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司馬兄弟  作者: コルシカ
1/13

頽廃

         一


 魏の景初三年(二三九)、明帝曹叡が崩御した。蜀の丞相諸葛亮の度重なる侵攻をしりぞけ、呉の北進もはねかえしたうえ、独立政権だった遼東の公孫淵を滅ぼし領土を拡張した曹叡は、まぎれもなく名君であった。

 曹叡が後継としたのは、当時七歳だった斉王の曹芳だった。幼帝といえるので、補弼の臣を二人選んだ。

 武衛将軍の曹爽と大尉の司馬懿である。

 やがて大将軍に昇進した曹爽は、なにごとも司馬懿に忌憚しながら政治を行うのを是とせず、司馬懿を太傅に昇進させ、政権中枢から遠ざけた。

 太傅は天子の善導役で、いわば名誉職であり、軍の最高司令官だった大尉より上の地位であるものの、その権限は著しくすくない。

 曹爽は曹叡崩御のどさくさで、運良く補弼の臣に選ばれただけで、善人ではあるものの無能である。

 無能の権力者には佞臣が群がるのは世の常で、何晏(尚書)・鄧飄(尚書)・李勝(河南尹)・丁謐(尚書)・畢軌(司隷校尉)といった浮かれた態度のうわべを華やかにかざった者たちが次々と抜擢された。

 彼らは「浮華の徒」とうわさされている。

 曹叡の時代は、うわついた風潮を取り締まることがあったように、何晏たちは政権からことごとく排除されていた。

 曹爽は軽薄であるが能力があると思える彼らを要職につけることで、独自色を出したかったのと同時に、己も瀟洒な生活にふけった。

 一方の太傅にまつりあげられた司馬懿は、曹爽とは反対に、謹直を絵に描いたような人物だった。

 むろん、彼の子たちもその薫陶を受けてうわついたところは一切ない。

 長男は司馬師(字は子元)、三十一歳。

 次男は司馬昭(字は子尚)、二十八歳。

 司馬師だけは司馬懿の嗣子なので、散騎常侍に任じられている。

 「父上のごようすはどうだ」

 「ふだんとお変わりないように見えます」

 二人の兄弟は、もと驍騎将軍だった秦朗の邸宅から戻ってきた司馬懿のようすを案じた。

 秦朗は後宮で曹叡とともに育ち、曹叡が即位してからは、帝の佞臣となった。

 いや、佞臣を演じたといっていい。

 潔癖で検断癖がある曹叡の陰の部分を、秦朗が果たしていた。

 秦朗は、いつも曹叡と時間を過ごし、過分の地位や財産をうらやむ群臣は多かった。

 しかし、それは二人が示し合わせておこなっていたことだった。

 曹叡は曹丕の実子ではない。母の甄皇后が前夫の袁煕との間にできた子である。

 それでも曹丕は崩御する際、英邁な曹叡を後継にした。それは曹氏一族に関係なく、すぐれた者が王朝を運営して清新な政治をおこなうよう意思を示したといっていい。

 曹叡の親友の秦朗も曹操の継子である。

 母の杜氏が曹操の妾となったので、後宮で育てられた。曹叡と秦朗が親交を深めたのは、後宮で幼少時代をともに過ごした頃に遡る。

 司馬懿がいつ曹叡と秦朗の政治に参与しはじめたかを、はっきりと司馬師と司馬昭は知らない。

 曹氏という皇族にとらわれず、能力主義で臣下を抜擢して適材適所に置き、彼らに活躍してもらう。ひとことでいって曹叡の政治とはそれであった。

 今の曹爽がおこなっている政治とは、真逆といっていい。

 「明帝の時代はよかったな」

 「そうですね。よいものを積み上げるには時間がかかりますが、その信用をなくし、腐敗させるのはすぐだということでしょう」

 そこに司馬懿が二人をよんでいる、と家令が伝えてきた。

 兄弟が父の部屋に入ると、司馬懿は意外におだやかな表情をしていた。

 「さきほど、秦朗どのと徐庶どのに会ってきた」

 「え、徐庶どのはたしか……」

 「お亡くなりになったときいていますが」

 徐庶は御史中丞という職で、曹叡と秦朗の政権内で蜀と魏の二重間諜として働いていた。

 亡くなった蜀の丞相の諸葛亮とは、若い頃学友だったので、直接書簡のやりとりもしていたらしい。

 曹叡死後、蜀の間諜組織から命を狙われるようになり、職を辞め病気で死んだとして、秦朗の邸宅がある敷地内に匿われているという。

 「そういうことで、明帝時代の政権で中枢だった二人は、われに助言してくれることになった」

 司馬懿の安堵した表情は、それに起因していたことに兄弟は納得した。

 「秦朗どのと徐庶どののご助力があれば、大将軍のとりまきの浮華の徒らなど、恐るるに足りませんね」

 司馬師も、胸をなで下ろす。

 秦朗は若い頃から曹操に認められ、曹叡をたのむとまでいわれた才覚があり、徐庶は諸葛亮が劉備に仕えるまで、軍師をしていた前歴がある。

 「お二人は、父上の現状をいかがおっしゃっておられましたか」

 司馬昭が訊く。

 「うむ。天命にしたがって、しばらくは雌伏すべしとのことだった」

 「天命……」

 「われは六十を過ぎた。大将軍たちの政治が弛緩し、民心が離れるまで生きていられるかわからぬ」

 司馬懿は二人の子を見やって、

 「天が明帝の志を意気に感じるならば、われは雌伏のときを経て、大将軍たちを一網打尽にできるであろう。

 だが、われにその時が与えられぬとすれば……なんじらが、その役割を果たせ」

 といった。

 「父上……」

 「おことば、たしかにうけたまわりました」

 司馬師と司馬昭は、襟を正してこたえた。

 「また、明帝はお亡くなりになる前に、われにこうおっしゃった。

 『幼帝にその能力がなきときは、なんじがとってかわれ』と」

 司馬師と司馬昭は仰天した。

 「それは……たしか蜀の劉備が諸葛亮にいったことばと……」

 「同じでございますね」

 司馬懿はうなずいて、いった。

 「うむ。われらはかつて諸葛亮と戦った。彼は自ら帝位をのぞまなかった。

 なぜか。そこまでの覚悟がなかったからだ。

 自らの復讐にとらわれて、名臣の誉れをほっしたがゆえにその葛藤で病に斃れた。

 国家や臣民は、私物ではない。天が有徳のものにあたえた公のものである。ゆえに文帝(曹丕)は逆臣の汚名もおそれず漢から国を譲られることを是としたのだ」

 曹丕は曹操に冷遇されていた司馬懿を、心から信頼してくれた人である。その死にあたって曹叡を司馬懿に託したことからも、それは明らかであった。

 「なんじらは、文帝と明帝に後事を託されたわれの子だ。

 畏れるな。天罰があるのなら、われが受けてやろう。この国に心身をささげる覚悟をもてよ」

 司馬懿の目には涙が浮かんでいた。司馬師と司馬昭は、ふだん表情をださない父のその表情に感動した。

 「父上に、天が寿命をお与えにならなかったときは、われらが大事をなします」

 司馬師がこたえた。司馬昭は、

 「ここまでのご信託をいただき、それにおこたえしないことがありましょうや」

 と涙をこらえていった。

 曹叡と秦朗が願っていたことが、ここに司馬懿をつうじて次世代の司馬兄弟に継承された。

 すなわち曹爽一派からの、ひいては無能な皇帝からの、権力を簒奪することである。

         ※

 一方の曹爽と浮華の徒たちは、なにをしていたか。

 贅沢のかぎりを尽くす生活を謳歌していた。

 筆頭は大将軍の曹爽である。

 司馬懿が政治に直接口を出せないのをいいことに、飲食物、乗り物、衣服は天子の曹芳とかわりないものを用意させた。

 天子の御物を造るところを尚方というが、曹爽の邸宅にはそこで造られたものであふれていた。

 妾ももとから曹爽は多数抱えていたのに加え、明帝曹叡のもとにいた妾や女官を奪い、後宮に入れた。

 楽官と鼓の名手と良家の子女三十三人を自邸に入れ、舞楽を演奏し舞わせた。

 このような傍若無人なことがなぜできたかというと、何晏、鄧飄、丁謐が偽の詔をつくらせたからである。

 実際の詔を書いたのは劉放と孫資である。

 二人は曹芳の補弼を、曹爽と司馬懿に誘導するように瀕死の曹叡を仕向けた中書である。

 (明帝はこのような詔をいちども書かせなかった)

 と情けなく思ったが、曹爽は劉放と孫資の地位を保全してくれた恩人なのである。

 悪の巣窟は、曹爽邸の地下室であった。

 人目をはばかるような華美な宴会をひらくために、曹爽は贅をつくした広い部屋を地下につくらせた。

 「ここなら朝まで呑んで騒いでもだれにも知られまいぞ」

 そううそぶいた曹爽は、何晏ら浮華の徒たちをたびたびこの地下室に招き、大宴会をひらいた。

 「愉快じゃの」

 鄧飄が、赤ら顔で笑った。

 「そうじゃ。われらは明帝と阿蘇がこそこそしていたことに倣っておるだけのこと」

 阿蘇とは、秦朗の幼名のことである。「蘇ちゃん」というほどの意味だが、曹叡はつねに親友の秦朗を阿蘇とよんでいた。

 むろん華美な風潮をきらう曹叡が、地下室などで大宴会をすることなどは、いちどもなかった。曹叡が熱中したのは巨大建築物の造営である。

 「ともかく、だ」

 何晏が酒を飲み干して、杯を机に置いた。

 「明帝と阿蘇が地味な政治をしていたことで、わが国の威勢は滞っている。

 蜀の諸葛亮が攻めてきたときも、太傅は虎を畏れるように陣にとじこもって戦おうとしなかった」

 「それよ。大将軍が元帥であれば、われらと策をめぐらし、諸葛亮など粉砕していたであろうな」

 丁謐が曹爽をちらりと見て、大言壮語をはいた。曹爽はうなずきながら、ここちよく浮華の徒たちの話を聞いている。

 「近いうちに蜀の尚書令の蔣琬は死ぬ。そうなれば、大将軍の兵にかなうものは蜀にはおらぬであろう。

 蜀を征伐して滅ぼせば、呉もおのずから降る」

 李勝が身を乗り出して、追従した。妄言だが、諸葛亮の後継者である蔣琬が重病であることはたしかな情報である。

 「大将軍が三国統一をなしうるということは……そのあかつきには昇るところまで昇っていただかねばならぬのう」

 畢軌が話をおとすところまでおとした。

 曹爽が曹芳から帝位を禅譲してもらう、ということだ。

 「まあまあ。先のことは先のこと。今を楽しまずしてなんとする」

 曹爽は、何晏らをたしなめるふりだけしてみせた。曹爽一派は実戦どころか、政治でもなんの成果もあげていない。

 宴は朝までつづき、何晏らを見送った曹爽が出会ったのは、弟の曹羲である。

 曹羲は中領軍に昇進していたが、兄と比べてうわついたところがなく、酒でむくんだ曹爽の顔を見て、露骨にいやな顔をした。

 「兄上、いやなにおいがしますぞ」

 「酒を嗜んでおったのだ。においくらい残ろうよ」

 「酒のにおいではありません。浮華の徒たちの腐臭がします」

 「失礼なことをいうな。かれらあってのわが家ぞ」

 曹羲は目をいからせて、

 「太傅を完全に追い落としたわけでもないのに、地下で酒を呑んでさわいでいる場合ではないということです」

 といった。

 「呉の朱然が樊城を包囲しました。太傅が出師すると息巻いておりまするぞ」

 「まことか……」

 呉の孫権が曹叡の死で魏の体制が弛緩したとみて、配下の全琮と諸葛恪に揚州を、朱然と諸葛謹を北上させ荊州を攻めさせているところであった。

 諸葛恪は諸葛謹の長男で、才気煥発の貴公子である。ところが諸葛謹はその軽佻さが気に食わず、家を傾けさせるとして嫌っている。

 「太傅がみずから兵を率いることはあるまい。朱然など老将であろう」

 朱然は孫権と同じ六十歳であるが、まだまだ意気軒昂である。

 「そういう問題ではございません。太傅は諸葛亮をしりぞけ、遼東を平定した実績があるのに対し、兄上にはなにがおありになりますか」

 曹羲のことばに贅言はない。

 「兄上が出陣なさるのです。太傅におくれをとってはなりません」

 樊城が落城することがあれば、荊州の襄陽郡を失うことになり、荊州の首都ともいえる南陽郡、ひいては首都洛陽が危機に陥る。

 顔色を失った曹爽は、入朝し群臣の意見をもとめた。

 みずから出陣してしまえば、ふたたび司馬懿が曹芳を補佐して信用を得てしまうかもしれないからだ。

 「樊城はかつて忠候(曹仁)が関羽から死守した城で、要衝の要です。ゆえにわれが軍を率いて救援にむかいたい」

 「呉軍は遠方から出てきて樊城を包囲しているので、糧食が尽きましょう。籠城するだけで事はたり、太傅がわざわざ救援にむかうというのは、大仰ではありませんか」

 丁謐のことばが終わらぬうちに、

 「諸葛謹が漢水を制している。兵糧は呉からいくらでも船で運びこめるのだぞ」

 司馬懿は一にらみした。丁謐は肩をすくめて発言をやめた。

 「国境が侵されて民は心が落ちつかぬ。国家の一大事に、なぜ廟堂から動こうとせぬか」

 司馬懿の発言には重みがある。

 曹羲は、兄の曹爽に自ら出陣してもらいたくて、曹爽の足を軽く踏んだが、曹爽は知らぬふりを決めこんだ。そのうえ、

 (なぜ他の将軍たちは、出陣するとはいわぬのか)

 と苛立ちをかくさずにいた。

 それもそうだろう。臣下で最上位の司馬懿が出師するといっているのに、それをおしのけて下位の将軍が発言することはできない。

 「わかりました。太傅に軍を出していただき、樊城を救っていただこう」

 曹爽は仕方なく司馬懿の出陣に賛成した。

 曹羲は内心舌打ちして、兄のふがいなさを嘆くしかなかった。

 十歳になった皇帝曹芳に見送られて、司馬懿が洛陽城の津陽門から出陣したのは、六月である。

 もちろん司馬師と司馬昭も従軍している。

 「朱然は猛将ではありますが、策をもちあわせていないでしょう」

 司馬師がいうと、司馬昭も、

 「それほど困難な戦にはならないとはおもいますが……」

 と兄に同調した。司馬懿はうなずいて、

 「この暑い中、朱然は樊城を包囲するのみで戦っておらぬ。まさかわれがみずから援軍にくるとは思っていなかったのであろうよ」

 と軽く笑った。

 (父上のねらいは、そこか)

 司馬師と司馬昭は、感心して司馬懿をみた。

 樊城を包囲する朱然の兵に、騎兵と歩兵で軽く攻撃を加えてみても、朱然はまったく動かない。やはり司馬懿みずから援軍にきたことに動揺し、うごけないのだ。

 「連日おどしをかけるだけで、朱然を去らせることができるかもな」

 司馬懿は、司馬師と司馬昭にわらっていった。

 「それは、いかなる……」

 「おことばどおりの意味ととってよろしいですか」

 困惑した兄弟に、司馬懿は、

 「むろん、そのままの意味だ」

 と気をひきしめていった。

 「これから決死隊を結成する。勇気のあるものは申し出るように」

 司馬懿のよびかけは、魏の兵に紛れ込んでいる間諜の耳にもはいった。

 間諜はどの軍にでもいるもので、特別ふしぎなことではない。

 司馬懿が決死隊を結成しているということは、いわゆる斬首作戦である。

 呉の間諜が朱然にそのことを報告すると、朱然は身の危険を感じ、落ち着かなくなった。

 実際に決死隊が結成されると、呉の間諜はまた朱然に報告する。朱然は眠れなくなり、自身が本営から他の営所に移った。

 総大将が本営を離れるという事態は、呉兵のあいだに不審をひろげた。こんどは魏の間諜が、

 「司馬懿は決死隊を募って大将(朱然)にむかって斬り込んでくるらしい」

 とうわさを流した。その日の魏の決死隊にうごきはなかった。

 「明日こそ決死隊を突入させる」

 司馬懿の宣言に、間諜から情報をきいた呉の兵たちはいっそう緊張を強めた。

 「今日は敵軍にゆるみが見えぬゆえ、明日突撃させよう」

 司馬懿のひとことに呉軍は震撼するようになった。結局司馬懿は翌日も決死隊の突撃を見送り、朱然は眠らずに朝をむかえた。

 呉の兵たちも連日厳戒態勢がつづくので、神経が過敏になってしまっており、とうとうその緊張が破裂するときがきた。

 夜中、大きな物音をきいた呉兵の一人が、

 「魏の斬り込みだぞ!」

 と大声をあげた。なんのことはない、大きな音は風の音であったのだが、集団心理のおそろしさで、呉兵たちには魏兵の突撃音にきこえたのだ。

 この声で陣営は大混乱となり、我先にと呉兵たちは逃げ出した。

 朱然も斬首作戦がはじまったと報告を受け、外に出てみると、営塁内が赤々と燃えているではないか。

 これは風の音におびえた呉兵が逃げ出したときに陣に火をかけたもので、朱然はすわ魏軍の火攻めかと仰天した。

 大将の退却により、全呉軍は我先にと崩れながら退却をはじめた。

 魏の本営で報告を受けた司馬懿は、

 「朱然は、われのおどしだけで樊城の包囲を解いて逃げ出したぞ。敵はもう恐るるに足らず。全軍で追撃をかけよ」

 と余裕をもった快活な声で命じた。

 司馬師と司馬昭もあわてて鎧をつけ、追撃軍に加わった。

 「父上は敵将の心理をもてあそび、兵をそこなわずに勝ちをおさめた」

 「熟練の指揮官とは、このようなものなのですね」

 魏軍は三州口という土地まで呉軍を猛烈に追い、船に乗り遅れた呉兵一万を斬り、あるいは捕虜とした。

 さらに営塁内に残された呉の軍資と船を接収し、文句のつけようのない大勝利をあげた。

 洛陽に凱旋した司馬懿の人気は、おおいに上がった。曹芳から増封をうけ、郾と臨頴という二県を与えられ、以前からもっている二県とあわせて四県を所有することになった。

 また以前は辞退した十一人の子弟がみな列侯に封じられた。

 「また、大将軍(曹爽)は大盤振る舞いですな」

 「みずからの気前の良さをみせつけたいのでしょう」

 司馬師と司馬昭は皮肉を司馬懿にいった。

 「ここが用心のしどころよ。富貴を手にして驕り高ぶれば、大将軍一派とおなじところまで墜ちる。

 時勢はかならず推移する。己を慎み、謹直であれば、わざわいはかならずさけることができる。司馬家はそういう家であることを肝に銘じよ」

 司馬懿は、さほどよろこびをみせずに謙虚でありつづけた。

 二年後、司馬懿は揚州に兵を出した諸葛恪を、みずから出征するだけで退却させた。

 孫権は朱然でさえかなわなかった司馬懿を警戒しており、諸葛恪を近侍する占い師の出した卦が不吉だという理由で撤兵させたのだった。

 司馬懿が洛陽に帰還したのは魏の正始五年(二四四)の正月である。

 ふたたび洛陽ちかくの沿道では、司馬懿を讃える群衆が歓声をあげて凱旋の将を迎えた。

         ※

 司馬懿の名声が高まるごとに、機嫌がわるくなってゆくのが曹爽の取り巻きである浮華の徒たちである。

 そのひとりである鄧飄は、

 「今は、呉よりも蜀のほうが与しやすい」

 といって、曹爽を訪ねた。

 「蜀の大司馬の蔣琬が、重病であることをご存じですか」

 鄧飄はそういって、曹爽の顔色をうかがった。

 「そうはきいている。また諸葛亮と違い、己は用兵の才能がないのを自覚しているのでもあろう」

 曹爽は鄧飄のいわんとしていることがわかった。蜀を曹爽自身が攻めろ、とそそのかしているのである。

 蔣琬はもはや国事をみることができず、尚書令であった費禕が大将軍に昇進し、代理をしている。

 諸葛亮は亡くなる前に、後継者を蔣琬、その後は費禕と遺言していたので、皇帝の劉禅はそれをまもったのであろう。

 鄧飄はいう。

 「いま蜀は蔣琬に劣る費禕が国政を握っており、わが国を攻めることは知っていても守ることはできないでしょう。

 蜀は人材が払底しており、大将軍の威風にひれ伏すほかありません。太傅に功をおゆずりなされるばかりが美徳ではありませんぞ」

 厳密にいえば蜀は守りも堅い。曹爽の父である曹真が生前蜀を攻めたことがあったが、険阻と大雨で得るところなく敗退した過去があった。しかし鄧飄にいわせればそのころには蜀に諸葛亮はいたが、今は諸葛亮に劣る費禕しかいないので、蜀の攻略は容易だということになる。

 「よし。蜀を攻め滅ぼしてくれようぞ」

 気が大きくなった曹爽は、弟の曹羲に蜀の現状を調査するように命じた。

 怪訝な顔をした曹羲は、

 「兄上、まさか蜀に攻め込むお考えなのですか」

 と不満を表明した。曹爽もこんどはだまってはいない。

 「なんじはしばしば外征に太傅ではなく、われ自身が出陣すべきだともうしておったではないか。なぜ、今は異を唱える」

 「呉が攻めてきた過去と、蜀に攻め込むこととはむずかしさが雲泥の差です」

 曹羲はそんな簡単なことがわからない兄に失望しつつ、説いた。

 「雍州は郭淮が固守して、情勢は安定しています。しかし兄上が蜀を攻めるとなりますと、西方の民や異民族を徴兵せねばならず、怨嗟の声があがるのは必定……また蜀は政治が腐敗しているわけでもないので、固守されれば父上(曹真)の轍をふむことになりはしませんか」

 「不吉なことをもうすな」

 「しかし……」

 「こたびはわれが率先して出師する。なんじは蜀の現状を調べればよい」

 不安げな曹羲に蜀の調査をたのむと同時に、曹爽は朝廷工作もはじめた。

 大将軍の曹爽を元帥に、蜀を征伐したほうがよい、という風聞を流したりもした。

 皇帝の曹芳は、蜀遠征の是非を群臣に問うた。まもなく賛成の声があちこちからあがった。

 司馬懿は曹真が蜀を攻めたとき、他方面から侵攻してその難易度は熟知している。さらに、今は二月であり、司馬懿が呉軍を南方で退却させてから一月しか経過していない。

 「今少し兵たちを休ませた方がよいのでは」

 司馬懿は曹爽と反対意見を述べた。戦費もかさんでおり、今蜀を攻める理由はないのではないか。

 議論は拮抗してきた。そこに曹爽へ思わぬ味方があらわれた。散騎常侍の夏侯玄である。

 夏侯玄は夏侯尚の息子で、曹一族でもある。

 「元候(曹真)が蜀を攻めたときは、秋の長雨に行路を妨げられました。ゆえに蜀を攻略するなら雨の少ないいまがよいでしょう」

 浮華の徒とちがい、夏侯玄は「楽毅論」を著すほどの軍事における才人である。曹一族でかつ名声をもつ彼のひとことで、議論は出征に大きく傾いた。

 「よろしい。大将軍の出師をみとめよう」

 議決の結果、蜀遠征の賛成が反対を上回り、曹芳はついに曹爽の出師をみとめた。

 「せっかく父上が国を富ませようとしても、無用の戦でまた国庫は空になる」

 司馬師は、苦々しげに司馬懿にいった。

 「浮華の徒たちを放置しているので、いつまでたってもわが国は正道にもどれません」

 司馬昭もため息をついて追従した。というのも、今回の遠征で司馬昭は夏侯玄の副将として軍に参加させられている。

 「決まったことだ……昭よ、なんじがつく征西将軍(夏侯玄)は無能ではない。危険は少ないと思うが、無理だけはするなよ」

 司馬懿は、諦観の境地にあった。

 曹爽は翌月、長安に駐留している兵力をあわせて七万という大軍で軍旅を催した。

 蜀の地は険阻で、戦闘は山岳戦になるはずで、十万未満の兵で充分だとふんだのである。

 曹爽の軍師は鄧飄である。

 長安において軍議がおこなわれ、どの道から漢中に攻め込むかが議題になった。

 ちなみに曹爽の父、曹真が蜀を攻めたときは長安から最も漢中に近い、子午道を通っている。

 「これまでためしたことのない道がひとつあります」

 鄧飄は得意げに地図を示して、

 「駱谷をとおるというのはいかがでしょう」

 と提案した。

 (ばかな)

 司馬昭は鄧飄の案をきいて仰天した。

 駱谷は漢中に到達するまで最も長い道で、曲がりくねっており、高山や嶺をいくつも越えなければならない。

 「尚書どの、元候(曹真)や太傅(司馬懿)が選ばなかった険阻な道をえらべば、危険が多く、兵も敵地につくまでに疲弊してしまうのではありませんか」

 司馬昭は、だれも声をあげないので、仕方なく鄧飄に諫言した。

 (昼行灯が、なにをいう)

 鄧飄は司馬昭を、得体の知れない司馬懿の次男としかみていない。あきれたようすの李勝が、

 「なんじがそうおもうくらいであるから、敵もそのようにおもっておるということだ。ゆえにこの策戦は成功する」

 とにべなく諫言をしりぞけた。

 司馬昭は、沈黙した。さらになんと司馬昭のついている征西将軍に任じられた夏侯玄までが、

 「駱谷以外の道で侵攻して、蜀を制することができなかったのだから、駱谷をゆくのは道理としては間違っていない」

 と賛成した。司馬昭は、

 (この策は征西将軍から出たものであったか)

 とあきれた。夏侯玄は、所詮学問だけで実戦には通用しなかった蜀の馬謖のともがらであったかと失望した。

 結局鄧飄の策戦案が採用され、魏軍は駱谷から漢中に侵攻した。

 しかし鄧飄が蜀軍の将兵をみくびっていたことは誤算である。

 さきほど司馬昭が思い出した馬謖の大敗を救った名将・王平が漢中の太守として魏軍を迎撃したからだ。

 王平は諸葛亮の第一次北伐で先鋒の馬謖の副将であった。街亭の戦いで兵法を誤用し張郃に粉砕された蜀軍を、秩序ある行動で救ったのが王平である。

 鎮北将軍に任じられた王平は、約十万の魏軍が駱谷から侵入してきたときいても、あわてることがなかった。

 すぐさま劉敏と杜祺という将軍を興勢山に向かわせ、みずからがふたりの援助にゆく手立てをこうじた。そうこうしているうちに、蜀から主力軍が到着するはずである。

 名将のもとには名将しかいない。

 劉敏は蔣琬の外弟で揚北将軍であるが、兵略にすぐれ、ただちに興勢山に着くとおびただしい旗を立て、大軍が配置されているようにみせかけた。

 この対応が、勝敗を決した。

 「興勢山に大軍あり」

 物見の兵が、曹爽の本陣に思わぬしらせをもたらした。

 「敵に察知されていたのか……」

 曹爽は出鼻をくじかれたので、落胆した。

 (蜀軍は、このように大軍を前線に配置できるのかな)

 司馬昭は首をかしげた。夏侯玄にいちど軍をあててみてはどうかと進言した。

 ところが夏侯玄はじめ、曹爽の近臣にはだれも実戦経験がない。

 「ほそい道で敵は地理を把握している。そこに軽々しく軍をすすめるものか」

 夏侯玄は弱腰の発言を返した。

 「ほかの進路をさがす」

 曹爽は、少数の敵兵しかいない興勢山を制する機会を失った。

 なんといっても、地の利は蜀軍にある。

 興勢山から魏軍が迂回しそうな道には、どの道も王平によって蜀兵が配置されていた。

 「どの道も蜀兵に占拠されています」

 「王平と劉敏、杜祺の軍に撃退されました」

 本営の曹爽に悲痛な情報が、随時とどけられた。

 「こんなはずでは……」

 曹爽は鄧飄と李勝に視線をうつすと、ふたりともうつむいている。

 魏軍はなすすべなく、興勢山の前で滞陣をつづけた。

 ついに三月、漢中から大将軍の費禕が主力を率いて出発。到着後、前に進めない魏軍を尻目に、その退路を断つべく兵を動かしはじめた。

 (こまったことになったぞ)

 司馬昭が夏侯玄に会いに行くと、夏侯玄から書簡をわたされた。

 「太傅からの助言だ」

 司馬懿がわが子を案じ、主将の夏侯玄に書簡を送っていたのだ。その内容は、

 「武帝(曹操)は二度も漢中に出師したが、そのつど大敗しそうになったことは、征西将軍もご存じでしょう。興勢山以西の道は険阻を増すばかりで、それらを蜀兵が占拠しているとなると、退路を断たれるのも時間の問題です。そうなれば軍は全滅を免れず、早期に撤退するしか手はありません」

 とある。司馬昭はため息をついた。

 「たしかに、太傅のおっしゃるとおりかとぞんじます」

 「うむ。この遠征は失敗だ。われから大将軍に撤退を進言してくる」

 夏侯玄は兵法に明るいだけあって、現状把握能力はあった。

 「撤退とは、なにごとか。まだ負けたわけでもなかろうに」

 鄧飄は顔を真っ赤にして抗議した。

 「負ける前だから撤退するというのだ。兵站も機能していないではないか」

 夏侯玄も、負けてはいない。

 「物資が多すぎて、牛と馬、驢馬が死んでいる。どのような兵站の算段をしていたのだ。糧食が干上がれば、兵たちがさわぎだすぞ」

 「興勢山をこえれば、輜重など山ほどある。

 要は勝てばいいのだ」

 「ほう。では、その勝ち方とやらをお教えねがおうか」

 (不毛な議論だな……)

 司馬昭は、なすすべのないわが身を嘆いた。

 「大将軍、いま撤兵すれば、被害が少なくてすみます」

 らちがあかぬとみた夏侯玄は、元帥の曹爽に直訴した。曹爽は鄧飄と李勝におだてあげられているので、

 「征西将軍がこのような弱気なお方とは、ゆめおもわなかった」

 と侮蔑したような返事をした。

 「費禕がわが軍の退路を断とうとしているのですぞ。もういい、わが軍だけでも陛下の兵を撤兵させる」

 夏侯玄は、司馬昭をつれて本営を出ていった。

 「よろしいのですか」

 司馬昭が夏侯玄に訊くと、

 「どうせ全軍撤退の憂き目にあう。われが退却の先導をつとめるだけだ」

 夏侯玄は目をいからせていった。

 はたして夏侯玄が退路をひらくと、一斉に蜀軍が三方から魏軍を包囲殲滅しはじめた。

 費禕は、わざと魏軍が死にものぐるいの反撃をしないように、退路をひとつあけておいたのである。

 「ど、どうする」

 うろたえた曹爽は鄧飄に訊く。

 「どうする、といわれましても……」

 「ええい、退却だ。退却にかかれい」

 鄧飄のかわりに李勝が撤退命令をくだした。

 そこからは阿鼻叫喚である。

 牛馬を失った魏軍は撤退にも手間取り、あっというまに蜀軍に追いつかれた。

 数万の兵が撤退戦で討ち死にし、曹爽の本隊は壊滅状態となった。大敗である。

 見るも無惨な状態で漢中からたたき出された曹爽は、慚愧にまみれて洛陽に帰還した。

 皇帝の曹芳はねんごろに曹爽をねぎらったが、群臣と民の態度は冷ややかであった。

 「大将軍は戦が下手すぎはしまいか」

 「やはり、あのとき太傅(司馬懿)のいうとおり、蜀に出兵などすべきではなかったのだ」

 なにもせずして司馬懿の評価は上がったのを見て、曹爽は無念の臍をかむ思いであった。


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