29.第六章二話
そこら中に魔物の気配がする。強いものから弱いものまでたくさん。動植物の魔物化や凶暴化もかなり進んでいる魔窟だ。
その中に一つ、一層強い気配がある。周囲と比較してもレベルの違いがはっきりとわかる濃縮された瘴気と魔力の反応。恐らくそれが、瘴気を過剰に生み出している元凶だ。例の魔物で間違いないだろう。
リーゼロッテと共にジークムントの結界の中に入ったのは、護衛のクラウス、ブライアンとシュラーク、グレーテとフェアシュ、そして聖騎士四名だ。
今回はそれぞれの組み合わせで任務に当たることになっている。リーゼロッテとクラウス以外の三組は陽動――つまり囮だ。リーゼロッテの仕事がしやすくなるように、魔物達の注意を惹きつける役割を担っている。
「ブライアン、グレーテ、いけそう?」
「ばっちりです」
「私も問題ありません」
単騎で行動するブライアンとグレーテはすでに臨戦態勢で、シュラークとフェアシュもやる気に満ちている。
「ラルス達は?」
「は! 問題ありません!」
聖騎士四名の班の臨時班長であるラルスが元気よく答える。この異常な空間に最初は怯んでいたけれど、すぐに気を引き締めたようだ。そうでなければ困る。
教会の馬は訓練され瘴気には慣らされているが、これほどの環境に投下するのはさすがにリスクを伴う。何より動物の本能でどうしても恐怖を抱かざるを得ないはずだ。よって結界内では馬なしの行動となった。彼ら自身の足で移動するしかないのだ。
「危険だと判断したら即離脱、合図を送ること。いいわね?」
「は!」
力強い返事を聞いて空へと視線を向けると、旋回していた鳥がこちらに意識を向けているのが感じられた。他にも、地上にいる魔物や動物の警戒心が気配で突き刺さる。
「我々の存在に気付いたようです」
「そのようね」
リーゼロッテは気配を殺すように集中する。力を抑えれば、魔物達の意識は他の者に向けられるだろう。
「――散」
クラウスの合図と同時に班に分かれ、作戦が開始された。
ブライアンはシュラークを結界に沿って左に、グレーテはフェアシュを同じく右に走らせた。魔力を練れば攻撃の意思が魔物達に伝わる。ラルス達四人の班は、中心から少し逸れる進路をとって山の中へと進み出した。
魔物達はそちらに気を取られているようだ。空を旋回する鳥の見張りも、見事に囮の方に向かって飛んでいった。リーゼロッテとクラウスよりも、彼らの方を真っ先に排除すべきと判断したのだ。
魔物や動物は人間より感覚が鋭い。魔力にも敏感だ。
だからこそ、扱いやすくもある。
「そろそろ行きましょうか」
木の影に身を隠していたリーゼロッテは、囮がある程度離れたのを見計らってクラウスに声をかけた。
「失礼いたします」
クラウスは軽々とリーゼロッテを抱える。リーゼロッテがクラウスの首に腕を回すと、クラウスは空に視線を向け、流れるように転移の魔法を発動させた。
転移先は目標の魔物がいる近くの上空。地面のない場所だ、重力に従って当然ながら体は落下する。最近もこんなことがあったわねと、リーゼロッテは呑気に思い浮かべていた。
途中から魔法でゆっくり降下していくと、二人に気づいた魔物達が一気に警戒態勢に入った。殺気立ち、グルルと唸っている。
目立つのは、標的である魔物――大きな蛇だ。やはり他の魔物とは格が違う。瘴気も魔力も飛び抜けている。今にも襲いかかってきそうな剣呑な雰囲気だ。
提示された伯爵家の資料では、魔物の種類までは判明していないとあった。
これから調べるつもりだったのかは知らないけれど、少なくともリーゼロッテはこの魔物を図鑑で見たことがない。恐らく未発見の種だろう。
相対して確信を持った。この蛇は間違いなく上級に分類される。
目の前の魔物は人間より大きいものの、見たところ十メートル程度の個体。魔力の流れからして、生まれてからやはりそう日が経っていないであろうことが推測できる。成体は恐らく倍近く、もしくは数倍の大きさになるかもしれない。
蛇の体から留まることなく瘴気が溢れているのが、視界でも肌の感覚でも捉えることができた。
地面に足をつけたクラウスがリーゼロッテを降ろすと、リーゼロッテはすぐに指示を出す。
「大人しくさせて」
「御意」
先手必勝だ。魔物達が襲いかかってくる前にクラウスが拘束の魔法を発動させ、大蛇を含め、魔物や動物の動きが止まった。さすがの正確性で捕り零しがない。
しかしクラウスの眉が僅かに寄り、大蛇に魔法が重ねがけされた。その変化に気づいたリーゼロッテは瞠目し、魔物を注意深く見据えながらクラウスに尋ねる。
「大丈夫?」
「問題ありません」
クラウスは己の力を客観的に評価し、正当な判断を下す。リーゼロッテの身の安全がかかっていれば尚更、慎重に。
そんな彼が躊躇なく断言するくらいだから、確かに問題はないのだろう。しかし、いつも通り容易に抑えられているわけでないことは察せる。
やはり興奮状態にあり抗う力が強く、魔法の効きが悪いらしい。相手はまだ幼体とはいえ、やはり上級の魔物なのだ。
クラウスの負担をすぐにでもなくそうと、リーゼロッテは早速浄化に取り掛かる。祈るように手を組み、息を吸った。
手を組んでまで祈りを捧げるのはあまり好きではないから、普段はやらないことが多い。けれど、たったこれだけのことをするのとしないのとで、神聖術の効果には差が出る。
女神への祈りが、神聖術では重要な要素の一つなのだ。
「“祈り願うは淀み穢れた気を浄化する数多の光。対価として捧ぐは我が身に宿る神聖なる力と魔力”」
凛とした声が、響くように広がる。身体から溢れる神聖力と魔力によって生まれた不自然な風が、リーゼロッテを囲むようにふわりと空を泳ぐ。合わせて服と髪が舞うように踊った。
心を落ち着かせ、安心して、集中して詠唱ができる。周囲の魔物はクラウスが対応してくれるのだ、気を配る必要はない。悔しいけれど、頼り甲斐のある男だ。彼は絶対に聖女を守ってくれると知っている。
(失敗する理由がない)
邪魔が入らないようお膳立てされているのだから何も心配はいらない。ただいつもより力を多く使い、広範囲に効果を与えればいい。
実際にこの規模の浄化をしたことはなくとも、今回よりも更に広範囲に及ぶ神聖術を使ったことはある。まさに今回のようないざという時のための訓練で何度か試したし、魔法ではもっと経験がある。
例えば皇都の結界だって、魔道具で補助していることに加えて普段は帝国騎士団や他の聖職者が管理しているとはいえ、リーゼロッテも協力しているのだ。
「“陣顕現、展開”」
空に陣が浮かび上がり、大きく広がった。金の粒子を纏いながら白い光を放つそれには、複雑な術式が組み込まれている。
魔力を使用する魔法による浄化とは異なる、特別な浄化の術式。女神に選ばれた聖者だけが使える神聖術。
けれど、人それぞれに魔法そのものや魔法属性の向き不向きがあるように、神聖術にも聖者それぞれの個性があり、術に多少の違いが出る。
同じ神聖術による浄化であっても、ある聖者は雨による浄化術を、ある聖者は火による浄化術を得意としていた等、教会に保管されている書物には様々な術が記されているのだ。
今代の聖女リーゼロッテが最も得意とするのは――。
「“祈り願いに応え、対価に相応しい聖星をこの地へ”」
決して大きくはない、けれど凛とした透き通る声が、響くように広がる。それに呼応し、大きな陣から黄金に輝く光の粒がまるで雪のようにいくつも舞い落ちてきた。光の粒子は次々と瘴気に触れて弾け、浄化していく。暗い視界が明るく、本来の光景へと変化していく。
結界の外で眺めていたジークムント達や、魔物と交戦中であったラルス達、そして興奮状態にあった魔物や動物も、その幻想的な光景に見惚れていた。
元来の才能、そして体が弱いながらも幼少から続けている訓練の成果もあり、リーゼロッテは特に苦手と言える魔法や神聖術がほとんどない。とりわけ得意なのは神聖術、光系の属性による浄化だ。
まさに聖者に相応しい、人類を導く希望の光。リーゼロッテ本人は己の性格を理解しているからこそ似合わないと吐き捨てるけれど、周囲の認識はそうではない。
確かにリーゼロッテは積極的に他人のために動こうとはしない。根底にはジークムントやアルフレート、身内の存在がある。
それでも、自分の力が及ぶ範囲であれば、手を差し伸べようとする。それができる。だから――自分勝手であるのは紛うことなき事実だけれど、決して悪い人ではない。それが近しい者達の見解なのだ。
「シャアアァ!!」
光の粒子が落ちて浄化されているからか、大蛇は苦痛で悶え出した。拘束の魔法で動きが制限されているはずなのに、衝撃で地が揺れる。
他の魔物は浄化のショックで気絶したりすでに落ち着いていたりするけれど、やはり大蛇の浄化には時間がかかっている。術の中心なので降ってくる浄化の光は多いのだが、それでも他の魔物達のように簡単にはいかないようだ。
「“痛覚遮断”」
浄化の術は継続しながらも、詠唱を破棄し、リーゼロッテは大蛇に魔法をかける。魔法名通り苦痛を一切なくす、他者の身体に影響を及ぼす高等魔法だ。
次第に大蛇の鳴き声は収まり、のろのろと顔を上げた。真っ黒の双眸が虚ろにリーゼロッテを捉えた。
暫くして、リーゼロッテは解いた手をぱん、と叩いて術を解除した。陣が消え去り、光の粒子もふわりと空中に溶けていく。
(瘴気、半分以上は減ったかしら)
数分をかけた浄化で神聖力が一気になくなった。体にも疲労感がどっと押し寄せている。
これほどの疲労はずいぶん久しぶりだ。
「“鎮静”」
念押しでクラウスが魔法をかければ、魔物達からの敵意は一切なくなった。意識を保っている者達は距離をとりながらこちらを窺っている。
空気が澄んで息がしやすい。心身を蝕んでいた瘴気も浄化されている。魔物や動物もそれを成したのがリーゼロッテであるとちゃんと理解していた。
浄化して終わりではない。まだ、やるべきことがある。
リーゼロッテは一歩一歩、足を踏み出した。地面に倒れながらもリーゼロッテを注視している大蛇に近づいていく。クラウスは止めることなく眺めていた。
大蛇の頭に歩み寄ったリーゼロッテは、優しく声をかける。
「こちらはこれ以上、あなた達に危害を加えるつもりはないわ。怯える必要も、攻撃する必要もないのよ」
「……」
大蛇は何か反応を見せるでもなく、ただじっと、リーゼロッテを観察するように凝視していた。
その時、別行動をしていたラルス達が現れた。浄化が終わり、合流しようと急いで来たのだろう。息を切らしている。
彼らは大蛇の目の前にいるリーゼロッテの姿を捉えると、ぎょっと目を見開いた。いくらリーゼロッテが魔法に長け、神聖術が使える聖女であっても、彼らにとっては守るべき対象なのだ。あの距離に危険を感じないはずがない。
「聖女様!」
心配と焦りを孕んだ声で叫ぶようにリーゼロッテを呼び、助けに入ろうと一歩踏み出したラルスを、クラウスが手で制止する。
「隊長!」
「大丈夫だ」
「しかし……」
なぜ止めるのですかと責める視線と非難混じりの声を向けたけれど、クラウスは己の主人に危機が迫っているはずなのに酷く冷静で、まったく焦っていない。その泰然としている態度にラルス達は困惑した。
「魔物はリーゼロッテ様を認識している」
そう言われても、ラルス達はますます混乱するばかりだ。クラウスはそれ以上の説明を紡ぐつもりがないようで、まるで見ていればわかると言うように、視線を主人へと向けた。
クラウスが大丈夫だと言うのであれば、とりあえずは信じるしかない。リーゼロッテからも命令が飛んでこないのだ。大人しくその光景を眺めるのが正解なのだろう。
今すぐリーゼロッテのそばに駆け出したい衝動をぐっと堪え、ラルス達も一人の少女と魔物達の対峙を静観するに徹した。
上級の魔物は賢い。人間の言葉をしっかり理解している。敏感だからこそ、興奮も冷めている今、リーゼロッテに魔物達に対する敵意がないことも伝わっているはずだ。
リーゼロッテが手を伸ばすと、ひんやりとした鱗に覆われた顔に触れられた。大蛇が拒絶する様子はない。
「集められた魔獣や動物を元の場所に帰すことも約束するわね。だからいい子で大人しくしていて」
撫でながら告げても、やはり大蛇は大人しい。受け入れてくれたと解釈していいはずだ。
人間に残酷な所業をされ、この大蛇を含め、他の魔物達やこの山の動植物は、人間を恨んでいるだろう。
それでもこうして話を聞いてくれるのは浄化と鎮静魔法の効果であり、そして――リーゼロッテが、聖者だから。
「ありがとう」
そう告げてリーゼロッテは大蛇に背を向け、クラウス達がいる方に歩き出す。けれど途中で力が入らなくなり、体が前方に傾いた。
(あ……)
来るであろう衝撃に抗うすべもなく、何もできずに倒れそうになったところを、瞬時に転移してきたクラウスが素早く受け止める。その硬い胸にまるで飛び込むような形になってしまった。背中に腕が回され、しっかり支えられている。
腕の中から見上げると、クラウスは柔らかい眼差しでこちらを見つめていた。
「お疲れ様です、リーゼロッテ様」
「……貴方も、お疲れ様」
クラウスがリーゼロッテを抱えると、ラルス達が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「聖女様!」
「疲れただけよ、心配いらないわ」
安心しなさいと笑顔を見せるけれど、その疲労はどれほどのものか。回復に役立たない無力さに、ラルス達の中に苛立ちにも似た悔しさが募る。
そんな彼らの心情を見透かしているかのように、リーゼロッテの声が静かに落とされた。
「四人とも、よく頑張ったわね」
あまり力のない声だけれど、相変わらずよく耳に届く。耳から全身に浸透していくような、不思議な響きだ。
「怪我はなさそうね。連携が上手くとれていた証よ。あの瘴気の中、滞りなく与えられた役割を果たしてくれた働きは見事なものだわ」
「聖女様……」
「ふふ。力尽きて倒れた私よりよっぽど優秀ね」
単純に比較するにしても、リーゼロッテの役目の方が重責で困難なのに、そんなことを優しく口にする。ラルス達は息を呑んだ。その場で片膝をつき、胸に手を当てて頭を下げる。
「畏れ多いお言葉、恐悦至極に存じます」
感動か歓喜か、ラルスの声は僅かに震えていた。改めてリーゼロッテに対する忠誠心に火がついたのは明らかだ。
この聖女様は信者への飴の使い方をよく心得ている。
「俺はリーゼロッテ様を連れて戻る。お前達は一応、山の中を見回って浄化の確認をしてくれ。もう魔物達もこちらから手を出さない限り襲ってくることはないはずだ。まだ残っている魔道具があればその回収も頼む」
「は!」
ラルス達には新たな命を下し、リーゼロッテとクラウスは結界の外に転移した。




