33.第七章一話
伯爵領の騒動が一段落してシュトラール教会に戻ったリーゼロッテだったけれど、神聖力の使いすぎで休養が必要だと判断され、仕事は控えめに調整された。おかげでスケジュールにはだいぶ余裕ができている。
「リーゼ」
「アルフ」
軽めの散歩に向かう途中の廊下で、リーゼロッテはアルフレートに会った。端に寄って道を開けている教会関係者から熱視線を集めているキラキラした皇子様は、柔らかな笑みを従妹へと向ける。その眩い表情を遠目に目撃した女性達が多数顔を真っ赤にして黄色い声を上げていた。なんとか押し殺そうとしたようで、それでも零れてしまったらしい。
「四日ぶりだね。体調はどう?」
「しっかり休んだから問題ないわ」
「よかった。クラウスも元気?」
「はい」
人目があってもおかしくないこの場では、クラウスは親友であるアルフレートに対して礼儀正しく対応した。
ジークムントは伯爵領から昨日皇都に帰還したが、アルフレートも皇都に帰ってきたのは昨日だったそうだ。
「仕事溜まってるんじゃない?」
「ちゃんと、緊急の案件は終わらせてきたよ」
「早いのね。全部じゃないの?」
おかしそうにリーゼロッテが笑みを零すと、アルフレートは肩をすくめて見せる。
「緊急案件のために一時的に戻ってきたわけだし、息抜きも必要だからね」
「アルフは力の抜き方をよく知ってるものね」
「それはリーゼもだろう?」
そう言って悪戯っぽく口角を上げるものだから、リーゼロッテはくすっと笑ってしまった。
「叔父様やアルフ達から教わったのよ」
前世では頑張り続けていた。必死だった。力の抜き方なんて知らなかった。ただひたすら努力して、研鑽を積んで、欠点などない完璧な令嬢になれば、きっと認められると思っていた。
父親を諦めた後は、婚約者に相応しい人であるために。そうすればエレオノーラを最優先に考えてくれるのではないかと、期待を抱いていた。王女よりも自分を大切にしてくれる家族ができるはずだと信じていた。
結局はすべてが無駄に終わって、放棄して――独り寂しく、天寿をまっとうできずに命を落としたけれど。
「伯爵領の件は叔父様から聞いているけれど……今日は何か用があるの?」
「これから視察で皇都を離れるんだ。その前にリーゼの顔を見て行こうと思って」
「これからって、今日?」
「うん。出発は二時間後」
「忙しいわね」
それは教会に来るよりも視察の準備を気にした方がいいのではないかと思ったが、すでにほとんど終わっているらしい。
「そろそろ散歩の時間だよね?」
「ええ。ちょうど今、庭に向かっていたところよ」
「付き合ってもいいかな」
「それはもちろん構わないけれど……」
時間は大丈夫なのかと目だけで尋ねると笑顔を返されたので、気にする必要はないと受け取った。普段は少し顔を見て帰ることが多いが、仕事もそれなりに終わっているのなら、今日は本当に余裕があるのだろう。彼の後ろに控えている護衛の近衛兵も特に慌てた様子や困った様子はないので、問題ないのだろう。
断る理由もなく、リーゼロッテはアルフレートのエスコートを受けて庭園に出る。クラウスとアルフレートの護衛も離れた位置に待機させ、フォンダンショコラをハインツに渡してあるから後で食べてだとか、二人でたわいのない話をしながらゆっくり歩いていた。
「そう時間も経たずに降りそうだね」
曇天の空を見上げて、アルフレートが零す。リーゼロッテもつられて顔を上げ、「そうね……」と呟くように返した。
最近は天気の悪い日が多い。そのせいでリーゼロッテの気分も落ちていた。日が出ていると暑くてそれはそれで嫌なので、今のような曇りが一番理想だ。けれど程近い距離に黒い雲が見えるので、アルフレートが言うように雨が降るのだろう。
じっと空を見つめ続けるリーゼロッテは、無意識に歩みを止めていた。アルフレートも必然的に立ち止まる。
聖者の証である金色の瞳は、ただ灰色の空模様を映しているだけではない。どこか悲しさ寂しさを纏っているようにアルフレートには見えた。捕まえなければ遠くに飛んでいってしまうような、そんな危うさと儚さを感じる。
「ねえ、リーゼ」
呼べば、リーゼロッテの意識がゆっくりこちらに向けられる。頬を撫でるように吹いた風が、リーゼロッテの髪を揺らした。小さな顔にかかった横髪を、本人が整える前にアルフレートが手を伸ばし、そっと耳にかける。そのまま、白くて滑らかな頬を親指で撫でた。
「アルフ?」
普段と雰囲気が僅かに違うアルフレートに、リーゼロッテは不思議そうにこてんと首を傾げる。
皇族でほとんどの人間に受け継がれる黒と緑。その中でも混じり気のない漆黒の髪と、深緑の双眸。血が濃いことを意味する色を持った従兄の眼差しは、いつもと同じようで違う。
もう一度名前を呼んでどうかしたのかと尋ねようと、口を開きかけたその時。
「――好きだよ」
好意を告げる言葉が、彼から放たれた。
このタイミングで、本当にどうしたのだろうか。
「私も好きよ」
そう応えると、アルフレートは寂しそうに笑った。その理由がわからなくて、リーゼロッテは戸惑いと不安をその目に宿す。
「アルフ……」
「ああ、ごめん。ありがとう。嬉しいよ、リーゼも私のことを好いてくれていて」
いつもの笑顔だ。物語の王子様のような、優しくてキラキラした笑顔。なのに、リーゼロッテの心には引っかかりが残る。
もやもやとした、この燻る感情はなんだろうか。納得できない部分がある。
「以前、皇宮で話したよね。私はリーゼが婚約者でも構わないって」
「ええ」
「あれは本気だよ」
とても真剣で、まっすぐな声音。言葉以上に強く訴える深緑に、リーゼロッテは次第に目を見開いた。
「今日はこれを伝えるために来たんだ」
彼は眉尻を下げる。
「ごめん。これは君が望む『兄』の姿ではないね」
そう告げられ、リーゼロッテはまたもや目を丸めた。
兄という存在に憧れはある。兄である王子からヴェローニカが大切にされているのを見て、とても羨ましかった。そもそも自分を大切にしてくれる家族そのものに憧れがあるのだ。
リーゼロッテにとって、従兄達が兄に近い存在なのは確かで。フェルディナントを従兄様と呼んでいるのは、本人からの要望もあったが、リーゼロッテ自身が兄を求めていたからというのも理由の一つであることは否定できない。
けれど、アルフレートは「アルフと呼んでほしい」と、最初でリーゼロッテにお願いしていた。だからリーゼロッテは愛称を呼び捨てで呼んでいる。
従兄様と呼んでいないから、フェルディナントほど兄に近い意識はない。従兄妹同士の婚姻は、特に貴族であれば現代でもそれなりに例があるから、お互いへの感情が恋愛に発展する可能性も理解はしている。アルフレートに関しては家族ではあるけれど、兄であることを強制するつもりは元からなかった。
「……謝る必要はないでしょう。アルフは従兄だけれど、兄ではないもの」
「そう言ってくれるとありがたいよ」
やはり申し訳なさそうに、困ったように、アルフレートは小さく笑顔を見せる。
謝るべきは、どちらかと言えばリーゼロッテの方だろう。アルフレートは男女としての関係を恐らく昔から見据えているのに、リーゼロッテは婚約者候補としてアルフレートの名前を一覧で見つけるまで、その可能性に微塵も気づいていなかった。身内への無駄な鈍感を発揮して、関係が変わることを想像もしていなかった。
アルフレートも立場上、婚姻には多くの人々の関心が寄せられる。気心の知れた相手を選びたいという気持ちは、リーゼロッテだって理解できるのだ。
「婚約者候補のリストは私も大体把握しているよ。身内特権で叔父上に教えてもらったからね。――リーゼの嫁ぎ先として、あの中では私が一番だという自信はある」
「……私、は、アルフのことをそんな風に見たことはないわ」
「うん、知ってるよ」
答えなんて分かりきっていたと、アルフレートは目を細める。
「リーゼには好きな人がいる。すごくいい男なのに、なぜかリーゼは一緒になることを望んでいない。だから……ちょっと、頑張ってみようかなと思って」
大きな手が、再びリーゼロッテの頬を撫でる。その優しい触れ方にも、こちらを見つめる熱のこもった眼差しにも、愛おしいという想いが溢れていた。
そこには、家族への情とは違う熱が宿っているように見えた。
「望みが限りなくゼロに近いことはわかっているけど、気持ちだけでも知っていてほしかった」
アルフレートの顔はどこか晴れ晴れとしている。リーゼロッテは自身の心臓がきゅう、と締め付けられたような感覚がした。
明確な言葉はない。――いや、最初の言葉がそうだったのかもしれない。
なんとなく、わかってしまった。
「考えておいて、リーゼロッテ」
(私は、きっと――)
自覚なく、ずっと、アルフレートを傷つけていたのかもしれない。
ぽつりぽつりと間隔を開けて雨が降り始め、散歩を切り上げて護衛達の元へ戻ってきた二人の間には、今までは感じたことのない空気が流れている。それをそれぞれの護衛達はきっちり把握した。
「そろそろ帰るよ」
「ええ」
「ちょっとクラウス借りていい?」
「……どうぞ」
クラウス本人ではなく主人であるリーゼロッテの許可を得て、アルフレートは自らの護衛に視線をやる。クラウスを借りるにあたり、リーゼロッテを一人にするわけにはいかないのだ。
「君達はリーゼを部屋に送り届けてから馬車に――」
命令の途中ですぐ先の廊下の角から出てきた人物を視界に捉え、アルフレートは言葉を切った。タイミング良く現れたのがクラウスと同じ聖女付きの専属護衛である、ダニエルとルードルフだったから。
「ちょうどいいところに来た」
「ふぁい?」
なぜかいくつかのパンが入った紙袋を抱えて一つをもぐもぐ食べているダニエルと、我慢できないのかと呆れていたらしいルードルフをリーゼロッテに付け、アルフレートは護衛とクラウスを連れて行った。ちゃんとリーゼロッテの手の甲にキスを落とす挨拶もして。
普段は何も意識しないリーゼロッテが肩を揺らしたので、ダニエルが不可解そうに「どうしたんですか?」と聞いてきたけれど、リーゼロッテは「なんでもない」と返した。
「それで、そのパンはなんなの?」
「食べます? 料理長の試作です」
「ありがたく頂戴するわ」
紙袋に手を突っ込み、リーゼロッテは小さなパンを手にとった。躊躇いなくぱくりと一口食べるも、珍しく美味しいだとか感想を零さない。心ここに在らずで、何かを考え込んでいる。
いつもと違う様子の主人を、ダニエルはじっと見下ろした。
「リーゼロッテ様って理想の聖女とか言われてますけど、全然そんなことないですよね」
「……急に何よ。喧嘩売ってる?」
声はちゃんと届いているようで、返事はあった。
「だって、聖女様だし侯爵令嬢だし、皇帝陛下の姪っ子で皇族に名を連ねてるのに、こんな風に普通に立ち食いとかするし、性格は偉そうだし。まあ民衆の前じゃだいぶ隠してて威厳があるとか良いように受け止められてますけど、それなりに好き勝手してますよね。聖女様ってこう、もっとお淑やかでお優しくて謙虚なイメージじゃないですか?」
「やっぱり喧嘩売ってるわよね?」
別にそんな淑女を目指しているわけでもないけれど、なんならそう振る舞うことなど容易だけれど、面と向かって否定されるとさすがに癇に障る。
「俺のイメージがそうってだけですよ」
申し訳なさとか気遣いとか、そういったものは一切なく、躊躇わずにそんなことをダニエルは言ってのける。物怖じしないなと、リーゼロッテはため息を吐いた。
「お淑やかで儚い女性は確かに素敵で庇護欲を唆るけれど、人によっては頼りなさを感じてしまうものよ。浄化で魔物と対峙することも多い聖者に『強さ』がなければ、いざという時に逃げ出さないかって不安が残るでしょう?」
「……まあ、そうですね。なんか大事に守られてる箱入りのお姫様っぽいです」
「優しいだけで不安を与えてしまうより、堂々とした振る舞いで『この人なら自分達を守ってくれる』と人々に思わせた方がいいこともあるわ。その方が皆、付いてきてくれる。現実の『理想』って案外そんなものよ」
理想なんて漠然としている。思い描いていた何かに実際に直面した時、何か違うと感じるのは珍しいことでもないだろう。
「単純に、そもそも私の性格がこうっていうのもあるけれどね」
「開き直ってるだけじゃないですか」
「認められたいがために自らを押し殺して我慢を続けるなんて、虚しいだけだもの」
それは前世で嫌というほど学んだ。
「誰にでも優しくてどんな罪でも許すような正義感を清廉とかほざくのは、その決断の今後への影響力に考えが及ばないただの馬鹿よ」
(ほざく……)
どこでそんな言葉を、お忍びか、とルードルフが遠い目になる。
そんなルードルフは視界に映っていないのか、と言うよりあまり気になっていないのか、リーゼロッテは続ける。
「暗殺者に命を狙われた聖者がその暗殺者の罪を許し、減軽を願い出たら、貴方はどう思う?」
「まあ、ご立派な精神だなぁ、と」
「でしょうね。――じゃあ、ルードルフが暗殺の対象だったら?」
ダニエルが瞠目し、ルードルフは自分の名前が出されてどう反応していいかわからなくなった。
「なんとか命は取り留めたけれど、深い傷を負ったとするわ。本来なら命に関わるほど大きな傷よ。聖者が神聖術で治療したから跡形もなく傷は消えるわけだけれど……さて。命は奪われなかったのだから暗殺者を許してあげて、きっと罪を自覚して償ってくれるから罰は軽くしてあげてと聖者にお願いされたら、どう思う?」
「――暗殺者どころか、その聖者も殺してやりたくなりますね」
「そういうことよ」
顔を顰めて殺意をむき出しにするダニエルを尻目に、リーゼロッテはパンを千切った。
「優しいだけで人を疑いもせず信じるしか脳のない人間なんて、上に立つ者としていずれは民衆の不満を招くわ。自らの正義を他人にも押し付けるんだから。舐められて、それを増長させる。そんな者より、公正な厳しさを持った強い導き手が望まれる」
千切ったパンを口に含み、もぐもぐと咀嚼する。
リーゼロッテはまったくもって心情的には公正とは言えないけれど、そう見えるように仕向けることは可能だ。
「私の場合は容姿と神聖術による功績が目立つし、印象操作は造作もないもの。特に私以外の聖者に馴染みのない現代の人達は聖女フィルターがすごくて操りやすいわね」
「うわぁ、すごいこと言ってますね。暴論だ」
ルードルフもダニエルの意見に同感だった。
ただ、自分達の主人がこういう人間であることは、昔から知っていることだ。
「そうねぇ。身勝手な持論なのは否定しないわ。お人好しな聖者に救われる人がたくさんいることはわかってるわよ。けれど残念ながら、私は擬態はできでも完全にその思想には染まれないの」
「ま、リーゼロッテ様のそういうとこ、嫌いじゃないですけど」
嫌いじゃないから仕えている。主人として慕っている。
恵まれた環境にはなかった経験があるからこそ、この世に善だけが溢れているわけではないことを身をもって理解しているからこそ、リーゼロッテの考えに共感しかないのだ。
「お望みなら、貴方の前では儚くてか弱くてお優しい聖女を演じてあげてもいいわよ?」
「やめてください。距離感じて嫌なんで」
心底嫌そうに眉根を寄せて拒否を示すダニエルに、リーゼロッテは愉快だと言わんばかりに口角を上げた。
「あらあら。可愛いこと」
そう零すと、ダニエルは更に気分を害したようにむっとした。表情を取り繕う気配がまったく感じられないのはリーゼロッテに気を許してくれている証でもあるのだろうけれど、やはり単純に幼くて可愛い。成人してまだ一年も経っていない、子供と大人の境界線の曖昧な部分にいる青年だ。
「まあ私も、貴方が態度を改めて急に恭しくなったら寂しいわね」
「ちゃんと尊敬してますよ」
「当然、そこは疑ってないわ。貴方も私の自慢の聖騎士だもの」
迷いなくさらりと断言する主人に、ダニエルは息を呑んだ。
「……リーゼロッテ様のそういうとこ、相変わらず狡いですね」
「私の信頼は誰にでも与えているわけではないわよ」
「知ってます。恐悦至極です」
妙に慇懃な態度を取ったダニエルの耳がほんのり色づいていて、リーゼロッテもルードルフも温かい眼差しを向けた。
◇◇◇




