04.第一章三話
幸福に包まれたティータイムを過ごした後、後ろ髪を引かれる思いで大好きな叔父と別れて執務室にやって来たリーゼロッテがのんびりと、しかし着実に仕事を進めている時だった。
「!」
教会の敷地の外、皇都内の一角で魔力が急激に膨れ上がる気配を感じて、リーゼロッテはぱっと顔を上げた。その大きな魔力反応に続いて爆発したような衝撃音と、窓がガタガタと、建物も確かに揺れた感覚がした。
ハンナも同様に反応し、音がした方角へと顔を向けた。クラウスは窓に近づいて外を確認している。
リーゼロッテが椅子から立ち上がり、クラウスに倣って窓に近づいて外を見れば、煙が上がっているのが視認できた。この教会からそう遠くはない距離だ。全力で走り続ければ数分で着くくらいの場所だろうか。
「どう思う?」
視線は外に向けたまま、リーゼロッテは隣のクラウスの見解を求める。
「何者かが意図的に魔法で何かしたか――あるいは、魔力暴走の可能性が高いと思われます」
「同意見だわ」
テロ行為かとも一瞬脳内を過ぎったが、未だに続く魔力反応からして後者の可能性が非常に高い。確実なことはわからないけれど、異常事態なのは一目瞭然である。
「向かわれるのですか?」
くるりと踵を返すとクラウスに訊ねられ、リーゼロッテは顔だけ振り返って己の専属護衛を見据えた。
「当然よ。人の多い皇都内であの規模の魔力反応となれば、死人が出ていてもおかしくないもの。怪我人だって片手で数えられる程度で収まらないでしょうし、重傷者が多数も大いにあり得る。医者や一般聖職者で対応が間に合うとは思えないわ」
きっと、治癒魔法使いの派遣要請が来るはずだ。先立って動いた方が良いに決まっている。
「何もリーゼロッテ様が出ずとも、猊下にお任せする手もあります」
どんな危険があるかわからないと、クラウスが主人の身を案じてくれているのは確かだろう。過保護すぎると思わざるを得ないけれど。
治癒魔法は高難度の魔法だ。軽傷であれば治せる者はそれなりにいるものの、重傷ともなれば話はだいぶ変わってくる。
シュトラール教会では、聖職者は主に浄化魔法の訓練が重視される。治癒魔法を軽んじているわけではないけれど、訓練の内訳には差があるのも事実だ。
重傷を瞬時に癒やすことが可能な最高レベルの治癒魔法を実践的に使えるのは、現在シュトラール教会にいる者ではリーゼロッテとジークムントだけ。使うだけなら他にもできる者はいるけれど、かなりの集中力と魔力、時間を要するので、緊急事態での現場での治癒には向いていないのである。はっきり言ってしまえば重傷者ばかりの状況では使いものにならない。
だから、必然的にリーゼロッテかジークムントの二択になる。
「叔父様は大事な決裁案件に手をつけている時間帯だもの」
重要な案件があると聞いているので、ただでさえ多忙な敬愛する叔父の仕事の邪魔をしたくはない。
「そもそも、皇都周辺は私の管轄よ」
シュトラール教会は独立した機関ではあるけれど、リザステリア帝国の土地を買って拠点として活動しているし、協力関係にある。所属しているのもほとんどがこの帝国出身者で、少なからず思い入れがある者が多く、治安維持のための協力を惜しむことなどそうはない。
そして、教会内においては基本的に、皇都周辺の地域はリーゼロッテの担当となっている。もちろん何か事が起こっても毎度リーゼロッテが対応するわけではないけれど、今回は被害の規模が明らかに大きいのだ。下の者では手に余るだろうし、現実的な話をするなら教会の体裁にも関わってくる。
「他の者でも問題ないと確認できたらさっさと帰ればいいわ。まだ異論はある?」
「……いえ。リーゼロッテ様の御心のままに」
忠誠心の強いクラウスは結局、軽く頭を下げて諾を示した。
「ハンナ、私が対処するから問題ないと叔父様に伝えて来てくれる? その後は私が戻るまで引き続き書類整理をお願い」
「かしこまりました」
指示を受けたハンナが一礼して執務室を出て行く。長くテーブルに向かって書類を捌いていたリーゼロッテは、伸びをして体をほぐした。
引きこもっているのは好きだけれど、こうも仕事が多いのはどうにかしてほしいものだ。生活基準は高くとも常に重い責任が付き纏う権力者というのも良いことばかりではなく、なかなかに疲れる。
「わざわざ聖女らしい服を着て机に向かっていた甲斐があったわね。着替えなくて済むわ」
正装ほどではなくとも聖女らしい、上品な堅苦しい服装を、普段から仕方なく受け入れている。良い点といえば、外出する上で着替える手間がかからないことくらいだろう。
「行くわよ」
「は」
教会の西門の前には二人の聖騎士の姿があった。焦茶色の髪と瞳で爽やかな見た目の青年と、赤みがかった茶髪に琥珀色の瞳を持ち、まだ多少幼さを残す顔立ちの青年だ。
彼らはリーゼロッテとクラウスの姿を捉えると、洗練された動きで一礼した。軸がしっかりした綺麗な姿勢だ。
「お待ちしておりました、リーゼロッテ様」
聖騎士団近衛隊所属の聖女専属護衛、ルードルフとダニエル。クラウスの直属の部下である。
あの暴発の異常自体はもちろん教会の敷地内に轟いている。リーゼロッテが動くと正確に予測し、ここで待っていたようだ。
世界で最も地位の高い聖女の外出において、護衛が一人のはずがない。にもかかわらず他の護衛を呼びに行かなかったし連絡係も向かわせなかったのは、彼らならちゃんと来ると知っていたからだ。信じていたのではなく、知っていた。
「優秀ね」
感心だわと、リーゼロッテは満足げに目を細める。さすがは聖女専属の聖騎士達である。
「爆発地点から避難してくる住民がおりますし、その中を馬で向かうのは難しいかと思われます」
ルードルフの言う通り、パニック状態の大量の人の流れに逆らって馬を走らせるのは困難だろう。
「かと言って普通に走るのは、リーゼロッテ様の体力を考えると難しいですよねぇ」
「よくわかってるじゃない」
呑気なダニエルの言葉に、リーゼロッテは可愛らしく首を傾けながら口角を上げた。リーゼロッテの体力のなさは周知の事実である。
誰かが抱えて走るという手もあるけれど、それも人混みを抜けなければならないことに変わりはない。となれば、建物の屋根をつたっていけば時間のロスもほとんどなくかなりのショートカットになるので、そちらのルートを選択するか、もしくは――。
「クラウス」
「は」
名前を口にしただけでクラウスは主人の意図を汲み取り、すぐさま魔法を発動させた。光を放つ魔法陣が四人の足下に出現し、一層強く光った後――次の瞬間には、景色が一変していた。
魔力反応が続く場所のすぐ近くの建物の屋上に、四人は転移したのだ。
転移魔法は高難度の魔法なのに、こうもあっさり使ってしまうとは。近衛隊を率いる隊長のずば抜けた技術力を改めて感じつつ、ダニエルは教会の方を眺め、それから風で広がり薄くなった煙が舞う現場に視線をやった。
「マジで正確。さすが……」
「感心するのは後にした方がよさそうだよ」
すでに周囲に注意を払い、ダニエル以外は現場であるほぼ全壊している建物のあった場所を見下ろしている。
積み重なっている瓦礫の上に子供がいた。ガタガタ震えながら、自分の身を守るように縮こまってしゃがみ込んでいる。子供から溢れる膨大な魔力が、それによって生まれた不自然な強い風と共に子供を覆っていた。
「やっぱり魔力暴走ね」
元々は建物の中にいて、魔力暴走で周囲が破壊されたのだろう。かろうじて向かって左側が僅かに残存している建物の右隣の建物、向かいの建物二件は、瓦礫が吹き飛んだ影響か一部が崩れて酷い状態だ。近場の建物も、衝撃によるものか窓が完全に割れていたりヒビが入っていたり、被害の範囲が広い。
大通りに面しているため、負傷者はかなりの数が視認できた。動けない者もいるようで悲惨な光景が通りに沿って広がっている。
現在は、たまたま近くを巡回していて早急に駆けつけることができたらしい帝国騎士二人が、なんとか子供の魔力を抑えようと魔法で対応している場面である。苦戦しており、状況は厳しい。
魔力の総量は個人差がある。保有していないのと同程度の微量すぎる魔力しかない者もいれば、身に余るほど――身を滅ぼしかねないほどの強く多量な魔力を持つ者もいるのだ。
多量な魔力であっても制御できれば問題ないけれど、訓練も何もせずに最初から完璧に制御できる者などそうはいない。特に子供は技術が拙く未熟で、成長期は魔力量が急激に増える場合もあり、制御は容易なことではないのだ。魔力が暴走し、意図せず魔法が発動したり、魔力そのものが爆発のように広がり害を及ぼしたりすることもある。
魔力暴走は激しい感情に呼応して起こることが多く、感情を上手く制御できない子供が起こす例が多い傾向にある。大人は皆無というわけではないけれどあまり例がないのだ。
リーゼロッテも幼い頃、魔力暴走を経験している。しかしジークムントが対処してくれたこともあり、怪我人を出さず、大した被害もなく、ものの数秒で無事に収束したのだ。その点において、リーゼロッテは環境に恵まれていたと言える。
子供はボロボロの服を身に纏っており、体も痩せ細っていて、見るからにまともな生活を送れていないとわかる。生活支援が比較的充実しているこの皇都では珍しいほどに健康的とは言えない。歳の頃は五、六歳に思えるけれど、実際はもう少し上かもしれない。
見守ってくれる大人がそばにいる環境ではなかったのだろうか。魔道具で魔力を吸収して暴走を抑えることも可能なのに、それを与えられることがなかったのだろうか。この皇都でまさかこのような事件が起こってしまうとは。
「騎士も苦労してるわね。相手が子供だし」
「怪我させまいと考えていたら、彼らでは間違いなく収まりませんね」
「そうね、もっと実力のある者でないと。……でも、猶予はないわ」
帝国騎士団の実力者の到着を待ってはいられない。このままでは被害が大きくなる一方だし、暴走による魔力の垂れ流し状態は、まだ体が出来上がっておらず魔法への耐性が強くはない幼い子供自身の命の危機にも繋がる。
魔力暴走により、体力の限界が来て気絶したという例もある。しかし、気を失ったからといって暴走まで収まるとは限らないのだ。暴走を己の意志で止めることも難しい。
事態は急迫している。迅速に解決する必要性がある。騎士が頼れないのなら、この場でそれが可能な者は限られている。
「ルードルフ、あの子を止めて。子供の扱いはお手のものでしょう」
「御意」
「えー。俺がその役やりたかった」
「ダニエルは結界をお願い」
「はあ……。御意」
指示通りに子供を止めるべく、ルードルフは屋上の手摺に足をかけると、躊躇いなく強く蹴り、子供の元へとジャンプした。
重力に従い落下する体は、しかし途中で発動させた魔法の効果でゆっくりと地に降り立つ。それを見計らい、ダニエルがつまらなそうに子供とルードルフだけを隔離するように結界を張った。淡い色がついた膜で場が遮断される。
子供は突然現れたルードルフに気づくと、ビクッと肩を揺らして怯える様子を見せた。そんな子供を安心させるように、ルードルフは片膝をついて目線を合わせる。
「大丈夫だ。落ち着いて」
優しく穏やかな声で、ルードルフは子供に声をかける。暴走する魔力をどう抑えればいいのかわからず混乱し、不安を抱え、恐怖にとらわれている子供の精神を、決して強く刺激しないように。
「ち、近づかないで……っ」
子供の怯えに反応した魔力が、ルードルフに向かう。ただ魔力が放出されただけで魔法ではないけれど、風に混じったそれはルードルフの頬に微かな傷を与えた。
子供ははっと恐怖に顔を歪めた。元々悪かった顔色が更に青くなる。故意ではないながらも他者に傷をつけてしまったことで、報復を受ける恐れと罪悪感を覚えているようだ。
しかしルードルフは変わらず、痛みさえ感じていないように優しい表情を崩さず、むしろ微笑みかける。
「安心してほしい。俺は聖騎士だ。君に危害を加えることはないよ」
「……せいきし……?」
子供は戸惑い混じりの声を零した。
「聖騎士様だ」
「これは……」
騎士二人は突然の聖騎士の介入と高度な結界に驚愕し、呆然立ち尽くしている。やはり彼らにはあの子供の対応は荷が重い。
「降りるわよ」
「失礼致します」
クラウスは断りを入れ、リーゼロッテの背と膝裏に腕を回して軽々と横抱きにした。さすがの膂力だ。所謂お姫様抱っこであるけれど、甘い雰囲気はまったくない。
リーゼロッテが大人しく身を預けると、クラウスは主人を抱えたまま、表情を変える事なく屋上から飛び降りる。最初はかなりの速度で落ちていたが、ルードルフの時と同様、二人の足下に魔法陣が出現して次第に速度はゆっくりになっていった。地面に叩きつけられることはなく、無事にコツ、とクラウスの靴裏が石畳を踏み締める。リーゼロッテの波打つ長い髪やドレスがふわりと舞い踊った。
クラウスは細心の注意を払い、温もりが離れることに寂しさを感じながらもそれはおくびにも出さず、そっと優しく主人を降ろす。瓦礫やガラス片は魔法で排除済みだ。
足をつけたリーゼロッテは子供とルードルフを注視しつつ、乱れた髪やドレスを整えた。
「わっ、とと」
窓の縁やベランダ等、建物の壁面の凹凸を利用して飛び移りながら屋上から降りてきたダニエルは、二人に遅れてやって来た。最後の着地に失敗して少しバランスを崩したものの、そこは両腕を伸ばすことで調整してさすがの体幹で堪え切り、地面に転がることはなかった。
「格好つけて壁を使って降りてくるからそうなるのよ」
「なんか魔法よりかっこよくないですか?」
「さあ。その感覚はよくわからないわ」
最後に失敗して情けないポーズになっていたので、彼の理想とする格好良さは出ていなかったはずである。けれども本人的にはそれなりに満足そうな表情だ。
「せ、聖女様……!」
通常運転なやりとりが繰り広げられていた中、騎士がようやく三人の存在にも気付き驚きに声を上げたことで、場にそぐわない、緊張感のまったくない会話は終わりを告げた。