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35.第七章三話



 自身で扉を開けて外に出たリーゼロッテは、廊下にクラウスがいることに気づいた。濃い紫と視線が絡む。

 ジークムントの執務室に向かうと伝言等は頼んでいないはずなので、部屋に向かう途中にすれ違った人にでも確認したか、もしくは気配でも探ってこちらに来たのだろう。


「アルフの見送りは終わったの?」

「はい」


 アルフレートのご指名だったので何か多少は長く話でもするのかと予想していたが、意外にも早く切り上げたらしい。


「ブライアン、カミル。もういいわ」


 リーゼロッテが開けた扉は警備の聖騎士によってまだ開け放たれたままで、促されたブライアン達が別れの挨拶をして入室すると扉は閉められた。直前に「え、猊下……?」と戸惑った声が聞こえた気がする。


「隊長が戻ったんで、俺達は行きますね」

「ええ。ありがとう」


 一礼したダニエルとルードルフもいなくなる。

 クラウスが戻ったのであれば彼らはここに残っていなくともよかったのだが、「待機」と命令されていたため、リーゼロッテが出てくるまで待っていたのだろう。ルードルフはともかく、ダニエルは変なところで真面目を発揮する。


 彼らとは反対の方――自室に向けて、リーゼロッテは足を進める。クラウスも後に続いた。

 歩きながら考えるのはジークムントのことだ。最後に見た、顔を青ざめさせる叔父の姿が思い浮かぶ。


 あの瞬間、苛立ったのも、悲しかったのも、今は話したくないと思ったのも、すべてが事実だ。事情を知らないのだから仕方ないと思うのと同時に、なぜ理解してくれないのかと理不尽な怒りを抱いた。

 後悔先に立たず。冷静さをある程度取り戻した今では、ひたすら自己嫌悪に陥る。

 リーゼロッテにとってジークムントは絶対的な理解者で、喧嘩らしい喧嘩などしたことがない。諍いと呼べるのはこれが初めてなのだ。自身が悪いと自覚しているから尚更、リーゼロッテの気分は急降下していた。




 自室について室内で深いため息を吐くと、ずっと様子を窺っていたクラウスに「リーゼロッテ様」と気遣わしげな声音で呼ばれる。


「猊下と、何かあったのですか?」


 振り返って顔を上げると、諍いの原因であるクラウスが、心配の色を孕んだ紫の双眸にリーゼロッテを映していた。思いっきり彼自身が絡んでいることなど想像もしていないはずだ。

 自室では仕事をするわけでもないのでクラウスには待機部屋にでも行ってほしかったのに、リーゼロッテの異変を感じ取って部屋の中までついて来たのだろう。


『どうしても、ロッテの護衛になりたかったみたいだよ』


 叔父の言葉が過ぎる。


 過去。ランベルトの忠誠心は、あの国の王家に対するものだった。盲目的な敬愛の対象は王家で、家系も彼自身もヴァールリンデ教の信徒ではあったけれど、敬虔な信者ではなかった。

 けれどクラウスは、聖女に――リーゼロッテに、それこそ出会ったその瞬間から、異常とも言えるほどあまりにも心酔している。クラウスの生家も際立って信心深いわけではなかったし、聖職者を輩出している家系でもなかったのに。

 前世と今世の違いはなんだろうか。聖女が存在していることだろうか。前世で二人が生きていた時代は聖女が亡くなっていたので、信仰心が王家へと向けられていたのだろうか。


「貴方、どうして聖騎士になったの?」


 そう尋ねると、クラウスは僅かに目を見開いた後、まっすぐに真摯な眼差しで、リーゼロッテを射抜いた。


()()()()、貴女をお守りするためです」


 今度こそ。つまり、以前は守れなかったということ。その以前というのは――リーゼロッテが描いている過去と、同じなのだろう。


「やっぱり貴方も、()()()()のね」

「はい」


 クラウスが頷くと、リーゼロッテはぐっと唇を引き結んだ。


『生涯、貴女のそばで、貴女をお守りいたします』


 かつて、エレオノーラとランベルトが婚約者として顔を合わせたその日。幼い彼は、幼い彼女にそう誓った。きっと彼はそばにいてくれるのだと、彼だけは自分を必要としてくれるのだと、エレオノーラという存在を認めてくれるのだと、信じていた。信じたかった。

 しかし、その約束は破られた。十年も婚約して関係を築いていたのに、あっさりと。


「……ふざけないで」


 ふつふつと、身を焦がしてしまいそうな、内から火傷してしまいそうなほどの怒りが湧き上がる。

 彼にも記憶があることは、薄々気づいてはいたのだ。リーゼロッテが馬車に苦手意識を持っていることを理解し、いつも気遣ってフォローしてくれていたから。外に出るのが嫌な気持ちも、ただ運動嫌いで疲れるからというだけが理由ではなく――外での死を経験しているからこそ少なからず恐怖心を抱いていることも、恐らく彼は知っていて、厳しくも支えてくれていたから。

 わかっていたはずだった。けれど、明確に肯定する言葉を彼の口から直接聞いてしまうと、まるで沸騰するように一気に頭に血が昇った。冷静になろうと、自身を制しようとする考えすら、どこかに消えている。


「今度こそ守る? 貴方が私を? 私が聖女じゃなくなったら簡単に離れるんでしょう? また()みたいに、躊躇なく切り捨てるんでしょう!?」


 目頭が、熱い。

 記憶があると言うことはつまり、彼が何をしたか――ランベルトがエレオノーラを捨てたことも、覚えているはずだ。その後に死んだことも知っているはずだ。

 なのに彼は、守るというのか。すでに約束を反故にした過去があるくせに、今更。


「エレオノーラは、愛してたのにっ」


 彼は知らない。エレオノーラがどれほどランベルトとの結婚を心待ちにしていたか。家族の温もりというものを知らずに育ち、どれほど普通の家族に憧れを抱いていたか。

 燃えるような情熱的な愛でなくともよかった。自分という存在を肯定してくれる誰かを、王弟の娘でも公爵令嬢でもなく、自分自身を見てくれる誰かを、大勢なんかではなくてもいいから求めていた。

 たった一人でもいいから。自分は愛されているのだと、誰かにとって必要な人間なのだと、実感させてほしかった。


 愛を求めるのはわがままだったのか。強欲だったのか。望んではいけないものだったのか。

 エレオノーラには、許されないものだったのか。


 ランベルトの王家に対する忠誠心は耳にしていたし、その目で何度か確認できたこともあった。エレオノーラ個人を彼が受け入れてくれるか僅かな不安はあったが、十年という婚約期間の積み重ねで、そして結婚してからもお互いを知る時間をたくさん作っていけるという希望を抱いて、日々彼を想っていた。

 全てを壊したのは、他ならぬ彼だ。彼の意思だ。

 良い関係を、確かな絆を築けていると、エレオノーラだけが馬鹿で愚かな勘違いをしていた。


『王女殿下がお望みなのであれば、それに従います』


 今でも鮮明に思い出せる。淡々とした、迷いのない声を。

 彼は王女を愛していたわけではない。十年も婚約を結んでいた相手より、忠誠心で王女を選んだだけのこと。彼にとっては王族がすべて。その中でも明確に順位が定められていて、王の姪であるエレオノーラは王の娘よりも下だったのだ。

 あの時の怒りと、悲しみと、絶望。やり場のない思いは全て、色褪せることなくこの魂に焼き付いてしまっている。


「彼女は……っ()は! ()()を愛してたのに!」


 ポロポロと、涙が眦から零れ落ちた。視界が、こちらを悲痛な面持ちで見つめるクラウスの姿が、乾く気配のない涙の膜で歪む。


「愛し愛される家族になれると思ってた! お互いを尊重できる夫婦になって行きたいと思ってたわ! やっと、やっと……私を愛してくれる『家族』ができるって、思ってたのに……!」


 なぜ彼は痛そうな顔をしているのだろうかと、更に怒りが募る。

 傷ついたのは、あっさり手を離されたエレオノーラだ。その記憶を、感情を受け継いでいるリーゼロッテだ。決して手を離した側の()()ではないはずなのだ。


「私があの崖で独りで死んだ時、貴方は呑気にヴェローニカや王妃と婚姻の打ち合わせをしてたんでしょう!」


 ぴくりと、クラウスの指先が動いた。興奮しているリーゼロッテが気づけるはずもない、小さな反応だ。


「エレオノーラは死に際に幻覚を見るほどランベルトを愛してた。裏切られたのに嫌いになれなかった。最期に愛を囁いたわ。――でも、私は違う……っ」


 感情の昂りに比例して魔力と神聖力がリーゼロッテの体から溢れ、風が生まれていた。


「何が……!」


 部屋の扉が乱雑に開けられた。部屋の外の警備の聖騎士だ。リーゼロッテの魔力と神聖力が濃密なほどに満ちて行く、風が吹き荒れる室内に驚愕している。

 けれどそんな彼らは、リーゼロッテの視界にも、そしてクラウスの視界にも入ることはなかった。二人の意識は今、お互いにしか向けられていない。


「リーゼロッテ様っ!」


 必死に、クラウスはその名前を呼ぶ。


「力が暴走しかけてます!」


 リーゼロッテは息を呑んだ。

 体の弱いリーゼロッテにはかなりの負担になるほど、力が勝手に放出されている。指摘されてようやく認識するほど冷静ではなかった事実に気づかされたけれど、驚いたのはそこではない。

 今、自分は誰だったのか。誰として叫んでいたのか。

 自分はリーゼロッテだ。リザステリア帝国で生まれ育ったリーゼロッテのはずだ。最後はリーゼロッテに戻っていた。しかしそれまでの自分は、確かに『エレオノーラ』だった。彼女の部分が強く表に出ていた。

 これほど感情を抑えられなかったのは前世を合わせても初めてのことで、かなり動揺してしまっている。


「ロッテ!」


 異常を察知して駆けつけたようで、慌てて入ってきたのは執務室で抜け殻になっていたはずのジークムントとブライアン、カミルだ。けれどやはり、リーゼロッテとクラウスは気づかない。


「……貴方といると、わからなくなるわ」


 違うのだと、自身に言い聞かせるように、リーゼロッテはずっと意識していた。生まれ変わりであっても、魂は同じでも、記憶があったとしても、エレオノーラではないのだと。同じ道を辿るようなことはないのだと。

 なのにこの男の存在は、必死に保っている境界を、築き上げた高い壁を、あっけなく壊して越えてしまう。

 エレオノーラに引きずられる。リーゼロッテを見失う。

 どこまでも酷い男だ。いつまでも――生まれ変わってまでも、苦しめ続けるのだから。


 キッ、と。リーゼロッテは金色の瞳でクラウスを睨みつけた。憎しみや嫌悪、そして悲しみなど、様々な感情が混ざった複雑な目で。


「貴方なんか、大嫌いよ」

「っ」


 リーゼロッテが呟くように言葉のナイフを放つと、次いで足下に魔法陣が出現した。リーゼロッテの体から溢れ出る魔力が室内に暴風にも近い風を生み続け、波打つ黒髪や身に纏っている衣服をバタバタとはためかせる。

 強い風と光に目を細めながら、クラウスは魔法陣に組み込まれている情報を瞬時に読み取り、その魔法がなんであるかを理解した。


「リーゼロッテ様っ!」


 これはリーゼロッテが自身の意思で発動しようとしているものだ。彼女の身に害のある魔法ではない。

 それでもクラウスはリーゼロッテの名を叫び、目の前の彼女に手を伸ばす。もう失いたくないと、引き止めるために。しかし――光に包まれたリーゼロッテの姿はなくなり、クラウスの手は虚しくも空を切った。魔法陣も消えている。

 体から一気に血の気が引いていく。足元が崩れてしまったような、底のない暗闇に落ちていくような感覚がした。思考が停止しそうになるのをなんとか堪える。


(また、俺は間違えた)


 彼女の心を、何よりも大切で守りたい存在を、傷つけてしまった。脳裏に焼きつくのは、綺麗な瞳に涙の膜を張りながらこちらを睨むリーゼロッテの顔。次いで思い浮かぶのは――雨に打たれる、冷たい少女の姿。

 前世でも今世でも、自分はなんと愚かなのか。


『貴方なんか、大嫌いよ』


 嫌われていることなど、憎まれていることなど、とっくに自覚はしていたはずだ。なのに、面と向かってリーゼロッテの声で、言葉で、直接告げられたのは、無警戒の瞬間に頭を思いっきり鈍器で殴られたような、あまりにも強すぎる衝撃だった。


(傷つく資格など、俺にはない)


 自業自得。それでも、心が痛くて仕方ない。

 自分の命よりも大切な存在からの拒絶は、氷の聖騎士と呼ばれているクラウスの精神を深く抉るには充分すぎた。氷の心が揺れる唯一の存在こそが彼女なのだから。


「――クラウス」


 名前を紡ぐ声にはっとする。顔を上げれば、ジークムントが眉根に皺を刻んでこちらを見据えていた。


「状況の説明を。あの子があんなに取り乱して力を暴走させた挙句、転移の魔法でどこかに飛んだ。その経緯を……いや、それよりも捜索が優先だ。至急、あの子の魔力と神聖力の反応を探す。協力しなさい」

「……はい」


 転移の魔法は空間に干渉するため扱いが非常に難しく、誰にでも使えるものではない。ジークムントでも、せいぜい視界に入る数百メートル先への転移が限界だ。

 けれど、リーゼロッテは違う。膨大な魔力と才能と努力によって、距離があっても視界に捉えていなくとも、ある程度の範囲であれば転移が可能で。そしてそれは、クラウスも同様で。だから他の誰でもないクラウスの力がいる。

 リーゼロッテは転移の目印にもなる術式が組み込まれている魔道具を身につけている。けれど、力の暴走の影響で、その魔道具が故障していてもおかしくはない。


「教皇猊下」


 不甲斐なさから来るものなのか、クラウスの握った拳は震えていた。反対に頭は力なく俯かせており、視線が交わらない。


「申し訳ありません、俺のせいです。俺が……」

「謝罪も事情も、後でゆっくり聞かせてもらう。僕も原因の一端だろうから」


 ジークムントも喧嘩別れのようになってしまったのだ。追い詰めてしまったのは自分もなのだと、ジークムントだって悔いている。

 リーゼロッテとクラウス。二人の間に何かがあることは察せていた。けれど、二人が互いを想っていると知っていたから、やはり甘く見ていたのかもしれない。細い糸がいくつも絡んでもつれたようにもっと複雑で、そう簡単なことではなかったのだ、きっと。

 事情も知らないのに、余計な口出しをしてしまった。その結果、リーゼロッテを深く傷つける最悪の結果となった。許しがたい愚行だ。


「元々雨が降ってるのに、あの子の力の影響で天気が更に荒れるかもしれない。とにかく今は、早くあの子を見つけないと」

「……はい」


 意気消沈しながらも責任は果たそうと、何よりもリーゼロッテの身の安全の確保を最優先とし、それだけを糧に己を奮い立たせるクラウスに、ジークムントは目を伏せた。

 やり方を間違った。けれど、はっきりしている事実はある。


「あの子は、本当に心の底から嫌悪する人間をそばに置き続けることはできないよ」


 そう告げられ、クラウスが目を丸める。

 ジークムントの言葉は、ストンとクラウスの中に落ちた。波紋が広がり、焦る気持ちが落ち着く。


「――承知してます」


 そう、知っている。ただ嫌われているだけではない。必要とはされているのだ。

 それに。どれほど嫌われようとも、恨まれようとも、絶対に守り切るのだと誓ったから。離れるわけにはいかない。そのためにクラウスは存在している。彼女と同じ、この時代に。



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