07.第二章一話
聖女の仕事はいくつもあるが、特に重要なのは皇都の結界の強化、魔物の討伐と瘴気の浄化、そして聖水作りだ。神聖力が必要な場面はあまりにも多く、これらはリーゼロッテの役割の一部に過ぎない。
まず、リーゼロッテの一日は祈り――礼拝から始まる。起きたら寝ぼけながら世話係であるハンナと、双子のマリーナとヘレーネに手伝ってもらって支度を整え、教会関係者の中でも上位の役職に位置する者達と共に、聖堂で女神に祈りを捧げるのだ。
今日も今日とて、教会の奥に位置する関係者専用居住区画の中でも一等区画にある聖者に与えられている寝室で、リーゼロッテはハンナに起こされていた。
体の弱い主人が眠っているのを起こすという所業にハンナは毎度心を痛めているのだが、心苦しいからとそのまま寝かせてしまっては仕事が滞り、リーゼロッテが責められることになる。だから心を鬼にして起床を促すのである。
それに、就寝中のリーゼロッテは無防備。起こすとなればその美しい寝顔と、起きたばかりで寝ぼけている愛らしい姿を堪能できるのもあり、この役目を他の者に譲ってなるものかと周囲に牽制するほどだ。
時折ジークムントが直々に起こしに来ることがあるので、リーゼロッテが慕う叔父であり教皇でもある彼に反抗するわけにもいかず、起こす係を奪われた時は拗ねていたりする。
双子が用意したぬるま湯で洗顔等を済ませ、金色の繊細な刺繍が施された白のドレスを身に纏い、控えめな、それでいてリーゼロッテの美しさを引き立たせるメイクをし、髪をセットしてサークレットをつける。そうすれば、「完璧な聖女リーゼロッテ」の完成だ。
「お綺麗です」
「さすがリーゼロッテ様」
「もうみんなイチコロですね」
誰から見てもわかりやすい表情の変化はないものの頬にほんのり赤みを帯びさせ、熱のこもった眼差しでうっとりと見惚れているハンナに、キラキラ目を輝かせて揃ってぐっと親指を立てるマリーナとヘレーネ。通常運転の三人にリーゼロッテは優しく微笑んだ。
「ありがとう。……ふぁ」
上品な笑みで告げたお礼の後に気の抜けた欠伸が零れ、そのギャップにハンナが「お可愛らしい……」と更に頬を染めたところで、コンコンとノックの音が響く。
「リーゼロッテ様。そろそろお時間ですが、準備はどうですか?」
クラウスの声だ。眠気が僅かに飛び、リーゼロッテはぱちりと目を開けた。リーゼロッテが椅子から立ち上がるのを双子が両側から手を差し出して手伝い、ハンナは素早く移動して扉を開ける。
扉の向こうにいたクラウスは、いつも通り聖騎士の団服を着こなしている。リーゼロッテと目が合うと切れ長のそれを丸め、その後は眩しそうに細めた。
「ご覧の通り、支度は済んでおります」
「そうみたいだな」
ハンナに招き入れられると、クラウスは主人の前まで歩み寄って片膝をつき、レースの手袋に包まれた華奢な手を取った。手袋越しに甲に口付けを落とし、そのままの体勢で、濃い紫の双眸はリーゼロッテを見上げる。
「おはようございます、リーゼロッテ様。本日も大変麗しいお姿に敬服致します」
「ありがとう」
リーゼロッテが立つように指示をすると、クラウスはそれに従う。毎朝恒例のやりとりが終わって廊下に出た。
扉の前に配置されている警備の聖騎士に朝の挨拶をしたタイミングで、同じ一等区画に自室を持つジークムントがやって来た。こちらも金の刺繍が精巧な白の祭服を着用している。いつものようにブライアンとカミルがその後ろについていた。
「おはよう、ロッテ」
「叔父様、おはようございます」
大好きな叔父の姿を目に留めると、リーゼロッテはにこりと笑った。年相応の可愛らしい笑顔だ。
「ブライアンとカミルもおはよう」
「おはようございます」
「おはようございます。今日も女神さえ霞むお美しさですね、リーゼロッテ様」
「ありがとう」
ブライアンがさらりと自然に紡いだ褒め言葉に、素直にお礼を伝える。褒められてありがとうと言うのは何度目だろうか。まだ起きてからそんなに時間は経っていないのだが、これも何年も続くお決まりのやりとりである。
「しっかりしてそうだね」
「割と」
体が弱いせいか、いつも聖女の仕事で力を使って疲れているからか、リーゼロッテが必要とする睡眠時間は人より長めだ。十分に寝ても寝足りないということもよくある。
今日は眠いことに変わりはないが、昨夜は就寝が遅くなってしまったわけでもなく、普段と比べると酷くはない方だった。
「偉いですか?」
「うん、偉いね。いい子だ」
セットされている髪を崩さないように、ジークムントはぽんぽんとリーゼロッテの頭を撫でる。リーゼロッテは嬉しそうに口の端を緩めた。こういうところは実年齢よりも幼さを感じさせる。
(猊下といらっしゃるとまた更にお可愛らしい……)
((相変わらずだなぁ、お二人))
恍惚とした眼差しのハンナと、毎朝の見慣れた光景にほわほわと和んでいる双子と部屋前の警備の聖騎士二人、ブライアンとカミル。そして同じく温かく見守っているクラウス。こちらもまた毎度のことである。一連の流れ全てがセットのようなものなのだ。
「では行こうか」
「はい」
ジークムントに促され、リーゼロッテはジークムントの腕に自身のそれを絡めた。
女神の祝福への感謝の言葉を伝え、帝国の安寧と発展、世界の平和を願い、今後も見守っていてくださいと祈るなど、他にも諸々、最低でも三十分ほどはかかる礼拝。女神像の足元に設置されている入念な装飾が施された祭壇に、聖水が入った杯、果物や植物を供え、聖女であるリーゼロッテが先頭――祭壇の前に跪いて両手を組み、目を閉じ、ただひたすらじっとしているその時間。リーゼロッテが真剣に何かを願っているということは滅多になく、形式的に行っているにすぎない。
例えばある日、リーゼロッテは襲いかかる強烈な眠気を我慢しているだけの三十分を過ごしていたことがあった。むしろそういった日がほとんどである。
また別の日には、ハインツとケーキを作る約束をしていたということで、材料はどうしようだとか、どれとどれを組み合わせたら合いそうだとか、そんなことばかり考えていたこともあった。
共に礼拝に参加している教会の重役達はリーゼロッテと過ごす機会が比較的多く、それなりに親しい者ばかりだ。なので彼らはリーゼロッテのやる気のなさにもちろん気づいているが、咎めることはなかった。というのも、昔から何を言っても改善する気配が欠片もなく無駄だと結果が出ているので、だいぶ前からとっくに諦めているのである。
ジークムントが注意しても聞き入れないのだから、他の誰がどれほど時間を費やして言い聞かせようとしても無意味なのは明白だ。もっとも、ジークムントはあまり強く注意などしていなかったのだが。
女神への信仰心が薄いリーゼロッテの態度に耐えかね、折れずにたまに面と向かって口煩く苦言を呈する者達も数は少ないがいるにはいる。しかし、現在彼らは仕事で国外にいるので、やはり注意する者は現れない。
とりあえず、すっぽかさずにこうして形だけでも祈りの時間の仕事をこなしてくれているのはありがたい、とすら思ってしまうほど、リーゼロッテの内心の不真面目さを重役達は理解していた。
それでも、見た目は至極真剣に祈りを捧げているように見えるのだからさすがとしか言いようがない。姿勢も振る舞いも全てが完璧で文句のつけようがなく、まさに聖女と呼ぶに相応しい、神秘的な美しさと空気を纏っている。
けれど、その幻想が崩れるのは本当に一瞬だ。
「終わったぁ」
毎朝の礼拝が始まってきっちり三十分。リーゼロッテは腕を上にあげ、「んー」と伸びをした。
くるりと振り返ると、後ろに控えているジークムントが穏やかな笑みを浮かべ、その更に後ろ――左右に分かれて何列も置かれている長椅子の前に並んで立っている教会関係者が困ったように笑っているのは、もう随分見慣れた光景である。
「叔父様、早く行きましょう? お腹空きました」
「はいはい」
ジークムントが肘を軽く上げて腕を差し出すと、リーゼロッテは手を添えた。これから食堂で朝食なので、そこまでジークムントのエスコートを受けるのもいつもの流れだ。叔父と姪の仲睦まじい様子に、周囲から温かい視線が向けられている。
二人の後に護衛達も続いて、聖堂を後にした。
朝食を済ませたら、リーゼロッテもジークムントもそれぞれの仕事を始める。
結界の強化は月に一度で、今日はその日ではない。ということで、リーゼロッテは早速聖水作りにとりかかった。
聖水の主な効果は、悪い気――瘴気の浄化だ。
動植物が瘴気を過剰に取り込んでしまうと魔物と化し、凶暴になって生態系に悪影響を与え、人に危害を加えることもある。そういった魔物に聖水をかけたり飲ませたりすると、力を削ぐことができるのだ。また、魔物につけられた傷の浄化、人間の体内に入った瘴気の浄化にも役立つ。
聖者がいない国や地域など、浄化の魔法や神聖術を使える者がすぐに駆けつけられない場所では、聖水はとても貴重な代物である。現在はリーゼロッテがいるが、聖者が存在しない時代は聖水と限られた聖職者だけで瘴気を浄化しなければならず、手が追いつかないことが大半だった。
一般の民に瘴気を浄化できるほどの力はない。だからこそ聖水はとても貴重で、人類の生命線となっている。
「ではリーゼロッテ様、お願いいたします」
「ええ」
聖水や薬などの保管室の隣に位置する調薬室。内扉で繋がっているその部屋で、司教の言葉にリーゼロッテは意識を集中させた。
聖水は主に聖職者の祈りと魔力を込めて作られるものだが、聖者が作る聖水は神聖力が込められているため、その効果が別格である。
リーゼロッテは歴代の聖者の中でも神聖力が多く、十六歳ながら力の扱いにも長けているので、一度に大量の、効果が非常に高い聖水を作ることが可能だ。ただし、その分体力もかなり消費してしまうわけで、リーゼロッテの中ではこれまたあまり好きではない仕事として分類されている。
もっとも、聖女としての役目でリーゼロッテが好きだと思えるものは一切ないと言ってもいいのだけれど。つまりは全部面倒でしかないし、やらなくていいなら放棄していたことだろう。
大量に用意されている大きな壺の中の水にひたすら神聖力を込めていく、なんともつまらなすぎる単純作業。飽き飽きしているが、放棄するわけにもいかないのが聖女という立場にある責任で、義務だ。
瘴気が漂っているのはリザステリア帝国だけでなく世界中の問題であり、常に少しずつ、自然とどこにでも発生してしまうので、聖水は他国にも売らなければならない。毎日気が遠くなるほどの量を完成させても足りないのだ。
聖者が誕生したのが三百年ぶりのことであれば尚のこと。この間に聖職者だけで浄化が追いついているはずもないのだから。
大容量の壺十個分の水に神聖力を込めたところで、リーゼロッテは短く息を吐いた。顔には疲れが滲んでいる。
神聖力はまだまだ有り余っている。けれど、力を使うための体力は残っていなかった。どれほどの聖水を作れるかはその時のリーゼロッテの体調次第で、今日は普段と比べると多い方である。これは体調が良いという証明になるが、その分いつもより力を使いすぎてしまい、体に負担がかかるということにもなってしまう。
「午前中の分は終わりに致しましょう。一度お休みになられた方がよろしいかと」
「そうするわ」
司教の進言に反論することなく、リーゼロッテは体の力を抜いた。無理をして倒れては大変だ。
「あとはお願いね」
「お任せください」
聖水は瓶に移して保管、流通される。その作業は聖者でなくとも可能であるため司教に任せ、リーゼロッテは支えを求めるようにクラウスの腕に手を絡めた。鍛えられている、筋肉が程よくついた腕だ。触れた瞬間、彼が強張ったような気がする。
「リーゼロッテ様」
「大丈夫よ」
心配そうな声が上から降ってくるので、そう告げて微笑む。顔は上げていないから、背の高い彼からは見えないだろうけれど。
「少し疲れただけ」
「……」
彼が何か言いたげな――というよりも心配の色が消えない表情をしているであろうことが、顔を見なくとも雰囲気で伝わってきた。
聖騎士という立場ゆえか、個人的な感情か。それなりの時間を過ごしてきたのだから、多少なりとも情を抱いてくれているはずだとは思っている。
しかし、実際のところはどうなのだろう。彼のその心配は、どの立ち位置からによるものが大半を占めているのだろうか。
(疑問に思うまでもないわね)
ふ、と。小さく自嘲の笑みが零れる。逞しい腕に絡めている手に少しばかり力が入り、彼の団服の皺が深くなった。
リーゼロッテが聖女だから、彼はこの身を案じている。聖騎士として、この世界の住人として。ただ、それだけ。そこに個人的な感情などないのだ。
自室に戻ると、休憩の準備をすでに整えていたハンナに出迎えられた。クラウスのエスコートを受けている主人に一瞬固まっていたが、すぐさま軽く一礼する。
「お疲れ様でございます、リーゼロッテ様」
リーゼロッテがソファーに座ると、ハンナがテーブルにソーサーごとティーカップを置く。入っているのはリーゼロッテのお気に入りの紅茶で、ほんのりと広がる香りが鼻腔をくすぐった。
「ありがとう」
持ち上げて口に含めば、紅茶の温かみが体に沁み渡る。これだけで疲れが取れるわけではないけれど、なんとなく心が軽くなり、余裕が生まれるのだ。
カップの中、水面に映る美しい造形だと自負している自分の顔を見つめる。ハンナとクラウスしかいない空間だから、気を抜いているのがよくわかる表情を浮かべていた。
「疲れたから、少し寝るわ」
「ではお着替えを」
「午後も仕事があるし、このままで構わないわよ。後で皺を伸ばしてもらうことにはなってしまうけれど」
「お気になさらず」
眠りにくいだろうとセットされている髪を手際良く解いたハンナが、薄手の毛布を持って来てリーゼロッテに渡した。触り心地のよいお気に入りのものだ。
「時間になったら起こしてね」
「かしこまりました」
一礼したハンナと、ゆっくり眠れるようにとクラウスも、静かに部屋を出る。それを見送り、リーゼロッテはソファーに深くもたれかかって短く息を吐いた。
本当なら休憩はまだ先に送り、作業を続けたかった。しかしそれが許されないのが虚弱なこの身なのだ。昔に比べればマシではあれど、満足のいくものではなく、健康体にはまだまだ遠い。
体が丈夫だったら、もっと聖水を作れたはず。そうすれば出荷の数が多くなり、引いては教会の利益となり、もっともっと、大好きな叔父の役に立てたはずなのだ。
体力がなさすぎるのも問題だろう。自分の体のことであり運動不足だとは他の誰よりも理解しているが、体力をつけるための運動がこの体にはかなりの負担になってしまうことも承知している。ただでさえ仕事で少ない体力を削るのだから、鍛える余裕はない。嫌いだということだけが運動を避ける理由ではないのだ。
(考えても仕方のないことだけれど)
もしもを考えても、所詮想像に過ぎない。体が弱く体力がつきにくいのが現実で、それを考慮して行動しなければならないのが現状だ。
リーゼロッテが倒れてしまえば元も子もないどころか、叔父に心配をかけてしまう。そこが一番の気がかりで、避けたい事態。
だから、無茶なことはしない。それがリーゼロッテの方針である。