41.第八章五話
リーゼロッテとジークムントが無事に仲直りし、クラウスの専属護衛の任も解かれることなく継続が決まった翌日。リーゼロッテとクラウスの距離には、目に見えてわかりやすい変化が生まれていた。
「さあ、リーゼロッテ様。どうぞ」
皮が剥かれ、食べやすい大きさにカットされた、みずみずしい白い果肉の梨。フォークで刺したそれを、クラウスはベッドに座るリーゼロッテの口元に持って来る。
クラウスは相変わらず護衛のはずなのだが、リーゼロッテの世話を志願してこのような状況になっている。ハンナは特に文句等は口にしなかったが、マリーナとへレーネは「「リーゼロッテ様取られました!」」と拗ねていた。
「こんなことまでしなくても……」
「いえ。リーゼロッテ様が体調を崩すような事態を招いてしまったのは俺ですので、責任を持ってお世話させていただきます」
きり、と表情を引き締めているクラウスに、リーゼロッテは目を細めて疑いの眼差しを向けた。
「本当にそれだけ?」
「リーゼロッテ様がお休みの間、護衛は基本、部屋の外か待機部屋で待機となり、お姿を拝見することができませんから。下心がないと言えば嘘になります」
「素直ね」
包み隠さず心情を暴露した彼に呆れた笑みを零したリーゼロッテは、目の前の梨を小さな口を開けてパクリと食べる。噛むとシャキっと音がして果汁が溢れ、甘味に頬を緩めた。
丸々一個分は食べ切れず、余った分はクラウスが食べ終えたちょうどその時。コンコンとノックの音が聞こえた。
「リーゼロッテ様。第二皇子殿下がお越しです」
ドアの外のハンナの声が来訪者を告げる。
「……通して」
許可を得たハンナがドアを大きく開けると、アルフレートが「やあ」と入ってきた。ハンナは早々に部屋を出る。クラウスはフォークをサイドテーブルのトレーの上に置いた。
私的な場なので型にはまった挨拶はない。アルフレートはリーゼロッテが座るベッドに歩み寄ると、リーゼロッテの手を取って甲に口づけを落とした。
「視察は終わったの?」
「うん。昨夜皇都に着いたんだ。本当は皇宮に帰る前に寄るつもりだったのに、周りに止められてね。いくら従兄とは言っても夜遅かったし、視察の間にまた仕事も溜まってるしで、結局今の時間になってしまったよ」
午前中で急ぎの仕事を片付け、すぐに駆けつけてくれたらしい。
「体調を崩したと聞いて心配で」
「わざわざありがとう。ごめんなさい、心配かけて」
申し訳ないと眉尻を下げるリーゼロッテに、アルフレートは「君が謝る必要はないよ」とクラウスを見下ろした。クラウスも、椅子に座ったまま無言で親友を見上げる。
「今回の原因はクラウスみたいだし」
体調については、教会を飛び出した自分が全面的に悪いというのがリーゼロッテの認識なのだけれど、周囲はそう見ていない。経緯をある程度理解してなお、クラウスに責任があると考える者ばかりだ。クラウス本人でさえもそうで、リーゼロッテが何を言っても聞き入れる者はいないのである。
「私が勝手に外出して雨に濡れただけよ」
「外出というか、泣いて飛び出したって聞いてるけど?」
にっこりとした笑顔の中に怒っている空気を感じ取り、リーゼロッテはそっと目を逸らす。「リーゼ?」と心なしか普段より低めの声に名前を呼ばれ、「ごめんなさい」と即座に返した。
以前からずっと感じていたけれど、アルフレートは成長するにつれ、両親である皇帝や皇后ではなく叔父のジークムントにどんどん似てきている気がする。気がするじゃなくてそっくりだ、特に性格が。王子様然とした笑顔で圧をかけてくるところとか。
「まあ、怪我がなくて何よりだよ」
壁の方に置かれていた椅子を移動させ、アルフレートはクラウスの隣に腰掛ける。
「変な輩に遭遇したらしいね」
「氷漬けにした」
「うん、そう聞いた」
皇族のところにも詳細をまとめた報告が上がっているのだ。クラウスが的確に密猟者達だけを氷漬けにしたことも、アルフレートは承知している。その手腕は最強の聖騎士の呼び名に恥じないもので、さすがだと感嘆した。
アルフレートも己の魔法技術が卓越している自負はあるが、クラウスより上であるなどと思い上がってはいない。張り合うことすら烏滸がましいほど、あまりにも差がありすぎるのだ。
「魔道具も回収できたんだってね」
「一部に過ぎないだろうが、連中から情報を引き出せば捜査は進むはずだ」
「叔父様がやる気だものね……」
三人とも揃って、黒いオーラを放つジークムントの姿が容易に思い浮かぶ。リーゼロッテが二度も件の魔道具を持った不成者に遭遇し、伯爵領ではばんばん神聖力を使う羽目になったのだから、姪を溺愛するジークムントが手を抜くはずもない。リーゼロッテとて裁判には口を挟む確約を取り付けていることだし。
「それで、体の方はもう大丈夫?」
「熱は下がっているけれど、まだ少し怠さが残っているからもう一日休むようにって。元々明日まで絶対安静って言われてたの」
「それがいいと思うよ。リーゼはいつも頑張りすぎだからね」
ゆっくり休ませることができる良い機会だ。実際に自身の行動が原因で熱が出ているのだから、リーゼロッテも大袈裟だとか大丈夫だとか、そんなことは言いづらいだろう。
「クラウス、ちょっと二人にしてくれる? 気になるならハンナを呼んでも構わないから」
「……俺としては、別に心配はしない」
二人だけになり人目がなくなったとしても、リーゼロッテの嫌がることをアルフレートはしないと確信している。そして、決定権はクラウスではなくリーゼロッテにある。
クラウスの視線を受け、リーゼロッテは頷いた。「何かあればお呼びください」と、クラウスが出て行く。
室内は二人きり。しばし沈黙が流れるけれど、重苦しい気まずさはない。アルフレートが何を話題に出すのか、リーゼロッテは察しがついていた。
「婚約者選定の中断の話、さっき叔父上から聞いたよ」
そう。リーゼロッテの婚約者選定については、一旦保留となった。と言うより、その話がなくなったと言ってもいい。クラウス以外という前提条件が覆ったので、わざわざ選ぶ必要がなくなったのである。
そもそも、婚約者選定は周知していたことではなく一部の関係者しか知らないため、中断したところで候補者達から不満が出るはずがないのだ。ブライアンがあからさまにホッと胸を撫で下ろしていたのは特に例外だろう。揶揄う材料が減ってしまった。
承知していた一部に含まれ、候補者の一人に名を連ねていたアルフレートも、不満があるわけではない。
「焚き付けた甲斐があったね」
ふわりと微笑むアルフレートの真意を瞬時に咀嚼し、リーゼロッテは目を見開く。
「……アルフ」
「ああ、勘違いしないでほしいのだけど、リーゼのことが大切だし、隙あらばって狙ってるよ。でも、だからこそだよ」
リーゼロッテにも想ってもらえるなら、それがアルフレートにとって最上の幸せだ。けれど、難しいことを重々承知している。何せクラウスという存在がリーゼロッテのそばにはいるのだから。
「リーゼもクラウスも好きだから、幸せになってほしい。これは紛れもない本音」
穏やかに目を細めるアルフレートに、リーゼロッテも表情を和らげた。
クラウスは、アルフレートの一番の親友。そしてアルフレートは、クラウスのことがとても好きなのだ。前世のことを抜きにするなら、クラウスとの付き合いはリーゼロッテよりも長い。身分のことなど気にせずに本心を曝け出せる数少ない相手だと、お互い認識している。
「まあ、そう簡単に引くつもりもないけど」
リーゼロッテの波打つ長い髪を掬い、アルフレートは自身の口元に持ち上げる。そうしてそっと、優しい口づけを落とすのだ。
息を呑んだリーゼロッテに、アルフレートは悪戯な雰囲気を纏って目を細めた。
「アルフは……」
続けようとした言葉は声に出ず、リーゼロッテは口を噤んだ。目を瞬かせて、アルフレートはこちらを見つめている。
アルフレートは改めて気持ちを伝えるつもりはないようだ。なら――リーゼロッテが訊くのは、彼の意に反することだろう。アルフレートはもう、このままでいいのだと決断している。気持ちに整理をつけ始めている。
クラウスが何か取り返しのつかない過ちを犯したり、リーゼロッテの前から消えない限り、彼はきっとこれ以上は何も言わないのだろう。
「……やっぱり、なんでもないわ」
「そう? リーゼはゆっくり休みたいだろうし、まだ仕事も残ってるし、もう帰るよ」
最後に「また今度」と挨拶をして帰ったアルフレートを、リーゼロッテは笑顔で見送った。
◇◇◇
寝室の隣は、普段リーゼロッテが自室で過ごす時に主にいる部屋だ。テーブル、椅子、ソファー、本が並んだ本棚等が置かれている。部屋に来客があればもてなす時もここで、アルフレートにとっても見慣れた部屋である。
もっとも、昔から体調を崩しがちだったリーゼロッテのお見舞いで寝室には何度も立ち入ったことがあり、そちらも見慣れているのだけれど。だからリーゼロッテも抵抗感なく、アルフレートの訪問を受け入れたのだろう。
寝室から来たアルフレートの姿を捉えると、ハンナが一礼して入れ替わるように寝室に入って行った。新しい飲み物を用意したようだ。
そして、部屋にいるのはもう一人。
アルフレートは体の正面をクラウスへと向ける。信頼している幼馴染みであり、親友であり、最大の恋敵でもある彼へと。
「まだ恋人じゃないんだね」
確かめたわけではないが、二人の雰囲気から、アルフレートはそう推察した。正解だったようで、クラウスがむっとなる。
「さすがにそれは早い」
二人の間には『何か』がある。アルフレートもそのことは察しているが、ジークムントから忠告を受けており、特にリーゼロッテに直接尋ねるようなことは避けていた。
今回リーゼロッテが突発的に教会を飛び出したのはその『何か』が関連しているとのことだったけれど、恐らく区切りがついたのだろう。ずっと否定していた感情を、リーゼロッテは受け入れているようだったから。
本来鈍感ではなく、これまでは彼なりの理由があって嫌われていると思い込んでいたらしいクラウスも、そのことには気づいたはずだ。リーゼロッテが憎からず想っている相手が自分であると。その気持ちをリーゼロッテ自身が真の意味で受け入れるには、多少の時間を要するであろうことも理解しているだろう。
「――クラウス」
アルフレートは親友に、挑戦的な笑みを見せた。
「悲しませたら奪うから、覚悟してね」
冗談なんかじゃなく、本気の目だ。もし泣かせでもしたら掻っ攫う気満々だという、宣戦布告。そこに遠慮なんてものは微塵もない。皇子や友人としてではなく、ただ一人の男としての意志の表明である。
クラウスも、正々堂々と向き合う。
「選ぶのはリーゼロッテ様だろう。――けど」
そして、自信を持って口角を上げた。
「望むところだ」
力強い光を宿す紫眼は、渡すつもりはさらさらないと、できるものならやってみろと、まさに目は口ほどに物を言うが如く示していて。アルフレートも満足気に笑みを深めたのだった。




