36.第七章四話
ザァァ、と音がする。
ドレスが雨を吸って次第に重みを増していき、肌に張り付く。その中でゆっくり周囲を見渡せば、木々が生い茂っており、淀んだ黒い霧のようなものがあちこちに漂っているのを視界に捉えた。
(木と、雨。それに濃い瘴気……ここは)
見当がついた。皇都の南門から馬で十五分ほどの場所にある瘴気の森だ。
リーゼロッテの力が感情のままに暴走したのであれば、転移先がこの程度の距離で終わるはずがない。理性が働いた結果なのだろう。
それにしても、よりにもよってこの場所に転移してしまうとは。とりあえず人はいないと無意識に考えていたのか、ただの偶然か。
瘴気の森は瘴気の発生が浄化が追いつかないほど早いため、魔物が多く生息している。どの国にも点在しており、リザステリアの森はリーゼロッテがいるからか規模は小さい方だ。どこの森も中心に近づくほど瘴気も魔力濃度も高くなり、その辺りは数分いるだけでも人間では気分不良を起こしてしまうほど。例の伯爵領の山の時ほどではなくとも、魔法や魔道具での対策なしに立ち入るのは自殺行為に他ならない。
それほど危険ではあるけれど、リザステリアの森の魔物達は森から出ることはほとんどなく、森に侵入する者しか襲うことはない。それゆえに、近づいたり立ち入ったりさえしなければ、ある意味安全ではあると判断されている地でもある。
感覚的に、リーゼロッテがいるこの場所は中心地点ではないようだ。とはいえ外側の方と言うわけでもなく、大体森の中心と端を結んだ中間地点というところだろう。
魔物の気配はたくさん感知できるが、襲ってくる様子はない。突然現れた人間を警戒しているというのもあるが、そもそもリーゼロッテは聖女。その身に宿る神聖力を感じ取り、下手に近づいていい存在ではないと本能で理解しているのだろう。
気配はどうしても感じるので少々気にはなるけれど、害はないから落ち着いて考え事もできる。
(……叔父様)
リーゼロッテを溺愛する叔父の顔が思い浮かぶ。
あれほどの異変――リーゼロッテの暴走に、ジークムントが気づかないはずがない。実際にリーゼロッテが魔法を発動させる前にジークムントはあの部屋に現れたのだが、リーゼロッテはその時は気づかなかったので、たぶんいたのだろうと推測を立てる。話は聞こえてしまっていたのだろうか。
その点も不安だけれど、冷静さをかなり取り戻した今では、自分の愚かで身勝手な行動に血の気が引く思いだった。
これまで大きなわがままは言わず、問題は起こさず、完璧な聖女として振舞ってきたのはなんのためだったのか。聖女の価値を下げることで保護者であるジークムントの評価も下げてしまうことを、絶対に回避したかったからだ。
だというのに今、リーゼロッテは己の感情のままに教会を飛び出してしまっている。これを問題行動と言わずしてなんと言うのか、他の答えがあるなら誰か教えてほしい。
しかも直前に傷つける言葉を一方的に放ってしまっていたというダブルパンチ。短い時間の中であまりにもやらかしすぎていて、己の衝動的な愚行に頭を抱えた。
(何やってるのよ、私は)
今すぐに戻って謝罪するべきなのはわかっている。わかってはいるが、どうしてもその気になれない。暫く誰もいない場所で、一人で、ゆっくり考える時間が欲しい。
今は、とにかく彼の――クラウスの顔を見たくない。
『リーゼロッテ様っ!』
こちらに伸ばされた手と、必死な表情。
振り払うことはしなかったけれど、その手を取ることもなかった。
(とりあえず、雨の対策……)
体が冷えて体調を崩したら更に大きな問題になると、魔法を使って髪やドレスを乾かそうとした時。ガサガサと茂みから音がして顔を上げた。
一瞬獣かと思ったが、近づく影は茂みよりも高い。それにいくつもあり――人の形をしている。
「ん? おい、女がいるぞ」
木の幹に手をついて最初に茂みから抜け出した男と目が合った。見るからに軍や教会の関係者ではない。帯剣しており、背中には弓も背負っている。決して綺麗とは言えない格好で、立ち姿から気品なんてものは感じられない。
彼に続いて他の男達も茂みから出てきた。全員で四人。
そこら中に気配が溢れているので、魔物のものかただの動物のものか、はたまた人間のものかなど、いちいち気にもとめていなかったのが失敗だった。
魔力と瘴気が漂う立ち入り禁止区域のこの森で、まるで狩りでもするような道具と服装。密猟者だと、すぐに察しがつく。
「なあ。あの髪と目……」
「もしかして聖女サマか?」
この森に自分達以外の人間、それも女性がいることに驚きを露にしていた彼らだったが、次いでニタリと口角を上げた。
「こりゃあいい」
獲物を定めた肉食獣のように、欲望にまみれたその目がギラリと光ったようだった。
お忍びの時のような目や瞳の色を変える魔法も、認識阻害の魔法も、当然ながら今は使っていない。この国では珍しい――皇族の血を濃く受け継ぐ証である黒髪と、聖者を示す黄金の瞳を隠していないわけだ。誤魔化しようがなかった。
リーゼロッテの正体に気づかなかったとして、彼らが優しく親切に森の出口まで案内してくれたとは思えないけれど。
「噂通り、随分美人だな」
「見たところ護衛もつけてないっぽいな。こんなとこに一人で、無防備にもほどがあんだろ」
「俺達としてはラッキーじゃねぇか」
「聖者は世界に一人だからな。身代金と交換か、他国に売っ払って大儲けか。その前に遊ぶのもいいな」
聖女は世界にたった一人。その価値は計り知れない。他国からすれば喉から手が出るほど欲しい人材だ。それこそ、表立って自慢できないような手段を用いてでも手に入れたいと望む個人も国も、少なくない数が存在するほどに。
神の祝福を受けた者に害を加えれば当然ながら神の怒りを買うことになるなど、頭の中からすっぽり抜けている。間抜けとしか評しようがないだろう。
そんな間抜けへの対処が、今求められている。そばにはいつも守ってくれているクラウスもジークムントもハンナも、他の聖騎士も、誰もいないのだ。リーゼロッテ自身の手で彼らを無力化しなければならない。男女の体格差、更には人数差もあるけれど、不利だとは一切思わなかった。
森の中で火の魔法は厳禁。そもそもこんな雨の中で使えば、威力が弱まるのは目に見えている。魔力消費も抑えることを考えると、必然的に水魔法一択だ。
本気で攻撃すればリーゼロッテの力では相手が怪我で済まないことなど確実なので、周囲の雨を利用し、先手必勝で手加減をして水魔法を放つ。詠唱もせず、それこそ瞬きをする一瞬で魔法が繰り出されたことに驚愕する彼らの元に、防御する間もなく水の塊が到達するが――。
「!」
バチィ!
音が走ると共に水の塊が弾かれ、リーゼロッテは目を見開いた。密猟者達の一メートルほど手前で、壁にぶつかったように水が弾けたのだ。
「……はは! 聖女様も大したことねぇのな!」
怯んでいた密猟者達も驚いていたが、途端に挑発するように笑う。
あれは防御魔法だ。リーゼロッテの魔法に一歩も動けなかった彼らが自らの意思で発動させたとは思えない。つまり何か――恐らく、魔道具でも持っているのだろう。
これは、少々厄介だ。
(ああもう。頭ガンガンする……)
教会で力が軽く暴走して体へ負担がかかったところにこの雨である。雨水を吸ったドレスが肌に密着し、リーゼロッテの体温を奪っているのだ。明らかに体調に変化が起き始めていた。
手加減とか、そんな悠長なことを考えている場合ではない。とにかく一刻も早く休まなければ、これは本格的に体調を崩してしまうのが確実だ。もう手遅れな気がするけれど。
どうせ彼らは犯罪者。リーゼロッテを攫おうとしているのだから、気遣いは無用である。多少怪我をさせたとしても正当防衛と主張すれば通る状況なのだから問題ないだろうと、リーゼロッテが力を込めて魔法を発動させる寸前。
空気が、変わった。
変化を敏感に感じ取ったのはリーゼロッテだけで、密猟者達は気づかなかったらしい。――密猟者達が、一瞬で氷に覆われた。
一気に空気が冷え込む。その氷からは、馴染みのある魔力が感じられた。
「リーゼロッテ様」
ゆっくり、後ろを振り向く。
クラウスがそこに立っていた。雨に髪を濡らし、肌を濡らし、服を濡らして、ただまっすぐにこちらを見つめて。リーゼロッテの歩幅で言えば五歩程度の距離の場所にいたのだ。リーゼロッテの反応を探り当て、転移魔法でこちらに来たのだろう。
暫くは会いたくなかったはずなのに、その姿を見ても、あれほど沸騰していた怒りが嘘のように湧き上がる気配がない。それよりも、彼がくれる安心感が強かった。
(今回は、来てくれた)
安堵と共に浮かんだのはそんな感想だ。
ランベルトはエレオノーラを追いかけなかった。来てくれなかった。なのに、今回は――クラウスは違った。
幻ではない。彼は確かにそこにいる。それが嬉しいのか、腹立たしいのか、己の中に渦巻く感情がよくわからない。
目を伏せたリーゼロッテの体は思うように力が入らず、前に傾く。クラウスが慌てて受け止めた。最近もこんなことがあったことを思い出して、そう感じる頻度も多いなと感想を抱く。
「まさかお怪我を!?」
「……してないわ」
「本当ですか?」
「嘘ついてどうするのよ」
疲れ切ったリーゼロッテの言葉にようやく納得してくれたのか、「それもそうですね」と小さな呟きが返ってくる。
クラウスは魔法で結界を張り、雨を防いだ。それから二人の髪や服も乾かす。右手の手袋を外してリーゼロッテの滑らかな白い肌の頬に触れれば、冷たくはあるけれど、温もりもあった。怪我もなく無事だ。手を滑らせて首元に移動させ、とくん、とくん、と動く脈を確認する。
生きている。ちゃんと、息をしている。
「本当によかった……っ」
安堵の息を零しながら、クラウスは主人の華奢な体を更に抱き寄せた。大きな体に包まれ、リーゼロッテはゆっくり目を閉じる。普段は彼の方が体温が低いのに、今は温かい。
期待してはいけない。嫌と言うほど、それをわかっているはずだった。
(どうして……)
忠誠心の塊。優先するのはリーゼロッテのためになること。であれば、嫌いだと拒絶された自分よりも、迎えにはジークムントを向かわせるのが適任のはず。クラウスならそう考えるはずだと、リーゼロッテは思っていた。
なのに彼は今、ここにいる。腕の中のリーゼロッテを、きつく、それでいて痛みを与えないように優しく、気遣いながら抱き締めている。
「どうして来たのよ」
責める問いに、クラウスは迷わず答える。
「他の者に、貴女を任せたくないのです。それだけは譲れません」
おかしなことを言う、というのが真っ先に浮かんだ感想だ。
ランベルトはあっさりエレオノーラを手放した。その彼の生まれ変わりである彼が、記憶さえも引き継いでいる彼が、譲れないなど。やはり聖女だからだろうか。
「叔父様がよかったわ」
「申し訳ありません」
その謝罪は、リーゼロッテの望みを叶えられないことに対するものだ。今からジークムントにこの役目を渡すつもりはないし、もしまた同じようなことが起こっても譲る気はないと、そんな意志が感じられた。だからこその謝罪。
リーゼロッテはクラウスの胸に顔を埋めて、彼の服をぎゅっと握る。言いたい事は山ほどあるのに、上手く言葉が出てきそうにない。
「嫌いよ」
だから思うまま、たくさんの想いを込めて、短くぶつけた。
「はい」
「嫌い。嫌い嫌い嫌い。薄情者。裏切り者」
「はい」
クラウスは反論せず、邪魔することもなく、己に向けられている罵倒を甘んじて受け入れている。
「嘘つき」
「――はい」
全部、認めている。
「あなたなんか、きらい。だいきらい」
「はい。承知しております」
至って落ち着いたまま、クラウスは宥めるようにリーゼロッテの頭を、髪の流れに沿って撫でていた。決まった速度で、決まったテンポで手を動かし、リーゼロッテの精神を安定させる。
心地よい温もりに、リーゼロッテは感情が鎮まるのを通り越してうとうとし始めた。やはり体が休息を求めているようだ。
「……クラウス」
「はい」
「寒いわ」
ぽつりぽつりと、リーゼロッテは短く零していく。
先程まで雨に濡れていたし、空気も冷たい。それに何より、疲れたのだ。疲れてしまった。早く眠りたい。全部全部、後でいい。もっとクラウスに文句を言うのも、何もかも。だから。
「かえる」
小さく、しかし確かに紡がれた単純な要望に。
「はい、リーゼロッテ様。帰りましょう」
クラウスは目元を和らげて返事をした。
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