなたは皇室に連なるものでありながら、悪事をはかり大尉王淩と兗州刺史令狐愚とともに社稷をくつがえそうとした。なんの面目をもって、泉下の先帝らにまみえようというのか。

 朕は王のあなたが罪に服し市場で処刑されることがしのびなく、みずから身を処されることを願う」

 曹彪は、無言であった。だが、

 (司馬一族が皇室をいつまでもささえてくれるなど、虫のいいはなしだ)

 と冷えた目で皇帝曹芳のことをおもった。

 (司馬懿の傀儡になり果てた陛下こそ、先帝にどの顔をみせるつもりか。そのように愚かな陛下だからこそ、われは王淩と令狐愚とともに正義を糺そうとしたのだ)

 そういいたかったはずの曹彪は、逍遙と鴆毒をのんで自殺した。

 王妃や王子たちは刑死しなかったが、平民に落された。属官らには全員死刑を宣告された。

 「なあ、こたびの大尉の処置は気の毒におもわなかったか」

 司馬師は、自邸の一室で司馬昭に語りかけた。

 「私は父上の思いがけないやさしさをみた思いがいたします」

 司馬昭のこたえに司馬師は耳を疑った。

 「父上は大尉のことが最後まで嫌いになれなかったのでしょう。楚王とおなじように市場で斬首されるのがしのびなかったのではないでしょうか。だからその心情も酌量して、大尉の身分のまま自害できるようとりはかったのだとおもいます」

 「そのようなものかな……」

 「はい。父上は『いつもの手』をつかい、大尉を始末しました。その手管は狡猾にみえるようで、兵乱を未然にふせぎ、叛逆の首領たち以外の死者をひとりも出しませんでした。

 兵は陛下の赤子です。ここまで兵たちのことを慮る人を私はしりません」

 司馬昭の真剣な面持ちをみていると、司馬師は弟ながら彼の洞察力にはおどろいている。

 恐怖や畏怖だけの政治軍事であれば、しょせんはそのときのみ人々は従うものの、為政者への反感は消えない。

 「昭よ。なんじがわが家の基を盤石にするのやもしれぬな」

 司馬師は若くから容姿が立派で、態度ものびやかかつ謹直だったので評価が高かったが、平凡にみえる弟の方が底知れぬすごみをもっているような気がしている。

 さて、曹彪を自殺させた司馬懿は、皇族の叛乱をふせぐため、皇室との血縁をもつ王侯を鄴に集めて住まわせることにした。彼らを有司に監視させ、たがいに連絡がとれないようにした。

 文帝曹丕は、後漢王朝は皇帝の血縁をもつ王が力をもちすぎたため皇帝の権力が確立できなかったとみて、魏では王侯の力を大きく削いだ。

 その結果が、司馬懿のような専制者がでたときに抵抗できない王侯の弱点を露呈させた。

 司馬懿は洛陽に還り、司馬師と司馬昭に迎えられた。

 「朝廷から相国を打診されている」

 司馬懿はそういうものの、病は進行しすぐ自邸の牀に横になった。

 「相国……」

 「董卓以来ではないですか」

 兄弟は驚いて父のようすをうかがったが、

 「もはやわれの死はまぬがれぬ。朝廷に出仕できぬのに、名のみ高くしても一族の禍である」

 と固辞したという。

 「王淩と令狐愚の処遇がなまぬるい、との糾弾もあった」

 古代より、皇帝への叛逆は最も重い罪とされている。

 「死者に鞭打て、ということですか」

 司馬師は、顔をしかめた。

 「好ましいことではありませんが、その声にしたがうべきでしょう」

 司馬昭は、朝臣の意見に賛成した。

 「臣民が父上を正統な為政者として阿諛しはじめたともとれますが、ここで毅然とした処置をとることは政治として必要かと」

 司馬懿は目をほそめて、

 「昭よ、なんじにもかんじるものがあったか。では王淩と令狐愚の処置をたのむ」

 と依頼した。司馬師もうなずいて弟に同意した。

 王淩と令狐愚の墓はあばかれ、棺は割られた。屍体を三日間市場にさらした。これも古式にのっとった叛臣の処罰法である。

 司馬懿の病は、いよいよ篤くなった。

 病牀でみる夢に、王淩がでてくるようになった。

 (太傅よ、かなしき一族よ。われを殺しても明日はなんじらの番ぞ)

 (なんじは、なにもわかっておらぬ)

 (ふふ……皇室を弄んだものは、一族相争うことになろうて)

 (われの死後のことなどよい。これからそちらにゆくから、そのときにはなしをきく)

 「父上はうなされておられるな……」

 病牀に侍る司馬師が司馬昭にはなしかけた。

 「王淩がでてきているようです」

 「謀叛人を誅して祟られても、父上は気にはなされまい。逆恨みというやつだ。夢で王淩をやりこめておられるであろうよ」

 八月に司馬懿は亡くなった。享年七十三。

 かつて固辞した相国の位を追贈された。

 司馬師は撫軍大将軍に任命され、司馬昭は安東将軍のままである。

 撫軍大将軍は、かつて司馬懿がつとめていた職掌なので、王朝では司馬師を後継とみとめたということになる。

 司馬懿の喪に服している司馬兄弟のもとに、目立たぬ服装で秦朗と徐庶が訪れた。

 「相国(司馬懿)は明帝との約束をお守りになった」

 秦朗と徐庶は、涙をうかべていった。

 浮華の徒を退治し、清澄な王朝に糺し、思慮のたりない謀反を未然に防いだ。

 「父は、己の背中を長く私たちにみせてくれました。これからは弟とともに明帝と父の政治を承継してゆく覚悟です」

 司馬師がそのはたらきを問われるのは、喪が明けた翌年以降になるだろう。

 「お心めされよ。相国が亡くなったら、われこそがと権力を欲する叛臣はいます」

 そういった徐庶は司馬懿と同い年なので、すでに七十三となっている。

 「微力ですが、私たちもお力になります」

 秦朗も、司馬師の手をとっていった。

 「かたじけなく存じます。おふたりの存在は父を亡くした私たちにはこころ強いものです」

 司馬師と司馬昭は頭をさげた。

 激動の時代は、まだおわったわけではない。


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