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司馬兄弟  作者: コルシカ
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雌伏

         二


 「陸遜が死んだ、とはまことですか」

 秦朗の邸宅を訪れていた司馬昭が、おどろいて声をあげた。

 秦朗はうなずいて、隣にいる徐庶がいった。

 「呉では太子の孫登が亡くなったので、彼の弟の孫和を太子にしたのです。

 ところが孫権は孫和の弟の孫覇を魯王として待遇を同じにした。これが太子派と魯王派にわかれる権力闘争に発展したのです」

 「その権力あらそいに陸遜が巻き込まれたということですか……」

 司馬昭は、目の前がくらくなる気分になった。

 陸遜は蜀の諸葛亮、魏の司馬懿とならんで呉を支える名将として知られている。

 かつて関羽の復讐で呉を攻めた劉備を撃退したのが、陸遜であった。

 (孫権は老耄となったのか)

 父の司馬懿と年齢が変わらぬ孫権は、極度の酒好きであり、酒が脳を萎縮させてしまったのかもしれない、と司馬昭はおもった。

 「陸遜は丞相でしたが、二宮(太子と魯王)の争いをおさめようとし、太子の孫和を魯王の孫覇より尊重して差別すべきだと諫言したのです。

 孫権はそれをおおいに怒り、陸遜を流罪にしたのみならず、流刑地にまでなんども問罪使をおくったようです。

 おもいがけない転落に、陸遜は病を発して憤死したのです」

 秦朗は、淡々と事件の経緯を司馬昭に伝えた。

 「あの英明だった孫権でも、老いればこうなるのですね。後継者をはっきりさせないことは、国を傾けさせることになるのですが」

 「そうですね。これはわが国と似てはいませんか」

 秦朗のことばに、司馬昭は目をあげた。

 「陛下と大将軍のことですね」

 皇帝の曹芳をささえるはずの曹一族の曹爽が、皇帝と同じ身なりで豪奢な生活をおくっている。

 補弼の臣の両翼であるはずの司馬懿を政権から遠ざけて独裁をおこない、いずれは帝位の簒奪をもくろんでいる。

 「大将軍はなんの功績もあげておらず、先年にはむだな蜀征伐に失敗して人心をうしなっています。

 それなのに有能な太傅を政治に参画させず、放恣な生活にふけっている。

 群臣や国民は太傅の復帰を願っているのをしっているはずなので、散騎常侍(司馬昭・典農中郎将から昇進)や太傅一族に謀略をしかけてくるかもしれません」

 秦朗は司馬昭を心配していった。司馬昭は、やや目をさげて、

 「私は戦場での謀略をほどこすことは是としています。それは敵味方の兵の命を損なわずにすむからです。

 ですが謀略を政治にもちこむのはこのみません。政道は誠実をもっておこなうのがよく、天道に恥じぬおこないをしなければ、民はくるしむのみで、ひいては国を滅ぼすもとになると考えるからです」

 といった。秦朗と徐庶は目を細めて、若い司馬昭のことばをきいていた。司馬昭は顔をあからめて、

 「ともうしますのは、父の受け売りです。生意気をご容赦くださいませ」

 といった。秦朗は微笑んで、

 「われらは散騎常侍を誤解していたようだ」

 ととなりにいる徐庶とともになんどもうなずいた。

 「今日は散騎常侍と大将軍を牽制する策をはなしあおうとおもっておりましたが、その必要はなさそうです」

 徐庶が打ち明けた。秦朗も、

 「散騎常侍はお優しい……太傅の芯の強さや中護軍(司馬師・散騎常侍から昇進)の諧謔にはおよばないかもしれませんが、国を変える人とはこのような茫洋さをおもちなのかもしれませんね」

 といった。司馬昭は、ひたすら恐縮するほかはなかった。

         ※

 「おもしろくないのう」

 曹爽は例の自邸につくらせた巨大な地下室で酒をあおりながら、つぶやいた。

 何晏ら浮華の徒たちも、同席している。

 「まだ太傅に期待する声が、たまにきかれますな」

 李勝が眉にしわをよせて、同調する。

 「たまにではない。毎日のようにきこえてくるぞ」

 曹爽はそうはきすてて、ふたたび酒をあおった。

 二年前に蜀征伐に失敗してからというもの、それに反対した司馬懿の名声は高まり、なにかと権力をみずからのもとに集中させようとする曹爽に批判が向けられている。

 「中塁営と中軍営の兵の件でも、太傅は口出しがおおすぎます」

 鄧飄がいったのは、中塁将軍と中軍将軍の兵を曹爽が曹羲に移管させようとしたとき、

 「先帝の兵制をみだりにかえないでいただきたい」

 と司馬懿が血相をかえて抗議してきたことである。

 「むかし明帝と阿蘇が適当に定めた兵制を、大将軍にいじられるのが怖いのでしょう。

 太傅に忌憚する必要はありません。もはや太傅はただの帝の教育係……わが方の権力を強化して黙らせてやればよいのです」

 何晏は、むかし後宮で秦朗とともに育ったので、曹叡の治世において自分がもちいられなかったことを今でも恨んでいる。

 「こういう手はいかがです」

 丁謐が曹爽に酒をつぎながら、にやりとわらった。司馬懿をさらに追い落とす手だと察した曹爽は、

 「きかせてもらおう」

 とやや機嫌をなおした。

 「皇太后は太傅を信頼しているようですので、ふたりを引き離すのです」

 おお、と曹爽をはじめ何晏らも丁謐の知恵にうなった。

 皇太后とは曹叡の正妻であった郭皇后で、幼帝の曹芳を教育してきた人である。

 郭太后は曹芳の一番の保護者であるので、曹叡の死後ますます補弼の臣であるはずの曹爽が恣意を強めてきたことに、疑念をいだいている。

 具体的にいえば、皇帝である曹芳を傀儡として曹爽一派が専横をおこなっていることに不満をもっている、ということだ。

 郭太后はしだいに、なにごとも太傅の司馬懿に相談するようになった。

 「郭太后には永寧宮におうつりいただき、陛下のお側から距離をおいていただきます。

 永寧宮から外に出られないようにすれば、太傅を頼ることもできますまい」

 丁謐の策は露骨なものであったが、畢軌などは、

 「それはよい。大将軍とわれらの政治がよりはかどる」

 と小躍りしてよろこんだ。

 「わかった。さっそく手をうとう」

 曹爽もあから顔で満足そうにうなずいた。

 皇帝の曹芳を、より政治に深く関与させたいという理由で、郭太后は曹芳から引き離された。

 「陛下の御為を思えば……」

 郭太后は、曹爽らの悪意を察してはいたが、そういって泣きながら永寧宮にうつった。

 こうして、曹爽一派の専制に異見するものはいなくなった。

 司馬懿は自邸にもどってくると、

 「太后が永寧宮におうつりになった」

 と司馬師と司馬昭にいった。

 「なんと……」

 「これほどまでに、あからさまなことをするとは」

 二人も絶句する他なかった。

 「われらのこれからのことだが……」

 司馬懿はふっきれたようにいった。

 「われは、病と称して邸にひきこもろうとおもう」

 郭太后をしりぞけたあと、狙われるのは司馬一族であるのはまちがいない。

 「雌伏のときをおすごしになるのですね」

 司馬師はくやしさをにじませていった。

 「そのようなものだ。われに寿命があれば天がまきかえす時をおあたえになるであろう」

 「無念です」

 司馬昭もこれまで耐えに耐えていた父の姿をみているがゆえに、なぐさめのことばもなかった。

 「とはいえ、あきらめたわけではないぞ。

 師は中護軍、昭は散騎常侍の職がある。あたりさわりのない程度の仕事をし、大将軍らの動向を見張れ」

 司馬懿の目は、まだ死んではいない。

         ※

 正始八年(二四七)と翌年までが、曹爽の時代であった。

 とくに何晏、鄧飄、丁謐の横暴ぶりはすさまじく、洛陽の官民までもが、

 「何、鄧、丁が京城を乱す」

 と謡うようになった。かれらは「三匹の狗」とまで陰口をたたかれている。

 曹爽のとりまきでも丁謐は独善のひとであり、何晏や鄧飄らだけでなく、曹爽をも見下している。

 いわばじぶんだけが賢い、と思っているのである。

 郭太后と司馬懿を引き離す策を講じたのが丁謐であることからも、司馬懿だけは己に匹敵する才能があると認めていたのであろう。

 鄧飄もかつての名声は地に墜ち、蓄財と女を偏愛する俗人になり果てている。

 派手な着物を着て、朝廷を闊歩しているのは何晏である。人事を好きにいじれるので、彼をおそれぬものはいない。

 「おう、中護軍。ご機嫌はいかがかな」

 廊下で司馬師と出会った何晏は、傲然と声をかけた。司馬師は若い頃から何晏と交流があるので、にこやかなようすで、

 「これは尚書(何晏)どの。おすこやかそうでなによりです。

 わが家では父が病ですので、介護にいそがしい日々です。尚書どのもおいそがしい身、おからだには留意なさいませよ」

 とけなげにみえる返答をした。

 (司馬家も斜陽よな……)

 がらにもなく同情した何晏は、

 「そうか……太傅どのがなあ。しかし、中護軍とは若いころからしらぬ間柄ではない。

 散騎常侍(司馬昭)ともども、お案じなさるな」

 となぐさめた。司馬懿が死んだとしても、司馬兄弟を曹爽の王朝で養ってやる、ということだ。

 司馬師は深々と礼をし、

 「ありがとうございます。尚書どのとの縁のみが頼みです」

 と弱々しい笑顔をみせた。満足そうに去って行く何晏のうしろすがたを、司馬師はじっとみつめていた。

 曹爽の驕慢ぶりを、冷静にみていたのは弟の曹羲だけである。

 (このままの政治をつづけていれば、いつかよくないことがおきる)

 曹羲は先年の蜀征伐で、あらためて曹爽に軍事の才能がないことを確信した。

 ならば、善政をしいてなみいる群臣たちに権威をしめしてもらいたい、とおもった。

 しかし曹爽は政治にもまったく力をいれず、何晏ら浮華の徒たちに委任したまま、享楽をむさぼっている。

 「兄上、どうか浮華の徒を遠ざけ、悪評を一掃していただきたい。このままでは、兄上のみならず一族が転落の危機におちいることになりかねません」

 ある日、曹羲はたまりかねて曹爽に諫言した。曹爽はすぐ不機嫌な顔をして、

 「何晏たちは、才能がありすぎて明帝にきらわれただけだ。いまの王朝をみよ。かれらは大過なく職務をこなしているではないか。

 その報いとして、かれらをもてなしてなにが悪い。

 責めるなら、大禄をもらっておきながら病で床に伏している太傅をせめるべきだ」

 と反駁した。

 (また司馬懿のことを……)

 曹羲は兄がなさけなくて涙を流した。政治・軍事・人望すべてに雲泥の差がある司馬懿への対抗心を麻痺させるため、兄は酒をのみ享楽にふけっているのか。

 「心配せずとも、太傅はもうすぐ死ぬ。そうすれば、なんじの悩みも消え、わが一族は空前の繁栄をみせるであろう」

 曹羲は唖然として口をつぐんでしまった。

 そうして音楽と女の嬌声が鳴り止まぬ地下室に、曹爽は消えていった。

 とはいえ、曹羲の諫言に、曹爽は小さな不安を感じないわけではない。

 鬱々と愉しまぬ顔の曹爽に、何晏がちかづいてきた。

 「大将軍らしくありませぬな。いかがいたしましたか。せっかく張当が女官を連れ出してきましたものを」

 その日は宦官の張当が十一人の女官を後宮から連れきて宴をはっていたのである。

 「うむ。太傅のことで気がかりがあってな……」

 舞や音楽がけたたましい地下室で、何晏は曹爽の耳に顔をちかづけた。

 「あの老いぼれ……いや失礼、太傅のことですか。はじめのうちは仮病かと懸念いたしましたが、じつはかなり深刻な病だと中護軍(司馬師)から直接きいたところです」

 「それは、まことか」

 曹爽はみるみる顔をあかるくした。

 「まこともまこと。中護軍は弟ともども私のご縁にすがるしかない、とそれは弱気な態度でして」

 そういって、何晏はさらに声をひそめて、

 「太傅が死ねば、もはや王朝は大将軍のものですな」

 とにやりと顔をゆがめた。

 「われのもの……」

 「禅譲ですよ……そもそもいまの帝は誰の子かもしれない無能のお方。それにくらべ、大将軍は歴とした曹氏一族の総帥です。

 有徳のものが天下を統べるのは世の理……陛下には斉王にお戻りいただき、大将軍がその位に就いていただく。

 そのためには神器を取り戻さねばならず、ここにいる張当にはたらいてもらいます」

 何晏は張当に目くばせした。張当も承知したもので、曹爽に卑屈な笑みをむけている。

 「それは、わるくないはなしだ」

 曹爽はまんざらでもない気分になった。

 それをきいていた畢軌が千鳥足で、

 「大将軍、万々歳じゃの」

 と酔ってさけんだ。

 地下室の嬌声は朝までやむことはなかった。

         ※

 「大将軍が帝位の簒奪を?」

 司馬師はおもわず大声をあげた。

 ここは秦朗の巨大な邸宅内で、その声が外にもれることはない。

 「はい。鄧飄の家令からのはなしですので、まずまちがいないとおもわれます」

 秦朗と隣席している徐庶が、間諜をつかって得た情報である。

 「いよいよ、うごくときがきたのかもしれませんね」

 秦朗は悲壮な面持ちで、司馬師をみている。

 「先んずれば人を制す……中護軍(司馬師)の私兵はいかがですかな」

 「約三千。いずれもわが家のために命もかえりみぬ兵を選りすぐって訓練しています」

 徐庶の問いかけに、司馬師の返答はよどみがない。

 「結構。太傅もご壮健であられますな」

 「いたって壮健です」

 ああ、と秦朗は安心したようすで、

 「天はやはり、悪を滅することを善しとされたようです。太傅の寿命をここまでのばすことができたのは、その証拠」

 とよろこんだ。

 「そこでです、策を大将軍にしかけます。

 まずは太傅にいよいよ死がちかいという虚言を朝廷内に流します」

 徐庶が、身をのりだして司馬師に計画の端緒を打ち明ける。

 「わかりました」

 「そうすると、大将軍はとりまきのだれかを、確認のために太傅の邸へ見舞いによこすでしょう。

 そのときは、かねてからの手はずで……ぬかりはありませんな」

 「父も弟も、覚悟をきめています。ぬかりはありません」

 司馬師はきっぱりといった。この二年で司馬師と司馬昭は変装までして、秦朗の邸宅に通い、クーデターの計画を水も漏らさぬ慎重さですすめていたのである。

 曹爽が一昔前の権力者だった秦朗を、警戒することはまったくなかった。

 「やはり太傅は重病で、明日ともしれぬ命らしい」

 まもなく朝廷内に、司馬懿瀕死の報が流れはじめた。正始九年の冬のことである。

 曹爽はいよいよ、

 (天子になれるかもしれない)

 とのおもいをつよくしはじめた。そんなおり、河南尹の李勝が曹爽の邸をたずねてきた。

 「太傅の病が篤いらしい。ところがだれも彼の姿をみたものはおらぬ。

 なんじが見舞いに行き、うわさをたしかめてきてくれぬか」

 曹爽が帝位を簒奪するにあたって、障害になるのは司馬懿だけである。李勝は、

 「それでは、私が荊州刺史に転任したので、それを報告にいくという口実で、太傅を見舞ってきましょうか」

 と提案した。

 「うむ。それはいいな……やってくれるか」

 曹爽は李勝の策を許可した。

 やがて、李勝は司馬懿の邸宅を訪問した。もちろん理由は荊州への赴任と、司馬懿の容態の見舞いである。

 訪問は、すんなりゆるされた。

 門の外で、司馬師と司馬昭が待っている。

 「これは河南尹……いや荊州どの(李勝)、わざわざのご訪問、父もよろこんでおります」

 「父をたずねてくる人もたえてひさしく、感謝いたします」

 司馬兄弟の丁重で謙虚な態度をみた李勝は、

 (やはり、うわさは本当であったか)

 と緊張を解いた。

 邸内の奥の間に案内された李勝は、驚愕した。痩せ衰え、目も虚ろな司馬懿が、震えながら侍女に両脇を支えられ座っていたからである。

 (これは……瀕死の老人ではないか)

 と呆然自失した李勝は、あわてて拝礼し、

 「このたび、私はなんの功績もないにもかかわらず、出身の荊州刺史に任じられました。

 しばらく都からおいとまいたしますので、太傅に引見を申し出たところ、おもいがけずお目にかかれました」

 といった。

 「あ……あー」

 司馬懿は李勝の顔をぼんやりとながめていたが、

 「どちらさまでしたかな……」

 と記憶がおぼつかないようすで訊いた。

 「父上、河南尹どのが、荊州に赴任されるともうしたではありませんか」

 司馬師がふるえる司馬懿に上着をかけてやりながら、子どもをさとすようにいった。

 「お、おお河南尹どのであったか……か、粥を……」

 司馬昭が侍女から粥を受け取り、司馬懿の手に腕をもたせる。そこに丁寧に粥を入れた。

 司馬懿は粥をすすろうとするが、手がふるえているので、口からこぼれ落ち、衣を濡らした。

 「いけませんな、父上」

 司馬昭が慣れた手つきで、司馬懿の衣にこぼれた粥を拭き取ってやる。

 李勝は衝撃を受け続けていた。

 (これがかつての英雄だった太傅のなれの果てか)

 死闘のすえ蜀の諸葛亮をしりぞけ、遼東の公孫淵を平定した颯爽たる司馬懿の姿はそこにはなかった。

 「陛下はまだ幼く、太傅の善導を必要とされておられるのに、まさかこれほどまでにおからだを悪くされておられるとは……」

 李勝はそういって、涙を流した。こういう芝居もできる男ではある。

 「か、河南尹どの、われは年老いて病にたおれ、命もさほど長くないと存ずる……あなたは幷州に赴任することになったとか。

 あそこは異民族と接しておるので……お気をつけなされよ」

 「太傅……私は荊州に赴任するのであって、幷州ではございません」

 司馬懿は魏の北部に位置する幷州と、都に接する荊州を聞き間違えているのである。

 「ふむ……幷州に到着なさったら、ご自愛なされよ。なにしろ寒い土地であるからの」

 「父上、河南尹どのは荊州に赴任なさるのです」

 司馬師が、司馬懿の耳元で大きな声を出して誤りをつたえた。

 「え、荊州……」

 「はい」

 司馬懿は落胆した面持ちで、

 「われは耄碌して、あなたのことばがわからなかった……河南尹どののお生まれになった土地への赴任ならば、故郷に錦をかざるようなもの。晴れがましいことですな。

 おそらくあなたとお会いできるのも今日が最後だとおもわれるが、なんとか心ばかりのもてなしをしたい。

 そして、わが子の師と昭と懇ろになっていただきたい。どうぞゆっくりしていってくだされよ」

 そういうと司馬懿は感に堪えないようすでむせび泣いた。李勝ももらい泣きし、

 「はい。仰せの通りにいたします」

 といった。そして病室を出たあと、李勝は司馬師と司馬昭の兄弟から歓待をうけた。

 「父の病状はごらんのとおりで……しかし父を訪問してくれる客は荊州どのをおいてほかにおらず、喜んで面会するといってくれました。

 あなたが荊州に赴任されるまえに、父は送別の宴を開きたいともうしておりますが……それは無理なような気がいたします」

 司馬師と司馬昭は宴の席でもつねに李勝にへりくだり、懇切丁寧であった。

 (大将軍は、司馬一族を警戒しすぎているのではないか)

 うわさでは司馬懿とその子である司馬兄弟は李勝らを「浮華の徒」とさげすみ、朝廷から排除すべしと主張しているというが、この歓待ぶりはどうであろう。

 (司馬懿が死ねば、司馬兄弟をはじめ、のこされた一族も枯死するのだから当然か)

 司馬兄弟に歓待された李勝は、その足で曹爽の邸宅にむかった。

 曹爽と何晏や鄧飄、畢軌も李勝の帰りを今か今かと待っている。

 「ずいぶん遅いですな……」

 「まさか、司馬兄弟にわれらのねらいを見抜かれてとどめられているのかも」

 鄧飄と畢軌が不安そうにいうと、

 「なに、こちらは親切心から見舞いに行ってやっておるのだ。なにを畏れることがある。

 そうですな、大将軍」

 何晏は、泰然自若としている。

 「そのとおりだが……」

 曹爽は小心者なので、そわそわしている。

 そこに李勝がかえってきた。

 「どうであった。太傅のようすは」

 地下室の入り口に曹爽や何晏らが殺到し、李勝をかこんだ。

 「まあまあ、まずなかに入れてくれ」

 李勝はようやく地下室の宴席に入れてもらうと、

 「よもや、よもやだ」

 と息をつかずにいった。曹爽が、

 「太傅に会うことはできたのか」

 と問うと、

 「いやはや、会うことができたどころか、手篤いもてなしをうけました」

 と李勝はこたえた。

 何晏らはがっかりしたようすで、

 「結局、太傅は病気ではなかったのか……」

 と嘆息すると、

 「いや、太傅が重病なのはたしかだった。

 われが荊州に赴任するということばを幷州と聞きまちがえるし、粥も口からこぼしてしまうありさまよ。はなすことばも妄言がまじっていたり、もはや太傅の命も長くはあるまいて」

 と詳細をはなした。曹爽をはじめ、何晏らのあいだに安堵がひろがった。

 「そうか……太傅はそんなに身体をわるくしておったか」

 曹爽は悲しむべきかよろこぶべきか、迷うような声をだした。根は善人なのである。

 「だが、これで司馬一族を警戒する必要はなくなった。大将軍は安泰じゃ」

 鄧飄がしんみりした空気をやぶって、陽気にはしゃいだ。

 「来年には、大将軍が天子になられるな」

 何晏が、わらって曹爽をもちあげる。

 「とはいえ、わが国の名将がいなくなれば、だれが蜀と呉をふせぐ」

 曹爽はなおも気がかりなようすで問う。

 「なんの。蜀には郭淮、呉には毌丘倹なり諸葛誕がおります。大将軍は安んじてわが身の春を謳歌されるとよろしい」

 畢軌のこたえは、まるで国防を人ごとのようにとらえている。

 「年が明けるのがたのしみよ」

 すべての懸念を払拭した曹爽も、満面の笑みでひとりごちた。

 一方の司馬家では、李勝を完全に騙しおおせた司馬懿が立ち上がって大きな伸びをしていた。

 「迫真の演技でございましたな」

 「ほんとうに父上が亡くなられるのではないかと、心配しました」

 司馬師と司馬昭の兄弟にも笑みがこぼれている。

 「なんじらがわらうには、まだはやすぎる」

 司馬懿は二人の子らをみて、こう諭した。

 「これからが、われらの生死を分ける道になる。しくじれば九族まで誅殺されるのだぞ。

 よいか、われらが起こすのは、義挙である。

 なぜなら、大将軍は明帝の遺言にそむき、国政を専断し、みだりに法をねじ曲げ、仲間内で僭越な行為をおこなっている。

 さらに宦官の張当をつかって神器を奪おうと企んでいる。これは簒奪行為に他ならず、かならずや阻止せねばならない。

 明帝と秦朗どのがおこなっていた清新な政治を、かならずや取り戻す」

 司馬師と司馬昭の目が炯々と焔をともしているようにみえたので、司馬懿はうなずいた。

 「秦朗どのと徐庶どのの策を実行されるのですね」

 司馬師がいうと、司馬懿は椅子に腰掛けて、

 「いかにも。まもなく年が改まると、陛下は高平陵(曹叡の墓)にむかわれる。大将軍一味もそれに随行するはずである」

 といった。

 「そこで、空になった宮城を一気に占拠する……」

 司馬昭が、緊張した面持ちでいった。

 「さよう。迅速さがもとめられる軍事行動になろう」

 司馬師が首をひねって、

 「陛下が宮城の外におられるからには、大将軍の息がかかった近衛兵たちをしたがわせる詔がないといけないわけですが……」

 と疑義を呈する。

 「永寧宮におられる郭太后に、秦朗どのがご協力を依頼してある」

 司馬懿のこたえに、兄弟は驚愕した。

 「そこまでのことを……」

 「さすがは秦朗どのと徐庶どのですね」

 郭太后は曹叡の皇后だったので、非常時には皇帝の代わりに命令を出すことができる。

 彼女は司馬懿を信用しているところ、曹爽に皇帝から引き離された恨みから、きっと司馬懿たちの曹爽打倒の要請には応じてくれるであろう。

 「われが畏れるのは、宮城に大将軍の弟の中領軍(曹羲)が残ることよ」

 「たしかに……」

 「中領軍だけはあなどりがたいですな」

 司馬兄弟も、ふだんの曹羲の人柄を想起して、警戒した。

 「そこは天に任せよう。他の弟たちならば、なんとでもしまつできる」

 司馬懿は覚悟を決めた。

 策戦は秦朗と徐庶から出たものとはいえ、実戦に関しては司馬一族のみでおこなうこととした。秘密の漏洩を防ぐためである。

 決して多くない兵力で政変の端緒を切るので、万全の準備ではない。そこを気魄ある一族のみであたるところに、司馬懿のすごみがある。

         ※

 「何晏が訪ねてきた、だと」

 年も改まる前、唐突に何晏が秦朗の邸を訪ねた。

 そのころ、別室で秦朗と徐庶は司馬懿の政変に関する地図を広げ、最後の検討を重ねていたところだった。

 「何晏ひとりですか」

 徐庶もさすがに密謀が漏れたかと、青ざめている。

 「はい、従者をお連れになっているだけで、おひとりです」

 秦朗の家令が告げると、秦朗と徐庶は、ほっと息をついた。

 「きづかれてはいないようです。徐庶どのはこの部屋でお待ちください。

 あやしまれるといけないので、私が接待にでます」

 秦朗は身なりをととのえて、何晏を宴会室に迎え入れた。

 「夜中にすまない、阿蘇」

 「ふいにどうなされた、尚書どの」

 「いや……こちらも阿蘇とよんでいるのだ。むかしのままの何晏でいい」

 気弱にみえた何晏の顔面から、秦朗は不吉な妖気がみえたようなきがした。

 「そうか。今宵は後宮ですごした、何晏と阿蘇にもどって酒でも呑もう」

 秦朗も、懇ろに何晏を宴会室に誘った。

 「ひさしぶりに、阿蘇の顔がみたくなってな」

 「みずくさい。なにごとか悩みでもあるのかい」

 何晏はおとなしく、秦朗の侍女がもってきた酒を呑みながら、つぶやいた。

 「権力の頂にのぼると、さびしいものさ。だれもがわれのことを浮華の徒とよぶ」

 「はは、われもなんじのように佞臣とよばれていたさ」

 秦朗は何晏が密謀を知ったわけではなく、むかしの友に愚痴をこぼしにきたと理解して安心した。

 「阿蘇と明帝は特別だった。明帝は賢く、なんじも心おきなく佞臣を演じることができた。だがわれはちがう。陛下も大将軍もとるにたりぬ人たちだ。たよりないものよ」

 秦朗は目をあげた。さすがは頭の切れる何晏である。秦朗が佞臣を演じ、曹叡を補佐していたことを見抜いていた。

 「よせよ。むかしのことさ」

 「大将軍が明帝の万分の一でもかしこいお方であればな……」

 「もしかして、宮中でうわさになっているというあれか」

 皇帝の曹芳が、曹爽に禅譲するといううわさである。何晏はうなずいた。

 (それはかなわぬ夢だが)

 秦朗は、心中でつぶやいた。それに無能な曹爽を皇帝にまつりあげて傀儡にした方が、何晏としてはやりやすかろう。

 「来年は、何晏が丞相だな」

 「そうなればよいのだが……」

 「なんだ。なんじらしくもない」

 「今日、ある客にいやなことをいわれてな」

 「ほう。なんじでもひとのことばをきにすることがあるのだな」

 秦朗が皮肉をいうと、何晏は困ったような表情で、秦朗にいった。

 「管輅という易者をしっているか」

 「ああ……巷で評判の」

 管輅は幼少のころから天文にくわしく、長ずるにつれ易、風角、人相見に通じるようになった。

 ひとのわからぬふしぎを何度もいいあてたので、天下に知られる易者となった。

 その日、十二月二十八日に、何晏は管輅を客としてよびよせ、

 「きくところ、あなたの占いは神わざであるという。わたしのために卦をたてていただけまいか。そうよな……将来三公の位につけるかどうか」

 と訊いた。

 三公とは大尉、司徒、司空で朝廷の最高位である。

 管輅はまず、何晏の顔をじっとみつめ、

 「ちかごろ、夢などはごらんになられませんか」

 と訊いた。はっとした何晏は、

 「そういえば、妙な夢を毎晩みる。数十匹の青蠅が鼻にたかるので、追い払おうとするのだが、いっこうに逃げぬ」

 とおもいだして管輅に伝えた。管輅は容貌こそ醜いが、心が直情なのでいやな雰囲気をだしていない。

 「梟はいやしい鳥として知られていますが、林の桑の実を食べると、その林の持ち主のために美しい声で鳴くといいます。

 わたしもあなたさまのために、まことを申し上げましょう」

 と前置きした上で、

 「いま、あなたさまは位が山のように高く、勢いは雷のようです。しかしあなたさまの徳になつくものはすくなく、その威をおそれるものばかりです。つまり多くの福を得る仁ではないということです。

 鼻はいわば天中の山であり、それが高くてもあやうくないのが長く尊貴をたもつ相です。

 しかし、そこに蠅がたかるのは最悪です。高位にあるものは転落し、他人をあなどるものは滅びるでしょう」

 と卦を立てた。その場に同席していた鄧飄が、

 「なんだ、老人がいう説教のようなものではないか」

 と何晏をかばった。何晏は、

 「三公の位にはつけぬ、ともうしておるのか」

 と険のあることばを管輅になげつけた。

 「なに、おのれの欲をへらし、他人に礼をつくせば、夢の蠅などすぐに追い払えます。三公の位にも昇れるでしょう」

 管輅は、そうわかりやすく説いた。

 しかし何晏は不機嫌になり、

 「そうですか、また来年お会いしよう」

 と、管輅を追い出すように帰した。

 「とまあ、このようなことをいわれたのだがな……ん、阿蘇よ、顔色が悪いのではないか」

 秦朗は管輅の占いのすごみに、しらず顔色をうしなっていた。

 管輅は、年明け早々に何晏が転落することを予言したのである。と同時にそれは、司馬懿と秦朗らの政変が成功することの予言でもあった。

 「あ、いや酒などひさしぶりなもので、なんじのはなしをきいていて酔ったのであろう」

 「そうか。阿蘇は管輅の占いをどうおもう」

 「そうだな……身をつつしめば福がくるというのは、ふつうよくある道徳論のようにもおもえるがね」

 何晏は機嫌をなおして、

 「そうよな。殷の時代でもあるまいし、占いで為政者がものごとをきめるなど、ありえぬ」

 とふたたび杯を空けた。

 (われはいま、何晏にとどめを刺したのかもしれぬ)

 秦朗は机の下で、両足がふるえるのをとめることができなかった。

         ※

 年が明けて、正始十年(二四九)の正月になった。

 曹爽も年末に、何晏とおなじようにふしぎな夢をみていた。

 二匹の虎が、雷神をくわえている。そして、雷神は曹爽の庭にたたきつけられる、という内容である。

 「この夢は、なんぞや」

 曹爽も何晏のように、占いにすぐれている霊台丞の馬訓に、その夢を占わせた。

 「兵を憂う、という卦がでています」

 「兵を……」

 つまり戦がおこる、ということか。呉も蜀も兵をうごかしていない今、なにに怯える必要があるのか。

 「占いなぞ、あてにはならぬな」

 曹爽も何晏と同様に、卦を無視した。

 しかし馬訓は家に帰って妻に、

 「十日もたたぬうちに、大将軍は政変で滅びるだろう」

 と詳細をつげた。曹爽と何晏は傲慢ゆえ、滅亡のしらせを活かすことができなかった。

 甲午の日、曹爽は予定どおり、皇帝曹芳をのせた車駕をまもりながら、洛陽城を出た。

 前日、弟の曹羲が、

 「私だけでも、城に残った方がよいのではないでしょうか」

 と何度も曹爽に提案したが、

 「しつこい。なにを畏れておるのか。平和な新年ぞ。中護軍(司馬師)が宮城を守ってくれている。なんじも加われ」

 と相手にしなかった。

 まさか、その司馬師が自分を裏切るとは、曹爽は思いもしなかったであろう。

 「大将軍と中領軍(曹羲)らが、そろって城を出ました」

 司馬師は自邸で待機している司馬懿と司馬昭に急使を遣わせた。

 「父上」

 「うむ。われらに天は味方したぞ」

 司馬懿と司馬昭は兵を率いて、疾風のはやさで宮殿にむかう。

 「あの兵は……」

 「太傅ではないのか」

 鎧をつけた司馬懿をみて、群臣は驚愕した。

 司馬師も合流し、三人がむかうのは永寧宮である。

 「おまちしておりました、太傅」

 郭太后が立ち上がって、感に堪えない表情で司馬懿を迎えた。

 「おまたせいたしました」

 そういって司馬懿は上表文を、郭太后にわたした。

 司馬懿の堂々とした雰囲気を感じ取った郭太后は、

 「中身はすでに秦朗どのに知らされています。時をいそぎなされ。私は天子のためにできることをいたします」

 と政変が成功することを確信したようにいった。司馬懿はやわらかな笑みをむけて、

 「おそれいります。では、大将軍と弟の中領軍(曹羲)らの兵権を剥奪し、諸侯の身分に戻して自邸に謹慎するようお命じください。

 大将軍と中領軍が天子をひきとめるようなことをすれば、軍法によって処罰するとも」

 と願い出た。

 「よろしい。そういたしましょう。

 太傅のお元気な姿をみて、安心いたしました」

 曹芳がいないとき、緊急の場合は、皇太后の詔が有効となる。

 「私も歳をとりました。こたびは陛下への最後のご奉公と思い、腰を上げた次第です」

 そういうが、司馬懿の貌は精悍そのものである。

 司馬懿と子の司馬兄弟は、兵を率いて洛陽城にあるそれぞれの宮門をおさえた。

 「これから、武器庫を占拠する。しかし曹爽の邸がとなりにあるので、残った兵たちが抵抗するやもしれぬ」

 司馬懿が警戒すると、

 「われらが先んじて武器庫をおさえてきます」

 と司馬師と司馬昭が兵を先行させてはしった。曹爽邸は、大混乱におちいっていた。

 「いまから打って出て太傅と戦おう」

 「だめだ。天下のことはまだわからぬ」

 結局なすすべなく曹爽邸の守備兵たちは、司馬懿たちに武器庫を占拠された。

 「さて、城外で布陣するぞ」

 司馬懿は城を出て、洛水のほとりで陣をしいた。そのとき司馬昭が、

 「大司農の桓範が、城を出て曹爽のもとにはしったようです」

 としらせをもってきた。

 桓範は頭脳に冴えをもつ賢臣である。司馬懿と悪い関係ではないが、天子をおさえている曹爽が、司馬懿に勝つとみた。

 「ほおっておけ。曹爽に桓範の知能を活用する度胸はない」

 司馬懿は、前をむいたままいった。

 一方、桓範は司馬懿の謀反を報せるべく、南へひた走った。やがて曹爽たちと遭遇した桓範は、

 「一大事です。太傅の叛逆です。洛陽城の門はすべて太傅の兵におさえられ、大将軍は城に入れませんぞ」

 と急を告げた。

 「なんだと……」

 曹爽は、天地が色を失ったようにかんじた。

 司馬懿は病で死ぬはずではなかったのか。

 「やはり、あやつらめ……」

 曹羲は歯ぎしりして悔しがった。だが、天子を擁しているのは曹爽である。まだ、負けたわけではない。


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