06.第一章五話
夕食後の時間帯。リーゼロッテを部屋に送り届け、彼女の自室の扉前の警備についている聖騎士に後のことを頼んだクラウスは、ジークムントの自室を訪れていた。
すでに湯浴みを終え、堅苦しい服装からゆったりとした楽な格好になっているジークムントは、長い足を組んで一人がけのソファーに優雅に腰掛けている。
ティータイムに会った時は結われていた髪はまとめず、無造作に垂らされていた。シャツは上から三つ目までボタンを開けており、程よく筋肉のついた胸元が露になっている。リーゼロッテ曰く「色気があって好き」な状態だ。
人間離れした美しさを誇るリーゼロッテを見慣れているクラウスの目から見ても、同じくジークムントは性別を超越した美貌を持っていると断言できる。顔立ちも雰囲気もどことなくリーゼロッテと似ている部分があり、髪色を抜きにしても血の繋がりをひしひしと感じた。
「君はもう下がっていいよ。お疲れ様」
微笑をたたえたジークムントが声をかけたのは、ちょうどジークムントの前に紅茶を置いたところだった世話係の修道女だ。彼女は姿勢良く一礼すると、静かに部屋を出て行く。この状態のジークムントに目が眩まないのはさすが世話係と言うべきか、慣れているらしい。
「さて。今日の報告を聞かせてくれるかな」
一口紅茶を飲んだジークムントがティーカップをテーブルに戻し、肘掛けに頬杖をついて促す。所作の一つ一つが油断せずともくらりと来てしまうほど色香を放っているが、クラウスにはまったくもって効果がなかった。
「提出されている報告書通り、魔力暴走の件はつつがなく。幸い、リーゼロッテ様のご尽力のおかげで死者も出ておりません。こちらは警備隊からの報告書になります」
先程帝国騎士団から教会に届いた、報告書が入った封筒を差し出す。現時点で判明している経緯が記されたものだ。すでにリーゼロッテは確認済みである。
封筒から書類を出し、ジークムントはざっと目を通しながら口を開いた。
「虐待か。魔力暴走の原因としてはよくある話だね」
暴走した子供は親がなく、親戚であるあの子爵の世話になっていたらしい。とはいえ平民であったこともあり、平民を見下し忌み嫌っていた子爵は、まともに育てるつもりなど最初からなかったようだ。仕方なく引き取ることになってから一年程、過酷な労働を強い、満足に食事も与えず、寝床は物置、教育もまともに受けさせず、度々暴力も振るったと供述していると記されている。
取り調べには隠すことなくぺらぺらと応えているそうだ。裏取りは明日からとなるが、恐らく真実だろうと帝国騎士団の見解は一致しているとのことである。
魔力暴走はそもそも件数としては多くない。その中で多くの共通点は、魔道具を買うことのできない経済的に余裕がない家庭や魔法の知識に乏しい家庭の子供か、虐待や育児放棄を受けている子供だ。
今回も、ありふれたと言えばありふれた内容だった。
「子供は教会で保護することにしたそうだね」
「一時的な決定ではありますが、そのように」
「うちなら魔道具も周りの目も充実しているし、ロッテや君みたいな例外でもない限り、魔力暴走の心配はないからね。孤児院で同年代の他の子供と触れ合えば精神的にも落ち着くだろうから、悪くない判断だ」
子供の暴走を止めたのはルードルフなので、知っている者がいる場所の方が子供としても安心するだろう。
「ルードルフが怪我をしてまで暴走を抑えたと聞いているし、信頼くらい得ていないと困るね」
静かに紡ぐその声音は普段通りの穏やかなものに聞こえるけれど、どこか刺々しさを孕んでもいた。
主人を守るために怪我をするならともかく、いくら指示をこなすためとはいえ怪我を負った挙句、リーゼロッテの術でそれを治されたのだ。結果的にルードルフの行動が溺愛する姪に無駄な力を使わせたことに対して、ジークムントは不満を感じているらしい。
「この件はロッテに一任しよう。報告は怠らないように」
「はい」
皇都はリーゼロッテの管轄。そして教会の実質的な管理はジークムントが行っているものの、最高権力者はあくまでリーゼロッテだ。なるべくやりたいようにやらせたい。
「通常業務の方は?」
「魔力暴走の対応で多少のずれは生じましたが、本日の仕事は全て終えられました。仕事以外の面も、相変わらず散歩の時間には不満を抱いていらっしゃるようですが、それでもしっかりこなしておられます。特に問題はありません」
「それは何よりだね。機嫌はどうだった?」
「とてもよろしかったです。ハインツ殿のチョコレート菓子がかなりお気に召したようで」
「はは、そうか。なんだかんだ、あの子は単純だからね」
可愛くて仕方ないと言わんばかりの温かく柔らかい笑みを零すジークムントにつられ、クラウスも己の主人を思って僅かに表情筋を緩める。
人目のあるところでは聖女として完璧な振る舞いを披露するリーゼロッテは、纏う空気が凛としていて悠然としており、類稀な整いすぎた容貌でより一層大人っぽさが増す。その面ばかりに注目してしまうと実の年齢を忘れそうになってしまうが、まだ成人もしていない十六歳の少女なのだ。甘えたがりな部分も、我儘な部分もある。無理難題や常識外れなことは昔から言い出さないので、やはり中身は大人であることは間違いないのだけれど。
「他に何か、報告はあるかい?」
「……報告はありませんが、お聞きしたいことが」
「うん?」
言い出しておきながら思案しており、クラウスはなかなか口を開かない。珍しいその姿に急かすことなく、ジークムントは静かに先を待った。
「……リーゼロッテ様の、ご婚約の件ですが」
「うん」
「ブライアンも候補に入っているのですね」
「まあね」
机に数枚重ねられている書類に手を置き、ジークムントはそれを少しずらした。リーゼロッテが気に入っている聖騎士の一覧だ。
「彼だけでなく、聖騎士は有力候補だよ。多少年齢が離れているけどルードルフとか。まあブライアンに関しては、僕もロッテも面白がっているだけみたいなものだけど」
ルードルフはクラウスよりも年上で、リーゼロッテとは十歳違いだ。そのくらいの年齢差なら、貴族間の婚姻では別段珍しいことでもない。
「僕があの子の相手に求めるのは血筋ではなく、あの子を最優先に考えてくれること。あの子を想う気持ちが重要だから、聖騎士は条件として悪くない。ちなみにカミルは好みから外れるらしいから入っていない」
ジークムントはリーゼロッテの幸せを願っている。皇族の血筋であり聖女という特別な地位にある彼女は制約が多く、元々病弱ということもあって我慢を強いられていることがたくさんあるから。結婚は絶対に、彼女の望みを最大限叶えるものにしたいのだ。
妥協など、するつもりはない。
「血筋がどうのと他国や貴族達が何か文句を言おうものなら、どんな手段を使っても黙らせるよ」
爽やかなはずなのに背中に寒気が走る綺麗な笑みに、クラウスは本能的に身構えてしまった。部屋の温度が下がった気がする。
やはりジークムントも上に立つ人間なのだ。リーゼロッテのそばで、リーゼロッテに接する甘々な彼ばかりを見ているから忘れそうになるが、決して優しいだけの人間ではない。纏う空気が常人のそれとは違っていて、油断すると気圧されてしまう。
顔色からクラウスの心情を察したらしく、ジークムントが穏やかで自然な笑顔を見せた。いつもの「優しい叔父」とは違うが、親しい者に見せる本物の笑顔だ。
「なるべく穏便に済ませるから心配はいらないよ」
「……それはよかったです」
とは言ったものの、クラウスは無表情ながら微妙な空気を漂わせた。
ジークムントは教会でリーゼロッテに次ぐ権力を誇り、リーゼロッテが成人を迎えていないため、現在は教会の最終決定権はジークムントに与えられている。実質的には最高権力者と言っても過言ではない最高責任者で、魔法の実力も群を抜いている。
権力も実力もある、頭も回る。親馬鹿ならぬ叔父馬鹿な彼は、リーゼロッテのためと判断すれば、一つの貴族家を消し去るどころか、裏から手を回して国を滅ぼすことさえもやりかねない。
聖職者ではあっても、リーゼロッテのためならば他者を容赦なく切り捨てることができる。そういう男なのだ。なるべく穏便に、をどれほど信用して良いものか。彼の中では穏便な方だとしても、世間一般的な視点では凄惨な状態になる可能性が否定できなかった。
しかし。リーゼロッテのためであればそれも致し方ないこともあるだろうと、そんな結論に達するクラウスもまた、普通とはほど遠いのだろう。クラウスの世界はリーゼロッテを中心に回っている。
今一番頭から離れないのは、将来起こりうるかもしれない悲惨な出来事ではなく、リーゼロッテの夫候補について。
(聖騎士、か)
聖騎士はその生い立ちを考えると周囲からの反発も多いだろうから、リーゼロッテがかなり好いている人物でもない限り相手として選ばれることはないと、クラウスはそう踏んでいた。しかし見事に外れたようだ。想像以上に候補がいる。
シュトラール教会の聖騎士はほとんどが孤児院育ち。その理由は教会、そして聖者と教皇を守るための聖騎士が裏切る可能性を、少しでも減らすためである。
例えば貴族出身の者だと、政治的な派閥での思惑が絡み、聖者や教皇、そして教会の者を狙うかもしれない。要するにスパイのような輩が紛れ込む可能性が高いわけだ。
他にも、実家の権力をそのまま序列だと考える、プライドが無駄に高い面倒な愚者がいたりすると、勝手な行動で連携に支障が出るといった弊害が発生してしまう。
また、貴族に限らず平民にも言えることだが、家族や恋人、特別な存在がいる場合、彼らを人質に脅され、教会に危害を加える可能性も考えられる。
とまあ、他にもたくさんある様々な理由から、聖騎士の九割が身寄りのない者達で構成されている。幼い頃から教会のために動くことを教育し、決して裏切らない、そして確かな実力を伴う者を育てて行くのだ。
とはいえ、全員が条件全てを守れるわけではない。人の感情とはどうにもならないこともある。教会のために生きてきたとしても、誰かを好きになることだってある。そういう特別な存在ができたら、例え恋人や夫婦関係にならずとも報告義務が存在する。仕事に支障を来す恐れがあると判断されれば、聖騎士を辞める例がいくつもあった。
それほど、聖者や教皇の周囲は厳重に管理されているのだ。聖者はもちろんのこと、教皇もそう簡単に代わりが見つかる存在ではないから。特にジークムントは女神に選ばれた教皇で、聖者ほどではないにしても貴重な人物なのだ。
ちなみに、若干の違いはあるが、皇族の近衛隊も同じような方針で決められている。
リーゼロッテの婚約者候補として名が挙がっているブライアンも、例に漏れず孤児だった。餓死寸前で路地裏に倒れていたところをジークムントが拾い、この教会の孤児院に招き入れたのだ。そのため、ブライアンのジークムントへの忠誠心は絶対的なものとなっている。もちろん、リーゼロッテへの忠誠心も。
そしてクラウスは例外の、孤児ではない一割に属する。出身は貴族。それも歴史ある侯爵家で、昔から優秀な騎士を多く輩出しているかなり家柄の良い一族の本家である。
孤児でなくとも様々な事情で教会に身を寄せ、聖騎士や聖職者、修道士になる者もそれなりにいる。ただし色々と条件があり、正式に教会に所属するとなると、基本的に家とは縁を切ることになる。自ら望んで家を出たクラウスだが、長男であるため猛反対する親族もいた。
聖騎士になる条件は特に厳しく、聖者や教皇の専属護衛ともなると狭い枠は更に絞られてくるため、その役職に就くことは容易ではない。それなのに、クラウスは基準を大きく上回って全ての条件を満たしたことで、リーゼロッテの専属護衛となっているのだ。
リーゼロッテは歴代最強の力を持つ聖者だと言われているが、クラウスも歴代最強の聖騎士だと話題になっている。
「ところで、クラウスは誰がいいと思う? ロッテの夫」
すう、と。意味ありげに目を細めたジークムントの訊き方は、どこか試すような響きを持っていた。
クラウスは思案し、真っ先に思いついた名前を出す。
「アルフレート様が良いと思います」
アルフレート。この帝国の第二皇子だ。年齢はクラウスの二つ下で現在は二十歳。今年二十一歳になる。クラウスが聖騎士になる前――幼い頃から長い付き合いの幼馴染みであり、気のおけない親友でもある男だ。
リーゼロッテにとっては従兄で昔から親しくしていることもあり、二人の関係は良好。身分的にも夫婦になるには申し分ない。
アルフレートもリーゼロッテやジークムントに匹敵するほど顔の造形がよく、厳しすぎる面食いのリーゼロッテが身贔屓抜きでイケメンだと称するほどの美貌の持ち主だ。リザステリアの皇族はみんな美男美女である。
「もちろん、アルフレートは有力候補だよ。――ただ」
一度言葉を切って、ジークムントはクラウスをまっすぐ見据える。
「僕としては君を推す予定だった」
予想もしていなかった台詞に、意味を咀嚼して理解した途端、クラウスは目を丸めた。ジークムントは至って真剣な顔つきで、冗談なんかではないことが窺える。
「君ならあの子を幸せにできると、そう考えていた。常にそばに仕えていて、あの子のことをよく理解しているだろうし。あの子好みの容姿だしね」
好みなのは大切だが、それだけではない。
「それに君は、あの子のことを好いているから」
妥協しないときっぱり断言したのだ。少なくともジークムントの中ではクラウスが一番の候補だったというのは事実なのだろう。
素直に嬉しく思う。それほど評価してもらえていると、期待してもらえていると、そういうことだから。クラウスの気持ちもお見通しであることは、先程の確信を持って向けられた言葉と強い意志が感じられる深い海の色の双眸でわかった。
けれど。
「……私は」
「クラウス」
鋭く、ジークムントが名前だけで制する。
「今は君個人としての本心を聞きたい」
クラウスは目を見開いた。それから顔を俯かせ、拳にぎゅっと力を入れる。
本心。偽りも誤魔化しもない、クラウスの本音。全部を曝け出してしまうのはとても勇気がいることで、憚られる。
「俺は、リーゼロッテ様に相応しくありせん」
この件で最も重要なのはクラウスの気持ちでも、ジークムントからの信頼でもない。他でもないリーゼロッテの気持ちだ。クラウスもジークムントも彼女の幸せを願っていて、彼女のために、彼女を中心にして考える必要がある。
「リーゼロッテ様は俺のことを嫌っておられます」
自分で口にして、ずきりと胸が痛んだ。
「……いえ。単純な『嫌い』という言葉は的確ではありませんが、それなりに妥当な表現かと。そんな俺との結婚など、リーゼロッテ様にとっては政略結婚のようなものでしょう」
自身を卑下しているとかそういうことではなく、クラウスは本当に、本気でそう思っているのだ。
リーゼロッテはクラウスのことが嫌いでもあるのだろう。ただ、それだけではなく複雑な負の思いが入り混じっていて、なのに信用されてもいる。実力と忠誠心は本物だと信じてもらえている。けれど、完全に心を許してはならないのだと、一線を引かれている。
常にそばで仕えているからこそ誰よりもわかる、自分に向けられている感情。嫌と言うほど実感させられてしまう。
聖騎士としてのクラウス・エーレンベルクは望まれている。夫としては、望まれていない。それが紛れもない事実。他の人からどう見えるかなど関係なく、リーゼロッテが望んでいないことが真実で、全てだ。
「本人からも、君は嫌だとはっきり言われた」
クラウスの肩がぴくりと揺れたのを認めながら、ジークムントは抱えている疑問を解決すべく、言葉を紡ぐ。
「仲はいいと思っていたんだけど、何かあったのかな?」
「……」
その質問にクラウスは答えるつもりがないようで、無言を貫いた。珍しい光景に、ジークムントは目を大きく開く。
クラウスが絶対的な忠誠を誓っているのは聖女であるリーゼロッテに対して。そして、教皇であるジークムントにもそれなりの忠誠心を抱いている。ジークムントの言動はどれもが真に姪のためを思ってのことであり、それを重々承知しているクラウスは、ジークムントの命令に逆らったことがない。ジークムントからの問いかけをはぐらかしたことも、数えられる程度しかなかった。まして答えないなど、一度たりともなかったのだ。
クラウスがジークムントに従わない時。それは全て、紛れもなくリーゼロッテのためであることは疑う余地もない。答えないという前例がこれまでになかったので、どう解釈したものか判断しかねるが――リーゼロッテが望んでいるのか、他に何か言えない事情があるのか。
どちらにしろ、リーゼロッテの不利益になることはないはずだ。必要ならば話してくれるだろう。そこは信頼している。クラウスとはそういう男なのだと知っていた。
ならば、これ以上の追及は暇ではないジークムントの貴重な時間を無駄にする愚かな行為でしかなく、早々に引くのが正しい選択だろう。二人の間にどんな事情があるのか、リーゼロッテの叔父として気になって仕方ないが、好奇心は心の奥底にしまう。
「まあ、二人が望まないなら無理に押し進めるつもりはないよ」
そう言った後、ジークムントは「ただ」と続け、クラウスを静かに見据えた。
「恐らく一年以内に、あの子の婚約は整う。それを肝に銘じておくように」
「……はい」
暫しの間を置いた後、クラウスが視線を落としながら零した力の抜けたような返事に、ジークムントの心情は複雑なものだった。