〇序章
「よいかシェン。この技は、人前で使ってはならん」
「なんで? 強くてカッコイイのに」
「今はそう思うかもしれん。しかし、この技は呪われておる。多用すれば必ずお前を不幸にしてしまう」
「えー……」
この物語の世界の主成分は、カンフーでできている。大抵の事はカンフーで解決するし、問題ごとの多くもカンフーだ。
そしてここは、タイランと呼ばれる山の頂上付近の、小さな家。かつては老人が一人で隠れ住んでいたが、今は一人の少年と共に暮らしている。
「さて、ワシはまた街へと降りて、竹細工を売りに行く。2、3日、留守番を頼むぞ」
「俺も街へ行きたい!」
「ダメダメ、遊びに行くわけじゃないんだから」
「そんな事言って、じいちゃんは酒飲んで帰ってくるじゃないか!」
「うっ、なぜそれを……と、とにかくダメなものはダメじゃい!」
「俺もう12歳だぞー? いつになったら連れてってくれるんだよぉ!」
「むう……ならば、そう……あの岩! あの岩を素手で割る事が出来るようになったら、連れて行ってやろう」
「えー!? あんなでっかい岩を?」
「それができれば、途中で山賊に襲われてもワシが守ってやる必要もなくなるし、街で何があっても自分で解決できよう。まあつまり、それだけ外は危険という事でな」
「むうう」
「ああ、それと留守番中はちゃんと、勉強もするんだぞ」
「分かったよぅ……」
と、こんな毎日である。
実のところ、二人に血の繋がりはない。少年は孤児であり、老人はそれを引き取っただけ。
しかし老人にとってこの少年は最早、本当の孫同然の存在であり、少年もまた、老人を本当の祖父、もしくは父親同然と思っている。
そして老人は、少年に生きていく為の術を教えるのと同時に、とあるカンフーの技も教えていた。老人が、己の半生を懸けて磨き上げてきた奥義を、である。
「はああ……せいやぁ!」
老人が出かけた後、少年が、先程老人に指定された岩を殴る。
しかし、岩はびくともしない。何せ相手は岩。それも、少年の背丈ほどの大きさがあるのだ。これを素手で割ろうなんて、無謀というものだろう。
少年は、岩を殴った事で痛めた拳をさすりながら、涙目で岩を睨む。
だが、まだ諦めてはいない。先程も言ったが、少年は老人から奥義を教わっているのだ。それを使えば、もしかしたらと……
とは言え、まだまだ彼は未熟。老人が長い時間をかけて培ってきた技を、そう簡単に使いこなせるわけもないのだが……それでも、少年は試さずにはいられなかった。
「ま、ここなら誰も見てないし、いいよな」
少年は再び、岩に向かって構える。そして思い出す、老人の教えを。
それは、あらゆる可能性を実現し、あらゆる困難を打破する、究極の奥義。
「はああ……」
しかし、老人曰く、呪われた技。決して、人前で使ってはならない秘拳。
果たして、その技とは……
「せーのっ――」
◆11年後
タイラン山一帯に、一瞬、鈍い振動が伝わる。
周囲の木々から鳥が一斉に飛び立ち、普段は静かな山に、ほんのひと時の喧騒が訪れる。
そしてその直後に、大きな岩が……かつての少年が割れなかったものより、何倍も大きな岩が、砕け散る。
その前に立つのは、すっかり大人になった少年……シェンである。11年の歳月の中で、老人に教わった技は完成に近づき、今ではこのような巨岩でさえも素手で砕けるようになっていた。
しかし……その傍らに、最早あの老人はいない。
「じいちゃん、墓参りに来れるのも、これで最後かもしれない」
そう、これはシェンなりの墓参りなのである。
実は老人はあの一年後、亡くなった。秘拳を極めし者と言えど、寄る年波には勝てなかったのである。
その後シェンは、己の食い扶持を稼ぐ為に麓の街で、普通に働き始めた。荷運びや飯店の下働きなど、やれることは何でもやった。
だがその一方で、修行も怠らなかった。その甲斐あって、今ではこのように、岩を割るなど造作もない事となっていた。
そしてシェンは毎年この日、老人の命日にここにやってきては、老人への墓参りとして岩を割っていた。己の修行の成果を見せるように。
しかし、シェンもこの歳になると、老人がかつて言っていた事が分かるようになっていた。あの技が、呪われている理由が。
そしてその結果、この地を離れる必要が生じた。その呪いは、様々な意味で彼を追い詰めつつあったからだ。
「……ん」
と、その時、シェンが何者かの足音に気付く。それも、複数人のものだ。
そう、これもまた、あの奥義が招いた呪いの一つである。
「その服……お前が、コウの後継者か」
「ようやく見つけたぞ。全く、手間を掛けさせる」
のっけから高圧的な態度の男達の声に、シェンはため息交じりに振り返る。するとそこにいたのは、そろいの胴着を着た、四人の男であった。
ちなみに彼らが言う、コウとは、シェンの育ての親の、あの老人の名である。
そして今シェンが着ている服は、コウが若かりし頃に着ていた黒のカンフーローブで、かつての二人の慎ましやかな生活には不釣り合いなほどの、上物の生地で出来ている。
なので、シェンも普段は大事にしまっており、コウの墓参りの時しか着用していない。しかしどうやら、その服こそが証拠となってしまい、最早言い逃れはできないようだ。
「あんたらも、俺から技を教わりたいっての? それならさぁ、もう少しこう、頼み方ってもんがあるんじゃないか?」
「貴様なぞに教わらなくとも、秘伝書を手に入れればよいだけの事」
「命が惜しくば、大人しく秘伝書を差し出すのだ」
「だからさぁ、そんなもん無いんだっての」
どうやら彼らは、シェンがコウから奥義の秘伝書を授かっていると思っているようで、それを奪いに来たらしい。
しかし……しかし実のところ、シェンの言う通り、そんなものは存在しない。シェンはコウから直接奥義を教わっており、コウ自身、奥義をなるべく隠したいと考えていたので、記録に残すような事はしていなかったのである。
だが、今この場にいる彼らのように、シェンがコウから秘伝書のようなものを授かっていると思い込む輩は多く、シェンは時折、そのような連中に絡まれる事があった。
「口伝だけでコウの技を受け継ぐなど不可能。それができるなら、我らとて今頃はカンフーマスターだ」
「秘伝書がないとしても、何か別の形で、貴様に力を与えているものがあるはず。素直に渡せば、痛い目を見ずに済むぞ」
「そんな事言ってもさぁ」
「……そうか、その服だな?」
「なるほど、その服に何か秘密があるに違いない。それを寄越せ!」
「おいおい、何だよ、今度は服を脱げってか? 変態かあんたら」
「おのれ、飽くまでシラを切るか! ならば、力づくで奪うまで!」
と、終始飄々とした態度のシェンに、痺れを切らした男の一人が殴りかかって来た。
そしてそれに追随するように、他の男達も一斉にシェンに飛びかかった。
だが――
「ササッ……と」
「ほわたぁ!」
「サッ! サッ!」
「ちぇえぃ!」
「サッ、サッ、ササーッ」
「おのれ、ちょこまかと!」
今回の相手は全員が、それなりのカンフー使いのようだ。
しかし、シェンは彼らの攻撃を巧みにかわす。回避の、擬音まで口ずさみながら。
そしてその態度がますます、彼らの頭に血を昇らせる。
「逃げてばかりか、若造! 貴様のような臆病者には、コウの技はもったいない。我らのように、熟練のカンフー使いが極めてこそ、コウも浮かばれるというものだ!」
「そういう事はさぁ、一発でも俺に当ててから言うもんじゃないの?」
「黙れぇ!」
「シュババ~!」
シェンは相変わらず擬音を口ずさみながら、今度は素早く男達から離れる。
しかし、勘の良い読者ならば既にお気づきの事だろう。シェンは別に、ふざけて擬音を口に出しているわけではない。これが、必要なのだ。
「仕方ないなあ、そんなにこの奥義を学びたいなら、見せてやるよ」
そう言って、シェンは男達に向かって構える。
その構えは、まるで……波動で出来た球体を放出する前のタメのような、もしくは、野菜みたいな名前の宇宙人の得意技みたいな、とにかく、そういう構えであった。
一方、その構えを見た男達は少しばかり慄く。まさか、と思いつつも、もしや、と。
「ギュウウゥン……ンゴゴゴゴゴ!」
そして、やはり擬音を口に出すシェン。大の大人がやるには最早、滑稽ですらあるが……しかしその擬音はまさに、その場の状況を見事に表現していた。
具体的には、『ギュウウン』の部分でシェンの両手の間に何やら光のエネルギーらしきものが集まり始め、それに伴い、周囲にちょっとした地鳴りのようなものまで発生させており、それが『ンゴゴゴ』の部分となっている。
「ば、ばかな、まさか!」
「一流の気功使いでも、ここまでの力は!」
目の前の現象が信じられず、男達は最早戦意を喪失してしまっている。
だが、シェンの奥義は無慈悲にも、そんな彼らに向けて放たれた。
「ズバッシャオオオォン!!」
「あいやー!?」
これまた一段とふざけた擬音ではあるが、しかしその擬音が示す通りの、巨大なエネルギー弾がシェンの両手から撃ちだされた。
それは、まさに力の奔流。その強大な圧力の前に、男達は成す術なく弾き飛ばされてしまうのだった。
「う、う……恐るべし……擬音、拳……」
男達は四方に倒れ、辛うじて意識が残っていた一人も今、気を失った。戦いは完全に、シェンの勝利である。
しかし、シェンの表情は浮かない。それどころか、シェンは何らかの恥ずかしさに、思わず自身の顔を両手で覆ってしまう。
「なんだよ、ズバッシャオオンって……あ~あ、もう……」
そしてシェンは倒れた男達を余所に、一人、その場を立ち去っていく。ぶつぶつと、己の発した擬音に後悔するような愚痴をこぼしながら。
そう……彼が受けついだ奥義とは、いわゆるオノマトペを口に出す事で力を得るという、なんとも恥ずかしい技なのである。
その名も、擬音拳。シェンの師であり、育ての親であるコウ=カオンがあみ出した、あらゆる可能性を実現し、あらゆる困難を打破する、究極の奥義……
しかし、子供の内ならともかく、いい歳をした大人がオノマトペを口に出しながら戦う様は、周囲から白い目で見られる可能性が非常に高い。
故に、コウは晩年を人里離れたこの地で過ごし、唯一の弟子であるシェンに対しても、人前での使用を禁じた。
だが、コウが亡くなったばかりの頃のシェンはまだ若く、この奥義の負の側面をちゃんと理解できていなかった。故に、その後の数年で、悪い意味で噂を広めてしまった。
そして遂には、この地を離れる事を余儀なくされた。と言うより、居場所がなくなってしまったのだ。とても強いが、とても痛い奴として有名になってしまったから。
しかし見ての通り、この奥義は強さを求める者達を惹きつけてしまう。
果たして、シェンに安息の日々は訪れるのだろうか……