03.第一章二話
庭園の真っ白なガゼボに着くと、リーゼロッテの身の回りの世話をしている側仕えの修道女ハンナとパティシエであるハインツの手により、すでにティータイムのためのセッティングがされていた。
リーゼロッテの目は並べられている何種類ものチョコレート菓子に釘付けだ。キラキラと期待に満ち溢れた金色の双眸には今、見慣れたものから初めて見るものまで、チョコレート菓子しか映っていない。
「さあさ、リーゼロッテ様。お召し上がりください」
ハインツがにこやかに促すと、リーゼロッテは早速チョコレートを一つ手に取った。リーゼロッテが特に好きな、ココアパウダーがかかったトリュフチョコレートである。
口に含めば、最初はココアパウダーの僅かな苦味が舌を刺激した。口内でコロコロ転がすと、柔らかなチョコレートの甘味が広がる。
この生クリームが感じられる滑らかな口溶けは、何度経験しても飽きることがない。書類仕事で疲れが蓄積された頭と散歩で体力を消耗した体が癒される。
別のチョコレートも、次々にリーゼロッテの胃の中に入れられていく。多くの種類を食べられるようにほとんどが一口サイズで用意されているので、味を比べたり食感の違いを楽しんだりと、リーゼロッテの顔は終始緩んでいた。
口直しに紅茶を飲んだところで、リーゼロッテは背もたれにもたれかかる。この世の幸福を詰め込んだように、表情は相変わらずゆるゆるだ。威厳などあったものではない。
聖女として完璧な振る舞いを身につけているリーゼロッテだけれど、視線を気にしなくてもいい相手の前では素が出る。存外、子供っぽい単純な面も持ち合わせている普通の十六歳の少女だ。
「ご満足いただけたようで何よりです」
「大満足よ」
ハインツが作るものに外れはない。リーゼロッテが教会で暮らすことになって以来、八年半ほどリーゼロッテにお菓子を振る舞っている。それ以前も、ハインツ作のお菓子をジークムントがラングハイム侯爵邸に差し入れてくれていたのだ。
好みも全て把握してくれているし、こういうものが食べたいと伝えれば、漠然としたイメージでもそれを理想以上の形にして出してくれる。
「私が生きてる間は辞めないでね、ハインツ」
「はは。それはそれは、長生きしなければなりませんね」
「まだ若いじゃない、貴方」
「リーゼロッテ様からするともうとっくにおじさんでしょう」
「まあ、叔父様より年上だものね」
ジークムントは現在三十二歳で、ハインツはその三つ上の三十五歳だ。来月の誕生日を迎えると三十六歳。見た目は実年齢より若く見える好青年だが、リーゼロッテの見解ではおじさんに入る。親でもおかしくはない年齢だ。
とはいえ、男性の初婚年齢は女性と比べると高いのが常で、そもそも彼は結婚が早い貴族ではなく平民出身な上、結婚歴が一度もない独身なのだけれど。
「そういえば、リーゼロッテ様はまだ十六歳ですが、本格的に婚約者をお決めになる運びになったとか」
「耳が早いわね。叔父様から聞いたの?」
「はい、先日」
「相変わらず仲が良いのね」
ジークムントとハインツの付き合いは長く、身分や年齢の垣根をこえて親友とも呼べる関係性にある。そのため、情報が回るのが早いのだ。
「正式に決まるのは先だと思うわよ」
ナプキンで口元を拭き、リーゼロッテはティーカップを持ち上げる。縁に口をつけ、一口飲んでソーサーに戻した。
「世界で唯一の聖女様のお相手ともなると、慎重に選ばざるを得ないですからね」
「面倒よね、その辺」
簡単に相手を選ぶことができたらどれほど楽か。そう考えることはあっても、実際に行動に移すことはしない。責任を、義務を放棄して好き放題に振る舞えるほど、リーゼロッテは分別がない子供ではないから。
身分も世間の目も何も気にせず、ただ好きな人と一緒になる。正直なところ大多数の人間と同じようにそれが理想で、実現できるのなら羨ましいが、ないものねだり。リーゼロッテには許されないこと。
聖女は、国民を安心させなければならない。聖女が国民の不安の対象になってはいけない。
「相応しい相手を選ぶから、心配しなくても大丈夫よ」
落ち着いた声音は凛としていて、覚悟が窺えた。ならば、ただのパティシエであるハインツが口を挟むことではない。
姪を溺愛するジークムントが選ぶ者が、リーゼロッテを不幸にするわけがないのだから。きっとお互いを尊重し、絆を育んでいくはずだ。愛が芽生えるはずだ。リーゼロッテの意思が反映されないこともないだろう。
だったら周りは、リーゼロッテの幸せを願い、支えるだけ。
「こちらのケーキもおすすめですよ」
「あら、ほんと?」
ハインツに勧められた一口サイズにカットされているチョコレートケーキを、リーゼロッテはフォークで刺して口元に寄せ、ぱくりと食べる。するとまた瞳を輝かせた。
「ハインツ。貴方やっぱり天才だわ」
「お褒めに預かり恐悦至極にございます」
胸に手を当て恭しく一礼したハインツが、まだまだ他のお菓子を勧めていく。どれもリーゼロッテのために腕によりをかけた自信作なのだ。
ある程度堪能したところで、リーゼロッテは思いついたかのように顔を上げた。視線の先はガゼボの外を警戒しているクラウスで、気づいた彼の濃い紫がこちらに向けられる。
「貴方も食べる?」
「俺は結構です。勤務中ですので」
「勤務中だからこそ、エネルギー補給は大事よ」
言いながら、リーゼロッテはケーキにフォークをさした。
「はい、こっちに来て屈んで」
「……」
金の装飾が施された真っ白い皿を添えながら、リーゼロッテはケーキを差し出す。
これはどうやら、クラウスに直接食べさせるつもりらしい。俗に言う「あーん」をやろうとしている。しかも、自身が使用したフォークで。
思考と体がぴたりと停止したクラウスの心情などつゆ知らず、リーゼロッテは不思議そうに首を傾げた。
「甘い物、特別好きというわけでもないけれど、嫌いでもないでしょう?」
その推察は正しいが、クラウスが切実に訴えたいのはそこではない。
いつものリーゼロッテなら、きっとこんなことはしなかった。チョコレートをのせた皿を差し出すなどの似たようなことはしたかもしれないが――これほど強く勧めるのは、好物であるチョコレートの新作にいつも以上にテンションが上がっているからだろう。随分お気に召したらしい。
硬直が解けたクラウスが助けを求めるようにちらりとハンナとハインツを窺うが、二人は一切目を合わせようとせず、素知らぬ様子で次にリーゼロッテに勧めるチョコレートの準備をしていた。
相手がジークムント――家族であれば問題はないが、もちろんクラウスは家族ではないし、婚約者でも恋人でもなく、ただの専属護衛に過ぎない。呑気に相談している世話係とパティシエの二人は本来であればリーゼロッテの行為を止めるべき立場であるはずなのに、期待できそうになかった。
第三者の目があれば二人の対応もまた違っていただろうけれど。この時間帯、この場所でリーゼロッテがティータイムを楽しむのは教会内では周知されていること。観察は許容範囲とされている散歩と違い、自然と他の者達は近づかなくなった。
結局みんな、リーゼロッテに甘いのだ。この二人も、他ならぬクラウスも。
観念したクラウスが短く嘆息する。リーゼロッテのそばに歩み寄り、片膝をついて下から見上げると、リーゼロッテは嬉々として彼の口元にケーキを近づけた。「美味しい」をどうしても共有したいらしい主人のあまりにも純粋な願いを断れるはずもなく、リーゼロッテに合わせて切られているためサイズが小さいそれを、クラウスは努めて平静を装って食べる。
「どう?」
「……美味しいです」
「当然ね」
まるで自分が褒められたような得意げな顔をしたリーゼロッテに、クラウスは自身の行動は正しかったのだと言い聞かせることに思考を割くと同時に、重大な過ちを犯してしまったような気分にもなる。
畏れ多くも触れてはいけないものに触れてしまったような、僅かな罪悪感。しかしその中に気恥ずかしさと、どうしようもない嬉しさが隠れているのも確かで、それらを表に出さないように必死に表情筋の動きに気を配る。
主人が気づく気配がないからとあっさり思考を放棄できるほど、クラウスはリーゼロッテに対して器用ではなかった。
これくらいのやりとりには嫌悪感を抱かないほどに、リーゼロッテは聖騎士のクラウスを信用してくれている。クラウスが特別である証なのだ。
湧き上がる歓喜をぐっと堪えるように拳に力を入れたところで、ハインツがようやく助け舟を出す。
「こちらもどうぞ、リーゼロッテ様」
「ありがとう。……ん、このフルーツ入りのチョコバーも最高に美味しいわ。普通のものより甘みが強いように感じるのだけれど、特別な材料なの?」
「さすがリーゼロッテ様、お目が高い。こちらはチョコレートはもちろん、フルーツにもかなり拘っておりましてですね――……」
生き生きと語り始めるハインツの言葉に、リーゼロッテは真剣に聞き入って相槌を打つ。時折質問を挟み、それが更にハインツのテンションを上げ、延々とその時間は続くのだ。誰かが止めるまで。
ただ。リーゼロッテ最優先の人間が周りに多いせいで、リーゼロッテにとって楽しく有意義な時間を進んで邪魔したい者などおらず、何か別の予定が迫っていない限り、止められることはほとんどない。
年相応の表情を見せるリーゼロッテを眩しそうに見つめた後、クラウスは立ち上がって元の定位置であるガゼボの周囲を警戒できる位置に戻る。
それから数分経った頃。この場に近づく気配を感じてクラウスは一瞬警戒を強めるものの、その気配の正体に気づいて力を抜いた。
「――ご機嫌だね、ロッテ」
顔を見ずとも誰かわかるほど昔から慣れ親しんだ、安心感を与えてくれる声。ハインツとの会話に夢中になっていたのに聞き流すことなく、まるで専用のセンサーでも備えているように俊敏に反応したリーゼロッテは、声が聞こえた方にパッと顔を向けた。その人物を視界に捉えると顔を輝かせる。
「叔父様」
落ち着いた、けれど性別問わず他者を魅了する色香溢れる笑みを浮かべたジークムントが、ひょっこりとガゼボにやって来た。リーゼロッテの声が自然と弾む。
主人と一緒に来たのであろうブライアンとカミルは、リーゼロッテに会釈で軽い挨拶をすると、クラウスと同様にガゼボの周りに立って周囲の警戒に当たる。ハンナとハインツの方は、ジークムントへ一礼した。
「僕もお邪魔させてもらって構わないかな?」
「もちろんです。ハンナ、叔父様にも紅茶を」
「かしこまりました」
姪の快諾にジークムントは嬉しそうに笑みを深めると椅子に腰掛けた。その横で、指示を受けたハンナが手際良く紅茶の準備を進める。
お菓子が減っているのが明瞭な三段のケーキスタンドや空になっている皿を、ジークムントは一瞥する。
「本当にチョコが好きだね、ロッテは」
「今更ですか?」
「いや。よーく知っているよ、もちろん」
優しく微笑んだところで、ジークムントの前にソーサーにのったティーカップが置かれた。左利きであるジークムントのために持ち手が左側になるように置かれたそれを持ち上げ、薄い唇を開いて縁に口をつける。
「ふむ。相変わらずハンナは紅茶を入れるのが上手いね」
「光栄でございます」
「それに……うん。ハインツのお菓子もとても絶品だよ」
ハンナを褒めた後、ジークムントはチョコレートボンボンを一つ食べ、ハインツに感想を述べる。それに「当然ですよ」とハインツが自信満々に返すのだから、二人の親しさが窺えると言うものだ。
「それで、叔父様。何かお話でも?」
「おや。話がなければ会いに来てはいけないのかな?」
「この時間帯に来るなんて何か用があるからでしょう。叔父様はお忙しいですから」
どこか拗ねた声で零した愛しい姪に、ジークムントは困ったように眉尻を下げて笑みを浮かべた。
聖女と教皇。お互いに多忙な身だ。朝食は一緒にとるものの、昼食や夕食、ティータイム、休憩の時間が合うことなど週の半分はあればいい方で、同じ建物内で暮らしている家族なのに、共有できる時間は決して多いとは言えない。
リーゼロッテは今まさにそうであるように休憩時間をゆったり過ごしているが、これはご褒美の意味合いを持つと同時に体の弱いリーゼロッテに配慮されてのことで、決して時間に余裕があるわけではないのだ。
それでも、会える時間をできるだけ多く捻出する。その目標があるおかげで、仕事はハイペースで片付けることができていた。部下達は付いてくるのが厳しいらしいけれど、そこは気を配りながらもこき使っている。
「ロッテの婚約者候補のことだけど」
予想していた本題を切り出され、リーゼロッテは可愛らしく首を傾けた。
「良さそうな人はいましたか?」
「相手については前々から候補を絞っているし、然程時間はかからずに紹介できると思うよ」
今までの候補から改めて絞ることになるが、身辺調査は常時行われていたため、最終確認をする程度である。待ちくたびれることはないだろう。
「婚約期間は最低でも半年でしたよね。成人したらできれば早めに結婚したいです」
上流階級では、婚約期間を半年以上設けることが通例。皇族であれば一年以上が基本だ。
リザステリア帝国の成人年齢は十八歳で、リーゼロッテはまだ十六歳。十一月の誕生日を迎えれば十七歳になる。理想は一年以内に婚約を結ぶこと。そうすれば成人した頃には確実に結婚できる。
とはいえ、そもそも結婚が可能な年齢は成人の十八歳ではなく、貴族の社交界デビューの年でもある十五歳からだ。しかし、聖者を含め聖職者の場合は例外で、十八歳からと聖典で定められている。
「ロッテの希望は理解してる。厳選に厳選を重ねるから安心しなさい」
「まあ。楽しみです」
リーゼロッテを溺愛するジークムントが関わって、愚かな男が選ばれるはずはない。そう確信できるから心配など抱く必要はなく、純粋に待ち遠しい。
「ブライアンはもう決まりですか?」
自身の名前に、ブライアンは大袈裟なほどビクッと肩を揺らした。
「そうだねぇ。なんなら今からでもお見合いの席を設けようか?」
「俺で遊ぶのマジでやめてください……」
なんとも言えない顔のブライアンがこちらに視線を向ける。リーゼロッテとジークムントは心底楽しそうにニコニコしていて、ハインツも似たようなもの。からかっているのは一目瞭然だった。カミルは巻き込まれたくないと我関せず。
その空気の中で違ったのは、不自然なほど微同だにしないクラウスと、不敬だと言わんばかりに鋭い眼差しをブライアンに向けるハンナである。
「候補に挙がってるなら、もっと喜んだらどうですか」
「俺にとってリーゼロッテ様は女神様さえも超越した存在で、そういう対象じゃないんだよハンナ……」
「贅沢な」
「厳しい」
ハンナとブライアンのテンポのよい軽快なやりとりもまた、親しいからこそ。
この二人はかつてシュトラール教会が運営する孤児院にいたのだが、孤児院に入った時期も年齢も近い。だから、冷めた間柄に見えて妙に仲がいいのだ。
そんな二人から、「そういえば」とジークムントはリーゼロッテに視線を戻した。
「他国からも数多くの縁談が来ていてね。今までは全部蹴っていたけど、いい話もあるはずだよ。どうする?」
「他の国に行くのは嫌です」
「はは、わかったよ。引き続き全部断ろう」
迷いのない案の定の返答に、ジークムントも満足そうだ。
ジークムントがいるこの国から離れなければならない相手など、一考に刹那の時間も割く価値はなく消去一択である。帝国としても唯一の聖女を国外に嫁がせる痛手は負いたくないだろうから、国とも利害が一致しているので協力してくれるはずだ。
「ほら、ロッテ。これはもう食べたかい?」
「まだです」
手に取ったホワイトチョコレートをジークムントが口元に持ってくるので、リーゼロッテは抵抗なくぱくりとそれを食べる。まるで恋人のようにイチャイチャしているその光景を見ていたハンナとハインツは、普段から叔父姪でこんなことをしているから「あーん」に慣れてしまっているのだと、クラウスに僅かな同情を覚えたのだった。