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39.第八章三話



 その告白に、リーゼロッテは目を丸める。さすがにそれは予想できなかった返答だった。


「後悔に苛まれながら、赦しを乞いながら、ひたすら謝罪の言葉を口にして――自ら腹を剣で刺し、そのまま生き絶えました」


 腹を刺したという言葉に、リーゼロッテは反応する。真っ先に脳内に浮かんだのは、エレオノーラの最期の時だった。

 彼が腹を刺して自らの命を絶ったのはきっと、聞くまでもなく、エレオノーラがあの馬車事故で腹を負傷したからだろう。途中から崖を転げ落ちて全身、頭も打ち、意識が朦朧としていたが、一番酷かったのは腹の傷だった。死因について詳細な記録はないけれど、恐らくエレオノーラの死因は枝が刺さった腹からの出血多量によるものだと、リーゼロッテは推測している。そしてそれは、ほぼ間違いなく当たっているはずだ。


 同じ苦しみを味わう方法で後を追うほど、墓前で命を断つほど、ランベルトはエレオノーラを想ってくれていた。重い、というのが一般的な意見となるだろう。目の前で失ったからこそかもしれないけれど、そのことを考慮しても普通とは表現しがたい想いであったのだと感じる。

 あの、王家への忠誠を絶対としていた騎士が、そんな気持ちを抱いていたなんて。自覚していなかっただけで、自覚するのが遅すぎただけで、ずっと、エレオノーラが彼の中で何よりも特別だったなんて。

 それならば、そんなに想ってくれていたのならば。


「そんなことをするくらいなら、離れないでずっとそばにいてくれればよかったのに」

「……そうですね。本当に愚かでした」


 ぐっと、クラウスの眉根が寄る。後悔と謝意と苛立ちと、色んな感情が混ざった複雑な心情が表れていた。

 ランベルトがエレオノーラの命を奪ったわけではないのに、彼にとっては己の全てが、同じように罪深いことだったのかもしれない。二人の婚約が解消されなければ、きっとあのような悲劇は起こらなかっただろうから。

 もしかするとヴェローニカの処刑は、ランベルトが何か手を打ったのだろうかと、そんな可能性に気づいてしまった。エレオノーラを愛していたと言うなら、後を追うほどの想いだったのなら、あり得なくはない。一介の伯爵家三男の騎士にそのような権限があるはずもないのだけれど、容易く否定できなかった。


 確認してみたい気持ちもあったけれど、なんとなく必要ない気がした。だって今、リーゼロッテの心は晴れやかだ。ずっと心に棲んでいた重く苦しい負の感情が、霧散して消えたように軽くなっている。

 だったらもう、今はそれでいい。いつか、どうしても確認したくなったら聞けばいい。


(そう……そうなのね)


 無駄ではなかった。結局彼女は死んでしまったけれど、十年という時間は、培われた想いは、何も生まなかったわけではなかった。

 とにかくそのことを胸に反芻していく。嫌な思い出が消えるわけではなくとも、ゆっくり少しずつ昇華されていく。


「ねえ、クラウス」

「はい」

「貴方、私のことどう思ってるの?」


 そう尋ねられて僅かに目を見開いたクラウスは、真摯な顔つきで告げた。


「お慕い申し上げております」


 まっすぐ、はっきり。


「私が聖女だから? それとも、エレオノーラだったから?」

「貴女だからです、リーゼロッテ様」


 隠すことなく、偽ることなく、その心の内を打ち明けてくれる。迷いのない、揺らぎのない双眸は、それが真実であることを信じさせてくれる。本心であるのだと切実に訴えてくる。


「最初は、エレオノーラ様の生まれ変わりである貴女を今度こそ最期までお守りしようと、そのために聖騎士になり、仕えていました。エレオノーラ様に抱いていた気持ちを、そのまま貴女に抱いていたのは事実です。しかしすぐに、それだけではなくなりました」


 始まりは、確かに前世の贖罪もあったのだろう。


「貴女に仕えて、貴女という人を知って、次第に惹かれているのが自分でもわかりました。聖女だからではなく、聖女が貴女だから好ましい。俺はただ、貴女を愛しています。エレオノーラ様だった貴女も、今の貴女も。貴女の全てを、愛しています」


 全肯定の愛に、リーゼロッテは瞠目した。ここ数日は、心の底から驚愕することばかりな気がする。

 濃く綺麗な紫の双眸は、変わらず熱くリーゼロッテを見つめている。ただの主人を見る眼差しではない。そんな単純な熱ではない。忠誠心だけでは説明がつかないものが、確かに宿っている。


「……私や叔父様が命令したら、私じゃない人と結婚できる?」

「申し訳ありませんが、リーゼロッテ様のご命令であろうと、絶対に、断固として拒否させていただきます。すでに俺の全ては貴女個人に捧げていますので、貴女以外のものになるつもりはありません」


 それは、絶対的な宣誓だ。何人たりとも介入することのできない、決して曲げられることのない意志。少し前なら違った意味で、曲解して受け取ってしまっていたであろう、彼の心の内。己の感情の機微にさえ疎かった彼の、前世からの、学び。


「今回のことで、貴女が命令するのであればおそばを離れる覚悟はしておりました。ですがどうか、このまま貴女をお守りする権利を持ち続けることをお許しいただけないでしょうか」


 まるで捨てられそうになっている仔犬のように、クラウスの目は切実だった。

 彼はもう、昔と同じではない。


(私は)


 リーゼロッテはエレオノーラとは違う。それでも、全く違うわけではない。前世の記憶があったからこそ今のリーゼロッテになっている。エレオノーラを受け継いだ自分もリーゼロッテであり、自分の一部である彼女を否定する必要などなかった。

 本当は――否定したかったんじゃなくて、エレオノーラごと認めてほしかっただけだった。本心はそうだったのだ。


 否定する必要がないのは、クラウスにも言えること。

 クラウスもランベルトではない。生まれ変わったからと言って、全く同じ人間ではない。けれど、ランベルトとしての生があったからこそ今のクラウスがある。ランベルトも今世の彼を形成する一部だ。

 記憶がなかったのならまた話は違ってくるだろう。でも、リーゼロッテにもクラウスにも、記憶喪失にでもならない限り、かつての記憶があるのは変わることのない事実なのだ。


 すう、と。自然と、静かに眦から溢れた涙が頬を伝った。はっきりと冷たい感覚が残る。それを認めたクラウスはぎょっと驚きを露にした。


「リ、リーゼロッテ様……! やはりご不快でしたか? 申し訳ありません」

「……そうじゃないわ。貴方を手放す選択肢なんて、もうないわよ」


 氷の聖騎士が聞いて呆れる狼狽っぷりだ。おかしくて思わず笑うと、クラウスは薄ら頬を染めながらほっと安堵の息をついた。

 リーゼロッテの涙を、剣を扱う固い指が拭う。拒絶されないことが嬉しいのか、自然と口元を緩めていた。


「貴女に応えてほしいなどという烏滸がましい欲は、蓋をして心の奥底に閉まっていました。リーゼロッテ様が俺を好きになることはあり得ないし、そもそも俺にはそんなことを望む資格はないと。好きでいる資格すらないと、そう思っていました。それが俺に科せられた罰の一つであるのだと、ずっと」


 宝石のように美しい紫眼は、甘い熱を帯びている。


「けど、もし許されるのなら――望んでもいいですか?」


 許可なんか求めなくていいのに。律儀にそんなことを尋ねるのは、正面から直接希うのは、誠実なようでいて実は少し狡いのではないだろうか。リーゼロッテの答えを、この男は大方予想できているはずだ。


「好きにしなさい。望むだけなら自由だもの」


 あえて望まない返答をしようかなどと、そんな考えは過ぎりもしなかった。ないとは思うが、また関係が拗れるかもしれない不安要素をわざわざ作り出したくなかったのだ。

 少々素っ気ない言い方になってしまったけれど、クラウスは全く気にしていないようだった。なぜか椅子から降りて床に片膝をつき、リーゼロッテの手をそっと握る。まるで繊細なガラス細工を扱うように優しく、けれどしっかりと、その存在を確かめるように触れる。そうしてその手を持ち上げ、自身の額に寄せるのだ。


「ありがとうございます、リーゼロッテ様」


 お礼を紡ぐ声は、湧き上がる喜びや安堵で微かに震えていた。それほど真剣な気持ちなのだと証明している。

 リーゼロッテはぎゅっと唇を引き結んで、顔を見られないようにクラウスとは反対の方に向けた。俯けば、長い髪がカーテンのように彼から隠してくれる。

 どんな表情を浮かべているのか、鏡を見なくとも自覚せざるを得なかった。顔が熱くて仕方ない。


「もう少し眠るから、ここにいて」

「はい」

「……手も、握って」

「はい」


 嬉しそうに返事をしたクラウスが、今度は口元にリーゼロッテの手を引き寄せる。クラウスの姿を視界に捉えていなかったリーゼロッテは、そのまま手をベッドに下ろしてくれるのだろうと思っていたため、すぐに反応できなかった。

 気づいた時にはすでに手の甲に口付けが落とされていて、予想外の温もりに目を丸めてぱっと顔を上げる。柔らかな唇の感触が離れると、そのまま指を絡めて手が繋がれた。接触面が多く、体温自体は微熱なのに普段より冷たくなっているリーゼロッテの華奢な手に、クラウスの体温がゆっくり移っていく。


 クラウスは表情を緩め、甘さを孕んだ眼差しでリーゼロッテを見つめる。年齢性別を問わず他者を魅了する美貌に浮かべられた柔らかな笑みに、リーゼロッテが息を呑んで見惚れないはずはなかった。

 初めて見る表情だ。どこまでも甘さだけを煮詰めたような、愛しいという想いが溢れた顔。今までは本当に気持ちを押し込めていたことがありありと伝わってくる。面食いのリーゼロッテには効果抜群すぎる最強の顔面凶器だ。

 顔がいいことは重々承知していたはずなのに、悔しいことに、否応なく再認識させられる破壊力だった。


 ずっとずっと、切望していたもの。手に入れられなかったもの。彼は嫌だなどと口にしておきながら、心の奥底では、他の誰でもない好きな人(かれ)に与えて欲しかったもの。本当は諦めていなかった、諦められなかったもの。

 それを今、惜しげもなく向けられている。優しく誘惑する熱を帯びた眼差しは、共鳴するようにこちらの熱も容易く引っ張り出す。

 反則だと、理不尽にも文句をぶつけたくなった。

 体も脳も、今は休息を、睡眠を欲しているはずなのに。ドキドキと胸が高鳴って、風邪とは関係なく体が熱って、すぐには寝付けそうにない。



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